
◎ 週の初めに愚考する(七拾五)~ 昨日は夏至(げし)で、北半球では一年中でもっとも昼間の時間(日の出から日没まで)が長いとされます。だからどうだと言われても、何も答えられない、それは自然現象の一つでしかないのですが、本年の「夏至」は近年並み以上に猛暑を伴って、高温状態が長く続くという点では、記憶も記録もされるべきではあるのでしょうか。6月半ば過ぎの「梅雨の中休み」というか、梅雨そのものがかき消された感のある猛暑、いや酷暑の襲来で、人間はもちろんのこと野菜や果物、あるいは稲作にまで甚大な影響を及ぼしかねないと報じられもし、そのことを日々実感もしています。

〇 夏至=二十四節季の一。太陽の黄経(こうけい)が90度に達する日をいい、太陽暦で6月21日ごろ。太陽の中心が夏至店を通過し、北半球では昼が最も長く、夜が最も短い日。《季 夏》「白衣著て禰宜 (ねぎ) にもなるや—の杣 (そま) /蛇笏」(デジタル大辞泉)
いつものことで、取り立てて騒ぐ必要もないのですけれど、このところ、近所の方々から、朝夕を問わずに除草する仮払い機の騒音が響き渡っています。拙宅でも、少しずつはしてきましたが、まったく、あらたな草類を成長させるために除草をしているという、当たり前の循環作業に付き合わされ、時間を取られている気がします。本日のコラム「三山春秋」には、その「除草作業」のつれづれが述べられていました。いずこも同じ真夏の昼時、そんな感慨が沸沸と湧いてきます。

「除草に費やす時間や労力、出費はばかにならない。狭い庭でも持て余すのに、田畑を管理する農家の苦労はいかばかりだろう」との実感はその通りで、大変な作業量と出費になるでしょう。年に数回、街道沿いの除草作業を請け負っている企業組織にとって、除草作業はきっときわめて安定的な収入源と見られているでしょう。しかし、その重労働たるや、よくぞ熱中症にかからないものと感心するほどに激しい・厳しい作業を目の当たりにして、当たり前の光景ではあっても、ぼくは頭が下がる。雑草は「弱い植物」とは専門家の高見です。でも「弱いから折れない」とか「柳に雪折れなし」とも言います。ぼくの常套表現に従えば「弱いは強い」であり「強いは弱い」と同義であるのです。弱いものを侮ること、自分は強いと錯覚するものは、そのことで墓穴を掘っていることになりませんか。
【三山春秋】▼雑草の季節が本番を迎えた。わが家の庭も先日除草を終えたばかりなのに、もう生えてきた。道路沿いなど至る所で勢いを増し、会社への道すがら草を刈る人を目にすることが多くなった▼「雑草という名の草はない」。植物学の父、牧野富太郎はそう言ってどんな植物も愛した。ただ研究者でもないわれわれにとって雑草は雑草でしかない。除草に費やす時間や労力、出費はばかにならない。狭い庭でも持て余すのに、田畑を管理する農家の苦労はいかばかりだろう▼「雑草魂」という言葉があるように、踏まれても立ち上がる強いイメージがあるが、本当は「弱い植物」だそうだ。農学博士の稲垣栄洋さんの著書に学んだ▼森を出て人の住む場所を選んだのは、他の植物と争っても勝ち目がないから。過酷な環境下は競争相手が少なく、それぞれの強みを発揮できるためという。踏まれたら、その状態のまま種子を残すことだけに専念している▼確かに、立ち上がらねばならぬと考えているのは人間だけかもしれない。大切なことを見失わぬことこそ、本来の雑草魂だと稲垣さんは指摘する▼逆境に立ち向かわず、弱いなりの戦略で勝つ―。「弱者の美学」とでも言えようか。何かとストレスの多い人の世でも、見習いたい生き方である。それもまた牧野が愛情を注いだ理由なのかもしれない。迷惑でしかないという認識は少々改めねばなるまい。(上毛新聞・2025/06/22)

