食を足し、兵を足し、民之を信にす

◎ 週の初めに愚考する(八拾弐)~ まるで梅雨末期のような天気図の描かれ方を見ていて、実は、今が本当の梅雨の終わりではなかったか、「梅雨明け宣言」は気象庁の勇み足(早とちり)ではなかったかとついつい思ってしまう。九州各地の集中的豪雨(線状降水帯)の次々の発生・襲来に、打つ手があるとは思われないまま、ひたすら豪雨の止むのを待つばかり、あるいは危険な暑さが再来しないことを祈るばかりという、実に不本意なお盆前の旬日を送っています。「勇み足(rashness)」「早とちり(hasty conclusions)」といえば、全国紙と準全国紙の二紙が、とても恥ずかしい「誤報(misinformation)」を流しました。Y紙(7月23日に号外を)とM紙(7月23・24日)は、早々と「首相退陣へ」と大々的な半鐘(大鐘)を鳴らしたのです。その結果はどうなったか。

 「早鐘」連打から2週間以上経過しても「退陣」の様子は見えないのはどうしたことか。「祈る!退陣」「退陣祈願!」という願望や期待を、いかにも確信ありげに、はっきりした証拠(本人への取材をしたうえで)も上げない、予想記事は、これをフェイク( 偽物)という。それなら、ぼくだって書けるさ。大・中新聞が時代の悪流行や悪弊に染まって(動かされて)ニセ情報を出したのだから、その間違いについて一言あって当然ですね。ところが、「一言、お詫び・訂正があった」という話がないのは、まだ誤報の続きの中で記事を書き新聞を売っているということです。確かに、遠からず首相は辞めるのだから、「退陣へ」と書くのは間違いではないとでも強弁するつもりか。腐った根性とはこのことを言う。「総裁選前倒し」を連呼している連中は、何十年という時間をかけて、選挙民や国民の顔に唾を吐きかけてきた輩ではなかったか。裏金議員などと言われる盲者だったり、派閥解消を申し合わせたにも関わらす、「我が派は解散などはせん」と口を歪めて規則破りを宣言するなど、恐れ入るばかりの魑魅魍魎たち(Demons and monsters)。

 要するに、政治を遊び(遊戯)ごとにし児戯にまで貶めた面々、民衆を食い物にしてきた「政治家の風上にも置けない」輩たちだといっておきたい。高知新聞のコラム「小社会」が異なことを書かれている。絶えず少数派閥を率いる政治姿勢はバルカン諸国に準(なぞ)えられて「バルカン政治家」と綽名された三木氏。(バルカン諸国には通常アルバニア、ボスニア・ヘルツェゴビナ、ブルガリア、クロアチア、コソボ、北マケドニア、モンテネグロ、ルーマニア、セルビア、ギリシャ、そしてスロベニアが含まれるとされる小国ゆえの国家運営の厳しさを、この国の政党内における小派閥領袖の悲哀をこめて読み替えてつけられた「バルカン政治家」。その三木武夫氏は、別名「クリーン三木」とも称されたが、果たしてどうだったか。

 今日の「バルカン政治家」は現首相こそお似合いだとみるとどうなるか。派閥を結成するも大きく育たず、結局は解消したり再結成したりのケジメめのなさ。党の内外から「辞めろコール」と叩かれる始末だが、本当に叩かれているのだろうか。自党の瓦解作用は積年の金権政治のとどのつまり、それが選挙に現れただけのこと。「総裁選」をするのもいいが、「総理大臣」はどうする、という戦略も持たないで、騒ぐだけの茶番劇、それをお膳立てしているのは派閥固持政治家と裏金盲者たちなんだから説得力もあったものではないでしょう。何度も言うように、ぼくは現首相を応援などしていないし、政権与党も大嫌いです。だから、「コップの中の争い」大いに結構だといいたいほど。どんどんやりなはれと、無責任な岡目八目に徹している。そうこうしている間に手垢で汚れ、あちこちにひびが入っている「(自民党なる)コップが割れる」のは、時間の問題、不可避です。

 コップには酒か水でも入っているのならまだしも、薄汚れた政治家連中だけがごちゃごちゃなんだから、ジュリーのように「勝ってしやがれ」です。「壁際に寝がえりうって 背中できいている やっぱりお前は 出て行くんだな」「悪いことばかりじゃないと 想い出かき集め 鞄につめこむ気配がしてる」「行ったきりなら しあわせになるがいい 戻る気になりゃ いつでもおいでよ」(これを「腐れ縁」といい、「合従連衡」というらしい)

 ところが、この割れかけているコップのなかに新聞社が入り込んでのてんやわんやなのだから、さあ、お立会い。報道する側が、自らの社運を賭けて、石破下ろしに加担するという前代未聞(見もん)です。新聞は落ち目と言われて幾久しいが、落ち目どころではないでしょう。落ち目とは「下り坂」にかかっているということ。しかし、この政党は「落ち目」ではなく「落(堕)ちた(sunset)」ですよ。散々、たらふく「税を食いつぶし」「公金を私し」、その挙句に「堕ちた」「落ちた」「墜ちた」です。それに新聞社が、何を血迷ったか、頭から飛び込むのだから「見下げたもんだよ、ブンヤの気質(瓦版屋)」というべきでしょう。

【小社会】信なくば立たず お隣、徳島出身の三木武夫元首相には家庭での口癖があったそうだ。「いったん玄関に入ったら、威厳は全部君にあげる。僕は威厳はいらないよ」。そう言われた睦子夫人は、夫にもはっきり意見を言う「肝っ玉夫人」のあだ名がついた。◇自民党内の政局といえば、「三木降ろし」が名を残す。ロッキード事件が発覚した1976年。徹底解明を誓った「クリーン三木」に、「はしゃぎすぎ」「惻隠(そくいん)の情がない」と党内から猛反発が起きた。◇睦子さんは夫の没後も憤りが収まらなかったようだ。著書「毎日あきれることばかり」には、三木氏が金権政治に終止符を打つための改革案を用意していたと書く。「そんなことをされたら困る人たちが大勢いたのです」◇別の逸話も過去の本紙にある。テレビの討論番組。CMに入ると、睦子さんは後に首相になる政治家に食ってかかった。「政治改革なんて、きれいごとばっかり言って。あなた、三木降ろしみたいなことやったでしょう」◇自民党の「石破降ろし」も外堀が埋まってきたようだ。両院議員総会では総裁選の前倒しを検討することに。ただ、降ろす側に「裏金議員」が目立つのはいまだに釈然としない。石破首相も商品券配布で染みついた金権体質をさらし、決して「クリーン」ではないが。◇家の外の三木氏は、「信なくば立たず」を座右の銘とした。半世紀を経ても自民党は同じ言葉に直面しているように映る。(高知新聞・2025/08/10)
 子貢問政。子曰、足食、足兵、民信之矣。子貢曰、必不得已而去、於斯三者何先。曰、去兵。子貢曰、必不得已而去、於斯二者何先。曰、去食。自古皆有死。民無信不立。
(「子貢政を問う。子曰わく、食を足し、兵を足し、民之を信にす。子貢曰わく、必ず已むを得ずして去らば、斯の三者に於て何れをか先にせん。曰わく、兵を去らん。子貢曰わく、必ず已むを得ずして去らば、斯の二者に於て何れをか先にせん。曰わく、食を去らん。古自り皆死有り。民信無くんば立たず。
(「論語」顔淵第十二07)(参考 WEB漢文大系:https://kanbun.info/keibu/rongo1207.html)

