今は世におしなべていちじるしきもの

【有明抄】会話の相手は? 若い頃赴任した多久・小城支局は一人支局。一人は誰にも気兼ねすることなく自由だが、原稿に行き詰まった時は話し相手が欲しくなる◆人は一人では生きていけない。この春、進学や就職、転勤などで家族と離れ、一人暮らしを始めた人は何気ない会話のありがたさを感じているのではないだろうか。話しかけた言葉に答えが返ってこないと気づいた時、人は喪失感に襲われる◆対話型生成AI(人工知能)のチャットGPTに「チャッティ」などと名前をつけ、会話を楽しむ人が増えているという話を耳にした。新聞製作でも講演の要約などAIの活用範囲が広がってきた◆そんな時代の流れに筆者は乗り損ねている。「サラっと一句!わたしの川柳コンクール」で目に留まった「AIの使い方聞くAIに」のレベルだ。AIはくだらないと思うような質問にも真剣に答えてくれるそうだ。考えてみれば、正解を求めて人と会話するわけではない。欲しいのはあいづちや「共感」の言葉◆きのう、佐賀県を含む西日本で梅雨が明けた。「ずいぶん早いね」「そうだね、暑いね」。チャットGPTならこう続けそう。「このまま確定すれば史上最速の梅雨明けだよ」。そんなうまい答えは返せなくても、せめて聞く姿勢だけは負けないようにしたい。自分が欲しいものは相手もきっと欲しいもの。(義)(佐賀新聞・2025/06/28)(ヘッダー写真「2024年に死刑を執行した国は15カ国と、過去最少を記録した。画像はマレーシア・クアラルンプール市内のシンガポール大使館前で、「死刑を廃止せよ」などと書かれたプラカードを手に死刑制度に抗議する人々」BBC・2025/04/09)(https://www.bbc.com/japanese/articles/c77nnrlp1rgo

 本コラムの主旨は何処にあるのだろうか。ぼくにはよくわからない。どんな人も「会話の相手」を求めているというのでしょうか。それとも、…。ぼくはこれまでに一定期間、たった一人で生活した経験はある。4~5年になるだろうか。それこそ、誰とも話さないで、たった一人で一日を過ごすことが多かった。まして繁華な街の中ではなく、滅多に人も来ないような僻地での生活でした。その際に、「話しかけた言葉に答えが返ってこないと気づいた時、人は喪失感に襲われる」とコラム氏は言われる。自分の他に誰もいないのを知っていて、人は話しかけるのかどうか。何に向かって、話しかけるのか。淋しいとか悲しいという感情は誰にもある。でも、そうではなく「喪失感に襲われる」と言われると、ぼくはどきりとする。どんな事柄においても、人それぞれで、多くの時間を一人で過ごしたい人もいるだろうし、そうではなく、常に賑やかな笑い声や話し声の中で過ごしたいと思う人もいるでしょう。

 でもどうですか、どんな人でも、人が疎ましくなることもあれば、人恋しい時もあるのではないですか。相手がだれであれ、何であれ、話す相手になってくれる存在を求めているのなら、犬でも猫でも亀でも昆虫でも。あるいは小鳥や小動物だって、十分に相づちを打ってくれるでしょう。ぼくには未経験ですから、勝手なことは言えないが、今どきのことですから、「チャッティ」であることも大いにあるでしょう。外国では室内で育てている観葉植物なども、家族の一員と見為して暮らす人もいます。おふくろが元気だったこと、美しい花を咲かせてくれた植木に向かって「おおきに、ありがとう」と言葉をかけて、お礼肥えを施していたことを覚えている。

 「人は一人では生きていけない」とは、どういう場面を想定しておられるのだろうか。わざわざ、そんなことを言わなくてもそうであるに決まっているではないかと言いたくなりますね。生まれたばかりの赤ん坊は三日も放置されれば、生きるのは難しいでしょう。「生きる」ということなら、誰彼の世話やおかげを被(こうむ)って暮らすことを指すのでしょう。目の前に、あるいは自分の隣に確かにいるとは限らない、不特定の他人の働き・支えでぼくたちは生きているのですから、「一人では生きていけない」とことさらに指摘するのもどうかと思う。問題は、自分の頭で考え、自分の足で立つこと、そんな力を育てることをこそ、成長するというのであって、そんな「生きるための能力」を抑圧・阻害しないことをぼくたちは十分に注意する必要があるのでしょう。

 自分の無能を棚に上げて、コラム氏の記事に「いちゃもん」をつけているのかもしれないし、そうでないのかもしれません。二度三度読んでも、コラム氏の視点・主旨がぼくにはよく捉えられないもどかしさを、そのままの感情で駄文にしたら、こんな出鱈目な成り行きになったという次第。あえて「人は一人では生きて行けない」と断るまでもなく、たくさんの人々(その多くは赤の他人)によって支えられ、見守られているということを、少しでも感じることができるなら、それでひとまずは、何とか生きていけるんじゃないですか。

 「生の充実」というようなことは、不満や不平があってこその対価であるとぼくは感じている。その昔、作家の正宗白鳥さんは、逢う人毎に「つまらん、つまらん、この世は、つまらんことばかりだ」と言っていたそうです。それを聞いて、彼をとても尊敬していた文学者は、「口ではああいっているけれど、正宗さん、実はもっといい世の中に、もっとましなことがある世の中にと、それを念じているんだ」と、正宗白鳥さんの真意を知って驚嘆したと言っていた。「だめだ、だめだ」という口癖は「だめでないものがあるはず」と言うに等しい、そんな苦言や文句を口にできるようになりたいもの。周りや近くに親しい人間がいなければ、直ちに「チャッティ」に飛びつくのもいいけれど、ね。

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……                                                                    人はみなたつきのかたにいそしむを
われが上にも
よきいとなみのあれかしと
かくは願ひ
わが泪ひとりぬぐはれぬ

今は世に
おしなべて
いちじるしきものなく
――(「冬の日」三好達治「測量船」所収)

