のびきつて夏至に逢ふたる葵かな

◎ 週の初めに愚考する(七拾五)~  昨日は夏至(げし)で、北半球では一年中でもっとも昼間の時間(日の出から日没まで)が長いとされます。だからどうだと言われても、何も答えられない、それは自然現象の一つでしかないのですが、本年の「夏至」は近年並み以上に猛暑を伴って、高温状態が長く続くという点では、記憶も記録もされるべきではあるのでしょうか。6月半ば過ぎの「梅雨の中休み」というか、梅雨そのものがかき消された感のある猛暑、いや酷暑の襲来で、人間はもちろんのこと野菜や果物、あるいは稲作にまで甚大な影響を及ぼしかねないと報じられもし、そのことを日々実感もしています。

〇 夏至=二十四節季の一。太陽の黄経(こうけい)が90度に達する日をいい、太陽暦で6月21日ごろ。太陽の中心が夏至店を通過し、北半球では昼が最も長く、夜が最も短い日。《 夏》「白衣著て禰宜 (ねぎ) にもなるや—の杣 (そま) /蛇笏」(デジタル大辞泉) 

 いつものことで、取り立てて騒ぐ必要もないのですけれど、このところ、近所の方々から、朝夕を問わずに除草する仮払い機の騒音が響き渡っています。拙宅でも、少しずつはしてきましたが、まったく、あらたな草類を成長させるために除草をしているという、当たり前の循環作業に付き合わされ、時間を取られている気がします。本日のコラム「三山春秋」には、その「除草作業」のつれづれが述べられていました。いずこも同じ真夏の昼時、そんな感慨が沸沸と湧いてきます。

 「除草に費やす時間や労力、出費はばかにならない。狭い庭でも持て余すのに、田畑を管理する農家の苦労はいかばかりだろう」との実感はその通りで、大変な作業量と出費になるでしょう。年に数回、街道沿いの除草作業を請け負っている企業組織にとって、除草作業はきっときわめて安定的な収入源と見られているでしょう。しかし、その重労働たるや、よくぞ熱中症にかからないものと感心するほどに激しい・厳しい作業を目の当たりにして、当たり前の光景ではあっても、ぼくは頭が下がる。雑草は「弱い植物」とは専門家の高見です。でも「弱いから折れない」とか「柳に雪折れなし」とも言います。ぼくの常套表現に従えば「弱いは強い」であり「強いは弱い」と同義であるのです。弱いものを侮ること、自分は強いと錯覚するものは、そのことで墓穴を掘っていることになりませんか。

【三山春秋】▼雑草の季節が本番を迎えた。わが家の庭も先日除草を終えたばかりなのに、もう生えてきた。道路沿いなど至る所で勢いを増し、会社への道すがら草を刈る人を目にすることが多くなった▼「雑草という名の草はない」。植物学の父、牧野富太郎はそう言ってどんな植物も愛した。ただ研究者でもないわれわれにとって雑草は雑草でしかない。除草に費やす時間や労力、出費はばかにならない。狭い庭でも持て余すのに、田畑を管理する農家の苦労はいかばかりだろう▼「雑草魂」という言葉があるように、踏まれても立ち上がる強いイメージがあるが、本当は「弱い植物」だそうだ。農学博士の稲垣栄洋さんの著書に学んだ▼森を出て人の住む場所を選んだのは、他の植物と争っても勝ち目がないから。過酷な環境下は競争相手が少なく、それぞれの強みを発揮できるためという。踏まれたら、その状態のまま種子を残すことだけに専念している▼確かに、立ち上がらねばならぬと考えているのは人間だけかもしれない。大切なことを見失わぬことこそ、本来の雑草魂だと稲垣さんは指摘する▼逆境に立ち向かわず、弱いなりの戦略で勝つ―。「弱者の美学」とでも言えようか。何かとストレスの多い人の世でも、見習いたい生き方である。それもまた牧野が愛情を注いだ理由なのかもしれない。迷惑でしかないという認識は少々改めねばなるまい。(上毛新聞・2025/06/22)

 「踏まれたら、その状態のまま種子を残すことだけに専念している▼確かに、立ち上がらねばならぬと考えているのは人間だけかもしれない。大切なことを見失わぬことこそ、本来の雑草魂だと稲垣さんは指摘する▼逆境に立ち向かわず、弱いなりの戦略で勝つ―。『弱者の美学』とでも言えようか」とコラム氏は感心されますが、「弱いもの」「弱者」を、いささか侮っている風が見えるのは残念です。「弱さの中に強さが」「強さの中に弱さが」併存していることを忘れるべきではないでしょう。でなければ、何万年何百万年もの間、自然界で生きて来れるはずもないのです。世の中で強いと言われている人間は、実は弱いのだというのが、ぼくは嫌になるほど経験で知ってきました。「強がる」人は腐るほどいるけれど、「弱がる人」はまずいない。本音で生きているか、装うことはいらない、そんなことをしても仕方がないからからです。

 何度か触れたことがあります。世界中でもっとも権力のある存在だとされる「米大統領」、現職はトランプという人ですが、彼はもともと実に弱々しい人間だったし、それがだんだんと強くなったとぼくには思われない。強くありたい・なりたいと願っているからこそ、大統領を目指したし、それは現実になった。しかし、生来の「弱さ(feebleness・frailty)」は消えていないといいたいですね。彼ほど「強がる(bluff)」「とんがる」ことをむき出しにする人間は珍しいでしょう。弱いことは恥ずべきだ、そんな妄念を抱く人間はかなりいるにちがいない。だから、持ち物や肩書や学歴や出自や家柄や、収入や、その他何でもいい、人より優れていると思われるものを必死で身に着けるのでしょうし、その人間たちの弱みに付け込むさまざまな「虚業」があるのが世間です。その第一は「学校・学校教育」だというのが、このコラムの一貫した主張です。同じ学歴なら、「強がれる学歴」「評価される学校歴」を求める人は驚くほど多い。「雑草の美学」「弱者の美学」を正直に実践することはとても困難なんでしょうね。

 ~~~~~~

 本日は、もう一本のコラムについて言及したかったのですが、時間とともに気温が上がり続けて、少しばかり休憩したくなりましたので、紹介だけにしておきます。それに関する駄文は、いずれかの機会に。「冷やし中華」を食べなくなって、何年にもなりますなあ。(表題句は正岡子規作。我が荒れ庭にも何本もの「タチアオイ」がいさぎよく咲き競っています)