 さて、ここからが主題です。「信なくば立たず」だって。どいうことですか? 出典は「論語」の「顔淵第十二」です。上に引いた元の文章を見てください。解釈も解説も不要でしょう。弟子の子貢が先生に尋ねました(この弟子は現実の政治家でもあった)。「政治の要諦は何ですか」と。「食を足らし、兵を足らし」、食料も軍備も十分にして「民之を信にす」、庶民が安心して暮らせるようにすることだと。さらに訊ねた、「食・兵・信」の三者で、どうしても残すべきものはどれでしょうか、と。「論語古義」の中で伊藤仁斎さんは「言うこころは食は人の天、食無ければ則ち死す。然れども死は人の必ず有る所なり。信無ければ則ち人道立たず。故に食は去る可くして、信は去る可からざるなり」と捉えました。

 もう一人の儒者だった荻生徂徠さんはどうだったか。「民之を信ずとは、民其の民の父母たるを信じて疑わざるを言うなり。食を足し兵を足すに由りて之を信ずるに非ず。然れども食を足し兵を足すに非ざれば、則ち民も亦た之を信ぜず。故に食を足し兵を足すは前に在るのみ。……民の父母たるは、仁なり。上(かみ)仁にして民之を信ず。是れ之を信ずるは民に在り。故に民信ずること無くんば立たずと曰う」(「論語徴」)と解した。少し理屈が勝った理解のようでもありますが、ぼくにはとても面白く受け取れるのです。その昔、もう半世紀も前に若い人といっしょに,上記二著を仲立ちにして「論語」を熟読したことを懐かしく思い出します。

 政治に「信」という「道徳価値」が失われて、どれほど経ちましたか。しばしば都合よく間違えて「民 信なくば立たず」と馬鹿が口にします。「民衆の信頼が失われれば、政治家としては立たない」と、だってさ。本当にそう思うなら、ほとんどの政治家は「立ちなさんな」「立てないだろうよ」といわれるべきでしょう。「民の父母たるは、仁なり。上(かみ)仁にして民之を信ず」というのは徂徠さんです。「仁義礼智信」の五常の、最上・最良のものが「仁」、すなわち「他者を思いやる心」というもの。そもそもが政治家自身、あるいは政治行為そのものに「仁」が備わらなければ、どうして「人道」が興るでしょうか、と徂徠は言うのです。端的明快に言うなら、「民信なくば立たず」とは、「社会」に仁が横溢していなければ、人間関係は滅ぶでしょう。「信なければ即ち人道立たず」とは、まさしく、ぼくたちの生きている社会の今の今の、殺伐とした状況を言い当てているのではないでしょうか。嘘で塗り固めた「政治虚偽信条」をばらまいていて、果たして「人道」「道義」が無事であるでしょうか、と。「義理が廃れば この世は闇だ」という、その「闇の世」が今だというのですが、そう思われませんか。

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● こう‐し【孔子】[前552~前479]= 中国、春秋時代の学者・思想家。魯の陬邑(すうゆう)(山東省曲阜)に生まれる。名は丘(きゅう)。字(あざな)は仲尼(ちゅうじ)。諡(おくりな)は文宣王。早くから才徳をもって知られ、壮年になって魯に仕えたが、のち官を辞して諸国を遍歴し、十数年間諸侯に仁の道を説いて回った。晩年再び魯に帰ってからは弟子の教育に専心。後世、儒教の祖として尊敬され、日本の文化にも古くから大きな影響を与えた。弟子の編纂(へんさん)になる言行録「論語」がある。くじ。(デジタル大辞泉) ● しこう【子貢】[前520ころ~?]= 中国、春秋時代の人。孔子十哲の一人。衛(河南省)の人。姓は端木、名は賜。弁舌に巧みで、諸国を巡遊して政策を授け、魯と衛の宰相となった。貨殖の才でも知られる。(デジタル大辞泉)

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己が骨くずれゆくさまは目に見えねど

 現首相の広島原爆記念式典における「あいさつ(挨拶)」を聴きました。いろいろな評価があるのは当然で、だから、今回のものも例に漏れません。しかし、直近3人の歴代総理大臣のものとは根底において異なっていた、とぼくは思う。誰が書かれたものか知りませんが、そこに書かれている言葉を、首相は自分の心の裡にある思想(姿勢)として読まれたと思う。こんなことが評価されること自体、きわめて恥ずかしい限り。しかし、事実は事実、歴代の首相は役職柄からおざなりの「挨拶」はするにはするが、心ここにあらずという為体(ていたらく)、他人の書いた文章を読み下す、だから漢字が読めない「事件」も起こるのでしょう。恥ずかしい限り。ぼくは現首相を持ち上げているのではありません。他が屑だから、それに比べれば…、というだけのこと。(ヘッダー写真:毎日新聞・https://mainichi.jp/tpnw/

 しかし、「核兵器」「核戦争」に関しては何かと御託は並べたが、「核兵器禁止条約」に関しては片言隻語(へんげんせきご)も触れるところはなかったというお粗末さ。漫言(まんげん)を費やして心情を吐露したかに見えて、「核兵器禁止」には「腫れ物に触る」体であった事実は前例踏襲だったから、残念だけれども「日本国の総理大臣というのはこの程度のもの」と吐き捨てるほかないのです。原爆投下の惨(むご)さをいか程語ろうとも、「『核戦争のない世界』、そして『核兵器のない世界』の実現に向け、全力で取り組んでまいります」と型通りの文言を連ねてなお、多くの批判が出るのは当然のこと、「核兵器禁止条約」の即刻参加(調印)は無理としても、せめて締約国会議には「オブザーバー参加を」という多くの人々の悲願さえも無視してしまうのはなぜか。

 それもこれも、「宗主国」の御意向には逆らえないということでしょう。恥ずかしい限り。アメリカの軛(くびき)から一ミリでも二ミリでも外れることをこそ自らの使命にしていたのではなかったか。「おかしいことはおかしいとはっきり言う」と繰り返し口にしていたのではなかったか。と、それを、いまここで言ってはおしまいだとわかっているのだが。米国の尻馬には乗るけれど、その威光に盾突けないという現状認識を世界に白状したのですから、罪作りな総理、とぼくは言いたいですね。もちろん、「ないものねだり」はしないし、現状追認しか道が残されていない、それも知悉しているつもり。だから、情けなさは人一倍感じてしまうのです。

 (本日は長崎にての「記念式典」です。これまで三代の総理大臣は「広島版のコピペ」だと言われました。恥ずかしい限りだけれど、役目上のお座なりが習い症(性)なっている、それが被爆された方々の精神を踏みにじっていることに些かの感受性もないのです。中には「一ページを読み飛ばしても」気が付かない愚者もいました。別人の葬儀で「同一・同内容の弔辞」読む神経というもの、それは神経ですらないでしょう。この上なく、恥ずかしいこと。恥ずかしいこと、この上なし、ですぜ。現首相もまた…)

