「猫も杓子も」が問題の発生源です

 どんな物・事にもいい面と悪い面がある。スマホが普及しだして20年余。驚くほどの速さで、世界の果てまで普及浸透しているのですから、それを用いた「悪行」「犯罪」が驚異的に、普及・拡散しているのでしょう。「盗撮」ばかりが問題視されているとは思わない。<SNS>の濫用は、ぼくのようなものにも目に余るほど、と言いたくなります。 ここで言えるのは、持ちなれないものを持てば、それを悪用する愚者が増えるし、それを悪用するために持ちたがる狂者が増加するということ。どなたにしても、それを持つことは、いい面でいうと、「鬼に金棒」だが、そうでなければ、ほとんどが「✖✖✖✖に刃物」になる。今問題にされる「盗撮」犯罪の増加は、何を示しているのか。恐らく、この狭い国(だけに限らないのは論を俟ちません)のいたるところでスマホは悪用されているのでしょう。「防犯(看視)カメラ」の普及もまた、この社会が酷く不健全な状態・状況にあることを教えている。

 面倒なことは言わないつもり。携帯電話(mobile)が売り出されたころのことを記憶しています。1990年代の初めから、自動車電話が広がり、やがて携帯電話が、異様な大きさのバッテリーを備えて売り出された。今あるスマートフォンの祖型の発売は2010年代。高価で、電波のつながりも悪く普及は漸進的でした。やがて、小型リチウムイオン電池搭載が可能になり、電波中継基地環境が普及整備されるようになって、爆発的に普及しだしました。まさに「猫も杓子も」、でしたな。サルも犬も。ところが、ぼくはこの「猫も杓子」もの中には入らなかった。乗り遅れたわけでも、買いそびれたわけでもありません。ぼくには「無用の短物」と即断したからでした。仕事の関係から、所持することを強いられたが、持たなかった。以来、ぼくは「無携帯」「ノンスマ」のままで生きている。ぼくには驚きですが、昨年の段階での普及率は、一定の年齢層では98%を超えているのです。まさしく「猫も杓子も」でしたね。(この表現の意味はぼくにはよくわからない)猫も杓子(しゃもじ)もとは、いかなる結びつきもないもので、だからそれを並べてどういうつもりか。ようするに「誰も彼も」、というだけのこと、挙(こぞ)ってスマホ、は時代の象徴なんでしょうか。

 「便利(convenience)」を最優先するなら、それは、ある人々には最適機器だろうけれど、悲しいかな、ぼくには「便利は不便(Convenience is an inconvenience)」という拭い難い偏見があります。物には二面性があるという唯物観です。拳銃は身を守る武器にもなれば、誰かを殺傷する凶器にもなります。同じ機器(道具)でも、使う側の意図と使い方でどちらにも転用可能です。スマートフォンもまたしかり。洗濯機や掃除機の普及は必然性もあれば、生活改善の格好の道具にもなった。冷蔵庫もそうでしょう。そして、洗濯機や掃除機を使って、悪質な犯罪を試みる人間はいない(とも限らない)か、あっても、その効果は極めて怪しいものですから、洗濯機や掃除機の使い方に関する「使用規制法」などという法規制は無用でした。

 ところが「スマホ」は諸刃の刃(諸刃の剣)でした。「効果は大きいが危険も大きい物事。利益を期待する一方、ダメージを覚悟しなければならない物事。『もろ刃』は両刃になっている刀剣のことで、『諸刃』と書く。諸刃の刃。また、諸刃の剣とも言う」(Weblio)要するに、護身用具にもなれば攻撃用武器にもなるというのは、機器としては「便利」でも、使う人間次第では、時に困ったことにもなり得るということ。「盗撮」問題の広範な社会問題化は、一つの典型的悪用例です。その昔、「馬鹿と鋏は使いよう」などという、ひどく偏った俚諺がありました。「切れない鋏にも使いようがあるように、ばかも使い方しだいでは役に立つ」(Wikipedia)ということなら、「愚者とスマホも使いよう」ということになるでしょうか。スマホは機器です。使い方を誤らなけれぼ優れた道具であるのは、自動車も同じ。しかるに、車の使い方(乗り方)を間違えれば、凶器になる。スマホは凶器だという認識がある人がどれほどいるのか。犯罪を敢行するには格好の道具と、誤った判断をしてしまう人間の側の問題ですね。撮るべきでないものに向けてシャッターを切ると、スマホが瞬時に壊れる、あるいは大音量で発信するなどという奇策が必要でしょうね。

 本日の「日報抄」(新潟新報)の指摘に「ストップ・ザ・競泳盗撮 県水泳連盟が対抗策 登録制打ち出す」とあり、県水連がその対策に乗り出したという記事が「1999年6月22日の本紙一面」であったと言われる。いつの時代でも「盗撮」が問題になっていたのでしょう。もちろん、カメラがない時代は直接本人が目を使っての「覗き」(別名は「デバガメ」)と言ったようです。「のぞき魔、のぞきの常習犯、変態、などの意味の表現。明治時代に登場した語」デジタル大辞泉)「覗き」のほとんどが「性犯罪」に繋がるのですから、こればかりは放置できない問題、ではあるのです。では、どうするか。スマホを持たない人間に、問題を解決する方法があるはずもないと言ったうえで、もう一度、スマホを原始形に戻す、あるいはそれを持たない、どちらかに限るだけでも、すこしは「犯罪の陰」は薄くはなるでしょう。そんなことは不可能だと多くの人が非難するのは分かっている。でもその非難、ぼくにはまるで核爆弾の廃棄はできない相談だというに等しい、愚論だと思う。人はスマホのみで生きるにあらず(People don’t live solely by their smartphones)。「糸電話」だってありますよ。

 「木を見て森を見ず」という現象をコラム氏は書かれている。「ある中学校の行事の取材に訪れると、玄関に行列ができていた。受け付けの教員から氏名、住所、連絡先を書くように求められた。わが子を撮る保護者も同様の対応だという。写真や動画の撮影許可は新聞社とて例外ではない。複雑な気持ちでペンを走らせた」という、じつにどうも、真面目にばかばかしい一席でした。

【日報抄】「ストップ・ザ・競泳盗撮 県水泳連盟が対抗策 登録制打ち出す」。盗撮が社会問題になっている今の話ではない。1999年6月22日の本紙夕刊1面にこんな見出しの記事が載った▼記事によると、会場での撮影希望者は身分を証明する物を示して住所と連絡先を記入し、3千円を払って許可証を受け取る。お金は後で返還されるが、不審者には事情を聞き、場合によっては警察への通報もある▼時は流れ、盗撮防止に向けたさまざまな取り組みがなされた。性的姿態撮影処罰法なる法律もできた。しかし、忌まわしい行為はなくなるどころかスマートフォンの普及で手口は巧妙になり、取り締まる側とのいたちごっこが続く▼かつては「聖職」とされた先生が徒党を組んで悪事に手を染めていた。女子児童を盗撮した画像をSNS上で共有したとして逮捕、起訴された。事実とすればその罪は大きく、限りなく深い。同じような犯罪は各地で起きている▼手元にある何冊かの国語辞典で盗撮という言葉を引いてみた。意外というべきか、見出し語に掲げていたのは1冊だけだった。最近のものを調べてみると載っている。多発する愚行の急速な広がりが、辞書からも見て取れる▼ある中学校の行事の取材に訪れると、玄関に行列ができていた。受け付けの教員から氏名、住所、連絡先を書くように求められた。わが子を撮る保護者も同様の対応だという。写真や動画の撮影許可は新聞社とて例外ではない。複雑な気持ちでペンを走らせた。(新潟日報・2025/08/04)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

