「ささる」は人によりけり

【夕歩道】最近の言葉はよく“刺さる”ほうがよいらしい。「いいお話だった。胸に刺さった」と喜々としている若者を見たことがある。刺さって痛くないのかなあ。刺されどころが悪いと死んでしまうよ。▲20日投開票の参院選では、党代表や候補者らがキャッチコピーを拡声器で振りまいた。聴衆の胸に刺されとばかりに-。参政党が唱えたのは「日本人ファースト」、新たに14議席の大幅増だった。▲店で笑顔の女性店員さんや、街ですれ違ったおとなしげなお兄さん。肌の色が違うあの人たちの胸に変な形で「日本人ファースト」が深く刺さっていないか気にかかる。心から赤い血が流れるよ。(中日新聞・2025/07/22)

 「刺さる」って、どういうことですか。そんなことを訊くようでは話にならないね、と笑われそう。ぼくには「刺さる」という経験、あるいは「刺さった」という経験はないかもしれない。第一、「刺さる」(の語意・語感)がよくわからないのですから、経験したとは言えないし、経験したかもしれませんが、要するに、あってもその程度の経験だったということ。刺激的な言葉だから、掴まえられるんですね。それはまさしく、キャッチコピーの世界。この世は、まさにキャッチワードを求め、それらにキャッチされることを求める人で充満しているのでしょうか。納得するとか、胸に落ちるとか、腑に落ちるなどなど、よく似たような言葉は、わが身で受け止める風情がありそうですね。そこへ行くと、「刺さる」は受け身で、「矢」や「刃物」が向こうからやってきて、突き刺されるという感じがしますが、どうでしょう。

 「左上」のキャッチの著者はどなたか知りませんが、「自分に大事なこ」と、「自分に大切な人」を考え続けていれば、「いい人生が送れる気がする」と言われている。大事なのは「いい人生」の方ではないですかと逆に尋ねてみたい。人によって「いい人生」は万別、さまざまな人生に「よさ」「悪さ」があるのであって、それを定義することも強制することもできないと思う。だから、ぼくにとって「いい言葉」という方が、とても重要に思われます。高校生の頃だったか、三島由紀夫さんの「箴言」に出会ってとても感激したし、それは今もなお、それこそぼくの胸に刺さっている。「誰もが非凡を目指して平凡になるのだ」という表現だったと記憶している。当然その逆のことも、また三島さんが言いたかったことだし、自分はそうしてきた(平凡に徹して非凡になった)という意味に思えてきた瞬間、三島さんが詰まらない人物になった気がしました。

 右のキャッチは美輪明宏さんのものらしい。ぼくの実感ではまるで美輪さんが言いそうでもない言葉に思えてきますから、美輪さんという人の幅というか、深さというものが測られるのかもわかりません。悪心を起こしたとき、それを胡麻化さないこと、そうすれば、「自分は悪い人間だ」という自己意識が働くというのです。悪いことをしても「自分は善人だ」と偽り続けていれば、自分を見失うのでしょう。

 朝日新聞の朝刊に「折々の言葉」という連載が長く続いています。新聞購読をしていませんから、ごくたまにネットでそれを探す程度ですが、時には「刺さる」「刺さりすぎる」言葉があります。つまり「刺さる」というのは、おそらく「言葉」のことでしょう。ここ何代かの、元総理大臣たちのことばでは、はいつだっていささかも「刺さらなかった」のは、自分の言葉という、肝心要のものがなかった、誰かから言わされていたからだろうと思う。おしなべて政治家の「ことば」は嘘くさいし、刺激的であるほど、無内容なものと思われる。

 「刺さる」というのは刺したい」方が(受けを狙って)、狙った通りになるということでもあるなら、その効果はあまり長持ちはしないし、人はまた、次の「刺さるキャッチコピー」を求めることになるでしょう。コピーを振りまくのは政治家であったり、コピーライターであったりするのは時代の風潮かもしれません。本来、「ことば」は、ある人が誰かに渡す(話す・伝える・訴える・呼び掛ける)もの。その誰か(対象)とは、具体的に想定されている時もあれば、不特定多数の場合もあります。それは「歌」に似ていると言えるのではないでしょうか。世間に流通する「歌」はほとんどが不特定多数を対象に、売れること・受けることを狙ってだけに作られ、だから、大当たり(大刺さり)したりしなかったりすることががあるのでしょう。

 「日本人ファースト」という表句(標語)は、ぼくに言わせれば「毒矢(poison Arrow)」でしたね。その毒矢に当たった人は驚くほど多かった。わざわざ「当たるため」に出向いた人もいたほど。きっと甘い蜜の味がしたのでしょうが、その密の下には毒が忍ばされていたんですよ。幸いなことだったか、それは猛毒ではなかったらしくて、症状も軽症で終わる人も多数出てくるはずです。でも、芯から毒に浸かっている人も一定数はいるのですから、この後はなかなかに厄介な問題が続くと思う。つまりは「中毒症状」です。

 この居住世界が窮屈になることだけは御免蒙りたい。「日本」とか「日本人」などと、さも確信ありげに叫んでもろくなことにはならないでしょう。何事も「純粋」はあまり美しくないものだとぼくは考えています。少しは不純の要素がある方が強いし、美しいとぼくは受け止める。「日本人が一番」、「日本は最高」などと胸のうちに収めて置く限り危害はありません。でもこれ見よがしに叫び出したら、その国や国民は「正気(sanity)ではない」と他者に知らせていることになるばかり。家族同士、隣同士であっても、本当に仲よくするのは難しいのであって、それは人間同士が理解し合い寛容の心持で付き合うのがどんなに難しいかを示しています。それだけ、人という存在は「情念」(「感情」)が暴力的、排他的になることがあるからで「親しき中にも礼儀あり」、それが最も困難な関係かもしれませんね。

 上に触れた「折々の言葉」から二つばかり。「左上」の引用は<Alone Together>。「ふたりぼっち」と言いたくなるでしょうが、そうではなく「孤独な人が隣あって」と理解している。ジャズ喫茶という空間は「わたしとあなた(I and you=we)」で生み出す公共の場、つまりは、個々人が自分の判断で動くという、まさしく、それはデモクラシーの基本とまで言われています。血縁でも地縁でも社縁でも学縁でも、ましては腐れ縁でもない、個人個人の隣り合い、それをぼくも大切にしたい。

 そして「右」のキャッチはコンビニのトイレの壁の「メッセージ」でした。「晴れた日ばかりでは花は咲かない」、まるで人生のある一面を射抜くような言葉(キャッチ・コピー)ではないでしょうか。雨のち晴れ、晴れのち雪など、雪のち嵐などなど、いつだって「単一(single・mono)」でも「純粋(unmixed)」でもないというところ、それは一本の花が咲くにも「複雑な仕組み(作用)(寒暖・雨風など)」が必要だというのでしょうか。<constant sunshine・no flowres>そういうことなら、「刺さる言葉」は何処にもでもありますね。「刺さりたい」なら、感覚を鈍麻させていてはダメ。とはいうものの、「鈍感」でも惹きつけられる言葉はあるにはある、でも、それは詐欺師(con man)、人誑(ひとたら)し(People-pleaser)の常套語であることがほとんどではないですか。