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泣く児と地頭には勝てぬ、だって

 どうか、何が何でも「平和賞」を差し上げてください、とぼくが依頼する筋はないけれど、こんなに欲しがっているのですから、あまり焦らすのはよくないとは思う。「ノーベル平和賞」受賞のためなら、「戦争も辞さない」という物欲しさの衝動は狂気そのもの。取り合わなければ、今以上に世界の秩序をいたずらに乱すのは請け合いだから、そのためにもノーベル委員会は、決断するべきではないですか。「一時的にも平和になる」という意味での「ノーベル平和賞」ですよ。できれば、ネタニヤフにもハメネイにも。加えて、「侵略」終了の期待を込めて、プーチンにもゼレンスキーにも授けられますように。集団授与。もちろん、その受賞・授賞は間違い(過ち、失敗)だったという事例には事欠かないのですから、それに一名、二名(一例)が加わったところで、平和賞の看板に傷がつくものでもないでしょう。「平和」というのは「戦争」と背中合わせ。生まれはいっしょの双生児です。戦争大好き人間が受賞することもあれば、平和心底愛好人間が受賞することもあります。そこで、どちら(だれ)の「平和賞受(授)賞」が理にも、情にもかなっているか、それを判断するのは正常な知恵の持ち主(「後世の歴史」ということ)です。(それにしても、EUの首脳たちも「同じ穴の狢」なんだな。挙って「TACO」にゴマすり)政治家と名の付くものは、すべからく「狢(むじな)」の類なんだね)

 何の分野であれ、さまざまな名誉や賞賛を伴う「褒章」「褒美」に事欠きません。そこには「やりたい人よりほしい人」が圧倒的に多数いるからでしょう。須(すべか)らくと言うと誤解されそうですが、あえて言いますと、「褒章というのは宝籤みたいなもの」で、中(あた)りはあるけれどきわめて少数、いわば運や不運が必ず付きまとうもの。そしていつだって「心清き人」が受賞するとは限らないし、悪人だって機会に恵まれるもの。それこそ、「宝籤(たからくじ)」のごとしでしょ。善悪、美醜混合なんだ。「ノーベル…」だって、変わりはないですよ。

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*「地頭じとうにはてぬ=聞き分けのない子や横暴な地頭とは、道理で争っても勝ち目はない。道理の通じない相手には、黙って従うしかない」(デジタル大辞泉)

*「泣く子と地頭には勝てぬ 道理の通じない子供や権力者とは、争ってもどうにもならない。[使用例] 泣く子と地頭にゃ勝てないというが、将棋界は、スポンサーである新聞社には勝てません。組織の一員にすぎない私が、どんなにわめき立ててみても、しょせんはゴマメの歯ぎしりです[升田幸三*名人に香車を引いた男|1980][解説] 「泣く子」と「地頭」が並列され、いずれも手に負えないものですが、主眼は後者にあります。江戸時代の「地頭」は、幕府や各藩が家臣に与えた知行(領地)の領主のことで、地域の徴税や司法に強い権限を持ち、「地頭に法なし」ともいわれました」(ことわざを知る辞典)

【小社会】平和観を映す 世界で最も名誉な賞といえば、真っ先にノーベル賞が浮かぶ。中でも平和賞は特別な存在といっていい。平和の実現は人類の共通の課題。運動家だけでなく佐藤栄作元首相やオバマ元米大統領ら為政者も受賞してきた。❖それだけ紛争があふれている証しだろう。政治の影響も大きい。ジャーナリストの池上彰さんは平和賞の歴史は「20世紀から21世紀にかけての現代史そのもの」だと指摘する(著書「ノーベル平和賞で世の中がわかる」)。❖歴史に名を残したいのだろう。トランプ米大統領が平和賞に執着している。先日も記者団に「平和賞を私に与えるべきだ」。イスラエルとイランの停戦合意も自分が「戦争を終結させた」と誇示する。❖世界の紛争解決にトランプ氏が前向きなのは否定しない。ただイスラエルに加勢してイランを攻撃し、武力で停戦を迫ったのもトランプ氏。攻撃は第2次大戦での日本への原爆投下と「本質的に同じことだ」とも正当化した。戦争が終われば、非人道的手段も許されるという価値観なのか。❖平和賞には過去、授与は判断ミスと評されている受賞者がいる。逆に、インドの非暴力の政治指導者ガンジーのように授与されず、悔やまれた例も。やはり時代の影響を感じる。❖さて、トランプ流「力による平和」は称賛に値する手法なのか否か。ウクライナやガザの戦闘も続く中、これも現代の平和観を映す鏡になりそうだ。(高知新聞・2025/06/27)

パキスタン、トランプ氏をノーベル平和賞に推薦 印パ停戦仲介で[イスラマバード 21日 ロイター] – パキスタンは21日、先月のインドとの停戦を仲介した功績を称え、トランプ米大統領をノーベル平和賞に推薦すると発表した。/パキスタンとインドは、係争地カシミール地方のインド側で4月下旬に発生した観光客襲撃事件をきっかけに攻撃の応酬となった。核保有国同士の交戦に国際社会で核戦争への懸念が高まったが、トランプ氏は5月10日、両国が「完全かつ即時の停戦」に合意したと表明した。/パキスタン政府は「トランプ大統領は、パキスタンとインド双方に外交的に強固に関与し、偉大な戦略的先見性と卓越した政治手腕を発揮し、急速に悪化していた状況を緩和した」とし、「その介入は、彼が真の紛争仲裁者であることの証だ」とした。/ノーベル平和賞は各国政府が推薦できる。米政府からの反応は今のところない。インド政府報道官はコメント要請に応じていない。(ロイター・2025年6月22日)

トランプ氏、ノーベル平和賞に選ばれないことに不満たらたら 功績主張【6月21日 AFP】ドナルド・トランプ米大統領は20日、首都ワシントンで交渉が行われたコンゴ民主共和国(旧ザイール)とルワンダの和平合意を自らの手柄とし、さまざまな功績を挙げているにもかかわらず、ノーベル平和賞を受賞できないと不満をこぼした。/紛争中のコンゴとルワンダは18日、共同声明を発表し、コンゴ東部の紛争終結に向けた合意に仮調印したと発表した。正式署名は来週、米首都ワシントンで行われる予定だ。/トランプ氏は自身のSNS「トゥルース・ソーシャル」で「きょうはアフリカにとって素晴らしい日だ。そして率直に言って、世界にとって素晴らしい日だ!」と述べ、この進展を認めた。/だが、トランプ氏の勝ち誇った口調は暗くなり、インドとパキスタンの紛争やセルビアとコソボの紛争でも仲介役を務めたにもかかわらず、ノーベル平和賞の受賞者を選考するノルウェー・ノーベル委員会に功績を見落とされていると不満を漏らした。(↴)

