せんせい、あのね もっと遊ぼう。

【春秋】届いていますか、「せんせい、あのね」 「せんせい、あのね」で書き出す作文は、今や全国の小学校で知られている。神戸市の小学校教員だった故鹿島和夫さんが半世紀前に始めた。受け持ったのは主に1年生。「あのね帳」と名付けられた先生との交換ノートに、子どもたちは毎日心のつぶやきをつづった▼衝撃の告白も。<しっこしようとおもって/ずぼんをぬごうとしたら/ぱんつをはいてなかった/だれもわかれへんのに/はずかしかった>▼先生への苦言も。<せんせいは/わたしがだいすき/とかいていました/だけど/せんせいは/みほじゅんがすきなんでしょう/おかあさんがおしえてくれました/せんせいは/あつかましいです>▼授業中に怒ってばかりの先生は嫌い。でも<たいいくのとき/おしりをふって/いっしょにおどってくれるせんせい><そんなせんせいが/だいすきです>。鹿島さんは自らありのままの姿を見せ続けた。そうすれば子どもも自分をさらけ出してくれる。「結局はぼくが子どもの世界に入り込むことができるのです」と自著に書いている▼本当は多くの先生もそんな濃密な時間を過ごしたいのでは。小中学校の教員の仕事時間は、今回も日本が世界最長-。先日公表された国際調査の結果は厳しかった▼記事で若い先生は「子どもと向き合う以外の業務が多く、もう手いっぱい」と嘆いていた。もっとゆとりを。きら星のような「あのね」が届くように。(西日本新聞・2025/10/14)

 この駄文録でも、何度か鹿島先生に触れています。もちろん、ほぼ同時期に教員をされていた灰谷健次郎さんにも。一人の人間であると同時に、その人は「せんせい」と呼ばれたり、慕われたり。また別の人は「先生」と罵倒されたり、非難されたり。同じ一人の人間でも、「せんせい」と親しく呼ばれ、また「先生」と厳しく批判される。世の中にはさまざまな人間がいろいろな想いで生きているのですから、誰もが一つ心で動くはずもありません。そんな面倒くさい集団の中で、「教育」とか「授業」とかを実践するのですから、教師というのはなかなかに大変な仕事だと思うばかりです。

 ぼくも、教師の真似事みたいな仕事を半世紀も続けてきました。そのなかで、「この人はぼくの先生だ」と心底、素直に「教えられた」人は数えるほどもいませんでした。敢えて言うなら、十指に満たないでしょう。もちろん、数の多寡が問題であるとは思いませんし、半世紀も教職を続けていて、本当に教えられた教師が十人もいなかったとは。その理由は、ひとえにぼくの怠慢の故であったと思っています。「この人は先生だなあ」と感心したり、惹きつけられたりした人は、就学期間中(小・中・高・大)にあっても、まず数人もいただろうかと、我ながら、暗然・暗澹とします。これもまた、学校や教師に対するぼくの拭い難い偏見が生み出した結果だったろう。早い段階から、学校には関心(魅力)が湧かなかったし、教師には不信の念こそ持ったが、信頼する気持ちは生まれなかった。その一番の理由は「学校は管理(抑圧)(強制)するところ」という、その機能や役割に馴染めなかったからです。立てとか、座れとか、何時だって命令しかしないんですからね。飼い犬」や「飼い猫」じゃあるまいし。

 「学校という組織」はいろいろなものを「管理する」ことを当たり前だと思い込んでいます。何を管理するのか。まずは「人間(教師や子どもや親まで)の心」です。さらに「子どもの成績(序列・順番)」「教師の勤務ぶり」を管理します。極端に聞こえるかもしれませんが、教師や子どもの「一挙手一投足」はおろか「内面」までをも管理するといっても過言ではないでしょう。箸の上げ下げ、ご飯の食べ方、挨拶の仕方、口の利き方、その他、「生活万般」を管理して当然という自己認識があります。それらは全部いらない「管理」「機能」だというつもりはありませんが、ひとりの教師、ひとりの子どもが自ら育てる判断力をないがしろにして、あくまでも「管理」が正当な教育行為であるという、その「学校の面付き(面構え)」が死ぬほど嫌だった。こんなひねくれ人間でしたから、「この人は素晴らしい教師だ」と思わされたことは稀(まれ)だったのは、返す返すも、ぼくにとっても不幸だったと思っています。(「管理する学校」は、その逆に「管理される学校」でもあります。教育委員会や自治体、更には文科省などの中央官庁によって、それこそ手足を縛られている。まるで軍隊ですね。これが変わらなければ、ひとりの鹿島先生すら生まれない、生まれようがないのです)

 そんな中で、「こんな先生いたら、かなわんで」というのが鹿島さんでした。理由は言う必要もないでしょう。「鹿島組」の子どもの表情を観れば、彼がどんな教師だったかは一目瞭然でした。そんな印象は、灰谷さんには抱かなかった。数回会ったり、書物を読んだりする中で、灰谷さんは優れた人だったと感じたのは事実でしたが、彼もまた「弱い人間」であったし、その弱さを偽りの強さと取り換えて生きていたように感じました。灰谷さんと比較して言うのではなく、鹿島さんは「作家」になろうとはしなかった、職場放棄をしなかった、その一点で「えらいせんせいや」という印象は強くなるばかりでした。何とも情緒的な言い方をしますが、一年一組の子どもたちは「のびのび」「せいせい」「いきいき」していたと思う(これはぼくの印象に過ぎません)。まだ、鹿島さんのような、今では「化石(fossil)」とされてしまうような、そんな教師が棲息できていた時代の「教師と子ども」、それが「一年一組」だったのでしょう。

【正平調】せんせい、あのね、わたしは、せんせいと会ったことはありません。だけど、せんせいの書いた本をたくさん読んで、大切なことをいっぱい学びました。だからせんせいの教え子です◆家にお金がなくて、つらい経験を何度もして「貧乏な家の人の気持ちが分かる先生になっておくれ」とお母さんに頼まれたそうですね。最初は「でもしか先生」でしたが、児童文学者になる灰谷健次郎さんと出会い、教育の魅力に気づいたと読みました◆せんせいが、1年生との交換日記をまとめた本「一年一組 せんせいあのね」は、日本中の教室でお手本になりました。複雑な家庭の子、障害のある子、話すのが苦手な子。どんな子にも伝えたい思いがあります。それを名人芸のように引き出しました◆毎朝、「あのねちょう」を受け取ると下校時には赤ペンで感想を書いて返します。ノートを開く時、子どもの心はどんなにときめいたでしょう。でも、最近の学校は忙しすぎて、交換日記はずいぶん減ったそうです◆そのせんせい、神戸の小学校で長く教壇に立った鹿島和夫さんが、87歳で亡くなった。現役の先生たちに、無理を承知で提案がある◆今こそ「あのねちょう」をやりませんか。聞こえにくい声を聴き取るために。せんせい、あのね。(神戸新聞・2023/02/25)

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「三行半(みくだりはん)」今昔

【天風録】三くだり半 江戸時代、夫が妻に渡した離縁状は「三くだり半」と呼ばれた。漢字で書けば「三行半」。3行と半分、ざっと50文字ほどで離婚の証しとした。男尊女卑が当たり前だった時代の悪習である▲なぜ、これほど短文なのか。諸説はあるが、別れた理由や妻の悪口を書き連ねるのは「男らしくない」行為だったのかもしれない。別れたい夫婦が本音で不満をぶつけ合えば3行半で収まらないのは現代も同じだろう▲公明党が自民党に三くだり半を突き付け、連立政権からの離脱を決めた。連れ添って26年だから「熟年離婚」に分類されるのだろう。決裂の主な理由は3行半どころか、5文字で片付く「政治とカネ」。裏金問題や企業・団体献金の見直しなどどこ吹く風の高市早苗総裁が就いた時点で、破局は見えていたのか▲下野した民主党政権時代を含め多くの苦楽をともにした仲。ただ、公明は連れ合いのルーズな金銭感覚にたびたび苦言を呈していた。堪忍袋の緒がついに▲三くだり半には再婚の許可証という意味もあったと聞く。政界も新たなパートナー探しで混迷を深めそうだ。物価に一憂も二憂もする国民の暮らしをお忘れなく。いつかきっぱりと袖にされぬように。(中國新聞・2025/10/13)