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目下、社会は「メルトダウン」状態だ

【有明抄】ご冗談を… 世の中は冗談みたいなことがしばしば現実になる。「空港を大統領の名前に」「大統領の誕生日を祝日に」「新紙幣の肖像画に大統領を」「地下鉄も大統領の名前に」…。いま米下院では、こうした法案が次々に提出されているという◆自国第一主義を掲げる大統領はよほど、ほめられたい方であるらしい。結局「自国第一」とは「自国民」のことではなく、「自国の権力を握ったオレ」が一番ということなのだろう。それは「自分さえよければ」と言っているようなものである◆物価高や移民政策への不満を背景に、選挙で与党が敗れ、自国第一を掲げる極端な新興政党が躍進する。そんな遠い欧米の国ぐにで続いた出来事が、いつのまにか足元まで迫っている。若い世代を中心に、不満のはけ口を求める生活の厳しさを思う◆スマホから垣間見るキラキラした世界と、自分の生活とのギャップ。「既成政治は腐敗に満ちている」とSNSはささやく。そんな政治のことばを検索するうち、似通った「おすすめ」が次々に表示され、「自分だけ」の価値観に染まっていく◆こうして分断が進む時代に、与党は「希望」を示せなかった。それでも石破首相は続投を表明した。国民から再び「不信任」を突きつけられながら、「国難を乗り切るため」という。世の中は冗談みたいなことがしばしば現実になる。(桑)(佐賀新聞・2025/07/22)

(ヘッダー写真は朝日新聞:街頭演説を聞く有権者=2025年7月3日午前10時50分、兵庫県内、伊藤進之介撮影)

 例えは穏当を欠きますけれど、目下の我が国に生じている諸現象は一連の連鎖状態の中で「メルトダウン」シンドロームにあるといっても過言ではないでしょう。福島原発の原子炉事故はいろいろな危険物質を原子炉建屋の内外に拡散し、いまなお、その最終処理段階が見えない状態にあります。時に「メルトダウン」が「チャイナシンドローム」と呼称されるのは、アメリカで発生した原発事故は、原子炉格納庫の隔壁を突き破り、地表・地下を貫通し、やがては中国にまで被害が至ることを象徴した表現でした。現下の地球規模の政治・経済などの不安定要因がどこにあるか、その起点を含めて、単純には言えないことですが、欧米の一国で発生した政治経済の「メルトダウン」がまさにチャイナシンドローム現象を生み出し、あらゆる方面に地球規模で生じていいるのです。

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● メルトダウン(meltdown)= 原子炉で燃料溶融が起こり、燃料集合体の溶融物が炉心の下部へ落ちていく状態。大量に溶融した場合、圧力容器や格納容器を貫通する場合もある。→チャイナシンドローム(デジタル大辞泉)

● 炉心溶融(読み)ロシンヨウユウ(その他表記)meltdown= 原子炉の炉心が高温になり,融点をこえて溶融すること。出力の異常な上昇か炉心の冷却不能時に起こりうる。炉心溶融が起こると,高温の溶融物質が冷却材と接触して蒸気爆発を生じたり,構造材を溶かしながら原子炉容器の下部に流下する。一定量以上の溶融燃料が 1ヵ所に集まると,臨界条件に達して制御不能な核分裂連鎖反応が起こる再臨界事故を起こす危険性がある。さらに,燃料要素内に封じ込められている放射性物質を原子炉容器と一次冷却系統に拡散させ,外部へ放出するおそれがある。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 政治(家)のメルトダウンは、政治にかかわるあらゆる部門の不具合や異常をもたらす。我が国における「赤字国債(1200兆円余)の発行は、その後に続くゼロ金利を齎し、異様な円安状態を来しました。国債の増発は限界を知らない規模で膨らみ、それがまたあらゆる経済指標の大幅な振幅拡大現象を将来してます。金融汚染は市場経済の万般にいたり、その始末をつけようにも解決の糸口が見えません。本来は政治の舵取りがまっとうに行われていれば、こんなに極端な経済・金融のメルトダウンを経験しなくてもよかったのでしょうが、現実には見るも無残な「政治(家)溶融が生じている。この傾向は、さらに激しく続くことは参議院選挙の結果を見ても明らかです。

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(上写真・候補者たちの最後の訴えを聞く有権者ら=2025年7月19日午後7時28分、東京都港区、藤原伸雄撮影)(朝日新聞・2025/07/20)

 新興政党のいくつかは、どう考えても「極右」であり「右翼」でしょう。それが悪いというのでも、それを排除すべきだというのでもないのは当然です。しかし、それらは「スパイ防止法」を錦の御旗に「国家ファシズム」を標榜しているのです。治安維持法さえもが口にされる。排外主義は民族浄化を予想させますが、今どき、このようなアナクロニズムが大手を振って闊歩しているのですから、これはいつの時代かと驚く、嘆くのは当然だとぼくには思われてきます。「極右」擡頭を、まるで歓迎しているかのような大方のメディアは、そのことで何を得るのでしょうか。メルトダウン状態は、遂には人心にまで及んでいることをぼくは忘れないでいたい。嘘でも暴力でも何でもいい、心を揺すられる政党や政治家に出会えて感激し、挙句に泪する「善人なる庶民」の救いがたい軽薄さ(frivolity)は、まるで付和雷同の徒、烏合の衆。ぼくんは唾棄すべき事態だと言いたくなる。

 こんな暴力的勢力が権力を掌握すると、「日本人ファースト」は「日本ファースト」の露払いが役割であって、いずれ国家本体に国民(個人)は緊縛されることになるのです。(あり得ないこととぼくは確信しているが)精神の自由すら奪われている、現下の状況を顧みる余裕すら失っている庶民(ぼくも、その中にいることは事実)に何が起こっているのでしょうか。政権与党は惨敗だとマスコミは喧(かまびす)しいが、何のことはない、補完勢力が穴埋めをするだけの話で、実に「保守(右翼)陣営」の帳尻はあっているのです。男尊女卑の観念を回復させ、夫婦別姓導入を拒絶する「家族国家主義者」たちは、一国繁栄を希求する「村落共同体的国家」を期待しています。そこには「異邦人」や「多国籍者」の存在は容認されないことは明確にされている。まるで、江戸(鎖国)時代の「政治形態」にこそ、この国のよさ(順風美俗)を発見しているのではないでしょうか。

 このところ、ぼくの壊れかけている脳髄の奥から「権藤成卿(ごんどうせいきょう)」という魂魄の叫び声が頻りにしている。自覚の有無にかかわらず、「日本人ファースト」「日本ファースト」を呼号する人々はおそらく、権藤さんの主張と、どこかで相応え合っているはずです。いずれ機会を見て、権藤さんのものの見方を駄弁るつもり。ぼくに言わせれば、それは間違いない、ある種の「亡霊」であるのですが、この社会には幾多の亡霊(山本七平さんもその一人)が地上・地下を彷徨(さまよ)っているんですね。時代(人々の意識)は前に進むのではなく、時間をさかのぼり、後ろに下がる。

● 権藤成卿(ごんどうせいきょう)(ごんどうせいけい)(1868―1937)= 農本主義の理論家。本名善次郎。慶応(けいおう)4年2月28日生まれ。久留米(くるめ)藩主の侍講であった父から、家伝の制度典例学を学び、二松学舎(にしょうがくしゃ)中退後、中国、朝鮮などを視察し、独学で独特の学識を蓄積した。1902年(明治35)上京、黒龍会(こくりゅうかい)に関係し、韓国併合や日満蒙(もう)を結ぶ「東亜連邦」を構想。内田良平(うちだりょうへい)らと『東亜月報』を発刊。1918年(大正7)老壮会に参加、1920年6月自治学会を創立、人民の自然的自治のうえに政治が施行される農本自治主義こそ日本本来の姿であると説いた。『自治民範』(1927・平凡社)などの著書がある。1932年(昭和7)血盟団事件に連座して逮捕されたが、不起訴。昭和12年7月9日死去。(日本大百科全書ニッポニカ)

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Majority voting is not the best method.

