
現首相の広島原爆記念式典における「あいさつ(挨拶)」を聴きました。いろいろな評価があるのは当然で、だから、今回のものも例に漏れません。しかし、直近3人の歴代総理大臣のものとは根底において異なっていた、とぼくは思う。誰が書かれたものか知りませんが、そこに書かれている言葉を、首相は自分の心の裡にある思想(姿勢)として読まれたと思う。こんなことが評価されること自体、きわめて恥ずかしい限り。しかし、事実は事実、歴代の首相は役職柄からおざなりの「挨拶」はするにはするが、心ここにあらずという為体(ていたらく)、他人の書いた文章を読み下す、だから漢字が読めない「事件」も起こるのでしょう。恥ずかしい限り。ぼくは現首相を持ち上げているのではありません。他が屑だから、それに比べれば…、というだけのこと。(ヘッダー写真:毎日新聞・https://mainichi.jp/tpnw/)

しかし、「核兵器」「核戦争」に関しては何かと御託は並べたが、「核兵器禁止条約」に関しては片言隻語(へんげんせきご)も触れるところはなかったというお粗末さ。漫言(まんげん)を費やして心情を吐露したかに見えて、「核兵器禁止」には「腫れ物に触る」体であった事実は前例踏襲だったから、残念だけれども「日本国の総理大臣というのはこの程度のもの」と吐き捨てるほかないのです。原爆投下の惨(むご)さをいか程語ろうとも、「『核戦争のない世界』、そして『核兵器のない世界』の実現に向け、全力で取り組んでまいります」と型通りの文言を連ねてなお、多くの批判が出るのは当然のこと、「核兵器禁止条約」の即刻参加(調印)は無理としても、せめて締約国会議には「オブザーバー参加を」という多くの人々の悲願さえも無視してしまうのはなぜか。
それもこれも、「宗主国」の御意向には逆らえないということでしょう。恥ずかしい限り。アメリカの軛(くびき)から一ミリでも二ミリでも外れることをこそ自らの使命にしていたのではなかったか。「おかしいことはおかしいとはっきり言う」と繰り返し口にしていたのではなかったか。と、それを、いまここで言ってはおしまいだとわかっているのだが。米国の尻馬には乗るけれど、その威光に盾突けないという現状認識を世界に白状したのですから、罪作りな総理、とぼくは言いたいですね。もちろん、「ないものねだり」はしないし、現状追認しか道が残されていない、それも知悉しているつもり。だから、情けなさは人一倍感じてしまうのです。
(本日は長崎にての「記念式典」です。これまで三代の総理大臣は「広島版のコピペ」だと言われました。恥ずかしい限りだけれど、役目上のお座なりが習い症(性)なっている、それが被爆された方々の精神を踏みにじっていることに些かの感受性もないのです。中には「一ページを読み飛ばしても」気が付かない愚者もいました。別人の葬儀で「同一・同内容の弔辞」読む神経というもの、それは神経ですらないでしょう。この上なく、恥ずかしいこと。恥ずかしいこと、この上なし、ですぜ。現首相もまた…)
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【あのころ】長崎に原爆投下 7万4千人が死亡 1945(昭和20)年8月9日、午前11時2分、米軍が長崎市に原子爆弾を投下した。松山町の上空500メートルで爆発し、熱線や爆風、放射線を浴びた人々約7万4千人が同年末までに死亡した。広島市に続いての非人道的な核兵器の使用で今なお健康被害に苦しむ被爆者は多い。惨状は3カ月を経た11月の撮影。(共同通信・2011年08月09日 08時02分)(右ー写真も)