「徒然に日乗」(809 ~ 815)

〇2025/08/03(日)ただ今、午後9時半。室温29.9℃、湿度80%。期待していたコメどころでの適切量の降雨がなかったのは残念。夏野菜には高温障害が出ている。早場米の収穫も始まっているが、これから本格化する銘柄米の出穂期に当たる今こそ、田んぼに水が、と祈願するばかり。もちろん当方は農家ではないが、その気持ちは十分にわかるつもり▶昼前に茂原まで買い物。帰路、H.C.で猫用のドライフードを求める。とにかく高温多湿の典型のような一日だった。6月7月が嫌になるほどの高温(酷暑)続きだったので、今頃は初秋の候と錯覚しそう。暑さはこれからが本番かと思うと、いささか気力が萎えるのだ▶内外の政治的混乱はいったい何を暗示しているのだろうかと、深く考え込んでしまう。ウクライナやパレスチナの戦闘に、それこそ意気が折れるばかり。つい先日、ガザの飢餓を乗り越える支援(国際NPOによる)に、いくばくかの寄付を送ったばかり。とにかく、戦争を終わりにするために、世界は何をしようとしているのか、やる気など微塵もないというのだろうか。一日も早い「終戦」の来たらんことを、祈るや切。(815)

〇2025/08/02(土)昨夜来の雨も上がり、想定していた強風も吹かず、静かな一日だったともいえる。気温は30℃を超えることはなく、その分、湿度は高かったので、じっとりするような、汗がまとわりつくような感じだった。ただ今、午後9時過ぎ。室温30.1℃、湿度77%。水不足だった地域にも適度な雨が降っただろうか。明日以降はまた高温多湿の日がしばらくは続くか。(814)

〇2025/08/01(金)ただ今、午後8時50分。室温27.5℃、湿度84%。台風9号の影響で、今は少し雨が強くなっている。風も勢いを増しつつあるか▶昼前に茂原まで買い物に。雨天でもあってか、店内はあまり混んではいなかった。日中、雨量はそれほどでもなかったが、夜に入り9時過ぎからかなり強くなっている。房総半島への最接近は明日未明との予報。最大風速は25㍍とある。明朝まで、風雨共に強くなるとの予報だ。勝手な望みだが、適当な雨量をもたらしてくれるだけで結構と言っておきたい▶午後3時ころだったか、京都の姉から電話。いつも通りのものを送った(「お中元」のつもり、そのお礼。姉は、三月に亡くなった姉より2歳年上。夫婦ともに元気のよし。結婚60数年を経過。曾孫もできたという。(813)

〇2025/07/31(木)週末に接近するように報じられている台風9号の影響か、適度に風があり、気温も30℃に届かなかった、そんな一日だった昼前に茂原まで買い物。いつも通りの品物を買ったのだが、やはりまだまだ物価高騰は続いており、この先が思いやられることを痛感している。目白押しで値上げが待っている由、いったい誰が、いかにして物価の高騰を抑えることができるのだろうか。政治や行政の出番がないのだろうか▶カムチャツカ地震による「津波」が列島南岸を総なめにしたといってもいい。決して高い波ではなかったが、それでも各地ではその被害が小さくないことが判明している。猛暑は、台風接近で一段落した感があるが、同時に東北上越地方での水不足による稲作の先行きが懸念されている。台風が適度の降雨をもたらしてくれるだろうか。(812)

〇2025/07/30(水)台風の影響が出て来たのか、それなりに凌ぎやすい日となった。午前8時半ころに、テレビでは地震報道をしていた。カムチャツカ半島でマグニチュード8.7の大きな地震が発生し、津波が日本列島にまで及ぶということだった。遠く離れた地で発生した地震だが、有形無形に大きな影響を及ぼしていたと思われる。さいわいに明確な被害が生じたわけではなかった(その後、いくつかの地域ではそれなりの被害が認められた)▶兵庫県丹波市では史上最高の高温を記録した。「気象庁によると7月30日午後、兵庫県丹波市柏原(かいばら)で気温41.2度を記録し、日本の歴代最高気温を更新した。/これまでの歴代最高気温は、埼玉県熊谷(2020年8月17日)と静岡県の浜松(2018年7月23日)の41.1度だった」(ITmedia・2025/07/30)。今週末からは台風9号の影響を関東地方は受けると報道されている。農産物の高温被害を考えれば「降雨」が欲しいところだが、さて、どうなるか。(811)

〇2025/07/29(火)群馬県で39.9℃ 今年の最高気温に並ぶ 猛暑日地点は過去最多に 今日29日(火)は西日本から関東、東北で猛烈な暑さになりました。今年一番となった所が多く、群馬県桐生市では今年の全国最高に並ぶ39.9℃を観測。猛暑日地点は2010年以降で最多です」(ウエザーニュース・2025/07/29)当地も例外なく酷暑地域の中に入っていたようだ▶昼頃に茂原まで買い物に。気のせいだったか、あまりの酷暑に店は閑散と(というほどではなかったが)しているといえそうな状態だった。ただ、幸いなことに気持ちの良い風が終日吹いていたので、少しは楽だった。昨晩は食事も摂らないで休んでいた。どうも軽い熱中症(気味)ではなかったか。朝も少し遅くまで休んでいたので、更に症状が悪化することがなかったのは幸いだった▶燃やせるごみが溜まっていたので、まだ暑かったが焼却した。そのついでに、裏庭の除草を少しばかり進めた。庭を取り囲んでいる樹木の枝が相当に伸びている、それを伐採するには本格的なチェーンソーが必要になるかもしれないと、いろいろと商品を見ているところ。素手の小型のものは所持しているのだが。暑さがすこし穏やかになれば、早速にこの作業を始めたい。昨年の夏があまりにも暑かったので、除草や伐採の作業をサボった、そのツケがここにきて、目の前を塞いでいるような気がする▶自民党の「総裁下ろし」が混迷を深めているような、やや方向を変えてきたような。「総裁」は引きずりおろすことは、自民党内で可能だが、首班の指名は国会の仕事。臨時国会は8月1日開会。どうなるのか▶兵庫県知事会見のライブを聴いていて、時事通信の女性記者が知事会見での質問のゆえに、帰社後、批判・非難電話が相次いだ、その翌日には「配置替え」を申し渡されたと訴えていた。問題は、知事支持者の暴力がまたも見られたということ、その暴力に時事通信社自体が屈服したとも思われる事態が起こったという、この惨状をどのように見るべきか。外部者からの「電凸」に社員(記者)を守るのではなく、その暴力に屈したとするなら、言う言葉を持たない。心ない「電凸」があったのは事実だろうし、それに対して、企業そのものの姿勢が明かされない以上は、暴力にひるんだとされても仕方はあるまい。いずれ、経緯は明かされるのだろうか。これもまた、方々で確認される、崖上の「小石の落花」の一例かもしれない。(810)

