素朴な疑問は今も残っています。天皇の「玉音放送」を聴いて「一億国民が号泣した」という、そんなありそうもない「現実」を示すかのような写真がたくさん残されています。もっともよく知られたのは皇居前広場で、ひざまずき、あるいは土下座をして、(「陛下に申し訳ない。臣民の務めを果たさなかった」とばかり号泣し、肩振るわせて嗚咽する人民の写真です。ぼくはこれまでに何百回となく、これらの写真を観てきましたが、その都度、釈然としない心持が残ったまま。当時、「玉音放送」を聴いた人の大半は「何が何だかさっぱりわからなかった」「とても雑音が多く、意味不明の内容だった」と語られている。遺された録音を、今聞いてもぼくにはよく理解できないものです。
(ぼくは歴史家でも歴史研究者でもありません。いくつかの史料・資料などを目にし、自己流に評価することに興味を持っているだけの人間です。遺された敗戦時の写真を何枚か見てきて、今なお、ぼくに疑問や不信の念が消えないままで残っており、そのごく一部を、これまた自己流に指摘するばかりです)
▲「ヘッダー写真「終戦の玉音放送を聞き、皇居前広場でひざまずいて泣く国民」=昭和20年8月15日」(產經新聞報道・2021/12/12)

ところがどっこい、です。ごく素直に写真とそこに書かれている「キャプション」を読むと、皇居前広場、あるいは靖国神社などで、玉音放送が流れている(流されている)、それを聴いて泣き伏す、頭を垂れる「国民(臣民)」と理解されるようになっている。本当にそうかどうか。あるいは皇居前や靖国神社に来る直前に、どこかで「玉音放送」を聴いて、慌ててそこ(宮城や神社)に駆けつけて泣いたり土下座をしたりしたのでしょうか。皇居前広場や靖国神社境内に「玉音放送」が流されたという記録を読んだことも見たこともありません。ぼくの無知・不勉強の故でしょうか。◀左写真❶「終戦の玉音放送を聞き、皇居・二重橋前にひざまずく人たち」(1945年8月15日)(読売新聞掲載。2023/05/03)

▶右写真➋「玉音放送」で敗戦を知った国民(1945年8月15日、靖国神社で)(読売新聞掲載・2023/08/15)「終戦告げた玉音放送…平和の光を見た日」(https://www.yomiuri.co.jp/serial/webkiryu/wararchive/20230815-OYT1T50140/)この記事を書いた読売新聞にも、右の写真の「紹介」はありますが、どういう人々が「靖国」にいたのかなどは触れられていません。むろん、境内に「玉音放送」が流れていたなどとは書かれていません。

◀左写真➌「そこにいるはずのないカメラマン 残した『玉音放送、その時』の謎」(毎日新聞報道・2022/08/12)「 1945年8月15日、国内外で多くの犠牲者を出した太平洋戦争は終わりを告げた。悲しみに打ちひしがれた人もいれば、葛藤にさいなまれた人もいた。出征した海外の戦地をさまよい、終戦を知らずにいた人も。/これまで信じてきたものがひっくり返ったあの日の東京の様子を記したメモが、その時そこにいるはずのなかったカメラマンの自宅で見つかった。「8・15」にまつわるメモを手に、当時を生きた人や遺族を訪ねた。【椋田佳代/東京社会部】 (https://mainichi.jp/articles/20220812/k00/00m/040/141000c)

