
「腐れ縁」というのは、いかなる「縁」を言うのか。ぼくはよく知らないけれど、「自民党と公明党」関係もここに結び付けていいのかもしれない。あるコラムによれば、今回の公明党の連立離脱を「熟年離婚」だと噂されているそうです。慰謝料などはどうなるのですかね。まことに呑気はものですね。お気楽というか。そこに、国民は不在であることがたまらなく嘆かわしい。それはそれとして、真面目(誠実」に「結婚」していたのですか。ぼくには大いなる疑問があります。それを言うなら「偽装結婚」「偽装離婚」とする方が、両党の関係史の事実に即していると思う。腐れ縁とは「離れようとしても離れられない関係。好ましくない関係を批判的・自嘲的にいう。くさりえん」(デジタル大辞泉)とあります。ぼくは「公明党」結成大会のことをよく覚えている。母体である創価学会の信者でもなければ、党員でもなかったのに、なぜだか、当時の様子をありありと覚えている。1964年11月、東京両国の日大講堂(旧)で行われた。その数年前には公明政治連盟として、創価学会という宗教団体(教団)が政治参加を決めたことも記憶しています。

創価学会、その関連で公明党にぼくが関心を持ったのは、どこかでも触れていますが、学会の創設者・牧口常三郎さんを、しばらくでしたが、教育の方面において学んだからでした。彼は師範学校出の小学校教員で「教育学者」でもあったからでした。同時に、牧口さんは「民間伝承」「民俗学」に興味を持たれて、柳田國男さんの主宰されていた研究会に参加されていた。その様子をどこかで、柳田さんは書かれていたのを読んで、「熱心に参加するが、実に寡黙な男であった」などとした牧口評に惹かれたこともありました。「創価教育」という主題をもとに、治安維持法違反の嫌疑で繋がれた獄中においての、執筆されたと言われます。この著書を手にはしましたが、最後まで読み通せなかったことを白状しておきます。

● 牧口常三郎(まきぐちつねさぶろう)(1871―1944)= 教育家、宗教家。柏崎(かしわざき)県刈羽(かりわ)郡(現、新潟県柏崎市)に渡辺長松の長男として誕生。1877年(明治10)に牧口家の養子となる。1893年北海道尋常師範学校を卒業。以後40年間初等教育に携わり、上京後も白金小学校などの校長を務めた。創造性開発の教育を標榜(ひょうぼう)し、環境と人との相互交渉の理解がその基礎であると自ら『人生地理学』(1903)、『郷土科研究』(1912)、その他を著す。後年、経験科学としての教育学の樹立を目ざし『創価教育学体系』(1930~1934)4巻を発刊。万人共通の社会的利の実現が最高善であり個人の幸福、と説く価値論を展開し、それを実現する人格の形成を日蓮(にちれん)の法華(ほけ)経信仰にみいだし、1928年(昭和3)日蓮正宗(しょうしゅう)に入信する。1930年弟子の戸田城聖(とだじょうせい)と「創価教育学会」(創価学会の前身、正式な発会式は1937年)を設立し、教育・宗教革命を目ざしたが、1943年国家神道(しんとう)否定と治安維持法違反の理由で検挙され、巣鴨(すがも)拘置所で獄死した。(日本大百科全書ニッポニカ)
公明党に関心を抱いたのは、面白半分、まあ、「岡目八目」といったところか。「野次馬根性」だったかもしれない。政党結成当時の創価学会政治部(公明政治連盟)には、それこそ「飛ぶ鳥を落とす勢い」があって、やがて日本の政治中枢を掌握するだろうという「大きなデマ」が飛び交っていたものでした。とにかく新興宗教団体としては破格・破竹の勢いで勢力を伸ばしていた時期に当たります。組織が大きくなれななるほど、それに付着する「汚物」「汚点」も看過できなくなる。まして「政治と宗教」という微妙な関係はややもすれば、憲法に抵触する危険性もありました。案の定、公明党には「政治と宗教」の怪しい関係は付いて回った。26年前の「連立政権入り」も、このことと無関係ではありませんでした。いわゆるマスメディアは、創価学会と公明党、公明党と自民党に関わる「醜聞」や「不祥事」、あるいは政治問題をほとんど扱わなかった。厳格な「タブー(禁忌)」として忌避し続けてきたのでした。下に掲げた写真は、そのごく一部にも満たない「事件簿」のカタログでもありました。
【日報抄】「26年」といえば、夫婦なら酸いも甘いもかみ分けて銀婚式を終えたところ。生まれたばかりの赤ん坊が、いい大人になって社会を動かす立場になる歳月とも言える▼そんな26年に及ぶ自民党と公明党の連立関係が、解消されることになった。もはや、それ以前の政治風景がどんなだったか思い出すのも苦労するほどだ▼日本新党の細川護熙さんを首相に担ぐ非自民連立政権が誕生するなど政界再編が進んだ1990年代の終わりに、公明党は自民党と自由党との連立政権を組んだ。以来、下野も経験したが、選挙協力で支え合いながら一貫して自民党に添い続けてきた▼雪国育ちの田中角栄元首相は、我慢の象徴として「下駄(げた)の雪」という表現を使った。踏まれてもばかにされても耐える政治家としての姿勢を語ったとされる。片や公明党は、安全保障や憲法問題でスタンスが異なっても与党にしがみついて離れない存在として、下駄の雪とやゆされた▼安倍政権下の公明新聞には、そうした言われ方に反発するコラムが載った。存在感を増す公明党は「下駄の鼻緒」であると書いた。鼻緒が切れたら下駄は履けない。政権の一角を担う自負がにじんだ。結党の原点に立ち返るという今回の決断により、いよいよ下駄の部品でもなくなる▼連立離脱が決まったきのう、その経緯を説明する公明党の斉藤鉄夫代表の会見では、背後のボードに書かれた文字に目が向いた。「やると言ったら、やり切る」。妙に腑(ふ)に落ちるキャッチフレーズだった。(新潟日報・2025/10/11)