〇2025/07/28(月)日一日と暑くなる気配が濃い。本日も、冗談ではなく卒倒しそうな暑さだった。来週末は台風の接近が予想されるが、多量の降雨はなさそう。外に出る気がしないのだから、高齢だけのせいではないのだろう。本日は終日自宅にとどまる▶ただ今、夜9時過ぎ。室温は30.9℃、湿度は67%。予報では、明日は今夏一番の高温になるという。いよいよ「夏本番」とでもいうのだろうか。(809)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

「国家」に帰属することの不幸

◎ 週の初めに愚考する(八拾壱)~ 長く生きていると、国(あるいは社会)という器(機関)は、以前と同じような道、多くは泥濘(ぬかるみ)だが、そんな道をたどるものだなあという、いやあな感慨を持つことが多くあります。歴史の法則性とまでは言えないでしょうが、それに近い現象がしばしば認められます。それを個々人の「体験」という言葉にすると、少し狭くなりがちですけれど、要は「歴史は繰り返す」という、どこにでもありふれた結論に逢着すると思う。もちろん、厳密に言えば「歴史は繰り返さない」のであって、同じようなことが起るという錯覚(印象)を持つのです。「繰り返したらいいのに」という期待であり、繰り返すのは、人間集団の性(さが)かもしれません。「今日の状況は戦前と同じだ」とか、「いろいろな社会的制約や政治的抑圧は戦時中とそっくり」などと言って、戦前や戦中を経験した人なら、さもありなんと頷(うなず)けないこともありませんが、「戦争を知らない子どもたち」だった人はどうでしょうか。

 (ヘッダー写真:東京・首相官邸で引退会見をする佐藤栄作首相。国民に向けたテレビ中継を望んでいた首相は、会見場に記者が座っているのを見て機嫌を損ねた。「僕は直接国民と話がしたいんだ。偏向的な新聞は大嫌いだ」と言い放ち、怒った記者たちは会見場を出て行った。(1972年06月17日)【時事通信社】)(註 こんな傍若無人な態度を恥ずかしげもなく剥き出しにするのは、この社会の為政者らしい)

 だれかれにとって、戦争を起こし、侵略をはじめ、他国を植民地にして苛政の限りを尽くしたのは「わたし(たち)」ではないといって、それで済ませたいでしょうが、なかなかそうはいかないのも事実です。言語に絶する被害を受けた人々は、その事実を忘れないけれど、加害責任を問われる側は、けろっと忘れる(ふりをす)。忘れたくても忘れられない人もいれば、都合よく「忘れる」人間もいる。多くは、「被害者」は苦しみ、加害者は、よほどでない限りは、忘却の隠れ蓑に身を潜める。現下のウクライナ侵略やパレスチナ戦争を一瞥すれば、瞭然とするはずです。

 「侵略する側」は都合よく歴史を忘却しがちです。済んだことに拘っても仕方がないではないか。指摘されれば、確かに「侵略」をしたかもしれないけれど、それは我々の「先輩(前代)」であって、我々ではない、だから戦争(植民地支配)の責任は我々にはないと言い切って、恬(てん)として恥じないことが往々にしてある。あまりにもばかばかしいから、これ以上は書きません。言いたいことは、たった一つ。「戦争責任」という国全体に関わる「責任」の受け取り(受け止め)方は、どうあがこうが「一蓮托生」ではないですかと、白々しく問いたいだけです。「死後、ともに極楽に往生して同一の蓮華に身を託すること。良くも悪くも行動や運命を共にすること」(広辞苑)