・冷やし中華富士の形を崩しかね(武藤勝代) ・寄る年波冷やし中華食いそびれ(飯野無骨)

【小社会】冷やし中華 暑くなると、食は冷たい麺に求めたくなる。水でしめた中華麺に千切りのキュウリ、錦糸卵、ハムにトマト。「冷やし中華始めました」。町の中華料理店の張り紙は日本の夏の風物詩でもある。❖冷やし中華の発祥には諸説がある。「オムライスの秘密 メロンパンの謎」(澁川祐子著)がとるのは1937(昭和12)年、仙台説。中華屋さんの店主が集まり、熱いラーメンの売り上げが減る夏にも集客できる麺料理の開発に取り組んだ。❖のどごしのよい食感を生むには、ゆであがった麺を素早くしめなければならない。中国では、冷たい麺は一般的ではない。可能にしたのは「おいしい水に恵まれた日本の風土があってこそだった」。❖ところで、昨今はやりの「町中華」。生き残る個人店には理由があるそうだ。ライターの北尾トロさん著「夕陽(ゆうひ)に赤い町中華」によると、早くて安い、居心地や店主の人柄がよい…。それを認める地元の常連客が支える。家族経営でコストを節減。閉店するのは「店主の高齢化と後継者不足に尽きる」。❖実は高知市の最寄りの商店街で4月末、町中華の店が閉店した。高齢のおやじさんが鍋を振り、安くて温かい店。張り紙に「建物取り壊しのため」とあった。思えば同じ商店街では近年、一軒また一軒と…。感謝と寂しさが入り交じる。❖令和のコメ騒動だけではない。人口減に高齢化。何となく食の選択肢に不安を覚える夏である。(高知新聞・2025/06/22)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

日本人は米のみに生きるにあらず

 昨日は午前中に「後期高齢者免許更新」に伴う「認知機能検査」などを、茂原市内にある自動車教習所で受講してきました(三年毎)。新しい後期高齢者免許更新制度が開始されてから、三回目だったと思う。歳を重ねると、まず「記憶力」が衰える、あるいはなくなるという国家公安委員会・警察庁の老婆心で、75歳以上の該当者にはとても「手厚いケア」が加えられるのです。ぼくには「嫌がらせ」と思われる部分もある。検査は無意味だとか有効性がどこにあるのかなどということをぼくは言いたいのではありません。老人の交通事故が多発するのも、年齢が嵩じてくる必然の結果、だから「記憶力」の減衰を正確に、かつ早めに把握することが大事だという視点からの「検査実施」だろうと思う。でも、毎回受講しながら考える、こんな「検査」で、運転能力に著しく支障をきたす「認知機能の衰え」が見つかるか、そんな疑問は膨らみます。(左図は検査問題です)(右下の図は全16枚の絵を見て、しばらく間をおいてからそれを想いだして書くという問題。16枚組が4セット用意されており、そのうちの一セット分が出題されます。幼稚園児か小学一年生の気分ですね。それにしては「教師はどうも偉そうにし過ぎだな)

 検査が三年に一回では老人の記憶力衰えの発見が遅れるから、毎年やるべしという意見も根強くあるらしい。まるで「病気の早期発見・早期予防」を謳って勧められている「人間ドック」検査の如し。ぼくは、何十年と「人間ドック」なるものにおける検査を受けたことはない。別段体調を含めて異常が感じられないし、なおさら自覚症状がないのだから、それを無理して、高額料金を取られて、調べてもらう必要はないと思うからです。もちろん、そうじゃないんだ、手遅れにならない前に「病気や疾患を発見する」ことが大事なんだという向きがあることは承知している。勤め人時代、健康保険組合が「あなたは何年も検査(人間ドック)を受けていない」ので、所管官庁からクレームが来ている、組合員の何割が「人間ドック」を受験していないので「違反金を何千万円か支払っている」という知らせを毎回受け取っていました。健康診断の「受診率が低いのはお前のせい」と言わぬばかりの仕打ちでした。それでもぼくは受診の必要性が感じられなかったから、検査は素通りしたままで、いつしか退職した。

 ずいぶんと昔、高校時代に成績おたくの担任がいて、学年でクラス平均が低いと散々嫌味を垂れていた。「このクラスで、ひとりで平均点を低くしている者がいる」と絶叫したこともある。ぼくは咄嗟に手を挙げて「それは誰ですか?」と質問して、更に怒らせた。当の「犯人」はぼくだった。何のための学習かな、この教師には判っていなかったのだから、ぼくは抵抗しただけ。健康保険組合員の「受診率」向上のためにこそ、「人間ドック受診」をというのは本末顛倒。そして今、居住地の役場から毎年の健康診断受診を強いられているが、ぼくは、心身において何処にも「不都合」「不具合」を感じないから(自覚症状がない)、受診することはない。すると、役場から「後期高齢者保険を利用していない」「介護保険の申請がない」などを理由に、「生死不明」「安否確認」のために民生委員を拙宅まで訪問させたこともあった。自覚症状が出たら、もう手遅れだとするなら、それもまた「寿命」だと思う。いくら事前の健康診断(検査)をしても病気が発見されなかった、なのにいくらもしないうちに重篤な病気に罹患する、そんなケースはいくらもある。

 要するに、高齢者の運転技能や能力に著しい衰えがあり、時には重大事故に遭遇する(事故の当事者になる)ので、早めに免許証返納(つまりは、「免許証をお上に返せ」ということ)を進める魂胆なのでしょう。それも反対しない。だからと言って、老人を目の仇のように、どこかに追い込むような政策はよくないね。免許証の所有者なら「老若同等」でしょ、同じ交通違反でも「年寄りには反則金が安くなる」わけでもあるまい。問題は、政治でも行政でも、その基本姿勢は「十把一絡げ(じっぱひとからげ)」だというところにこそ、隘路があるんでしょう。もっと個々人に近づいたらどうですか。

 要するに、その根底に潜む政治・行政哲学は「ぞんざい」ということに尽きますね。「いろいろな種類のものを、区別なしにひとまとめにして扱うこと。また、一つ一つ取り上げるほどの価値がないものとしてひとまとめに扱うこと」(デジタル大辞泉)にあるのだ、と。だからどうしろと言うのではありません。私的な領域に、中途半端なままで入り込むのはやめてほしいとぼくは言いたいだけ。人によっては「入り込んでくれ」と望む者もいるでしょうから、「ぞんざい」ではないことを、行政の大事な姿勢にしてもらいたいものだ、それを言いたいだけ。