【金口木舌】学生の頃、市民が社会や政治を変えることなんて「できない」と悲観していた。為政者や権力者が牛耳っていて、市民なんて無力な存在だと▼その考えは変わった。沖縄県は広島県が主導して核兵器廃絶を目指す国際団体「グローバル・アライアンス」への加入手続きを進めている。長崎県も加入しており行政が中心に思えるが、24カ国の36団体、67個人が参加する▼ノーベル平和賞を受賞した日本原水爆被害者団体協議会(被団協)の広島県組織もその一つ。戦争、核兵器使用で犠牲になるのは多くの一般市民だ。核兵器廃絶を求める声に押され、国際社会も変化しつつあるように思える▼今日で長崎に原爆が投下されて80年。平和祈念式典で長崎市長が読み上げる長崎平和宣言は被爆者や若者ら市民も参画する起草委員会による議論を経て作成された。「地球市民」との理念を打ち出し、核兵器廃絶の決意を表明する▼一方、日本は被爆国でありながら核兵器禁止条約を批准せず、7月の参院選では「核武装が最も安上がり」と発言した参政党の候補が当選。政治には期待できない。変革のため、希望を託せるのは市民だ。(琉球新報・2025/08/09)

【明窓】風化させない怒り きょうは長崎原爆の日 4月に熊本市内であった水俣病の講演会。地元のジャーナリスト高峰武さんは、水俣病の捉え方について切り出した。海に流した工場排水に含まれたメチル水銀が入った魚を食べたことで起きた、川で例えれば上流から下流へと汚染された事件と解されているが「違うと思う」と。「家族団らんの夕餉(ゆうげ)の魚が侵された、命の根源である食卓に起きた事件だということを考えたい」と訴えた。◇この言葉に、作家の林京子さん(1930~2017年)の長崎での被爆体験を基にした小説『祭りの場』を思い出した。「松山町の破壊された街を眺めたとき、私はフイゴを吹く老人を想(おも)い浮(うか)べた。七輪で鰯(いわし)を焼く家族の団らんを想い浮べた」「破壊も平和も私の場合家族にしかつながらない。国家は常に遠い存在だ」。◇松山町は爆心地。学徒動員中の林さんは1・4キロ離れた工場にいた。九死に一生を得たが、結婚や出産、子育てなどさまざまな場面でもたらされる被爆の影響に苦しみ、人類が犯した罪への怒りを小説に書き続けた。◇戦争を始めた国家の犠牲になるのは暮らし、破壊されるのは日常だ。「国家は常に遠い存在」と記した林さんは、文化庁主催の芸術選奨新人賞の内示を「被爆者であるから、国家の賞は受けられない」と辞退したという。◇あらゆる核がもたらす惨劇は今も絶えない。林さんをはじめ、被爆者の怒りを風化させてはならないと強く思う。(衣)(山陰中央新報デジタル・2025/08/09)(左写真も。「祭りの場」が芥川賞に決まり、喜びを語る林京子さん=1975年7月、東京都内のホテル)
(若いころ、かなり熱心に林さんの作品を読みました。重い万感に籠る、そんな感情に浸されたことを懐かしく、そして悲しく思い出しています。「破壊も平和も私の場合家族にしかつながらない。国家は常に遠い存在だ」「被爆者であるから、国家の賞は受けられない」この時、国家という存在の理不尽さが作家を誕生させたし、その作家は、生涯を貫く「反国家」観を維持し続けたのではなったか。「破壊されるのは日常だ」という、ほとんどの犠牲者の声が林さんお作品の中で嗚咽しているように読んだものでした)
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広島市原爆死没者慰霊式並びに平和祈念式挨拶 今から80年前の今日、1発の原子爆弾が炸裂(さくれつ)し、十数万ともいわれる貴い命が失われました。一命をとりとめた方々にも、筆舌に尽くし難い苦難の日々をもたらしました。/内閣総理大臣として、原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊(みたま)に対し、ここに謹んで、哀悼の誠を捧(ささ)げます。そして、今なお被爆の後遺症に苦しんでおられる方々に、心からのお見舞いを申し上げます。