 この国に生まれたのが因果で、他国を支配し、苛政を敷いたのが我々の前代(の人々)だったのだから、その結果責任は、我々(末裔)もまた甘んじて受けなければならぬ、それだけです。「戦争」「侵略」「植民地化」という国家犯罪であるなら、なおさらそう言いたくなります。「大和民族」であることの責任。国家に帰属することの意味というか、問題性の受け取り方です。その際に、最もいさぎよくないのは、「戦争では悪いことばかりではなかった」「いいこともしたし、植民地の人々に報いることもあったのだ」という、実に嫌味たらしい物言いです。地震や豪雨も、ある意とばかりは言えない、いいことだってあるんじゃ、とでもいうのですか。

~~~~~~~~~~~~~~~~

 以下に、昨日と今日の二つの新聞の二つの「コラム」を引いておきました。「卓上四季」は三浦綾子さんの、戦争期は侵略する側に立たされ、戦後はそれを放棄する立場に様変わりした自らの「居たたまれない経験」に触れられ、「海潮音」は現下の事件、ある政党が一地方紙の記者を会見の場から締め出した件について触れています。三浦綾子さんは「おかしいことはおかしいと言えなかった自らの戦時中の自責の念」について、他方は、「知らせる・知りたい」表現の自由(人権)の抑圧について、民主主義社会の盲点のごとき問題が提示されています。優越的立場の側に「平伏(ひれふ)さない」とは、不届き千万という「愚者の奢り」がそこにあります。

 でも、コラムは二つではあっても、問題の在り方(所在)は一つです。つまりは「つべこべ言うな」「余計なことは書くな」という言論(発言)の自由の弾圧の問題でしょう。言いたいこと、書きたいことが認められない社会は「人権が踏み躙(にじ)られた」、まことに由々しき社会です。今この時代に、こんなことが問題になるのも、一面では学校教育の悪しき結果だとぼくは考えています。教室で「発言の自由」は保障されていたかどうか。「静かにしなさい」「おしゃべりはするな」というのは「子どもの発言抑制」のための教師たちの常套句でしたね。ぼくは気に入らなかったから、教室や学校ではそっぽを向いていました。教師というのは、なんと偉そうな、そんな気分だった。

【卓上四季】石ころのうた 作家の三浦綾子さんは旭川の高等女学校を卒業後、小学校の教師になった。1939年(昭和14年)の春、歌志内が初任地だった▼既に日中戦争は始まっていた。「時の流れはとうとうとして国民全体を戦争へと向かわせていた」。17歳の新米教師は何ら疑問を持たず軍国主義に染まり「天皇陛下の役に立つ国民を育てる」のが使命と信じた。自伝小説「石ころのうた」に率直に記す▼教育勅語が徹底的に教え込まれた時代だ。「一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ」、つまり「ひとたび国家の一大事(戦争)になれば勇気をふるいたて身も心もお国(天皇陛下)のためにささげ」なければならない(高嶋伸欣(のぶよし)訳)▼戦後、教育勅語は国会で排除と失効が決議された。民主主義や基本的人権を定めた新たな憲法と相いれないためだ。ところが近年は評価する発言が閣僚からも相次ぐ▼さらに参院選で「日本人ファースト」を唱えて躍進した参政党は、教育勅語は「尊重しなければならない」とする憲法案を掲げる。戦前に回帰したいのか▼三浦さんは子供たちに教科書の軍国主義的な記述を消す墨塗りをさせたが、自責の念にかられ敗戦翌年に教師を辞めた。痛恨の思いを胸に、作家になってからは二度と誤った道を歩んではならないと訴え続けた。戦後80年にして私たちは分岐点に差し掛かっている。(北海道新聞・2025/08/03)
【海潮音】参院選で躍進した参政党が、国会内で開いた会見で神奈川新聞の記者を排除したことが報じられた。同党は当初「事前登録がなかった」と説明したが、後に「(会見に)混乱が生じる恐れがあると判断」したと修正◆参政党候補者に対して辛辣(しんらつ)な報道を続けたことを理由としているが、批判や異論を封じようとする姿勢は公党としていかがなものか。同紙は「ジャーナリズム全体を軽視する行為」と厳しく抗議した◆筆者も行政機関や地方議会、警察、企業に取材を拒否された経験がある。大抵は不都合な事実に触れようとした時で、相手と口論になり「おまえのところの社長に言いつけてやる」と脅されたこともあった◆近年、メディアへの攻撃を容認または助長する空気が交流サイト(SNS)を中心に広がっている。これが常態化すればメディア全体を萎縮させ、国民の知る権利を侵害することになりかねない。その次に何が起こるか。報道人の端くれとして知っているつもりだ◆「彼らが、私を攻撃した時、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」。かつてのドイツでナチ党による少数者への迫害を見過ごし続けた結果、取り返しのつかない状況となったことを悔いる詩の一節だ。悲劇を繰り返してはならない。(中)(日本海新聞・2025/08/02)

 日本海新聞のコラム氏が書かれている「彼ら(ナチ党)が私を攻撃した時、私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった」という、いち詩人の発言に、いずこも同じ「秋の夕暮れ」を痛感しました。まったく同じような事態(場面)が、方々の「記者会見」で繰り返されている。都合の悪い質問には「答えは差し控える」という、慇懃無礼かつ卑怯千万の抑圧姿勢。気にくわない質問には「答えない」という質問者を虚仮にするような姿勢は、実際には「隠さなければ大変」という後ろめたさを白状している。隠さなければならない事実を問われたら、嘘をつく。こんなところに「デモクラシー」は顔を出さない、はずかしいから、ね。沈黙は金なりと、誰が宣ったか。「雄弁は銀、沈黙は金(Speeci is silver,silence is golden.)」本当に「言わぬが花」という時も、もちろんある。でもたいがいは「口は災いの元」だという自覚があるから、隠したいための沈黙であり、答弁)拒否ですよ。そして「おかしいことは可笑しい」と指摘すれば、嵩(かさ)にかかって「誹謗中傷」の嵐。まさに狂人たちの昂(たかぶ)りですね。

 「言論の府」とされる国会には、空論や虚言は至る所で飛び交っているが、「熟議」や「論議」に至ってはほとんど、久しく絶えて見られません。それだけ空理空論の府と化しているのは、そこにいる、大半の「議員先生」どもが異論を許さず批判を封じる悪習に染まっているからです。その典型は「数は力だ。力は正義だ。正義は金だ」という、馬鹿の一つ覚えの狂信です。都合が悪ければ、「お答えは控える」と言う。要するに答えられないから、「不勉強で答えることができません」「明らかにすれば大変なことになる」とは言うのも憚(はばか)られるから、頑なに答弁拒否している、それが当たり前に通用してしまうという白々しさ。

 平時においてこうですから、いざ非常時となれば、すべては権力(大樹)に「靡(なび)く」のは目に見えています。政治家に対する質問口調を聴いていると、何よりも記者諸氏の「卑屈」「謙り(遜り」(へりくだり)には、聞いている(見ている)だけで反吐が出てきます。「この問題いついての受け止めをお願いします」という、これを質問と思っている馬鹿さ加減。何を聴くのか、十分に考えるまでもなく、答えは質問の中にある。そんなことを訊いてどうする、という反省が質問者にはないのだから、「記者会見」などとは言えた義理ではないので。