【夕歩道】❖自宅と隣接するごみ集積所の場所を変えてほしい。20年近く悪臭などに悩んできた男性が町内会に要望したが、総会では「1対86」で否決された。男性は町内会の住民らを相手に裁判を起こし-。◆千葉市であったこの興味深い出来事を6月末に朝日新聞が伝え、熟読した。千葉地裁は、被告となった住民らに、この集積所へのごみ捨てを禁じた。「男性に一方的な負担を押しつけてきた」と。◆多数決が正義ではなく、害を受ける人の声こそ尊重せねば、と判決は諭すかのよう。世論が割れる選択的夫婦別姓も同じか。自分の姓を名乗れず「一方的な負担」に悩む人々の声に耳を傾けたい。(中日新聞・2025/07/19)

 この問題(「ゴミ出し」と「町内会」)は、至る所で見られます。今回は当地の隣にある地区で生じた問題。「生ごみ」集積所を自宅前に置かれて迷惑、少しは「当方の迷惑を考えてほしい」という素朴な意見に対して、町内会では多数決をもって現状維持を決めたことで、当事者が訴えていた裁判。事の経緯は省略します。自宅前の「集積所」を何とかしてほしいという一住民の意向(希望)は、町内会で審議され、「1対86」で否決。さらに場所の移転をも問われたが埒が明かず裁判へ。判決は訴えた側の勝訴。集積所の設置は「受忍限度を超えたもの」として、住民たちの集積所利用を禁じた。どこにもある問題で、この社会のいたるところで、驚くほど「エゴイズム」が闊歩している状況を示しています。その昔、暇に飽かせて、この問題について調べてみたことがあります。

 問題はこれに限らず、町内会加入、未加入者の集積所使用禁止。あるいは集積所利用に、年間2万千円納入を命じた判決もある。また、町内行事に不参加だったものにゴミ集積所使用禁止、回覧板巡覧禁止。その他、数えきれないほどの問題(混乱)(内乱)が見られます。長く裁判で争うケースも目につく。問題の所在はどこにあるのか。この問題で、多くの行政は腰が引けていると思う。ぼくも当地に越してきた当座、自治会(町内会)加入を求められ、最初は気軽に加入するつもりだったが、町内区域にある神社の除草など勤労奉仕の義務化、氏子料(7千円超)の負担などなど、いくつかの条件を認めるように促されました。それでも加入するつもりだったが、新規参加の先住民への挨拶金(十数万円の要求)などがあったので、直ちに加入を断った。

 その段階で知ったのだが、ごみ集積所は拙宅から1㌔以上も離れていた(自治会館敷地内)。やがて、拙宅付近の住民が行政と掛け合って、現在地(拙宅から100㍍ほど離れている)に常設され、ぼくはそれを利用している。ビン・カン類も(前記)町内会集会所に置かれていたし、町内会未加入者には使わせないということだったらしい。これもまた行政に掛け合って、現在地(近所のTさん宅駐車場内)に設けられ、ぼくはそれを使っている。千葉市の事案で、当事者だった男性が状況改善を求めたが無視された、その町内会の議決が凄いものでした、1対86。圧倒的少数者に置かれた男性の「1」が無意味だったかと言うとそうではなかった。逆に言うと「1」が正しければ(合理性があれば)、それは3にも30にも50にもなるでしょう。これはデモクラシーの好例です。100対0ではなく、99対1の「1」が大事です。その1には50や60になる可能性(正当性)が含まれていることがあるからです。(小数意見が大多数を救うことはいくらもあります。集団において、少数意見こそ不可欠)

 20年耐えた自宅前のごみ集積所 町内会に移設求めた訴えに裁判所は 自宅と隣接するごみ集積所の場所を変えて欲しい――。長年、悪臭やごみの飛散などに苦しんできた住民が町内会にそう要望したが、総会で1対86で否決された。住民は同じ町内会の住民らを相手に、集積所へのごみ捨ての差し止めを求める裁判を起こした。裁判所はどう判断したのか。/原告は千葉市内に住む80代男性。2003年6月に今も暮らす一戸建てのマイホームを建てた。土地購入時には集積所との間には小さな緑地帯があったが、道路の拡張工事で男性が住み始める頃には、集積所は自宅に隣接した場所に移った。以来、20年以上その状態が続いてきた。
当番制で掃除するはずが 集積所には、ほぼ毎日ごみが捨てられる。利用者が1週間ごとの当番制で掃除をすることになっているが、特に夏場には悪臭があるほか、カラスや猫が荒らしたり、収集後にごみが捨てられたりすることもあった。当番が掃除をしないこともあり、そうした時は男性が片付けや掃除をした。/15年春、この集積所に近くの別の集積所を統合する話が持ち上がった。男性は状況がさらに悪化するとして拒否し、逆に近くの別の地点を示した上で自宅隣の集積所の移設を求めた。
 だが、話は進まず、男性は町内会の臨時総会に移設を諮ったが、賛成1、反対86(委任状を含む)で否決された。
 男性はさらに19年から複数回にわたり、改めてごみ集積所の移設を要望したが、町内会は応じなかった。
 23年9月、男性は集積所を利用する20人以上を被告として、千葉地裁に提訴した。/訴訟で男性側は、20年以上にわたって集積所の悪臭、景観の悪化、ルール違反や不法投棄などへの対処を強いられており、「被害は甚大で極めて不公平だ」と訴えた。(朝日新聞・2025/05/10)(https://www.asahi.com/articles/AST5732L5T57UDCB005M.html)
 町内会(ちょうないかい)= 住民の自治組織であり,同時に行政機構の最末端組織としても機能する地域団体。起源は,古く律令時代の里制度,あるいは江戸時代の五人組制度に求めることができる。もともとは単なる隣保組織にすぎなかったが,第2次世界大戦参戦直前の 1940年,内務省訓令により区域内全戸の加入が義務づけられ,行政機構の下部組織として制度化された。しかし,戦後の 47年5月政令 15号によって廃止され,その後 52年の政令失効とともに再び各地で復活しているものの,一部有力者の運営にまかせた旧来の体質に対する批判は増加しており,公共住宅団地などでは,これに代るものとして自治会の結成をみるにいたっている。(ブリタニカ国際大百科事典)