*****

 話題は変わる。「コメ問題」ですが、これについてはもう駄弁りたくない。またぞろ表とは異なった裏政治が活発になっていることを苦々しく思うばかり。選挙を前に、何時だって、二重底政治の繰り返し。いつも言うことですが、この国に数ある政党の色分けは「与党対野党」なんかではなく、一党(パルタイ・Partei)を除けば、他はすべて与党、または与党の二軍三軍だということ。どれだけ選挙をしても、何が目新しくなるものでもないし、政策も「旧態依然」「旧套墨守」が本旨、となれば、十年一日、一日千秋の愚となりはしませんか。そんな時に、民衆のための政治が求められる、そのため何ができるか、何をすべきか。第一に「選挙制度」を変えることからですか。世襲は即刻廃止ですね。議員の半数は女性に。誰も文句あるまい。いや、大いにあるというか。

 コメ問題を考えるのは、それからです。コメが尽きれば、麦を食う、麦が尽きれば、芋を食う、諸物が尽きるまでには「選挙制度」も変わるでしょうよ。と同時に、コメを作る農家(農民)も精根が尽きているでしょうね。その時、誰がコメを作るんでしょうか。経団連傘下の大企業かもしれないし、コンビニ大手かもしれません。JRのように、劣島をいくつかに分けて受け持つ、官営(公営)大米企業ができるかもしれない。最後の最後は、たくさんある耕作放棄地を利用して、貸農園ならぬ貸田圃で、個人個人で作ればいいではないか。

【三山春秋】▼ちょっとしたきっかけで需要と供給のバランスが保てなくなることがある。コロナ禍では店舗からマスクが消えた。1枚数十円ほどの不織布マスクが100円以上していたにもかかわらず、棚に並んだ瞬間に売り切れた▼不安に駆られて買いだめをしてしまう「パニック購買」は、災害時に起こりやすい。昨年は南海トラフ「巨大地震注意」を受け、ミネラルウオーターが品薄になった。「令和の米騒動」もこの臨時情報が拍車をかけたと言われている▼国内における1人当たりのコメの年間消費量は、1962年度の118.3キロを境に減少に転じ、60年経過した2023年度は51.1キロと半減した。手軽なパンや麺類を主食に選ぶなど要因はさまざま考えられるが、コメ離れは加速していた▼ところが今回の騒動で国民はこぞってコメを求めた。コメがある「日常」がぐらついたからか。全国の地方新聞など19紙による合同アンケートでも「コメの大切さが分かった」との記述が散見された▼今月に入り、古古米、古古古米が放出され、今度は銘柄米を横目に安いコメを求めて行列ができている。安さは魅力だが、これもまた日常ではないような気がする▼青々とした苗が整然と並ぶ水田が目に付くようになった。異常事態でも、変わらずコメを作る農家の姿に頭が下がる。この苗が稲になる頃には、日常が戻っていることを願わずにいられない。(上毛新聞・2025/06/21)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

「あすはわが身」ではなく、…

 ただ今午前4時半。室温は26.3℃、湿度76%。不快指数=76.5、体感:やや暑い。〈不快指数 DI (Tは乾球気温℃、Hは湿度%)(DI=0.81T+0.01H×(0.99T−14.3)+46.3) 

 各地で熱中症警戒アラートが鳴り響いているようです。(ヘッダー写真は熱中症アラートではなく、本物の「ミサイル発射(爆撃)アラート」です、イスラエルとイランの戦争の行く先はどうなるのか)たくさんの人がいろいろな症状で救急搬送、不幸にして亡くなられる方も後を絶ちません。コメ不足だ、米価高騰だと大騒動している、その傍らで、まさに「災害」そのものともいうべき「猛暑」「酷暑」「炎暑」「厳暑」「灼熱」…、いかなる形容をもってしても表しきれない「熱地獄」「煉獄」の苦しみに、この地球上は襲われているようです。気候温暖化どこ吹く風、とひたすら化石燃料を燃やし続け、緑の球体を炎の上のフライパンの如くに熱し尽くし焼き尽くし、そのフライパンの中に閉じ込められて森羅万象は、まるで生き地獄に放り出されているが如くでしょう。そのような炎暑盛んなる時節に、殊もあろうに地球の火薬庫視されてきた中東で、二重三重の戦闘が重ねられている。

 ぼくの感覚では、すでに「世界戦争」(第三次(大惨事)になるのかしら)の火ぶたは切られている。 表向きは中東諸国・諸勢力の戦いのように見えて、その実はまさしく代理戦争の趣きを示しています。安易に帰趨を語るべきではないのは当然だとして、定見も見識も持たないときの権力者の今の今の巡り合わせの不運・不作をぼくは深く嘆息するものです。(今の今、この時にぼくはあの悪夢の「ニューヨーク中心街のビル爆破」(「同時多発テロ」という)(9.11)をはっきりと視野・視覚に入れています。。ボンクラ為政者たちは何を考えているのだろうか)

・いろいろなこと気がかりに水無月往く(無骨)

~~~~~~~~~~~~~~~

 京都市で熱中症が急増、今週に入り60人超を搬送 6月史上初の2日連続36℃超え 高気圧に覆われてよく晴れた19日、京都市中京区で最高気温36・1度を観測し、2日連続で猛暑日となった。高温となった今月16日以降、京都市内は熱中症搬送者数が急増し、今週だけで60人以上が搬送されている。日差しの強い屋外だけでなく、屋内での搬送も相次いでいる。/気象庁によると、午後5時までの最高気温は京都市中京区で36・1度で、18日の36・5度に続いて猛暑日となった。京都市で6月に2日連続で36度を超えたのは観測史上初めて。京田辺市35・3度、福知山市34・5度など、各地で厳しい暑さとなった。(以下略)(京都新聞・2025/06/19)(左写真も:「強い日差しの中、日傘を差して行き交う観光客たち(2025年6月19日午後2時1分、京都市東山区・清水坂)=撮影・山本健太)

~~~~~~~~~~~~~~

