瑞穂の国の大臣食言に食傷している

 農水大臣の「発言」について何かを言う気はなかった。でも、ほかに書かねば(触れねば)ならぬ記事が午前6時までには見当たらなかったので、止むを得ず「親子二代」の不出来・不誠実大臣に触れることを、自分では恥じているのだ。人一倍、ぼくには多くの理解が行き届かない言葉があります。その中でも今もって十分に納得できなないものに「恬(てん)として恥じない」という用法です。「恬淡(てんたん)」「恬然(てんぜん)」などと使って、外から何を言われても少しも騒がず」「堂々たる」そんな様を言いますね。(➀)そのニュアンスには「自分は間違ったことはして(言って)いない」という確信があるようにも見えますが、時には、その反対にとんでもない間違いを犯したにもかかわらず、「いかにもふてぶてしい」「厚顔無恥」(➁)という雰囲気を感じさせるような使い方もあります。この大臣はどちら向けでしょうか。

 卑近な例では「沖縄ひめゆりの塔」発言の荒唐無稽尊大議員がいました。間違いを指摘され、「事実」を述べたのだから発言は撤回しないと強弁した。その後、「撤回した」ように見せかけて、実は「(自分が捏造した)事実」だから、撤回しないとわけのわからない弁明に終始した。「沖縄戦史」に対する勝手な自説・歴史解釈を「事実」と強弁するのだから、「食言」ではなく、「歴史の捏造」というべきかもしれない。この手の「イカガワシイ発言」に、批判の矢玉は効果がないのはどうしたことか。政治家やそのなれの果ての大臣の発言に、いちいち目くじらを立てていては、夜も日も明けぬというのだろうか。それもそうだが、矢玉は打ち続けねば、報道が泣こうというもの。もう泣いているさ。

 この農水大臣はどうか。ぼくは、彼の親父(勲一等叙勲)のことはよく知っている。恐喝(恫喝)・強弁大好き政治家だった。大言壮語して大向こうを唸らせる魂胆を持っていただろうが、何のことはない、政治家以前に、人間として誠意の欠片(かけら)もなかったといっておく。この手の自己肥大・自己拡張政治家が大半だと思うし、それはこの国の国民の最大の不幸だろう。その虚誕大好き親父の遺伝子をそっくり受け継いでいる(と思う)息子だから、どの程度の馬鹿かということは顔にも書いてあるといいたくなる。政治家は、おしなべて「口説の徒(persuader)」だといって間違いはない。大言壮語もそうだし、嘘八百も言い放題。この農水大臣はどうか。残念と言うか、「口説の徒」ですらなく、ただただ、家柄が違う、自分は偉いのだ。俺の凄さがわからぬか。わからないなら「教えてやろう」という程度の低さがありあり。庶民はコメ不足、コメ高騰で四苦八苦しているだろうが、「自分は違う。選挙民が呉れる、それも嫌になるほど」つまりは、「売るほどある、どうだ悔しいだろう」という底抜けの愚か者だというほかない。

 この政治家が、あろうことか政権党きっての「農政通」だというから、恐れ入り谷の鬼子母神。穴が入ったら入りたくなるほど恥ずかしい現実にぼくたちは直面している。穴に入るべきは大臣なのか、庶民なのか。「売るほど米がある」という発言の真意は分からないが、おそらく「俺は庶民とは違って凄いぜ」と自慢したかっただけなのかもしれない。あるいは「売ってやりたいのはやまやま」という庶民への憐憫の情を見せびらかしたかったか。「発言は撤回しない」「嘘を言ったのではなく、盛っただけ。まあ受けを狙ったのだ」と、まるで、いけ好かない吉本芸人張りだ。受ける・受けようとする側が悪いといいたそうな、聴衆に責任を擦り付ける、潔さではなく、往生際の悪さが目に立つ。これも、今風政治家の悪癖・悪足搔き、つまりは「無能さ」である。

 首相、コメ発言の農相を厳重注意 全面撤回も最高値更新で政権打撃 自民党の江藤拓農相は18日に佐賀市で行った講演で、価格高騰が続くコメに関し「(私は)買ったことありません。支援者の方々がたくさん下さるので、(家の食品庫に)売るほどあります」と発言した。19日に批判が噴出し、石破茂首相は官邸に江藤氏を呼び出して厳重に注意した。江藤氏は発言を全面撤回して謝罪した。生活負担増に国民が苦しむ中、価格安定化に取り組む担当閣僚の不適切な発言で、夏の参院選に向けて政権には打撃となりそうだ。
 19日発表された全国のスーパーで5〜11日に販売されたコメ5キロ当たりの平均価格は、前週に比べ54円高い4268円となり過去最高を更新した。コメ高騰に対応するために政府は3月に備蓄米の放出を始めたが、価格は下がっていない。
 江藤氏は19日昼に記者団の取材に応じ「売るほどあるというのは言い過ぎた。消費者の方々に対する配慮が足りなかった。撤回というよりも修正だ」と釈明した。同日夜に首相と面会し、その後「全面的に撤回をして、皆さま方にはおわびを申し上げたい」と謝罪した。辞任は否定した。(山形新聞・2025/05/20)

 官邸に呼ばれて、「総理から辞めろと言われれば辞めるつもりだった」とは、これ如何に。「食言」では先輩格の首相、今は不人気の真っただ中にある、「辞ろるというはずもない」のを、このボンクラ大臣は直感していたか。ポケットに辞表を忍ばせていなかったこと自体が「能・脳・農天気(carefree)」、もう終わりなんだが。「馘首」を免れて、「全面的に撤回をして、皆さま方にはおわびを申し上げたい」と殊勝ぶったことを口にした、さて、「コメは買ったことがない」「支持者からたくさん貰う」「売るほどある」などという、聞くに堪えない自己拡大宣伝文句は「嘘」だったというのだろうか。コメは買ったことがないという発言が嘘で、「支持者からたくさん貰う」というのは本当か。「売るほどある」というのはどうなんだか。つまり、何をどうしたというのだろうか。こんな屑(くず)を「辞めなさい」と叱責しない・できない任命権者もまた、屑の見本みたいなもの、掃(吐)(履)いて捨てるほどいる。首相になる前と後で、これほど「発言」を「修正」「偽造」した総理も稀だと思う。恥ずかしい限りの「口説の徒」だったな。聞いていて、反吐が出るよ。

 「食言」という言葉は、まったく食えない「言を食(は)む」輩のこと。要は嘘つき。前に言ったことを平気で言い換える癖のあるのが、政治家だと思えば、腹も立たないのではなく、こんな国に、こんな時代に生まれ合わせた、わが身の不幸を嘆くのだ。初めに挙げた「恬淡」の用法に「恬淡寡欲(てんたんかよく)」がある。恬淡は物事に拘泥しない、さっぱりしていることを言う。寡欲は欲の少ないこと。「虚静恬淡」などとも言う。いずれも中国古典(「荘子」)からの言であり、どれほど政治家とは欲深いか、物欲が多いか、脂ぎっていることか、それをよく証明しているのだ。政治家の不行跡には大和も中華も同じだということ(日本風味中華)。