トランプ氏は、エジプトとエチオピアの間の「平和維持」と、イスラエルと複数のアラブ諸国の国交正常化を目指す「アブラハム合意」の仲介についても、自らの功績だと主張した。/トランプ氏は2024年大統領選で、自身を「調停者」と位置づけ、交渉術を使ってウクライナおよびパレスチナ自治区ガザ地区での紛争を迅速に終結させてみせると豪語していたが、就任から5か月が経過した今も、両紛争は依然として激化している。/トランプ氏は長年にわたり、議員を含む自身の支持者からノーベル平和賞の候補者に何度も推薦されているが、受賞できていない。/この名誉ある賞を逃したことへのいら立ちを隠そうとすらしておらず、2月にはイスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相との大統領執務室での会談でもこの話題に触れた。/バラク・オバマ元米大統領は2009年の就任直後にこの賞を受賞したが、トランプ氏は2024年大統領選の選挙戦中、オバマ氏はこの栄誉に値しないと不満をこぼしていた。(c)AFP(2025/06/21)

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ノーベル平和賞【ノーベルへいわしょう】=ノーベル賞の一つ。ノーベル賞を創設したアルフレッド・ノーベルは,他の科学三賞と経済賞とは異なり,授与主体をスウェーデンではなくノルウェーに託した。したがって,選考はノルウェー・ノーベル委員会が行い,授与式もオスロ市庁舎で開催される。ノーベルの遺言の趣旨は平和への貢献にあるが,平和の概念自体が幅広くかつ歴史的,政治的に変化せざるを得ないため,ノーベル平和賞は,しばしば国際政治や外交問題の論争点にもなってきた。今日ではさらに,人権擁護,民主化運動,民族独立運動から環境保全まで,賞の対象とする分野は大幅に拡大しているため,政治的迫害を受けているか,受賞を機にさらに迫害が強まる可能性すら考慮に入れざるを得ない場合がある(1991年のアウンサン・スーチー,2010年の劉 暁波)。また特定の国内政治状況に,受賞を機に国際世論が介入することになる可能性もあり,受賞は常に国際的な議論を呼んでいる。2011年は,エレン・サーリーフ(リベリア大統領),リーマー・ボウィー,タワック・カルマンの三人の女性が受賞,話題となった。2012年は,EU(ヨーロッパ連合)が受賞。欧州の和解と平和への貢献が受賞理由だが,ユーロ危機,欧州債務問題が深刻化するなか,受賞は政治的に過ぎるという批判も出された。2013年は,OPCW(化学兵器禁止機関)が受賞。これまでにも赤十字国際委員会(1944年),国連難民高等弁務官事務所(1954年,1981年),国境なき医師団(1999年)など,国際機関や組織の受賞もある。2014年は女性が教育を受ける権利を訴え続けた17歳のマララ・ユスフザイ(パキスタン),子供の権利の活動家カイラシュ・サティーアーティ(インド)が受賞。(百科事典マイペディア)

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自分を知ること。教育は競争じゃない

【明窓】「◎○△」がもたらす気付き 自分を評価する際、ありのままを肯定的に認める「自己肯定感」という言葉が広く浸透したのは2000年ごろとされる。日本の若者は外国に比べて低いとされ、いつの間にか教育現場を中心に高めねばならないとの圧力が強まっている。❖こちらも自己肯定感を高める取り組みの一環という。岐阜県美濃市の小学校が1、2年生の通知表を廃止する。「◎○△」の3段階評価をやめ、代わりに文章で所見を書いた修了証を手渡す。総合教育会議で「児童が丸の数だけを数えて他人と比較し、自己肯定感が下がるのでは」といった指摘があったという。❖背景には、1年生が学校生活になじめない「小1プロブレム」がある。そこに評価が加われば、劣等感を覚えて不適合を起こしかねない。そんな子を一人でもなくしたい事情がある。一方で成長には「比較」が伴う。他人と比べたり、過去の自分と比較したりして初めて分かる気付きは少なくない。❖心理学者の榎本博明さんは「自己肯定感が低いのは悪いのか」と疑問を投げかける。褒めそやし、自己肯定感を促す教育は、今の自分を超えようともがく機会を失うと危ぶむ。❖日本人は「自分はまだ未熟だ」と謙遜の文化に身を置き、自己を高めてきた。良い意味での劣等感は幼い頃から体験させるべきだろう。通知表に子どもの魅力は閉じ込められないが、「◎○△」の記号がもたらすメリットは計り知れない。(玉)(山陰中央新報・2025/06/25)

 「文部科学省によると、通知表に法的根拠はなく、作成の主体は校長先生、様式や内容もすべて校長先生の裁量となっています。そして「保護者に対して子どもの学習指導の状況を連絡し、家庭の理解や協力を求める目的で作成。法的な根拠はなし」とされており、「文部科学省の関与なし」と定められています」(中略)

▽「評定(数字)」は必要だけど、その子の生活態度やクラス内でどのような存在か、というような「評価」は不要なのではないか、と正直思う。どうしても先入観や主観が入ってしまうし、それを文字に残すのは正直怖いです。だとしたら、面談など口頭で伝えられる時に詳しく話す方がいい。通知表は評定だけでいいんじゃないか、と思います。(公立小学校教員・Mさん)

▽実は、私の勤める学校(公立)でも通知表をなくしてはどうか、という意見が少数ですが出ています。まだ少数派とはいえ、私としては不安です。今の世の中、競争や順位付け、あるいは「何かに秀でていないと劣等感を持たせることになる」という風潮がありますが、やはり通知表はその学期にどのくらい頑張ったか、ここはもうちょっとなどの先生からのメッセージでもあり、数字や評価はモチベーションにつながることも多いです。もし通知表に不満があったり、「ちょっとここは」と疑問に思った保護者(あるいは子ども本人)が気軽に意見を言える雰囲気になっていけばいいな、と思います。理想論ですが…。(公立小学校教員・Hさん)」(まいどなニュース/BRAVA編集部・2022/07/13)

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 通知表には決まった形式や内容もなく、それぞれの学校が独自の判断で作成したり、しなかったりできるもの。しかし、この社会の「横並び」や「全体主義」の風潮からすれば、なかなか「独自性」を発揮することは困難なのでしょう。五段階評価でも、その基準や根拠は何かと問われたら、多くの人を納得させる理由を示すことはむずかしいでしょう。

