馬鹿は死んでも治らない、か

【社説】週刊誌の差別コラム 新潮社の人権感覚を疑う
  自分と意見が異なる外国ルーツの人を標的にした排外的なコラムである。掲載した大手出版社の人権感覚を疑う。
 新潮社が発行する「週刊新潮」7月31日号に掲載されたジャーナリスト、高山正之氏の連載だ。/外国ルーツの作家や研究者、俳優の名前を挙げ「日本も嫌い、日本人も嫌いは勝手だが、ならばせめて日本名を使うな」と攻撃した。「創氏改名2・0」との題は、植民地支配下の朝鮮半島で人々の名前を日本式に改めることを強制した政策から取られている。/多様性を否定するもので、外国人の排斥につながりかねない。名前は個人のアイデンティティーの一部である。その変更を迫るような言説は、言語道断だ。/「世界文学の一端を担っていくはずの出版社が、レイシズム(人種差別主義)を放つとはどういうことか」。名前を挙げられた深沢潮さんが記者会見を開き、新潮社に謝罪を求めた。朝鮮半島にルーツを持つ作家として、在日コリアンが抱える葛藤を描いてきた。/日本ペンクラブは「排外的言論の横行を懸念します」という緊急声明を出した。作家らからも抗議の声が上がっている。(⇙)

(⇗)新潮社は会見を受け、深沢さんに対し「心を傷つけ、多大な精神的苦痛を負わせた」との謝罪文を自社サイトに掲載した。「(執筆者に対して)必ず世論の変化や社会の要請について詳しく伝えていく」とも約束した。/だが、最新号に掲載されたコラムで高山氏は、この問題についてまったく触れていない。/新潮社は2018年にも人権軽視の寄稿を掲載したことがある。当時、自民党衆院議員だった杉田水脈氏が月刊誌「新潮45」で、性的少数者のカップルは「生産性がない」と主張した。社会問題となり、雑誌は休刊に追い込まれた。/より良い社会の実現に貢献するのが出版社の本来の責務だ。にもかかわらず、人権をないがしろにする問題が繰り返された。その背景を徹底的に検証すべきだ。/社会はさまざまなルーツ、文化的背景を持った人々によって成り立っている。出自を理由に異論を受け付けないような主張がまかり通れば、人々の権利が脅かされ、社会の萎縮を生みかねない。(毎日新聞・225/08/14)

(ヘッダー写真は「『週刊新潮』差別むきだしコラムは、なぜ掲載されたのか 廃刊に懲りないメディアに突きつけられる表現の自由」東京新聞・2025/08/07)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/426776

 このような「差別問題」では、新潮社は前科何犯なのだろうか。繰り返し繰り返し、同じような「偏見と差別」をばらまいて、しかも恬として恥じない、その態度をどう見たらよいか。ぼくはその昔は、週刊誌は毎週3~4誌は読んでいました。もちろん「週刊新潮」も。軽佻浮薄人間の証拠だったと、今でもその記憶は忘れていない。それぞれの週刊誌には得意ネタがあったものだが、近年は、外からしか見ていないので間違っているかもわからないが、「~砲」などと称され「暴露記事」がほとんどで、時には「誤報」や「虚報」がつきものだなどと、世間は「プライバシー」問題の暴露を許容している風潮があると思う。作家などの文化人たちが新潮社は文藝春秋者に対して、時には批判や抗議をのげんじをろうしたりします。けれども、ほとんどの人たちは、あるいは「新潮社」や「文藝春秋社」への原稿執筆を拒否すべきだと思うけれども、寡聞にして、そんな骨のある文学者や評論家がいないのは、この世界の貧寒ぶりを示していないでしょうか。品位や誇りがどこにあるのかな、と思ってしまいます。

 今回の偏見コラムを書いたT氏、產經記者時代から、その分野では高名だった。繰り返し書いてきたように、ぼくはかなり前から產經新聞を読んでいました。いくつかの理由からでしたが、やがて「偏向記事」とぼくには思われる記事が満載になる事実を経験して、購読も立ち読みもやめてしまいました。それでも「産経抄」などのコラムは読んできましたが。なぜ、こんな問題が途絶しないで発生するのか。これにもいくつかの理由があります。偏見を、差別を売り物にする書き手がいるのが第一。そのような差別主義者を呼び込む出版社が存在するのが第二。そして差別や偏見に満ち満ちた記事やコラムを待望している「(情けない)読者」がいることが第三。順番は不同です。要するに「三位一体」となって、万世一系の「差別主義」は延命するのでしょう。

 何よりも「変(偏)見自在」などというタイトルをつけて喜んでいる(と思われる)雑誌側(あるいは執筆者側)の低劣・胡乱(うろん)な教条をこそ打つべきではないですか。「創始改名2・0」という歴史の事実を揶揄せんばかりのサブタイトルに、売れればいいという、ふざけ切った態度が顕現しています。他者の心中に土足をもって踏み込む、倒錯した快感を持っている証拠です。根っからの差別主義、排外主義を堂々と公表し、それを受け入れる土壌をこの社会が持っていることの方が、ぼくには不快であり、深刻な状況だと考えるものです。

 ぼくが若いころに学んだ米国の社会学者マートン氏が白人の黒人に対する差別問題に関して、驚くほど大胆な意見を述べていたのに驚愕したことがあります。このことについては、どこかで触れています。「偏見(考え)(prejudice)」と「差別(行為)(discrimination)」の組み合わせで4類型(パターン)を設定し、それぞれに解説を加えていました。詳細は省きますが、偏見もなく、だから差別もしない人々は「本当にリベラルな人」であるという。まずどこかにいるとはとても思われない一群です。次に、偏見はあっても差別しない人たち、これを「偽善者」と(マートンは言っていたかどうか、ぼくの記憶は曖昧)する二群。そして、もっとも質の悪いというか、問題の追及が困難なのが、偏見はもっていない(と自分では思っている)が、結果的には差別してしまう第三群。恐らく、このような付和雷同型の人々は最も数の多いグループです。「自分は差別なんかしていない。みんなと同じようにしているだけ」と。差別を指摘されると、きまって不満を述べるはずです。そして最悪の人間たちが第四群。偏見を持っているから当然のように差別する。差別主義の確信犯。この類型の人たちに対して、マートンは、いろいろと教育をしても無駄で、「差別主義者として逮捕」すべしといっていました。

 今回の差別問題を生んだ当事者(T氏と出版社)は、言うまでもなく「第四群」ですから、逮捕・拘束に値するとマートンに倣って言いたい気もする。表現の自由、出版(販売)の自由は、当然認められるべきですが、差別を確信し、他者を害する行為はであり、それを目的にするような執筆や出版行為は許容できないものです。確実に「人権侵害(名誉棄損)」に該当するでしょう。問題が発覚してからの当事者の態度(応答)を見ていると、「反省の色」もなければ、「謝罪の誠意もない」と見えます。ならばどうするか。恐らく裁判に訴えるほかなさそうだし、そこまで行かなければ、累犯の虞(おそれ)は拭(ぬぐ)えないのです。(左写真はT氏。産経新聞から) 

 世はdemocracy(デモクラシイ)ではなく、demacracy(デマクラシイ)の波状攻撃にいたく傷つけられている、そんな「濁世(じょくせ・だくせい・だくせ)」ですな。少数意見を尊重するなどという面倒なことは厭うけれど、あることないこと(デマ)を針小棒大に誇張・拡販する、嘆かわしくも愁いに満ちた時代です。にもかかわらず、怯(ひる)むではないぞ(Nevertheless, we should not be afraid.)。

