「いつまでもあると思うな下駄の雪」

 「腐れ縁」というのは、いかなる「縁」を言うのか。ぼくはよく知らないけれど、「自民党と公明党」関係もここに結び付けていいのかもしれない。あるコラムによれば、今回の公明党の連立離脱を「熟年離婚」だと噂されているそうです。慰謝料などはどうなるのですかね。まことに呑気はものですね。お気楽というか。そこに、国民は不在であることがたまらなく嘆かわしい。それはそれとして、真面目(誠実」に「結婚」していたのですか。ぼくには大いなる疑問があります。それを言うなら「偽装結婚」「偽装離婚」とする方が、両党の関係史の事実に即していると思う。腐れ縁とは「離れようとしても離れられない関係。好ましくない関係を批判的・自嘲的にいう。くさりえん」(デジタル大辞泉)とあります。ぼくは「公明党」結成大会のことをよく覚えている。母体である創価学会の信者でもなければ、党員でもなかったのに、なぜだか、当時の様子をありありと覚えている。1964年11月、東京両国の日大講堂(旧)で行われた。その数年前には公明政治連盟として、創価学会という宗教団体(教団)が政治参加を決めたことも記憶しています。

 創価学会、その関連で公明党にぼくが関心を持ったのは、どこかでも触れていますが、学会の創設者・牧口常三郎さんを、しばらくでしたが、教育の方面において学んだからでした。彼は師範学校出の小学校教員で「教育学者」でもあったからでした。同時に、牧口さんは「民間伝承」「民俗学」に興味を持たれて、柳田國男さんの主宰されていた研究会に参加されていた。その様子をどこかで、柳田さんは書かれていたのを読んで、「熱心に参加するが、実に寡黙な男であった」などとした牧口評に惹かれたこともありました。「創価教育」という主題をもとに、治安維持法違反の嫌疑で繋がれた獄中においての、執筆されたと言われます。この著書を手にはしましたが、最後まで読み通せなかったことを白状しておきます。

● 牧口常三郎(まきぐちつねさぶろう)(1871―1944)= 教育家、宗教家。柏崎(かしわざき)県刈羽(かりわ)郡(現、新潟県柏崎市)に渡辺長松の長男として誕生。1877年(明治10)に牧口家の養子となる。1893年北海道尋常師範学校を卒業。以後40年間初等教育に携わり、上京後も白金小学校などの校長を務めた。創造性開発の教育を標榜(ひょうぼう)し、環境と人との相互交渉の理解がその基礎であると自ら『人生地理学』(1903)、『郷土科研究』(1912)、その他を著す。後年、経験科学としての教育学の樹立を目ざし『創価教育学体系』(1930~1934)4巻を発刊。万人共通の社会的利の実現が最高善であり個人の幸福、と説く価値論を展開し、それを実現する人格の形成を日蓮(にちれん)の法華(ほけ)経信仰にみいだし、1928年(昭和3)日蓮正宗(しょうしゅう)に入信する。1930年弟子の戸田城聖(とだじょうせい)と「創価教育学会」(創価学会の前身、正式な発会式は1937年)を設立し、教育・宗教革命を目ざしたが、1943年国家神道(しんとう)否定と治安維持法違反の理由で検挙され、巣鴨(すがも)拘置所で獄死した。(日本大百科全書ニッポニカ)

 公明党に関心を抱いたのは、面白半分、まあ、「岡目八目」といったところか。「野次馬根性」だったかもしれない。政党結成当時の創価学会政治部(公明政治連盟)には、それこそ「飛ぶ鳥を落とす勢い」があって、やがて日本の政治中枢を掌握するだろうという「大きなデマ」が飛び交っていたものでした。とにかく新興宗教団体としては破格・破竹の勢いで勢力を伸ばしていた時期に当たります。組織が大きくなれななるほど、それに付着する「汚物」「汚点」も看過できなくなる。まして「政治と宗教」という微妙な関係はややもすれば、憲法に抵触する危険性もありました。案の定、公明党には「政治と宗教」の怪しい関係は付いて回った。26年前の「連立政権入り」も、このことと無関係ではありませんでした。いわゆるマスメディアは、創価学会と公明党、公明党と自民党に関わる「醜聞」や「不祥事」、あるいは政治問題をほとんど扱わなかった。厳格な「タブー(禁忌)」として忌避し続けてきたのでした。下に掲げた写真は、そのごく一部にも満たない「事件簿」のカタログでもありました。