 今なおその混迷の途次にある、今回の「米騒動」、その真犯人は「食言」屡々の総理や担当大臣の不誠実・不真面目の姿勢に乗じている数多の魑魅魍魎、そいう連中が「政治」「政治家」を食い物にしているという実態が明かされなければならない。つまりは「政権与党(羊頭)」の犯している悪政の結果であり、それはまた原因でもある。庶民は高いコメは食いあぐねるばかりだが、総理や大臣・議員連の「食言」にはきわめて「食傷」しているのだ。いずれ「食当たり」になる恐れなしとしない。時節柄、「くれぐれもご注意を」、と乱筆啓上に及んだ次第。

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「〇や5」で何がわかるの、先生

【産経抄】教員の仕事の本質を忘れるな 新聞記者は毎日、答案を書き、採点されているようなものだ。入社間もないころデスクから言われた。取材成果が原稿になる。何も書かなければ零点。さぼればすぐにばれる。デスクが原稿をチェックするが、採点は最終的に読者からの励ましや叱責に表れる。▼他人の評価は気にしないと豪語する同僚もいるが、小欄は非常に気になる。先ごろ、岐阜県美濃市立の小学校で低学年の通知表が廃止されることが報じられていた。1、2年生について、◎○△と3段階の学習評価などが行われている通知表をなくす。自信や意欲を失わせないようにするのがねらいだという。▼代わりに、保護者との個別の懇談で学習や生活状況を伝え、年度末に修了証とともに1年を通した所見を渡す。通知表廃止の取り組みは以前からあったが、全国的に広がってはいない。通知表をなくした学校の例でも、提出物のコメントなどを通し、子供の学習状況を保護者にこまめに伝える工夫が問われる。▼廃止に対し、保護者から「競争心がわいた方がいい」「かえって意欲を削(そ)ぐ」と反対もあるようだ。専門家から「何ができ、苦手か、子供の学びを評価し、改善につなげるのは教員の仕事の根幹」との指摘がある。▼そうした教員の仕事の本質をどう支えるか、もっと議論を深める機会としてほしい。教員の処遇改善や長時間労働是正に向けた教員給与特別措置法(給特法)改正案などが衆院本会議で可決され、参院で審議される。▼学校現場では通知表を例にしても、教員の負担軽減として、子供の状況を記す所見欄をなくそうという意見さえある。働き方改革は必要としても、仕事の根幹を軽んじては、教職への信頼は得られず、人気回復には遠い。(產經新聞・2025/05/19)

 「教育」や「学校教育」については、誰だって一家言を持っています。ほとんどが学校教育の経験者だから。これは「家庭教育」についても言えましょう。その際、「家庭教育の本質」とか、「教員の仕事の本質」と言って、大方がなるほどと納得する「教育観」があるでしょうかね。恐らく、議論百出が相場で、それこそが当たり前だとぼくは言いたい。同じ教員仲間においてもさまざまな議論があるので、たった一つの「本質」があれば見せてほしいと思うほど。「本当の教育」とよく言われるけれど、本当ですかと、ぼくは逆に質問したくなる。「本当って?」とね。本当も嘘も、現に行われているのが「教育」です。それをもととして、物事を考えるほかに手がかりはないでしょう。

小1の通知表を廃止、「自己肯定感が下がる」との意見受け…岐阜・美濃市「評価に縛られず伸び伸びと」 岐阜県美濃市の全5小学校が、今春入学した1年生の通知表を廃止する。市教育委員会への取材でわかった。通知表の扱いは校長に決定権があり、昨年12月の校長会で決まった。/市内の小学校では、教科ごとに「◎」「○」「△」の3段階評価の通知表を学期末に児童に配布している。市教委によると、昨年11月の総合教育会議で「児童が丸の数だけをカウントして比較することで、自己肯定感が下がるのでは」などの意見が出されていた。/今年度の1年生には、通知表の代わりに、文章にした総合所見を書いた修了証を手渡す。保護者には4月の参観日などを利用して説明した。/5校は来年度には2年生でも廃止し、3年生から通知表を配布する方針。/市教委の芝田純也・教育振興課長は「低学年の児童は丸の数に縛られることなく、自分の良さを感じながら伸び伸びと成長してほしいとの思いを込めた取り組みで、市教委としても後押しをしていきたい」と話している。(読売新聞・2025/05/03)

 この通知表廃止問題。詳しくは触れませんが、学校教育開始以来、さまざまな工夫や試みがなされてきました。まして、戦前・戦中とは一線を画した敗戦後の学校教育では、それなりの先例となったいくつもの実践もあります。賛成か反対かではなく、いろいろなことをやってみるというところに問題の核心があるのでしょう。通知表をなくすれば「子どもは勉強しない」という意見があるのは当然だとしても、なくしたってやる子はやる。厳罰を加えるからと、法規制を強化しても、飲酒運転はなくならない。通知表がなくても、する子はする、する必要があるものはする、そういうものです。それをなくしたらこうなるという「対案の正当性」を主張する向きが少ないのは、この社会の「全体主義」のしからしむるところでしょう。物事には両面があるということ。「是非善悪」という二面性は、どこにもついてくる。

 ぼくは、昔から、五段階評価や点数評価ばかりに傾く人間観察(評価)に賛成はしなかった。そんなもので「自分の賢愚」が計られてたまるかという思いがあったからです。今だって変わらない。要するに教師が目の前の子どもをどう見る・観るかという一点に尽きます。まさか、家庭において「五段階評価」で判定して、その内容を子どもに示す親はいないでしょう(「いない」と確信はできないが)。そんな馬鹿なことはしなくても、この子はどういう子か、何が足りないか、どれだけ成長したかなどなど、いやになるほどわかるはずであって、それが親子の証明でもあるのです。それとそっくり同じとは言わないけれど、教師と子どもだって、その付き合いが密であれば、数値や評価を記録するようなことは百害あって一利なしとなりませんか。昔から「評点」ではなく「評言」で、と主張してきました。「通知表」って、子どもや親に向けて出される「ラブレター」みたいなもの。言葉(文字)で伝えるべきですよ。好きな人に「五段階評価」を送るのは興覚めだな。

 通知表があってもなくても、その功罪はなんとでもいえます。あればあったで、なければないで、甲論乙駁で、たった一つの成果などあろうはずもないでしょう。それが学校教育の百数十年の歴史の中で、ほとんどが「通知表」オンリーになってきたのには理由があります。その方法は子どもを管理しやすい道具になっていたからであり、あるいは教師の権威維持の武器になっていたかもしれない。そして、よそがそうならうちだってという「横並び主義」が横行していたからだというだけのこと。通知表に代わる方法を考えてやってみようという「校長」がほとんどいなかったからでしょう。

 よくよく考えてほしいのは、この社会に張り巡らされて「評価」依存状態・至上主義です。学校教師だって「人事評価」に縛られているではないか。それがあるから頑張るし、それがなければ一所懸命にやらないというのは本当なのかどうか、教師自身が知っていませんか。人事考課とか人事評価などと勿体ぶった言い方をしていますが、何のことはない、鼻さきに人参をぶら下げて競争させているだけのことだと、ぼくは思っていますね。言いたいことはたくさんあるけれど、言っても無駄だから言わないだけのこと。