【射程】認知症を支える 2月に熊本空港から乗った羽田便の隣席は、いつも通販CMで「しゃちょ~う」と値引きをせがまれている「夢グループ」の社長だった。❖前夜の「夢コンサート」に出演した所属歌手、橋幸夫さんの姿も。元気そうに見えたが、アルツハイマー型認知症の発症を先月公表した。認知機能の衰えは近くにいる人でないと気付きづらい。社長はかねて病状を心配していたと明かし、82歳の歌手活動を支えると約束した。❖認知症特有の行動症状に「徘徊[はいかい]」がある。元気に歩けていると見過ごされがちだ。警察庁によると、2024年に認知症の行方不明者は約1万8千人、発見時に死亡が確認されたのは491人に上った。高齢社会の深刻な課題と言えよう。❖警察庁は今回、死者発見時の詳細を初めて公表した。約8割が最後に姿を確認された場所から5キロ圏内で見つかった。その場所は▽河川・河川敷▽用水路・側溝▽山林-の順に多かった。おぼれたり、転落したりしやすい場所を重点的に捜し、不明者の保護につなげてほしい。❖命を守るには速やかな通報が欠かせないが、1人暮らしだと難しい。行方不明に気付けず、通報が遅れてしまう。本人や家族が認知症だと知らないケースもありそうだ。❖認知症の「見守り力」強化を急ぎたい。スマートフォンなどを使えば衛星利用測位システム(GPS)で位置情報を取得できる。熊本県内の自治体では、あらかじめ認知症の人の服などにQRコードのシールを貼っておき、発見と連絡を促す試みも広がっている。積極的に活用すればリスクを減らせるに違いない。❖人口減が加速しても、認知症は増え続けると推計されている。不慮の死を減らすには高齢者を見守り、認知症を早めに察知し、行動をサポートするしかないだろう。家族ら周囲の負担は重いけれど、あすはわが身と考えたい。(田口貴一朗)(熊本日日新聞・2025/06/19)

 本日の午前中、ぼくは免許更新のための講習と認知機能検査を受験することになっている。「今日は何年何月何日何曜日か」、知ってるかと訊かれることになっている。たくさんの絵を見せられて、トマトだ、機関銃だ、スカートだ孔雀だと答えさせられる。決して個人の脳力・能力を尊重するための試験(検査)などではなく、高齢者から免許証を取り上げるための儀式となっているように思われます。好き好んで事故を起こすものはいないだろうし、可能ならば、運転などは卒業したい、そんな高齢者は山ほどいるでしょう。ぼくもその一人。何せ、半世紀以上も車と付き合ってきたのですから、いい加減で車とは縁を切りたいと願うけれど、生活と環境がそれを許さないなら、必要最低限度の運転は避けるわけにはいかないのです。

 その昔は「老人性痴呆症」呼んでいたが、あまりにも尊大な呼称ではないかと、ある時期から「認知症」と呼び変りました。どちらにしても、認知能力の毀損や障害(障礙)の程度が問われるようになった。コラム「射程」には高名な歌手の認知症発症の事例が書かれています。82歳だから、どうこうというのではありません。何かと差し障りがあっても、大事(おおごと)でない限り、ご当人の意向を最大限に尊重すべきだとは思うけれど、殊はそれほど簡単ではないのだから、油断大敵ということなのかもしれません。

 繰り返し放言しているように、ぼくがこの「駄文殴り書き」を始めた最大の理由は「記憶力減退」の、確かな自己認識のためだったと、今でも考えています。3と5を足せばいくらになる、そんなことを知らないなら、「人間止めますか」と誰が言うのかと思う。要するに、高齢者時代を迎えたけれど、個々の「高齢模様(ぶり)」には科学も医学も社会学もなす術もなく、ほとんど手を拱(こまね)いているのが現実ではないかと思うばかりです。コラム氏は「徘徊」を書かれておられるが、ぼくなどは「俳諧」ととなり合わせだと愚考している。現住地でも有線放送で「だれされさんの行方が分からなくなった」と報じることがごくたまにあります。以前に住んでいたところでは頻繁に「防災無線」が安否確認の報知をしていました。田舎と都会地の違いかどうか、その回数は驚くほどの差がある・あったように感じている。

 「人口減が加速しても、認知症は増え続けると推計されている。不慮の死を減らすには高齢者を見守り、認知症を早めに察知し、行動をサポートするしかないだろう。家族ら周囲の負担は重いけれど、あすはわが身と考えたい」コラム氏の実感でしょうか。まだお若い方かもしれませんね。ぼくなどは「明日は我が身」どころか、「今日も我が身」と思えばこそ、ろくでもない「駄文」「雑文」を書き殴るのです。でも、広く見渡して、つくづく感じるのは、この時代、この世界、いたるところで認知機能が壊れかかっている、壊れている、そんな人たちは、年齢性別に関係なしに増産されていると思うばかり。その原因は何処にあるのでしょうか。都会と田舎では、「認知症発症」の差は歴然としているとぼくは感じているのですから、そこにも何かヒントがありそうではないでしょう。

 余計なことですが、誰が見ても「人倫に悖る」ことをしでかし、それを苦にされて、あろうことか事案の一方の関係者の一人が「自死」されたという問題を抱えた一人の元政治家(現弁護士)、ご当人は「それを否定しているような肯定しているような」塩梅で、驚くべき不誠実を隠さないのですが、その女性がある政党から国会議員選挙に立候補しようとして、非難の集中砲火を浴びたという件(醜聞)が過般にありました。国会議員とは、そんなにひどい人間、驚くべき頽廃の徒がなるものなのだろうかと思ったとたん、彼女を持ち上げた連中も含めて「認知機能が壊れている」、そう思いたくなった。世界の指導者を任じている連中には、かかる手合いが多すぎるというのは、世は「認知毀損」の酷さ比べのようではありませんか。「今日は我が身」と自覚すればこそ、他者への尊敬心は失くないと希(こいねが)っている。人命を殺戮する・して、いかなる痛痒も感じられない人間が大手を振る世界、そんな世界に、身の丈に応じて「抗う」のもまた、老骨の大事な奉公なんだな。

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

G2の馴れ合い?盾と矛の覇権争い?