 参議院選挙の結果が出たようです。「自分一人が投票してもしなくても、何も変わらないではないか」と「棄権」を正当化する人がいます。それも一つの意見表明。だから、どんなことがあっても「棄権は非」とぼくは言わない。行くもよし、行かぬもよし、それが選挙です。投票率100%とは、いかにも嘘くさい。もし、ごみ集積所問題のように、自分が当事者になったら、どうでしょうか。あるいは隣人だったらどうでしょうか。自分には無関係と言い続けるのも一つの態度、でも当事者になったら、大声で騒ぎ出すけれど、誰も同情もしてくれない、それが「自分の居住している地域」だと気が付くと、どうなるのでしょうか、自分の気持ちは。86人の中に入っていれば、災いは襲ってこないとタカをくくり無関心を装うのでしょうか。ぼくは大概の場合、「少数者の側」に身を置いてきました。「差別する側」にではなく、「差別される側に」にこそ。若いころ、誰もが差別しなくなったら、たった一人で差別するぞ、そんなバカみたいなことを広言もしていた。

 「明日は我が身」という俚諺があります。「よくないことが、いつ自分自身にふりかかってくるかわからないということ。[類語]昨日は人の身今日は我が身・今日は人の上明日は我が身の上」(デジタル大辞泉)

 今でもなお、紅灯の巷で「村(町)八分」が生きて、機能しています。つまりはハイカラを装っている、その正体は極めて功利的かつ利己的な人間集合体だという意味です。ぼくの中にも残存している「村八分根性(集団による制裁)」の古い体質を抉(えぐ)り出す手を緩めてはならないでしょう。ぼくは「村八分」制を全否定はしません。いやできないのです。この社会に古くから続く「村八分」という「制裁法」は、他の地域で認められる「魔女裁判」ではなかったでしょうから。でも、事を荒げての「村八分」もないものだろうという気が強くするのも確かです。民主主義は死ぬ(殺す)わけにはいかないとぼくが考えるのは、それを否定すれば、自分を殺し、他人を殺すことに加担することになるからです。

 名ぜりふ劇場 民主主義は最悪の政治形態といわれてきた。他に試みられたあらゆる形態を除けば チャーチルの名言
 チャーチルは勇猛な政治家でしたが、戦争の回顧録でノーベル文学賞を与あたえられるほど表現の才に恵まれた人でもありました。民主主義はいろいろ厄介な問題があるが、これに勝る政治のかたちはない、というこの言葉。なるほどと思おもわせます。
 公平な議論を進める手順の面倒さ。少数派の意見を大切にする心くばり。多数派が何ごとも数の力で押し通す危険。皆みなさんのクラスの話合いや討論でも意見をまとめきれず、議長役は大変でしょう。でもそうした「苦労」が民主主義の土台をつくるのです。劇場支配人・玉木研二(毎日新聞客員編集委員)(毎日新聞・202/12/21)(https://mainichi.jp/maisho/articles/20201221/kei/00s/00s/011000c)

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「徒然に日乗」(795~ 801)

〇2025/07/20(日)本日も快晴。猛暑日は確実だ。▶朝食を済ませた後、9時ころにかみさんと参議院選挙の投票に。(都合がつかなかったこともあって、今回も期日前投票はしなかった)近くの中学校体育館まで。投票率は前回並みか。それにしても50%近辺だから、いかにも政治は無関心層にはさらに嫌われているに違いない。その理由は言う必要もないくらい、政治家が政治を遊び気分(不真面目)で行っており、完全に有権者や国民を舐め切ってきたためであろう。この政治アパシーはこれからもしばらく続くと思う。「極右」が議席を占め、それなりの政治動向のカギを握る事態が生まれても、この政治無関心は続くだろう。それはまことに危険な兆候だが、時の流れを堰き止めることは困難だと思う。「団四の権力」もまた死滅寸前の、虫の息。誰が息の根を止めてしまうことになったのだろうか。ぼくの愚公するところ、それは「自死(Suicide)」だった▶帰宅後、しばらくは仮眠。とてもではないが、外の作業ができるはずもない酷熱状態。無理をしないに限ると、ずる休みを決めこんでいる▶「梅雨」らしくなかった「梅雨明け」宣言後も、相変わらず熱中症危険アラートが鳴り続ける気温状態が続くだろう。ただ今午後8時。室温30.3℃、湿度69%。今夜も熱帯夜か。猫は正直で、あまりに蒸し暑いと屋外で夜を過ごすのだ。数日間帰らなかった子が本日昼頃に戻る。どこで何をしていたのだろうか。(801)

〇2025/07/19(土)朝から猛暑の予感。ゴミ出しで、6時半に集積所まで持って行ったが、すでに付近からは刈払い機のエンジン音が響いてくる。隣のIさんは、自宅に入る町道沿いの樹木の枝を払っておられた。当方も負けずに出陣と一瞬は思ったが、疲れが残っていて、朝食後は横になったまま眠ってしまった。午後一時も過ぎてから目を覚ます始末。それ以来、何をするでもなく、時間を無駄に過ごしていた▶昨日から、また一人帰ってこない子(♀)がいる。この子は以前には三日も帰らなかったことがあったし、以来、しばしば一日、二日家を空けることも。事もなく無事に帰ってくることを俟つ・祈るばかり。(800)

〇2025/07/18(金)本日は快晴の一日。それでも、各地では強いあめが降っている地域もあるという報道も。ようやくというのか、関東地方も「梅雨明け」と気象庁。一体、どんな「梅雨」だったかを考えれば、これまでも梅雨の様相とは一変しているのが明らか。作物は高温障害に災いされたり、多量降雨に成長を阻まれたり。これまでの「長閑な四季折々」は薬にしたくも見られなくなったようだ。九時ころから仮眠。昼過ぎまで寝てしまった。睡眠不足には少しの補充にはなったろうか。つくづく、酷暑灼熱下では動かないで静かに過ごすに限ると実感している。二、三日は頭痛がしていたが、今のところ、それは解消したよう。猫たちも高温酷暑には身のやり場がないらしく、夜も外に出て暑さをしのぐものが多くなった。出るもの、帰るものが入り乱れて、それに付き合わされている当方の睡眠時間は削られてゆく▶参議院選挙報道をネットで見る。一昔前なら、「政変」含みの選挙と言ったところだが、そんなものですらない「茶番」が演じられているし、「参●党」一点に報道は集中しているのが、奇怪だし、不気味ですらある。要するに、メディの多くは「不真面目」「不誠実」というほかない為体(ていたらく)。結果はすでに明らかなようだが、いい方向に政治が向かう気遣いがないのは、当節の時代状況としては、致し方ないのかもしれない。この国の凋落が、選挙情勢にも及んでいるし、少なからず既存政党のかなりな部分に「少子高齢化」の波がかぶさっているのが大きいと思う。(799)