【日報抄】「26年」といえば、夫婦なら酸いも甘いもかみ分けて銀婚式を終えたところ。生まれたばかりの赤ん坊が、いい大人になって社会を動かす立場になる歳月とも言える▼そんな26年に及ぶ自民党と公明党の連立関係が、解消されることになった。もはや、それ以前の政治風景がどんなだったか思い出すのも苦労するほどだ▼日本新党の細川護熙さんを首相に担ぐ非自民連立政権が誕生するなど政界再編が進んだ1990年代の終わりに、公明党は自民党と自由党との連立政権を組んだ。以来、下野も経験したが、選挙協力で支え合いながら一貫して自民党に添い続けてきた▼雪国育ちの田中角栄元首相は、我慢の象徴として「下駄(げた)の雪」という表現を使った。踏まれてもばかにされても耐える政治家としての姿勢を語ったとされる。片や公明党は、安全保障や憲法問題でスタンスが異なっても与党にしがみついて離れない存在として、下駄の雪とやゆされた▼安倍政権下の公明新聞には、そうした言われ方に反発するコラムが載った。存在感を増す公明党は「下駄の鼻緒」であると書いた。鼻緒が切れたら下駄は履けない。政権の一角を担う自負がにじんだ。結党の原点に立ち返るという今回の決断により、いよいよ下駄の部品でもなくなる▼連立離脱が決まったきのう、その経緯を説明する公明党の斉藤鉄夫代表の会見では、背後のボードに書かれた文字に目が向いた。「やると言ったら、やり切る」。妙に腑(ふ)に落ちるキャッチフレーズだった。(新潟日報・2025/10/11)

 ぼくの身近には「創価学会員」もいたし、公明党議員もいましたから、その日常のおおよそは知りうる立場にいました。勤務先の学校にも多くの学生信者が在籍しており、何かと参考文献を示されたりしました。どなたであれ、いかなる宗教を信仰していようと、その人の政治的立場は自由であり、信教の自由は権利として認められるべきであるし、宗教団体を母体として政治活動を行うことは憲法には違反しない。もちろん「政治と宗教」が安易に結びつくことは厳密に避けられるべきであるのは当然です。

日本国憲法 第二十条
⒈信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない。
⒉何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
⒊国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 自民党と公明党の関係は「腐れ縁」だとぼくは言いました。あるいは「偽装結婚」だとも。だから、いずれは今回のように「連立離脱」、「偽装解除」「協議離婚」を迎えるのは時間の問題であったともいえます。詳細は述べませんが、要するに「表向きの結びつき(腐れ縁)」を続けさせた「利点」が、もはや公明党には見いだせなくなったということです。あるいは「利点」変じて「盲点」になったともいえます。「下駄の雪」などと揶揄されながらも夫唱婦随の姿を取って世間を欺き続けてきたけれど、ここにきて、公明党(ひいては創価学会)には歪(いびつ)な関係を続けることが不可能なほどの難題が生まれていたことになります。

 この党の発端は「公明政治連盟」という名称でした。「政治は公明に」が表向きの看板だった。発足は1961年11月。ぼくが高校二年生の時でした。信者でも何でもありませんでしたが、当時のメディが大々的に報じていたので、いかな「ノンポリ」でも関心を持ったのだったかもしれません。初めての衆議院議員選挙(1967年1月)には25人の当選者を生み、次の総選挙(1969年12月)では47議席、さらに1983年12月の総選挙では、結党以来最大の59名当選を果たしました。「飛ぶ鳥を落とす勢い」とは、当時の公明党のことだと言っても過言ではなかったが、ここが「頂点」だったことが後に判明します。党員(そのほとんどは学会員)の膨張が止み、獲得票数が減少しだすと、党の勢いが弱体化することは避けられなかったのです。そんな「低迷期」に、いくつかの「不祥事」が起こり、そこに付け込んだ「自民党」筋が、いわば公明党を「下駄の雪」化する挙に出たのでした。「指定暴力団 山口組傘下後藤組」が絡んだ事件がある種の「躓きの石」となり、やがて、「腐れ縁」は切っても切り難い「結縁」「内縁」になり、そこから、内輪における「闘争」「怨恨」にまで達していたのでした。

 創価学会や公明党が関わったかに思われる事件・事故に関して、枚挙に遑(いとま)はありません。上に何冊かの本を出しておきましたが、そのいずれもが、表面には出なかったけれど、相当に怪異な事件ばかりでした。今なお、それは続いているでしょう。ぼくが存じ上げていた公明党の元委員長や元書記長という歴々は党から切られたり(除名)、激しい非難を受けたり、裁判になった事例もあります。自身の身を守るためには党に対する貢献者であっても無情にも切り捨てる。一種の「蜥蜴の尻尾切り」だったと思う。そして、ここにきて、尻尾を切って捨てても、新たな尻尾は、その身内からは再生しなくなった、それほどに公明党・創価学会の体力が衰えたということでしょう。そのことにようやく気が付いて、再生を図ろうとしたのが今回の「連立離脱」だった。時すでに遅し。と言うべきでしょうか。もちろん、自民党という「鵺(ぬえ)」もまた、自らの死を早めたことになります。