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【あのころ】長崎に原爆投下 7万4千人が死亡 1945(昭和20)年8月9日、午前11時2分、米軍が長崎市に原子爆弾を投下した。松山町の上空500メートルで爆発し、熱線や爆風、放射線を浴びた人々約7万4千人が同年末までに死亡した。広島市に続いての非人道的な核兵器の使用で今なお健康被害に苦しむ被爆者は多い。惨状は3カ月を経た11月の撮影。(共同通信・2011年08月09日 08時02分)(右ー写真も)

【金口木舌】学生の頃、市民が社会や政治を変えることなんて「できない」と悲観していた。為政者や権力者が牛耳っていて、市民なんて無力な存在だと▼その考えは変わった。沖縄県は広島県が主導して核兵器廃絶を目指す国際団体「グローバル・アライアンス」への加入手続きを進めている。長崎県も加入しており行政が中心に思えるが、24カ国の36団体、67個人が参加する▼ノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の広島県組織もその一つ。戦争、核兵器使用で犠牲になるのは多くの一般市民だ。核兵器廃絶を求める声に押され、国際社会も変化しつつあるように思える▼今日で長崎に原爆が投下されて80年。平和祈念式典で長崎市長が読み上げる長崎平和宣言は被爆者や若者ら市民も参画する起草委員会による議論を経て作成された。「地球市民」との理念を打ち出し、核兵器廃絶の決意を表明する▼一方、日本は被爆国でありながら核兵器禁止条約を批准せず、7月の参院選では「核武装が最も安上がり」と発言した参政党の候補が当選。政治には期待できない。変革のため、希望を託せるのは市民だ。(琉球新報・2025/08/09)

【明窓】風化させない怒り きょうは長崎原爆の日 4月に熊本市内であった水俣病の講演会。地元のジャーナリスト高峰武さんは、水俣病の捉え方について切り出した。海に流した工場排水に含まれたメチル水銀が入った魚を食べたことで起きた、川で例えれば上流から下流へと汚染された事件と解されているが「違うと思う」と。「家族団らんの夕餉(ゆうげ)の魚が侵された、命の根源である食卓に起きた事件だということを考えたい」と訴えた。◇この言葉に、作家の林京子さん(1930~2017年)の長崎での被爆体験を基にした小説『祭りの場』を思い出した。「松山町の破壊された街を眺めたとき、私はフイゴを吹く老人を想(おも)い浮(うか)べた。七輪で鰯(いわし)を焼く家族の団らんを想い浮べた」「破壊も平和も私の場合家族にしかつながらない。国家は常に遠い存在だ」。◇松山町は爆心地。学徒動員中の林さんは1・4キロ離れた工場にいた。九死に一生を得たが、結婚や出産、子育てなどさまざまな場面でもたらされる被爆の影響に苦しみ、人類が犯した罪への怒りを小説に書き続けた。◇戦争を始めた国家の犠牲になるのは暮らし、破壊されるのは日常だ。「国家は常に遠い存在」と記した林さんは、文化庁主催の芸術選奨新人賞の内示を「被爆者であるから、国家の賞は受けられない」と辞退したという。◇あらゆる核がもたらす惨劇は今も絶えない。林さんをはじめ、被爆者の怒りを風化させてはならないと強く思う。(衣)(山陰中央新報デジタル・2025/08/09)(左写真も。「祭りの場」が芥川賞に決まり、喜びを語る林京子さん=1975年7月、東京都内のホテル)

 (若いころ、かなり熱心に林さんの作品を読みました。重い万感に籠る、そんな感情に浸されたことを懐かしく、そして悲しく思い出しています。「破壊も平和も私の場合家族にしかつながらない。国家は常に遠い存在だ」「被爆者であるから、国家の賞は受けられない」この時、国家という存在の理不尽さが作家を誕生させたし、その作家は、生涯を貫く「反国家」観を維持し続けたのではなったか。「破壊されるのは日常だ」という、ほとんどの犠牲者の声が林さんお作品の中で嗚咽しているように読んだものでした)

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 広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式挨拶 今から80年前の今日、1発の原子爆弾が炸裂(さくれつ)し、十数万ともいわれる貴い命が失われました。一命をとりとめた方々にも、筆舌に尽くし難い苦難の日々をもたらしました。/内閣総理大臣として、原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊(みたま)に対し、ここに謹んで、哀悼の誠を捧(ささ)げます。そして、今なお被爆の後遺症に苦しんでおられる方々に、心からのお見舞いを申し上げます。
 2年前の9月、広島平和記念資料館を、改装後初めて訪問をいたしました。80年前のあの日、立ち上るきのこ雲の下で何があったのか。焦土となり灰燼(かいじん)に帰した街。黒焦げになった無辜(むこ)の人々。直前まで元気に暮らしておられた方が4,000度の熱線により一瞬にして影となった石。犠牲者の多くは一般市民でした。人々の夢や明るい未来が瞬時に容赦なく奪われたことに言葉を失いました。/広島、長崎にもたらされた惨禍を決して繰り返してはなりません。非核三原則を堅持しながら、「核兵器のない世界」に向けた国際社会の取組を主導することは、唯一の戦争被爆国である我が国の使命であります。/核軍縮を巡(めぐ)る国際社会の分断は深まり、現下の安全保障環境は一層厳しさを増しています。しかし、だからこそ、国際的な核軍縮・不拡散体制の礎である核兵器不拡散条約(NPT)体制の下、「核戦争のない世界」、そして「核兵器のない世界」の実現に向け、全力で取り組んでまいります。/来年のNPT運用検討会議に向けて、対話と協調の精神を最大限発揮するよう、各国に引き続き強く呼びかけてまいります。また、「ヒロシマ・アクション・プラン」に基づき、核兵器保有国と非保有国とが共に取り組むべき具体的措置を見出すべく努力を続けてまいります。


 「核兵器のない世界」の実現に向け歩みを進める上で土台となるのは、被爆の実相に対する正確な理解です。
 長年にわたり核兵器の廃絶や被爆の実相に対する理解の促進に取り組んでこられた日本原水爆被害者団体協議会が、昨年ノーベル平和賞を受賞されたことは、極めて意義深く、改めて敬意を表します。/今、被爆者の方々の平均年齢は86歳を超え、国民の多くは戦争を知らない世代となりました。私は、広島平和記念資料館を訪問した際、この耐え難い経験と記憶を、決して風化させることなく、世代を超えて継承しなければならないと、決意を新たにいたしました。/政府として、世界各国の指導者や若者に対し、広島・長崎への訪問を呼びかけ、実現に繋(つな)げています。資料館の年間入館者は、昨年度初めて200万人を超え、そのうち3割以上は外国からの入館者となりました。日本だけでなく、世界の人々に被爆の実相を伝えていくことも、私たちの責務です。/「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」は、施行から30年を迎えました。原爆症の認定について、できる限り迅速な審査を行うなど、引き続き、高齢化が進む被爆者の方々に寄り添いながら、保健、医療、福祉にわたる総合的な援護施策を進めてまいります。