〇2025/07/17(木)本日も終日自宅内で時間を過ごす。かみさんは相変わらずの「活動集会」に。真面目で精が出るのは感心するが、それに反してだんだんに「愚か者」に変貌しつつあると思われて、いささか情けなくなる。他人のことを言えた義理ではないが、驚くほど「不勉強」だと言いたくなるほど、無駄な時間を過ごしていると思う。同時に、自らの身体について、その健康に関して、驚くほど「無関心」なのはなぜかと考えてしまう。痛いとか痒いとは言うが、それを防ぐためにどうしたらいいかというところにほとんど智慧が働いていない。たまたま治れば、それまでのこと。けろっと、痛さや痒さを忘れてしまう。再発させないためになどとは一切考えないのだ。果たして、6年前の術後の抗がん剤服用に帰因するのだろうか。もちろんそれもあるし、高齢による衰えもあって、だんだんと、諸事に怪しくなって、驚くような反応が出るのだ。「気の強さ」が、ここにきて彼女の性格の意固地さを助長させていると思う。(798)

〇2025/07/16(水)昨夜来の雨が続いている。本日は「ビン・カン」回収日で、早朝5時ころ、降雨の合間を縫って、回収所に持参。ペットボトルはすべてではなかった。小物は次回(来月)に回すつもり。昼前に茂原まで買い物。雨は降ったりやんだり、時には強く降ったり。夕方五時頃にはすっかり晴天に変った。大量の雨が降ったところが何か所もあった▶参議院選挙情報をいくつかのメディアを通して調べる。現在の政治情勢を(表面上は)大きく変える結果がほぼ確実視される。実態は、「気味の悪い「呉越同舟」だ。その結果を踏まえて、さて、どういう「野合」「馴れ合い」政治が展開されるか。(797)

〇2025/07/15(火)昨日と打って変わって、かなり強い雨が降り続いた。低気圧が西日本から登場してきた、その余波だったろう。それでも、あまり激しい雨風ではなかったのはさいわいだった。他地域では「線状降水帯」に襲われたところが何か所もあったようだ。台風シーズン到来を感じさせる一日だったと思う▶早朝5時ころに近所のコンビニで牛乳を購入。その後、午前中に猫缶購入のためにあすみが丘へ。いつも通りの商品を購入してきた。帰宅後、少し仮眠した後で、近所のHCで、猫のドライフードを購入しに▶参議院選挙報道などをネット番組で見る。今ではほとんど見るべき番組がなくなったので、気分手的にはすっきりしている。それにしても、有権者の煽られ方、靡き方が異様な感じを抱かせるのは、定見や思想がないからこそ、大半の有権者は投げかけられた「疑似餌」に食いつくのだと思う。何度も何度も犯してきた間違いを、それぞれは初めてのように経験しているのだろうか。(796)

〇2025/07/14(月)台風5号の影響で風雨が強まるかと思っていたが、その影響はあまりなかったので一安心。ただ今、午後9時半過ぎ。室温27.8℃、湿度81%。明日は、台風ではなく低気圧の影響で各地では線状降水帯が発生との予報。当地でもそれなりの雨量が予想されている。酷暑続きの後には、雨天状態が続く。その後はまた猛暑の復活で、「梅雨明け」宣言?が出されそう▶終日自宅に。午前中は仮眠をとる。視力の衰えを痛感。できる限り疲れを取るようにはしているが、読書やパソコンを止めるわけにはいかない分、目薬に依存する頻度が多くなっている。(795)

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羯諦羯諦波羅羯諦波羅僧羯諦

【小社会】期待するだけでなく きのうは商店街やスーパーなどがウナギの焼ける香ばしい匂いに包まれた。ことしは「土用の丑(うし)の日」が週末の土曜。店側も力を入れたのか、ずいぶんと鼻をくすぐられた。❖ただ1匹3千円ともなると、やはりため息が出る。通りがかりの人が「備蓄米が1袋半は買える」とぼやくのを聞いて、同感だった。物価の高騰が続く中、ことしも「香りだけ」で我慢したご家庭は多かったに違いない。❖大正時代に「鰻香(まんこう)内閣」と呼ばれた幻の政権がある。枢密院の清浦奎吾が首相候補に担がれたが、海軍の反対で組閣ができず、辞退を余儀なくされた。首相の座のにおいだけ嗅がされ、実際は味わえなかったことから名付けられたらしい。❖いまならあり得ない出来事かもしれないが、視点を切り替えると、どうだろう。国民は選挙や政権発足のたびに変革や政策に期待を寄せるが、たびたび裏切られる。政治家の政治資金疑惑や失言も後を絶たない。鰻香政治にさらされていないだろうか。❖参院選の投開票日を迎えた。物価高や社会保障などさまざまな課題が山積し、各党・各候補者の公約や訴えもまたさまざまだ。石破政権にとっては参院での与党過半数維持が懸かる。政権選択につながる選挙ともいえそうだ。❖鰻香政治を招かないためには、有権者も選挙でただ政治の雰囲気を嗅ぐだけではいくまい。有言実行の党は? 候補者は? 選ぶ嗅覚、目利きが問われる。(高知新聞・2025/07/20)

◎ 週の初めに愚考する(七拾九)~ 凋落勢力と猪突猛進の新興勢力の激突・格闘、そういえばいかにもそれらしく聞こえます。でも、大きく傾いた国の現下の頽廃をいかにして救うか、そんな途轍もない政治・政治家力が求められる事態にあるにもかかわらず、能天気な「大言壮語」や「臥薪嘗胆」を絶叫する政党ばかり。もちろん、その多くは新出来の徒党(もとを糺せば、「同じ釜の飯」同士だ)だけれど、主張(看板)内容は古色蒼然。あるいは、その唯我独尊ぶりには当方が赤面する。現実の政治や政治家に、ぼくはまったく期待もしないし、希望も持たない。それは甚だ残念だけれど、致し方ありません。表向きは建前民主主義を標榜しつつ、だからこそ、手前勝手なことばかりをしてくださるな、願いはそれだけだが、なかなかその通りには行かない。恐らく時代はすでに「大政翼賛流」に雪崩れ込んでいるに違いありません。

 言うまでもなく合従連衡は政界の常。徒党の出発点は政友会と憲政党の二大政党。その嫡流を自称し、亜流や傍流を自慢げに語る輩たち。だから、いかなる政策も政権構想も既出・既視のものばかりとみる。時代錯誤も甚だしいと嘆きたくなる節もないわけでもないが、これもまた、わが「現実政治」の否定できない実態ではあるのだ。水と油は混ざらないけれど、中性洗剤やなんやらを加えれば、驚くなかれ、右と左がくっつき混じり合うのだから、あら不思議。政治家に節操や誠意を求めること自体が現実を閑却している、「魚屋に大根」を求めるの類で、ないものねだりというもの。いかなる徒党も生き物であり、生物(なまもの)です。そのうちに内輪もめが起こり、仲たがいが集団を壊すまでに至る。要するに、並みいる政治家は「同じ穴の狢(むじな)」と目される。(狢には申し訳ないが)(「同じ穴の狢」とは「悪党の同類である、同じように悪党である、という意味で用いられる慣用表現」デジタル大辞泉)

 昨日の友は今日の敵、今日の友は明日の敵。敵の敵は味方。敵の敵の敵は…。つまりはみんな仲間同士(千代田区永田町、町内会のハビタント・住人)だということで、まさしく「同類憐みの利権・利己政治」を司る面々、しかもいっかな懲りない人たちの離合集散(結婚・離婚の繰り返し)なんだから、画期的な展望が切り開かれるわけもないでしょ。今のままなら、『いつか来た道」を歩くはず、いや、もう歩いているさ。「有権者も選挙でただ政治の雰囲気を嗅ぐだけではいくまい。有言実行の党は? 候補者は? 選ぶ嗅覚、目利きが問われる」(「小社会」)と、「自由は土佐の山間から」と叫び続けている御当地新聞の訴えにして、これなんだから。なんとか細くも、弱々しい遠吠えかと、ぼくは苛立ちが募るね。

