
【有明抄】学問のすゝめ 「天は人の上に人をつくらず、人の下に人をつくらず」は福沢諭吉の『学問のすゝめ』に出てくる言葉。人は生まれながらにして平等と説くが、諭吉が言いたかったのは、それ以上に学問の「すすめ」である◆人は平等といわれるのに現実には差がついている。その差を生み出すのは学問をしているかどうか。だから、みんな学ぼうよ。簡単に言えばそんな趣旨。近代国家を目指す日本人へのエールでもあったろう◆一方で、諭吉は「活用なき学問は無学に等しい」とも記す。どれだけ勉強しても活用する力がなければ学んでいないのと同じという意味だ。手厳しい◆諭吉が『学問のすゝめ』を出してから約150年。学ぶ意義は受け継がれてきたが、何を学ぶかより、どこで学ぶかに価値が偏っていないだろうか。言い換えれば学歴偏重社会。難関大学への「合格」が「卒業」より重視されがちな現状がある。実際、子どもに対し少しでも上の学歴を、と願う親は多い◆今月上旬、東京メトロの「東大前駅」で起きた切り付け事件の容疑者が動機を「親からの教育虐待」と供述したという。理由はどうあれ暴力は絶対に許されないが、親から過度な期待を受け、疲弊している子どもはいるかもしれない。強制されるからではなく自発的に学ぶことが大事。「すすめ」に込められた思いだろう。(義)(佐賀新聞・2025/05/14)
こういう事件に遭遇して、「学問のすゝめ」を出すというのはコラム氏たちの悪癖とは言いませんが、悪い冗談だとは言えるでしょう。事件の愚劣さや犯罪人の無知を世間に知らしめるため、ここは福沢さんの出番だと考えたのでしょうが、どうでしょう、福沢先生は「苦笑い」をするか、「苦虫を嚙み潰す」ことになるでしょうか。コラム氏の指摘は大間違いというのではなく、中(あた)らずと雖も遠からずとはいえると思う。「切り付け事件の容疑者が動機を『親からの教育虐待』と供述したという」、つまりは、事件を起こす動機はどこにでも見つかるという一例です。「親から教育虐待」を受けたから、誰もがそんな馬鹿な真似をするはずもないからです。

「親からの虐待→即他人を切りつけ」も、おそらくは取ってつけた理由であって、本人はそう思ったかもしれないが、それは錯覚で、実はムシャクシャしていたから、思わず誰でもいい、他人を刺したというのだったかもしれないでしょう。都内のこの事件の直後、小生の住んでいる近在(千葉市若葉区若松町)の住宅街で「誰でもよかった」と、中学生が高齢女性を刺して、死に至らしめました。殺人の動機はなんとでも付けられるものだと思う。つまり、人はそれぞれに「イライラ」し、「ムシャクシャ」もするでしょうが、それだから、誰もが「人を刺す」か。いや、刺してしまう人は数えるほどしかいないのです。もし、人を刺したくなったとき、雨が降って来たり、太陽が眩しかったら、そうはしなかったかもしれない。事程左様に、人間の行動のきっかけや理由は本人にも判らないままなんですね。ぼく自身の経験からもそう思う。
事件の真因は分かりそうで判らないし、判らなさそうで、実にはっきりしているともいえます。「親からの教育虐待」という非道なら、おそらく無数の「被害者」がいるでしょうし、その被害者が、きっと他者を傷つける加害者になるとは決まっていません。まして、その際に、言うに事欠いて「学問のすゝめ」をお読みなさい(とコラム氏は勧めたのではなかったでしょうが)とは、土台話の辻褄(つじつま)が合いません。よく「泥棒を捕まえてから縄を綯(な)う」という。この場合はどうでしょう。有罪確定後に、獄中で「学問のすゝめ」をお読みなさいと勧めるのかもしれませんが、それはまた別の次元です。