ぼくの身近には「創価学会員」もいたし、公明党議員もいましたから、その日常のおおよそは知りうる立場にいました。勤務先の学校にも多くの学生信者が在籍しており、何かと参考文献を示されたりしました。どなたであれ、いかなる宗教を信仰していようと、その人の政治的立場は自由であり、信教の自由は権利として認められるべきであるし、宗教団体を母体として政治活動を行うことは憲法には違反しない。もちろん「政治と宗教」が安易に結びつくことは厳密に避けられるべきであるのは当然です。
日本国憲法 第二十条
⒈信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
⒉何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
⒊国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

自民党と公明党の関係は「腐れ縁」だとぼくは言いました。あるいは「偽装結婚」だとも。だから、いずれは今回のように「連立離脱」、「偽装解除」「協議離婚」を迎えるのは時間の問題であったともいえます。詳細は述べませんが、要するに「表向きの結びつき(腐れ縁)」を続けさせた「利点」が、もはや公明党には見いだせなくなったということです。あるいは「利点」変じて「盲点」になったともいえます。「下駄の雪」などと揶揄されながらも夫唱婦随の姿を取って世間を欺き続けてきたけれど、ここにきて、公明党(ひいては創価学会)には歪(いびつ)な関係を続けることが不可能なほどの難題が生まれていたことになります。
この党の発端は「公明政治連盟」という名称でした。「政治は公明に」が表向きの看板だった。発足は1961年11月。ぼくが高校二年生の時でした。信者でも何でもありませんでしたが、当時のメディが大々的に報じていたので、いかな「ノンポリ」でも関心を持ったのだったかもしれません。初めての衆議院議員選挙(1967年1月)には25人の当選者を生み、次の総選挙(1969年12月)では47議席、さらに1983年12月の総選挙では、結党以来最大の59名当選を果たしました。「飛ぶ鳥を落とす勢い」とは、当時の公明党のことだと言っても過言ではなかったが、ここが「頂点」だったことが後に判明します。党員(そのほとんどは学会員)の膨張が止み、獲得票数が減少しだすと、党の勢いが弱体化することは避けられなかったのです。そんな「低迷期」に、いくつかの「不祥事」が起こり、そこに付け込んだ「自民党」筋が、いわば公明党を「下駄の雪」化する挙に出たのでした。「指定暴力団 山口組傘下後藤組」が絡んだ事件がある種の「躓きの石」となり、やがて、「腐れ縁」は切っても切り難い「結縁」「内縁」になり、そこから、内輪における「闘争」「怨恨」にまで達していたのでした。

創価学会や公明党が関わったかに思われる事件・事故に関して、枚挙に遑(いとま)はありません。上に何冊かの本を出しておきましたが、そのいずれもが、表面には出なかったけれど、相当に怪異な事件ばかりでした。今なお、それは続いているでしょう。ぼくが存じ上げていた公明党の元委員長や元書記長という歴々は党から切られたり(除名)、激しい非難を受けたり、裁判になった事例もあります。自身の身を守るためには党に対する貢献者であっても無情にも切り捨てる。一種の「蜥蜴の尻尾切り」だったと思う。そして、ここにきて、尻尾を切って捨てても、新たな尻尾は、その身内からは再生しなくなった、それほどに公明党・創価学会の体力が衰えたということでしょう。そのことにようやく気が付いて、再生を図ろうとしたのが今回の「連立離脱」だった。時すでに遅し。と言うべきでしょうか。もちろん、自民党という「鵺(ぬえ)」もまた、自らの死を早めたことになります。

永田町の夏から秋への、悍(おぞ)ましい「政局」は、大手新聞やテレビも渦中に巻き込んで、現職首相を「総裁の座」から引き摺り下ろし、その後釜に据えたのが「奈良の女」で、一件落着と胸を撫で下ろした向きもいたかもしれない。そして、これが致命傷になると、誰も気が付かなかったのでしょうか。落ち目の三度笠を政権党の議員諸君が被らざるを得ない、そんな衰退の機運にありながら、これまでも宿願でもあったとされる諸々の「国家主導体制」施策を持ち出そうとしているのです。そこまで来て気が付いたか。痩せても枯れても「公明党」と言うべきでしょうか、一日でも早くの「同衾」終了を宣言し、元の「公明政治連盟」への先祖返りを謀ったのでしょうね。この26年間の「同床異夢」も終わりました。まるで異母兄弟の如くに、手に手を取り合って日本政治の「退化・頽廃」に尽力されたと思う。そのために生み出された「選挙協力」方式も解消されます。それを含めて、この先両党の「勢力拡大」はあるはずもない夢物語となりました。いずれにしても、「君の好きな花は 花は 花は遅かった バカヤロー!」ということでしたな。
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