(ヘッダーおよび左の写真は「三くだり半の離縁状」・群馬県)(https://www.pref.gunma.jp/site/monjyokan/130554.html

(古文書を読むには「三行半から」という格言があるほど。ぼくも若いころには、日本史学の友人に誘われて、古文書(古文字)解読に挑戦したものでした。悪戦苦闘しながらも、まったくモノにならなかったのは、ぼくの無能と怠惰のためでした。江戸時代、庶民の多くは無文字(読み書きができなかった)とされていましたから、離縁状も「傍線を三本と半分」で、「離縁状」と同等の扱いを受けていたらしい。それが「三行半(みくだりはん)」の所以です。

●みくだりはん= Iみくだり‐はん【三行半・三下半】江戸時代、庶民の間で夫から妻または妻の父兄にあてた離別状の別称。[初出の実例]「その女房をも、三くだり半で埒をあけ」(出典:仮名草子・他我身の上(1657)三) 転じて、離縁すること。離縁されること。また、比喩的に、関係を断つこと。〘 名詞 〙 ( 三行半に書く習慣からいう )[初出の実例]「それが過ぎたら三下(クダ)り半(ハン)」(出典:歌舞伎・当龝八幡祭(1810)三幕)(精選版日本国語大辞典)

離縁状(りえんじょう)とは、江戸時代に庶民が離婚する際、妻から夫、夫から妻(または妻の父兄)に宛てて交付する、離婚を確認する文章である。/『公事方御定書』では離別状と称した。あるいは去状(さりじょう)、暇状(いとまじょう)とも呼ばれた。また、江戸時代には字を書けない人は3本の線とその半分の長さの線を1本書くことにより離縁状と同等の取扱がされていたため、庶民の間では三行半(みくだりはん)という呼称が広まった。/なお、武家では離縁状は不要であったとするのが通説であるが、離婚成立の要件ではないものの慣習としては広く行われていたとする説もある。/現代の離婚届が夫婦連名で国に対して行う確認的届出の文書であるのと異なり、離縁状は夫の単独行為である離縁を証する文書である。(Wikipedia)

 妻恋道中(詞:藤田まさと・曲:阿部武雄)

(一)
好いた女房に 三下り半を
投げて長脇差(ながどす) 永の旅
怨むまいぞえ 俺等のことは
またの浮世で 逢うまでは

(二)
惚れていながら 惚れない素振り
それがやくざの 恋とやら
二度と添うまい 街道がらす
阿呆阿呆で 旅ぐらし

(三)
泣いてなるかと 心に誓や
誓う矢先に またほろり
馬鹿を承知の 俺等の胸を
何故に泣かすか 今朝の風
(昭和12年発表)
*妻恋道中 上原敏https://www.youtube.com/watch?v=xZKc_ADv-GQ&list=RDxZKc_ADv-GQ&start_radio=1)          *妻恋道中 ちあきなおみhttps://www.youtube.com/watch?v=L2wiidsBkbA)(映像の中で、一番と二番の間奏に出ているのは、この曲の「詞」を書かれた藤田まさとさん。「股旅のまさと」と言われるほどに、「やくざ」「道中もの」の名曲を多く作られた)

 現下、政界における「三行半」一幕物が持て囃されています。江戸期以来永く、離縁状は男から出すものでした。そもそも、今次の「偽装夫婦の離縁劇」の、重要な場面は「妻(実際は男)」から「夫(現実には女)」に離縁状を叩きつけたという風情がありました。離婚調停も何もあったものではなく、「私はあんたに愛想が尽きたよ」というくらいにきっぱりしたもの。二人で決めた約束を次々に反故にして、それにも関わらず、「罪の意識」が皆無と来たのですから「仏心たくさん(法華経)」の女房でも呆れ果てるのは当然。かみさんを袖にして、果たしてこの「やくざな男」は食っていけるのだろうか。そんなことはぼくの知ったことではないですな。「好いた女房に 三下り半を 投げて長脇差 永の旅 怨むまいぞえ 俺等のことは またの浮世で 逢うまでは」と、藤田まさとさんは「甲斐性のない男」の呆れた「未練心」を謡うのです。この馬鹿のどうしようもない不埒な生き方が、何とも「政権ボケ」をしたJM党にこびりついているんですね。あーいやだ、いやだ。

 「惚れていながら 惚れない素振り それがやくざの 恋とやら 二度と添うまい 街道がらす 阿呆阿呆で 旅ぐらし」は架空の「街道がらす」でしたが、永田町のやくざな渡世人は「惚れていぬのに 惚れてる素振り」でしたね。誰も信じれられない人間は、誰からも信じてもらえないのは道理です。その挙句に「阿呆阿呆で 旅ぐらし」されては民衆はたまったもんではないのですが、どこの世界にも、わけもなく「男を求める女」「女を求める男」の、成れの果てとなる「三行り半」の捨て場があるのでしょう。まさしく、この国(社会)の政治家や政治の歴史は「騙し騙され」の連続だったと思う。確かに「男と女」の「騙し合い」で、「泣いた女がバカなのか だました男が悪いのか」(西田佐知子唄「東京ブルース」)と、泣き節を聴かされる国民は立つ瀬がないですね。

 「どうせ私をだますなら 死ぬまでだましてほしかった」のは「歌の世界」の「三くだり半」です。生きた世の中にあって、永田町お粗末劇場の観客である有権者(国民)は、登場人物をとっかえひっかえする「権利」を持ってはいますが、もう少し賢くならないと、何時まで経っても「能天気」な俳優ばかりを選ぶことにしかならないのです。観衆・観客もまた、「阿呆阿呆で 旅ぐらし」でいいのですか。ぼくたちにもっとも求められるのは「だまされない」「だまさない」初心(誠意・honesty)というものではないでしょうか。

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「徒然に日乗」(879~885)

〇2025/10/12(日)昼過ぎに買い物に出かけようとしていたら、かみさんも出かける用意をしている。「どこへ行くの」と聞けば、「茂原まで。歩いて」と言う。ほぼ10キロの距離がある。彼女の足では少なくとも2時間半。道路事情(歩道が未整備)が悪いので、3時間かかるかもしれない。満足な歩行者道路が備わっていない道を歩くことは危険極まりない。ここにきて、当然のことながら判断力もかなり落ちている。「車に乗せてと言っのに、断られた」と唐突に答えた。耄碌(もうろく)が激し過ぎる。先日、茂原警察で「免許証再交付の手続き」をしたばかり。発効までに三週間ほど時間がかかるということだったが、二週間過ぎたので、警察に行くという。本日は日曜日で、警察署は受け付けないということも一切無視しての話。車に乗れないためにストレスが溜まっているのは分かるが、何か言い出すと、誰彼の話を聞く耳がなくなる。一切生活習慣を治そうとしないのが、記憶力の減退を促進していると思う。今の状況だと、運転免許証が再交付されたとしても運転はとても無理だろう。そのことは最初から考えていたこと。もう一週間あるが、今のままでは、状態は悪くなることはあっても、改善されることはない。適度の運動と良質な睡眠の確保、これが今できる最善の防止法だが、それも「聞く耳なし」なのだから、お手上げと言いたいところだが、そういうはずもないので、ゆっくりていねいに付き合うばかり。(885)

〇2025/10/11(土)ただ今午後9時15分。室温21.5℃、湿度69%。肌寒さを感じさせられる一日だった。午後に入ってからも小雨は降り続いていた。一昨日は台風22号の影響で八丈島では大きな被害が出たと報じられたが、早雲23号が発生、来週の始めには日本劣島に影響を与えるようなコースをたどるという。▶お昼前に猫缶を買うためにあすみが丘へ。いつもの商品がすべてそろっていなかったのはなぜだろうか。店頭に並べられている物を買うほかなかったが、この先の購入が気になる。▶政権与党の枠組みが崩れ、新たな政権の行方が論じられだしている。どうなるかは、予断は許さないが、現状においての「かぶだか・物価高・円安」基調がこの先も続くとは思われない。政権の行方がどうなろうとも、少なくとも「アベノミクス」の後始末をはっきりとつけなければ、この国の経済は立ち直れないままで滅びの道を歩くだろう。それにしても、ここまでひどい状況に政治が落ち込んでいる責任は誰がとるのだろうか。(884)

