人間は嘘を付く動物です。それを、ニーチェという哲学者は「人間は約束する動物だ(Der Mensch ist ein Tier, das Versprechen macht.)」と言った。「約束する」というのはいろいろな含意があります。文字通り「約束する・誓う」「請け合う」「期待させる」などなど。もちろん動詞でもありますから、他者との関係に関わってきます。Her promises are empty. (彼女の約束は空言だ)(これも「約束」の否定的一面)あるいは、I don’t remember having made such a promise.(そんな約束はした覚えはない)(これは「約束を反故にする」特有の表現)などと、必ず特定の相手との関係において「約束」(言辞)は問題にされます。

常日頃、ぼくは「政治家は嘘つきである」と言いふらしています。もちろんぼくも嘘をつくことはある。でも、「政治家という職業人に比べれば可愛いもの」と考えている節があります。この二十年ほどの歴代総理大臣でも突出して嘘つきだったのは、故「A 元総理」だったことにそんなに異論はないでしょう。「生来の嘘つき(Born liar)」と言ってみたくなるほどでした。ある事件にかかわって「もし、私や妻がこの件に関係していたら、総理大臣はもちろん、国会議員も辞める」と国会の委員会で啖呵を切りました。「真っ赤な嘘」だったと思う。「桜見物事件」でもあからさまな嘘をついていたことが疑われている。ぼくのような小人は、彼ほどの真っ赤な嘘をつくことに大きな躊躇(ためら)いがありますから、政治家になれれなかったし、ならなかったともいえます。同じ嘘でも「バレない嘘をつける」か、「バレても平然とできる厚顔の徒」でもない限り、なかなか白を切り通せるものではないというのが、ぼくの感覚です。
以前にも触れたことがある静岡県伊東市の現市長の「学歴詐称」も、いかにも政治家らしい「気味悪い嘘」と感じてしまうのですが、如何でしょう。誰がどう考えても、「自分が大学を卒業したか、しなかったか」がわからないという人間の気分がわからない、気が知れないというでしょう。そんなことも記憶にないのなら、間違いなしに「著しい記憶障害」という、立派な病気だというほかありません。この市長は、重篤な病気を患っていると思う。議会が設置した「百条委員会に出席」するのではなく、一日も早く「伊東市民病院に入院すべき」ではないでしょうか。

昨日の伊勢新聞のコラム「大観小観」には異なことを書かれていました。「学歴詐称に厳しい世の中であるべきだと思う」という指摘はどのような意味でしょうか。もちろん、その指摘・意見にぼくは異論を唱えるつもりはありません。しかし、「学歴詐称」には厳しく「選挙公約違反」には緩やかにという、このどうしようもない風潮こそ、学歴を含めて、多くの物事に嘘や偽りが通用してしまう温床となっているのではないか、とぼくなどは考えてしまう。「(候補者の)「最終学歴の学校名を見ると、これは大学なのか専門学校なのか分からないと思うことが頻繁にある」と、ろくでもないことに苦言を呈されています。それも大事かもわからないけれど、もっと大事なことがありませんかと言いたいけれど、なかなか通用しないんですね。
「木を見て森を見ない」という警句があります。元は舶来物だったようで、一例としては<C’est l’arbre qui cache la forêt.>(木が森を見えなくしている・隠している)なかなかに意味ありげで、やけに面白いですね。学歴偏重時代・学校歴過信社会においてこそ「詐欺」や「ペテン師」が多いという実証はできませんが、着ている洋服(学歴)や持っている物(金品)(肩書)にばかり気を取られて、人間性(森)が見えなくなっているとしたら、いったい「学校」「教育」とは何だったかという根本の問題が浮き出るのではありませんか。