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紆余曲折の「戦後八十年」でしたね

 素朴な疑問は今も残っています。天皇の「玉音放送」を聴いて「一億国民が号泣した」という、そんなありそうもない「現実」を示すかのような写真がたくさん残されています。もっともよく知られたのは皇居前広場で、ひざまずき、あるいは土下座をして、(「陛下に申し訳ない。臣民の務めを果たさなかった」とばかり号泣し、肩振るわせて嗚咽する人民の写真です。ぼくはこれまでに何百回となく、これらの写真を観てきましたが、その都度、釈然としない心持が残ったまま。当時、「玉音放送」を聴いた人の大半は「何が何だかさっぱりわからなかった」「とても雑音が多く、意味不明の内容だった」と語られている。遺された録音を、今聞いてもぼくにはよく理解できないものです。

 (ぼくは歴史家でも歴史研究者でもありません。いくつかの史料・資料などを目にし、自己流に評価することに興味を持っているだけの人間です。遺された敗戦時の写真を何枚か見てきて、今なお、ぼくに疑問や不信の念が消えないままで残っており、そのごく一部を、これまた自己流に指摘するばかりです)

「ヘッダー写真「終戦の玉音放送を聞き、皇居前広場でひざまずいて泣く国民」=昭和20年8月15日」(產經新聞報道・2021/12/12)

 ところがどっこい、です。ごく素直に写真とそこに書かれている「キャプション」を読むと、皇居前広場、あるいは靖国神社などで、玉音放送が流れている(流されている)、それを聴いて泣き伏す、頭を垂れる「国民(臣民)」と理解されるようになっている。本当にそうかどうか。あるいは皇居前や靖国神社に来る直前に、どこかで「玉音放送」を聴いて、慌ててそこ(宮城や神社)に駆けつけて泣いたり土下座をしたりしたのでしょうか。皇居前広場や靖国神社境内に「玉音放送」が流されたという記録を読んだことも見たこともありません。ぼくの無知・不勉強の故でしょうか。◀左写真❶「終戦の玉音放送を聞き、皇居・二重橋前にひざまずく人たち」(1945年8月15日)(読売新聞掲載。2023/05/03)

▶右写真➋「玉音放送」で敗戦を知った国民(1945年8月15日、靖国神社で)(読売新聞掲載・2023/08/15)「終戦告げた玉音放送…平和の光を見た日」(https://www.yomiuri.co.jp/serial/webkiryu/wararchive/20230815-OYT1T50140/)この記事を書いた読売新聞にも、右の写真の「紹介」はありますが、どういう人々が「靖国」にいたのかなどは触れられていません。むろん、境内に「玉音放送」が流れていたなどとは書かれていません。

◀左写真➌「そこにいるはずのないカメラマン 残した『玉音放送、その時』の謎」(毎日新聞報道・2022/08/12)「 1945年8月15日、国内外で多くの犠牲者を出した太平洋戦争は終わりを告げた。悲しみに打ちひしがれた人もいれば、葛藤にさいなまれた人もいた。出征した海外の戦地をさまよい、終戦を知らずにいた人も。/これまで信じてきたものがひっくり返ったあの日の東京の様子を記したメモが、その時そこにいるはずのなかったカメラマンの自宅で見つかった。「8・15」にまつわるメモを手に、当時を生きた人や遺族を訪ねた。【椋田佳代/東京社会部】 (https://mainichi.jp/articles/20220812/k00/00m/040/141000c

▶右写真➍は北海道新聞「『歴史的瞬間』作為だった」・1995年10月08日』写真の4人のうちの2人が1995年当時、道内にあって健在で、「二人は写真撮影の際、うなだれるポーズをとるように演出があったと指摘している」と。言われるままにポーズを取らされたが、写真の意味は分からなかった、と語られている。

 昔も今も、新聞は「ヤラセ(演出)」にどっぷりつかっているというべきか。ぼくは皇居前の土下座や泣き伏す写真を観るたびに、実に「いやーな感じ」を持ってきました。これもまったくの「演出」だという気はありませんが、敗戦時の国民(臣民)の「真情の吐露」そのままだとも思いません。あるいは、一瞬は「慟哭」したかに見えたが、そんな暇があったら食料探し、生活再建だと、生活の必要が、多くの人たちの「正気」を目覚めさせたのだったかもしれません。上から出された「欲しがりません勝つまでは」というのはキャッチコピーだったわけで、誰だって、どんなに大きな災難に遭っても、日常生活を放棄するわけがないのです。空襲で焼かれ、家人が犠牲になったときでさえ、その日の夕食や次の日の朝食の用意をしたはずです。「おやすみ」「おはよう」のあいさつを交わしたはずです。

 若い学生時代、それこそ日も夜もなく読み耽っていた、高名な一人の文芸評論家の戦争中のエッセイの中に、「国民は黙って戦争に参加していった」、千住湾攻撃の九州の写真を観て「美しい」などとという表現に出会い、ぼくは、そこでも実に「いやーな感じ」を持ちました。そうだろうか、黙って戦争に身を処したというが、「それは間違いだ」「誤った戦争だ」と感じた人がいなかったとはとても思えない。治安維持法を用いて強権発動してまで「表現の自由」を抑圧しなければならなかった理由は何だったか。「戦争はおかしい」という叫びを封じられた人がどれくらいいたか。Kという評論家の国家間、戦争観、それは時代が下るに応じてさらに明らかになりました。国家本意、天皇は畏き存在と思うまでは勝手でしょうが、それが民族の眼目(醇風美俗)だというに至っては、ぼくは読み続けることができなくなりました。

 今日マスメディアの「頽廃」「落日」が騒がれています。しかし、その体質(権力の走狗・使い走り)は、残念ながら、いつだって変わらないというべきでしょう。もちろん「権力批判・権力行使の看視」という己が存在価値をわきまえて、果敢に健闘しているメディアはいつの時代にもあったでしょう。今もあるでしょう。いぼの大小は問わないつもり。返す返すも残念なことは、その意見や報道が、よく多くの人の耳目に届かないことです。本日は「敗戦後八十年」の区切りの日だという。政治は相変わらず、国民そっちのけで、「政争ごっこ」に暇をつぶしています。そんな腐った政治家の動向に、実に根気よく仲間内としてメディアは膝を交えて、なかには「コップの中の争い」に入り込んでいる新聞もあるのですから、駄弁る言葉も、元気もありません。

(🔼写真「玉音放送に聴き入る人たち=1945年8月15日正午すぎ、大阪・梅田の曽根崎警察署前」)(「終戦の日(8月15日)に読みたい 玉音放送(終戦の詔書)の原文と現代語訳」朝日新聞GLOBE+・2024.08.15)(https://globe.asahi.com/article/14709020

【筆洗】80年前、当時30代の貞子さんは新潟で終戦を迎えた。夫は転勤で別の地にいた▼玉音放送直前、敵機がまいたビラには「日本良い国、神(紙)の国、七月八月灰の国」とあり、降伏を呼びかけていた。読みふける間もなく、自転車で現れた軍人にひったくられた▼天皇の言葉をラジオで聴き、青空に向かい何度も深呼吸。近くの銭湯の煙突から煙が出ているのに気づき、訪れると営業中だった。番台の老婦人は息子が戦地におり「親が敵弾を恐れて逃げ歩いておれません。客があってもなくても風呂屋を続けます」と言った-▼『八月十五日と私 終戦と女性の記録』から引用した。60年前、民放番組『木島則夫モーニングショー』に寄せられた女性たちの終戦の日の手記。嗚咽(おえつ)した人、海を眺めて生きててよかったと思った人、玉音放送を聞きながら陣痛を感じた人もいた▼今日は8月15日。以前に「大事件とは、その日に自分が何をしていたか一人一人が覚えている事件をいう」と社の先輩に聞かされ、日航ジャンボ機墜落や昭和天皇崩御などを思ったが、終戦は間違いなくそれ。一人一人がその日に抱いた感慨こそ、語り継いでいくべきなのだろう▼80年前の8月15日に銭湯を訪れた貞子さんは、そのままお風呂に入ったという。白いタイル張りの広々とした浴槽を独占。「じーんと涙が薄くにじんで来ました」とつづっている。(東京新聞・2025/08/15)