 民主主義(発言する権利の承認)は一軒の家にも、一つの教室にも、一回の記者会見の場にもなければ、その社会はやがて、ものの言えない社会、ものの書けない国になるのは確実です。「火のないところに煙は立たず」と言い、「ボヤは小さいうちに消せ」などと言います。たった一件のことだから、取るに足りない出来事ではないか、そんな悠長なことをホザイテいる間に事態は悪化し、目が冷めたら、一切物が言えない社会になっている、そんな馬鹿なことが、と思う、そんな馬鹿なことが起りつつあるんでしょうね。従順とか素直というのは行動規範としては大いなるマイナス価値しか持たない。「弱気を挫き、強きを助ける」という、実に不愉快極まりない風潮が蔓延しているし、それをしつけと称し教育と語って国家事業にしてきた「学校」、事の結果が見事に花開きつつあるのが、ただ今、今日の社会の見るも無残な、デモクラシーの在り処ではないですか。(右写真:参政党による記者の会見出席拒否を報じる神奈川新聞の7月23日付朝刊紙面)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

ぼくの国は戦場だった(NO OTHER LAND)

【金口木舌】ノー・アザー・ランド ヨルダン川西岸で生活を追われ、命を脅かされるパレスチナ人を記録し、米アカデミー賞も受賞したドキュメンタリー映画「ノ-・アザ-・ランド 故郷は他にない」。出演した31歳のパレスチナ青年がイスラエルの入植者に射殺された▼ヨルダン川西岸はパレスチナ自治区だが、イスラエル軍が聖地エルサレムを実効支配する。路上画家のバンクシーは「花を投げる人」などの作品やホテル建設を通じて、西岸と長年関わる▼イスラエル軍の擁護も盾に、入植者による暴力は増幅する。暴徒化した若者がパレスチナ住民の生活を妨害し、退去に追い込む。この「ヒルトップ・ユース」と呼ばれる集団ら極右入植者にはイスラエル政府も手を焼く▼死者が6万人を超えるガザと違法な追い出しが横行する西岸。「民族浄化」としか呼びようのない実態を前に、ユダヤ人へのホロコーストを思い返しながら思考は立ち尽くす▼故郷の渇望や苛烈な因果にどう向き合うか、まだ分からない。しかしイスラエル右派政権の中からさらなる極右集団が萌芽し力を伸ばすさまに、暴力は別の暴力しか生まないと何度もかみしめる。(琉球新報・2025/08/01)

 (ヘッダー写真は「ノー・アザー・ランド」より)

⁂写真右上=「神様の遣いである天使が、壁をこじ開けようとしている絵は、バンクシーの平和を願う気持ちが表されています。イスラエルは主にユダヤ教徒、パレスチナはイスラム教徒で成り立っているのですが、 天使は、この2つの異なった宗教の教典に出てくる共通の存在でもあります」 ⁂写真左「ベツレヘムの観光名所パレスチナヘリテージセンターの壁には、白い鳩のアートが。平和の象徴である鳩が防弾チョッキを着て、さらにスナイパーの標的になっています。武力行使に反対する、バンクシーの皮肉が込められた作品です」(バンクシーの「壁画」(3枚)はいずれもTELESEARCH=https://tele-search.co.uk/banksy-palestine/

+++++++++++++++++

 「ヨルダン川西岸地区のマサーフェル・ヤッタで生まれ育ったパレスチナ人の青年バゼルは、イスラエル軍の占領が進み、村人たちの家々が壊されていく故郷の様子を幼い頃からカメラに記録し、世界に発信していた。そんな彼のもとにイスラエル人ジャーナリスト、ユーバールが訪れる。非人道的で暴力的な自国政府の行いに心を痛めていた彼は、バゼルの活動に協力しようと、危険を冒してこの村にやってきたのだった。同じ想いで行動を共にし、少しずつ互いの境遇や気持ちを語り合ううちに、同じ年齢である2人の間には思いがけず友情が芽生えていく。【監督】バゼル・エイドラ、ユーバール・アブラハム、ハムダーン・バラール、ラケル・ゾール(TOHO CINEMAS)(https://hlo.tohotheater.jp/net/movie/TNPI3060J01.do?sakuhin_cd=025494

*映画『ノー・アザー・ランド 故郷は他にない』日本版予告編(https://www.youtube.com/watch?v=iOyhxAbsbO8

 もう六十年以上も前のことになったが、「ぼくの村は戦場だった」というソ連映画がありました。父親は戦死、母は行方不明、孤児となったイワン少年は、ナチ侵攻の時には12歳でした。舞台は「独ソ戦」最中の、小さな村に起こった事件。戦争に翻弄された一人の少年兵の「戦死」の意味を深く突き出してくるものがあったと思う。終始、暗い画面に覆われていた、そんな印象があります。「ノーアザー・ランド」にも、そっくりそのままの「戦争」の理不尽さが描かれていたと思われる。ここでお断りを。房総半島の山中暮らしで、街中に出かけることがほとんどなくなった現在、ぼくは秋にも発売されるというDVD版を待ち望んでいます。いろいろな資料などを調べながらの感想でしかないことを断っておきます。

 「戦争は悪」だと非難することは容易いし、それで済んでしまえば「平和」は現前しないでしょう。パレスチナで、今何が起こっているか、そこで暮らす人々の息遣いが聞こえるところまで迫りつつ、途方もない問題に直面するほかないようにぼくには思われる。昨日、ある難民支援団体からの支援要請メールが届いた。「ガザの子どもたちに食料を」というものでした。ぼくには何もできることはないからというのではありません。戦禍に苦しみ、飢餓に襲われている「子どもたち」の側にたって、応分の任務として、できることは何とかしてみようと、この何十年か、ささやかな支援活動を継続してきました。それで何がどう変わるものでもないことは分かりきっている、だから、そんなことをしても仕方がないとも思わないし、これをやったからぼくの義務が果たせたとも思わない。若ければ、もっとやりようがあるだろうが、今は息をつくことすらままならぬ状態にありながら、無理をしないで、戦禍の子どもたちの側に並ぼうという、それだけの気持ちは絶やさないつもり。

 路上画家バンクシーの仕事についても、いろいろな場面でたくさんのことを教えられている。本日引用している3枚の「壁画」のそれぞれに画家の深い反戦の思いが込められていることは当然のこととして読み取れます。その上で、このような「画業」を続けている「バンクシー(たち?)」の、その先の狙いは何だろうかと考えてみるのです。パレスチナとイスラエル、どこまで行っても相交われない両国民族なのだろうかどうか。そんな霧がかかって見通すことすらできない難題に、画家は焦点を当てているようにも見えます。防弾チョッキを着用したハトと、それを標的にするスナイパー、この風景は何を語るか、実に象徴的ともいえそうな画題ではあります。「パレスチナ殲滅作戦、それを、世界は確かに見守っているのでしょうが、拱手傍観の謗(そしり)りは免れぬと、ひとりの傍観者でもあるぼくも、額に深い皺を寄せながら観ています。誰が悪いと言っていては、事態は好転するはずもありません。(*バンクシー(Banksy、本名および生年月日未公表)は、イギリスを拠点とする素性不明のアーティスト(路上芸術家)、政治活動家、映画監督。Wikipedia)

 ここにきてフランス・イギリス・カナダが「パレスチナ国家」承認の態度表明をしています。イスラエルはもちろん、絶対反対であり、それを支援する米国も容認はしないでしょう。にもかかわらず、この三国は国家承認を突き出しました。素人の見方で言うなら、イスラエル建国当時の「状況」認識に立ち戻ったといいたい気がします。元をただせば、英仏にも大きな責任が問われるべき両国問題でもあるからです。このところ、しきりにサイードのことが思い出されます。五日、彼の主張をもとに、パレスチナ問題に空いて駄論を弄したいと考えています。

(*「エドワード・ワディ・サイード(إدوارد سعيد Edward Wadie Said, 1935年11月1日 -2003年9月25日)は、パレスチナ系アメリカ人の文学研究者、文学批評家。主著の『オリエンタリズム』でオリエンタリズムの理論とともにポストコロニアル理論を確立した。彼はまたパレスチナ問題に関する率直な発言者でもあった」(Wikipedia)

 (今回はここまで)(左上写真「イスラエル側から見たガザ地区の夕暮れ(07月30日」・CNN)