 ❍✖であれ、五段階評価であれ、全員が「5」だったり「◎」だったりすること(その反対も)はないというところから壊さなければ。教育はコンクール(コンテスト)じゃないし、かけっこ(競争)なんかではないというところから、よーいドン! それぞれが、いろいろな方向に向かうのは悪いことではないでしょう。少子化というのは、新しい実験をするにもいい機会じゃないですか。学校教育の点数主義(hierarchy)と、この社会の著しい退勢(a decline)とはまったく無関係ではないんですよ。

通知表をやめた小学校 常識に挑んだ校長が本当に変えたかったこと 学年末。先生から手渡された通知表を手に、喜びの声をあげたり、こっそりとランドセルに隠したり。そんな子どもたちの姿が、各地の小学校の教室で見られる季節だ。でも、神奈川県の茅ケ崎市立香川小学校には、3年前から通知表がない。なぜなのか。国分一哉校長に聞いた。
――香川小学校では、2019年度を最後に通知表を廃止しました。初めて聞いたとき、そんなことができるのかと驚きました。
 「実は、通知表を出すか出さないかは、校長の判断で決められます。驚かれることが少なくありませんが、廃止したのは私たちの学校が初めてではありません。教育関係者の間では、長野県伊那市の小学校は通知表がないことが知られています」
――通知表を廃止したいという思いは以前からあったのですか。
 「必ずしも、そういうわけではありませんでした。きっかけは、20年度の教育指導要領の改訂でした。評価の観点が4観点から3観点に変わり、内容も大きく変わったので、それまでの通知表が使えなくなる。それにどう対応するか、18年度から教員たちと話し合いを始めました。ただそれは通知表を渡すことが前提の議論でした」(以下略)(朝日新聞・2023/03/25)

 ヘッダー写真について:「何のための通知表? 9教科全て「1」を届ける学校 【不登校の子、家族に渦巻く感情】 不登校の子どもたちにとって、通知表には何の意味があるのでしょう。私にはまるで分かりません。/この冬休み、中学生のルキの担任が自宅に通知表を持ってきてくれました。それに先立ち、私のスマートフォンに電話がありました。/「今からご自宅に伺っていいですか? ルキさんはいますか? 通知表を渡したいので」/私は頭の中で「通知表はいらないんだけど…。でも面倒くさいことを言って担任を困らせるのもなぁ」と考え、「よろしくお願いします」と返答しました。/そして、ルキが受け取った通知表は、9教科全ての評価が「1」でした。道徳や総合的な学習の時間の記述はなし。全体的な所見も白紙でした。つまり、「最低評価」以外のメッセージは何もありません。/担任は、何のために通知表をわざわざ持参したのか…。毎度のことながら頭が重くなります。受け取って中を開いた子にも保護者にも何のプラスもない。逆に不快感ばかりが募ります。/通知表を出すかどうかの判断や、その形式や内容は学校ごとに決められるそうですね。だったら、不登校の子どもたちにとって有益な通知表は何か、先生方に真剣に考えてもらいたいと思います(以下略)(西日本新聞・2023/01/12)(https://www.nishinippon.co.jp/item/1038754/

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「徒然に日常」(750 ~756)

〇2025/05/18(日)快晴の一日。お昼前には猫缶購入のためにあすみが丘へ。このホームセンターが入る店には「カスミ」というスーパーマーケットがある。どういうわけだか、十時前に開店していて、たくさんの客が入っていた。いつもと逆に、そこで買い物を済ませた後で、ホームセンターに移り、いつも通りの缶詰を購入した。同じ缶詰がかなり長期間続いているので、別の商品をも考えていたが、なかなか適当なものが見当たらなかった▶帰宅後に、ほんの少時間だけ、溜めておいた枝や草などを燃やした。雨が落ち始めていたが、それ以上はひどくはならなかった。予報では明日も雨模様だという。なんだか梅雨入りの気配である。(756)

〇2025/05/17(土)昨夜来の雨が朝も続いている。このところの晴天に煽(あお)られて、数日間連続で庭作業を行なったが、眩暈(めまい)がして、少し疲れが残っている気もする。血圧が高いのだろうか。幸いに、雨天のためもあって、本日は少し休養に当てることにして、昼頃までベッドの上で横になっていた▶午後の遅い時間に鎌倉のAさんから電話あり。もっとも初期の頃の卒業生の一人。たしか別の大学を卒業されて、教員免許取得のために勤め先の大学に来られたと記憶している。今月の23日に拙宅に伺いたいということだった。いつものように、茂原まで来てもらい、そこで、会食の予定。その後に拙宅に寄っていただくことにした。何年ぶりの再会だろうか。(755)

〇2025/05/16(金)午前中いっぱいは晴天、午後からは曇天となったが、雨は降らなかった▶お昼過ぎに買い物で茂原へ。毎日のように買い物に出かけるが、買うものはほぼ決まっている。このところは食パン(朝食用)、牛乳(1㍑×2)(猫用)、さらに夕食用に乾麺(蕎麦)、これらを切らすことなく補充するために出かける。加えて、肉や魚も。以前は毎日のように肴類を買っていたが、飲酒を止めてからはそれほど口に淹れなくなった。加えて、生ものをそれほど食べなくなったこともある。それは肉類も同じ。というわけで、かみさんとは大違いで、野菜類も含めて、冷蔵庫に保存するようなことはまずしない。その時に食べる物を買うようにしている▶午後から、庭作業。主として裏庭の除草とゴミの焼却。3年ほど前に切り取って保管していた竹類(十数本)が腐食していたので、すべてを小さく折って燃やした。このところの晴天続きで、よく燃えるが、まだ相当量が残っている。週末は雨らしいので、今日はできるだけ多くを焼却炉に入れることにした。蓋と燃やし口に扉をつけたので、かなりの量を一度に焼却できるのが嬉しい。また、何か所かに除草した草類を溜めてあるのが、適当な肥料になるので、それらを分量も確かめながら、植木の根元に蒔いてやることにしている。幸いなことに、この庭土の中に多くのミミズが活動しているので、さらに肥料(堆肥)化が進むのである▶九州地方が「梅雨入り」だという。沖縄より先に、極めて珍しい現象。沖縄よりも本州寄りに「梅雨前線」が形成され、そこに居座る格好になっているからだ。数日もしないうちに沖縄の梅雨入りも始まるという。やがて当地も梅雨に見舞われるだろうが、それまでに何とかして、屋根の落ち葉類を始末しておきたい。除草作業は全体の半分を超えたところか。まだまだ仕事(作業)が残っている。「今日16日(金)は全国のトップを切って九州南部の梅雨入りが発表されました。来週にかけて梅雨前線は本州の南の海上に停滞しやすくなる見込みです」(ウエザーニュース・2025/05/16)(754)