 「天皇の言葉をラジオで聴き、青空に向かい何度も深呼吸。近くの銭湯の煙突から煙が出ているのに気づき、訪れると営業中だった」「80年前の8月15日に銭湯を訪れた貞子さんは、そのままお風呂に入ったという。白いタイル張りの広々とした浴槽を独占。『じーんと涙が薄くにじんで来ました』とつづっている」(東京新聞「筆洗」)皇居には行けず、靖国神社に参られず、新潟のある街の「風呂に入っていた」と言う。「日常の感覚」を忘れなった多くの「貞子さん」たちがいたことをぼくは、別の写真などを観て知っている。

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むらさきになりゆく墓に詣るのみ

 昨日から「お盆」が始まりました。クライマックスは8月15日。終わりは16日。京都では「五山の送り火」が華々しく、かつ哀愁を帯びつつ挙行されてきました。京都にいたころは、それなりに「お盆行事」はていねいにやっていた気がします。要するに先祖の霊をお迎えし、しばらく共に過ごした後で、また先祖をお送りする行事だったと言えます。山陽新聞のコラム「敵一滴」」が触れておられるように、民俗学の柳田国男さんが書かれた「先祖の話」は、ぼくにも懐かしい本となりました。いろいろと、ぼくの知らないことが書かれていて、これまでに何度読んだかしれません。細かいことは省きます。要するに、この社会にはきわめて古い時代(奈良時代以前)からの祖先崇拝(民間信仰)と、平安期以降に興って来た仏教式の「盆行事」が、まさに折衷されて長く続けられてきたのが「お盆(と正月)」だったと言えます。

 「現在の盆の魂迎へは、通例は廟所、即ち石塔の在る處へ行くことになつて居る。つかも動け我が泣く聲は秋の風などといふ句さへあつて、故人の靈もまた土の中に休んで居るやうに、推測する者が段々と多くなつたやうに思はれる。しかし誰でも知つて居ることは、石碑を一人々々の死者のために、建てるやうになつたのは新しいことである。古いといつても元祿以前の石は甚だ少なく、日清戰後の頃から、急に個人のものが多くなつたが、それでもまだ共同の墓地に送られ、追々に其場處の知りにくゝなるものが相應にあり、しかも盆の魂祭りをせぬ家は、村方には少ないのである。どこへ精靈さまを迎へに行きますかといふ問ひは、民俗學の仲間には屡々必要であつた」(柳田国男「魂の行くへ」「定本柳田國男集 第十五巻」筑摩書房1963)

(ヘッダー写真は「遍照寺 灯籠流し(広沢の池)」京都観光:https://www.the-kyoto.jp/calendar/august/henshoji-toro/

 昨日から横浜に住んでいる娘とその子どもがやってきました。かみさんの母親のお墓参りに行くからでした。千葉市内の公営霊園にあり、毎年のお彼岸にもお墓参りを欠かさないようです。お墓というのは「家(先祖代々)」と切り離しては考えられないものでした。まして長く「長子相続」が古い伝統になってきたような社会では、ことさら「先祖を祀る」営みは大切にされてきたのでした。もちろん祭主は「長男」だった。中国伝来の「儒教」の教えが根底にあり、それに加えて、遥か印度からもたらされた仏教の教えが加わり、その下地に古の人々が持っていた「産土(うぶすな)神」の崇拝がありました。「(「うぶすな」とは)その人の生まれた土地。生地。『産土神(うぶすなかみ)の略』」(デジタル大辞泉)

 要するに、「お盆」にまつわる諸々は、この社会の二千年の歴史の細々(こまごま)が混在して保存されてきたものだともいえます。

【滴一滴】先祖の話と弔い多様化 きょうは盆の入り。迎え火をともし、祖霊を迎える家もあろう。人は死してもあの世から子孫を見守り、盆や正月には家へ帰ってくる。日本で通底する考え方である▼それを民俗学者の柳田国男は著書「先祖の話」で掘り下げた。東京大空襲の直後、死者を祭る家が消滅するのではないかという危機感から書き、戦後に刊行した▼「国と府県とには晴(はれ)の祭場があり、霊の鎮まるべきところは設けられてあるが、一方には家々の骨肉相依(よ)るの情は無視することが出(で)来(き)ない」。国などが祭るのは伝統のように感じられるものの、近代以降につくられたこと。それとは違う習俗がもともとあったとの主張に読める▼刊行から80年近くたって、従来の墓だけでなく納骨堂や樹木葬、海への散骨など弔い方は多様になった。一足早く墓参りに行った霊園には、小さなピラミッドのようなモダンな合同の墓ができていて目を引いた▼ただ、人が死後に行くのは墓所ではない、と柳田は考えていたらしい。そこは死者の居場所と言うよりも、生者との待ち合わせ場所である、と▼日頃から亡き人の存在を近くに感じる多くの人の経験ともかなう見方と言える。大切な人を失うのは耐えがたい。だが、悲しみの先に死者との終わることのない関係があるのならば、救われる。お盆は、そのつながりを確かめる時だろう。(山陽新報・2025/08/13)

【明窓】忘れ得ぬお盆の風景 毎年、お盆の前に思い出す風景がある。先祖の霊を迎える準備として墓に色とりどりの「盆灯籠」を飾った。普段は殺風景な墓地がこの時期だけは見違えるように華やかな場所になった。❖今も一部のコンビニに灯籠を置いているが、昔は各家庭が大量に必要としたので地元の雑貨店でも売っていた。涼しい時間帯を狙い、大人も子どもも掃除道具と灯籠を抱え墓地まで歩く。灯籠の紙飾りが風に揺れ、小さな祭りのようだった。❖あれから約半世紀、帰省した親戚と話すのは「墓問題」。実家の墓じまいをどうするか、誰が管理するか、寄せ墓にするか遠くに移すか、何年も同じ話の繰り返し。「実家建物問題」や「仏壇問題」も含めて粗末に扱えないだけに頭が痛い。❖数年前「寺に墓地(を広げるための土地)を寄付した」親戚の墓に参ると、本人の戒名は血縁のない人と並んで共同墓に刻まれていた。跡継ぎがいないので寺が管理してくれるのは安心だが、正直少し驚いた。機械式納骨堂や樹木葬など、墓の形にも時代の流れが押し寄せている。❖「家」へのこだわりは古いのかもしれない。とはいえ、日本的死生観がにじむお盆(盂蘭盆会(うらぼんえ))の行事や「先祖の供養」をすることで心には安らぎが生まれる。伸び放題の雑草に足を取られ、蚊に悩まされても、墓参りができることは幸せなことだと思っている。<盂蘭盆会 遠きゆかりと ふし拝む>(高浜虚子)(裕)(山陰中央新報・2025/08/13)