 結びに、ここ広島において、「核戦争のない世界」、そして「核兵器のない世界」の実現と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことを改めてお誓い申し上げます。原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊の安らかならんこと、併せて、ご遺族、被爆者の皆様並びに参列者、広島市民の皆様のご平安を心より祈念いたします。
 「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」。「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」。公園前の緑地帯にある「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」に刻まれた、歌人・正田篠枝(しょうだ しのえ)さんの歌を、万感の思いを持ってかみしめ、追悼の辞といたします。
                                             令和7年(2025年)8月6日
                                             内閣総理大臣 石破茂
                       (首相官邸:https://www.kantei.go.jp/jp/103/statement/2025/0806hiroshima.html)

◉ 正田 篠枝(ショウダ シノエ)= 昭和期の歌人被爆者。生年明治43(1910)年12月22日 没年昭和40(1965)年6月15日 出生地広島県 学歴〔年〕安芸高女〔昭和3年〕卒 経歴家業は製粉業。昭和20年8月6日の原爆で、爆心地から1キロの自宅で被爆、家は壊れ火傷を負った。小舟で宮島口に逃れた。悲惨極まりない地獄図絵を三十一文学の短歌にまとめ、「さんげ」と題し出版を考えたが、21年夏占領軍の検閲のため許可が取れず、私家版「さんげ」を秘密裡に出した。その後37年に「耳鳴り―原爆歌人の手記」として平凡社から出版された。(20世紀日本人名事典)

・雪の中をずぶ濡れの三吉が訪ね来て死の手術と知らず入院を告げぬ
・己が骨くずれゆくさまは目に見えねど死の恐怖感こころを去らず(正田篠枝)

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赤く蒼く黄色く黒く戦死せり

 「戦争が廊下の奥に立つてゐた」、白泉氏の名を一躍高からしめたこの句、詠まれたのは1939年。戦後は句作から離れて過ごされた。本日は余計な無駄話はしません。「ヒロシマ」「ナガサキ」原爆忌の間の時間、毎年のように、この忌日に、ぼくは思いを新たにし、さらに新たにします。その理由は、知己に被爆された方がいたというのでもなく、ぼく自身が被爆の危機を逃れたからというのでありません。原子爆弾の被害を避け得たのは、偶然の仕業、だから、広島・長崎の被爆犠牲者21万人の中に、ぼくもいたのだと思えてくるのです。戦争は惨(むご)いと、いまさらのように決まりきったことを言うのも憚(はばか)られますが、それだけ、惨たらしい「戦争」をどこか知らない他国と交えてみたい、そうしなければ、この国の沽券にかかわると狂った考えに毒された男も女も、一応に息を巻く、こんな「戦争を知らない(知ろうとしない)子どもたち」が社会の中核になる、わが国情に少しでも思いが至れば、非戦の刻々の永続せんことを、そう思うようになって何十年もが経過します。

 白泉さんのいくつかの句作品と、その句の解説を以下に引用し、ひたすら八十年目の「被爆忌日」に際して、頭(こうべ)を垂れて過ごすばかりです。(ヘッダー写真は、渡辺さんの県立沼津高校「教員時代」のもの)

「電車の中での高校生らしき二人連れの会話。「日本とアメリカって戦争したことがあるんだって」「うそ~、それでどっちが勝ったの?」……つい最近知った実話である。そんな彼等が修学旅行で広島へ長崎へ、遺された悲惨な光景に涙を流す。しかしそれは映画を観て流す涙と同質のものであり、やがて乾き忘れられていくのだ。体験していないというのはそういうことだろう。かくいう私も昭和二十九年生まれ、団塊の闘士世代と共通一次世代のはざま、学生運動すら体験していない。〈白壁の穴より薔薇の国を覗く〉〈立葵列車が黒く掠めゐる〉〈檜葉の根に赤き日のさす冬至哉〉鮮やかな色彩が季題を得て、不思議な感覚で立ち上がってくる白泉の句。しかし掲句にあるのは、燃えさかり、溢れ出し、凍え、渦巻く、たとえようもない慟哭に包まれた光景であり、それは最後に燃え尽きて暗黒の闇となり沈黙するが、読むものには永遠に訴え続ける。前出の会話は、宇多喜代子さんがとある講座で話されていたのだが、その著書『ひとたばの手紙から・戦火を見つめた俳人たち』の中で初めてこの句にふれ、無季だからと素通りすることがどうしてもできなかった。季題の力が、生きとし生けるものすべてに普遍的に訪れる四季に象徴される自然の力だとすれば、その時代には、生きているすべての命にひたすら戦争という免れがたい現実が存在していた。今は亡き、藤松遊子(ゆうし)さんの句を思い出す。〈人も蟻も雀も犬も原爆忌〉『ひとたばの手紙から』(2006・角川学芸出版)所載。(今井肖子)」(増殖する俳句歳時記)

◉渡辺白泉(わたなべ-はくせん)(1913-1969)= 昭和時代の俳人。大正2年3月24日生まれ。慶大在学中から「馬酔木(あしび)」「句と評論」などに投句。昭和12年「風」を創刊。新興俳句運動を推進したが,15年京大俳句弾圧事件で検挙された。戦後は俳壇をはなれて活動した。昭和44年1月30日死去。55歳。東京出身。本名は威徳(たけのり)。遺句集に「白泉句集」。【格言など】戦争が廊下の奥に立つてゐた(「白泉句集」)(デジタル版日本人名大事典+Plus)

◉ 無季俳句(むきはいく)= 俳句用語。季語・季感をもたない俳句のこと。明治末・大正初期の川東癖悟道(かわひがしへきごとう)らによる新傾向俳句、日野草城(そうじょう)らが活躍した昭和初期の新興俳句、金子兜太(とうた)らの第二次世界大戦後の前衛俳句にみられた。その主張は、伝統の季感が現代人の生活感情の表現に不適当とするものであった。多くの同調者を得たが、伝統的立場の水原秋桜子(しゅうおうし)・山口誓子(せいし)らは、これを排斥。新興俳句は当局の弾圧によって中断したが、戦後、桑原武夫の「第二芸術」論をきっかけに無季俳句がふたたび始まった。「見えぬ眼(め)の方(ほう)の眼鏡の玉も拭(ふ)く」(日野草城)など。(日本大百科全書ニッポニカ)                                                                                                                         

・万愚節明けて三鬼の死を報ず  
・鳥篭の中に鳥とぶ青葉かな  
・苗代につるす目のない鴉かな  
・街燈は夜霧にぬれるためにある  
・鶏たちにカンナは見えぬかもしれぬ 
・銃後といふ不思議な町を丘で見た 
・玉音を理解せし者前に出よ
(参照 「渡邉白泉」 Wikipedia)

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「都構想」も「副首都構想」もあかん

 本日は「立秋」、辞書風に言うと、夏の暑さの頂点で、この日以降は初秋の風が香る候、世間では「残暑」というのが慣わしでありました。「ありました」と言ったのは事実に基づいたからであって、これからも酷暑、いや猛暑は続くどこまでもというのが、昨今の状況でもあるからです。47都道府県で、連日史上最高気温のコンテスト(高温比べ)をしているようなもので、何(いず)れ、どこかが不正に温度を高めるということがあるかもしれないですね。気象台の観測はそれなりに一定の基準(条件)があるのでしょうが、それぞれが「手元の温度計」で計測するなら、おそらく、至る所では五十℃越えも珍しくないのではないですか。(ヘッダー写真は「『副首都』の旗降ろすな 万博、うめきたで都市力向上を」日本経済新聞・2020年11月2日)(https://www.nikkei.com/article/DGXMZO65745980S0A101C2LKA000/