〇2025/10/10(金)ただ今午後9時45分。室温22.5℃、湿度65%。▶午前中(昼前)に茂原まで買い物に。帰路には近所のHCで猫の食材などを買う。▶自民党の連立相手を26年続けていた公明党が離脱。この事態を受けて、新総裁はどう出るのだろうか。公明党の代替の党はあるのだろうか。自民党の瓦解は一層早まるに違いない。「公明党の斉藤鉄夫代表は10日、自民党の高市早苗総裁との会談後、自公両党の連立について「一旦白紙とし、これまでの関係に区切りを付ける」と明言した。近く国会で行われる首相指名選挙について「斉藤鉄夫に票を投じます」と語った。ただし、「何でも反対の敵方になるわけではない(後略)」(毎日新聞・2025/10/10 16:08)▶予てから想定されていた。現首相の「80年所感」が出された。内容に関してはいずれ触れるつもりだが、彼自身の思いの丈が出ていたと考えられる。「石破茂首相は10日夕、戦後80年に合わせた先の大戦に関する所感を表明した。退任を間近に控えている上、連立政権を組んできた公明党が「離脱」方針を表明した中での発表となった」(東京新聞・2025/10/10)(883)

〇2025/10/09(木)ただ今午後9時半。室温22.5℃、湿度59%。台風22号による雨風はさいわいにしてほとんど無いに等しかったが、八丈島では大きな被害が出たと報じられている。さらにすでに23号が発生し、劣等に食戟しかねない方向を取るようだ。▶終日自宅を出ないままでいた。▶自民党の新総裁誕生を待っていたかのように「株式が高騰」し、4万8千円越え。半面で、円安が一気に進み、153円を超えた。株高、物価高、円安はさらに進むだろうが、それに対する政治的対応がどこにあるのか。国会はまだ開かれる気配はない。▶「円相場は対ドルで一時153円台に下落し、2月中旬以来の安値を付けた。自民党の高市総裁の財政・金融政策スタンスをにらんだ円売り圧力が根強い。/東海東京インテリジェンス・ラボの柴田秀樹金利・為替シニアストラテジストは、153円台を付けたタイミングで特に材料は出ていないが、欧州勢が円を売っているようだと説明。投機筋の円買いポジションは依然として歴史的な水準にあり、その巻き戻しが出ているとして目先155円を抜けて円安が進むとの見方を示した。」(Bloomberg・2025/10/09)(882)

〇2025/10/08(水)夕方、ネット番組を渉猟していたら、ひとりの女性がショパンの曲を演奏している場面に遭遇した。あるいはと思っていたら、卒業生のKさんの娘さんだった。会場はワルシャワで、何とショパンコンクールの予選会の場面だった。課題曲になっている小曲を三曲ほど弾かれていたが、たいしたものだと感心した。立派なピアニストだと思った。年齢は三十歳だという。この数年、ほとんどクラシックは聴かなくなった(たくさんの猫のせいでもあるが)。これまで、十分に聞いてきたという満足感の裏返しかもしれないが、一方で、「西洋音楽」は、これからも聴かれ続けるのかどうか、ぼくには疑問に思われもするからだ。若い人が、この国からたくさんショパンコンクールに応募する状況は、何を意味しているのだろうか。(881)

〇2025/10/07(火)ただ今午後9時過ぎ。室温24.5℃。湿度67%。▶昼過ぎに茂原まで買い物。かみさんも同行。免許証再交付までまだ2週間ほど残っているので、やや、ストレスが溜まりつつあるのだと思う。少しは外出をしたくなるのは当然だと思う。夕食の食材等を買って、帰宅。▶新総裁のもとに、当の役員人事が発表されている。大変な最高顧問のA氏の傀儡体制であり、さらに10月半ばに開会が予定されている国会での首班指名をにらんだ内閣の布陣にも、右より政党の連立参加が予想されている。ある人曰く「大惨事(第3次安倍政権)だと。極右政権がこの国に何をもたらすか、明確なことは言えぬが、政治的混迷が深まることだけは確実であり、旧態依然の「政権党の崩壊」はさらに早まるだろうと、期待も含めて予想している。「株高、物価高、円安」のトリプルパンチをどこまで受ければ、国民は覚醒するのだろうか。ほとんど期待はできないで、好き放題にとんでもない事態が接近しているのではないだろうか。(880)

〇2025/10/06(月)ただ今午後9時。室温25.2℃、湿度67%。▶昼頃に茂原まで買い物に。茂原には何軒かのスーパーがあるが、もっともよく行くのはRという店。他の一軒はK。最近はほとんどLが多い。商品の問題ではなく、入りやすさが第一の要素か。それにしても物価高騰は続くのはどうしたことか。本日の東京株式は一時最高値2万8千円超をつけた。その半面では、円安ドル高も大きく進行し、一時最安値の150円超を点けた。対ユーロでは180円超という安値。円安、株高、物価高状態がさらに続くとなると、まだ首相になったわけでもないのに、新総裁トレードなどと騒がれ、サナエミックスという「積極財政(借金漬け)」導入がもてはやされているのだろう。国情を何と考えているのか、と嘆かわしい。(879)

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政界を混乱の渦に突き落とし、…

【産経抄】ガラスの天井打ち破ったはずの高市氏に公明党という隠し天井 政界一寸先は闇とはうまく言ったものである。つい数日前までは「ガラスの天井」を打ち破り、日本初の女性首相に就く公算が大きいとみられていた自民党の高市早苗総裁に、公明党の連立離脱という隠し天井が立ちふさがった。政局は一気に流動化し、政権交代の可能性すら出てきた。▼政界は魑魅魍魎(ちみもうりょう)、妖怪変化の住む世界だともいわれる。今月21日にも実施される首相指名選挙に向けて、野合ともとれる数合わせゲームも始まった。本音と建前がもつれ合った駆け引きが続き、視界は甚だ不良である。自民内でも反高市派がうごめいているという。▼「首相指名選挙で高市と書くことはできない」。公明の斉藤鉄夫代表は10日の自公党首会談後、言い切った。威勢のいいたんかだが、実は公明内も一枚岩ではない。幹部経験者OBにも支持母体の創価学会幹部にも、連立離脱に強く反対した者はいる。▼野党の投票先一本化を図ろうと、立憲民主党は公明への働きかけを急ぐとともに、国民民主党の玉木雄一郎代表への一本化を提起した。ところが肝心の立民内はまとまっておらず、国民民主も日本維新の会の視線も冷ややかである。▼仮に野党の足並みのふぞろいの結果、高市氏が首相に就任できても、極少数与党として艱難(かんなん)辛苦が待ち受けている。法案を通すためには野党に頭を下げて回らなければならず、衆院解散・総選挙で局面を打開しようにも公明の支援は望めないため決断は容易ではない。▼政界を混乱の渦に突き落とし、公明はどうしたいのか。今月27~29日にはトランプ米大統領の来日が調整中だが、高市氏に会うつもりが出迎えたのは別人だったのではまるで笑えないジョークである。公明は発想が内向きにすぎないか。(產經新聞・2025/10/12)

◎ 週の初めに愚考する(九拾壱)~ もっと別のテーマを気軽に駄弁ってみようと、いつも愚考するのですけれど、なぜだか、目下の政治状況について埒のあかない愚論を述べる仕儀に至っています。元から、それはぼくの本意(ほい)ではありません。根っからのノンポリを自認しつつ生きてきましたから、その主義を貫くべしと、我ながら思います。そうは思いながら、ついついキーボードを叩く段になると、大抵は埒もない「床屋談議」なんですね。困った傾向だという自己認識はあります。時が時だけに、多くの新聞のコラムは「自民政局」「初の女性総裁」「連立離脱」「新政権?」「連立枠組み?」などの「日替わりランチメニュー」が目白押しに並んでいます。それらを読んでいても、決して気分が晴れないのは、現下の政治状況が、国民の多くの期待からすれば「見当はずれ」であり、政争好みの玄人から見れば、「一寸先は闇」だとかなんとか呟きつつ、贔屓筋(ひいきすじ)の「我が世の春」を希(こいねが)っているのですから、国民の大半は途方に暮れるほかない、そんな暗澹たる状況にあるようです。