 永田町の夏から秋への、悍(おぞ)ましい「政局」は、大手新聞やテレビも渦中に巻き込んで、現職首相を「総裁の座」から引き摺り下ろし、その後釜に据えたのが「奈良の女」で、一件落着と胸を撫で下ろした向きもいたかもしれない。そして、これが致命傷になると、誰も気が付かなかったのでしょうか。落ち目の三度笠を政権党の議員諸君が被らざるを得ない、そんな衰退の機運にありながら、これまでも宿願でもあったとされる諸々の「国家主導体制」施策を持ち出そうとしているのです。そこまで来て気が付いたか。痩せても枯れても「公明党」と言うべきでしょうか、一日でも早くの「同衾」終了を宣言し、元の「公明政治連盟」への先祖返りを謀ったのでしょうね。この26年間の「同床異夢」も終わりました。まるで異母兄弟の如くに、手に手を取り合って日本政治の「退化・頽廃」に尽力されたと思う。そのために生み出された「選挙協力」方式も解消されます。それを含めて、この先両党の「勢力拡大」はあるはずもない夢物語となりました。いずれにしても、「君の好きな花は 花は 花は遅かった バカヤロー!」ということでしたな。

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

綿毛みたいな雪虫を見かけたと…

【卓上四季】読書の秋に 日中でもひんやりした風が吹いている。綿毛みたいな雪虫を見かけたと思ったら、利尻山や旭岳から雪の便りが届いた。秋がいつしか深まりつつある▼食欲の秋、芸術の秋、スポーツの秋…。この季節の楽しみはいろいろあれど、読書の秋も忘れたくない▼透き通った陽光のもと、気ままにページをめくる。虫の声をBGMに本と向き合う夜長。急ぎ足ではなく、じっくりと読み進めたいものだ。ほんのひとときだとしても行間の世界に遊ぶ幸せを感じる▼書店の一角で懐かしい道産子作家の名前に再会した。室蘭出身で私小説を追求した八木義徳(よしのり)さん(1911~99年)だ。四半世紀ほど前に出た単行本「文章教室」が中公文庫に形を変えて復刊された▼教室といっても堅苦しいところはない。スタイルもさまざまな文章の魅力を平易に解き明かした。夏目漱石、川端康成といった文豪から棟方志功(むなかたしこう)や東山魁夷(かいい)ら芸術家まで名文の見本帳のようだ。腑分(ふわ)けの鮮やかさは「最後の文士」らしい名人芸といえよう▼近現代の70人超を取り上げ、それぞれの代表作の勘どころを紹介している。有島武郎や伊藤整、亀井勝一郎ら北の大地ゆかりの文人が登場するのがうれしい。今年のノーベル文学賞は残念ながら日本の書き手が選ばれなかったけれど、あらためて文芸の奥深さを味わうことにしようか。(北海道新聞・2025/10/10)

 学生時代に、それまでの怠惰な生活を克服すべく、ぼくは懸命に読書に時間を割いたものでした。入学早々(1964年4月)に「現代日本文学大系」(筑摩書房)の既刊分を一括して購入し、残りは配本通りに買うことに。続いて、「世界文学大系」(筑摩書房)も、同じような購入方法で揃えました。幸いに下宿(伯父の家)(文京区本後)の近くの一つの書店と懇意になり、今で言うなら「分割(リボ)払い」のような便宜を図ってもらったのでした。(同時期に興味を持ち出したレコード(クラシック)も、好きなだけ買って、支払いは分割の後払いで、でした。地下鉄本郷三丁目駅前にレコード店があった)その後しばらくして、「日本古典文学大系(第一期)」(岩波書店)を百冊まとめて購入しました。これは大学生協の書籍部扱いでしたが、ここでも何かと便宜を図ってもらいました。高校卒業まではまともに読書をしたことはなく、まして学校における国語の授業の「細切れ」専科のような分割・教育法にはまったく興味を失っていた。高校の教員には池田亀鑑さんのお嬢さんや、後年、万葉集研究で名を挙げられた I 氏などがいたものでしたが。例えば「徒然草」の「一段」を終わるのに何時間もかけるというやり方は、「文学嫌い」養成の最短近道だったと思う。

 コラム「卓上四季」は「読書の秋」を謳歌なさいと言わぬばかりの「本を読む喜悦」を述べられています。「透き通った陽光のもと、気ままにページをめくる。虫の声をBGMに本と向き合う夜長。急ぎ足ではなく、じっくりと読み進めたいものだ。ほんのひとときだとしても行間の世界に遊ぶ幸せを感じる」というように。(時に、スマホはどうするのでしょうか)若いころは、まるまる「半日」も読書に耽(ふけ)ることはしょっちゅうでした。午前中に読みだして、気が付いたら外は暗くなっていたとか、夜の遅い時間に読み始めて、フッと一息つくと朝だったり。それだけ、暇というか時間が有り余っていた、溢れていたような生活だったし、次の日のことを気にしないで暮らしていたということでもあった。