 鰻香ならぬ、満腔の念をもって言いたい、「堕ちろ、堕ちろ、もっと堕ちろ!」と。そして、「波羅羯諦(Let’s go to the Pure Land)」

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国民各位「熱中症警戒情報発令中!」

 関東地方も梅雨が明けたという(昨、18日)。一体、何時から何時までが梅雨だったのかと訊きたいし、梅雨って、こんなに猛烈に暑い日々の連続だったんですか、とも訊ねてみたい。「照れば灼熱、降れば豪雨」のどこが「梅雨」なんですか、とね。天候に不平も不満も通じないとは言われてきましたが、それにしても6月の猛暑日が、東京都では十数回もあったというのですから、「梅雨入りは猛暑トンネルの入り口なり」と言いたくなります。そのおかげかどうか、ぼくは最近、しばしば「仮眠」をとります。普段からの睡眠不足もあり、また外での作業がしばらく続いていたので、体力・気力の消耗が著しいという自覚があるからです。

 幸いに、敷地の周りを樹木や竹で覆われていることもあり、都会地よりは涼しい、時折吹く風にも恵まれて、室内は冷房なしでも過ごせるので、一時間の仮眠が本格睡眠になることもしばしば。時には重く感じる頭痛がするのですが、熱はない。いろいろと妄想してみて、これは熱中症隧道への入り口に差し掛かっているのではと、必要以上に用心するのです。ぼく自身は、若いころとは違って、無謀からは程遠い人間、用心深い人間だと自認しているのも、やはり年齢の高さからくるのだろうと思っています。八十を超えたのだからおとなしくではなく、それ相応に、衰えていることを自覚するのが大事だと考えてのこと。身の程を知るということ、です。

 今朝の「いばらき春秋」には「暑さ指数」なるものが出ていました。「気温と湿度、物に吸収されずに発せられる放射熱の三つを取り入れた温度の指標である。数値が高いほど熱中症になりやすいとされる」とあります。ぼくも折に触れて、気象庁その他の熱中症警戒アラートの発令に気を引かれることがあります。でも、線状降水帯などの警戒アラートなどに比べると、まだまだ暑さの受け止め方は個人の感覚に頼りすぎている気がしていました。茨城新聞は、その日の「熱中症警戒レベル」を毎日掲載しているという。

【いばらき春秋】災害級の暑さという表現をよく聞くようになった。暑さ対策は見過ごせない課題である▼「暑さ指数」をご存じの方は多いだろう。気温と湿度、物に吸収されずに発せられる放射熱の三つを取り入れた温度の指標である。数値が高いほど熱中症になりやすいとされる。気象庁と環境省は5年前の7月から、暑さ指数を基にした熱中症警戒情報を発表している▼指数が28に達すると熱中症になりやすいとされる。翌日の予測値で指数が33に達すると熱中症警戒アラートが発表される。さらに、昨年4月からは、予測値が35に達した場合、より強い警戒が求められる熱中症特別警戒アラートが追加された▼本紙は第1社会面に「県内の熱中症警戒レベル」を連日掲載している。危険、厳重警戒、警戒、注意、ほぼ安全の5段階で、暑さ指数31以上で危険となる。アラート発表の指数はさらにその上で、人の健康に被害が及ぶ危険が極めて高い状態である▼熱中症対策の基本は水分、塩分補給を怠らず、その上で保冷剤や水、冷たいタオルなどで体を冷やすといいとされる。屋内ではエアコンの活用、屋外では日傘や帽子が効果的という▼参院選の選挙戦は最後の訴え。訴える側も聞く側も、熱中症対策をお忘れなく。(斎)(茨城新聞・2025/07/19)

暑さ指数の算出式は、屋外・屋内によって異なります。

屋外の場合:暑さ指数=0.7×温球温度+0.2×黒球温度+0.1×乾球温度
屋内の場合:暑さ指数=0.7×温球温度+0.3×黒球温度
※暑さ指数、湿球温度、黒球温度、乾球温度の単位は、摂氏度(℃)

暑さ指数は、以下の3つの測定装置による測定値をもとに算出されます。/黒球温度(GT:Globe Temperature):黒色に塗装された薄い銅板の球(中は空洞、直径約15cm)の中心に温度計を入れて観測するもの/温球温度(NWB:Natural Wet Bulb temperature):水で湿らせたガーゼを温度計の球部に巻いて観測するもの/乾球温度(NDB:Natural Dry Bulb temperature):通常の温度計を用いて、そのまま気温を測定するもの/上記の方法で算出された暑さ指数は、環境省の熱中症予防サイトにて公開されています。
(Ever Gree・https://www.egmkt.co.jp/column/consumer/802/)

 「梅雨明け宣言」が気象庁から出された途端、これからは遠慮会釈なく「猛暑」「酷暑」「灼熱」の凄さを見せてやるぞとばかりに、今日もまた暑い日となりそうです。(ただいま、朝の6時過ぎ。室温27.3℃、湿度80%)(本日は「燃えるごみの収集日で、集積所まで持参してきたところ。近所の人が植木に水遣りをされていたし、隣の人は道路沿いの樹木の枝落としをされていました)

 投票日まじかの参議院選挙。さすがに、こんな僻地には「選挙カー」は来ません。だからというのでありませんが、ネット情報を垣間見るだけで、実に夥しい「嘘合戦」「虚偽情報拡散競争」の乱痴気様相を見せている、それを見聞きするだけで、警戒レベルは最高指数に達しそうです。ぼくはスマホを持たないので、その分は、まだ騒擾の世界からは隔離されていると言えますが。それにしても、ネット世界は真偽混同ニュース、怪情報のちまたで、それもこれも「金稼ぎか」と思うと、まったく白けて来るし、情報社会の住人であることを激しく呪いたくなるのです。

 嘘も方便、選挙には勝たねばならぬとばかりに「虚飾満開」の選挙戦も本日一日限り。結果はおおよそ予測が立っています。政治状況はよくもならなければ、これ以上悪くもならないといいたいのですが、さて、政界から「政治」や「政治家」がすっかりいなくなる事態に陥ることをぼくは覚悟しているのです。いずれも「政治まがい」「政治家まがい」の天下になるはずですし、それを放置していると、間違いなしに「全体主義」「日本(国家)主義」の錯乱状態(アメリカ並みの分断社会)が生じることは間違いないところ。驚くほど「時代錯誤」の政治状況が生み出され、世界の諸国からは孤立する運命にあるのは避けられないと思っています。これは悲観論なんかではなく、現実の事態を捉えているつもり。この混乱や錯乱を何度か経験しなければ、事態はもっと悪くなりますね。つまりは錯誤とやり直しの繰り返しの如く、それが歴史の教え(歩み)なんですね。