 茹(う)だる、茹(ゆだ)るという感じ(感覚)はそのままに、人間社会にも当てはまる事態にあって、連日劣島では一万人超の「熱中症」疑いで搬送される善男善女が引きも切らないという繁忙ぶりです。夏の甲子園では高校野球が朝と夕刻の二部制で開催され、しかも野球狂の少年もまた「熱中症」で倒れたという怖さ。。数日前の横浜花火大会(どうして「大会」と銘打つんですか?)では「待機組」の花火に火が燃え移り、台船上で、自然発火の花火大会が見られたという。花火もまた、酷暑に出番を待ちきれなかったのだ。隅田川の花火大会では、衆愚合わせて95万人の見物客が頭をもたげて、天空の火花ショウに見とれたという。かつて住んでいた千葉県内のS市のある時期の市長選では「花火大会開催の是非」が争点になっていました。財政多端の折、資金不足で中止を余儀なくされて何年が経過しましたか。今日では「クラウドファンディング」なる寄付行為が「衆庶」を中心に人気を集めています。花火も病院建設もすべてが「クラファン」時代。いや、そもそも納税行為こそが、貴重な庶民の健気な「クラファン」ではなかったか。それこそ猫も杓子も「花火」だという、この現象は何処か変ですね。どこかが嬉しいですか、花火なんかで。

 とまあ、こんな埒もないことを書き殴るのも「酷暑」のせいだというつもりはありません。山間僻陬(へきすう)の地でも、遠慮会釈なく「酷暑」は押しかけて、我ら老々夫婦は、この何年間もリモコンを触りもしなかったのに、一昨日から遂にエアコンを「稼働」させました。「涼しいね」などと、一昔前(時代おくれ)の「冷房珍しがり」になりきっています。とにかく「室温28℃」設定で、一息も二息もついている。猫たちも、さすがに毛皮を脱ぐわけにもいかず、終日ぐったり。しかし偉いものですね、どれもこれも「食欲」は一向に衰えていないのですから。そのためもあって、懐は甚く寒く、当方こそが「青息吐息」ではあります。

 どうも極度の暑気あたりか、わけのわからないことを書き殴っています。(ただ今、午前6時半。室温29.9℃、湿度77%)主題は、以下の「日報抄」が触れている、つまりは「一極集中」という小さな国の、江戸時代以来連綿と続く、都市計画中、最大の愚策への憤りと、その愚に染まらないための「緩やかで継続的な都市計画」(田舎の再生論)を放言してみたいのだ。「関係人口」などという怪しげな表現が飛び交いつつあるらしい。初めて聞いたのは、自民党能天気議員が「運のいいことに能登に地震が起こり…」と口走った時でした。その愚漢議員が同時に口にしたのが「関係人口」でした。2拠点というか、1.5拠点というか。ほとんど何事も改善しない悠長な「物見遊山」政治を喧伝したのでした。愚作中の愚策ですな。

 それに引けを取らないのが、「ふるさと納税」でしょうか。これも元首相のない知恵を縛った、著しい悪政の発現でした。「ふるさと納税」というのは極めつけの悪制度だと、ぼくは最初から言い続けている。少しばかり金のある人間をさらに優遇する「ふるさと脱税」の勧奨政策だったと思う。本来の居住地に収めるべき「税」を、縁もゆかりもない「ふるさと」に出資し、おまけに「お土産」までせしめるというのです。詳細は省きますが、入るべき所得税や市民税が、よそに流れて困り果てている自治体があれば、反対に「思わぬクラファン」でホクホクの自治体もあります。間違った制度ですね。

 さて、本題に入るところですが、まだ余話が続きます。大阪府・市域の筆頭政治勢力(政党)が「大阪都構想」、「副首都構想」なるマヤカシを懲りもしないで敢行しようとしています。バカにつける薬はないという例え通り、手に負えないほどの愚人クラブが大阪府・市を牛耳っている不幸・不運を選挙民は考えてほしいですね。「都」とは「ミヤコ」であり、「京(みやこ)」であり「京都(みやこ)」であり、つまりは「天皇の住まい(皇居)のあるところ」を指します。「きょうキャウ【京】 皇居のある土地。みやこ。帝都。首都。また、特に平安時代の都、すなわち京都(現京都市)をいう」(精選版日本国語大辞典)。大阪に御所を作り、天皇遷都宣言をしなければ、「大阪都」にはなれませんで。それでも「大阪都」を名乗り続けるなら、おそらく、世が世なら、「不敬罪」に当たるでしょうな。「ふけい‐ざい【不敬罪】天皇および皇族・神宮・皇陵に対して不敬の行為をする罪。昭和22年(1947)刑法改正で廃止」(デジタル大辞泉)

 大阪府と京都府、これで「副首都」と言えるんじゃないですか。それで不満があるとすれば、なぜかと聞きたい。「名称」などどうでもいいようなものですが、由来歴史があるのですから、平仄(ひょうそく)は合わせた方がいいに決まっている。一都一道二府四十三県、このいれものもいよいよガタがきたのはまちがいありませんから、もう少し実態に即した郡県制なりの構想が考えられてもいいころでしょうが、まあ、答えが出る前に、この国は壊れはしないか、ぼくの直観では、どうも間に合わない気もします。

 大阪府知事の賤しい魂胆は、手短に言うなら「大阪市」の豊富な財政を吸い上げて、第二、第三の「カジノ」を目論んでいるだけの話。「一事不再議の原則」を知事たちは知らないはずもないけれど、それを、大阪府は何度でも試み、どうしても「大阪都」にしたいというのですが、住民投票の前に「宮内庁」に事情を聴いたらどうでしょうか。要するに、「大きいことは好いことだ」という「百年の錯誤」を繰り返そうとしているのでしょう。一極集中はよろしくないから、1.5極集中・2極集中を是が非でも実現したというらしいが、そのメリットは何ですかと問われて、「一度目」「二度目」の住民投票の際にも、まともな答えはありませんでしたな。こうなると、「精神の貧困」は、政治家(屋)の宿痾というほかなさそうですね。

 「マイホームが遠い都会暮らしに見切りを付け、地方移住という選択肢を見いだしてくれないだろうか。本県の不動産相場を東京駅に張りだしてみたくなる。その方が政府の関係人口づくりを待つよりも、地方活性化の早道になる気がする」(日報抄)是非そうしてください。先例は「越後湯沢」のマンション販売(投げ売り)がありました。都内や都心に「アンテナショップ」を作るという発想自体が小さすぎますね。大言壮語宜しく、「自然が一杯」「田圃もたくさん」「野生動物とも共生できます」とセールスに励む方が「天皇を我が府市にお迎えしよう」という空虚なアピールより、よほど現実味があります。「お隣さんまで五百メートル」というキャッチなんかもいいですね。