 本日の「産経抄」について、些(いささ)かの感想(愚感)が湧きました。もとより、この新聞は「奈良の女」応援団の有力メンバーを隠していませんでしたから、いわば、かかる「道草」を喰わされる羽目になるとは、憎しも憎し「公明党め」と叫びたくなるのも当然でしょう。「つい数日前までは『ガラスの天井』を打ち破り、日本初の女性首相に就く公算が大きいとみられていた自民党の高市早苗総裁に、公明党の連立離脱という隠し天井が立ちふさがった。政局は一気に流動化し、政権交代の可能性すら出てきた」と、「捕らぬ狸の皮算用」の虞(おそれ)すらも吐露されています。言うに事欠いて公明党は「隠し天井」だとさ。笑うべし。寝言は寝てから、でしょ。別れたかみさんの「お尻を追っかける」ような情けない、語るに落ちた言い草もあったものです。別れるように仕向けたのは誰だったか。コラム氏所属新聞も、その仲間に入っていませんでしたか。

 「自民党の総裁」には選出されたが、少数与党である以上、それが即「日本の首相」になると早とちりするのは勝手ですが、この「早とちり」をこそ、公明党は我慢できず、そうですかと見逃せなかったのでしょ。「長年連れ添った古女房」だから、旦那がどれ程悪態をつこうが悪行に染まろうが、後から(下駄をはいて)ついてくると決めつけていたんですな。「産経抄」までもが、連立相手を安く、軽く見ていたという証拠でしょう。あるいは「初の女性総理」が怪しくなりかけている今の今、このコラム氏は「首相指名選挙に向けて、野合ともとれる数合わせゲームも始まった。本音と建前がもつれ合った駆け引きが続き、視界は甚だ不良である。自民内でも反高市派がうごめいているという」と、コラムなのか、政治主張「正論」なのか、ぼくにはなんとも奇異に感じられます。あらゆる紙面を駆使して「奈良の女」を持ち上げたいのでしょうが、今少し余裕があってもいいのではないですか。「政治とカネ」問題は、とっくに終わった話、今や旧聞に属すと、「サンケイ」さんも言い出す始末。疑惑の渦中にある議員秘書が「略式起訴」されたことをなんと受け止めるのか。あろうことか、この御仁(総裁曰く「傷もの」だと)は「幹事長代理」だって。

 自民党内は一枚岩ではないと、さも新発見のように書くが、そんなことは幼児にも分り切った現実。総裁選挙に五人も立候補するんですから割れて、争っていたのは目にも鮮やか、秋の紅葉ですよ。そして「闘い済んで日が暮れて」からが、党内抗争の本番だと小学生でもわかろうというもの。ご丁寧にも「実は公明内も一枚岩ではない。幹部経験者OBにも支持母体の創価学会幹部にも、連立離脱に強く反対した者はいる」と書かれる。それがどうしたと言いたくなりますね。「一枚岩」とは「1枚の板のように平らで大きな岩。また、そのように、組織などがしっかりとまとまっていることのたとえ」(デジタル大辞泉)とあるように、一種の例えであって、実際には「しっかりまとまっている」「一糸乱れず」、そんな集団などあるはずもない。北朝鮮だって、この点については怪しいもの。新聞社にだって、主流派もあれば反主流派も存在します。(貴新聞社にも。「コラム」に目を通すだけの並み以下のの読者として、ぼくは誰に言われるまでもなく先刻承知しています)

 「コラム」氏の本音は、烏合の衆の野党ではどうしようもないではないか、ここは「奈良の女」の出番であることを承認して、少なくとも政治を前に、と言っているようなもの。そしてもっと読み込んでいくと、こうした不安定な政治状況を生み出したのは「公明党」であって、「政界を混乱の渦に突き落とし、公明はどうしたいのか」と、なんとも異なこと粋なことを仰(おっしゃ)っている。本当にそうなんですか。「政界を混乱の渦に突き落とした」のは公明党なのですか、とぼくはコラム氏に尋ねたい、とは思いません。こんな寝言を目を開けて言うようなコラム氏には、答えてもらうのは無理だと思うからです。この日本を戦争に駆り立て、無謀な戦いの果てに敗戦を喫した歴史を、この新聞はある時期まで正直に、まともに受け止めていたことを知っています。しかし、少なくともこの二十年三十年ほどは、新聞社を名乗り新聞を発行していると看板を出してはいますが、実際のところは、政権党新聞部と看板を変えた方が誰彼にも正体が明らかになるのではないかとぼくには見えるのです。

 「政界を混乱の渦に突き落とし、公明はどうしたいのか」と公明党を詰(なじ)っていますが、政党の名前が違うのではないですか。一強多弱などと当時の「嘘つき内閣総理大臣」の提灯を持ちつつ、そのでたらめな政策の多く(特に、「アベノミクス」なる驚くべき経済音痴の政策に対して些かの批判もしてこなかった、しかもいまなおその政策の間違いを指摘できないままの為体です)を正確かつ十分に報道もしないで、ひたすら持ち上げてきた結果、時の嘘つき政権は図に乗り、したい放題・やりたい放題で、この国の屋台骨(chief support)を破壊してしまい、その結果、多くの国民は塗炭の苦しみを舐めているのです。「政界を混乱の渦に突き落とし、自民はどうしたいのか」と言い直すべきではないですかな。こんな主張が「正論」であると嘯(うそぶ)くような新聞は、一政党の御用機関誌であり、しかも相当に程度の低い御用新聞紙ですよ。

 「目覚めよ!、と呼ぶ声(A voice is calling to wake up.)がする」のが聞こえないのでしょうか。

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「いつまでもあると思うな下駄の雪」

 「腐れ縁」というのは、いかなる「縁」を言うのか。ぼくはよく知らないけれど、「自民党と公明党」関係もここに結び付けていいのかもしれない。あるコラムによれば、今回の公明党の連立離脱を「熟年離婚」だと噂されているそうです。慰謝料などはどうなるのですかね。まことに呑気はものですね。お気楽というか。そこに、国民は不在であることがたまらなく嘆かわしい。それはそれとして、真面目(誠実」に「結婚」していたのですか。ぼくには大いなる疑問があります。それを言うなら「偽装結婚」「偽装離婚」とする方が、両党の関係史の事実に即していると思う。腐れ縁とは「離れようとしても離れられない関係。好ましくない関係を批判的・自嘲的にいう。くさりえん」(デジタル大辞泉)とあります。ぼくは「公明党」結成大会のことをよく覚えている。母体である創価学会の信者でもなければ、党員でもなかったのに、なぜだか、当時の様子をありありと覚えている。1964年11月、東京両国の日大講堂(旧)で行われた。その数年前には公明政治連盟として、創価学会という宗教団体(教団)が政治参加を決めたことも記憶しています。

 創価学会、その関連で公明党にぼくが関心を持ったのは、どこかでも触れていますが、学会の創設者・牧口常三郎さんを、しばらくでしたが、教育の方面において学んだからでした。彼は師範学校出の小学校教員で「教育学者」でもあったからでした。同時に、牧口さんは「民間伝承」「民俗学」に興味を持たれて、柳田國男さんの主宰されていた研究会に参加されていた。その様子をどこかで、柳田さんは書かれていたのを読んで、「熱心に参加するが、実に寡黙な男であった」などとした牧口評に惹かれたこともありました。「創価教育」という主題をもとに、治安維持法違反の嫌疑で繋がれた獄中においての、執筆されたと言われます。この著書を手にはしましたが、最後まで読み通せなかったことを白状しておきます。