 コラム氏は、ぼくにも懐かしい作家を取り上げておられる。八木義則さん。短編小説の名人と言っていい。いろいろと八木さんのものは読んだはずですが、その記憶がほとんど消えています。なんとしたことか。それにしても、八木さんの人生は「波瀾万丈」と言うべきもので、それに抗すべく、作家の精神は鍛えられ続けたのでした。上林暁(かんばやしあかつき)さん(1902~1980)、尾崎一雄さん(1889~1983)などもよく読んだ。間もなく、だんだんと「私小説」的なものから離れ、ロシア文学に代表される「大長編」に趣向を変えたものでしたが、とにかく、読んで読んで、忘れて読んで、また読んでという「出鱈目読書」を続けていたものでした。やがて、自分でも何か書けるのではないかとの錯覚(幻想)が働き、「小説」の真似事を始めたものでした。そのことごとくは「作文」の域を一歩も出ないものだったという自覚・判断はあったので、何年もしないうちに宗旨替えをしました。

 八木さんの「文章教室」も読んだはずですが、その痕跡はぼくの中から消えています。(形ばかりの書庫には収められているはずですが、探すのが億劫なので、曖昧なままで綴ります)そこで扱われている作家たちもよく読んだ。有島武郎さん(1878~1923)の「生まれ出ずる悩み」「惜しみなく愛は奪ふ」「或る女」などは再読三読したし、伊藤整さん(1905~1969)は「鳴海仙吉」「得能五郎の生活と意見」、あるいは「チャタレー裁判」関連の評論も含めて熱心に読んだ方でした。ただ亀井勝一郎さん(1907~1966)は、ぼくの性に会わなかったのか、あるいは「転向(右旋回)」ということがぼくには十分に理解できなかったのかもしれませんが、読みだしては投げてしまった。その文学への姿勢がよく受け入れられませんでしたね。

◉ 八木義則= 生年明治44(1911)年10月21日 没年平成11(1999)年11月9日 出生地北海道室蘭市大町(現・中央町) 学歴〔年〕早稲田大学文学部仏文科〔昭和13年〕卒 主な受賞名〔年〕芥川賞(第19回)〔昭和19年〕「劉広福」,読売文学賞(小説賞・第28回)〔昭和51年〕「風邪祭」,日本芸術院賞恩賜賞(第44回)〔昭和63年〕,北海道新聞文化賞社会文化賞(第42回)〔昭和63年〕,勲三等瑞宝章〔平成1年〕,室蘭市名誉市民〔平成1年〕,菊池寛賞(第38回)〔平成2年〕,早稲田大学芸術功労者〔平成4年〕,地方出版文化功労賞(特別賞 第8回)〔平成7年〕「何年ぶりかの朝」 経歴 少年時に有島武郎「生れ出づる悩み」を読んで文学に開眼。北海道帝大水産専門部時代、左翼の嫌疑をうけて上京し、東京でも非合法活動にまきこまれて満州に渡る。その後早稲田大学に入学し同人誌「黙示」創刊、横光利一に師事した。卒業後、昭和13年満州理化学工業社に入社して再び満州に渡り、18年帰国。19年「劉広福(りゅうかんふう)」で芥川賞を受賞したが、すぐに応召し、中国に渡って21年復員。戦後「母子鎮魂」や「私のソーニャ」を発表。「美しき晩年のために」「女」「摩周湖」「一枚の絵」「半生記」や、「文学の鬼を志望す」「文章教室」など、自己求道的な私小説が多くある。他に「八木義徳全集」(全8巻 福武書店)がある。平成11年故郷・北海道室蘭市の市立室蘭図書館附属文学資料館・港の文学館内に“八木義徳記念室”が開設された。14年夫人が故人の遺言に基き、全著作権を夫人の死後に室蘭市に贈与するという証書を市に手渡した。(20世紀日本人名事典)

++++++

 細(ささ)やかに過ぎる人生の「晩秋」に差し掛かっている今、つくづく実感するのは、「ぼくはまったく怠惰でありましたなあ」という慙愧の念の澎湃として生まれ出てくることです。たくさんの本を読んだと、自分では思っていたけれど、それは錯覚で、並みの読書家の足元にも及ばないものだったと、何とも味気ない気分に襲われ、苛(さいな)まれます。それに比べて、掛け値なしに、お酒だけはよく呑んだものと、ばかばかしいほどに、我ながら感心します。読書も背伸び、飲酒も背伸びで、結局は自分流というものを見出せませんでしたね。それでも、酒だけは、十年程前に、もういいやと思ったほどでしたから、よく呑んだんでしょう。止めるに際してほとんど気にかけなかった、気が付いたら止めていたという感じでしたから。そこへ行くと、「読書」は、いまなお切りがありませんね。これでいいということがなさそうです。ひどくなった老眼を酷使しながらパソコンに向かい活字に向かう、そんな無駄な時間を浪費しながら、残された少ない日々を惜しげもなくやり過ごしています。