 「お盆」は「先祖神(霊)」を自宅にお迎えし、そしてお送りする日であるということ。普段、先祖神は何処にいるのか、よくは分からないが、一応は「お墓」にもその縁があるというので、墓参りをするのでしょう。お墓に関しても、今日さまざまな課題や問題が生じています。それらについては、引用した二つのコラムが触れておられます。家の「お墓」をどうするかというのです。どうするというのも、各自の問題であるようで、実は「お寺」の問題の方がより根本にあるのではないかとぼくは思っています。お墓の管理はそれぞれのお寺が行っているのが一般的でしょう。今日では公営の共同墓苑が普及しましたので、寺との関係が介在しない分、きわめて合理的でもありますが、それでも墓を誰が守るかという問題は、やはり避けられないのです。

 公営墓苑に行くと、いかにも墓仕舞いしたような形跡のある「お墓」も見受けられる。「一足早く墓参りに行った霊園には、小さなピラミッドのようなモダンな合同の墓ができていて目を引いた」(「滴一滴」)「機械式納骨堂や樹木葬など、墓の形にも時代の流れが押し寄せている。❖「家」へのこだわりは古いのかもしれない」(「明窓」)

 二カ月ほど前に、京都のお寺(遍照寺・へんじょうじ)から書類が届いた。両親が祀られている墓を持っている寺からでした。年間の管理料いくばくかを払い込んでくれと言う連絡(三割ほど値上げされていました)と、お盆行事のあれこれ(広沢の池の灯篭流しなど)の参加への勧誘だった。そして、それに加えて、「近年、墓の管理上困ったことが起きている。墓主との連絡が途絶えることが多くなったので、あらかじめ第二の連絡先を知らせてほしい」という依頼でした。数年前に、京都の姉から、「お墓関係の連絡は任せるから、よろしく」とバトンを受けたばかり。兄姉弟は高齢になり、万が一を考えて頼むということだった。お寺との関係を首尾よく続けられるだけならと引き受けた。当方も高齢だから、さらに墓の世話係を教えてほしいという寺の依頼は当然でもあります。そして、その依頼にはまだ返事をしていません。

 ぼく自身は葬式も墓も不要と考えている人間です。だからと、自分だけの都合で墓をなくすことも考えないではありませんが、それでは両親(御霊・お骨)は困るというかもわかりません。位牌は拙宅にあるから、それで事は足りると思ってはいますが、墓を作ったおふくろの感情を無にすることにもなりかねないと、一応は考慮中です。お寺が催促してきたら、その段階で決断するつもりでいる。今日のようなお「墓に納骨・埋葬」する方式が続くと、劣島の土地の相当部分がお墓で埋まってしまうでしょう。だから横に伸ばすよりも縦に伸ばすお墓方式がはやり出したのでしょうか。どうもお寺の都合でもあるとぼくには見えてくる。墓地にする土地が足りなくなるので、マンション式にという算段なんですか。このような問題は相当数のところで日常的に生じいるでしょう。そんなに深刻に考えるものでもないと言えば、柳田さんに叱られそうですが、さてどうなりますか。(ぼくは何年前か、柳田国男さんに関する書物を書いた)(墓石屋とお寺が結託しているような「お墓」に、ぼくは関心は持っていません。それに関してはまた、別稿で)

 ただ今午前7時過ぎ。室温26.8℃、湿度80%。高温多湿の爽やかならぬ一日になりそうです。(表題に挙げた句は中村草田男さんの作)

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● 盆(先祖祭り)ぼん= 旧暦7月13~15日を中心とする先祖祭り。いまは新暦や月遅れにする所が多い。盂蘭盆(うらぼん)ともいう。古代インドの農耕儀礼が中国に入って整備され、さらに日本の貴族社会がそれを受容したが、在来の信仰や習俗との習合・葛藤(かっとう)を繰り返しながら現在に至っている。仏家の解説では、釈迦(しゃか)の弟子の目連(もくれん)が、死んだ母が餓鬼道(がきどう)に落ち逆さに吊(つ)るされて苦しんでいるのを救おうとして、釈迦に教えを請い、7月15日に供養して祭った。倒懸(とうけん)の梵語(ぼんご)ウランバーナullambanaが「うらぼん」となり、略して盆となったという。別に、供物をのせる瓫(ほとぎ)という器物の古称をボニとよんだのが、その語源だという説もある。(↷)

 盆の諸行事の配置構造は整然としており、小正月(こしょうがつ)を中心とする正月行事群の配置と似通っている。正月は神祭り的であり、盆は仏教的な色彩が強いにかかわらず、ともに満月の夜を中心とした祭りであり、正月の七草(ななくさ)に対して盆には七夕(たなばた)があり、16日の藪入(やぶい)りも双方にある。臨時の祭壇(年神棚と盆棚)、外竈(そとがま)(正月小屋と盆竈)、火祭り(とんどと迎え火・送り火)、綱引きなども共通している。その理由については種々の説がある。一つには、盆も正月も年に二度の祖霊祭だから、古式の神迎え神送りの方式を共有するという説。次には、盆は正月の繰り返し的な行事だという考えで、まず正月があって、のちに正月の影響を受けて盆が整備されたという説。逆に中国から盆を受け入れ、それに促されて正月を整えたという説。また正月は稲作文化を基調とし、盆は畑作文化を基本とし、双方の接触混合によって1年を折半する現象がおこったという説などがあるが、まだ決着をみない。(日本大百科全書ニッポニカ)

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紆余曲折は不可避、それでも一本道だ

【産経抄】手に終えぬ荒れた空、九州などで大雨被害 加藤清正といえば、難攻不落の熊本城を手がけた「築城の名手」として名高い。実は天下の名城のほかにも、数々の治水事業に手腕を振るっている。天正16(1588)年に領主となった肥後北半国では、洪水が頭痛の種だった。▼緑川や白川など、水量豊かな河川が領地を縫って有明海に注ぐ。それも、川上からあまたの細流が熊本平野を目がけて合流する。下流域は大雨の度に沼地のようなありさまだった。治水事業では「清正堤(てい)」や「大名塘(ども)」と呼ばれる堤防を築き、湿地を見事な田畑に変えたという。▼地球温暖化、気候変動、線状降水帯…。現代の空には「せいしょこさん(清正の愛称)」が聞けば眉をひそめるであろう言葉が、いくつも並ぶ。治水の技術は清正の時代よりも格段に進歩した。それでも手に負えないのが、昨今の空の崩れである。▼停滞した前線の影響で、九州地方に大雨が続いた。熊本や鹿児島では、土砂崩れに巻き込まれるなどして亡くなった人がいる。氾濫した川に人が流されたとの通報もあった。大雨は北陸地方などにも及んだ。石川県七尾市では道路の崩落で車が崖下に転落し、けが人が出ている。▼気象庁は大雨特別警報を出し、早めの避難を呼びかけていた。それにもかかわらず、一時孤立したキャンプ場もあった。逃げる時間もないほど天候の変化は急だったのだろう。身の危険を感じてからの行動では遅いことを、荒れた空は教えている。▼ニュースで見た天気図では梅雨さながらの前線が列島にかかっていた。さりとて雨雲が次々に湧き縦列する空の景色は、四季ある国のそれではない。太い雨脚に猛暑の影響を指摘する声もある。われわれが生きているのは、清正の頃とは別物の夏かもしれない。(產經新聞・2025/08/13)