● 牧口常三郎(まきぐちつねさぶろう)(1871―1944)= 教育家、宗教家。柏崎(かしわざき)県刈羽(かりわ)郡(現、新潟県柏崎市)に渡辺長松の長男として誕生。1877年(明治10)に牧口家の養子となる。1893年北海道尋常師範学校を卒業。以後40年間初等教育に携わり、上京後も白金小学校などの校長を務めた。創造性開発の教育を標榜(ひょうぼう)し、環境と人との相互交渉の理解がその基礎であると自ら『人生地理学』(1903)、『郷土科研究』(1912)、その他を著す。後年、経験科学としての教育学の樹立を目ざし『創価教育学体系』(1930~1934)4巻を発刊。万人共通の社会的利の実現が最高善であり個人の幸福、と説く価値論を展開し、それを実現する人格の形成を日蓮(にちれん)の法華(ほけ)経信仰にみいだし、1928年(昭和3)日蓮正宗(しょうしゅう)に入信する。1930年弟子の戸田城聖(とだじょうせい)と「創価教育学会」(創価学会の前身、正式な発会式は1937年)を設立し、教育・宗教革命を目ざしたが、1943年国家神道(しんとう)否定と治安維持法違反の理由で検挙され、巣鴨(すがも)拘置所で獄死した。(日本大百科全書ニッポニカ)

 公明党に関心を抱いたのは、面白半分、まあ、「岡目八目」といったところか。「野次馬根性」だったかもしれない。政党結成当時の創価学会政治部(公明政治連盟)には、それこそ「飛ぶ鳥を落とす勢い」があって、やがて日本の政治中枢を掌握するだろうという「大きなデマ」が飛び交っていたものでした。とにかく新興宗教団体としては破格・破竹の勢いで勢力を伸ばしていた時期に当たります。組織が大きくなれななるほど、それに付着する「汚物」「汚点」も看過できなくなる。まして「政治と宗教」という微妙な関係はややもすれば、憲法に抵触する危険性もありました。案の定、公明党には「政治と宗教」の怪しい関係は付いて回った。26年前の「連立政権入り」も、このことと無関係ではありませんでした。いわゆるマスメディアは、創価学会と公明党、公明党と自民党に関わる「醜聞」や「不祥事」、あるいは政治問題をほとんど扱わなかった。厳格な「タブー(禁忌)」として忌避し続けてきたのでした。下に掲げた写真は、そのごく一部にも満たない「事件簿」のカタログでもありました。

【日報抄】「26年」といえば、夫婦なら酸いも甘いもかみ分けて銀婚式を終えたところ。生まれたばかりの赤ん坊が、いい大人になって社会を動かす立場になる歳月とも言える▼そんな26年に及ぶ自民党と公明党の連立関係が、解消されることになった。もはや、それ以前の政治風景がどんなだったか思い出すのも苦労するほどだ▼日本新党の細川護熙さんを首相に担ぐ非自民連立政権が誕生するなど政界再編が進んだ1990年代の終わりに、公明党は自民党と自由党との連立政権を組んだ。以来、下野も経験したが、選挙協力で支え合いながら一貫して自民党に添い続けてきた▼雪国育ちの田中角栄元首相は、我慢の象徴として「下駄(げた)の雪」という表現を使った。踏まれてもばかにされても耐える政治家としての姿勢を語ったとされる。片や公明党は、安全保障や憲法問題でスタンスが異なっても与党にしがみついて離れない存在として、下駄の雪とやゆされた▼安倍政権下の公明新聞には、そうした言われ方に反発するコラムが載った。存在感を増す公明党は「下駄の鼻緒」であると書いた。鼻緒が切れたら下駄は履けない。政権の一角を担う自負がにじんだ。結党の原点に立ち返るという今回の決断により、いよいよ下駄の部品でもなくなる▼連立離脱が決まったきのう、その経緯を説明する公明党の斉藤鉄夫代表の会見では、背後のボードに書かれた文字に目が向いた。「やると言ったら、やり切る」。妙に腑(ふ)に落ちるキャッチフレーズだった。(新潟日報・2025/10/11)

 ぼくの身近には「創価学会員」もいたし、公明党議員もいましたから、その日常のおおよそは知りうる立場にいました。勤務先の学校にも多くの学生信者が在籍しており、何かと参考文献を示されたりしました。どなたであれ、いかなる宗教を信仰していようと、その人の政治的立場は自由であり、信教の自由は権利として認められるべきであるし、宗教団体を母体として政治活動を行うことは憲法には違反しない。もちろん「政治と宗教」が安易に結びつくことは厳密に避けられるべきであるのは当然です。

日本国憲法 第二十条
⒈信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
⒉何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
⒊国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 自民党と公明党の関係は「腐れ縁」だとぼくは言いました。あるいは「偽装結婚」だとも。だから、いずれは今回のように「連立離脱」、「偽装解除」「協議離婚」を迎えるのは時間の問題であったともいえます。詳細は述べませんが、要するに「表向きの結びつき(腐れ縁)」を続けさせた「利点」が、もはや公明党には見いだせなくなったということです。あるいは「利点」変じて「盲点」になったともいえます。「下駄の雪」などと揶揄されながらも夫唱婦随の姿を取って世間を欺き続けてきたけれど、ここにきて、公明党(ひいては創価学会)には歪(いびつ)な関係を続けることが不可能なほどの難題が生まれていたことになります。

 この党の発端は「公明政治連盟」という名称でした。「政治は公明に」が表向きの看板だった。発足は1961年11月。ぼくが高校二年生の時でした。信者でも何でもありませんでしたが、当時のメディが大々的に報じていたので、いかな「ノンポリ」でも関心を持ったのだったかもしれません。初めての衆議院議員選挙(1967年1月)には25人の当選者を生み、次の総選挙(1969年12月)では47議席、さらに1983年12月の総選挙では、結党以来最大の59名当選を果たしました。「飛ぶ鳥を落とす勢い」とは、当時の公明党のことだと言っても過言ではなかったが、ここが「頂点」だったことが後に判明します。党員(そのほとんどは学会員)の膨張が止み、獲得票数が減少しだすと、党の勢いが弱体化することは避けられなかったのです。そんな「低迷期」に、いくつかの「不祥事」が起こり、そこに付け込んだ「自民党」筋が、いわば公明党を「下駄の雪」化する挙に出たのでした。「指定暴力団 山口組傘下後藤組」が絡んだ事件がある種の「躓きの石」となり、やがて、「腐れ縁」は切っても切り難い「結縁」「内縁」になり、そこから、内輪における「闘争」「怨恨」にまで達していたのでした。

 創価学会や公明党が関わったかに思われる事件・事故に関して、枚挙に遑(いとま)はありません。上に何冊かの本を出しておきましたが、そのいずれもが、表面には出なかったけれど、相当に怪異な事件ばかりでした。今なお、それは続いているでしょう。ぼくが存じ上げていた公明党の元委員長や元書記長という歴々は党から切られたり(除名)、激しい非難を受けたり、裁判になった事例もあります。自身の身を守るためには党に対する貢献者であっても無情にも切り捨てる。一種の「蜥蜴の尻尾切り」だったと思う。そして、ここにきて、尻尾を切って捨てても、新たな尻尾は、その身内からは再生しなくなった、それほどに公明党・創価学会の体力が衰えたということでしょう。そのことにようやく気が付いて、再生を図ろうとしたのが今回の「連立離脱」だった。時すでに遅し。と言うべきでしょうか。もちろん、自民党という「鵺(ぬえ)」もまた、自らの死を早めたことになります。

 永田町の夏から秋への、悍(おぞ)ましい「政局」は、大手新聞やテレビも渦中に巻き込んで、現職首相を「総裁の座」から引き摺り下ろし、その後釜に据えたのが「奈良の女」で、一件落着と胸を撫で下ろした向きもいたかもしれない。そして、これが致命傷になると、誰も気が付かなかったのでしょうか。落ち目の三度笠を政権党の議員諸君が被らざるを得ない、そんな衰退の機運にありながら、これまでも宿願でもあったとされる諸々の「国家主導体制」施策を持ち出そうとしているのです。そこまで来て気が付いたか。痩せても枯れても「公明党」と言うべきでしょうか、一日でも早くの「同衾」終了を宣言し、元の「公明政治連盟」への先祖返りを謀ったのでしょうね。この26年間の「同床異夢」も終わりました。まるで異母兄弟の如くに、手に手を取り合って日本政治の「退化・頽廃」に尽力されたと思う。そのために生み出された「選挙協力」方式も解消されます。それを含めて、この先両党の「勢力拡大」はあるはずもない夢物語となりました。いずれにしても、「君の好きな花は 花は 花は遅かった バカヤロー!」ということでしたな。