〇2025/05/15(木)終日好天。本日も庭作業。主として裏庭の除草作業と、これまでに溜めておいた草木の焼却。焼却炉を手直しして、少し焼却できる分量も増えたようなので、かなり多くの枝葉や草を燃やすことができた。この際、裏庭法面(かなりの角度と高さがある)の除草もやっておきたいと想定。相当、草が勢い良く伸びているし、斜面にもできれば、階段をつける予定を以前から持っているので、今回は、そこまで作業が進められるかどうか▶物価高、米高騰が一向に収束する気配がない。日々の報道によれば、関係するところがそれぞれに画策・連携して、結果的にはコメ高騰を生み出していることが判明しているのだが、それをはっきりと報道するマスメディアがないのが不思議▶兵庫県知事問題と言っておく。S某がさまざまな圧政をしている問題で、特に公益通報者保護法の趣旨を恣意的に歪めて、通報者探しを、法令違反にもかかわらず敢行した違法行為を頑として認めないという愚挙にあきれるばかり。なにがこの支離滅裂な知事を生み出しているのだろうか。再選された選挙では明らかな公職選挙法に違反する行為も見られたし、それを告発されているが、当局の意向が明らかでないのはどういうことか。自己流の「第三者委員会」に諮問し、恣意的に出させた結論をようやく公開。この問題については、稿を改めて考えてみたい。(753)

〇2025/05/14(水)終日好天。午前9時ころから庭作業。裏庭の除草、昨日大まかに修理をしておいた焼却炉で、これまでの作業で溜まっていた除草類や剪定した枝葉などを燃やした。ずいぶんたくさんの分量があり、この後も引き続きこの焼却作業をしなければならない▶9月の誕生日には免許更新の期日が決められている。後期高齢者用の新更新制度が始められて三度目か。75歳からの「認知機能検査」と「高齢者講習(実車を含む)」の2本立て。前回もやった茂原市内の自動車教習所に予約した。期日は6月20日(金)9時から(決定)。千葉に越してきてすぐに、必要に迫られて免許を取得。以来、53年目になるか▶午後の早い段階だったか、電話があり、受話器を取ったら、「今使われている携帯電話は間もなく(数時間簿に)使えなくなる」という音声が流れた。瞬間に電話を切った。誰のところへ、誰からの電話か一切なくて、音声が流れてきたのだ。新手の詐欺手法かもしれないが、携帯を持たない人間に対して、どういう魂胆なのだろうか。(752)

〇2025/05/13(火)皐月も半ば。荒れた庭でさえも、さまざまな花が咲き出し、咲き終わる、ある種の「ページェント」の酣(たけなわ)。気温も適度の暖かさであり、風もない。時間が経過して、少しガタツキが出ていた「簡易焼却炉」の修理を始めた。当地への移住早々に、石屋さんに頼んで、大谷石を揃えてもらった。一片がかなり重く、50㌔はありそうなのを十数個積み立て、組み立てて、簡単な焼却炉を作ったのだ。その後、地震その他で、罅(ひび)が入ったり傾きが出ていたりしていたので、少し手直しの必要があった。組み合わせた石同士の隙間にはモルタルを流し、少しは補強したつもり。焼却炉の近くの木や草が伸び放題だったので、少大雑把だったが除草と枝の剪定をして、さらに、修理と補強に取り掛かる。なかなか大仕事だったが、何とか形は整ったようだ。あとは、天板と扉を、今あるステンレスが炎症熱のために相当に傷んでいるので、できれば、この際取り変えたい。高温にさらされるので、なるべく耐熱用のステンレスが、核いこともあって、好都合だ。修理・修繕の第一段階が終了。(751)

〇2025/05/12(月)本日も晴天。昼前に買い物で、茂原まで。駐車場は満杯に近く、とても混雑していた。帰路にある「100均」でゴミ袋を。いろいろなサイズのものを使っているので、大助かり。20枚入りが百円とは、安いのか高いのか。生活をする万事に、費用が掛かる時代なのだと痛感する。さらに帰宅途中のH.C.で猫のドライフードも。店に入るたびにこれまでの商品の新規格品が出ている。当然のように、値段は少し高騰しているようだ▶本日の庭作業は中止。いささか疲労が残っているようだったので、念には念を入れての休養。(750)

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人間は環境に依存して生きている

【小社会】元大統領の遺言 「餓鬼」は仏教でひもじい日々を送る存在だが、こんなパターンも含まれるそうだ。財産も食料もたくさんあるのに決して満たされない--。■2012年に話題になったウルグアイ大統領の演説も通じるものがある。「貧乏な人とは無限の欲があり、いくらモノがあっても満足しない人のことだ」。ホセ・ムヒカさん。在任中、「世界一貧しい大統領」と呼ばれた。■報酬の9割を衣食住に事欠く人のために寄付。自身は質素な生活に徹した。競争に明け暮れ、弱肉強食を当然視する資本主義社会に疑問を呈した。経済的な利益のみを追う姿が、かつて「エコノミックアニマル」とやゆされた日本人。やはり貧乏な人に映ったことだろう。■ムヒカ元大統領の訃報が伝わり、その半生に迫ったドキュメンタリー映画を改めて鑑賞した。穏やかな風貌とは対照的に、若い頃は極左ゲリラの一員として闘争に傾倒。十数年もの刑務所暮らしを送るが、過酷な独房体験が後の政治家としての姿勢を決定付ける。■苦痛や逆境を経験しなければ「浅はかで卑しい人間になっていただろう」。選挙で当選した政治家が特権階級になることにも疑問を感じなかったかもしれない。「大勢の国民に選ばれたなら国民と同じ暮らしをすべきだ」■元大統領が残した言葉に考えさせられる。日本はいまも貧しいままではないのか。「政治とカネ」の問題が尽きない政治家の意識はどうだろう。(高知新聞・2025/05/18)

◎ 週の初めに愚考する(七拾)~ 昨日に続いて、要領を得ないムヒカ追悼文であり、宰相論ではあります。南米の小国・ウルグアイ(正式国名はウルグアイ東方共和国)~人口は約340万人(昨年度)、面積は17.7万平方キロ(およそ日本の半分)~その元大統領が死去したというニュースはこの国でも多く報道された。加えて、彼にまつわるエピソードも数知れず報じられました。「世界一貧しい大統領」というのがその最たるものでした。ムヒカさん曰く、貧しいのではなく、「質素」なのだといってほしいと注文を付けたほど。キューバ革命に大きな力を発揮したチェ・ゲバラに影響され、革命の志士を任じて反権力(革命)闘争を繰り返し、投獄・拷問を課され、脱獄の経験も。資産家の娘だった妻は、彼の思想に殉じて、現実生活も彼とともにあったと言われています。昨日も書きましたが、ぼくはムヒカ氏に関してほとんど情報を有していません。彼について書かれた数冊の本、あるいは来日時の各地の会見や講演の映像、加えて彼の政治家としての一面を捉えた映画などに耳目をそばだてた程度です。だから、彼に関して何かを言うのではないし、彼に比して、この国の政治家や他の国の政治家はなんという「政治屋」なんだろうということが言いたいのではありません。