 本日版各地方紙の、いくつかのコラムでは「日本人のノーベル賞」受賞(や文学残念賞)について扱われていました。偶然の一致でしたか、「無用の用」ということが二つ三つのコラムでは重なっていました。無用の用、不用の用というのは、手っ取り早い効果を狙ってはダメで、まるで「役に立たない」と思われたことでも、じっくり腰を据えて取り組めば、実はそれには驚くほどの「効果・効用」があるのだと、そんな流儀で「ノーベル賞」につながったと書かれていました。「一見無用とされているものが、実は大切な役割を果たしていること。不用の用」(デジタル大辞泉)であるというのです。それとノーベル賞がどう関係するのか、ぼくにはよくわからなかった。それでも、この表現は人生の何事かを語る表現であると、ぼくなどには思われてきます。

++++++

*唱歌・フォレスタ(Foresta)「旅愁」(https://www.youtube.com/watch?v=BA566W8C8fI&list=RDBA566W8C8fI&start_radio=1

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

七十五日を過ぎた「噂」の眞相は

【小社会】人のうわさも 参院選をめぐる買収事件で、河井案里元参院議員が保釈されたのは5年前の秋だった。当時の菅義偉首相から電話が入る。「大丈夫だから、心配することないよ。とにかく75日がんばれ」(常井健一著「おもちゃ」)◇「人の噂(うわさ)も75日」からきていると著書にある。何となく、不祥事があっても「国民はすぐに忘れるさ」とばかりに真相の解明を曖昧にしてきた近年の政治が浮かぶ。もっとも、「もうそろそろいいだろう」という自民党の目算が狂ったケースも、政治史にはままある。◇28年前の橋本龍太郎首相。ロッキード事件で有罪となった佐藤孝行氏を閣僚に起用した。ところが、世論の猛反発を受けて10日余りで更迭に至る。橋本氏は「世論の重みに十分、思いをしなかった」と謝罪。内閣支持率は急落した。◇この橋本氏の失敗がいま、自民党内でささやかれているという。高市早苗総裁の下で発足した新執行部。「派閥裏金事件」が世間の不信を招いたのに、派閥は復権し、裏金に関与した萩生田光一氏が要職に就いた。◇高市氏は「問題ないでしょう」。選挙の洗礼も受けて決着済みという考えのようだ。ただし、それも真相が解明されていればの話だろう。裏金づくりは誰が、いつ始めたのか。金は本当は何に使われたのか。国民には見えていない。◇今回の「もうそろそろ…」を世論はどう見るか。萩生田氏の秘書の立件からは、まだ75日すらたっていない。(高知新聞・2025/10/09)

 本日のテーマは「うわさ・噂・gossip・rumor」です。「噂」というものは不思議なもので、これを立てられる人はとにかく、人のする「噂話」を聴くのは悪い来はしませんでしょ。知っている人物の「浮いた噂」なら、いくらでも聴きたくなります。「噂は遠くから」というのは、「知らぬが仏」などと言うように、ご当人や関係者が与(あずか)り知らないところで、噂が立つということです。こんなという調子で、誰それを肴(さかな)にしていると「噂をすれば影」ということにもなります。「人事言えば影が差す」ともいう。とかく「噂話」に花を咲かせると、知らぬ間にそれが膨れ上がり「人の噂は倍になる」などと言う仕儀に至ります。とにかく他人の噂話をするのは、まるで無責任で当人には迷惑至極でしょう。だからなおさらに、口さがない連中にとっては、「人の噂は鴨(雁)の味」などと断じる始末です。

 そして「人の噂も七十五日」です。高知新聞のコラム「小社会」では実にあけすけに選挙民を馬鹿に仕切った元首相の知性(治世)の程度が晒されています。夫婦で大枚(億単位)を配って「選挙違反」に問われた議員(妻)に元首相は、あるいは、個人的にはご執心だったかもしれません。夫は獄に繋がれた元法務大臣でした。「犯罪」を犯しても、時間が解決していくれる。「とにかく75日がんばれ」と励ましたのかどうか。この手の人間たちが政治や政治家を食い物(共食い)にしている、蚕食しているのですから、社会が頽廃するのは不可避、いや必然、だということになります。