 実はまだ劣島の梅雨は終わっていなかったというのだ。気象庁はいまさらそんな報道もできないから、「まるで梅雨末期のような天気図(気圧配置)」などと言葉を濁し、それに右へ倣えで、各予報会社も同じような繰り言を口走っています。その「梅雨末期(のような)」という言葉使いはともかく、驚くべき短時間集中的豪雨の嵐が、それこそ、劣島の九州地方の南部に北部に、帯状に繋がって発生しています。半日や一日で、300ミリや500ミリの大雨量を齎すのですから、山肌と言わず道路・河川と言わず、これまでの受容量をはるかにしのぐ大量の降雨は、その器量に収まりきらないのは誰が考えてもわかります。(ヘッダー写真は「豪雨で浸水した熊本市電の杉塘駅近く=11日、午前6時半ごろ」(熊本日日新聞・2025/08/11)

 ぼくが奇妙なことと思うのは、車体の半分近くが水に浸かりながら、まるで水陸両用の車のような感覚の運転者が多くみられることです。エンジンルームに水が入る、後部マフラーが塞がれて排気ガスが外に出ない、電気系統の回路版が水没して一切の用をなさないなどなど、何時だってどこにだってみられる光景であっても、いざ自分の番になると、何とかなる、何とかしたいと思うのでしょうか。水没した車の価値はゼロ、いや引き取り代金を請求されることもあるのです。同じような場面を、集中豪雨の度にみることになります。道路上が水浸しになり、走行すると大量の水しぶきをあちこちに浴びせかける。その恐れがある時は、ぼくは車に乗らないし、乗っている時なら、運転を中断します、必ず。自動車は水面に化した道を走れるようには作られていないことをわきまえていなければと思う。

 これでもかとばかりに、旬日を置かずに集中豪雨による大量の雨水を含んだ山肌や、法面、道路や河岸・土手など、いつ崩壊・破壊されるかわからないのだから、危険そのものと言いたくなりますが、毎回、同じような事故が発生し、同じように犠牲者が出ています。走行している道路が突然崩壊し、車が落下したという事故も、今回の集中豪雨では方々で見られました。恐らく、車道を作るにはふさわしくない場所に道路を敷設したというほかないような事故の形状でした。「敗戦後八十年」というのは、「都市復興の八十年」でもあったはず。その期間を考えれば、あらゆる社会的インフラは耐用年数を超えているとも思われるのですが、それに起因する事故もまた多発している。一難去って、復旧に勤しむのが日本人だと、仕方なく、ぼくたちはその被災の発生状況やもたらされた影響を忘れるのでしょうか。そんなことはないはずでも、つい油断するというのかもしれません。

 「ニュースで見た天気図では梅雨さながらの前線が列島にかかっていた。さりとて雨雲が次々に湧き縦列する空の景色は、四季ある国のそれではない。太い雨脚に猛暑の影響を指摘する声もある。われわれが生きているのは、清正の頃とは別物の夏かもしれない」(「産経抄」)と書かれているが、いかにも呑気そのものと、ぼくには思えてきます。国防や共産・社会主義国家に対する論法の鋭さ、あるいは過剰な敵視観の披歴はお手の物でも、多くの災害や事件・事故に対しては、驚くほど穏当かつ常識的なのは「産経新聞」の特質です。これは悪口でも非難でもなく、この新聞社もまた上と下、右と左に激しく「分断されている」のではないかと、ぼくは下衆の勘繰りをしてしまう。「そうじゃないよ、度量の広さだ」と言われるのかもしれません。もう何十年も前になりましたけれど、この新聞社に入社した友人知人はかなり多くいました。この会社の「過激な反共」色が好きだった人たちばかりだったと思えば、そういうものだと納得もしましたが、その過激な主張は、近年では度を越しているとぼくなどには見えてくるのは、ぼくが惰弱・軟弱なノンポリだからでしょうか。その主張にあっては、きわめて振幅の大きい新聞社のような気がします。

 これはあくまでも個人の感想です。長年「産経抄」を愛読していますが、なかなかに知的でもあり繊細でもあって、ぼくは「産経抄」を読むためにしばらく購読していた時期もあるほど。その昔、学生時代に水野成夫さんの講演を聞いて、なんと「インテリなんだ」と驚いたことがありました。もう60年からの昔になりました。共産党員からはまじまった政治とのかかわり、戦後にはすっかり経済人として開明的な活動をされていたと、学生の目には映ったものでした。講演内容はすっかり忘れましたが、その経験豊富な、柔軟な発想からの語り口は今でも記憶に残っています。こんなことを書いて、產經新聞論をやらかそうというのではありません。そうではなく、人でも企業でも、あるいは国においてさえも、年を経るというのは「紆余曲折」や「得意と不遇」時代といった、さまざまな経験を重ねるということです。「彼(彼女)は昔の彼(彼女)ならず」という時もあれば、また「彼(彼女)はすっかり別人になった」という場合もあるのだという話です。

 「敗戦後八十年」は、この社会、あるいは国に大きな軌跡を歩ませてきましたが、ここへきて、「線状降水帯」のように、執拗な「排外主義」「ファシズム」の嵐の予兆が見られます。何、そんなものは一過性だよ、と気にするほどでもないという気もするし、その風潮はある政党や政治家だけのものではなく、広く人間性の一部になっている「アンチデモクラシー」「自己中」を刺激するのだから、なかなか侮れないというべきか。ぼくにも判断はつきかねます。度重なる「線状降水帯の発生」のように、それを齎す、大きな人為的要因を考えなければ、その弊害はますます悪く広くなるばかりだということも指摘できるでしょう。この国はたった八十年で「基盤崩れ」を起こしていると思われますし、だから、これからは分相応の規模の「国」や「社会」の復興・開発のために、一極集中の是正、いや、その打破を図るべきでしょう。

 ぼくたちの生活は、いわば「偶然」の重なり、繰り返しです。どんなに考えたところで、天気の具合に左右されるようなもので、結局は偶然の連続だと言えます。しかし、その偶然の蓄積も、長い目で見れば、それは「必然」であったとも思われてきます。誰が言ったか、偶然を必然に化す、それが人間の(知恵と記憶力の)働きだといった指摘を記憶しています。終戦直後に獄中でなくなった三木清さんは(「人生論ノート」だったか)、「偶然は必然である」と言われた。あるいはぼくの言いたいことと重なるところがあるのではないでしょうか。 

 ぼくたちにとって、日々の明け暮れにおいて、いかにも偶発的な身の処し方をしているように思われますが、よくよく考えれば、「偶然」の中にも無数の「選択肢」が含まれているのであって、偶々自分は、任意に一個の選択をしたが、それに気が付かないことが多いのです。無数の選択肢から、あるいは偶然選ぶというのかもしれませんが、それもまた「選択」に違いありません。自分の「生(男か女か、あるいは、…)」や、自分の生まれる時代や「親(場)」を選ぶことはできないのは言うまでもない。でもそれ以外のほとんどは、いわば消極的選択(偶然)に身を任せているのです。

 詰まらない一例です。未知の男女(二人)の出会いは、どう考えても極めてまれな、偶然の賜物だった、けれどもそれが他の可能性が考えられないような必然性を持っていたと思われてくるのは、人間の社会ではいつでも起こり得ます。偶然を必然に化す。ということでしょう。それを、ときには「赤い糸」「赤縄(せきじょう)」などと言うのでしょうか。この「言い伝え」は、あまり好まないのですが、ぼくは。

 「 ( 夫婦となるべき男女は、早くから目に見えない赤い縄でお互いの足が繋がれており、どんなに避けようとしても結局は結ばれる運命となるという、中国、唐の「続玄怪録」にみえる「定婚店」の故事による ) 夫婦の縁を結ぶ赤い縄。また、転じて、夫婦の縁。えにし。」(精選版日本国語大辞典)(この稿は次回に続く)