 南米のウルグアイという小国で、ある時期に大統領を勤めたムヒカという存在は、ぼくからすれば端倪すべからざる経歴を有してなお、国家・人民のために当たり前の感受性を失わないで、生涯の後半生を送られた、それだけの一面を知るだけで、言いえない、稀有の存在だと思うのです。本日のコラム氏は「元大統領の遺言」と書かれていましたが、ぼくはムヒカ氏(にかぎらない)の思想というか、生活態度そのものに、ある種の感慨を催しているのです。「思想」というのは、日常生活の中で示されている(示されてきた)生活態度と言い換えてもいいでしょう。思想と行動が重なっているところに、人間の潔さとか度量というものを観るのです。口先ばかりの政治家というより、政治家は口先の人という「先入観」や「偏見」が、世間にはあります。ぼくにも、人一倍強くそれがあることを否定しません。だからこそ、「清貧(poverty)」というのか、「質素(frugality)」というのか、そんな生き方を淡々とこなしている大統領(でなくても構わない)だということ、そんな人間であることの貴重さに、正直に言うなら、ぼくは憧憬( adorationrespect)を持っているというだけのことです。

 「苦痛や逆境を経験しなければ『浅はかで卑しい人間になっていただろう』。選挙で当選した政治家が特権階級になることにも疑問を感じなかったかもしれない。『大勢の国民に選ばれたなら国民と同じ暮らしをすべきだ』」このようなムヒカさんの言辞を取り上げて、この国の政治家はと、多くの人は言いたくなるのかもしれませんが、土台、人間の器量も違い、人間であることに対する洞察も決定的に違う姿勢を貫こうとして生きた人です。ぼくに言わせると、あまり美しい表現ではありませんが、「味噌も糞もいっしょ」というのはどうでしょうか。「政治家」という樽の中に入っているのだから、多少の違いはあっても要は、質そのものは同じじゃないかというのは間違いだというべきで、繰り返し言いたいのは「政治家の器量」という以上に、「人間の度量(human capacity)」というものを教えられるんですね。人より優れているという「優越感」が出てくることを警戒するなら、どういう方向で生きる道を求めるかが自ずから明らかになるだろう、そんなことを異国の元大統領に教えられているような気がしています。

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 本日は、別のことを駄弁ろうとしたのですが、結果的には「ムヒカさんは死んだ」ということになりました。ぼくは毎朝、共同通信社のネット版にある「よんななニュース」に目を通すことにしています。もう何年になりますか。そのネット版に各地の52社(紙)が加盟していて、その中のいくつかの新聞紙が「コラム」を掲載しています。コラムを持たない社もありますから、全部とはいきませんが、少なくとも20社以上のコラムに目を通します。ぼくにとって、いわば「コラムは表札」みたいなもの。いろいろな形式や書体、つまりは姿・形があり、そのどれを好むか好まないかは、読む側の好き勝手。ところが、どうしたことか、時には、同じような書きぶりの書体が並んでいるような気がします。まるで長屋風の建付けに、同じ書体の表札が架けられていて、なんだみんないっしょなんだと、読み過ごすことになりかねないんですね。いい傾向か、それとも…。

 わりに早起きなのは長年の習慣で、今朝も3時には起床していました。その段階では「本日版のコラム」は一社もアップされていませんでした(ネット版では)。最も早いのは琉球新報で、それでも4時を過ぎる。他の多くは、いちいち確認していませんが、おおむね、6時以降ですから、駄文(ブログ』を書こうかなという段階(大体7時ころか)では限られたコラムしか読めない。それも数紙に限定されます。ぼくのは駄文・雑文ですから、そんなことどうでもいいではないかと思わぬこともありませんが、いろいろな「出来事(人事万般)」に各紙コラムはいかなる反応を示されているか、脳の萎縮を防ぐ意味でも、それを確かめたいのですが、なかなか思う通りにはならないのが現状。

 加えて、限られた新聞社のネット版も「有料」化の方向を急速に求めておられる。当然のこととして、ぼくは文句の言えた義理ではないのですが、その有料化に付き合うのも考え物という屁理屈をぼくは持っている。コラム一本が、仮に百円であっても、「お代は見ての帰り」というならまだしも、「不見転(みずてん)」ということには二の足を踏みます。ということで、近い将来、コラムがすべて有料となる日も遠くないと思っているのです。ぼくの減らず口がそこまで続くとは思いませんが。

 もう一つ、本日のテーマにしたかったのは別の問題です。劣島の地理的分割点(フォッサマグナ)(羅: Fossa magna、意味:大きな溝)は一応は特定されています。東北日本と西南日本の地理上の境目ですね。そこを起点にして、東西の電波などの周波数(ヘルツ・Hz)の境目にもなっています。東が50Hz、西が60Hzと異なっています。文化は習俗にも境目があるのかどうか。若いころ、こんな問題に興味をもってしらべたことがあります。いわゆる「民俗学」です。ぼくは東京の人土気一献したので、今でも気風というか、食べ物の好みを含めて、なかなか合わないんですね。「拙宅の「フォッサマグナ(大きな溝)」は鋭利であり、なかなか渡れそうにないと思う時もあります。

 ヘルツの違いに重なりはしませんが、各紙の「コラム」の書法・書体にも「フォッサマグナ」がありそうだというのがぼくの邪見・邪推です。どこかで触れていますが、東西でコラムの「出来不出来」ではなく、記者さんの人情の違いや土地勘が出るのか、いうならば、50Hzと60Hzの差があるように感じているのです。どちらがどうというのではありません。民情や歴史の違いが、コラムなどという短文の上にも反映されているのではないかなどと、愚考してきました。それを書こうかと一瞬迷ったんですが、本日はとりあえず、ムヒカさんの死去にことよせて、綴ることは辞めました。(ぼくはこれまでに引用してきた無数の「コラム」の東西の使用差は、かなり偏っていますね。7対3か、8対2か、その理由は自分でもよく分からない。これも一つのぼくの駄文のテーマになりそう。人は、動物でもありますから、居住する環境にすっかり縛られているという気もします。これだけ地球が狭くなっている時代、にもかかわらず、小さな島国の東西のさざまな異同が、人間同士の価値観や好き嫌いに反映していると考えれば、小なりと雖も「文化」差は侮れないということに驚くのです)

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幸せになるためにこの地球へやってきた

「世界で最も貧しい大統領」 ウルグアイのホセ・ムヒカ氏死去、89歳 進歩的な改革を実行 (CNN) 南米ウルグアイのホセ・ムヒカ元大統領が13日、死去した。89歳だった。進歩的な社会改革で知られる左派の象徴だった。/同国のオルシ大統領はX(旧ツイッター)でムヒカ氏の訃報(ふほう)を伝えた。ムヒカ氏と親しかったオルシ氏は「大統領、活動家、指導者、指南役。あなたがいなくなってとてもさみしい。あなたが私たちに与えてくれたすべてのこと、そして国民への深い愛情に感謝する」と哀悼の意を表明した。/ムヒカ氏はゲリラの一員として活動していたこともある。親しみやすく、大統領在任中は質素な生活を送っていたことで知られる。公邸には住まず、人里離れた農場で職務を遂行していたことは有名だ。(以下略)(2025/05/14)