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綿毛みたいな雪虫を見かけたと…

【卓上四季】読書の秋に 日中でもひんやりした風が吹いている。綿毛みたいな雪虫を見かけたと思ったら、利尻山や旭岳から雪の便りが届いた。秋がいつしか深まりつつある▼食欲の秋、芸術の秋、スポーツの秋…。この季節の楽しみはいろいろあれど、読書の秋も忘れたくない▼透き通った陽光のもと、気ままにページをめくる。虫の声をBGMに本と向き合う夜長。急ぎ足ではなく、じっくりと読み進めたいものだ。ほんのひとときだとしても行間の世界に遊ぶ幸せを感じる▼書店の一角で懐かしい道産子作家の名前に再会した。室蘭出身で私小説を追求した八木義徳(よしのり)さん(1911~99年)だ。四半世紀ほど前に出た単行本「文章教室」が中公文庫に形を変えて復刊された▼教室といっても堅苦しいところはない。スタイルもさまざまな文章の魅力を平易に解き明かした。夏目漱石、川端康成といった文豪から棟方志功(むなかたしこう)や東山魁夷(かいい)ら芸術家まで名文の見本帳のようだ。腑分(ふわ)けの鮮やかさは「最後の文士」らしい名人芸といえよう▼近現代の70人超を取り上げ、それぞれの代表作の勘どころを紹介している。有島武郎や伊藤整、亀井勝一郎ら北の大地ゆかりの文人が登場するのがうれしい。今年のノーベル文学賞は残念ながら日本の書き手が選ばれなかったけれど、あらためて文芸の奥深さを味わうことにしようか。(北海道新聞・2025/10/10)

 学生時代に、それまでの怠惰な生活を克服すべく、ぼくは懸命に読書に時間を割いたものでした。入学早々(1964年4月)に「現代日本文学大系」(筑摩書房)の既刊分を一括して購入し、残りは配本通りに買うことに。続いて、「世界文学大系」(筑摩書房)も、同じような購入方法で揃えました。幸いに下宿(伯父の家)(文京区本後)の近くの一つの書店と懇意になり、今で言うなら「分割(リボ)払い」のような便宜を図ってもらったのでした。(同時期に興味を持ち出したレコード(クラシック)も、好きなだけ買って、支払いは分割の後払いで、でした。地下鉄本郷三丁目駅前にレコード店があった)その後しばらくして、「日本古典文学大系(第一期)」(岩波書店)を百冊まとめて購入しました。これは大学生協の書籍部扱いでしたが、ここでも何かと便宜を図ってもらいました。高校卒業まではまともに読書をしたことはなく、まして学校における国語の授業の「細切れ」専科のような分割・教育法にはまったく興味を失っていた。高校の教員には池田亀鑑さんのお嬢さんや、後年、万葉集研究で名を挙げられた I 氏などがいたものでしたが。例えば「徒然草」の「一段」を終わるのに何時間もかけるというやり方は、「文学嫌い」養成の最短近道だったと思う。

 コラム「卓上四季」は「読書の秋」を謳歌なさいと言わぬばかりの「本を読む喜悦」を述べられています。「透き通った陽光のもと、気ままにページをめくる。虫の声をBGMに本と向き合う夜長。急ぎ足ではなく、じっくりと読み進めたいものだ。ほんのひとときだとしても行間の世界に遊ぶ幸せを感じる」というように。(時に、スマホはどうするのでしょうか)若いころは、まるまる「半日」も読書に耽(ふけ)ることはしょっちゅうでした。午前中に読みだして、気が付いたら外は暗くなっていたとか、夜の遅い時間に読み始めて、フッと一息つくと朝だったり。それだけ、暇というか時間が有り余っていた、溢れていたような生活だったし、次の日のことを気にしないで暮らしていたということでもあった。

 コラム氏は、ぼくにも懐かしい作家を取り上げておられる。八木義則さん。短編小説の名人と言っていい。いろいろと八木さんのものは読んだはずですが、その記憶がほとんど消えています。なんとしたことか。それにしても、八木さんの人生は「波瀾万丈」と言うべきもので、それに抗すべく、作家の精神は鍛えられ続けたのでした。上林暁(かんばやしあかつき)さん(1902~1980)、尾崎一雄さん(1889~1983)などもよく読んだ。間もなく、だんだんと「私小説」的なものから離れ、ロシア文学に代表される「大長編」に趣向を変えたものでしたが、とにかく、読んで読んで、忘れて読んで、また読んでという「出鱈目読書」を続けていたものでした。やがて、自分でも何か書けるのではないかとの錯覚(幻想)が働き、「小説」の真似事を始めたものでした。そのことごとくは「作文」の域を一歩も出ないものだったという自覚・判断はあったので、何年もしないうちに宗旨替えをしました。

 八木さんの「文章教室」も読んだはずですが、その痕跡はぼくの中から消えています。(形ばかりの書庫には収められているはずですが、探すのが億劫なので、曖昧なままで綴ります)そこで扱われている作家たちもよく読んだ。有島武郎さん(1878~1923)の「生まれ出ずる悩み」「惜しみなく愛は奪ふ」「或る女」などは再読三読したし、伊藤整さん(1905~1969)は「鳴海仙吉」「得能五郎の生活と意見」、あるいは「チャタレー裁判」関連の評論も含めて熱心に読んだ方でした。ただ亀井勝一郎さん(1907~1966)は、ぼくの性に会わなかったのか、あるいは「転向(右旋回)」ということがぼくには十分に理解できなかったのかもしれませんが、読みだしては投げてしまった。その文学への姿勢がよく受け入れられませんでしたね。

◉ 八木義則= 生年明治44(1911)年10月21日 没年平成11(1999)年11月9日 出生地北海道室蘭市大町(現・中央町) 学歴〔年〕早稲田大学文学部仏文科〔昭和13年〕卒 主な受賞名〔年〕芥川賞(第19回)〔昭和19年〕「劉広福」,読売文学賞(小説賞・第28回)〔昭和51年〕「風邪祭」,日本芸術院賞恩賜賞(第44回)〔昭和63年〕,北海道新聞文化賞社会文化賞(第42回)〔昭和63年〕,勲三等瑞宝章〔平成1年〕,室蘭市名誉市民〔平成1年〕,菊池寛賞(第38回)〔平成2年〕,早稲田大学芸術功労者〔平成4年〕,地方出版文化功労賞(特別賞 第8回)〔平成7年〕「何年ぶりかの朝」 経歴 少年時に有島武郎「生れ出づる悩み」を読んで文学に開眼。北海道帝大水産専門部時代、左翼の嫌疑をうけて上京し、東京でも非合法活動にまきこまれて満州に渡る。その後早稲田大学に入学し同人誌「黙示」創刊、横光利一に師事した。卒業後、昭和13年満州理化学工業社に入社して再び満州に渡り、18年帰国。19年「劉広福(りゅうかんふう)」で芥川賞を受賞したが、すぐに応召し、中国に渡って21年復員。戦後「母子鎮魂」や「私のソーニャ」を発表。「美しき晩年のために」「女」「摩周湖」「一枚の絵」「半生記」や、「文学の鬼を志望す」「文章教室」など、自己求道的な私小説が多くある。他に「八木義徳全集」(全8巻 福武書店)がある。平成11年故郷・北海道室蘭市の市立室蘭図書館附属文学資料館・港の文学館内に“八木義徳記念室”が開設された。14年夫人が故人の遺言に基き、全著作権を夫人の死後に室蘭市に贈与するという証書を市に手渡した。(20世紀日本人名事典)