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● 水野成夫 (みずのしげお) 生没年:1899-1972(明治32-昭和47)= 実業家。静岡県出身。1924年東京帝国大学法学部を卒業。25年共産党再建ビューローに参加し,野坂参三の産業労働調査所に入った。27年党中央事務局主任となるが,28年三・一五事件で検挙され,29年獄中で転向する。保釈後,30年日本共産党労働者派を組織し,コミンテルンに盲従して,君主制の廃止を主張する共産党を批判したが,大衆化できずに32年解党した。この後,文学に転じ,A.フランスの《神々は渇く》,A.モーロアの《英国史》などを訳し,ベストセラーになった。40年大日本再生製紙株式会社の副社長となり実業界入りをした。国策パルプ工業(現,山陽国策パルプ)との合併後は副社長,社長,会長を歴任した。また,1956年には文化放送,57年フジテレビ,58年産経新聞社の社長に就任し,フジ・サンケイグループの基礎を築いた。彼は,1950年代後半の労働組合攻勢の時期にあって,元共産党員としての経験を生かした労働対策を示し,財界長老の信頼をえた。(改訂新版世界大百科事典)

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ああかけすが鳴いてやかましい

 ただ今、午前6時過ぎ。室温28℃、湿度83%。朝から降ったり止んだりのはっきりしない空模様。九州や日本海地域の集中的豪雨(線状降水帯発生による)は、さらに続いています。連日各地で40℃越えが続いたのが一転、大きな被害をもたらしている集中的長時間豪雨、半日や一日で数百ミリの降雨量では、今までのインフラをはじめとする防災対策では間に合わないことが、各地で明らかになっています。短時間にもたらされる雨量が、さまざまな防災インフラや生活インフラをはるかに凌駕して、さまざまな被害をもたらしています。「数年に一度」などと、これまでは決まり文句(クリーシュ)として使われていた表現が、今では毎日のように(日常的に)使われているのですから、天候不順の桁外れの程度がわかろうというもの。

 早い段階から、素人のぼくは「梅雨の末期」だと、天気図を横目で見ながら駄弁っていました。「まるで梅雨の末期のような」ではなく、「梅雨末期」だという理由はいくつもありますけれど、それを言ったところで、集中豪雨は止んではくれないし、線状降水帯の発生は防げません。数年前から、これまた勝手な駄法螺みたいに騙ってきたのが「日本の四季」は潰(つい)えて、今では「日本は二季(夏と冬)」に代わってきたということでした。温帯気候の「春」と「秋」の特色は天気図の上から消し去られ、「夏」と「冬」にそれぞれの特色は吸収されてしまったかのようです。もちろん、単なる素人考えですから、訂正も修正も厭わないのですが、この何年間かの「肌感覚」では、やがて「常夏の国」、まるでハワイのような、しかもその夏も飛び切り「高温多湿」が売りになる(かどうか怪しい)のですから、これまでの生活スタイルはいち早く変更を余儀なくされるでしょう。この状態が続けば、劣島の多くの地域では「日常的には暮らせなくなる」ことは請け合いですね。

今日11日~明日12日は京阪神などの都市部も浸水・冠水のおそれ 大雨災害に警戒を 日本付近は、梅雨末期のような気圧配置となっています。今日11日・山の日は、日本海沿岸に停滞する前線や、前線の上を進む低気圧に向かって暖かく湿った空気が流れ込み、近畿地方では大気の非常に不安定な状態が続く見込みです。
このあとも断続的に雨が降り、沿岸部を中心に南よりの風が強まるでしょう。局地的にカミナリを伴って、バケツの水をひっくり返したような激しい雨の降るおそれがあります。京阪神などの都市部でも、道路が川のようになったり、周囲よりも低くなっているアンダーパスでは冠水したりする可能性があります。また、和歌山県では、午前中は車の運転が危険になるほどの、非常に激しい雨が降るおそれもあります。/土砂災害や低い土地の浸水、道路の冠水、川の増水や氾濫に警戒・注意するとともに、強風や落雷、竜巻などの激しい突風にも注意が必要です。(tenki.jp・2025年08月11日)(https://tenki.jp/forecaster/t_fujikawa/2025/08/11/35112.html#sub-title-a)

(☚ 昨年7月のある日の天気図)「梅雨末期は大雨と猛暑が隣り合わせ、どちらにも転ぶ可能性あり 7月に入り、日本付近では、これまで以上に大雨と猛暑に警戒が必要な季節となってきました。この大雨と猛暑をもたらすのは、日本の南からやってくる際立った暖湿流(暖かく湿った空気)で、この暖湿流により梅雨前線は活発化しますが、前線のわずかな位置や強度の違いにより、大雨と猛暑のどちらにも転ぶ可能性があります。/ 梅雨末期の今の時期は、まさに大雨と猛暑は隣り合わせの関係となります」(YAHOO NEWS・2024/7/2(火) :(https://news.yahoo.co.jp/expert/articles/bd3e67f21577787fe186934d3a8750ddde86e1a4

 昨年の夏も異様に暑かった。ぼくの経験では「画期的」な夏でした。そのために、いつも通りの除草作業や植木の剪定や伐採ができなかった。暦の上では秋になっても、身体の疲労は抜けきらず、気力もかなり萎えてしまいました。もちろん、年齢には勝てない道理と、いやいやながら納得しかけてはいましたが、そうこうしているうちに、敷地の方々で雑草類や木々、竹類が驚くほど繁茂し、拙宅前の空き地なとは、驚くなかれ、竹藪になり、空き地内には異常に桑の木が茂りだしてきました。桑は、雌株と雄株に分かれていて、花粉は風で飛ぶので、好き放題に住処を見つけては高木化していきます。たった一年の作業中止で、驚くほどの「荒野化」ぶりでした。

 高温多湿とはこの国土の代名詞のように言われてきたものでしたが、単なる高温でも多湿でもなく、超高温超多湿というべきでしょう。室内にいても、その「超…」の様は知らされます。本日、外は雨が降ったり止んだりですから、天気が悪いに決まっている。曇り空から降ってくる雨は、同時に湿気ももたらします。室内の湿度は82%を超えているので、汗が体にまとわりついて、実に不愉快な気分にさせられている。

 と、ここまで書いてきて、さて、この数日間の「晴れれば酷暑、降れば土砂降り」はこの国土の農業にいかなる悪影響をもたらしているか、と気になりだしている。冠水した田圃の稲は大丈夫だったろうか。高温に晒された野菜や果物類は食卓に無事届くのだろうか、やがて、本格的に台風が劣島にやってくる時期でもある。心配しても仕方がないようなことに胸を痛め、そして、「敗戦後八十年」の盛夏を、記憶や思いを新たに、心身の著しい惑いを何とか凌(しの)ごうとしているのです。我ながら健気だと思わないでもありません。

 (昨日は、五月に拙宅に新入りした「♀」猫を動物病院に連れて行った。まずはワクチン接種。そして九月の始めには二度目のワクチン接種と血液検査。それで異常がなければ九月半ば頃に「避妊手術」の予定。一体、こんな面倒な世話を何時までするのでしょうと、自分でもばかばかしくなる。「わたしは猫をたくさん保護しています」と、声高に叫ぶのではなく、僻陬(へきすう)の地で、数匹の猫たちと密かに暮らせれば本望だと、つい言いたくなりそうな明け暮れです。しかし、ネット回線を通して、世界のいたるところから想定外の情報が錯綜混入するこの時代。社会の埒外に生きているつもりはありませんが、それなりに静謐さを得たいものと思いつつ、それが高望みだと、瞬間に気づかされる日々の乱痴気ではあります)(空はさらに暗く、風も出てきました。カラスは早くから、うるさいほどに鳴いている。何を知らせているのだろうか)ふと浮かんだので、以下に。西脇さんは「永遠の生命を求めるは夢」と綴り、「永劫の断崖より落ちて/消え失せんと望はうつつ」と「幻影の河童」に語らせる。敗戦二年目の東京ではありました。

 旅人かへらず 

旅人は待てよ
このかすかな泉に
舌を濡らす前に
考へよ人生の旅人
汝もまた岩間からしみ出た
水霊にすぎない
この考へる水も永劫には流れない
永劫の或時にひからびる
ああかけすが鳴いてやかましい
時々この水の中から
花をかざした幻影の人が出る
永遠の生命を求めるは夢
流れ去る生命のせせらぎに
思ひを捨て遂に
永劫の断崖より落ちて
消え失せんと望むはうつつ
さう言ふはこの幻影の河童
村や町へ水から出て遊びに来る
浮雲の影に水草ののびる頃
 (西脇順三郎・1947年刊)

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使い捨てと便利時代のどん詰まり?

 薬師寺金堂の再建時だったかどうか、詳しいことは忘れてしまいましたが、ある大きなお寺の建物を作る時、国内ではまったく木材(樹齢数百年ものの檜)が手に入らなくなっていたので、台湾まで出かけ、2000㍍級の山に登って、必要な木材を購入したということを西岡さんはしばしば語られていました。一山の各所で生長した木は、いろいろな使い道があったのでした。人にはそれぞれに「得手・不得手」や「好き・嫌い」があります。それは持って生まれた性分であり、育つ環境によって生み出されるものですから、なかなか「矯正」はできないものです。木材も同じ、いや、木材の用いられ方(適材適所)こそが、人間社会に適応されたんでしょうね。

 半世紀以前と比べても、家屋の建て方や用いられる材料には驚くべき違いがあります。高校時代の友人が京都の高尾近くで「製材所」を営んでいました。それが、近年は仕事がなくなってしまった、だから製材所を畳むと言われたのが数年前。一軒の家に必要な木材を用途に応じて製材する、それが今ではすべての部材が「プレカット」されており、製材所の出番はなくなったというのです。恐らく、そのことは「大工さん」にも言えるでしょう。建築に要する部材はすべて「カット済み」だから、「刻む」という大工の腕(技術)は無用になった。後は、それを組み合わせるばかり。それが大工さんの仕事、まるでジグゾーパズルのようなものですね。工作でさえなくなった、ピース嵌め。

 それ以前は「プレハブ」などと言われた工法が持て囃されたものでしたが、今では、さらに進化して「プレカット」、適当なピースを嵌めるのが建築の主流になったようです。時代の流れですから、それに抵抗することはなかなか難しいということになりました。同時に、大工や左官・瓦職などの職業(職人)も仕事の内容は様変わりです。いい悪いではなく、時代の要請(かどうかは疑問だが、効率と儲けの関数関係でしょう)とあれば致し方ないというべきかもしれない。機(器)械が主役になって、人間が培ってきた「技術」は喪失されるのも致し方ないということでしょうか。

【日報抄】国民の祝日となってまだ9年の「山の日」は、どう過ごすのが正解だろう。登る。眺める。拝んでみる。祝日法は「山に親しむ機会を得て、山の恩恵に感謝する日」とする▼山への敬意といえば、この人も並外れていただろう。登山家ではない。「最後の宮大工」と言われた西岡常一(つねかず)さんだ。世界最古の木造建築群、法隆寺の専属大工を務めた。ことし没後30年を迎えた▼建立1300年を超える法隆寺の解体修理や薬師寺金堂の再建などを手がけ、文化功労者にも選ばれた。木材1本1本を見極める妥協なき探究心が、木を育む山への敬意につながる▼西岡さんの信念を表す言葉がある。「堂塔建立の用材は木を買わず山を買え」。いい仕事をするには用材となる木の性質を知らなければならず、そのためには生育した山の環境を知る必要がある。宮大工としての心構えを示す口伝の一つだ▼山の日当たりや風向き、方位の違いで、育つ木の堅さやねじれは異なる。特性を理解した上で、適材を適所に使うという。「癖は悪いもんやない。人間と同じですわ。個性を見抜いて使ってやる方が長持ちする」。著書「木のいのち木のこころ」に記している▼早さや安さ、手軽さが重視されるファスト文化の価値観とは、遠く離れた営みとも言える。慌ただしい日常をあくせく暮らす身には縁遠くも感じるが、現場主義に基づく思想は色あせない。長い歳月をかけ、木はじっくり静かに山で育まれる。奥深い山での時の流れに、思いを巡らせてみる。(新潟日報・2025/08/11)

 本日は「山の日」だという。その謂われは知らないし、「山の日」ですよと聞かされ、「へえー、そうなんだ」とのいいようもありません。【日報抄】は「山の日」の連想で、法隆寺の宮大工・西岡常一さんを偲ばれていました。この駄文集録には何度も西岡さんに触れています。その話や経験のいちいちがぼくにはなるほどというものばかりだったし、「木を生かすは、人を生かす」に通底すると思えばこそ、ずいぶんたくさんのことを学んだ気がします。「癖は悪いもんやない。人間と同じですわ。個性を見抜いて使ってやる方が長持ちする」というのは西岡さんの経験談。彼の生まれは「宮大工三代目」の家でした。

 棟梁のイロハは祖父から叩き込まれたという。小学校を卒業した時、父は建築科かなんかを考えていたが、祖父からは農業学校(生駒)に行けと命じられた。卒業する段(十歳過ぎ)に、一反の田んぼの稲づくりを命じられた。苦心して育てて収穫すると、それなりの取れ高があった。祖父に報告し、褒められると思ったら、「おかしい」と首をかしげて納得しなかった。「もっと獲れるはずやのに」ともいう。「稲は今、水が欲しいのか、肥料が欲しいのか、何が欲しいのか訴えているのに、お前は稲に相談しないで、本に相談している」と叱られた。「稲と話ができないとアカンのや」と。窒素・リン酸・カリの必要量は本に書いてあるけれど、田んぼごとに、その与え方も違うのだから、稲と話(相談)をしないとだめだということだった。

 ある時、近所の知り合いのかみさんが「うちの子は、勉強嫌いの馬鹿でどうもしようもない。棟梁、お願いです、弟子にしてください」と頼まれた。「馬鹿で、大工になれるかいな。勉強嫌いやったら、大学へ行って、どっかの会社に潜り込んだらどうや」と叱ったことがあった。本を読んで覚えて、試験をする。それでおしまい。「そんなんで、家が建ちますかいな」というのは、実にその通りだと、ぼくは頭を殴られたほど衝撃を受けた。ぼくは小さい時には「大工になりたい」とずっと思っていたから、なおさら、首肯したのでした。法隆寺は創建以来1300年。そこに用いられたヒノキ材は、木材になる前には樹齢何百年ものだったという。二千年経っても、檜のいのち(香り)は失われていなかったと西岡さんは繰り返し語られた。コンクリートは五十年、木材は三十年が耐用年数の相場だというが、なんだか狂っていると言いたくなります。木材は百年はおろか、数百年ももつ。物を大事にしないこと、それが社会の約束になってしまったんですね。