 にも関わらず、ほとんどの学校ではすべての児童・生徒に「成績通知表」なるものを記録・作成し、子どもを通して親にその内容を示してきました。コラム氏が書かれている「自己肯定感」とはどんなものか、ぼくはこの言葉が好きではないし、あまり使った記憶がない。簡単に言うなら「自己評価」ということではないかと思うが、誰が何と言おうと、「自分は自分」という自己認識がある、それを「自己評価」というのでしょうが、残念ながら、ほとんどの場合は「他者評価」が、そっくりそのまま「自己評価」に居座っているという、情けない事態になっているようにぼくには思われる。

 「算数」の点数がいいから、自分は算数ができる、だから算数が好きなのだという、どこか腑に落ちない根拠らしいものが自己評価、あるいは自己肯定感にはあるのではないでしょうか。学校教育は、殊に他者による評価を求めさせる傾向が極めて高いと言えます。学校の役割は、どの子がどれくらい成績がいいか悪いかを明らかにする「成績判定」を担う機関とされてきました。学校の成績が悪ければ、社会的には劣等児(者)という刻印を押される。まことに嫌な風潮だけれど、学校の役割の基本の部分に「成績判定機能」があるのです。「学校で習った知識」には権威があるという錯覚が蔓延していないでしょうか。

 この「評価」問題にかんしては何度かこの駄文録で触れてきました。だから、繰り返すことはしない。問題の核心は、子どもであれ、大人であれ、「自分はどれほどのものか」という自己評価を何よりも大切なものとして、自分を把握する力を育ててほしいということ、それに尽きます。自分が足りない、ここがよくないところという「自己評価」があればこそ、それを矯(た)める必要性を認めるでしょうし、そのような自己訓練のために必要なものとして、競争や他人との比較も、時にはあるでしょう。肝要なのは、問題の順番を捉え損なわないことです。何よりも「優劣」を明らかにするために試験をしたり、競争させることが、教育の別名になるような、悍(おぞ)ましい事態を学校全体が放置・受任してきたことを忘れるべきではないでしょう。校長になるのも、級長になるのも、試験の成績順だというような風潮をこそ、ぼくたちは蹴飛ばさねばならないのだ。

 親について、一言。学校教師が作成した「通知表」を見なければ、自分の子どもの「現在」がわからないのは、親としてどうですか、と言いたいね。そんなもの(通知表)があっても、それに抗(あらが)って、子どもの成長力(可能性)を明らかなものとして掴んでいてほしいものだ。親の仕事は、子どもの力を曲げないこと、つまりは伸ばすこと、それに尽きる。そのための学校教育であり、教育の通知表であって、あくまでもそれは参考資料(意見)でしかないのですから。通知表や成績評価表の結果がどれ程不確かなものか、信憑性において怪しいものだったか、並みいる高学歴の所有者の言動・挙措を見れば一目瞭然としませんか。

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「すべての動物は平等である」

【金口木舌】羊のままでいられない 122年前の今日、1人の作家が生まれた。ジョージ・オーウェル。代表作は全体主義の恐怖を描いた「1984年」▼「動物農場」では、農場の動物たちが人間支配を脱するために革命を起こすが、指導者の豚「ナポレオン」は独裁者に転じてしまう。モデルはソ連の独裁者スターリン。ソ連崩壊から久しい今も作品は説得力を持つ▼仮想敵を作り出し、ルールを都合よく改変する独裁豚の醜悪さと同時に、教え込まれたお題目をわめきちらし、重要な議論をうやむやにしてしまう羊たちの姿が印象に残る。まるで戦前戦中の世論と、それを先導した新聞のようだ▼スペイン内戦で粛清の恐怖を目にしたオーウェルは後年、ウクライナ語版序文に書いた。「全体主義のプロパガンダがどれほど簡単に民主主義国家の進歩的な人々の意見をコントロールできるか、私に教えてくれた」▼個人の自由や権利を制限し、国家の利益を絶対視する考え方は世界にはびこった。その結末が第2次世界大戦となり、国のために一つの県を捨て石にした沖縄戦だ。愚行を繰り返さないために、思考停止の羊のままではいられない。(琉球新報・2025/06/25)

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◉ 動物農場(どうぶつのうじょう)Animal Farm= イギリスの作家ジョージ・オーウェルの寓話(ぐうわ)小説。1945年刊。ある農場の動物たちが、老種豚メイジャーにそそのかされて、農場主の圧制に反乱を起こし、人間の搾取のない「すべての動物が平等な」理想社会を建設する。しかし豚たちが指導者になり、そのなかでも力のあったスノーボールを、ひそかに犬たちを攻撃用に育てていた指導者の豚ナポレオンが追い払ってからは、動物たちは昔よりひどい条件で酷使され、やがて人間との取引も復活し、この社会のために涙ぐましい奮闘をしてきた馬のボクサーも働けなくなるとと畜用に人間に売られ、ついには豚と人間は外見さえも見分けがつかなくなる。権力とスターリニズムへの激しい風刺小説。(日本大百科全書)

● オーウェル(おーうぇる)George Orwell(1903―1950)= イギリスの小説家、批評家。本名エリック・ブレア。税関吏の息子としてインドに生まれ、8歳で帰国。授業料減額で寄宿学校に入り、奨学金でイートン校を卒業したが、大学に進まずにただちにビルマ(ミャンマー)の警察官となり、植民地の実態を経験。その贖罪(しょくざい)意識もあって自らパリ、ロンドンで窮乏生活に身を投じたのち、教師、書店員などをしながら自伝的ルポルタージュ『パリ、ロンドン零落記』(1933)や、植民地制度がもたらす良心的白人の破滅を描いた『ビルマの日々』(1934)などを発表。このころから社会主義者となり、「左翼ブッククラブ」のために失業炭鉱地域のルポルタージュ『ウィガン波止場への道』(1937)を書いた。1936年からスペイン内戦に共和側として参加したが負傷。『カタロニア讃歌(さんか)』(1938)はここで行われた激しい内部闘争の実態の報告、糾弾の書である。(⇙)

 第二次世界大戦中はBBCで極東宣伝放送を担当した。戦争中にすでに同盟国ソ連のスターリン体制を鋭く戯画化した動物寓話(ぐうわ)『動物農場』を執筆、戦争直後の1945年に出版、一躍ベストセラー作家となった。この年妻を失い、彼自身も宿痾(しゅくあ)の肺結核が悪化してロンドンの病院に入院し、ここで、言語、思考までを含めた人間のすべての生活が全体主義に支配された世界を描いた未来小説『一九八四年』(1949)を完成した。この最後の2作は現代社会の全体主義的傾向を批判、風刺した文学として重要なものであるが、その根にあるものはきわめてイギリス的で良識的な思想伝統である。彼はまた時代の問題と先鋭に格闘した優れたエッセイストであり、とくにスペイン内戦以後は、反全体主義的ではあるが単なる保守主義に堕さない柔軟かつ強靭(きょうじん)な立場から、数多くの優れた評論を精力的に発表した。これらの大部分は死後四巻本の評論集にまとめられている。(日本大百科全書)