【解説】 「パレスチナ国家の承認」とは何を意味するのか イギリスのキア・スターマー首相は29日、イスラエルがパレスチナ・ガザ地区での停戦に合意し、パレスチナ国家と共存する「2国家解決」の可能性を再び模索するなどの一定の条件を満たさなければ、9月の国連総会でパレスチナ国家の承認に踏み切ると発表した。
この発表に、イスラエルのベンヤミン・ネタニヤフ首相は、「(イスラム組織の)ハマスの凶悪なテロ行為に報酬を与えるものだ」と激しく反発した。/実際にパレスチナ国家が承認された場合、それは何を意味し、どのような変化をもたらすのだろうか。(以下略)(CNN・2025/08/01)(https://www.bbc.com/japanese/articles/c890xqnd3p1o)

◉ パレスチナ分割(Partition of Palestine)= パレスチナをユダヤ国家とアラブ国家などに分割すること。 1947年 11月 29日,国連総会はパレスチナに対するイギリスの委任統治を廃止し,パレスチナをアラブ国家,ユダヤ国家および国連管理下の国際都市エルサレムに分割する決議を採択した。ユダヤ側はこの決議を受入れ,48年5月 14日イスラエルの独立を宣言したが,アラブ側はそれを拒否したためパレスチナ戦争 (第1次中東戦争 ) が勃発。この結果,イスラエルは分割決議で割当てられていたよりはるかに広い範囲に支配を及ぼし,他方イスラエルの支配の及ばなかった地域のうち東エルサレムとヨルダン川西岸地区はヨルダンの,ガザ地区はエジプトの占領下となった。その後 67年の六日戦争 (第3次中東戦争) の結果,東エルサレム,ヨルダン川西岸地区およびガザ地区もイスラエルが占領,このうち東エルサレムは西エルサレムと統合され,イスラエルの首都の一部とされた (ただし,国際的には認められていない) (→エルサレム問題 ) 。アラブ諸国およびパレスチナ解放機構PLOは当初,武力闘争により全パレスチナを解放することを目指していたが,イスラエル国家が既定事実と化し,かつイスラエルによる占領が長期化するにつれ,イスラエルが六日戦争の全占領地から撤退し,そこにパレスチナ国家の樹立を認めるならばイスラエルと平和に共存しようという考えがアラブの多数意見となった。 PLOもまた 88年 11月,その考えにそってパレスチナの独立を宣言した (→パレスチナ国家問題 ) 。一方,イスラエルも占領地のパレスチナ人に一定の自治を認める意思のあることを表明した。その後 93年9月にはイスラエル,PLOの相互承認,お荒れスチナ暫定自治区協定調印が実現した。これにより 94年ガザ地区とヨルダン川西岸のエリコ地区で先行自治が始り,95年新たに6都市が加わった。しかし,5年間の暫定自治を終えた 99年パレスチナ国家独立宣言は延期,さらに問題の全面解決をはかる最終的地位交渉も 2000年に事実上決裂した。同年9月イスラエルのリクード党首の A.シャロンがエルサレム旧市街の「神殿の丘」を訪問したのを機にイスラエルとパレスチナ住民との間で衝突が発生した。(ブリタニカ国際大百科事典)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

 

「戦後」はいつでも「戦前」です

 「清太と節子の運命を暗転させた、神戸市の大空襲から80年の節目である」と、あるコラム氏が書かれていました。その神戸(兵庫)では何が起こっているのか、ぼくは、密かに戦慄を覚えながら遠望している。細かいことは言わない。新聞記者が言いたいことを言うと、その発言を封じるような暴力が飛んでくる。記者を守るべき新聞社は、わが身可愛さに、記者を黙らせる。知事に批判的な報道をする機関には誹謗中傷や名誉棄損、そのいずれもに向かって脅迫に等しい排撃が襲ってきます。

 「火垂るの墓」を観たのはいつだったか。ぼくは職場内の教室で学生たちといっしょに観た。原作は野坂昭如氏で、同作品で1967年下期の直木賞を受賞。野坂さん自身の自伝的要素も含んだ作品で、アニメ化は1988年、「となりのトトロ」と二本立てで公開されました。ここで紹介すべきは同作品監督だった高畑勲氏の発言です。「反戦アニメなどでは全くない、そのようなメッセージは一切含まれていない」と繰り返し述べた。また、「本作は決して単なる反戦映画ではなく、お涙頂戴のかわいそうな戦争の犠牲者の物語でもなく、戦争の時代に生きた、ごく普通の子供がたどった悲劇の物語を描いた」とも。(スタジオジブリ作品関連資料集Ⅱ)そして、さらに加えて、「こうした悲惨な体験を語っても将来の戦争を防ぐには大して役に立たないだろう」(「君が戦争を欲しないならば」)」と。

 戦争の犠牲になるのは、少なくとも「開戦」に関われない子どもや大人たち。あるいは「弱者」と言ってもいい。戦争が始まれば、もうそれを止める手段は断たれたと考えてもいいでしょう。「賽(さい)は投げられた」からだ。「いったん戦争が始まると、だれもが流れにのみ込まれてしまい、止められない。かつての日本も、いま交戦中の国々も同じだ。だからこそ、もっと学ぶべきは、なぜ戦争を始めてしまったのか、どうしたら始めないですむのかだ―」(コラム氏)果たして、それで「戦争」が始まらないという保証になるのかどうか。戦争をしたがる、そんな狂気がこの社会にあ空話間に萌しています。「戦争反対」とい声を上げる前に、その声を権力者たちは消そうと、さまざまな方途を思いつく。スパイ防止法はどうだ。

【卓上四季】戦後80年の8月 スタジオジブリのアニメーション映画「火垂(ほた)るの墓」。第2次大戦末期、母を亡くした14歳の兄と4歳の妹が懸命に生き延びようとする姿を描いている。ホタルの光を浴びる兄妹のけなげな様子は涙を誘う▼原作者の野坂昭如(あきゆき)さんは神戸で、映画を監督した高畑勲(いさお)さんは岡山で米軍の空襲に遭い、九死に一生を得た。焼夷(しょうい)弾が街や人を焼き尽くし、命が助かっても食糧難で飢えに苦しむ。2人の実体験に基づくから、戦争の惨禍と悲劇がリアルに伝わる▼高畑さんは意外なことを語っている。「これは反戦映画ではありません」。こうした悲惨な体験を語っても将来の戦争を防ぐには大して役に立たないだろう、とも(「君が戦争を欲しないならば」)▼なぜか。いったん戦争が始まると、だれもが流れにのみ込まれてしまい、止められない。かつての日本も、いま交戦中の国々も同じだ。だからこそ、もっと学ぶべきは、なぜ戦争を始めてしまったのか、どうしたら始めないですむのかだ―▼今は亡き高畑さんは、この国にはびこる同調主義や、加害の歴史の忘却を深く憂えていた。「火垂るの墓」は終戦記念日の15日夜、地上波では7年ぶりにテレビで放映される(道内はSTV)▼戦後80年の今年も鎮魂の8月を迎えた。国内外の犠牲者を悼むとともに非戦の誓いを新たにする夏にしたい。(北海道新聞・2025/08/01) 

 反戦映画をたくさん見、反戦記録をたくさん調べたところで、一端戦争がはじまると、参戦同調の圧力(波)は、まさに津波の如くに敵も味方も併呑していしまいます。その事例には事欠かない。何十年も前に観た「火垂るの墓」、ぼくがそこから得た感情は「死んで花実が咲くものか」だと言えばどうでしょうか。あるいは今でもなお、清太(14歳)と節子(4歳)の兄と妹の亡霊がいつでも、事あるごとにぼくの頭上で浮遊している、その暗示を学んだ。二人はともに「衰弱死」、ありていにいえば「餓死」だった。いわば、戦火の果てに「野垂れ死に」した二人の霊魂が、ぼくの身近に存在しているという奇怪な印象ばかりが残った。「今は亡き高畑さんは、この国にはびこる同調主義や、加害の歴史の忘却を深く憂えていた」とコラム氏も書く。敗戦後八十年を直前にして、映画の舞台になった兵庫で、「いわれなき排外主義」「暴力を伴う言論抑圧」の風潮が渦を巻いています。

