
【有明抄】会話の相手は? 若い頃赴任した多久・小城支局は一人支局。一人は誰にも気兼ねすることなく自由だが、原稿に行き詰まった時は話し相手が欲しくなる◆人は一人では生きていけない。この春、進学や就職、転勤などで家族と離れ、一人暮らしを始めた人は何気ない会話のありがたさを感じているのではないだろうか。話しかけた言葉に答えが返ってこないと気づいた時、人は喪失感に襲われる◆対話型生成AI(人工知能)のチャットGPTに「チャッティ」などと名前をつけ、会話を楽しむ人が増えているという話を耳にした。新聞製作でも講演の要約などAIの活用範囲が広がってきた◆そんな時代の流れに筆者は乗り損ねている。「サラっと一句!わたしの川柳コンクール」で目に留まった「AIの使い方聞くAIに」のレベルだ。AIはくだらないと思うような質問にも真剣に答えてくれるそうだ。考えてみれば、正解を求めて人と会話するわけではない。欲しいのはあいづちや「共感」の言葉◆きのう、佐賀県を含む西日本で梅雨が明けた。「ずいぶん早いね」「そうだね、暑いね」。チャットGPTならこう続けそう。「このまま確定すれば史上最速の梅雨明けだよ」。そんなうまい答えは返せなくても、せめて聞く姿勢だけは負けないようにしたい。自分が欲しいものは相手もきっと欲しいもの。(義)(佐賀新聞・2025/06/28)(ヘッダー写真「2024年に死刑を執行した国は15カ国と、過去最少を記録した。画像はマレーシア・クアラルンプール市内のシンガポール大使館前で、「死刑を廃止せよ」などと書かれたプラカードを手に死刑制度に抗議する人々」BBC・2025/04/09)(https://www.bbc.com/japanese/articles/c77nnrlp1rgo)

本コラムの主旨は何処にあるのだろうか。ぼくにはよくわからない。どんな人も「会話の相手」を求めているというのでしょうか。それとも、…。ぼくはこれまでに一定期間、たった一人で生活した経験はある。4~5年になるだろうか。それこそ、誰とも話さないで、たった一人で一日を過ごすことが多かった。まして繁華な街の中ではなく、滅多に人も来ないような僻地での生活でした。その際に、「話しかけた言葉に答えが返ってこないと気づいた時、人は喪失感に襲われる」とコラム氏は言われる。自分の他に誰もいないのを知っていて、人は話しかけるのかどうか。何に向かって、話しかけるのか。淋しいとか悲しいという感情は誰にもある。でも、そうではなく「喪失感に襲われる」と言われると、ぼくはどきりとする。どんな事柄においても、人それぞれで、多くの時間を一人で過ごしたい人もいるだろうし、そうではなく、常に賑やかな笑い声や話し声の中で過ごしたいと思う人もいるでしょう。
でもどうですか、どんな人でも、人が疎ましくなることもあれば、人恋しい時もあるのではないですか。相手がだれであれ、何であれ、話す相手になってくれる存在を求めているのなら、犬でも猫でも亀でも昆虫でも。あるいは小鳥や小動物だって、十分に相づちを打ってくれるでしょう。ぼくには未経験ですから、勝手なことは言えないが、今どきのことですから、「チャッティ」であることも大いにあるでしょう。外国では室内で育てている観葉植物なども、家族の一員と見為して暮らす人もいます。おふくろが元気だったこと、美しい花を咲かせてくれた植木に向かって「おおきに、ありがとう」と言葉をかけて、お礼肥えを施していたことを覚えている。

「人は一人では生きていけない」とは、どういう場面を想定しておられるのだろうか。わざわざ、そんなことを言わなくてもそうであるに決まっているではないかと言いたくなりますね。生まれたばかりの赤ん坊は三日も放置されれば、生きるのは難しいでしょう。「生きる」ということなら、誰彼の世話やおかげを被(こうむ)って暮らすことを指すのでしょう。目の前に、あるいは自分の隣に確かにいるとは限らない、不特定の他人の働き・支えでぼくたちは生きているのですから、「一人では生きていけない」とことさらに指摘するのもどうかと思う。問題は、自分の頭で考え、自分の足で立つこと、そんな力を育てることをこそ、成長するというのであって、そんな「生きるための能力」を抑圧・阻害しないことをぼくたちは十分に注意する必要があるのでしょう。

自分の無能を棚に上げて、コラム氏の記事に「いちゃもん」をつけているのかもしれないし、そうでないのかもしれません。二度三度読んでも、コラム氏の視点・主旨がぼくにはよく捉えられないもどかしさを、そのままの感情で駄文にしたら、こんな出鱈目な成り行きになったという次第。あえて「人は一人では生きて行けない」と断るまでもなく、たくさんの人々(その多くは赤の他人)によって支えられ、見守られているということを、少しでも感じることができるなら、それでひとまずは、何とか生きていけるんじゃないですか。
「生の充実」というようなことは、不満や不平があってこその対価であるとぼくは感じている。その昔、作家の正宗白鳥さんは、逢う人毎に「つまらん、つまらん、この世は、つまらんことばかりだ」と言っていたそうです。それを聞いて、彼をとても尊敬していた文学者は、「口ではああいっているけれど、正宗さん、実はもっといい世の中に、もっとましなことがある世の中にと、それを念じているんだ」と、正宗白鳥さんの真意を知って驚嘆したと言っていた。「だめだ、だめだ」という口癖は「だめでないものがあるはず」と言うに等しい、そんな苦言や文句を口にできるようになりたいもの。周りや近くに親しい人間がいなければ、直ちに「チャッティ」に飛びつくのもいいけれど、ね。
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…… 人はみなたつきのかたにいそしむを
われが上にも
よきいとなみのあれかしと
かくは願ひ
わが泪ひとりぬぐはれぬ
今は世に
おしなべて
いちじるしきものなく――(「冬の日」三好達治「測量船」所収)
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