(ヘッダー写真「ウルグアイのホセ・ムヒカ元大統領。同氏のオフィスで撮影=2020年10月20日、首都モンテビデオ/Ernesto Ryan/Getty Images)(https://www.cnn.co.jp/world/35232934.html

◎ ホセ ムヒカ(José Mujica)= 職業・肩書政治家 元ウルグアイ大統領  国籍ウルグアイ 生年月日1935年5月20日 出生地モンテビデオ 本名Mujica Cordano,José Alberto 別名別名=ムヒカ,ペペ〈Mujica,Pepe〉 経歴小学3年で農場主の父を亡くし、母と花や野菜の栽培で生計を立てた。高校に通うが、自転車競技などに熱中して中退。1960〜70年代、キューバ革命の影響を受けた非合法組織の極左都市ゲリラ“民族解放運動(トゥパマロス)”の一員として活動、資金を稼ぐために強盗や誘拐などに手を染め、’72年逮捕される。’73年収監されて拷問も受け、軍事政権が終わる’85年まで服役した。この間、刑務所からトンネルを掘って脱獄した経験もある。’89年左派の拡大戦線(FA)に入り、’94年下院議員に当選。’99年上院議員となり、2004年トップで再選される。同国初の左派政権であるタバレ・バスケス大統領の下で2005〜2008年農牧水産相。2009年11月ゲリラ出身としては初めてウルグアイ大統領に当選、2010年3月就任。2015年2月退任。給料の大半は貧しい人の家の建設費に、自身の農場で栽培した花や野菜の収益の一部は小企業支援の基金に寄付するなど、気さくな人柄から“ペペ”の愛称で国民から親しまれた。妻はゲリラ時代の同士ルシア・トポランスキ上院議員で、2005年正式に結婚した。(現代外国人名録)

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 ムヒカ氏について知るところは極めて少ない。折に触れて報道される内容を人並みに見たり読んだりする程度です。また大統領退任後の2016年4月に来日し、各地で公演等をしたのに興味をもって聞き及んだぐらいのもの。もちろん、彼の政治姿勢や導入された政策に批判が伴うのは不思議ではありません。特に「大麻の合法化」などは、大いに物議を醸しました。その現状はどうなっているのか。まさしく波乱万丈の人生を送った存在だったと思うし、その長い人生には、どなたにも伴うように、大小・強弱無数の「毀誉褒貶(きよほうへん)(praise and censure)」というものはあるのでしょう。よく似た生涯を送った政治家(弁護士)としてはネルソン・マンデラさん( Nelson Rolihlahla Mandela)(1918~2013)がおられました。何のための政治、誰のための政治家かという、根本の態度にぼくは共感をもって、その政治手腕(指導力)を見ていました。遥かな異国の大統領としては五年の任期でしたが、大きな影響を世界に与えたという意味では、稀有な政治家だったと思う。(合掌)

*2016年4月7日(木)、「世界でいちばん貧しい大統領」として知られた前ウルグアイ大統領 ホセ・アルベルト・ムヒカ・コルダノ氏(JoseAlberto Mujica Cordano 以後ムヒカ氏)が、本学プロメテウス・ホールにおいて、在学生を対象に講演を行いました。/会場では、本学在学生約350名、中南米15カ国の駐日大使らが聴講し、野外に設けられたパブリックビューイングには、会場に入れなかった学生や一般市民らが大勢集まりました。ムヒカ氏の講演後に行われた学生との質疑応答では、スペイン語専攻の学生がスペイン語で質問するなど東京外大らしいディスカッションとなりました。(以下略)(東京外国語大学・2016/03/15)(https://www.tufs.ac.jp/tufstoday/topics/tufsfeatured/16031501.html

*『ムヒカ 世界でいちばん貧しい大統領から日本人へ』予告編(https://www.youtube.com/watch?v=PyjYlso9dFY

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いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと

 このところ毎日のように土いじりをしています。敷地面積は300坪余。庭部分の広さは、大小の面積を合わせて、どうでしょうか、100坪ほどもあるか。そんな庭(などとはとてもいえない代物です)に、それこそいろいろな植物が育っているし、人が歩く場所以外には、見事に草々が生い茂っている。gardenというよりはyardに近いかもしれません。ぼくは小さい時から「土いじり(working with soil)」が好きでした。泥にまみれるのは嫌いではなかった。まだ小学校に入る前から、茄(なす)や胡瓜(きゅうり)などの野菜畑の世話をやって(やらされて)いたほどで、以来間断なく土に親しむ生活は続いてきました。長い勤め人生活を少し早めに切り上げ、住むなら都会ではなく田舎、それも辺鄙(へんぴ)というか不便というか、そんなところに住んでみたいと考えていました。土に塗(まみ)れたかったというのでしょう。その昔は田植えもやったほどでしたね。

 昨年夏に京都の友人夫妻が、ほんの数時間ばかりだったが、拙宅に来てくれた。彼は京都高尾近くで「製材所」を経営している人で、樹木や材木には専門の経験を積んだプロでした。その彼が帰り際に、家の周りの樹木が立て込んできている、今のうちに剪定や伐採をしておかないと「面倒なことになるよ」と忠告してくれた。敷地の三方が杉(スギ)や檜(ヒノキ)や竹(タケ)で塞がれている。少し強い風雨があれば、翌朝などは大変に激しい庭掃除が待っている、そんな生活に憧れたのではありませんけれど、否も応もなく、土いじりに精を出すほかない暮らし向きになっているのです。引っ越してきた当座、裏庭にしている部分(50坪ほど)にはおよそ30トンばかり山土を入れて整地をしておきました。いま、そこは木々や草花が年中育っており、何時も息抜きになり、目の保養になる場所でもあります。そのおかげで、上層や枝落とし剪定はぼくには相当にほ骨の折れる作業です。でも、何とか自分でできるかぎりはやってみたいんですね。。

 本日の福島民報「あぶくま抄」を大変面白く読んだ。「土は地球最後のフロンティア」だという、専門家の指摘に、まさにそうだと膝を打つ思いがしました。土になる前の物質である岩石にも早くから興味を持っていました。特に、勤め人時代、親しくしてもらった友人の何人かは岩石学(地球科学、昔風に言うなら「地学」です)の専門家だったから、何度も、いわゆる巡検に参加させてもらったこともあったほど。それ以前から、石ころを集めるのを趣味にしていた。ある時などは、自宅の机の上と言わず横と言わず、たくさんの石ころを、所せましと並べていた。あちこちの山や海に出かけた折に、目についた石を一つ、二つと集めていたのでした。その石たちを眺めていると気持ちは落ち着き、石が内在させているであろう何億年という生成変化の歴史を感じて、慄然とすることもありました。小さな石ころが土壌になるまでにどれくらいの時間がかかるのか、それを考えるだけでも気が遠くなる。ぼくたちは、石ころ一つで、地球の歴史を知る(感じる)のであり、栗や桑など、あるいは魚介類を前にして、数万年前の人間(人類)を想像することができます。これは驚くべき経験だと、ぼくはいつも感じ入ってしまう。