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 細(ささ)やかに過ぎる人生の「晩秋」に差し掛かっている今、つくづく実感するのは、「ぼくはまったく怠惰でありましたなあ」という慙愧の念の澎湃として生まれ出てくることです。たくさんの本を読んだと、自分では思っていたけれど、それは錯覚で、並みの読書家の足元にも及ばないものだったと、何とも味気ない気分に襲われ、苛(さいな)まれます。それに比べて、掛け値なしに、お酒だけはよく呑んだものと、ばかばかしいほどに、我ながら感心します。読書も背伸び、飲酒も背伸びで、結局は自分流というものを見出せませんでしたね。それでも、酒だけは、十年程前に、もういいやと思ったほどでしたから、よく呑んだんでしょう。止めるに際してほとんど気にかけなかった、気が付いたら止めていたという感じでしたから。そこへ行くと、「読書」は、いまなお切りがありませんね。これでいいということがなさそうです。ひどくなった老眼を酷使しながらパソコンに向かい活字に向かう、そんな無駄な時間を浪費しながら、残された少ない日々を惜しげもなくやり過ごしています。

 本日版各地方紙の、いくつかのコラムでは「日本人のノーベル賞」受賞(や文学残念賞)について扱われていました。偶然の一致でしたか、「無用の用」ということが二つ三つのコラムでは重なっていました。無用の用、不用の用というのは、手っ取り早い効果を狙ってはダメで、まるで「役に立たない」と思われたことでも、じっくり腰を据えて取り組めば、実はそれには驚くほどの「効果・効用」があるのだと、そんな流儀で「ノーベル賞」につながったと書かれていました。「一見無用とされているものが、実は大切な役割を果たしていること。不用の用」(デジタル大辞泉)であるというのです。それとノーベル賞がどう関係するのか、ぼくにはよくわからなかった。それでも、この表現は人生の何事かを語る表現であると、ぼくなどには思われてきます。

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*唱歌・フォレスタ(Foresta)「旅愁」(https://www.youtube.com/watch?v=BA566W8C8fI&list=RDBA566W8C8fI&start_radio=1

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七十五日を過ぎた「噂」の眞相は

【小社会】人のうわさも 参院選をめぐる買収事件で、河井案里元参院議員が保釈されたのは5年前の秋だった。当時の菅義偉首相から電話が入る。「大丈夫だから、心配することないよ。とにかく75日がんばれ」(常井健一著「おもちゃ」)◇「人の噂(うわさ)も75日」からきていると著書にある。何となく、不祥事があっても「国民はすぐに忘れるさ」とばかりに真相の解明を曖昧にしてきた近年の政治が浮かぶ。もっとも、「もうそろそろいいだろう」という自民党の目算が狂ったケースも、政治史にはままある。◇28年前の橋本龍太郎首相。ロッキード事件で有罪となった佐藤孝行氏を閣僚に起用した。ところが、世論の猛反発を受けて10日余りで更迭に至る。橋本氏は「世論の重みに十分、思いをしなかった」と謝罪。内閣支持率は急落した。◇この橋本氏の失敗がいま、自民党内でささやかれているという。高市早苗総裁の下で発足した新執行部。「派閥裏金事件」が世間の不信を招いたのに、派閥は復権し、裏金に関与した萩生田光一氏が要職に就いた。◇高市氏は「問題ないでしょう」。選挙の洗礼も受けて決着済みという考えのようだ。ただし、それも真相が解明されていればの話だろう。裏金づくりは誰が、いつ始めたのか。金は本当は何に使われたのか。国民には見えていない。◇今回の「もうそろそろ…」を世論はどう見るか。萩生田氏の秘書の立件からは、まだ75日すらたっていない。(高知新聞・2025/10/09)

 本日のテーマは「うわさ・噂・gossip・rumor」です。「噂」というものは不思議なもので、これを立てられる人はとにかく、人のする「噂話」を聴くのは悪い来はしませんでしょ。知っている人物の「浮いた噂」なら、いくらでも聴きたくなります。「噂は遠くから」というのは、「知らぬが仏」などと言うように、ご当人や関係者が与(あずか)り知らないところで、噂が立つということです。こんなという調子で、誰それを肴(さかな)にしていると「噂をすれば影」ということにもなります。「人事言えば影が差す」ともいう。とかく「噂話」に花を咲かせると、知らぬ間にそれが膨れ上がり「人の噂は倍になる」などと言う仕儀に至ります。とにかく他人の噂話をするのは、まるで無責任で当人には迷惑至極でしょう。だからなおさらに、口さがない連中にとっては、「人の噂は鴨(雁)の味」などと断じる始末です。

 そして「人の噂も七十五日」です。高知新聞のコラム「小社会」では実にあけすけに選挙民を馬鹿に仕切った元首相の知性(治世)の程度が晒されています。夫婦で大枚(億単位)を配って「選挙違反」に問われた議員(妻)に元首相は、あるいは、個人的にはご執心だったかもしれません。夫は獄に繋がれた元法務大臣でした。「犯罪」を犯しても、時間が解決していくれる。「とにかく75日がんばれ」と励ましたのかどうか。この手の人間たちが政治や政治家を食い物(共食い)にしている、蚕食しているのですから、社会が頽廃するのは不可避、いや必然、だということになります。

 どんな醜聞であろうが、犯罪行為に問われようが、「「国民(選挙民)はすぐに忘れるさ」「もうそろそろいいだろう」と、高を括(くく)る。「高」とは「石高」とか「大名高」、「村高」などと言って、米の生産高を指し、後に、事の軽重大小を測る典例になったのです。この程度の「謝り方」でいいだろうと、時には「高の括り方」が甘くなることもあります。つまりは「国民(有権者」を舐(な)める」という意味です。「世論の重みに十分、思いをしなかった」と、直ちに「臍(ほぞ)を噛む(自分のお臍は噛めないでしょう、つまりは使用としてもできない相談のこと)」ことにもなります。しかし、このような臍を噛もうとする人が実に稀になったところに、今日の「頽落」「堕落」の深さ酷さがあるのでしょう。「裏金議員」が、まるで八面六臂の暗躍ぶりで、女性総裁を実現させたという事実は、ほとんど報道されていません。脱税議員は、それこそ驚くべき運動量で「奈良の女」を総裁に押し上げた。それから見れば、口のひん曲がった高齢元首相など、裏金議員の尻馬に乗っただけと言ってもいいでしょう。そしてあるまじきこととして「元裏金議員」は某党の幹事長代行に抜擢だか登用だかされました。これもまた、噂が立っても不思議ではないのに、この社会の大手マスメディアは、「事の真相」をいささかも活字にはしないし、テレビ画面にも、その「噂の影」すら出そうとはしない。

◉ 人の噂も七十五日= 世間が盛んに噂するのも一時のことで、二、三カ月もすればほとんど忘れられ、話題にしなくなる。 [解説] 口さがない世間の噂は、虚実が入り交じり、人をおとしめるものもありますが、感情的になって反論すると、かえって収拾がつかなくなることがあります。しかし、そんな風評も七十五日ほどと思えば、辛抱して、おさまるのを待てばよい、ということにもなるでしょう。/「七十五日」は、「初物七十五日」にも登場します。どちらもきっちり七十五日ということではなく、やや漠然と中期的な区切りを示すものでしょう。たしかに、二カ月半もすれば季節が変わり、世間の関心もさめて、冷静に事の真相を見きわめてくれる人や同情を寄せてくれる人も出てくるものです。ちなみに、端数の半月は、かつて月を見て暮らしていた人々にとっては、ついたちから満月まで、あるいは満月から晦日みそかまでで、案外イメージしやすかったのではないでしょうか。(A wonder lasts but nine days.)(ことわざを知る辞典)

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 このところ、ぼくは廃刊になって久しい月刊誌「噂の眞相」を折々に読んでいる。どうした風の吹き回しかと、自分でも訝るのですが、なんとも懐かしさが湧き出してくるんですね。編集長だった岡留安則さんとは一面識もないままでしたが、北尾トロさんなどと同じように、若いころ、同時代人として熱心に身を入れて読んでこなかっただけに、今になって「そういうことだったんだ」という思いが募ります。そしてまた、この社会のメディアがほとんど腑抜けになった状態がさらに続くとなると、勢い「噂の眞相」の肩を持ちたくなるんですね。「週刊金曜日」も、創刊時代から見れば、見事に脱色され、無色透明、無味乾燥、と言えば言葉が過ぎますが、何かに、誰かに遠慮してるような「奥ゆかしさ」、つまりは「腑抜け」状態にあると思うと、真偽取り混ぜ、真偽定かならざる情報の報道を、というと乱暴に過ぎますが、やはり「週刊文春」に加えて、より過激だった「噂の眞相」に引き寄せられていくんですね。