 一極集中とは、と問うまでもありません。日本の人口が東京都以外、すべての自治体で減少したという。昨年の人口減少は約90万人だったと報じられました。このままでいくと50年後には、おそらく日本の総人口は半減するかもしれませんね。それでも庶民は一極集中歓迎、アホな政治家は副首都構想を掲げ続けるんでしょね。行くところまで行きなはれ、そういうしかあらへんなあ。栄枯盛衰は世の習いです。いつまでも「栄えていたい」というのは無理がありますし、「いつだって衰退しているだけ」というのも不可解です。いろいろな坂がありますけれど、登りと下りがそろって「一丁前の坂」ですね。登りばかり、下りばかりの坂などないんですね。大阪(坂)はどっち?(右上図は「週刊エコノミスト」・2022年1月8日)(https://mainichi.jp/premier/business/articles/20220105/biz/00m/070/003000d

 今現在の、この社会の苦しみは、明治維新この方、ひたすら「坂の上の雲」をシャカリキに追い求めてきたツケでもあるのでしょう。ぼくは身の丈に合った生き方を探し続けてきました。「ほどほど」「分相応」、それがぼくには、心地よい生き方の姿勢だと気づいたのは四十を過ぎたころだったか。でも、遅すぎたとは思わないんですね。気が付いたことに幸運を感じたことでした。国の寸法(図体)だって、同じこと(分相応)が言えませんか。

【日報抄】「関係人口」という用語を聞く機会が増えてきた。その地に暮らす定住人口でなく、観光客のような交流人口でもない。「観光以上移住未満」と例えられたりする▼移り住みはしないが、継続的に地域に通う人々を指すらしい。この関係人口を増やそうと政府は言う。それが地方創生になるという。よその人が入り込むのは面白そうではあるが、地方創生の本筋はあくまで移住だろう▼今こそ移住促進の旗を振るときだ。調査によると、東京23区内の新築マンション1戸当たりの平均価格は1億3千万円に達したという。超高層の上層階の話でなく、全体の平均価格だというから驚くしかない。隣の神奈川県でも1戸7千万円だ▼建設のための人件費が上がり、円安によって資材費も上がり、資産としての人気も相まって首都圏の相場はどんどん上がってしまった。それを購入できる富裕層がいる一方、多くの人にとって新築マンションは高根の花だ▼分譲の購入は人々の選択肢から外れ、賃貸に住み続ける人が増える傾向にある。退去しない人が増えると、出回る賃貸物件は限られてくる。少ないパイの奪い合いが、賃貸の家賃上昇を引き起こす。首都圏に住みたい人にとっては、やるせない連鎖だろう▼マイホームが遠い都会暮らしに見切りを付け、地方移住という選択肢を見いだしてくれないだろうか。本県の不動産相場を東京駅に張りだしてみたくなる。その方が政府の関係人口づくりを待つよりも、地方活性化の早道になる気がする。(新潟日報・2025/08/07)

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「平和利用と抑止力」論の狡知

【日報抄】東宝の前身であるPCL映画製作所では黒澤明と同期だった。「きけ、わだつみの声」など戦争をテーマにいくつもの秀作を残した。国際的な評価が高かった映画監督の関川秀雄は、佐渡市で生まれ育った▼作品の一つに「ひろしま」がある。原爆が落とされた直後の広島を、徹底したリアリズムで描いた。ラストシーンを忘れない。スクリーンの奥から何人もの被爆者が歩み寄る。無言の訴えに胸苦しさを覚えた▼映画は戦後7年の広島市内の高校を舞台に、回想する形で構成された。教室で生徒が発言する。「原爆投下という非人道性を世界に知ってもらいたい。でもまず、日本人に、広島の人に、このクラスの人に知ってほしい」▼終戦から10年もたたない1953年に製作された。既に継承をテーマにしていたことに驚く。そして、もはや驚いてもいられない。自衛隊が台湾有事を想定した日米共同演習で、中国への核による脅しを米軍に再三迫っていた。昨年のことである▼核兵器禁止条約と距離を取る姿勢や核抑止論と根っこはつながっている。「核なき世界」の誓いが空疎に響く。安全保障を巡る各論に分け入れば、核共有や核武装にすら、もっともらしい理が見えてくるのだろう▼議論さえ否定するのは思考停止だと乾いた声も聞こえるが、核の拒絶は国是であるはず。理を解さぬ分からず屋であっても何が悪いか。世界で唯一戦争被爆の惨禍にまみれた国として、終戦から80年となる今も、訴え続けねばならないことがある。(新潟日報デジタルプラス・2025/08/06)

 今では想像もできないことになりましたが、ぼくはこの「ひろしま」を学校で見た記憶があります。いつだったか、詳しい年月日は曖昧になったが、京都の小学校(か中学校)で観た。映画公開は1953年でしたから、公開後まもなくのことだったと思う。画面から受ける印象は、とにかく陰惨なものだった。早い段階で、ぼく自身は「原爆」が齎す災厄の深刻さを身をもって教えられたと考えています。その当時、教科書で原爆投下直後の写真はもちろん、被爆された人々の被害の激しさもまた観ることができました。いつのころからか、原爆被爆関連(被害)の写真は「あまりにも惨(むご)すぎる」ので、「教科書掲載は禁止」となった。奇怪な話です。原爆反対を、教室(学校)で声高に述べてはいけないし、「憲法9条の内容に立ち入って教えるのはダメ」ということにもなった。いわば、教室が「原爆教育」「戦争放棄」(論はタブー)の治外法権地になって行ったのでした。

 どういうことでしょうか。核爆弾の被害は残酷に過ぎるから、それを子どもたちに明らかに示してはいけないという口で、「原発は未来のエネルギー」とばかり、その新増設を含めてさらに推進してゆくのが「国是」になったとまで言う。実に禍々(まがまが)しい限りです。ある時期の朱書は「原発」を輸出することを盛んに使嗾(しそう)していた。実に愚かな人間だったと評したい。原子爆弾と原子力発電は同根・同素、双子の兄弟です。いずれもが原子核の「核分裂」を起こさせることによって所期の目的を達する。核分裂が大都市や民衆の頭上で発生するか、あるいは原子炉格納容器内でのことか、それだけの違い。「核の平和利用」を最初に訴えたのは米大統領・アイゼンハワーでした。(日本原子力開発機構「Atoms for Peace」:https://www.jaea.go.jp/04/iscn/archive/pocketbook/pocketbook02-02.pdf)それを受けて、この国でも原子力平和利用論が持て囃され、核開発の一変形である「原子力発電」設置・普及に繋がります。

 平和利用の背後には「さらなる核開発」を意図していたことは紛れもない事実。2011年3月に発生した福島原発爆発事故発生直後は、原子力(原発)政策は著しく後退を見せたかに思われたが、時間の経過とともに、原発増設機運を盛り上げ、いっそうの電力需要にこたえる方向を強化してきたのが政・官・財でした。AI革新の機運に乗ずるためにも電力の大増強を謡い、新たな原発設置までのめり込んでいます。(米国も同様)原子力の平和利用を最大限に活用しようという魂胆でしょうが、その背景には何があるかを忘れてはならないと思う。この国の政策のおおよそは大国の意向を無視しては決められないのであり、原子力政策はその一大典型です。そして原子力発電所維持は核爆弾研究の一方法であるという点も視野に入れておくべきでしょう。「原子力」開発問題、原子力発電問題は、この国の一存で判断も決定もできないのだということは、この間の経緯を見れば一目瞭然。原爆と原発は「双子の兄弟」です。