 「歴史から教訓を学ぶ」と人は言います。その言葉は間違いだというつもりはないけれど、いったい、いかなる教訓を学んだというのか。「戦争」の実際を知らないからこそ、勇敢にも「戦争の準備を怠らず」と「自衛権」や「集団的自衛権」を叫び出しています。加えて「スパイ防止法」までも。この「火垂るの墓」は、ぼくにはまるで「能」のようなものとして胸に刻まれている。戦禍に朽ちた二人の兄と妹は「幽霊」になって、生前を偲んでいる。戦争が始まれば、それを止めることは不可能に近い。すべては、大きな津波に飲み込まれ押し流され、攫(さら)われる。津波が来る予兆があるとするなら、遠くを望んで聞き耳を立て、すこしも油断しないで、避難するに限ります。「同調圧力」が強ければ、(ひそかに)全体重をかけて、「同調」を強いる現場から離れる。言論弾圧、言論封じが垣間見えたら、これまた(ひそかに)、全体重を乗せて屹立しつつ、怯(ひる)まないこと。ぼくにできることはほとんどありそうにもないけれど、「65㌔の体重をかけて」、不合理や理不尽には抗したいのだ。あたかも「弁慶の立ち往生」のように、ね。

表現の自由が方々で抑圧されています

<あのころ>さよならチンチン電車 京都・北野線が廃止 1961(昭和36)年7月31日、京都市の路面電車・北野線が廃止となり、最後のお別れ運転。市民に親しまれた日本最古のチンチン電車の引退に高山市長は「明治、大正、昭和と65年間も走り続けた電車を失うのは寂しいが、経営合理化でやむを得ない」とあいさつ。車の増加に伴い各地の路面電車も廃止の方向へ向かった。(共同通信・2015年07月31日)(ヘッダー写真は:https://kyotolove.kyoto/I0000349/

 日付を見れば、もう65年近く前のことになりました。ぼくは高校生になっていたと思う。京都市電は、ぼくにはとても懐かしい。今では全く日付が曖昧になってしまいましたが、小学校3年生の春休みに石川県の田舎から京都に来て、京都駅から初めて乗ったのが京都市電、つまりは「チンチン電車」だった京都駅から堀川中立売まで、それが私電・北野線。この時、弟は電車内で「おしっこ」をしたと記憶しています。そして、両親といっしょに「ひと夏住んだ」のが、堀川中立売、一学期だけ在籍したのが堀川通にあった聚楽小学校(今は廃校)でした。

 4月から7月の短期間だけの腰掛け学校。それこそ何もわからないままで学校に通ったが、田舎弁丸出しで友達なんかもいなかった。ぼくの記憶では、三歳年下の弟を学校に連れて行って授業を受けていたと思う。担任は女性で、朧気(おぼろげ)ながら風貌(容貌)の印象は残っている。今ではあまり使わなくなった表現だが「男まさり」の気味があったと思う。聚楽小学校の印象は、古臭くて暗い学校というものだった。それ以外は何も覚えていません。

京都市立聚楽小学校(きょうとしりつ じゅらくしょうがっこう)は、京都市上京区にあった公立小学校。明治2年(1869年)に京都で設立された64の番組小学校の一つとして開校し、平成9年(1997年)に、京都市立桃薗西陣小学校、京都市立成逸小学校と共に、京都市立西陣中央小学校に統合され、閉校した。(略)学校名の由来は、豊臣秀吉が建造した聚楽第の一角に位置することによる。(以下略)(Wikipedia)

 仮住まいは街中の一軒で、親父の仕事仲間の家だった。両親と弟との四人で、二階の一室に間借りしていた。だから、家で遊ぶこともできず、学校が終わる頃になると、きっとおふくろが弟を連れて学校に迎えに来て、三人で近くの京都御所に行って時間を潰していたと思う。なんでそんな生活をしているのか、ぼくにはまったくわからなかったが、よほどの悪天候でもない限り、連日の御所行きは、それなりにのんびりしていたものでした。

 ぼくの遊び場になったのは、この時代、北野天神で、御所と並んでよく通いました。今ではほとんど思い出すこともなく、こんな機会でもなければ、記憶の外の時間ということになっていたと思う。ぼくは、それ以降もほとんど家の中で過ごす時間よりも外で、それもたった一人で家の近くの山々を遊びまわるようになったのも、住宅事情の為であったかもしれません。夏休みには嵐山や天竜寺・大覚寺などがあった地域(北嵯峨)に引っ越しをし、そこで高校卒業まで過ごします。自分でも驚くことですが、京都にいた時間は十年にも満たなかった。

 親父は、世間体も何も気にしない、まことに自己本位の人間だった。酒はこよなく愛し、仕事も誰よりも優れた技量を誇った人。だから、そのためにどれだけ、ぼくたちは困っていたかは、彼には関知しないことだったのです。

 こんなことをこまごまと書いていれば際限がありません。「チンチン電車」に関して忘れられない出来事として、ぼくにはとても印象深く刻まれている一枚の「絵柄」がります。一学期間を終わった後で引っ越したのが右京区嵯峨広沢南ノ町という地区でした。いわば北嵯峨の一角(広沢の池そば)に当たるところ。通うことになった小学校は京都市立嵯峨小学校(釈迦堂の近く)。広沢という地区でも親父の知人の納屋を改装した詫びしいボロ住まい。この家の隣に I さんというお宅があり、この人が、見かねてだったと思うが、ぼくや弟をかわいがってくださった。その人には子どもはいなかったと思う。その I さんが「チンチン電車」の乗務員だった。何度もその人が出番のときには乗せてもらっていた。大抵は「車掌さん」をしていたと思う。いつものおじさんと電車の車掌が同一人とは考えられなかったほど。仕事に熱心な大人という雰囲気はまったくなかった。この人も酒飲みだったと思う。

 I さんは仕事休みになるたびに、方々に連れて行ってくれた。今でも忘れられないのが、京都の丹波の方にまででかけての川釣り(大抵は鮎だったが)でした。山陰線の嵯峨駅から由良まで行き、そこで下車。由良川は初めてだった。釣りは嫌いではなかったので、教えられながら(見よう見まねで)、釣り竿を垂らしていた。昼飯には、ぼくたちにはとても珍しかった缶詰を開けていただくことがあった。今思っても、なぜ、この人がぼくたち兄弟を世話してくれたのかわからない。貧乏な田舎者が可哀そうで、見るに見かねて、だったと思っています。「チンチン電車」と「由良川(アユ釣り)」と「隣人の親切」は、世間知を学ぶ、ぼくの貴重な経験ともなったし、他者に対する想念(惻隠の情)の値打ちを知る機会にもなったと、今でも忘れられません。(参考文献「元祖チンチン電車 市電北野線廃止60年」島本由紀・鉄道友の会京都支部副支部長・事務局長 2021年8月6日)(https://kyotolove.kyoto/I0000349/

++++++++

 つまらないことを駄弁るのも、酷暑にやられた気の迷いかもしれません。晩年に入っている人間の過ごす時間として、決して心楽しいことが続くことはないのは、まあ、ある種の因果応報だと諦念に似たものを感じています。この年になって、排外主義がまるで流行歌やJpopを口ずさむように呟かれ、ある意味では大合唱にすらなっている。あるところでは言論の自由は抹殺され、外国人の人権は踏み躙られ、そのつながりで、この社会の弱者(高齢者・女性・こどもを含む)を蔑む風潮が頓(とみ)に強くなっている。過去の思い出に逃げ込むのではなく、「チンチン電車の時代」は、ぼくの中ではひとつながりの時間と歴史として、何の違和感もなく、今も共存している。そして、この時代、遥かな和洋の歴史に学んだ「全体主義(ファシズム)」「排外主義」の足音を、自分の耳で聞く羽目に陥っていることに深い悲しみと我が小心に萌す諦観の思いが錯綜しているのです。これまで、多くの先輩たちが「戦争の足音」がするというのを、どこか嘘くさいものとしながら聴いていたと思う。しかし、わが身の日常を顧みれば、世情は著しく猥雑・頽廃的になり、他者を労(いた)わるよりも抹殺するという人々の毛羽立った殺伐さが痛感されるのです。何事もなく一日一日が終わる、その安心と不安の隙間に、着実に忍び寄ってくる「全体主義」の足音であり、叫び声でもあるのでしょう。