 そして、今、改めて思っている。土(土壌)(earth・soil)に焦点を当ててじっくりと考えたことはほとんどありませんでした。土壌は地表(earth)でもありますから、それが毀損されると、いろいろな方面に不都合や、場合によっては、生物にも危険・害悪が及びます。いわゆる「土壌汚染(Soil contamination)」問題ですね。今日、この問題は2011年3月に発生した「福島原発爆発事故」に起因する土壌汚染に顕著に見られます。表土を除染(放射性物質の付着した表土を削る、枝や落ち葉の焼却、建物の洗浄等、放射性物質を取り除くこと)したとして、その土を別の場所に保管するような作業をしているけれど、それが決定的な解決にならないのは言うまでもありません。土が汚染されるということはどういうことか、それを考えるだけでも身震いがします。(原発事故当座は、各自が線量計で被ばく量を図っていたことを、今も記憶している)

【あぶくま抄】かけがえのない土 土は地球最後のフロンティア(未開拓の分野)。福島国際研究教育機構(F―REI)所属の土壌学者藤井一[かず]至[みち]さんが指摘する。身近だが、謎だらけという▼岩石の風化で砕かれた砂や粘土に、腐った動植物が混ざって生まれる。構造は複雑で、さまざまな微生物の生態系が広がっている。スプーン1杯分に1万種もの細菌や菌類が息づく。自然の神秘と言えよう。新たに1センチ堆積するのに100年かかる。人類は幾[いく]代[よ]も耕作を繰り返し、命の源を育む豊かな温床をつくり上げてきた▼かけがえのない農地が今、急速に失われている。増える人口を賄うため、作物が過剰に生産されるのが要因だとか。地中の貴重な栄養が奪われ、国連によると、世界の約30%の耕地が疲弊した。生き返らすためには、微生物の力が必要―。農薬の使用を控えるよう呼びかけているが、効果はいかにだ。原発事故の除染で県内の田畑の一部は表土が入れ替わったが、今も収量が不安定だと聞く▼田植えが盛りを迎えている。田んぼは水を吸い、実りの秋に向けて活力を蓄える。改めて心に刻みたい。肥[ひ]沃[よく]な大地を生み出す最大の肥やしは人の思い。足元から湧き上がる声なき声に耳を傾けてみる。(福島民報・2025/05/16)

 拙宅の近辺には田畑が多い。その水田ではほとんど田植えは終わって、日一日と稲の成長が目で確認できるようになってきました。田植えも、始まったかなと思う間もなく、あっという間に終わりました。大掛かりな機械化の恩恵でしょうか。その陰で気になるのは「耕作放棄地」が年々増加していると感じる点です。いろいろな事情があってのことでしょうが、草茫々(ぼうぼう)の元「田んぼ」を見ると、農家でない人間でも一瞬気分が滅入る。いったん耕作を放棄すると、元の土質にまで回復するにはかなりの労力や時間がかかると聞きます。また、必要に応じた消毒剤や肥料などの散布・注入により、土本来に備わっている「成長促進性」が変質してしまう、失われるという問題もあるでしょう。土の中の成分が枯渇し、それを補うためにより多くの化学肥料を補充する、その繰り返しが、結果的に土質を変え、土の栄養価を衰えさせてしまっているのです。

 今でも使われるのでしょうか。「土一升金一升」という語。狭い土地であっても、狭いからこそか、土一升分は、金一升分に値するというのでしょう。その金は金貨か銀貨か。東京銀座辺りの土地1㎡の価格が数千万という、驚愕すべき、異常さを示す言葉でしたが、現代の田んぼの値段はどうでしょう。先月久しぶりに会った友人(職場の元同僚)は長野県諏訪出身で、農家の跡取りを放棄した人。それでも役所からの要請で、休暇ごとに田畑(耕作放棄地)の除草に帰郷し、忙殺されていると話していた。かなりの面積を所有しているそうですが、その売価はびっくりするほど安価だと嘆いていた。いくら安くても買い手がつかないというのです。「土一升」に見合う「金(価値)」がないに等しいとは、悲しさを通り越しているように思われます。

 石川啄木に「一握の砂」という歌集があります。若い啄木の過ぎ去った日々への「愛惜の歌」ともいえるもので、「東海の小島の磯の白砂に/われ泣きぬれて/蟹とたはむる 頬につたふ/なみだのごはず/一握の砂を示しし人を忘れず」(同書冒頭「我を愛する歌」明治十年刊)」、いわば人口に膾炙した歌集でした。この中にはたくさんのよく知られた歌が収録されている、まさしく彼のデビュー歌集だった。生前出版されたたった一冊の作品集です。 (・ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな ・かにかくに渋民村は恋しかりおもひでの山おもひでの川 ・田もも売りて酒のみほろびゆくふるさとに心寄する日 ・あはれかの我の教へし子等もまたやがてふるさとをててづるらむ ・石をもて 追はるがごとく ふるさとを 出でしかなしみ 消ゆる時なし ・はたらけど はたらけど猶 わが生活 楽にならざり ぢつと手を見る  ・いのちなき 砂のかなしさよ さらさらと 握れば指の あひだより落つ ・ふるさとの 訛なつかし 停車場の 人ごみの中に そを聴きに ゆく ・友がみな我よりえらくみゆる日よ花を買いきて妻としたしむ)

 驚くほど「抒情」「悔恨」「懐旧」たっぷりの歌が並びます。このような歌を読んだことがぼくには懐かしい。ここで、作品について何かを云々するつもりはなく、「一握の砂」という「表題」に誘われて、今ぼくたちは「一握の土」に思いを寄せるべきではないかというだけの、つまらない寝言を言おうとしたまでのことです。都会の道路は「舗道(pavement)」と言われるように、土以外の材料で「舗装」されてしまっています。まるで土は窒息するほかないような事態になって幾久しい。土を踏まないで何日も何年も生活することも珍しくないでしょう。考えるまでもなく、実に空恐ろしい事態に、ぼくたちは脅威を感じないとすれば、…。

◎ 土壌の世界 土壌は土まみれとか泥くさいなどと、あまり良い意味に使われません。では土壌とはどういうものなのでしょうか。 土壌は、日本では農業生産の場としてとらえられることが多く自然物で、壊した場合元に戻すのには非常に時間がかかることなどは認識されていません。土壌が健全であれば、川や湖、ひいては海も健全になるのです。土壌は地球表面の非常に薄い層ですが、地球そのものであると言っても過言ではないでしょう。/土壌は、知的好奇心だけで探るようなものとは異なり、私たちの生活そのものです。正しい土壌の知識がなければ未来のために健全な土壌を受け渡すことができず、地球自体が危うくなりかねません。/土壌とは、土壌の元となる母材に生物・地形・気候が作用し、いろいろと長い時間かけてできた自然のもので、地球の表面のやわらかい層のことをさします。土壌の母材には、岩石、泥炭(植物の死がい)などその場でできたもの、火山灰など遠くから風や水によって運ばれたまったものなどがあります。母材とそれぞれに働く作用の組み合わせはさまざまで、一つとして同じ土壌にはなりません。また、土壌は、太陽エネルギー、水、炭酸ガスとともに植物の生育に不可欠な役割をもっています。この植物を育てる能力が大きいところに文明が発達しました。母なる大地といういいかたもあります。(「土壌の世界」国立科学博物館:https://www.kahaku.go.jp/special/past/bisyoso/ipix/soil/1/1_2.html)