▶右写真➍は北海道新聞「『歴史的瞬間』作為だった」・1995年10月08日』写真の4人のうちの2人が1995年当時、道内にあって健在で、「二人は写真撮影の際、うなだれるポーズをとるように演出があったと指摘している」と。言われるままにポーズを取らされたが、写真の意味は分からなかった、と語られている。
昔も今も、新聞は「ヤラセ(演出)」にどっぷりつかっているというべきか。ぼくは皇居前の土下座や泣き伏す写真を観るたびに、実に「いやーな感じ」を持ってきました。これもまったくの「演出」だという気はありませんが、敗戦時の国民(臣民)の「真情の吐露」そのままだとも思いません。あるいは、一瞬は「慟哭」したかに見えたが、そんな暇があったら食料探し、生活再建だと、生活の必要が、多くの人たちの「正気」を目覚めさせたのだったかもしれません。上から出された「欲しがりません勝つまでは」というのはキャッチコピーだったわけで、誰だって、どんなに大きな災難に遭っても、日常生活を放棄するわけがないのです。空襲で焼かれ、家人が犠牲になったときでさえ、その日の夕食や次の日の朝食の用意をしたはずです。「おやすみ」「おはよう」のあいさつを交わしたはずです。
若い学生時代、それこそ日も夜もなく読み耽っていた、高名な一人の文芸評論家の戦争中のエッセイの中に、「国民は黙って戦争に参加していった」、千住湾攻撃の九州の写真を観て「美しい」などとという表現に出会い、ぼくは、そこでも実に「いやーな感じ」を持ちました。そうだろうか、黙って戦争に身を処したというが、「それは間違いだ」「誤った戦争だ」と感じた人がいなかったとはとても思えない。治安維持法を用いて強権発動してまで「表現の自由」を抑圧しなければならなかった理由は何だったか。「戦争はおかしい」という叫びを封じられた人がどれくらいいたか。Kという評論家の国家間、戦争観、それは時代が下るに応じてさらに明らかになりました。国家本意、天皇は畏き存在と思うまでは勝手でしょうが、それが民族の眼目(醇風美俗)だというに至っては、ぼくは読み続けることができなくなりました。

今日マスメディアの「頽廃」「落日」が騒がれています。しかし、その体質(権力の走狗・使い走り)は、残念ながら、いつだって変わらないというべきでしょう。もちろん「権力批判・権力行使の看視」という己が存在価値をわきまえて、果敢に健闘しているメディアはいつの時代にもあったでしょう。今もあるでしょう。いぼの大小は問わないつもり。返す返すも残念なことは、その意見や報道が、よく多くの人の耳目に届かないことです。本日は「敗戦後八十年」の区切りの日だという。政治は相変わらず、国民そっちのけで、「政争ごっこ」に暇をつぶしています。そんな腐った政治家の動向に、実に根気よく仲間内としてメディアは膝を交えて、なかには「コップの中の争い」に入り込んでいる新聞もあるのですから、駄弁る言葉も、元気もありません。
(🔼写真「玉音放送に聴き入る人たち=1945年8月15日正午すぎ、大阪・梅田の曽根崎警察署前」)(「終戦の日(8月15日)に読みたい 玉音放送(終戦の詔書)の原文と現代語訳」朝日新聞GLOBE+・2024.08.15)(https://globe.asahi.com/article/14709020)
【筆洗】80年前、当時30代の貞子さんは新潟で終戦を迎えた。夫は転勤で別の地にいた▼玉音放送直前、敵機がまいたビラには「日本良い国、神(紙)の国、七月八月灰の国」とあり、降伏を呼びかけていた。読みふける間もなく、自転車で現れた軍人にひったくられた▼天皇の言葉をラジオで聴き、青空に向かい何度も深呼吸。近くの銭湯の煙突から煙が出ているのに気づき、訪れると営業中だった。番台の老婦人は息子が戦地におり「親が敵弾を恐れて逃げ歩いておれません。客があってもなくても風呂屋を続けます」と言った-▼『八月十五日と私 終戦と女性の記録』から引用した。60年前、民放番組『木島則夫モーニングショー』に寄せられた女性たちの終戦の日の手記。嗚咽(おえつ)した人、海を眺めて生きててよかったと思った人、玉音放送を聞きながら陣痛を感じた人もいた▼今日は8月15日。以前に「大事件とは、その日に自分が何をしていたか一人一人が覚えている事件をいう」と社の先輩に聞かされ、日航ジャンボ機墜落や昭和天皇崩御などを思ったが、終戦は間違いなくそれ。一人一人がその日に抱いた感慨こそ、語り継いでいくべきなのだろう▼80年前の8月15日に銭湯を訪れた貞子さんは、そのままお風呂に入ったという。白いタイル張りの広々とした浴槽を独占。「じーんと涙が薄くにじんで来ました」とつづっている。(東京新聞・2025/08/15)
「天皇の言葉をラジオで聴き、青空に向かい何度も深呼吸。近くの銭湯の煙突から煙が出ているのに気づき、訪れると営業中だった」「80年前の8月15日に銭湯を訪れた貞子さんは、そのままお風呂に入ったという。白いタイル張りの広々とした浴槽を独占。『じーんと涙が薄くにじんで来ました』とつづっている」(東京新聞「筆洗」)皇居には行けず、靖国神社に参られず、新潟のある街の「風呂に入っていた」と言う。「日常の感覚」を忘れなった多くの「貞子さん」たちがいたことをぼくは、別の写真などを観て知っている。
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