 どんな醜聞であろうが、犯罪行為に問われようが、「「国民(選挙民)はすぐに忘れるさ」「もうそろそろいいだろう」と、高を括(くく)る。「高」とは「石高」とか「大名高」、「村高」などと言って、米の生産高を指し、後に、事の軽重大小を測る典例になったのです。この程度の「謝り方」でいいだろうと、時には「高の括り方」が甘くなることもあります。つまりは「国民(有権者」を舐(な)める」という意味です。「世論の重みに十分、思いをしなかった」と、直ちに「臍(ほぞ)を噛む(自分のお臍は噛めないでしょう、つまりは使用としてもできない相談のこと)」ことにもなります。しかし、このような臍を噛もうとする人が実に稀になったところに、今日の「頽落」「堕落」の深さ酷さがあるのでしょう。「裏金議員」が、まるで八面六臂の暗躍ぶりで、女性総裁を実現させたという事実は、ほとんど報道されていません。脱税議員は、それこそ驚くべき運動量で「奈良の女」を総裁に押し上げた。それから見れば、口のひん曲がった高齢元首相など、裏金議員の尻馬に乗っただけと言ってもいいでしょう。そしてあるまじきこととして「元裏金議員」は某党の幹事長代行に抜擢だか登用だかされました。これもまた、噂が立っても不思議ではないのに、この社会の大手マスメディアは、「事の真相」をいささかも活字にはしないし、テレビ画面にも、その「噂の影」すら出そうとはしない。

◉ 人の噂も七十五日= 世間が盛んに噂するのも一時のことで、二、三カ月もすればほとんど忘れられ、話題にしなくなる。 [解説] 口さがない世間の噂は、虚実が入り交じり、人をおとしめるものもありますが、感情的になって反論すると、かえって収拾がつかなくなることがあります。しかし、そんな風評も七十五日ほどと思えば、辛抱して、おさまるのを待てばよい、ということにもなるでしょう。/「七十五日」は、「初物七十五日」にも登場します。どちらもきっちり七十五日ということではなく、やや漠然と中期的な区切りを示すものでしょう。たしかに、二カ月半もすれば季節が変わり、世間の関心もさめて、冷静に事の真相を見きわめてくれる人や同情を寄せてくれる人も出てくるものです。ちなみに、端数の半月は、かつて月を見て暮らしていた人々にとっては、ついたちから満月まで、あるいは満月から晦日みそかまでで、案外イメージしやすかったのではないでしょうか。(A wonder lasts but nine days.)(ことわざを知る辞典)

~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 このところ、ぼくは廃刊になって久しい月刊誌「噂の眞相」を折々に読んでいる。どうした風の吹き回しかと、自分でも訝るのですが、なんとも懐かしさが湧き出してくるんですね。編集長だった岡留安則さんとは一面識もないままでしたが、北尾トロさんなどと同じように、若いころ、同時代人として熱心に身を入れて読んでこなかっただけに、今になって「そういうことだったんだ」という思いが募ります。そしてまた、この社会のメディアがほとんど腑抜けになった状態がさらに続くとなると、勢い「噂の眞相」の肩を持ちたくなるんですね。「週刊金曜日」も、創刊時代から見れば、見事に脱色され、無色透明、無味乾燥、と言えば言葉が過ぎますが、何かに、誰かに遠慮してるような「奥ゆかしさ」、つまりは「腑抜け」状態にあると思うと、真偽取り混ぜ、真偽定かならざる情報の報道を、というと乱暴に過ぎますが、やはり「週刊文春」に加えて、より過激だった「噂の眞相」に引き寄せられていくんですね。

 たった一度だけ、それも「一行情報」欄にぼくの「噂」が書かれたことがあります。友人に「あなたのことが出ているよ」と教えられて気づくという迂闊さでしたが、何でぼくなんかが、と思ったことでした。どうということのない「噂」記事でしたが、一度だって取材らしいものを受けなかったにも関わらず、「噂」を書かれるのはいい気がしなかった。もちろん、小さな集団社会で生きているのですから、何かと「噂」を立てられることはありますから、いちいち腹を立てていては一日だって過ごせないという気分になりますよ。それでも「人の口に戸は立てられぬ」と言います。他人の口を塞(ふさ)ぐことはできないという例えで、だから噂は世間中を飛び回るのでしょう。「ねえ、耳よりの話があるんだけど」と誘われれば、ついつい噂話に乗ってしまいます。噂は噂でしかないと、自らの判断を旗幟鮮明にしておれば問題はないのでしょうが、ついつい、他人から聞いた噂話を、誰かに伝えるなどと言う、はしたないことをしたことも皆無ではなかったのを白状しておきます。