◉ 核分裂(かくぶんれつ)nuclear fission=ウランやトリウムなどの重い原子核が,同程度の質量数をもつ2個以上の原子核に分裂する核反応。 1938年 O.ハーンと F.シュトラスマンが発見した。核分裂においては,非常に大きなエネルギーが放出される。代表的な核分裂は,ウランの同位体ウラン 235が熱中性子を捕獲して2個ないし3個の中性子を放出するとともに質量数 96と 140を中心とする2個の原子核に分裂する現象で,このとき2個の原子核の運動エネルギーとして解放されるエネルギーは約 200MeV に達する。放出中性子を他のウラン 235が捕獲すると核分裂が起り,次々に連鎖反応を引起す。この連鎖反応を一時に起すのが原子爆弾であり,制御しつつ進行させるのが原子炉である。核分裂で生成される原子核の多くは放射性で,β崩壊を2回ないし5回続けて安定な原子核となる。熱中性子のほかに低・高エネルギー中性子,重水素核,α粒子,γ線などにより原子番号 73以上の核種で核分裂が起ることがある。また通常の二体分裂の約 0.3%の割合で3個の原子核に分裂する三体分裂,約 0.03%の割合で4個に分裂する四体分裂が起る。粒子照射などによらない自発核分裂も起るが,その確率は一般にきわめて小さい。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 本日は広島における「被爆80年の原爆の日」です。ほんの少し前まで、ぼくはテレビで式典の模様を見ていました。二人の小学6年生が「平和の誓い」を語っていました。優れたメッセージを世界に向けて届けていたと思います。この小学生ほどの「想像力」を持つなら、どれほど未来に明るさを持てることかと、深く感動しました。(ここに、小学生を駆り出すという「演出」に、ぼくは著しい胡散(うさん)臭さを嗅ぐものです。子どもの「平和利用」という、大人たちの「反核」偽装と言えば言葉が過ぎるか)

 「世界では、今もどこかで戦争が起きています。大切な人を失い、生きることに絶望している人々がたくさんいます。その事実を自分のこととして考え、平和について関心をもつこと。多様性を認め、相手のことを理解しようとすること。一人一人が相手の考えに寄り添い、思いやりの心で話し合うことができれば、傷つき、悲しい思いをする人がいなくなるはずです。周りの人たちのために、ほんの少し行動することが、いずれ世界の平和につながるのではないでしょうか」

 改めて、「平和とは何だろうか」と考える。単に「戦争」のない時代、瞬間を言うのでしょうか。恐らく、そうであれば、それはまずありえないことです。「平和とは戦争との戦いのこと」と、ぼくはとらえている。何と奇妙な、と思われるでしょうか。「たとえ一つの声でも、学んだ事実に思いを込めて伝えれば、変化をもたらすことができるはずです。大人だけでなく、こどもである私たちも平和のために行動することができます」そうです、戦争のない状態への行動に参加することで、それは「民主主義」への戦いと同質のものと言えるでしょう。

 「平和」を求める戦い、それこそが「平和に至る」、「平和に連なる」道を歩くことです。「平和」とは「平和への道を歩くこと」です。

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 平和への誓い
いつかはおとずれる、被爆者のいない世界。
同じ過ちを繰り返さないために、多くの人が事実を知る必要があります。
 原子爆弾が投下されたあの日のことを、思い浮かべたことはありますか。昭和20年(1945年)8月6日 午前8時15分。
この広島に人類初の原子爆弾が投下され、一瞬にして当たり前の日常が消えました。誰なのか分からないくらい皮膚がただれた人々。
涙とともに止まらない、絶望の声。
一発の原子爆弾は、多くの命を奪い、人々の人生を変えたのです。
 被爆から80年が経つ今、
本当は辛くて、思い出したくない記憶を伝えてくださる被爆者の方々から、直接話を聞く機会は少なくなっています。
どんなに時が流れても、あの悲劇を風化させず、
記録として被爆者の声を次の世代へ語り継いでいく使命が、私たちにはあります。
 世界では、今もどこかで戦争が起きています。
大切な人を失い、生きることに絶望している人々がたくさんいます。
 その事実を自分のこととして考え、平和について関心をもつこと。
多様性を認め、相手のことを理解しようとすること。
一人一人が相手の考えに寄り添い、思いやりの心で話し合うことができれば、傷つき、悲しい思いをする人がいなくなるはずです。
周りの人たちのために、ほんの少し行動することが、いずれ世界の平和につながるのではないでしょうか。
 One voice.
たとえ一つの声でも、学んだ事実に思いを込めて伝えれば、変化をもたらすことができるはずです。大人だけでなく、こどもである私たちも平和のために行動することができます。
あの日の出来事を、ヒロシマの歴史を、二度と繰り返さないために、
私たちが、被爆者の方々の思いを語り継ぎ、一人一人の声を紡ぎながら、平和を創り上げていきます。
令和7年(2025年)8月6日
こども代表
広島市立皆実小学校6年 関口(せきぐち)千恵璃(ちえり)
広島市立祇園小学校6年 佐々木(ささき)駿(しゅん)(中國新聞・2025/08/06)

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「暑さ寒さも彼岸まで」だって

 本日の共同通信「あのころ」という、ぼくの好きなコラムには「シンザン大往生 史上初の五冠馬」という見出しで、「1996(平成8年)年7月13日、史上初の5冠馬となったシンザンが死んだ。35歳余、人間なら100歳を超しサラブレッドの最長寿記録を更新中だった。東京五輪の64年に戦後初めてクラシック三冠を制し、競馬ブームの先駆けに。19戦15勝2着4回が全成績。牧場のある北海道浦河町で8月5日、追悼式が行われた」(共同通信・2011年07月13日)という古い記事が出ていて、思わずその写真に引き込まれました。亡くなったのが1996年7月13日で、その追悼式が行われたのが8月5日とありました。本日がその記念日ということでしょう。

 ぼくは競馬を含めて賭け事は一切やらない人間。ただ、中学生だったころか、存命中の親父が「競馬」の馬券を買ったことを覚えています。滅多にそんなことをしなかった父だったが、その時は「コダマ」という馬に入れあげたのでしょうか。ここからも、つまらない思い出話になります。その昔、もう半世紀近くになりますが、ひと夏、北海道に遊んだことがある。仙台からフェリーで苫小牧まで行き、車で方々を走り回った。主に、北海道の東南部を走りました。そのついでに、浦川の競走馬の牧場を目指しました。最初に訪れたのが「シンザン(961~1996)」の谷川牧場。次いでその奥にある「鎌田牧場」。実は、この鎌田牧場は、かみさんの従弟(だったか)が経営していたもので、そこには現役を引退していた「コダマ」(1957~1976)が存命だったと思う。競馬を知らないぼくでも、親父の一件と言い、当時の評判から「コダマ」は知っていました。訪問時にはコダマには会えなかったが、その後の競馬界で大活躍することになる仔馬を何頭か見ることができました。