【夕歩道】「今年の十大リスク」という年初の外電記事を思い出した。米国の著名な国際政治学者イアン・ブレマー氏らが毎年発表しているもので、2025年の第1のリスクは「Gゼロの国際社会」だと。
 サミットは50年前、日米欧6カ国で始まり、翌年からカナダも入ってG7に。その後、ロシアを迎えて一時G8となったが、14年の一方的なクリミア併合を許さず、ロシアを除外して再びG7に。
 「G6+1」と心配された第1次トランプ政権期を経て、返り咲きの今回は初日で早退に及び、G7としての首脳宣言も首脳声明もなし。なるほど「Gゼロ」か。ほくそ笑んでいるのは誰だろう。(中日新聞・2025/06/18)

 「G7」という互いに「脛に傷もつ」諸国会議は、何ら得るところなく終わった。いや成果はあった、「G7」は無用のお飾り(張り子)だという現実を自他に明らかにしたから。アメリカ第一を標榜するのは「自分を再び偉大に」と狼煙を上げ続けているT大統領ご本人。「イスラエルvsイラン戦争」の行方を左右するのは自分だけだと自らの政治力を誇示。実はこの戦争「表向き当事国」、実際には米・露の代理戦争の顛末は誰でも知っている。つまるところ、世界は「無法者G2」が取り仕切っていると錯覚しているのだ。その「自分はG1」と自認しているそれぞれが、自分こそが「第一だ」と自惚れなのか、錯乱なのか、世界のすべてを尻目に「世界の富(領地)」の山分けを狙っているのだが、その実、「自分こそ一番」という、歴史的錯誤を膨らませているのが実態だろう。大も小もなく、世界がこんなに複雑に絡み合い、互いが身動き取れない関係を結んでいる現在、はたして「覇権主義」を貫徹しても成算はあるのだろうか。一難去ってまた一難だな。

 国威を発揚するという「原始自己主義」は、何時までも残るだろうが、それだけで世界諸国は動くとは考えられない。一国覇権主義は成り立つはずもないけれど、集団的覇権主義もなおさら見込みはないと知るべきだろう。国家という怪奇な存在が世界各地を徘徊しだしてどれくらいの時間が流れたか。そして今、国家は「幻想」であり、「虚構」だというリアリズムがはっきりと芽生えてきたのだ。国という、ひたすら図体のデカさだけを他に誇示するような「見せ掛け」国家主義はもはや通用しないのが現実。剥き出しの自己顕示だけで、何事かが動くなどということはあり得ないのだ。一時の「強権」は、遂には終わりのない「混沌」に突き進むほかないのだと知らねばなるまい。歴史を知り、歴史から学べば、誰だって(どの国だって)謙虚にならなければならないんだがな。

 世界の各地で噴火が起こり、それに煽られて新たな火種が燃え出そうとしている、そんな不穏な情勢にあって、ほんの数日間、どこかで集まって「宴会」をしながら「世界平和」を語るなどという呑気さがたまらなく愚かに思われる。まるで、問題山積の学校の「級長会」みたいなもので、任期終了となれば、お次と交代。その程度のものなら、お気業な会議などない方がましだし、要らぬ気遣いをしなくて済むから、ぼくたちも気は楽だ。死に物狂いの「戦争終結」活動も、終わってみれば、またぞろ「あの戦争が懐かしい」という馬鹿さが首をもたげてくる、それが政治家になりたがる連中の「国家は自分」だと錯誤する大きな理由のひとつだ。「朕は国家なり(L’État, c’est moi.)」という認知機能崩壊の政治家が多すぎる。ある種の人々にとって、「国家は獲物」であると同時に「それは魔物なんだ」ということ。(ぼくは、年来久しくの「アナーキー」です)

 社説:G7サミット 米頼みで空洞化、直視を
 国際社会が築き上げてきた秩序に背を向けるトランプ米大統領の身勝手さが、目に余る。
 開幕した先進7カ国首脳会議(G7サミット)で、2期目に入って初めて出席したトランプ氏が、初日で切り上げて帰国した。
 サミット2日目は、イスラエルとイランとの交戦で緊迫化する中東情勢が優先課題だっただけに、議論を避けたと見られても仕方あるまい。トランプ氏は停戦への働きかけより、先制攻撃をしたイスラエルを支える言動が際立つ。ウクライナのゼレンスキー大統領との首脳会談も見送りになった。
 日米首脳会談は開かれたが、関税交渉で合意に至らなかった。
 深まる米国との溝を踏まえ、議長国のカナダはG7の共通目標を示す「首脳宣言」は見送り、個別課題ごとに共同声明を作る方針という。G7を先導してきた大国のトップ不在では、事実上、会議自体が空洞化するに等しい。
 発足から半世紀を迎えたG7サミットは、世界の分断を象徴する事態に向き合わねばならない。(以下略)(京都新聞・2026/06/18)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

碧い空極暑の雲は朝も輝る

 ただ今、午前五時半。室温27.1℃、湿度76%。不快指数=77.8、体感:やや暑い。

 つい先ほど、月に一度のビン・カン類の収集日のために空き缶とペットボトル類を収集用の袋に入れて、収集場に持って行ったところ。この十年余、真面目に「ごみ出し」作業をこなしてきました。この先も、何とか、自分たちの出した「塵(ごみ)」は自分たちで始末できるように続けたいと願っている。以前は、スーパーなどの回収箱に持って行っていたが、今は、近所の庭先に収集場を設けてもらったのを利用している。生ごみも週三回、拙宅は1~2回ですが、これもまめに処理してきました。大きなものは直接「処分場」に持ち込んだことも何度もある。家庭から出るごみの処分の始末がどれ程大変なことか、知人が体験学習のためにやっていたのを見ていたから、よく分かるつもり。回収する側に立って、ゴミを出すことを心掛けているのです。

 細かい雨が降っているようでしたが、湿気はむんむんで、本日も猛暑日、いや酷暑日の予感がします。今時から35℃を軽く超えているのですから、この先、どんなエゲツナイ暑さが襲うのか、かなり怖気づいています。老齢だからと、身を案じているのではなく、それ以上にようやく育ち始めた「早苗(稲穂)」の行く先が心配で心配で。この数年来、これからの猛暑でもっとも危惧されているのが「カメムシ」による被害。(右写真・イネカメムシ成虫)