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【夕歩道】よく見かけるカラスたちが、口を開けていた。くちばしを開いて何か考えている顔だ。黒い羽を脱ぐわけにもいかず、強い日差しはきついだろう。空飛ぶ身と地を歩く身は違えど、夏は相身互い。▷「カラスの教科書」(松原始氏著)には「カラスは夏になると、しばしば口あけてボケーッとしている。ちょっとでも涼しい所へ行こうとして、河原の橋の下に集まっていたりもする」とあった。▷「あれほど面白くてカワイイ鳥はいないのだ」そうだ。水飲み場で意味深な顔で蛇口を眺めていたので、水を出してやろうと近づくと黒い目が合った。「烏(からす)がだまつてとんで行つた」(尾崎放哉(ほうさい))(中日新聞・2025/07/19)

 「夕歩道」氏が指摘している「カラスたちが、口を開けていた」のを、このところしばしば目にしている。拙宅の近辺はカラスのお宿(タワマン)の集合地のようで、夕方になると手(翼)を繋いで、自宅に帰る場面を毎日のように見ています。5時を知らる街の防災無線は、童謡「夕焼け小焼け」です。それを聴いて、カラスたちは塒(ねぐら)に帰っている。ところが、猛暑の日中に電線に止まっているカラスは、間違いなく猛暑に参っていて、しきりに口を開けたままにしている。熱を冷ますために空気をとりいれているのでしょう。よほど暑いんだと、ぼくは同情しきり。拙宅の庭には猫たち用の「水飲み場」が何か所か設けてある。多くのカラスが、きっとそこにやってきて、行水(ぎょうずい)はしませんが、しきりに水を飲む。カラスの世界にも「熱中症警戒アラート」があるのだろうかと、感心するのは筋違いですけれど、人も猫もカラスも「音を上げるほど」の暑さに痛めつけられているのです。我が家の猫の多くは、ひねもす外に出ていて、家には入らない。食事だけはきっと摂りに来るが、終わると一目散に林の中に飛び込んでいます。「無銭飲食」だ。

 「烏がだまつてとんで行つた」という放哉さん。季節はいつだったのか。真夏でないことだけは確か。ぼくが見るカラスは、本当に暑そうで、今にも電線から落ちるんじゃないかと心配するほどの苦しみを味わっているのがぼくにも分るの。全身黒ずくめだから、なお一層暑さ(熱)には苦しむのでしょう。「カラス なぜ啼くの」「あんまり暑いからだよ」という叫びが近くの梢(こずえ)や電線辺りから聞こえてきます、今も。

 放哉さんの盟友だったかもしれない山頭火氏の一句、二句。〈➡写真 山頭火(左)、放哉(右)〉

鴉啼いてわたしも一人  ・​啼いて鴉の、飛んで鴉の、おちつくところがない (彼の時代、決して酷暑でも猛暑でもなかったようだ)

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日本と日本人、単なる名称(入れ物)です

【日報抄】戦後80年の今年、全国の地方紙と連携した企画「あの時私は」が本紙に随時掲載されている。空襲や強制疎開など、戦争体験者の生々しい証言に胸が痛む▼印象的だったエピソードに、京都市の建物疎開がある。空襲などの延焼防止を目的とし、男性は突然、自宅からの立ち退きを命じられた。取り壊された家の跡地は戦後も返還されず、復興の名の下に五条通の拡幅に使われた▼男性の母親は終生、自宅跡地を訪れなかったという。その胸中にはどんな思いがあったのだろう。幅50メートルとなった五条通は国道1号となり、同時に9号にも指定された▼沖縄にも、かつて1号線と呼ばれた国道がある。那覇市と鹿児島市を結ぶ道路だ。戦後、沖縄を軍政下に置いた米軍が、最初に取り組んだのがこの国道の整備だった。沖縄の人々も工事に駆り出されたという。南部の軍港から島内各地の基地へと物資を運ぶ主要道路だった▼1972年の本土復帰後に、国道58号となった。今も島の南北を結ぶ重要な幹線道路だ。先日、その58号を通る機会があった。遠くには新しい住宅地が見えた。米軍の軍用地が返還された跡地だという。商業施設の建設も進み、軍用地だったころより大きな経済効果をもたらしていると、地元紙の記者から聞いた▼米軍駐留は一定のインフラ整備や雇用創出に寄与したかもしれないが、「基地が沖縄経済を支えてきた」という見方は一方的で現実とかい離しているという。節目の年、沖縄の人の語る言葉に耳を澄ませたい。(新潟日報・2025/07/18)

● 建物疎開 = 空襲による火災の延焼を防ぐため、空襲を受ける前に建物を取り壊し、空間をつくること。東京や京都、大阪など各地で行われた。広島市では内務省の告示により、1944年11月以降に実施。広島原爆資料館によると、原爆が投下された45年8月6日には、国民学校高等科や中学校、高等女学校などの動員学徒8200人以上が作業に当たっており、うち6200人以上が死亡したとみられる。(共同通信ニュース用語解説)

 無謀な戦争は無謀な犠牲を国民に負わせます。第一、なぜ戦争するのか、已むに已まれぬ事情があって、というのは後智慧で、たいていは為政者や権力者の口先(舌先)三寸、メンツや自己保身のためであることが多いのは「国家による戦争」にあっても事情は変わらないでしょう。「学童疎開」は大掛かりな国家(学校)行事でしたけれど、建物もまた、時には国家の都合で疎開させられるというのは嘘で、実際には破壊されるのです。これは今に続く国家(公共)事業による「立ち退き」「追い払い」に等しい。鉄道や道路、あるいは空港、ダムや原発施設などの、公益上重要な施設建設に際しては、国家は必要な「土地収用」を行うことができるとされる。誰が見ても納得できる場合もあれば、これは理不尽であると疑問を呈さざるを得ない時もある。これに関してたくさんの資料やデータがあるが、詳細は省く。

 近年では「成田空港」の場合がそれに当たろう。いくつかの候補地から、現在地が選ばれ、そこに居住し就労していた人々の多くは「成田反対闘争」を展開しました。ために、飛行場建設工事は大幅に遅れ、きわめて変則的開業になったうえに、今なお、土地収用問題では裁判が続いています。「ここに決めた」と言われる側には納得がいかないことが多いけれど、多勢に無勢で、その願いや望みは踏み潰されてきました。ぼくは、生きている限り成田空港は絶対に利用しないと腹に決めました(虚仮の一念)。いまだに空港に足を踏み入れたことはない。国や国の実施する計画の前に、いとも簡単に「個の権利」「人権」は踏み潰され、蹴飛ばされる。ぼくには許しがたい蛮行と移ります。(ある種の「召集令状」に等しい行為です)

 人間が住んでいた土地や建物を「国家・公のため」という理屈で「収容」するというのは、そこにかかわる人々の歴史や生活を踏み壊すということです。「公用」が錦の御旗となって、「私用」を凌駕し、圧倒する、そんなことが何人かの権力者によって画策されてきた、それが国家の行うことでした。この社会(「国」と同じではない)には公私混同というか、公は私を飲み込むのに抵抗がないのはぼくには信じがたい。まさしく「滅私奉公」、そんな価値観が空気となって社会に席捲しているからでしょうか。これでは、いくら努力しても「民主主義」は育たないというべき。その時「民主主義」は看板ではあっても、実際の内容を表していないのは明らかです。