 たった一度だけ、それも「一行情報」欄にぼくの「噂」が書かれたことがあります。友人に「あなたのことが出ているよ」と教えられて気づくという迂闊さでしたが、何でぼくなんかが、と思ったことでした。どうということのない「噂」記事でしたが、一度だって取材らしいものを受けなかったにも関わらず、「噂」を書かれるのはいい気がしなかった。もちろん、小さな集団社会で生きているのですから、何かと「噂」を立てられることはありますから、いちいち腹を立てていては一日だって過ごせないという気分になりますよ。それでも「人の口に戸は立てられぬ」と言います。他人の口を塞(ふさ)ぐことはできないという例えで、だから噂は世間中を飛び回るのでしょう。「ねえ、耳よりの話があるんだけど」と誘われれば、ついつい噂話に乗ってしまいます。噂は噂でしかないと、自らの判断を旗幟鮮明にしておれば問題はないのでしょうが、ついつい、他人から聞いた噂話を、誰かに伝えるなどと言う、はしたないことをしたことも皆無ではなかったのを白状しておきます。

 そして「噂の眞相」です。

 「『噂の眞相』は国際政治から芸能・風俗まで幅広い分野をカバーしてきた。芸能記事にしても、ジャニーズ事務所の追っかけファンまでが興味を持つような記事づくりを心掛けてきた。『噂の眞相』の売り物だった「一行情報」にしても、初心者の読者獲得には効果的だった。たとえ、時代に添い寝している“ 状況埋没雑誌”だと古典的左翼に悪口をいわれても、きちんとした雑誌のポリシーや核があれば問題はないと考えて来た。『噂の眞相』は永田町や霞が関が毎号注目するようなスキャンダル記事を載せる一方、単なる野次馬精神旺盛な好奇心の強い読者も読めるように、誌面も多彩に作ってきたつもりである。その点においては総合雑誌の作りとしては、「品がない、低俗だ」という一部の声があったとしても、逆にオヤジ化することなく部数も右肩上がりで伸びて来た唯一の雑誌だったと自負している」 (岡留安則著『噂の眞相』25年戦記」集英社新書、2005年初版)

 編集者の「自己分析」です。今時は、週刊文春ばかりが名をなしているという世評に、反対の声を上げる雑誌や新聞があるとは思われないのは、すべてが既成事実の鵜呑みから出発しているからでしょう。まず義憤(私憤)が沸き起こり、それがやがて多くの人に共通する公憤になることが絶えて見られないのは、おそらく何事が起ころうとも「私憤・義憤」すら生まれない人間たちの集団・社会になったからではないでしょうか。今ある「大新聞」かからの退職者が挙って「週刊誌記者」に馳せ参じていると見られる現状を、ぼくたちはどう見ればいいのか。岡留氏を礼賛するつもりは毛頭ないのですが、私憤のかたまりが、やがて公憤になりつつ、社会に波風を立てたいという、悪質ではない「野次馬根性」があるからこその「噂の眞相」の25年だったと思われます。復活を期していた岡留氏の早逝を惜しむものです。

 残念なことに、誰も彼もが「いい子」になって、頭をなでられているうちに肝も根性もすっかり萎えさせられてしまった挙句の、ただ今現在の「マスメディア」のリアルタイムではないでしょうか。人生の安全パイだとみなされ評価されてきた「マスメディア」の屋台骨にひびが入っているのは、それを支えてくれるはずだった人々が先を競って逃げ出しているからです。いまはネット社会の佳境(絶頂)期だと言えば穏当を欠くかもしれませんが、新たなネットメディアとして、それぞれが呱々の声を上げてきたのも事実です。玉石混交の中から、よく響く声で「権力を切る」「不正を暴く」という、本来の「社会の木鐸」にまで育つ可能性のあるスモールメディア・ミニコミがあるのも事実でしょう。いろいろな媒体を駆使して、「権力を撃つ」ようになれば、少なくとも、いくばくかの人(国民、あるいは有権者)は今よりは賢くなる可能性(希望)は生まれると思うのです。

 たった一人の「岡留安則」すらが存在しない時代なんて、ぼくには考えられないのですよ。

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◉ 噂の真相=岡留安則おかどめ・やすのりさんにより1979年に創刊された、スキャンダルやゴシップを扱う月刊誌。対象は政官界や文壇、芸能界、皇室と幅広く、多くの筆禍事件を招いた。「グリコ・森永事件」を巡り、84年に警察とマスコミの間で結ばれていた報道協定を暴露したほか、99年には東京高検検事長(当時)の女性問題を報じ、辞任に追い込んだ。2004年に休刊。岡留さんは今年(2019年)1月、肺がんのため那覇市内の病院で死去した。(共同通信ニュース用語)

【追悼】「噂の真相」岡留安則さん 「権力撃つ」最後まで 琉球の独立も夢想 大物政治家の醜聞にひるまず踏み込むかと思えば、業界のうわさ話も敏感にキャッチし、いち早く欄外の一行情報に。名実ともに月刊誌「噂(うわさ)の真相」の名物編集長だった岡留安則さんが1月31日、71歳で亡くなった。清濁併せのんで型にはまらぬ才能を発掘し、雑誌黄金期の一角を担った名編集者は、最後まで言論人の矜恃(きょうじ)を持ち続けた。
 「最初から最後まで、反権力で反権威。無名の弱い人でなく、有名で強い人を批判した」
 「右腕」役が長かった元副編集長の川端幹人さんは「常に義憤が出発点で、純朴だった。スキャンダルを暴くことで、権力や権威を撃てると本気で信じていた」と振り返る。
 編集者として発揮したのは「人並み外れたやじうま根性から生まれるアイデアとプロデュース能力、そして明るさと楽観性」。情報や人脈は囲い込まず、手に入れたネタは全部出す。執筆陣やスタッフからは評論家の佐高信さん、コラムニストの故ナンシー関さんや小田嶋隆さんら、多くの多彩な才能が羽ばたいた。
 名誉毀損(きそん)で訴えられると、続報の材料を誌面で募集。右翼の襲撃で自ら負傷しても、事件の動画配信を試み、記念の宴会を開いた。トラブルに見舞われても「気にする様子はなく、むしろネタにして乗り越えようとしていた」。
 タフで前向き。謝罪する時はすぱっと謝罪。そしてまた書く。風通しの良さ、おおらかさゆえ、編集部の士気は高かった。「『大丈夫ですかね?』と聞くと『大丈夫だよ、なに心配してるんだよ』。ぼくらにとって、守り神のような存在でした」と川端さん。
 ただ、真偽があいまいなゴシップ報道もいとわぬなかで、名誉毀損などの訴訟や抗議の風当たりに加え、損害賠償が高額になるメディア環境が負担になった。2004年、「どの号が何部売れたかさえ気にせず、どんぶり勘定だが黒字だった」(川端さん)同誌を休刊すると、岡留さんは拠点を那覇に移す。直後、米軍ヘリ墜落事故が起きた。
 「移住後はゆっくりするつもりだったようだが、沖縄の過酷な状況を目の当たりにし、休んでいる場合じゃないと考えを改めたようだ」。そう語るノンフィクションライターの藤井誠二さんも、岡留さんが開いた飲食店をよく訪れた。地元の政治家や実業家、島内外のメディア関係者も、人脈や情報交換を目当てに集まってきた。
 藤井さんは昨年、沖縄の売春街を描いた労作『沖縄アンダーグラウンド』を出版。取材を重ねる中で「沖縄の人の声をしっかり記録しろよ」と、岡留さんに何度も叱咤(しった)激励された。
 14年の県知事選に立候補した故翁長雄志さんの集会では、人脈を駆使して俳優の故菅原文太さんを招き、「弾はまだ残っとるがよ」と発言する場面を演出した。琉球の独立を夢想し、喜納昌吉さんの「花」をシンボルに、平和を発信する将来像を語った。「沖縄のことを、最後まで気にかけていた」。周囲の誰もがいま、そう口をそろえている。(大内悟史)=朝日新聞2019年2月6日掲載(https://book.asahi.com/article/12124988)

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