 「千葉県の水稲栽培で問題となる斑点米カメムシ類のなかで、最近はイネカメムシの発生数が増加傾向にあります。県内での本種の生息は古くから確認されていましたが、平成30年以降、従来の優占種であったアカスジカスミカメやクモヘリカメムシなどを上回る発生が認められています。本種の発生が目立つ地域は限定されていますが、これらの地域においては年によって多発生し、減収の原因となります。/本種は他の斑点米カメムシ類と生態や加害様式が異なるため、従来の斑点米対策からの変更を検討する必要があります」「アカスジカスミカメやアカヒゲホソミドリカスミカメなどのカスミカメムシ類は、基本的には水田内では増殖せず、主にイネ科雑草上で越冬した成虫が水田周辺の雑草地で増殖し、水田に侵入して稲穂を加害します。『雑草派』カメムシともいえるこの特徴により、広大な雑草地の近隣に位置する水田において被害が多くなります。(以下略)」(千葉県「イネカメムシの生態と防除」:https://www.pref.chiba.lg.jp/ninaite/network/field-r5/sui-2023-06.html#:~:text

 よく散歩をしていた時期、田植え後の草刈りが盛んに見られたものでしたが、要するに、カメムシ退治の第一歩としての除草だったことがわかります。カメムシの被害は多いところでは収穫減は2割や3割ではとどまらないと言われます。時節柄、本年産米が不作だったら、いったい「主食」はどうなるのか。この数週間のうちに矢継ぎ早に、鳴り物入りで放出されてきたため、およそ100万トン近くあった「備蓄米」が底をつきそうです。新米が収穫されるまでにはまだ数か月ある。この間のでたらめ農政のツケが、猛暑の進捗と同時に襲ってくると、その惨状は目も当てられないことになります。まずは、カメムシの発生防御の奏功を祈るや切です。(左写真・基部斑点米の被害の発生した玄米)

【天風録】コメの出来を占う おにぎりが今、外国人観光客にも人気という。おいしい米と多彩な具材の組み合わせ。私たちはいつから食べてきたか。きょうはおにぎりの日。38年前、能登半島にある弥生時代の竪穴住居跡で「日本最古のおにぎり」が出土し、地元が制定した▲炭化した米の塊はほぼ三角形で片手に収まる。ちまきのように包んで蒸したらしい。神様への供え物とみられる。来年もたくさん収穫できますように―。祈りを込めたおにぎりのようだ▲豊作か不作か。今ではコメの作況指数が、1反当たりの収穫量見通しを分かりやすく示す。過去30年の傾向と比べ、はじき出す手法。約70年続けてきたこの指数を廃止するという▲猛暑など気候変動の影響で、最近は実態とのずれが目立つ。「平年並み」とした2024年産の指数に対し、農家は「実感と違う」。業者も「量が足りない」と。ずれが米騒動の一因という批判もあり、小泉進次郎農相を統計見直しへと動かしたか▲統計は国家の基本―と重要性を説く政府。だが農相は統計を見直して、「農業政策の新たな基盤を確立したい」。もちろんおにぎりではなく、AIなどを使い、収穫量を予想する。コメ価格安定の願いは届くか。(中國新聞・2025/06/18)

***********

【産経抄】夏の味覚は待ち遠しいが 明治・大正期の詩人、山村暮鳥に『西瓜(すいか)の詩』という一編がある。畑で取れたスイカを家族として遇し、しまいには<みんな/あつまれ/あつまれ/西瓜をまんなかにして/そのまはりに/さあ、合掌しろ>。丸々太った実を真っ二つ。▼スイカは初秋の季語だから、詩人が詠んだのは、もうひと月かふた月後の光景かもしれない。実の熟し具合や甘さは「積算温度」に左右される。開花してから1日の平均気温を足し続け、大玉なら1000~1100度、中玉なら900度前後が収穫の目安だといわれる。▼今年の品質はどうなるだろう。ここ2日ほどは梅雨の晴れ間で、日差しの強さと気温は、月めくりのカレンダーを2枚はがした感がある。真夏日や猛暑日になったところも多い。収穫の目安へと、足し算が一足飛びに積み上がりそうで気にかかる。▼すでに気温が体温を上回った場所もあり、6月中旬とは思えぬ危険な暑さになっている。体を慣らす間もなく、蒸すような外気に当てられた人は多いのではないか。熱中症による医療機関への搬送も増えている。異変を感じる前に、手を打ちたい。▼スイカの前で手を合わせ、よく詰まった実に包丁を入れる季節は確かに待ち遠しい。さりとて夏の味覚は健康な体があってこそ楽しめる。厳しい暑さが列島の上から去るまでは、気温と湿度には要注意だろう。熱中症警戒アラートにも耳をそばだてた方がよさそうである。▼都々逸いわく<色で身を売る西瓜でさえも/中にゃ苦労(黒)のタネがある>。温室育ちのスイカには、猛暑の前倒しは冷や汗どころか大汗ものの苦労かもしれない。いや、産地の農園は抜かりなく温度管理をしていよう。こちらの心配が余計なお世話であればいい。(産経新聞・2025/06/18)(右下写真も。「大型の日よけが設置された万博会場」=16日午後、大阪市此花区)(南雲都撮影)

 昔から果物類は大好物でしたが、近年はあまり口にしなくなりました。何よりも「糖度」が高くなりすぎたと感じるからです。甘すぎるんですね、ぼく自身の「甘さ」によく似ている。柑橘類でもブドウやイチゴ類でも、ぼくには甘くてとても食欲をそそらない。メロンやスイカにしても同様で、時々高価のものを無理して買ってみるが、甘すぎて気分も胃袋も楽しまないんですね。何でもかんでも甘くなっているのが近年の傾向なのでしょうか。酸っぱいとか、辛いとか、「甘味」「酸味」「塩味」「苦味」「うま味」を五つの基本味というらしいが、塩分が多いとか、糖分を摂りすぎるとか、専門家たちがいろいろなことを話していますから、さて、どうしたものかと迷うほかないでしょう。

 味覚はどなたにも備わっていると考えられますが、果たしてどうなのか。人それぞれに味の好みが違いますから、一定の数値をすべてに当てはめるのは考え物。それでもなお、果物類は、総じて「甘すぎる」という感想をぼくは持っている。自分に合った「味覚」の品物を適宜に摂取するためにはどうすればいいのか。「産経抄」の記事内容に合わせてか、猛暑の独壇場となりそうな大阪万博会場の写真が出ていました。海中埋め立て「塵の島」で開催されている万博。30℃を越えたら「閉鎖」などをしないのでしょうか。まるで、好き好んで「火炙(あぶ)り」に遭いに行くようなもの。焼き殺されたい人がそんなにたくさんいるとは思われませんが、よく分かりません。今もなお、メタンガスは噴出中ではないのでしょうか。レジオネラ菌充満の海水ショウで、中毒になりたい人もまた、そんなにたさんいるとは知りませんでした。

 欠陥や危険だらけの万博。それでもなお強硬開催を続行する主催者たちは何をたくらんでいるのでしょうか。IR(カジノ)竣工貫徹が言われますが、ぼくにはそれだけではないような気がします。もっと恐ろしい、人体実験をこそたくらんでいるのだ、と。どこまで虚仮にしても大丈夫かと、人民の忍耐力・寛容さを試し、この後の悪政の材料にでもしようという魂胆か。悪逆な人民統治の周到な実験を強行しているのではないでしょうか。