それにしても、コラム氏が参考にしたかった文献として「学問のすゝめ」を取り上げるのも無理からぬところがあったとは言えるかもしれない。もちろん、その内容に関しては、明治開学期(明治5年)以来、今日に続く学校教育の覆うべくもない弊害に向けられている批判という点では「学問のすゝめ」は格好の指弾の書であることは間違いありません。しかし、翻って考えれば、学校というのは、一面においては軍隊的要素をたぶんに内在させているのであって、教育は強制であると批判・非難されるゆえんだと思うのです。国家が行う教育(国民教育)であれば、「国民育成教育」になるのは当然で、個々の国民が、それぞれに判断力を有し、物事の理非曲直に関して正しい意見(認識)を述べることができたら、国家経営者としては面倒この上ないことになりますね。だから、大事なのは、物言わぬ国民。国家に対して従順な国民の育成を図るのは当然だったでしょう。だから、この百五十年の学校教育は「愚民家教育」に徹してきたとまでは言いませんけれど、物事の善悪を十分に見分けることのできない、間違いを指摘することに躊躇するような、自分の意見を持たない、そんな曖昧人間の育成に徹底してきたきらいはあるでしょう。
「何を学ぶかより、どこで学ぶかに価値が偏っていないだろうか。言い換えれば学歴偏重社会。難関大学への『合格』が『卒業』より重視されがちな現状がある」と、誰もが指摘するような批判をコラム氏はされています。あえて、それは間違いですというつもりはありませんけれど、どうも、時代おくれの電車に乗っているお客さんのような勘違いがあるのではないでしょうか。「難関大学」「入学困難大学」を卒業することが需要視されていると、本当に考えておられるのか。誰もが難関大学に入れるわけでもないし、仮にそうだとして、多くの人のなかの成績優秀者が難関大を卒業した結果、今ある、手に負えないような出鱈目な社会になったとしたら、その顛末はどうすればいいのでしょうか。「難関」とは何だったかという問題は残ります。要するに、他人より五ミリ背が高いことに価値を置く、そんな愚かしい現実を容認しているんでしょうね。政治家や官僚の相当部分が、超難関大学出であると言われますが、彼や彼女がこの間に展開してきた「社会貢献」「人生模様」は、およそ教養や知性に溢れたものであったり、惻隠の情の厚い人情に恵まれていたのだと、果たして、お世辞にも言えるでしょうか。ましてそんな「超難関大学出」を少なくとも羨(うらや)ましがるような雰囲気を漂わせること自体、語るに落ちすぎた愚見・愚論ですな。

「お前は難関大学を出ていないから僻(ひが)んでいるんだろう」という向きがあるかもしれない。難関大学を出たからではなく、まったくの難関でない艱難大学に行ったものであることを白状した上で、今になって、ぼくは、そもそも「大学」などというところに無駄な寄り道をしたことを深く後悔しているのです。高校時代の一時期、お決まりのように、ぼくは迷っていたのでしょう。大学なんかに関心を示さないで、早くから別の職業(福沢先生言うところの「実学」です)に就いていたらと、考えても仕方がないことに心を悩ませたことはあります。そのためかどうか、「人を刺す」ということはなかったのはさいわいでした。「親から過度な期待を受け、疲弊している子どもはいるかもしれない。強制されるからではなく自発的に学ぶことが大事」とコラム氏。語るに落ちた話とはこういうことを言うのでしょうか。いつ、どこで「強制されるからではなく自発的に学ぶことが大事」と、子どもは学ぶのでしょうか。家でも学校でも「自発的学んでいる」かもしれない子どもを叱責し、「怠け者」「劣等生」「勉強嫌い」「不適応」などと罵り、除け者にするのが社会の常ではなかったでしょうか。ぼくは親に感謝すべきこと、ありがたかったなあと思っていることがたった一つあります。「もっと勉強せなアカンやん」と、ただの一度も言われなかったことです。つまりは「自分で考えて生きるんやで」ということだったと、今でも感謝の念に堪えないのです。
福沢さんの「学問のすゝめ」が、明治初期、ほんの一時期、文部省からも学校教材に推薦されはしましたが、即座に排除されました。その理由は明らかです。福沢流「学問のすゝめ」では、「帝国臣民」は育たないというたった一つの原因によりました。立身出世が慫慂され、故郷に錦を飾る有司(役人・官吏)こそが有意な人物だという、およそ開明的ではない価値観に世間は支配されたからでした。そこに被(かぶ)さってきたのが「教育勅語(儒教の教え)」だったのは言うまでもありません。そのような国策に学校教育が果たした役割は、今に及んで、人間性の阻害要因となっているのではないでしょうか。