 そして「噂の眞相」です。

 「『噂の眞相』は国際政治から芸能・風俗まで幅広い分野をカバーしてきた。芸能記事にしても、ジャニーズ事務所の追っかけファンまでが興味を持つような記事づくりを心掛けてきた。『噂の眞相』の売り物だった「一行情報」にしても、初心者の読者獲得には効果的だった。たとえ、時代に添い寝している“ 状況埋没雑誌”だと古典的左翼に悪口をいわれても、きちんとした雑誌のポリシーや核があれば問題はないと考えて来た。『噂の眞相』は永田町や霞が関が毎号注目するようなスキャンダル記事を載せる一方、単なる野次馬精神旺盛な好奇心の強い読者も読めるように、誌面も多彩に作ってきたつもりである。その点においては総合雑誌の作りとしては、「品がない、低俗だ」という一部の声があったとしても、逆にオヤジ化することなく部数も右肩上がりで伸びて来た唯一の雑誌だったと自負している」 (岡留安則著『噂の眞相』25年戦記」集英社新書、2005年初版)

 編集者の「自己分析」です。今時は、週刊文春ばかりが名をなしているという世評に、反対の声を上げる雑誌や新聞があるとは思われないのは、すべてが既成事実の鵜呑みから出発しているからでしょう。まず義憤(私憤)が沸き起こり、それがやがて多くの人に共通する公憤になることが絶えて見られないのは、おそらく何事が起ころうとも「私憤・義憤」すら生まれない人間たちの集団・社会になったからではないでしょうか。今ある「大新聞」かからの退職者が挙って「週刊誌記者」に馳せ参じていると見られる現状を、ぼくたちはどう見ればいいのか。岡留氏を礼賛するつもりは毛頭ないのですが、私憤のかたまりが、やがて公憤になりつつ、社会に波風を立てたいという、悪質ではない「野次馬根性」があるからこその「噂の眞相」の25年だったと思われます。復活を期していた岡留氏の早逝を惜しむものです。

 残念なことに、誰も彼もが「いい子」になって、頭をなでられているうちに肝も根性もすっかり萎えさせられてしまった挙句の、ただ今現在の「マスメディア」のリアルタイムではないでしょうか。人生の安全パイだとみなされ評価されてきた「マスメディア」の屋台骨にひびが入っているのは、それを支えてくれるはずだった人々が先を競って逃げ出しているからです。いまはネット社会の佳境(絶頂)期だと言えば穏当を欠くかもしれませんが、新たなネットメディアとして、それぞれが呱々の声を上げてきたのも事実です。玉石混交の中から、よく響く声で「権力を切る」「不正を暴く」という、本来の「社会の木鐸」にまで育つ可能性のあるスモールメディア・ミニコミがあるのも事実でしょう。いろいろな媒体を駆使して、「権力を撃つ」ようになれば、少なくとも、いくばくかの人(国民、あるいは有権者)は今よりは賢くなる可能性(希望)は生まれると思うのです。