【大観小観】▼「静岡県伊東市長が学歴詐称と指摘され辞職表明」と世間を騒がせている。議会の辞職勧告決議は当然のことと思うが、この市長は市長に選出される前は市会議員をやっていたのにその時点から学歴詐称をやっていたのだろうか▼国、地方自治体の議員立候補者は立候補時点でファクトチェックを厳しくするべきであり、卒業証明書は卒業校に申請すれば簡単に取得できる案件でもあり、学歴詐称に厳しい世の中であるべきだと思う。周りではいろいろな選挙立候補者の最終学歴の学校名を見ると、これは大学なのか専門学校なのか分からないと思うことが頻繁にある▼「大学」は文部科学省所管、「大学校」は文部科学省以外の省庁所管で防衛大学校や海上保安大学校などがあるのは国民の大半が認識している▼しかし、大学校名をつけている専門学校もあり、〇〇自動車大学校と大きな看板を掲げて、頭には小さな字で専門学校と書かれている▼法令により「大学校」の名称を規定しないと国民を誤解させ、若者の進路に大きな誤解を生じさせている▼学歴詐称だけでなく、経歴詐称など「盛り=上手な世渡り処世術」と勘違いしている人たちや事案には厳しい目を持って対応すべきだ。(伊勢新聞・2025/07/28)
コラム氏は「大学」と「大学校」という名称が紛らわしいから、「法令により『大学校』の名称を規定しないと国民を誤解させ、若者の進路に大きな誤解を生じさせている」とまで言われています。そうですか、とぼくは奇怪な感想を持つのです。どうしてそんなに「学歴」「学歴の価値」にこだわるのか。そういう「こだわり」こそが「学歴詐称」を生み出す要因となっていませんかと言いたい。元総理大臣だった田中角栄さんは「高等小学校卒」を名乗っていたが、最終学歴は多彩でした。「中央工学校夜間部土木科卒」「研数学館放校」「正則英語学校放校」「金城商業学校商業科4年制修了」などなど。いちいちこと細かく聞かれるのも説明するのも面倒だと、「二田(ふただ)尋常高等小学校卒業」で世間を通していた。

こんなつまらないことを何度も繰り返すのもいやになります。「学歴」などどうでもいいではないかと、ぼくは心底から思っている。今から150年前には、大学卒は一人もいなかったし、200年前には小学校卒さえいなかった。ぼくたちの社会の歴史を見ても、学校のなかった時代がほとんどで、この百年そこそこの間にようやく誕生した「学歴」ばかりを後生大事にする必要は何処にもないと考えるのですが、如何ですか。人間(性)・人物を見るにも、それなりの「眼力」「観察力」が求められる。それはなかなか大変な能力ですから、多くの人は「学歴」を、その人そのものだと勝手に見なしているのでしょう。旧帝国大学卒業生が政・官・財界に腐るほどいます。この国が今あるような情けない状況に落ち込んでいるのは誰のおかげか知りませんが、学歴がモノをいう時代こそが、ひとりの人間の「本当の実力」が見損なわれている時代でもあるでしょう。
「木を見て森を見ず」とは、言うまでもなく「小さいことに心を奪われて、全体を見通さないことのたとえ」(デジタル大辞泉)目につきやすいものに飛びつくのは、いろいろな意味で考えものですよ、という教えなんですな。
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●公職選挙法第235条(虚偽事項の公表罪)当選を得又は得させる目的をもつて公職の候補者若しくは公職の候補者となろうとする者の身分、職業若しくは経歴、その者の政党その他の団体への所属、その者に係る候補者届出政党の候補者の届出、その者に係る参議院名簿届出政党等の届出又はその者に対する人若しくは政党その他の団体の推薦若しくは支持に関し虚偽の事項を公にした者は、二年以下の拘禁刑又は三十万円以下の罰金に処する。2当選を得させない目的をもつて公職の候補者又は公職の候補者となろうとする者に関し虚偽の事項を公にし、又は事実をゆがめて公にした者は、四年以下の拘禁刑又は百万円以下の罰金に処する。
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*追記 伊藤市長は明らかに公職選挙法に違反していますから、即刻辞職すべきです。つべこべ言わないで辞めるべし。出るならもう一度立候補すればいいし、当選したら、それもまた一つの有権者の意向(民意)ですから、是とすべきですね。兵庫県知事の先例もあるし、今わの際にある「自民党政治」も、「森を見ないで、木を見る」ことしなかった有権者の選択だったし、半世紀もこの繰り返しでしたから、結論から言うなら、この社会の有権者は相当に「騙されたがり」「木ばかり見る派」であることが証明されるでしょう。
今回の参議院選挙もまったく「木ばかり派」の圧倒的勝利でした。何度でも、有権者は間違えるし、いったいどこで気が付くのでしょうか。選んだ有権者(ぼくも其の一人)が馬鹿なのか、選ばれた候補者が馬鹿なのか。どっちもどっち、ですね。

「昭和ブルース」:「♬ うまれた時が悪いのか それとも俺がわるいのか ♩ 何もしないで生きてゆくなら それはたやすいことだけど♫」(作詞:山上路夫 作曲:佐藤勝 発売:1973年)
(「昭和ブルース」天地茂=https://www.youtube.com/watch?v=86_YCa4UUxI)
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