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 「すべての動物は平等である」

 「独裁者がいなくて、みんなでそこそこ幸せにやっていくことができるようにするには、どうしたらいいのか。それにたいする人類の最大の賭けが、社会主義だったんですよ。十九世紀にヨーロッパのなかで育てられて二十世紀にかけて実験した結果、見事に敗北したんです。楽園は地上にはないんです。
 ぼくは、楽園というのは、幼年時代にしかないと思います。幼年時代の記憶に、楽園はあるんだと。楽園をつくろうという運動はいつもあるけど、かならず挫折するのはそれなんです。だから、「この世は楽園じゃない」ということで生きるしかないんです。ただ、それではあまりにしんどいから、バーチャルなもので気をまぎらわせながら生きる方法を人類は編み出したんですよね。                                                            

 だけど、そこには、「パラダイスは地球とその周辺にはない」という現実認識がいるんです。一九七〇年くらいに、スウェーデンの経済相が日本にきて短い講演をしたんですよ。ぼくはそれをテレビで見ていて、ひどく胸を打たれたんですけど、「パラダイスは地球とその周辺にはありません。それを認識したうえで、国家のできること、国家の役割を考えなければいけません」と。そのリアリズムに感心しました。リアリズムを失うと、国家はとんでもないまちがいをやる。日本の軍閥政治の数十年間のまちがいは、リアリズムを失ったのが原因です。


 ヨーロッパが社会主義に絶望したのは、一九三六年、スペイン内戦のときです。スペイン内戦では、社会主義者だけではなく、無政府主義者も、民主主義者も、いろんな勢力が人民戦線に集まったわけですね。そのときにソ連に裏切られたというのが、ジョージ・オーウェルの大きな体験だったわけです。裏切られた革命というかたちで『カタロニア讃歌』を書いた。ソ連の実態を知るにつけ、多くの進歩的な青年たちは、社会主義に挫折していきました。
 それでも、なんとかして民主的な社会主義がありえないかというのは、戦後、イタリアやフランスに残っていた共産主義者たちを支えていたものなんです。結局、たどりついたのはEU(欧州連合。European Union)です。それは社会主義者がつくったものではないけれども、ヨーロッパが生き延びるとしたらEUしかない。


 民主的な社会主義はつくれるのか。つくれるとしたら、グローバリズムとは正反対のところにあるとぼくは思います。それは地産地消(地域生産地域消費の略。その土地で生産されたものをその地域で消費すること)です。スローフード、スローライフのような波は、くりかえしくりかえし、おこりますけど、そのあらわれなんですよ。
 人間の欲望はコントロールしないといけないんです。人間の欲望を増大していっていいんだという考え方は、地球が有限であるということがわかった瞬間から、変わるはずなんですよ」(宮崎駿・インタビュー)(https://www.ghibli-museum.jp/animal/neppu/

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 宮崎監督の意見は極めて穏当なもので、反論したい気が起りません。でも、…。そこには、絶望しながら希望を持つような、希望をもっていて、なお絶望する、そんな無理無体な姿勢があるように、ぼくには思われます。「パラダイスは地球とその周辺にはない」というある政治家の発言に、ぼくは大いに賛意を示したい。もちろん、いい社会を作りたいという願望は、ぼくも、誰よりもとは言わないけれど、とても強く持っている。ずいぶん昔に読んだ「動物農場」、それはいかにも寓話ですが、この寓話のように人間の創り出す「歴史」や「政治」は、いわば頂点から下り坂を降下しているんでしょうね。「坂を上る物語」ではなく、「坂を下る物語」です。上等から下等へ、上品から下品へ。

 若いころ、熱心に読んだルッソオという人の考えの根底に「反楽園思想」があったと思っていました。人間は「神の手によって平等なものとして生まれた」けれど、「人間の手(社会)によって不平等にさせられた」という意味です。時代を降れば降るほど、人間の堕落、人間集団の頽廃はひどくなる、そんな歴史観をルッソオは描こうとしたのではなかったか。言うまでも亡く、彼には教育論があった(「エミール」)が。一人の人間の歴史も、一つの集団の歩みも、高みを目指して落下している、そんな矛盾を感じさせます。「動物農場」では、豚や犬や羊が、截然と分離されているのではないんですね。時には「羊が豚に」なりつつ、農場(社会)そのものを檻のような息苦しい組織に変えていく、もちろん犬だって豚にもなれれば、羊にだってなりえる。この「階級」「身分制」の移動の自由こそが、デモクラシーであり、その究極が社会主義だと、ぼくたちは錯覚していたのでしょうか。

 ぼくは今でもよく覚えているが、昭和三九年三月、当時の東京大学の大河内一男総長は、卒業式のあいさつで「昔J.S.ミルは『肥つた豚になるよりは痩せたソクラテスになりたい』と言つたことがあります」と述べた。新聞報道で大きく扱われたので、今なお、ぼくはその言葉を忘れていない。当時、ぼくはその発言の趣旨はよく理解できなかったが、後年、そのもとになったJ.S.ミルの「功利主義論」に当たり、該当部分を何度も読んだし、少しは理解できたように思ったことがあります。”It better to be a human being dissatisfied than a pig satisfied; better to be Socrates dissatisfied than a fool satisfied.” (「満足した豚であるより、不満足な人間であるほうがよい。満足した馬鹿であるより、不満足なソクラテスであるほうがよい。」(関義彦訳,世界の名著38,中央公論社,1967)とあるのだ。

 無条件に現状肯定するのはどうか、むしろ、今の社会には何かと問題があるということを、「自らの思考や行動で感知しなければなるまい」、そんな風に受け取ってきたのでした。豚は豚であり、ソクラテスはソクラテスである、それはいつまでも変わらない。あまりいい事例ではないようにも読めますが、どうでしょう。「満足した豚」の典型が為政者であったらどうでしょう。その多くは、世の中をよりよくしようという意欲も展望も企図も持ち得ないでしょう。現実の問題個所に目を伏せない、満足し得ない、「痩せたソクラテス」なら、自分の置かれた現状をどうとらえるでしょうか。政治を変えることで、社会を変えようとするのでしょうか。そうかもしれないし、そうでないかもしれません。どこまで行ってもソクラテスはソクラテスです。これは残念なことかどうか。ぼくたちの生きている時代に、「痩せた(満足しない)ソクラテス」はいないのではない。それ以上に「太った(満足した)豚」が多すぎるのです。あっちにもこっちにも。そうは感じられないでしょうか。