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嘘がましき実は語るべからず

【有明抄】信じる者は… よく当たる占いにはコツがあるという。作家出久根達郎さんは知人に教えられた。もっともらしい顔でこう切り出す。「あなたは家族か親類のことで、悩みを抱えていますね」。これで悩んでいない人は、まずいない◆そして「近い将来、きっと良いことが起こります」。それが「お金か愛情関係」だと断言してやる。大抵の吉事はこの二つに尽きるからである。誰にも当てはまることなのに、相手は図星だと思い込む。先人はよく言ったものである。〈人は信じたいものを信じる〉◆SNSで広がったウソの情報を半数の人が「正しい」とだまされていたと、きのう本紙にあった。しかも4人に1人は親切にそのウソを拡散させていた。広告収入めあてに閲覧数を稼ごうと、「正しさ」より「インパクト」重視の世界である。うっかりすると信じるものを間違える◆その情報が正しいかネットで調べれば、都合のいい記事は簡単に見つかる。入力したキーワード自体がウソならば当たり前である。世間知らずの若者ばかりが振り回されているわけではない。分別盛りの中高年こそ、だまされやすいらしい◆検索に慣れすぎて「答え」を探せずにいる時代。「正しさ」を伝えるのはむずかしい。むやみに正義を振りかざせば不正義になる。先人はこうも言っている。〈真実は、真実らしく見えない時がある〉(桑)(長崎新聞・2025/05/15)

 世の中にあるのは「嘘」と「真」であって、それ以外には存在しないというのは「嘘」です。この世には「男」と「女」しか存在しないというのも間違いです。でも、ことの次第によっては「連邦政府が男性と女性の2つの性別のみを認め、変更はできない」と米国大統領が宣言したから、アメリカ社会では、表向きは「男」「女」だけが人間の(生物学的)性となると。連邦政府に造反する州が出ると、何とも面倒な、ややこしいことになります。権力者は、このややこしい、面倒な事柄を厭(いと)い、自らの権力で統一したがるもの。それで今く言ったためしはないのは、「事実fact)」は「好き嫌い」に忖度などしないからです。いかにも物事には「善」と「悪」のどちらかしかないという狭量主義(「二元論(「独断論」)、その反対は「懐疑論」という)と似ていませんか。その間に無数の「善悪定かではない事々」があるなんて、はなはだ面倒ではないですかと、いう具合です。

 この駄文集録のどこかで、ぼくは家康の「名言」に触れていますが、それは「嘘らしいことは言うな」「本当(真)らしいことだけを言え」と。「本当のこと」ではなく、「本当らしいこと」を言うものだと家康さんは言うのです。嘘であっても「誠(真)らしく語るなら、嘘らしさは消えるだろう」し、反対に本当のこと(実・真)であっても、世人には嘘らしく聞こえることはあるのだと、家康は遺言したのだったか。「白か黒か、二つに一つ」ではなく、「白らしい黒(は白)」と、「黒らしい白(は黒)」があるばかりだというのです。なんとでも言いつくろえるけれども、本当らしいこと(実は嘘)を言えば、それは本当だと信じられるのだというのでしょう。反対もまた真なり。

 ここで天動説と地動説を例に出すとどうでしょうか。太陽は東から出て西に沈む、ぼくたちは何の違和感も抱かないでそう思っている(信じているか)。地球はじっと天空にとどまっていて、その周りを太陽も月も星々も回っているように見える(のであって、本当はそうではない)。紀元2世紀ごろのプトレマイオス(プトレミー)の唱えた「天動説(the Ptolemaic theory [system])」でした。コペルニクス(1473〜1543)が出て地動説を唱えたが、あまりにも素っ頓狂に思われ過ぎて、誰も信じませんでした。ガリレオ(1564〜1642)の出現を待つまでは「地動説(the Copernican[heliocentric] theory)」は日の目を見なかった。「実にても(本当であっても)、世に稀なる事を語れば、偽りが間敷聞ゆる物なり」というのでしょうか。だから、人は誰でも「誠らしき嘘を申とも」、その反対は言ってはならぬと家康公は仰せられたとされています。

 いま世界に大流行中の「陰謀論(conspiracy theory)」も、別に珍しいことではありません。いつの時代にも、社会にも出ては消え、消えては出る、人間集団の一現象ではないでしょうか。時代とともに大掛かりになってきているのは事実です。「オレオレ詐欺」は、いかにも家康直伝の兵法ならぬ、論法を用いているに違いありません。真か偽かではなく、真らしい偽と、偽らしい真があるのであって、真らしく聞こえるもの・思えるものは、偽であっても真なんだという、わけのわからない人間心理の錯乱状態を利用している(利用されている)のでしょうか。ある種の「信仰」問題です。科学的に物事を考えるというのは、一例として、5+3=8、1㍍は100㌢というように、誰もが認める「約束」通りに考えることです。太陽は東から昇り、西に沈む(本当は嘘)と誰もが考えるとおりに考えても、結局はそれは偽(嘘)だったということもいつだっ起こります。なかなか科学であっても面倒な真偽判定(決定)の繰り返しですね。

 ここに生成AIが参入しているのですから、人智の及ぶところを超えていると諦めムードも漂っています。この「話」は本当か、そう疑い出したら、一歩も足が動かないほどに、ぼくたちはネット社会の「隘路(あいろ)」「陥穽(陥穽)」に閉じ込めれている。そこに暗躍する有象無象(媒体)は無限に増殖しています。さてどうしますか。いつだって、世の中は「生き馬の目を抜く」ような、実に殺伐とした成り行きで動いている。今日だけが得意でも特別でもありません。その「方法(手段)」が違うだけです。そのような嘘塗(まみ)れ「落とし穴」の中で、たとえば「一杯のかけそば」のような人情溢れる「美談」(作り話)(嘘)」であっても人々は癒され(たがっている)、そしてハッと目が覚めて、「かけそば」一杯食わされたと、やがて悔しがる。そして日常に沈んでゆく。つまりは、世情(世上)事もなげに、浮つ沈みつしながら回転・流転しているのです。「騙す」「騙される」は、ネット社会、SNS感染症(an infectious disease)の存在しなかった時代にだって、厳然とした人間(動物)社会の掟(rules;・regulations)、いや、潤滑油(lubricating oil)でした。

 焦っても、慌てても仕方がありません。これまで通り、自分の足で歩き、自分の頭で判断するほかないんですから、足も頭も大事に使いたいですな。(Walking with your own feet and thinking with your own head is the most important thing.)

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