2年前の9月、広島平和記念資料館を、改装後初めて訪問をいたしました。80年前のあの日、立ち上るきのこ雲の下で何があったのか。焦土となり灰燼(かいじん)に帰した街。黒焦げになった無辜(むこ)の人々。直前まで元気に暮らしておられた方が4,000度の熱線により一瞬にして影となった石。犠牲者の多くは一般市民でした。人々の夢や明るい未来が瞬時に容赦なく奪われたことに言葉を失いました。/広島、長崎にもたらされた惨禍を決して繰り返してはなりません。非核三原則を堅持しながら、「核兵器のない世界」に向けた国際社会の取組を主導することは、唯一の戦争被爆国である我が国の使命であります。/核軍縮を巡(めぐ)る国際社会の分断は深まり、現下の安全保障環境は一層厳しさを増しています。しかし、だからこそ、国際的な核軍縮・不拡散体制の礎である核兵器不拡散条約(NPT)体制の下、「核戦争のない世界」、そして「核兵器のない世界」の実現に向け、全力で取り組んでまいります。/来年のNPT運用検討会議に向けて、対話と協調の精神を最大限発揮するよう、各国に引き続き強く呼びかけてまいります。また、「ヒロシマ・アクション・プラン」に基づき、核兵器保有国と非保有国とが共に取り組むべき具体的措置を見出すべく努力を続けてまいります。

「核兵器のない世界」の実現に向け歩みを進める上で土台となるのは、被爆の実相に対する正確な理解です。
長年にわたり核兵器の廃絶や被爆の実相に対する理解の促進に取り組んでこられた日本原水爆被害者団体協議会が、昨年ノーベル平和賞を受賞されたことは、極めて意義深く、改めて敬意を表します。/今、被爆者の方々の平均年齢は86歳を超え、国民の多くは戦争を知らない世代となりました。私は、広島平和記念資料館を訪問した際、この耐え難い経験と記憶を、決して風化させることなく、世代を超えて継承しなければならないと、決意を新たにいたしました。/政府として、世界各国の指導者や若者に対し、広島・長崎への訪問を呼びかけ、実現に繋(つな)げています。資料館の年間入館者は、昨年度初めて200万人を超え、そのうち3割以上は外国からの入館者となりました。日本だけでなく、世界の人々に被爆の実相を伝えていくことも、私たちの責務です。/「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」は、施行から30年を迎えました。原爆症の認定について、できる限り迅速な審査を行うなど、引き続き、高齢化が進む被爆者の方々に寄り添いながら、保健、医療、福祉にわたる総合的な援護施策を進めてまいります。
結びに、ここ広島において、「核戦争のない世界」、そして「核兵器のない世界」の実現と恒久平和の実現に向けて力を尽くすことを改めてお誓い申し上げます。原子爆弾の犠牲となられた方々の御霊の安らかならんこと、併せて、ご遺族、被爆者の皆様並びに参列者、広島市民の皆様のご平安を心より祈念いたします。
「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」。「太き骨は先生ならむ そのそばに 小さきあたまの骨 あつまれり」。公園前の緑地帯にある「原爆犠牲国民学校教師と子どもの碑」に刻まれた、歌人・正田篠枝(しょうだ しのえ)さんの歌を、万感の思いを持ってかみしめ、追悼の辞といたします。
令和7年(2025年)8月6日
内閣総理大臣 石破茂
(首相官邸:https://www.kantei.go.jp/jp/103/statement/2025/0806hiroshima.html)

◉ 正田 篠枝(ショウダ シノエ)= 昭和期の歌人被爆者。生年明治43(1910)年12月22日 没年昭和40(1965)年6月15日 出生地広島県 学歴〔年〕安芸高女〔昭和3年〕卒 経歴家業は製粉業。昭和20年8月6日の原爆で、爆心地から1キロの自宅で被爆、家は壊れ火傷を負った。小舟で宮島口に逃れた。悲惨極まりない地獄図絵を三十一文学の短歌にまとめ、「さんげ」と題し出版を考えたが、21年夏占領軍の検閲のため許可が取れず、私家版「さんげ」を秘密裡に出した。その後37年に「耳鳴り―原爆歌人の手記」として平凡社から出版された。(20世紀日本人名事典)
・雪の中をずぶ濡れの三吉が訪ね来て死の手術と知らず入院を告げぬ ・己が骨くずれゆくさまは目に見えねど死の恐怖感こころを去らず(正田篠枝)
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