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朽木不可雕也。糞土之牆、不可杇也

米国によるイラン攻撃「正当化できず」 プーチン氏【6月23日 AFP】ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は23日、米国によるイランへの空爆について「全くのいわれなき侵略であり、正当化できない」と強く非難した。モスクワを訪問したイランのアッバス・アラグチ外相との会談の中で述べた。/プーチン氏は「これはイランに対する完全に無差別な侵略行為だ。われわれはイラン国民への支援に努めている」と強調した。/またロシア大統領府のドミトリー・ペスコフ報道官は同日、空爆により中東地域の緊張が再び高まっていると指摘。「こうした行為を非難するとともに、深い遺憾の意を表明する」と述べた。/米国は週末、イスラエルとの衝突が続くイランの核施設などに対して大規模な空爆を実施した。(c)AFP(AFP・2025/06/23)

「宰予晝寝。子曰、朽木、不可雕也。糞土之牆、不可朽也。於予與何誅。子曰、始吾於人也、聴其言而信其行。今吾於人也。聴其言而觀其行。於予與改是。」(さいひるぬ。いわく、きゅうぼくからず。ふんしょうは、からず。いてかなんめん。いわく、はじわれひとけるや、げんきておこないをしんぜり。いまわれひとけるや、げんきておこないをる。いてかれをあらたむ。)(「論語 公冶長第五ー九)

 あまり美しい表現ではありませんけれど、ここでは、その適切さにおいては避けて通れないこともあります。ロシア大統領がアメリカ大統領のイラン空爆(侵略)をして、「全くのいわれなき侵略であり、正当化できない」と非難したという、まるで冗談のような報道が出ました。「これはイランに対する完全に無差別な侵略行為だ。われわれはイラン国民への支援に努めている」と自分のことを言い当てるような論評でしたな。汚らしい諺(ことわざ)で「目糞鼻糞を笑う」と言います。「汚い目やにが、鼻くそを汚いと言って笑う。自分の欠点には気がつかないで、他人のことをあざ笑うたとえ」(デジタル大辞泉)というそうだ。この際、どちらが目糞でどちらが鼻糞かは問わない。PがTをあざ笑ったんだからPは目糞、Tは鼻糞なのだろうが、汚い(人間の屑のような)点では「五十歩百歩」だろうよ。

 「戦闘の際に50歩逃げた者が100歩逃げた者を臆病だと笑ったが、逃げたことには変わりはないという「孟子」梁恵王上の寓話から》少しの違いはあっても、本質的には同じであるということ。似たり寄ったり」(デジタル大辞泉)今日生きるぼくたちの不幸は、目糞が鼻糞を笑う、あるいは臆病者同士が「お前はより遠く逃げたではないか」と、互いを罵り合うという、そんな程度の輩が「世界の覇権」を握っていると自他を錯誤させているところにあるのだと思う。

 「論語 公冶長(こうやちょう」」の大意は、宰予(さいよ)という、孔子の門弟が昼寝をしているの見て、先生は言われた。腐った木(朽木)には彫刻はできないし、糞交じりの土(糞土之牆)では「上塗りをすることはできない」お前(宰予)を責めてもどうなるものでもないさと、言われた。自分(孔子)は、「始吾於人也、聴其言而信其行」(これまでは、人の言う言葉を聞いて、その人間の行いを信じたものだった)けれど、それは間違っていた。これからは「吾於人也。聴其言而觀其行」(人の言うことと行うことを二つながらによく知って、信じることにするだろう)「於予與改是」(宰予の一件から、これまでも姿勢を改めることにした)。孔子ともあろう人が、こんな程度で、自身の姿勢や態度を改めるんですかね。

 「論語」のこの部分は、後の世の創作とされる。細かいことは省略して、「目糞鼻糞(目糞が鼻糞を、なんと汚い奴だという)」とか、「五十歩百歩(敵に恐れをなして「五十歩逃げたもの」が、「百歩逃げたもの」に対して、「なんという弱虫・卑怯者」と詰(なじ)ったというお粗末を、現下の地球上の為政者に見せつけられて、凡人・庶民はただ泣いているばかりではない、「鼓腹撃壌」を希求するばかり。「鼓腹とは、文字通りに腹づつみを打つこと。世の中がよく治まり十分に食べることができて、何の不平不満もないこと」(デジタル大辞泉)をさし、その元は、どこかで何度も触れている「十八史略 五帝」に求めることができます。

 〇鼓腹撃壌(こふくげきじょう)=善い政治が行われ、人民が平和で不満のない生活を楽しむ様子。または、世の中が平和なことのたとえ。「鼓腹」は食べるものが十分にあり、満腹になった腹を楽器のように打ち鳴らすこと。「壌」は土や地面のことで、「撃壌」は地面をたたいて拍子をとること。
中国古代の伝説の聖天子尭帝は、世の中がうまく治まっているか気になり町の様子を見に行った。そこで、一人の老人が満腹になった腹を打ち鳴らし、地面を踏んで拍子をとりながら「世の中は平和で天子はいてもいなくても変わらない」という意味の歌を歌っていた。それを聞いた尭帝は、人民が政治を行うものの力を意識することなく、満ち足りた生活が出来ていることが分かり安心したという故事から。「撃壌鼓腹」ともいう。(四字熟語辞典オンライン)(*「「日出而作、日入而息。(「日出でて作(な)し、日入りて息(いこ)ふ)「井(せい)を鑿(うが)ちて飲み、田を耕して食らふ」「帝力何有於我哉(帝力何ぞ我に有らんや」) 

 連日続く灼熱帯夜の「夢のまた夢、またまた夢」「悪夢」ですよ、これは。悪い冗談。

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 マッチポンプもこれぐらいにならなければ、一人前じゃないんだね。この「鼻糞」、何とも忙しいことだ。落ち着いて、事に処することができない質だろうか、この御仁は。世界は<HIS Resignation>を待っているのだ、と思う。(He’s just like an arsonist-cum-fireman getting credit for solving problems he caused himself !)(プログレッシブ和英中辞典)

米国のトランプ大統領(6月21日)=AP

【ワシントン=阿部真司】米国のトランプ大統領は23日、自身のSNSで、イスラエルとイランが全面的な停戦に合意したと明らかにした。/トランプ氏によると、停戦はイスラエルとイランの双方がそれぞれの活動を完了した後の24日午後(米東部時間)に正式に発効するという。トランプ氏は、「(両国が)戦争を終わらせるスタミナ、勇気、そして知性を持っていることを祝福したい」と述べた。(読売新聞・2025/06/24 07:37)(右写真・米国のトランプ大統領:6月21日=AP)

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理屈抜きに「他国侵略」はNGだよ

 「先制攻撃」は「壮大な軍事的成功」と米大統領。一切の条件を無視して、他国への侵略を敢行した、この瞬間で「戦闘終了」なら、米国の大勝利と言えるだろう。しかし、戦争は「始める」よりも「終わらせる」ことの方が比較を絶して困難なことは言うまでもない。このアメリカの暴挙を、ぼくは「真珠湾攻撃」に準(なぞら)えてみる。アメリカ(の軍人や政治家・官僚たち)はけっして賢明な国ではないのは、歴史が何度も証明している。ベトナム(侵略)戦争、アフガニスタン(侵略)戦争、イラク(侵略)戦争等々、例を挙げるに遑なし。今回の「真珠湾攻撃」をなぜ急いだか。単純愚鈍な大統領のことだから、二週間も何もしないで事態の推移を眺めている間に「ネタニヤフは戦果を独り占めする」のが我慢ならなかった、それだけのこと。

 つまり、無能な大統領は功を焦っただけ。「俺が決めるのだ」と、ね。子の愚かしい大統領を諫められないおべっか使いばかりが側近にいるのだから、大統領は大したもの。こんな愚連隊(手合い)に好き放題にされては、イラン民衆もたまらないだろう。さらに、ぼくが嘆かわしく思うの、アメリカを除いたG6が挙って、トランプの提灯持ちであることを隠さないことだ。日本も、いずれ明言するだろう。「イランの核保有は断じて許されない」と、ね。阿保らしいよ、アメリカの「核の傘」身を宿らせてもらっているくせに。アメリカは日本のために何をするんだろう。日本を守ろうなんて、いささかも考えていないのは馬鹿でもわかるだろう。

 この先、アメリカは戦いを継続できない。他国も石油をはじめ、燃料や糧秣を維持することが極度に困難になるのだから、無条件に「イランやっつけろ」と傍観してはいられなくなる。アメリカから膨大な戦費を強要・強請されるのは目に見えている。日本はすでにアメリカからGDPの3.5%、いや5%の防衛費を要求されているらしい。いくらになるか。単純計算で21兆~30兆円。国家予算100兆円の現在。経済が縮小しているアメリカの言いなりになって、この島国は国家破綻をきたす規模だ。こんなヤクザな国とは付き合うのを辞めろとは言わないが、これまでのように尻馬に乗り、尻尾をふり、お尻を舐め、そして満面に媚を売るような姿態をさらした、国辱的交際は止めるべき。「戦争をしないための政治(つきあい)」こそが、最高・最大の国防になるだろうからだ。石油は、今以上に高くなり、食糧自給も厳しくなろう、自分の足で立てなくなった国を介助・介護することができるだろうか、誰がするのだろうか。(本日は「沖縄戦」から80年、『慰霊の日(Memorial Day)』」に当たります)(ヘッダー写真は「浦添市」:https://www.city.urasoe.lg.jp/doc/609e8cd13d59ae2434c013e4/

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「徒然に日乗」(785~791)

〇2025/06/22(日)予想されなったわけでもないが、とんでもないニュースが、昼前に飛び込んできた。アメリカはこれまで他国への戦争介入で散々懲りたはずだと思ったのは、実は我々の錯覚で、お詰間違いを何度繰り返しても気が付かない愚かさにおいてこおs、この国を非難すべきなのだろう。その愚かさを共有していたのは、いわゆる「G7」の首脳すべてであったとは、驚くべきことなんだというのも気恥しくなるほどに、愚劣な連中が「自由経済国」を構成していたのだったとは、とんだお笑い草だ▶「トランプ氏、イラン攻撃は「華々しい軍事的成功」 主要核施設「完全消滅」 (CNN) トランプ米大統領は21日夜、ホワイトハウスのクロスホールから国民に向けて演説を行い、イラン核施設3カ所に対する米軍の攻撃を「華々しい軍事的成功」と評した。/トランプ氏は攻撃後初となる公の発言で「私は今夜、攻撃は華々しい軍事的成功だったと世界に報告できる。イランの主要な核濃縮施設は完全かつ徹底的に消し去られた」と述べた。/またイランが和平に応じない場合、米国は追加の目標を攻撃する可能性があると警告。21日に核施設3カ所への攻撃を決定した後のタイミングで外交的解決を呼び掛けた。/トランプ氏は「中東のいじめっ子であるイランは今こそ和平に応じなければならない。応じない場合、将来の攻撃は格段に大規模かつ容易なものになるだろう」と述べ、「こんなことを続けるわけにはいかない。イランを待つのは和平か、あるいは過去8日間に目の当たりにしたものをはるかに上回る惨劇だ。覚えておけ、まだ多くの攻撃目標が残っている」とした。/さらに、米国は「他の目標を精密かつ迅速、巧みに攻撃」でき、「ものの数分で」実行可能だと警告した。/演説後、トランプ氏はSNSに場所を移し、イランが武力で対抗すれば米国は圧倒的な報復を行うと厳しい警告を発した」(CNN・2025.06.22 Sun posted at 14:12 JST)(https://www.cnn.co.jp/usa/35234573.html)

▶この 「アメリカ参戦」の後始末は誰が付けるのか、それ以上にこの先、いかなる展開を見るのか、ぼくには想像もつかない。ベトナム、イラク、アフガンなどで起こしたアメリカの間違った戦争の二の舞であり、三の舞であることは事実。こんなアメリカに従属して一国の運命を一蓮托生に、そんなことでいいのか、それこそこの国(日本)は選択を迫られているのであって、アメリカの命令を受けることを断じて止めるべきだし、どんなに抵抗(反対)があろうとも、こんな不埒な刃傷国家とは少なくとも軍事的には絶縁をすべきだ。今後の国政選挙での格好の選択肢とすべきだろう。勝算も、方向性も持たないままのアメリカの愚行には言葉もないし、そのアメリカに向けて「非」「否」一つ加えられない日本とどんな国なんだ、叫びたくなる。(791)