「他人を傷つける」ための理由は、なんとでも付けられます。アルベール・カミユというフランス人作家の「異邦人(L’Étranger)」(1942年公刊)では、主人公のムルソーが、友人との関係からアラビア人を殺害する事件を起こし、裁判にかけられる。その時「なぜ人を殺したか」と問われて、「太陽が眩(まぶ)しかったから」と答えた。この作品は「不条理(absurde)」が主題だとされています。ぼく(たち)もまた、この転々とする意識の流れとともに、一面においては人生の意味や価値の定めがたさに翻弄されてきたと正直に告白しておきます。カミユに代表される「不条理主義」の多くは、人生には確かに意味や価値があるはずだという思い込み(期待)があるのでしょう。その思い込みや願い・期待に影が差す時、激しく突き動かされるのかもしれません。他人を殺害するのに理由はいらない、「太陽が眩しかったから」、それで十分と、殺人事件を犯したり犯しそうになった人たちも、あるいは言えば言えたかもしれません。
ぼくは平凡であり、俗物であるからか、「人生に対する期待」は可能な限り育てないようにしてきました。細(ささ)やか、倹(つま)しい、そんな生き方ができればいいなあと、ある時期から念じて暮らしてきました。その通りになったかというと、如何せん、生半可な人間肯定主義に囚(とら)われていますから、相変わらず厭世観や無常観に突き動かされれ、落ち込んだり沈んだりの繰り返しですが。

真面目に知識を得ようとしている人、あるいは得てしまったと思っている人は、得てして悩みが大きく深いのではないですか。犬猫に比べるのはどうかと思いますが、動物一般は、悩み苦しみぬく存在でしょうか。該博な知識、宗教的真理に根差したとみなされた「智慧」は、よく「不条理」と対峙し得るのかどうか。悟りを口にする大人(たいじん・うし)の姿は、夜々、深刻な不条理や不合理に煩悶しないでしょうか。高学歴社会と銘打たれている、その看板には「嘘が大手を振って」と特筆大書されています。
大事なことは、気分を変えることだし、新鮮な空気を血管に取り込むことじゃないですか。手を伸ばして、窓を開けようではないか。部屋の空気を入れ替えてみないか。あるいは「握っている拳(こぶし)」を開こうぜ。(左写真はカミユ)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」と言えり。されば天より人を生ずるには、万人は万人みな同じ位にして、生まれながら貴賤(きせん)上下の差別なく、万物の霊たる身と心との働きをもって天地の間にあるよろずの物を資(と)り、もって衣食住の用を達し、自由自在、互いに人の妨げをなさずしておのおの安楽にこの世を渡らしめ給うの趣意なり。されども今、広くこの人間世界を見渡すに、かしこき人あり、おろかなる人あり、貧しきもあり、富めるもあり、貴人もあり、下人もありて、その有様雲と泥(どろ)との相違あるに似たるはなんぞや。その次第はなはだ明らかなり。『実語教(じつごきょう)』に、「人学ばざれば智なし、智なき者は愚人なり」とあり。されば賢人と愚人との別は学ぶと学ばざるとによりてできるものなり。また世の中にむずかしき仕事もあり、やすき仕事もあり。そのむずかしき仕事をする者を身分重き人と名づけ、やすき仕事をする者を身分軽き人という。すべて心を用い、心配する仕事はむずかしくして、手足を用うる力役(りきえき)はやすし。ゆえに医者、学者、政府の役人、または大なる商売をする町人、あまたの奉公人を召し使う大百姓などは、身分重くして貴き者と言うべし。(初編)
****
端書 このたび余輩の故郷中津に学校を開くにつき、学問の趣意を記して旧(ふる)く交わりたる同郷の友人へ示さんがため一冊を綴りしかば、或る人これを見ていわく、「この冊子をひとり中津の人へのみ示さんより、広く世間に布告せばその益もまた広かるべし」との勧めにより、すなわち慶応義塾の活字版をもってこれを摺(す)り、同志の一覧に供うるなり。
明治四年未ひつじ十二月 福沢諭吉 (岩波文庫版)

◎ 学問のすゝめ (がくもんのすすめ)=福沢諭吉の主著の一つ。1872年(明治5)より76年までに17の独立の小冊子として刊行され,80年に合本となる。体裁は必ずしもまとまったものではないが,主題という点では,一貫性が強い。現在の根本的課題は,人民が従来の卑屈・無気力な状態を脱却して,自由独立の気風を身につけるようにすることである。そうして初めて,日本の真の文明化と対外的自由独立が達成される。そのためには,人民が西洋風の新しい学問を学び,時と場に応じて何が重要かを判断し,行動する知恵と勇気をもつようにしなければならない。この主題をめぐって,日用に役立たない旧来の学問を否定して,〈実学〉が提唱されたり,人間平等の観念や契約説的国家論が説かれたり,政府が暴政を行う場合,人民はいかに行動すべきかが論じられたり(日本でこの問題を最初に論じたのは本書であろう),西洋の文物を導入する際,文明の外形ではなくて,文明の精神を摂取する必要があると説かれ,西洋の文物思想を盲目的に崇拝することが否定されたりしている。本書は同じ福沢の《文明論の概略》とともに,明治初年の啓蒙思想を代表する傑作である。(改訂新版 世界大百科事典マイペディア)
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

➀ 地下鉄切りつけ事件 “テストの点数悪いと叱責された”供述 「東京メトロ南北線の東大前駅で起きた切りつけ事件で逮捕された容疑者が「小学生のころ、テストの点数が悪いと親に厳しく叱責された」という趣旨の供述をしていることが捜査関係者への取材で分かりました。/警視庁は、親の教育方針への不満が事件の背景にある疑いもあるとみて、詳しいいきさつを調べています。/長野県生坂村の無職、戸田佳孝容疑者(43)は、今月7日、東京メトロ南北線東大前駅のホームで、大学生に包丁で切りつけてけがをさせたとして、殺人未遂などの疑いが持たれています。/これまでの調べで、動機について「教育熱心な親のせいで中学時代に不登校になって苦労した。事件を起こすことで、度が過ぎると子どもが犯罪をおかすようになると示したかった」などと供述していることが分かっています。(以下略)(NHK・2025年5月12日 12時52分)(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250512/k10014803211000.html)

➁ 千葉 中学3年生「誰でもよかった」と供述 通り魔的に襲ったか 11日、千葉市若葉区の路上で80代の女性が背中を刺されて死亡した事件で、殺人の疑いで逮捕された中学3年の男子生徒が警察の調べに対し「誰でもよかった」という趣旨の供述をしていることが捜査関係者への取材で分かりました。警察が事件に至ったいきさつなどをさらに調べています。/11日夕方、千葉市若葉区の路上で近くに住む高橋八生さん(84)が背中を刃物のようなもので刺されその後、死亡した事件では、付近の防犯カメラの映像などから市内に住む中学3年の15歳の男子生徒が12日、殺人の疑いで逮捕されました。/調べに対し容疑を認めているということです。/また、高橋さんとの面識はなかったとみられ「誰でも良かった」という趣旨の供述をしていることが捜査関係者への取材で新たに分かりました。(以下略)(NHK・2025/05/12)(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20250512/k10014803171000.html)
IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII













