「踏まれたら、その状態のまま種子を残すことだけに専念している▼確かに、立ち上がらねばならぬと考えているのは人間だけかもしれない。大切なことを見失わぬことこそ、本来の雑草魂だと稲垣さんは指摘する▼逆境に立ち向かわず、弱いなりの戦略で勝つ―。『弱者の美学』とでも言えようか」とコラム氏は感心されますが、「弱いもの」「弱者」を、いささか侮っている風が見えるのは残念です。「弱さの中に強さが」「強さの中に弱さが」併存していることを忘れるべきではないでしょう。でなければ、何万年何百万年もの間、自然界で生きて来れるはずもないのです。世の中で強いと言われている人間は、実は弱いのだというのが、ぼくは嫌になるほど経験で知ってきました。「強がる」人は腐るほどいるけれど、「弱がる人」はまずいない。本音で生きているか、装うことはいらない、そんなことをしても仕方がないからからです。

何度か触れたことがあります。世界中でもっとも権力のある存在だとされる「米大統領」、現職はトランプという人ですが、彼はもともと実に弱々しい人間だったし、それがだんだんと強くなったとぼくには思われない。強くありたい・なりたいと願っているからこそ、大統領を目指したし、それは現実になった。しかし、生来の「弱さ(feebleness・frailty)」は消えていないといいたいですね。彼ほど「強がる(bluff)」「とんがる」ことをむき出しにする人間は珍しいでしょう。弱いことは恥ずべきだ、そんな妄念を抱く人間はかなりいるにちがいない。だから、持ち物や肩書や学歴や出自や家柄や、収入や、その他何でもいい、人より優れていると思われるものを必死で身に着けるのでしょうし、その人間たちの弱みに付け込むさまざまな「虚業」があるのが世間です。その第一は「学校・学校教育」だというのが、このコラムの一貫した主張です。同じ学歴なら、「強がれる学歴」「評価される学校歴」を求める人は驚くほど多い。「雑草の美学」「弱者の美学」を正直に実践することはとても困難なんでしょうね。
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本日は、もう一本のコラムについて言及したかったのですが、時間とともに気温が上がり続けて、少しばかり休憩したくなりましたので、紹介だけにしておきます。それに関する駄文は、いずれかの機会に。「冷やし中華」を食べなくなって、何年にもなりますなあ。(表題句は正岡子規作。我が荒れ庭にも何本もの「タチアオイ」がいさぎよく咲き競っています)
・冷やし中華富士の形を崩しかね(武藤勝代) ・寄る年波冷やし中華食いそびれ(飯野無骨)
【小社会】冷やし中華 暑くなると、食は冷たい麺に求めたくなる。水でしめた中華麺に千切りのキュウリ、錦糸卵、ハムにトマト。「冷やし中華始めました」。町の中華料理店の張り紙は日本の夏の風物詩でもある。❖冷やし中華の発祥には諸説がある。「オムライスの秘密 メロンパンの謎」(澁川祐子著)がとるのは1937(昭和12)年、仙台説。中華屋さんの店主が集まり、熱いラーメンの売り上げが減る夏にも集客できる麺料理の開発に取り組んだ。❖のどごしのよい食感を生むには、ゆであがった麺を素早くしめなければならない。中国では、冷たい麺は一般的ではない。可能にしたのは「おいしい水に恵まれた日本の風土があってこそだった」。❖ところで、昨今はやりの「町中華」。生き残る個人店には理由があるそうだ。ライターの北尾トロさん著「夕陽(ゆうひ)に赤い町中華」によると、早くて安い、居心地や店主の人柄がよい…。それを認める地元の常連客が支える。家族経営でコストを節減。閉店するのは「店主の高齢化と後継者不足に尽きる」。❖実は高知市の最寄りの商店街で4月末、町中華の店が閉店した。高齢のおやじさんが鍋を振り、安くて温かい店。張り紙に「建物取り壊しのため」とあった。思えば同じ商店街では近年、一軒また一軒と…。感謝と寂しさが入り交じる。❖令和のコメ騒動だけではない。人口減に高齢化。何となく食の選択肢に不安を覚える夏である。(高知新聞・2025/06/22)
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