 兵庫県庁記者クラブ所属の女性記者が、知事記者会見における自らの「発言」を理由に(と思われる)、会社から配置換えを伝えられたという(7月29日)、この一事にぼくは衝撃を受けている。外部からの攻撃的抗議、糾弾の矢が時事通信社を襲い、身を守るために、会社は彼女を消すことになったとぼくには思われる。この通信社の系譜を見れば、遠く満州事変や日米戦争を権力の側の御用機関(通信社)として経験してきた前史があります。だから、一女性記者を切ることくらい、蚊に刺されたほどの痛みも痒みも感じていないのでしょう。つまりは「躊躇(ためらい)」はなかった。本日最初に記事を引用した「共同通信」はこの通信社とは元は一つ床の家族(同盟通信社)でしたから、至る所で認められる、新聞・報道の右傾化状況は戦前・戦中には、多くのメディアは経験済みの事柄だった。何か知らぬが、「夢よもう一度」と血迷っているでしょうか。

 もう一つ、兵庫県知事の支持者が猛烈な言論弾圧を進めていると思われているが、それは表向きであって、実際には「知事支持」を隠れ蓑に、大方の右翼勢力と思われる「ならず者(ruffian)」連中が兵庫県(庁)内に入り込んで思いの丈を果たそうとしているのです。「配置換え」強いられた(と思う)女性記者は、この事実を、兵庫県は右翼たちの「遊び場」になっていると指摘されていた。その通りかもしれないし、そうだとするなら、知事は大きな罪作りを犯しているので社内か。「現兵庫県知事」は、そのような勢力(右翼的言辞に染まっている)の呼び水(pump priming)となったしまった、とぼくは見ている。そして、そこで繰り広げられる、さまざまな暴力行為に警察や検察は自らの職務をなぜだか中止し、拱手傍観しているのです。地中では地殻変動が生じているが、表土上には何事もなかったかのように、時間は過ぎていく。多くの民衆をも誘い込んで、「大政翼賛」は右翼側にひたすら靡くことを止めない。その先にあるものは、…。

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

いつも震源地にいるのは知事です

 昨晩、午後に行われていた兵庫県知事の定例記者会見の録画を見ていて、ぞっとするような場面に遭遇しました。詳細は避けますが、県庁記者クラブ所属の時事通信記者(女性)が質問に立った。まず、「自分は先週の会見で質問したが、帰社したところ、質問に対する批判や非難の電話が鳴りやまず、次の日に私は記者クラブ詰めから配置換えをされました。訊きたいことを質問して、どうしてこんなことが起こるのか」ということでした。S知事支持者が時事通信記者の質問内容に異を唱え、会社に強硬に抗議をした結果の「配置替え」だったのでしょうか。兵庫県知事問題の発端となった県民局長の内部通報問題。「まるで嘘八百を並べて怪しい文書を外部に漏らした」廉で、局長は処分され、その後に自殺をされた。また、同問題を扱うために設置された「県議会・百条委員会」で知事側の失政かと追及した県会議員が、これまた知事支持者の執拗な抗議(誹謗中傷)に晒されて自死された。同種の事件は兵庫県では多発しているし、知事支持派による「名誉棄損(誹謗中傷)」事件に対する告訴・告発も行われている。

 S知事は、いわゆる「岩盤支持者」を要して、自らに対する批判や非難はまったく認めないことを繰り返し表明し、その結果、支持派は「反知事」批判を繰り返す記者や報道関係者に執拗な「攻撃(殊にSNSを駆使して)」を加えてきました。件の女性記者は「このような言論封殺の中心にはいつも知事がいる。こんな状況で兵庫県政がまっとうされるのか」と、自身には最後となるであろう「知事会見」に臨んで「肺腑の言」を吐き出された。S知事は、見たところは「何を言ってるんですか?」と鉄面皮を隠さなかった。彼の心情は外部からはうかがい知れません。

++++

 中国新聞のコラム「朝凪(あさなぎ)」は長く愛読しているものです。まず「朝凪」というタイトルに惹かれます。穏やかに静まっている朝の海面の風景が目に浮かびます。これに対して「時化(しけ)」があります。台風などの接近時にはいつも見られる「荒れ狂った海面の様子」です。もちろん、これは生活のいろいろな場面にも用いられる表現(言葉)でもあります。コラムの記者は、子どもとの睦まじい時間を過ごす幸せを読むものに伝えています。そして、自分も四十歳になって、「不惑」を想ったが、実は、それは『不枠(或)」のことだったと教えられたという。「或」は「ワク・コク」と読み、一つには「枠」を表し、だから「不枠」とは、枠にとらわれない、限界を設けないで何事にも挑戦せよと、孔子は言ったのだと。そういうものか、とぼくは考えますけれど、それは脇に置いておいて、この女性記者の「伸びやかな姿勢」に心を現れる気がしました。

【朝凪】四十にして枠を超える 金曜の夕方は息子2人と図書館に寄る。書棚を眺めていると、論語の解説本が目にとまった。昨夏、40歳になり、孔子の言葉「四十にして惑わず」が気になっていた。これまでやってきたことに自信を持ち、迷わず進む―。そう捉えていたが、異説を読み、視野が広がった。◇孔子が想定していた漢字は「不惑」でなく「不或」だったとの解釈だ。或=枠。自分の限界を区切らず、いろんなことに挑戦せよ、と言う教えこそ孔子の本意だという。なるほど。◇その夜、子どもが寝静まり、高校の同級生からLINEが来た。仕事の近況を伝え合う中、「あたしらの年代、頑張らんとね」とメッセージをくれた。20、30代は多くの出会いに支えられた。40代、惑いながらも挑戦しよう。そう思いながら「そうだね」とスタンプを返した。(社会担当・久保友美恵)(中國新聞・2025/07/29)

 「その夜、…、高校の同級生からLINEが来た。仕事の近況を伝え合う中、『あたしらの年代、頑張らんとね』とメッセージをくれた」「40代、惑いながらも挑戦しよう」とあります。ご健闘を祈るや切、です。翻って、時事通信の記者 I さんの年齢は分かりませんが、かなり若い方とお見受けしているのですが、この両者の違いは何でしょうか。まず第一に、会社に執拗な抗議の電話がかかって来たたということ、「抗議電話が鳴りやまず…」と語られていた。会社は女性記者を「暴力的な抗議者から守ったのか」と一瞬考えましたが、記者の口ぶりからは、そうは思われませんでした。「心ならずも担当を外された」と受け取れる趣旨の発言をされていましたから。とするなら、会社は社員(彼女)を守るのではなく、会社そのものを守る意図は明らかだったとも思われます。仮にそうなら、「安全配慮義務」違反が問われるところではないでしょうか。(労働契約法第5条「使用者は、労働契約に伴い、労働者がその生命、身体等の安全を確保しつつ労働することができるよう、必要な配慮をするものとする。」)

 このところ、政権や権力に対して「既存メディア(オールドメディアと言われる)」は驚くほど従順で、要らぬ忖度ばかりが記者諸氏の発言(質問)に目立つのは、メディア世界全体の体制一体化の姿勢と無縁ではないでしょう。権力に対して「おかしいことはおかしい」と言わなければ、誰が言うのでしょうか。マスメディア自体が権力に加担していると言わざる場面が多すぎるのは事実だと、ぼくは見ています。有力政治家の前では驚くほど従順、借りてきた猫状態であることは、「報道」の命綱を自ら切断しているに等しい。報道の自由度がほぼ消滅しかかっている現在、さて、記者諸君はどうするのでしょうか。多勢を恃む「暴力」に甘受する、おそらく多くのメディア(幹部)は、そんな覚悟を決めている節があります。権力と二人三脚で、反対派を非難する側に立つ、今日の多くのメディアはすでに舵を切ったのです、大政翼賛会への道を進むのだ、と。「極右政党」の躍進を歓迎しているとすら思われる事態は、ぼくには狂気・狂乱に映ります。(右写真=知事記者会見・2025/07/29)

*兵庫県の斎藤元彦知事が定例会見(2025年7月29日)(https://www.youtube.com/watch?v=GxD-OohZLLk +16:45~)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII