
どんな選挙であれ、候補者の「学歴」を基準に候補者を選ぶことは皆無ではないとしても、まず本筋ではないでしょう。だから、いい加減な「学歴」を書いていいというつもりはありません。恐らく、この社会のさまざまな「議員」さん、いったい何万人おられるかわかりませんが、「学歴」詐称を問われるべき人はそれなりにいるのではないでしょうか。入社応募の際には「卒業証書」(「成績証明書」もあるか)の提示(出)を求める企業はあるでしょうから、それなりに書面上は「体裁」を整えることが条件となります。また、時に教員免許状を所持しないで教員を名乗る(教職についている)人もあり、詐称や偽称が判明すれば解職されるでしょう。「人間(じんかん)、イタルトコロ虚偽アリ」、つまりこの社会には嘘と偽りが充満しているということです。「嘘も方便」と言い、「不
妄
語
戒(ふもうごかい)」(「妄語」とは仏教語でいう「嘘」で、それはいかんぜよという戒律)という。つまりはどっちを取るか、時と所を選んでということでしょうか。「嘘」も時宜を選びなさいと、ね。
【新生面】学歴詐称 公職選挙法235条は、当選を得るため虚偽の経歴を公にした候補者は2年以下の拘禁刑または30万円以下の罰金に処すると定めている(虚偽事項の公表罪)▼公職に立候補する際に学歴は問われない。問われるのは、うそやごまかしのない「ありのままの自分」で選挙を戦うかどうかだ。当然だろう。経歴を粉飾する不誠実な人物には、地域のこれからを託したくない▼静岡県伊東市の田久保真紀市長が、近く辞職して出直し選に立候補する意向を表明した。5月の市長選で初当選したばかり。大学を除籍となっていたのに市の広報誌などで卒業と紹介されていたことなどが問題視され、市議会が全会一致で辞職勧告決議を可決していた▼市長選の際に報道各社が配布、回収した経歴調査票に大学卒と記載していた、との指摘もある。経歴報道は基本的に自己申告に基づいており、よほどの疑義や情報がない限り厳密な真偽確認はされないケースが多いようだ。田久保氏が“卒業証書”を持っていたことも混乱に拍車をかけた▼不明な点もあるが、田久保氏は社会に出る前に身に付けておくべき何かが“未履修”だったのかも。出直し選には費用もかかる。市民の失望と怒りは想像に難くない。引き続き支援する市民もいるのだろうが▼一方、参院選には選挙区350人、比例代表172人の522人が立候補している。公示日の翌日、本紙に載った候補者一覧をにらみながら夢想した。経歴とともに、「正直さ」などのレベルも数値で分かるといいのに。(熊本日日新聞・2025/07/12)

公職選挙法の「虚偽事項公表罪」に問われれば「2年以下の拘禁または30万円以下の罰金」とあります。問題の所在は、学歴を詐称・偽称してまで「当選」したいという候補者の問題ですが、「学歴」を重視して候補者を有権者は選んでいないと思われますから、この「学歴詐称」という、候補者の「姑息な過ち」を伊東市民はどう判断するか、というところに、問題の落としどころがあるのではないですか。「いいじゃないか、それでも」ということになれば、市長継続だろうし、それは許せないとなれば「市長再選挙」になる、余計な金が使われるけれど。(伊東市の担当者に電話取材をしたところ、選挙費用としてはおおよそ3000万円弱を予定しているという)彼女が再選されれば、五月の市長選ってなんだったん?
と、ここまで来て、それでは「都知事」の場合はどうなのか。知事選挙に一度ならず、三度までも当選しており、選挙の都度「学歴詐称」が問われていました。この女性知事、「生来の嘘つき」と評判はされて、これまでも危ない橋を渡ってきた人です。伊藤市長はまず最初に、同様(詐称・K池氏にすれば些少か)の疑惑を尻目に、堂々と世間を闊歩している都知事に指南を仰ぐべきだったと思う。日本の首都の代表が「学歴詐称」を問題視されても、言葉巧みに問題の行方をくらます、尻尾をつかませない、その政治力は天性・天稟のもの。そして重要なのは、いくら「学歴詐称」を追及されたところで、三度までも「都知事」に選出されているのです。選挙民の信任が篤(あつ)いということ。一体、選挙って何なの?

この国には「仏の顔も三度」という諺(ことわざ)がある。「(「仏の顔も三度撫ずれば腹立つ」の略 ) どんなに温和な人であっても、無法なことをたびたびされればしまいには怒る」(精選版日本国語大辞典)「都知事」選の場合、「仏」は誰でしょうか。恐らく「有権者」です。候補者は有権者を甘く、あるいは虫けらのように見なして、「当選すれば、それまで」と高を括っている・いたか。有権者を尊敬していない(見きびっている)ことだけは事実ですね。でも、仏である「有権者」は何度撫でられようと、痛くも痒くもないどころか、心地いいと感じているのかもしれません。あろうことか、その知事には、有象無象、贔屓筋(政財官界)が腐るほどいるのです。伊藤市長に足りないのは「厚かましさ」「開き直り」「弱音を吐かぬ」、そのような「政治家」であるべき三条件が著しく欠けていた? ぼくは伊藤市民ではないから、詳しくは分からないけれど、市議を一期だったか勤められていたようですから、詐称はお手の物だったろう。なかなかの「猛者」と見受けました。

現段階で、この問題の帰趨は判然とはしないが、「出直し選挙」の公算は大と見られている。その先例には兵庫県知事選がありますから、ぜひ、それを参考に「二馬力」で再選を目指されればいかがですか。ぼくは現職市長を応援する義理もなければ趣味もありません。(伊東市からは「固定資産税」を徴収されているが)自らの履歴を偽称して、発覚するまで「しらばくれる」という醜状はなんとも認めがたい。だから当該選挙の有権者なら、「ぜひお辞めください」と声を上げるでしょう。でも、また同じような輩が出てくるかもしれないと思うと、学歴なんかどうでもいいじゃん、と思ってしまうのですよ。何大学を出ていようが出ていなかろうが、大した美点でも汚点でもない、まあ、洋服についた滲(し)みみたいなもの、それで本体(それを着ている人)が損なわれるはずもないでしょうに、その程度に思っている。
今回の騒動が起こりだした際、ひとりの支持者がいみじくも語られていました、「あなたを学歴で選んだのではないから」、だから「どうこうしてほしい」とは言われなかったが、言わず語らずで、ぼくにはその支持者(女性)の意とするところは分かった気がしました。「あなたの人柄を認めて投票したんですから、再出馬したらどうか」という趣旨だったと思いますが、「それにしてもツマラン間違いを犯したものね」と言いたげでありました。何度でも繰り返します。「人間は間違いを犯す出来損ない」「性懲りもない輩」ですから、取り返しのつかない間違いもあるかもしれない、でも取り返せないと決めつけることはできないのもまた、人間の弱さの表れではないでしょうか。

都知事や伊東市長の「詐称」疑惑を必要以上に重く見るのではありません。(もちろん、「学歴詐称」を認めれば、選挙に出ることは憚られるでしょうね、それでも出るかしら)学歴詐称を厳しく問うなら、諸々の教育機関の資格そのものも問われてきます。ことは面倒ですから、ほどほどに、と思う。つまり、自らの「学歴」に必要以上に重きを置かないことですよ。他人の学歴がその人をどれほど語るか、そんなことより、直に当人を見れば済むこと。ぼくは大学は出たけれど、何よりも「そんな悪場所に入るべきではなかった」という負い目を持っています。だから、ぼくの学歴は「高卒」、そうしたいと考えている。でも最終学歴を問われれば、嘘を付くわけにもいかない。しかし、言いたくない(書きたくない)気持ちが根強くありますから、履歴書を書く必要に遭遇しないようにしてきました。
「公職に立候補する際に学歴は問われない」のは当然ですね。「学歴が仕事をする」のではありませんから。「公職」とは「公的な性格をもつ職の総称。重要な公務員の職。国会議員、地方公共団体の議会の議員および長の職、農業委員会や境域委員会などの委員の職をも含む」(精選版日本国語大辞典)元総理大臣だった田中角栄氏は、自ら「高等小学校卒」と公言しておられたが、最終学歴は「中央工学校卒」だった。その当時(1936年)、同校は認可公認されていなかった)

これまでも、何度も何度も「学歴」の記載を履歴書に求めないという企業が出ては消え、消えては出ました。不要だと、どうして決められないのでしょうか。細かいことは省きますが、あらゆる職が「公職」に近づくことを願いますね。年齢・性別・学歴・国籍等は一切不問、そんな時代はもう、すぐそばまで来ているのですが、そうなればなったで、「揺り戻し」「逆転現象」などが発生します。困った集団ですね、人間社会は。
「経歴とともに、『正直さ』などのレベルも数値で分かるといいのに」(「新生面」)とコラムは冗談めかして(と思う)述べられている。数字や文字に語らせるから、さまざまな問題が生じているのに。嘘・偽りは「模範」「手本」の口や手から出てくるんですよ。「人を見る」ということを、ぼくたちはもっと重要視しないとだめですね。「『人を見る』人」を見ることこそが問われているのですからね。
それにしてもだ、この社会の「首長」には得体のしれない「怪物」「怪人」「怪盗」「怪漢」が多すぎるのはどうしてか。いちいち挙げればきりもなくなるから、それはしないが、きっと選挙民は「怪しい」人間が好きなのでしょうか。とするなら、選挙(投票)は民主主義の、ある種の「隘路」(「ここは何処の細道じゃ」)ですね。「百年河清を俟つ」ても、「怪しい」は消えることはなさそうですから。今では使われなくなった警句でしょうが、「怪我と弁当は自分持ち」というのがありました。民主主義に払うべき「怪我と弁当」は高くつきますし、際限がないのが空恐ろしい。「民主主義とは、地平線に向かって歩を進めること」
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