++++++++++++++++++

 表題句(「碧い空極暑の雲は朝も輝る(あおいそらごくしょのくもはあさもてる)」)は日野草城氏(1901~1956)作。早くに「ホトトギス」に拠ったが、一面において、あまりにも過激すぎて虚子より除名。加えて、大方の俳人の囂々(ごうごう)たる非難を享けました。その後は独自の句境を開いた感があります。連作「ミヤコホテル」で大いに物議を醸した人としても名がありました。その十句を以下に。昭和九年(「俳句研究」4月号)の春宵一夜のことでした。これをとやかく言うほど、ぼくは野暮ではないつもり。俳句にあるまじき所業と宣ったのは虚子先生だったか、あるいは久保田万太郎氏や中村草田男氏だったか。犀星は草城を表面から応援した人だった。この程度の「写実?」で、「ホトトギス」から除名だ、出て行けというのは。犀星さん曰く「俳句は老人文学にあらず」という非難にさえも背を向けたことになりませんか。要するに「趣味」の問題なんですよ。もちろん、連作は「フィクション」だとされます。「ノンフィクション」であっても一向にかまわんじゃないか。「趣味」の問題、好き嫌いで判断するべきなんですよ。

けふよりの妻と泊(とま)るや宵の春
春の宵なほをとめなる妻と居り
枕辺の春の灯は妻が消しぬ
をみなとはかかるものかも春の闇
薔薇匂ふはじめての夜のしらみつつ
妻の額に春の曙はやかりき
うららかな朝の焼麵麭(トースト)はづかしく
湯あがりの素顔(すがほ)したしも春の昼
朝食後に再戦か。昼の湯上り。すっぴん。
永き日や相触れし手は触れしまま
うしなひしものをおもへり花ぐもり

● 日野 草城(ヒノ ソウジョウ)=大正・昭和期の俳人 生年明治34(1901)年7月18日 没年昭和31(1956)年1月29日
出生地東京市下谷区山下町(現・東京都台東区) 本名日野 克修 学歴〔年〕京都帝大法律学科〔大正13年〕卒 主な受賞名〔年〕大阪府知事賞(第1回・文芸)〔昭和24年〕 経歴大正7年「ホトトギス」雑詠に入選し、9年「京鹿子」を創刊。13年「ホトトギス」の課題句選者となり、昭和2年「草城句集 花氷」を刊行し、4年「ホトトギス」同人となる。7年頃から台頭した新興俳句運動を指導し、10年「旗艦」を創刊。連作俳句、無季俳句を主張したため「ホトトギス」を除名される。15年の京大俳句事件で「旗艦」を廃刊し、俳壇を去るが、戦後復帰して21年「春」を刊行。24年「青玄」を主宰し、また第1回大阪府知事賞を受賞する。29年朝日俳壇選者となり、30年「ホトトギス」同人に復帰。他の句集に「青芝」「昨日の花」「人生の午後」などがある。(20世紀日本人名事典)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

老害とは、これ如何に?

【日報抄】先日の本紙にこんな見出しが。「働き続けるシニア 『老害』化防ぐには」。同僚の間でも、ひとしきり話題になった。皆、そう呼ばれることを恐れているらしい▼過去の実績をかさに着て威圧的な態度を取る、時代錯誤の言動で若手の取り組みを阻害する-。特定の顔が思い浮かぶ方もいるだろうか。組織や家庭の中でこんな場面になると「老害」扱いされることがある。先達をさげすむような嫌な言葉だが、現役世代にすれば迷惑この上ない▼本人はよかれと思っているようだから始末が悪い。聞き流そうにも「お前のためを思って言っているのに」などと、かえって言動に拍車がかかることさえある。自由な発想を妨げ、一種のハラスメントにもなりかねない▼冒頭で掲げた見出しの記事によると、相手への敬意の有無が「老害」化するかどうかの分かれ道という。求められた以上に助言しようとして、余計なことを口走る失敗例も紹介していた▼一方、高齢者がいわれのない非難を浴びることもある。レジで支払いに時間がかかる人を揶(や)揄(ゆ)するような行為は「いじめ」と言っていい。心身の衰えが引き起こす問題は迷惑行為とは明らかに異なる。人生の先輩への敬意を欠いてはなるまい▼何かをする時、高齢だからと遠慮する必要などはない。周囲に迷惑をかけないよう心がけるのは、どの年代でも共通のマナーだ。誰もが年を取る。誰もが「老害」に陥る恐れがある。だからこそ、他者を思いやる姿勢を忘れたくない。自戒を込めて。(新潟日報・2025/06/17)

(ヘッダー写真は「レタスクラブ」:https://www.lettuceclub.net/news/article/1236174/

 体力・気力の差異は、人それぞれであり、ひとしく「年齢」で区切るのはどうなんでしょう、そんな疑問や不信の念をもって生きてきました。人は誰でも、「偏見」というか「先入観(主)」をもとにして物・事を見がちだと、自らの拙い経験から学んできました。勤めていた職場の「定年(停年)」は長い間「70歳」と決められていた。偶然のきっかけで就職が決まったとき、ぼくは25歳だったから、この職場に停年まで勤めあげるなど、微塵も考えられなかった。その当時、数歳先輩から「これから停年までいるのだから、仲よくしよう」というようなことを言われて、ぼくは驚嘆したことがありました。驚きも交じっていた。果たして四十数年先まで、この職場が残っているか、それ以前に自分のいのちや勤労意欲が持続するか、まことに心許(こころもと)なかった。ぼくは六十くらいで辞めて、別の仕事をしたかったし、その準備なども考えていたが、結局はグズグズしてしまい、停年の一年前にやっと辞めた。これは、ぼくの大きな失策・失敗でした。

 個人の経験だから何ほどのことも言えませんが、何事においても、「人それぞれだなあ(It depends on the person)」という実感だけは強く持たされました。もちろん「老害」という現象を否定するのではありません。自分自身で、ある年齢を境にして「いかにも衰えたな」と感じる時があったからです。物忘れなどは、どなたも経験するでしょうが、同じことを繰り返すという「弊害(an abuse)」は常に気を付けていたことでした。授業の際に、まったく同じことを同じ言葉使いで話すということはなかったでしょうが、「この話は、前にも言ったかもしれないが」と断りを入れて喋るという為体(ていたらく)だった。年間30週、科目数10科目、つまりは計300回の授業を担当していたことになり、それは四十年近くに及びました。もちろん、同じ科目名もあったし、異なる授業でも同じ履修者もいたのですから、同じ話を、前後の脈絡無関係に、喋り散らしていたことがあったかもしれない。(「この老害め」と断じていた履修者もいたかもしれない)