〇2025/06/21(土)少々疲れが溜まっていたのか、久しぶりに「昼寝」をした。お昼を挟んで2時間ほどだったか。蒸し暑い一日で、庭作業は中断した。雨のない時に剪定しておいた枝や除草したものを焼却したかったが、これも明日以降に▶午後一時過ぎに土気のスーパーへ。以前作ってもらった「老眼鏡」のフレームが壊れたので、同じ店で新規に調達するため。いつも「スペア」を用意するのが我が手法で、同じ度数の老眼鏡を注文してきた。その前段階は、昨日の免許更新のための「後期高齢者講習」の際に実施された視力検査が少し心配になったから。老眼鏡なし(裸眼)視力がなんと、ようやくにして「0.7」(左右とも)だったことがあった。ぼくには驚きでもあたし、そうだったかという納得する部分もあった。前回の免許更新時からも丸三年、いたずらに目を酷使しては本を読み、駄文の書き殴りを続けてきた、その報いがここに生じたということか。警察署での免許交付時の視力検査は問題なく済ませたいために、この一カ月は視力を大事にしたいという殊勝な心持もある。(790)

〇2025/06/20(金)午前8時45分頃に茂原駅そばにある自動車教習所に到着。同所では、前回に続いて2回目の後期高齢者講習と認知機能検査等を受けるため。75歳を過ぎてから、通算で3度目の免許更新だ。9時から始まり、終了したのが正午。小人数だったが、規定通りの検査と講習で3時間。この先、どれくらい車に乗れるか、自分でも判断がつかないが、無理はしないという信条・心情は崩したくはない。高齢化に伴いさまざまな衰えは隠せないから、この講習等を否定するつもりはないが、今のままの方法や内容でいいとも思わない。では、どうするか。講習料金は計8500円。妥当なのかどうか。総じて、官の関わる申請事業は、すべてにおいて高い料金がかかるのは、質が悪いと思う。実質は「税金徴収」なのだと思う。自動車関連だけでも挙げればきりがないほど。車検料、免許更新代金(免許取得代金も)、自動車税などなど。納税が嫌なら払わなくてもいいという態度が気に入らぬ。他国はまちまちだけれど、これほどの高額は求めないところが多いという気がする。(789)

〇2025/06/19(木)朝から快晴。前の家の持ち主が「草刈り」に。以前は彼女の両親が住んでおられたが、今は貸家として茂原の会社に賃貸しているという。敷地内が一面草ぼうぼうで、以前は毎日のように手入れをしていた人だから、見るに見かねて、業者を恃んで、猛暑の中を精勤。午前中だけで早々に切り上げたが、気持ちがいいほどにきれいになっている。それも、また数日で元の木阿弥かと思うと、草類の生命力に感心するほかない▶イランとイスラエルの戦闘の帰趨はどうなるか。アメリカの出方次第でもあるが、仮に米国が本格的に加担するとすれば、露をはじめ、親イラン派はどう出るか。ロシアも実情は「火の車」状態だという報道が頻りだから、米国が主導権を握って、いいように始末するつもりだろう。だが、戦争は始めるよりも終わらせる方がはるかに難しいのは「夫婦喧嘩」にそっくり。「先制攻撃」は、高くつくものだ。(788)

〇2025/06/18(水)はっきりとはわからない程のか細い雨が落ちている。月に一回の「ビン・カン類の回収日」で、それぞれの収集袋に入れて、収集場に持参(午前5時)。いつも通り、(猫用の)空き缶は大きな袋一杯だった。ペットボトル類はいつも通りで、それほどでもなかったが、これからの暑さに応じて増えるだろうか▶猫がたくさんいるので、ノミやダニが家中に溢れているかもしれない。虫刺され用の塗り薬と点滴剤を購入してきた。その前に茂原のスーパーにて食材購入▶朝方降っていた小雨も、昼前にはすっかり上がり、徐々に気温も上昇。恐らく昨日に続く猛暑(真夏)日だったようだ。劣島ではたくさんの「熱中症患者が病院に搬送」と報道に。かなりの数の方が亡くなってもいる。とにかく、無理をしないことと睡眠を十分に、と心掛けている▶カナダサミットを放置してT大統領はイラン・イラク戦争の「指揮」を取るために帰国したという。イランに対して「無条件降伏」を呼びかけた。露国大統領には通じているのだろうか。ならず者二人が、世界規模の暴力を支配している構図が描かれるのかと思うと、蕁麻疹が噴き出て来る。(787)

〇2025/06/17(火)強烈な暑さだった一日。隣町の市原牛久では37℃越え。6月の半ば過ぎでこの猛暑。全国各地でも猛烈な暑さを記録した。もちろん、外出はしていないし、庭作業も中止。ひたすら、今週金曜日の「認知検査」の記憶ゲームの練習。いろいろなものの名前を各16枚、4種類のパターンのなかから一種類が出題される。要するに、16枚の名前の記憶を試されるわけ。ぼくは何のことはない、16×4=64枚を丸暗記するだけ。恐らく百枚あっても大丈夫だと思っているが、さてどうだろうか▶この先一週間は猛烈な酷暑は続くらしい。人間のことも気がかりだが、ぼくにはコメの収穫に酷暑が大きく響くことを心配している。稲に取りつくカメムシの大量発生が危惧されているのだ。これを退治するための強烈な消毒をすると、むしろ藪蛇なのだが。(786)

〇2025/06/16(月)昼前には30℃を超えた。とても暑い一日だった。この先もしばらくは梅雨とは思われない「酷暑」が続くらしい▶午前中に猫缶購入のためにあすみが丘へ。ほぼいつも通りの缶詰を購入し、かみさん用の昼ご飯(握り寿司)その他を購入する。帰宅後、前庭の植え込みの「まき(槙)」の剪定・刈込。半分ほど終了した段階で、酷暑のために「水入り」、シャワーを浴びて、一息つく。無理をしないのがわが鉄則だ。少し前に刈り取って、きれいにしたつもりの箇所の草が、新たに、のびのびと成長著しい。高温多雨の順繰りだから、伸びるのは当たり前か。本日は枝葉類の焼却は中止。焼却炉の真横に物干し台が置いてあり、そこに布団類を干したために、使用できず。焼却する分は前日の雨に濡れていたので、このままにしておくなら、よく乾燥するだろうから。(785)(右写真は「真珠湾攻撃」)

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