 「ファスト」「コンビニエンス」、そして「ワット」と「ビット」というのが技術万能時代のシンボルだとすると、使い捨てそのものが、まるで絵に描かれているようです。そして、その根っこには「人間そのものが使い捨てされる時代」、それを受け入れる社会の土壌や背景があるのですね。

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「徒然に日乗」(816~822)

〇2025/08/10(日)昨夜から続いて、本日も降ると言われていた雨も、ほんのお湿り程度。九州その他ではかなり凄い「危険な豪雨」、つまりは「線状降水帯」が発生し、そのために大きな被害が出ているのだから、当方における「お湿り程度」ではなんだか申訳がない気もする。明日も危険な豪雨が予想されているところがあるようだ。夜になって、少し風も出てきた。本日は、 おそらく30℃を越えなかったのではなかったか。例年の梅雨末期のような気圧配置で、あまりにも豪雨が続くと、今度は水害の恐れも出てくる。稲をはじめとする農作物に害が出ないことを念じている。(822)

〇2025/08/09(土)ただ今、午後9時半過ぎ。室温29.3℃、湿度74%。終日、蒸し暑い日だった。九州地方での線状降水帯は、徐々に移動して北九州や四国中国日本海北陸東北地方へと移っている。合わせて、台風10号発生で、前線を刺激しているのだろうか。明日も不安定な天候がみられるに違いない▶昼に買い物で茂原まで。毎回強く感じるのは、何時まで続く「物価高」だ。大したものは買わなかったが、5千円。恐らくこの社会の物価高騰は、食品に限っては10%近くになっているのではないか。経済政策は何処にあるのか、と思う。米国では大統領の意向に沿わないという廉で、統計部局の役人が解雇されているが、この国だって怪しいもの。関係する役人たちは、数字いじりが仕事となっているのかもしれない。インフレ・高物価・円安という三点セットがどこまでこの国の破壊を早めていることだろうかと思う▶日米関税交渉のお粗末は何だろうか。いくら「説明」したとしても、交渉の全体が明かされないままで「合意」というのだから、話にならない。この先も、どういう展開があるか、見通しが立たないのは、この間の「日米交渉」の「合意内容」だったというべきだろう。日米不可解交渉の淵源は「故元首相(売国奴)とT大統領」との口約束に始まるのだから、何時まで経っても、相手国にいいようにあしらわれているということだ。(821)

〇2025/08/08(金)各地で、特に九州南部(鹿児島県など)では激しい「豪雨」、いわゆる「線状降水帯」が発生し、大きな害が出ている。本日は買い物には行かなかった。いつも以上に仮眠時間が長くなった。睡眠時間が十分でないことの影響だと思う▶高温多湿は変わりないが、連日の猛暑から比べると、やや低かった▶この国の政治停滞は止む気配はなかった。国会も地方議会は言うに及ばず、この島の政治の遅滞は目を覆うばかりだと思う▶日米関税交渉の内容がどうなるのか、よくわからないで決着したらしいが、重要な部分では「修正」交渉が行われているのは、どうしてか。(820)

〇2025/08/07(木)蒸し暑い一日。北陸や新潟では集中豪雨、線状降水帯発生。激しい降雨が襲っており。照れば猛暑、振れば豪雨と、加減のない極端な気候の偏りがつづく▶昼前に茂原まで買い物。普段通りの混み具合、いつも通りの高物価。いつまで続くのだろうか、高温と高物価。ほとほと心身に疲労が蓄積するのがわかるほど▶三時ころか、ごく初期の卒業生(本人曰く、1963年生まれだと)から電話。戴きものをしたので、何度か電話をしたがつながらなかったが、先方からかかってきた。千葉市緑区おゆみ野に在住(JR外房線・蘇我駅近く)。かなり以前、彼女の家に行ったことがある。昨年9月に自損事故を起こして、以来、旦那による処置で運転禁止状態にあるという。何年ぶりだろうか。彼女も拙宅に5年ほど前に来たことがある。夫婦と三人の男の家族。末っ子は大学2年生で、たった一人だけ、夫婦と同居らしい。思わぬ長電話になった。また、来たいということだったが、運転禁止中だから、当方が迎えに行こうと話しておいた。

(819)〇2025/08/06(水)ただ今、午後9時。室温31.9℃、湿度73%。気象現象を構成する核心部分が壊れてしまったのではないだろうか。空気中の二酸化炭素が異常に排出された化石燃料の極度の消費が、この百年足らずで、大気圏の諸要素の安定的依存関係を破壊してしまったと思われえう。異常気象と言い続け、気候温暖化現象と指摘されつつ、いっかなその根本に立ち返る政策がとられてこなかったことの結果が、現実に生じている地球規模の異常気象の展開に現れていると思われる。この劣島においても連日の40℃越え、この現状に対して、人智は受け身(なすすべを知らない)なのかと、泣きたくなるほどの思いがする▶日中はほとんど何もしないで、家の中で横になっている。食事時になると、昨日から、何年ぶりかであエアコンを使用している。設定温度は28℃、それで十分すぎるほど気分が楽になり、身体も休まる▶昼過ぎに買い物に茂原へ出向き、帰路には猫用ドライフードを購入してきた。余計なことは一切せずに、ひたすら家に帰るのみ。夕方、4時過ぎには、表と裏の庭に散水、小1時間以上も要したが、植木なども一息ついたと思う。夏枯れは、今のところみられないのはさいわいだ。ますます草は繁茂しだしている。この小さな庭もまた、異常気象の影響を紛れもなく受けているのがはっきりとわかるのだ▶本日は八十年目の「広島原爆記念の日」。「式典」の中継を少し見ていた。(818)

〇2025/08/05(火)日々劣島では「史上最高気温」の更新が続く。本日は、群馬県伊勢崎市で41.8℃の歴代最高温度。また全国十四か所で40℃越え。紛れもなく熱帯気候帯であることの証明だ▶午前中に猫缶購入のためにあすみが丘まで。酷暑で猫の食欲も体調もやや不順であることは確か。規則正しく食事を摂ることが少ないよう。あまりの暑さで、熱帯夜を避けるために「外泊」組も多し。人間以上に猛暑・酷暑は猫には厳しいことと思う。今夏(あるいは数年ぶりに)初めて、エアコン(冷房)を付けた。毎日が高温の記録更新という実感がわいてくるのだ。二日後は「立秋」だというが、暑さのピークはまだ更新されそう▶千葉市おゆみ野に住んでいる卒業生からいただきもの。ごく初期の卒業生である。車で30分以内の距離だが、なかなか面会がかなわず。午後2時ころだった、京都長岡の姉からいただきもの。彼女は85歳。先日は「曾孫」が生まれたと聞いた。元気で、暑さを乗り切ってほしい。先日、送っておいた「お中元」のお返し。(817)

〇2025/08/04(月)ただ今、午後9時半。室温30.2℃、湿度69%。本日は石川県小松市で40℃越え(41.3℃)。これで5日連続の40℃越え。まさに身の危険に晒される「酷暑」というべきか。風もあったが、体を射すような酷熱にはひたすら腰が砕けるばかり。酷暑の隙間を狙って茂原まで買い物。用を済ませて急いで帰宅。この数日、外作業は中断したまま。無理に外に出て、暑さで参るのもばかばかしい限り。何とか涼しくなるまで、体力・気力を温存しておきたい▶台風の余波で期待していた降雨も「コメどころ」では空振り。田んぼの渇水もいよいよ瀬戸際に来たよう。祈るばかりなのだ。明日は東北地方でそれなりの降雨が期待できそう。(816)

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