 今では「働き続けるシニア」は、70歳をはるかに超えているでしょう。元気であれば、80歳でも若者と遜色はない人もいよう。職種によっては、いくら逆立ちしても若い人はかなわないという高齢(経験)者もいる。だから、一概に「年寄りだから老害」ということには無理があります。「相手への敬意の有無が『老害』化するかどうかの分かれ道」と指摘されているという。そんなことなら、何も年齢に限らないのであって、これもまた人それぞれだと思う。もちろん、年を重ねると、そんな傾向が強くなることは否定しない。総じて、この社会は「相手に対する尊敬心」を欠いている、著しく欠いていると、ぼくはこの傾向を大いに嘆じています。「袖すり合うも他生の縁(Even chance meetings are the result of karma.)」という気配が消えてゆく社会には空恐ろしさを覚えもする。

****

 「レジで支払いに時間がかかる人を揶揄するような行為は『いじめ』と言っていい。心身の衰えが引き起こす問題は迷惑行為とは明らかに異なる。人生の先輩への敬意を欠いてはなるまい」と、コラム氏は指摘される。ぼくはほぼ毎日買い物に行きますから、このような場面によく遭遇する。最近は機械化が進んでいるのでレジの前に立つと、「ボタンを押せ」、「金をいれろ」、「もっとお金をいれよ」、「お釣りは忘れろ」などと、のべつに自動音声が流れてくる。いかにも「客を急(せ)かせる」などという、器械にあるまじき振る舞いに、ぼくはつねに店員に注文を付ける(当然、カスハラ、ローガイと受け取られよう)、その都度「器械の調節をしておかないと」、「もっとゆっくりとした客への対応を器械に言いつけてほしい」などと。どこへ行っても、ぼくは「注文」を付ける。レジの店員さんをイジメることは断じてありません。店の責任者に「注文」「切望」します。

 無人(セルフ)レジが導入されだした際、「どうしてこのシステムを導入したのですか」と、その理由を店員を通して店の担当者に尋ねるのだが、まともに答えてくれない。「万引き」が増えており、店の対策として必要だからというようでしたが、それをはっきりさせないのは、別の魂胆もあったからでしょう。「無人レジ」導入で、以前よりも、これぐらい「万引き事件が減少」したというデータがあるんでしょうかと尋ねた。

 どうしても「万引き」を防ぎたいなら、有人レジをもっと導入すべきであって、こんなことでは「いずれ無人レジは廃止」となるはずだともいいました。予言通り、そのような傾向(有人レジ化)が各所で生じているようです。人件費の節約は当然であっても、客を須(すべか)らく「万引き犯」と疑惑の目で見る(客商売)って何だといいたいのですが、ここまでくると、「完璧な老害」と認定されるでしょうか。(よく万引きジーメンなどという「万引き発見のプロ」がテレビなどで放映される。隠れていて犯人を生み出すのではなく、その場で、万引き行為を防止するように、なぜジーメンは行動しないのか、ぼくにはとても不愉快だし、客商売としては失格だと思うと、いかにも「老害ぶり」ですね)

 生きている限り、「誰もが年を取る。誰もが『老害』に陥る恐れがある。だからこそ、他者を思いやる姿勢を忘れたくない」とコラム氏。改めて「老害」という、この汚い呼び方に嫌悪を催す。元来は「企業や政党などで、中心人物が高齢化しても実験を握りつづけ、若返りが行われていない状態」(デジタル大辞泉)を言い当てた言葉でしょう。それがいつの間にか、すべからく、だれでも歳をとることが「老害」の素因になり、「老害」という害悪を巻き散らす犯人と見なされるのです。それを別の表現で言い換えるなら「認知症(dementia)」というレッテル貼りの横行です。社会の風潮がそうじゃないですか。ぼくは今週の金曜日に、運転免許証更新のための「高齢者講習」を受講します。とにかく社会全体から「老人は免許返納せよ」と急かされるし、少しの違反でも「嫌がらせの講習の義務付け」を課しているよう。警察庁(国家公安委員会)自体が「老害退治」に乗り出している気がします。交通違反はよくないし、まして「老害種族」による交通事故は大事故になるとされる。多発するブレーキとアクセルの踏み間違いは困りものですが、よくよく考えれば、それは車自体の欠陥(クラッチ版をなくしたことが主因)じゃないんですかと問いたい。また、いい若い者が血相を変えて「老人は集団自殺を」とほざく。こんな不躾な発言の主をして「若害・中害」と、なぜ言わないのか、と八つ当たりしても無意味ですね。

 大会社が左前になったり、市場から退場を余儀なくされるのは、何も「老害」のせいばかりではないでしょう。いくつになっても「引き際」を自覚しない輩は「権力亡者」であって、それをして老人の陥る「症例」などと安易に言ってもらいたくないね。たった一人の「権力亡者」を防げない集団の側にこそ問題があるんじゃないですか。(政治の問題なら、投票する有権者にも相応の欠陥があるということ)誰それの存在を「老害」と蔑む姿勢や態度こそ、社会(集団)の病み具合を示す指標になっていないでしょうか。誰もが、生きている一日一日を初めて経験しているのです。年寄りを侮蔑する気配・雰囲気があること自体、その集団(社会)は病んでいるといえます。もちろん、「老人」自身も、しっかりと「自分は衰えた」という自覚を持っていたいね。(この嫌な風潮の「ハシリ」は、あるいは「シルバーシート」「優先席」なるものを設けたところ辺りにあるとぼくは考えている。「特別扱い」という名の「ある種の排除」に繋がっていたんですから)

 80代の老人が20代の若者と同じように早く走れないのは恥ずかしいことではないと思い知ることこそが、「亀の甲より年の劫」なんだ。(「《「劫」はきわめて長い時間。「甲」と「劫」と音が通じるところからいう》長年の経験が貴重であるということ。亀の甲より年の功」デジタル大辞泉)

 「やがてくる、赤子戻りも年の劫」(無骨)「老害は消え去るのみと老者言い」(無骨)「老害こそ世に憚りたい高齢社会」(無骨)

~~~~~~~~~~~~

 *ただ今の室温29.0℃、湿度80%。不快指数=81.3(体感:暑くて汗が出る)(午前9時)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII