<あのころ>初代「ウォークマン」発売 46年前の7月1日 1979(昭和54)年7月1日、ソニーが携帯音楽プレーヤーの初代「ウォークマン」(写真は同社提供)を発売した。録音機能はなかったが、カセットテープのステレオ音楽を、どこでも小型のヘッドホンで楽しむ新しいスタイルを生み出した。2012年には、次世代に継承していく意義を持つ「未来技術遺産」に選ばれた。(共同通信・2025/07/01)

この新しい機器(装置)が売り出されて以来、ぼくは「虜(とりこ)」になったといってもいい。それまでは部屋の中に限定されていた音楽空間を、好きな時に好きな場所で聴くことができる、音楽の持ち運び自由というのは、ぼくには「革命」的であったのだ。もちろん、レコードやFMラジオでは浴びるほど聞いていたが、それを電車の中でも聴けるようになったのは驚きでした。以来、いったい何台の器械(機種)をぼくは買っただろうか。もちろん、当初はカセットテープで録音した音源だけが用いられた。だから、家では四六時中、録音作業にかかりきりになっていた。クラシック音楽では、一曲が一時間以上も要するものはざらだったから、長い通勤時間も苦にはならなかった。

同時に、クラシック一点張りではなく、ジェイポップ(JPs)も歌謡曲も、ジャンルを問わずに聞き続けていたほどでした。この時代、西洋音楽の世界ではカラヤンが「帝王」の名を恣(ほしいまま)にしていました。ぼくはあまり好まなかったが、ソニーは彼にウォークマンを聴かせた。やがてカラヤン帝王は歩きながらウォークマンを耳にしているCMを流し出した。左の写真の一人は盛田昭夫さん。ウォークマンの開発者でした。このソニーという会社は、戦後の出発で、それまでの鉱石や真空管中心のラジオをトランジスタに切り替えて、新たな道を切り開いた企業だった。やがて、ソニーはオーディオ製品にも領域を広げ、素晴らしい音響技術を売り物にしてきました。(写真左:Akio Morita (Sony) and Herbert von Karajan. 15 april 1981)
ある時期から、ぼくはソニーのオーディオ製品に心を奪われ、すっかりその音色に引き付けられていく。今では全く聴かなくなったオーディオ機器ですが、そのほとんどは、今もなお埃をかぶってですが、ソニー製品で揃っています。アンプ、チューナー、プレーヤー、スピーカーなどのすべてを備えて、悦に入っていたのだったし、その道を開いたのがウォークマンだったと言えます。今では、壊れたままの何台かの姿形が自宅には残されていますが、この小さな機械から、ぼくは実に長い時間(期間)、脳髄を刺激され続けてきたと言えます。

やがて、時代はCD全盛時代に入りましたから、それ専用のウォークマンも、何台も買った覚えがあります。当初、ぼくは長くレコード派を名乗っていました。LPレコードの醸す雰囲気が、ぼくには軟らかく、音楽に求めていたものと符合していたのでした。一時期、収集したレコード枚数は千枚を超えたことがあります。その九分九厘はクラシック音楽でした。集めすぎたレコードを処分したことがありましが、その店はソニーの系列会社だった程。しばしば、銀座にあったショールームにも出向き、新製品が出るたびに耳を傾けた。もちろん、音響機器はソニーだけではなく、もっと高級品の部類もたくさんありましたが、ぼくの身の丈に合っていたのがソニーだったと言えます。
ソニーの創業者だった井深大さん、盛田昭夫さんについても少し駄弁りたいけれど、今は止めておきます。二人の創業者は、郷里(愛知県)ではほんの数百メートルの近くで住んでいたという。後年、ぼくは井深さんが作られたある団体に呼ばれて、その仕事のお手伝いをしたこともありました。幼児教育に関する啓蒙団体だった。忙しさに紛れて、縁遠くなったのでしたが、晩年のかなりな期間、井深さんは幼児教育に大変な関心を持たれ、その方面の活動もされたことでした。今考えれば、ソニーやホンダが戦後に出発し、モノ作りを推進してきて、ために、この国の「技術立国」の方向性を決定づけた功績は大きかった。どちらの企業も創業者自身が技術者だったことは、今から見れば驚異的な幸運(奇蹟)だったと思う。
企業が大きくなり、技術者が表舞台から消えてしまって、官僚的な人材が企業経営に携わるようになるにつれて、技術・モノ作りの思想がいつしか失われていったことと、この国が沈み始めた時期とが重なっています。科学(技術)工業と称しながら、技術開発に資源を割かなった報いは、なかなか克服できないままでいます。今やソニーの儲け頭が「銀行」「保険」「ゲーム機」などであるという実情が、この国の来しかたを示している、行く末をも明示しているようです。(若いころ、一時ソニーに在籍していた江崎玲於奈さんは、井深さんの葬儀の際に「温故知新、という言葉があるが、井深さんは違った。未来を考え、見ることで、現在を、明日を知るひとだった」と、弔辞で述べておられます。その江崎さんは、ソニー時代の発明「エサキ(トンネル)ダイオード」で、後年(1973年)、ノーベル物理学賞を受賞されました)

● 盛田昭夫(もりたあきお)(1921―1999)= 実業家。愛知県生まれ。1944年(昭和19)大阪帝国大学理学部物理学科を卒業し、海軍技術中尉に任官。戦時研究委員会の熱線探知機開発メンバーとなり、そこで井深大(いぶかまさる)と知り合う。第二次世界大戦後、1946年に井深と東京通信工業を設立し、常務となり営業面を担当。1955年同社開発のトランジスタラジオを「ソニー」ブランドで販売。1958年には社名をソニーに変更。以後、自ら駐在しアメリカ市場を開拓するとともに、世界各国に販売会社を設立し、ソニーを世界的企業に躍進させた。1959年副社長、1971年社長に就任、1976年会長。1986年から1992年(平成4)まで経済団体連合会(現、日本経済団体連合会)副会長。1994年ソニー会長を退任し、ファウンダー・名誉会長となる。著書に『MADE in Japan――わが体験的国際戦略』など。なお、1998年アメリカの『タイム』誌による20世紀にもっとも影響力のあった人物「20世紀の20人」に経済人として日本人ではただ一人選ばれた。(日本大百科事典ニッポニカ)

● 井深大(いぶかまさる)(1908―1997)= 実業家。栃木県日光に技術者甫(たすく)の長男として生まれる。1933年(昭和8)早稲田(わせだ)大学理工学部電気工学科卒業。すでに在学中「走るネオン」の発明で才能を示す。卒業後は写真化学研究所に入り、1937年日本光音の無線部長、1940年日本測定器の常務となる。第二次世界大戦後、1946年(昭和21)東京通信工業を創立し専務、1950年社長に就任。1958年ソニーと社名を変更、1971年会長、1976年名誉会長、1990年(平成2)ファウンダー・名誉会長、1994年ファウンダー・最高相談役に就任。同社は独自の製品開発を重視し、海外市場の開拓にもいち早く成功を収めた。彼は戦後の代表的な技術者経営者の一人であり、発明協会会長のほか、幼児教育にも関心が深く、幼児開発協会理事長も務めた。1992年文化勲章受章。(同上)
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