 あまりにも懐かしくなり、起き掛けにネット上でコダマの雄姿を、何十年ぶりかで見ていて、込み上げてくるものがありました。馬体は小さく、とても中央競馬での活躍は期待されていなかったのに、あれよあれよという間もおろか、先行・追い込みと自在に走り、誰かれなくその名を知るようになった馬でしたね。国鉄(当時)の特急「コダマ」(日本初の電車特急「こだま」1958年登場。新幹線開通は1964年秋でしたから、「コダマ」は驚速の電車だった。東京・大阪間が6時間半でした。63年春に上京した時、ぼくは京都から夜行の急行列車に乗り、気分としては半日かかったように覚えています。)に因んで「暁の超特急」という期待だったかもしれません。たった一度の牧場見学でしたが、今はその「鎌田牧場」も当時の面影は消えているでしょうし、もちろん「コダマ」に連なる多くの馬や人も冥界の住人となりました。何かの折に、広すぎる牧場の朝露と夕霧に濡れた日のことを思い起こしたりするときがあります。競馬狂でも鉄道オタクでもない、平凡を絵にかいたような人間の、束の間にみた「夢」に触れました。ここまでは「余談」でした。

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【新生面】40度越え 作り話を書くのは、ジャーナリストの仕事ではない。『百年の孤独』で知られる作家ガルシア・マルケス氏がまだ週刊誌記者だったころ、それをやったことがある▼南米ベネズエラの首都カラカスが渇水に見舞われた。当局は早くから節水を呼びかけているが、市民は意に介していない。とうとう水がなくなり人々は混乱に陥る。脱水症状になったある男が、家の中でもうろうとしていると、外から突然歓声のようなものが聞こえた。大雨が降っていた-という筋書きだ。架空の記事でも、市民に警鐘を鳴らすため掲載したのだろう▼列島各地で渇水が心配されている。熊本市などできのう降った雨はひとときの涼をもたらしてくれた。水を待っている所には恵みの雨である▼この夏、国内で気温が「40度を超えた」という所が目立っている。兵庫県丹波市で先日、観測史上最高の41・2度を記録した。35度以上が珍しくなくなり、気象庁が「猛暑日」を予報用語に加えたのが2007年だった。40度以上の公式な名称はまだない。日本気象協会はとりあえず「酷暑日」と呼んでいる▼40度超えの頻度は「東高西低」で、西日本より東日本での観測が多い。内陸の方が気温が上がりやすいとされ、九州・沖縄でこれまで40度以上を記録した地点はない▼地球沸騰化の影響で海面水温が上昇し、気温40度が珍しくない世界が忍び寄っている。作り話ではない。れっきとした科学者らの予測なのだが、人類が本気で手を打っているように見えないのはなぜだろう。(熊日新聞・2025/08/05)

 ここからも余談は続きます。ぼくに、余談以外、何を語る能力があるというのか。さて、「灼熱地獄」の劣島、卒倒しそうな熱中症騒動です。生きとし生きる物がすべて「熱中症」に罹患しているという記事が方々の新聞に記載されています。つまりは、あまりの酷熱による人間界・動物界・昆虫界・植物界など、森羅万象ことごとくの「異変連鎖」です。いくつかの地方のダムが「貯水率ゼロ」という渇水報道もありました。台風9号がもたらしてくれることを願った降雨も、ほとんどが空振り。本日の気象予報では東北北海道ではかなりの降雨量が期待できるという。渇水に青息吐息の「稲」も「野菜」も一息つけるといいのですが。劣島のどこかで40度を超えたという異様な高温はこれで五日連続です。30℃の気温がなんだか涼しいという、とんでもない錯覚が蔓延しており、身体がその錯覚を受け入れないで、心身のバランスを崩す人が続出していると言う。「気象庁が『猛暑日』を予報用語に加えたのが2007年だった。40度以上の公式な名称はまだない。日本気象協会はとりあえず『酷暑日』と呼んでいる」とコラム氏。夏日・真夏日・猛暑日・酷暑日ときて、さて45℃以上はどう呼ぶのか。そんなことを心配しても始まりませんけれど、恐らく「灼熱地獄」とでも命名されるがいいでしょう。

 カトリックで多用されているのは「煉獄(れんごく)」で、天国と地獄の間にあるとされます。須(すべか)らく小さな罪を犯した人間が行くところです。ラテン語では Purgatoriumという。天国への中間点で、ここで身を清める?、そして「最後の審判」を待ち受ける場ともいわれる。その後に天国へ、ある人たちは行きつくのだ、と。ぼくはキリスト信者ではありませんから、その仔細には興味はありませんけれど、その教えに添うなら、さしずめ劣島の住人は、生きたままで「煉獄」「塗炭」の苦しみを味わっていることになるようです。茹(う)だるような灼熱の責めだとするなら、ぼくたちはまるで石川五右衛門の「釜茹で」に倣わされているかの如くです。誰が言いましたか、「暑さ寒さも彼岸まで」というようです。明後日(7日)は「立秋」で、やがて秋の彼岸がやってきます。

 俚諺の要旨は「残暑のきびしさも秋の彼岸ともなればめっきり衰え、余寒のきびしさも春の彼岸ごろにはいちだんと薄らぐものだの意。暑い寒いも彼岸まで」(精選版日本語大辞典)という習いのように、9月20日から26日までが「秋の彼岸(後の彼岸)」ですから、まだまだたっぷり一カ月半は、茹でられるがままになるのでしょうか。まさに「生き地獄」の苦しみというのも大げさではないと思います。それほどに、人間の振る舞い(経済活動など)は季節の巡りを狂わせ、大気圏の正常な空気の循環を掻きまわし、大海の潮の流れを狂わせてきたのですから、いまさら、「さあ、どうしましょう」と言っても始まるものでもないでしょう。カムチャッカの青年が寝返りを打った瞬間に大地震が発生し、その余波(津波)が太平洋上を駆け巡り、各地に大小の被害をもたらしたところ。極東の小島の少年少女がラジオ体操に駆り出されているその時刻に「南海トラフ」が劣島を襲うというのは「真夏の夜の悪夢」でしょう。でも「ゆめゆめ油断めさるな」と呼ぶ声が聞こえてくるのも確かです。

*「目覚めよと呼ぶ声あり(BWV645)」(Karl Richter BWV 645 Chorale Prelude Wachetauf, ruft uns die Stimme.)(https://www.youtube.com/watch?v=oecATCwOeLE&list=RDoecATCwOeLE&start_radio=1) 

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(参考:南海トラフ地震は、駿河湾から日向灘沖にかけてのプレート境界を震源域として概ね100~150年間隔で繰り返し発生してきた大規模地震です。/科学的に想定される最大クラスの南海トラフ地震(南海トラフ巨大地震)が発生した場合、静岡県から宮崎県にかけての一部では震度7となる可能性があるほか、関東地方から九州地方にかけての太平洋沿岸の広い地域に10mを超える大津波の襲来が想定されています。(気象庁:南海トラフ地震について)(https://www.jma.go.jp/jma/kishou/know/jishin/nteq/index.html)(*「トラフ」とは細長いくぼみのような海底盆地のことで、特に深さが6000メートル以下のものを指す。細長くないものは「海盆」で、6000メートルより深いものを「海溝」と呼ぶ)

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