● 蜂の巣城闘争= 1958年(昭和33年)、建設省九州地方建設局は松原・下筌(しもうけ)ダムの実施計画調査を開始。水没予定地に住む住民への説明会を実施した。だがこの説明会はダム建設の必要性のみを説明し、住民の最大関心事である補償問題について何一つ語られることは無かった。この説明不足に対して、室原知幸(むろはらともゆき)を中心とした住民は、建設省に不信感を抱き、やがて小国町において「建設絶対反対」の決議を採択することになった。/これに対し建設省は、ダム建設を早期に進めるため土地収用法に基づく立木伐採を行おうとした。この立木地主の中に室原が居たが、建設省の強引な対応に態度を硬化させ、今後一切の交渉断絶を宣言した。住民は玄関に「建設省関係者立ち入り禁止」の張り紙を貼り組織的な抵抗を図った。抵抗運動は更に加速し、1959年(昭和34年)に下筌ダム建設予定地の右岸に監視小屋を建設し、住民が絶えず常駐して監視を行った。これが「蜂の巣城」である。(以下略)(Wikipedia)

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【滴一滴】選ばれる日本か 私事で恐縮だが、高齢の祖母が入居する施設でインドネシア出身の若者から介護を受け始めた。物腰の柔らかい人だそうで「よそさまから来てくださって」と、ありがたがっている▼顔を合わせてあいさつしたい…。改めてそう思ったのは、岡山県矢掛町で働く外国人技能実習生が七夕行事などを体験したという記事の影響だ。きのうの本紙にあった▼実習生の国籍はミャンマー、ベトナム、中国。身の回りでは既に多くの外国人が暮らす。そんな一人一人と向き合い、日本語を教えるなどして地域生活を支えてきた人々もおり、共に社会を支えている▼参院選は終盤に入り、外国人関連施策のあり方が主要争点に急浮上した。人口減少が加速する中、彼ら抜きでは福祉の現場も製造業も、農業も漁業も立ちゆかない。だから共生を進める。だけど規制も強めるー▼考えはそれぞれあろう。だが、実態に沿わぬデマが拡散されていることは見過ごせない。例えば医療や生活保護で外国人が「優遇されている」とのうわさは厚生労働相自ら否定し、外国人刑法犯の摘発件数も「右肩上がり」ではない▼データに基づくなら、経済発展を背景としたタイやベトナムなどの急速な少子化の方がよほど心配だ。アジアの国々が「よそさま」の人材を奪い合う未来が現実味を帯びる。その時、日本は選ばれるのか。(山陽新聞・2025/07/17)

 はからずも、連日、同じ問題の指摘と再検討が続きます。「コラム(「滴一滴」)では「選ばれる日本か」と題されていますが、はなはだ杞憂をお持ちの雰囲気が濃厚に伝わります。国家は大事、「外国人は無用」と、簡単には結びつかない道理を無理やり結びつけて、「日本人ファースト」を論(あげつら)っている、今日のこの状況は、ぼくには国家と国民の間に一寸の隙間もない、実に息苦しい、個人の死刑宣告に等しい風潮だと見えます。「日本人ファースト」とは言いながら、それは選挙期間限定のコマーシャル、本音のところ、結局は「日本ファースト」であるのは目に見えている、と言うより「顔に書いてある」のですから。人より型(入れ物)を大事にする等であり、個人を尊重しないと宣言しているんですね。実に卑しい根性であり、貧しい魂胆だと思う。「日本人」というかたまりを出汁にして、一日本人を惑わせているのが見えないんですか、と言いたいね。

 これは「参●党」ばかりではありません。公私混同とはこのことか、自分たちの主張の都合で「公私」を一緒くたにして「日本人」と言っているにすぎません。この政党のキャッチコピーは「これ以上日本を壊すな」です。誰が、それを言うんですか。この主張は、いわば右代表で、他も大同小異の「日本(入れ物)ファースト」でしかない。「国家主義」、ファシズムですな。アメリカでは黒人と白人の結婚は1967年の「ラヴィング対バージニア州裁判」に対する連邦最高裁判決(異人種間結婚禁止は憲法違反)」が出るまでは、驚くべき時代錯誤が続いていました。こんな問題が起こる時、先ず前提となるのが「白人宣言」でした。「白人とは…」というのと同じように「日本人とは」という資格(定義)が憲法に規定されているという「参●党」。おそらくジョークだろうと思う。それを放置していると、いずれ「人間とは」という定義が出されるだろうから、ますます、この社会は奇怪な国としてしか見られなくなるはずです。

 「身の回りでは既に多くの外国人が暮らす。そんな一人一人と向き合い、日本語を教えるなどして地域生活を支えてきた人々もおり、共に社会を支えている」(コラム「滴一滴」)。ぼく自身は、今日の右に靡く現状を諦めているわけではありませんが、自らが「過ちを経験したい」というのですから、一蓮托生の身とあれば、行くところまで行くほかないでしょう、というばかり。政権交代か、「寄せ集め政権」か。なるようにしかならないんでしょうね。国民の大多数が選んだ「間違い」というのは取り返しがつかないとは思わないが、やらない方がいいに決まっているんですがね。

 まあ、要するに「集団催眠」にかかっているうちは、滑稽だと見られようが、理不尽だと言われようが、それだけ一層固まってしまうのですから、ここはまず、一端は失敗しましょうということですかね。その失敗を乗り越えるのは大変だし何十年もかかるでしょう。でも、国(日本)や国民(日本人)が、少しでも賢くなるためには「試練」を避けるわけにもいかない。それにしても、選挙で論じられているのは「日本」「日本人」をめぐる争い、というよりは「先陣争い」「先駆けの功名争い」のように思われます。それは「滅私奉公」、ありていにえば、そうなるんじゃないですか。

 必要以上に強調されている「日本」とか「日本人」というのは単なる名称であり、一つの「入れ物(抽象物を入れる容器)」に過ぎません。中身より入れ物を大事にするのは、詐欺商法の手口ではないでしょうか。「公」とは「私人(private)同士」から生まれる概念(場所)、つまりは公共(public/society)であって、それは官(国・government)とは異なる。公共の意識がないか、きわめて弱いから、いきなり「国」が「私」を襲うんですね。私(personal)ー公(私たち)(social・public)、そして国(container)。そんな関係をぼくは考えている。個人や集団が、突然の襲う雨風をしのぐ入れ物(傘みたいなもの)が国という物の機能ではないでしょうか。

 公園というのは「官営」ではない、「公共の場(public state)」です。こんな問題が今頃になって課題となっているというのも、迂闊と言えば迂闊。成長していない民意と言えばそうなんですね。(断る必要もありませんが、ぼくは「参●党」を槍玉にあげているのではありません。まあ、時代の風潮の「右代表」という程度の捉え方で論(あげつら)っている。この風潮は、例えるなら「カスミ」か「クモ」か、やがて消えますよ。ある種の「ジャN-ズ」タレントの如し、でもないか。未経験や経験不足の学級委員たちが「国政(government)」に参加するんですから、混乱は避けられませんね。その「混乱」こそが私たちがすべき経験だという考えをぼくは持っています。

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