 たった一人の「岡留安則」すらが存在しない時代なんて、ぼくには考えられないのですよ。

~~~~~~~~~~~~~~~~~

◉ 噂の真相=岡留安則おかどめ・やすのりさんにより1979年に創刊された、スキャンダルやゴシップを扱う月刊誌。対象は政官界や文壇、芸能界、皇室と幅広く、多くの筆禍事件を招いた。「グリコ・森永事件」を巡り、84年に警察とマスコミの間で結ばれていた報道協定を暴露したほか、99年には東京高検検事長(当時)の女性問題を報じ、辞任に追い込んだ。2004年に休刊。岡留さんは今年(2019年)1月、肺がんのため那覇市内の病院で死去した。(共同通信ニュース用語)

【追悼】「噂の真相」岡留安則さん 「権力撃つ」最後まで 琉球の独立も夢想 大物政治家の醜聞にひるまず踏み込むかと思えば、業界のうわさ話も敏感にキャッチし、いち早く欄外の一行情報に。名実ともに月刊誌「噂(うわさ)の真相」の名物編集長だった岡留安則さんが1月31日、71歳で亡くなった。清濁併せのんで型にはまらぬ才能を発掘し、雑誌黄金期の一角を担った名編集者は、最後まで言論人の矜恃(きょうじ)を持ち続けた。
 「最初から最後まで、反権力で反権威。無名の弱い人でなく、有名で強い人を批判した」
 「右腕」役が長かった元副編集長の川端幹人さんは「常に義憤が出発点で、純朴だった。スキャンダルを暴くことで、権力や権威を撃てると本気で信じていた」と振り返る。
 編集者として発揮したのは「人並み外れたやじうま根性から生まれるアイデアとプロデュース能力、そして明るさと楽観性」。情報や人脈は囲い込まず、手に入れたネタは全部出す。執筆陣やスタッフからは評論家の佐高信さん、コラムニストの故ナンシー関さんや小田嶋隆さんら、多くの多彩な才能が羽ばたいた。
 名誉毀損(きそん)で訴えられると、続報の材料を誌面で募集。右翼の襲撃で自ら負傷しても、事件の動画配信を試み、記念の宴会を開いた。トラブルに見舞われても「気にする様子はなく、むしろネタにして乗り越えようとしていた」。
 タフで前向き。謝罪する時はすぱっと謝罪。そしてまた書く。風通しの良さ、おおらかさゆえ、編集部の士気は高かった。「『大丈夫ですかね?』と聞くと『大丈夫だよ、なに心配してるんだよ』。ぼくらにとって、守り神のような存在でした」と川端さん。
 ただ、真偽があいまいなゴシップ報道もいとわぬなかで、名誉毀損などの訴訟や抗議の風当たりに加え、損害賠償が高額になるメディア環境が負担になった。2004年、「どの号が何部売れたかさえ気にせず、どんぶり勘定だが黒字だった」(川端さん)同誌を休刊すると、岡留さんは拠点を那覇に移す。直後、米軍ヘリ墜落事故が起きた。
 「移住後はゆっくりするつもりだったようだが、沖縄の過酷な状況を目の当たりにし、休んでいる場合じゃないと考えを改めたようだ」。そう語るノンフィクションライターの藤井誠二さんも、岡留さんが開いた飲食店をよく訪れた。地元の政治家や実業家、島内外のメディア関係者も、人脈や情報交換を目当てに集まってきた。
 藤井さんは昨年、沖縄の売春街を描いた労作『沖縄アンダーグラウンド』を出版。取材を重ねる中で「沖縄の人の声をしっかり記録しろよ」と、岡留さんに何度も叱咤(しった)激励された。
 14年の県知事選に立候補した故翁長雄志さんの集会では、人脈を駆使して俳優の故菅原文太さんを招き、「弾はまだ残っとるがよ」と発言する場面を演出した。琉球の独立を夢想し、喜納昌吉さんの「花」をシンボルに、平和を発信する将来像を語った。「沖縄のことを、最後まで気にかけていた」。周囲の誰もがいま、そう口をそろえている。(大内悟史)=朝日新聞2019年2月6日掲載(https://book.asahi.com/article/12124988)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

地上には、いつも「戦争と平和」が

【卓上四季】月はみている 若くて貧しい画家の<わたし>は屋根裏に住んでいる。窓から見えるのは灰色の煙突ばかり。友だちや顔なじみはいない。ある晩、悲しい気持ちで窓辺にいたら、まんまるな顔のお月さまが声をかけてくれた…▼アンデルセンの「絵のない絵本」である。いつも地球を照らす月が、時代や地域をこえて見聞きしたできごとを物語る▼ノアの箱舟にフランス革命、アフリカや中国の珍しい話もある。世界の人々をやさしく見まもる月は分け隔てしない。不幸せな者には澄んだ光でくちづけする▼おとといは中秋の名月だった。雲間に輝く銀の光を見つつ、はるかな土地ガザの様子を思った。「絵のない絵本」のように月はかの地の人々も照らしたろうか▼ガザの戦闘が始まって丸2年となった。イスラエルの情け容赦ない攻撃により、6万7千人超もの住民が犠牲となった。多くはなんの罪もない女性や子どもたちである。あすをどう生きるか、と同時に、あすどう死ぬのかをいつも考えている―。現地から伝わる声に胸が痛くなる▼ガザは長らく<天井のない監獄>といわれてきた。いまは血で染まる地獄さながらである。人としての尊厳を根こそぎ奪われ、命をつなぐことすら厳しい。一刻も早く戦闘を終わらせ平和を実現しなければならない。やさしい月の光に照らされる穏やかなくらしを。(北海道新聞・2025/10/08)

 本日は2本のコラム、それも北と南の新聞から、です。「絵画と音楽(芸術)」、「戦時と平時(非日常と日常)」がそれぞれのテーマのようでした。いままさに「芸術の秋」とでもいうように、世界の各地で「平和であってこその芸術」がいろいろな方法で紡がれているでしょう。ロシアがウクライナに侵略を開始した直後、同国の第二の都市とされるハルキウの庁舎前で、現地のチェリストがバッハの無伴奏組曲第5番を、世界に向けて演奏されているのを聴いた。直ちにこのブログでも触れた。あれから三年半以上が過ぎ、なおロシアは侵略の蛮行を止めていません。ウクライナが、国を挙げて抵抗するのは、戦いを止めれば国が失われるからです。この三年以上の期間、ウクライナから、さまざまな媒体を使って、戦争に抗議する人々の行動が報じられてきました。それでもなお、戦禍は至る所で生じています。世界はウクライナを見放したのか、世界は、ロシアの暴力を見過ごしているのか。「戦争」に対して「芸術(音楽)」は無力なのか。(「破壊された街ハリコフに響くバッハの無伴奏チェロ、復興資金募る」・https://www.youtube.com/watch?v=ltJ-bB1hGy4&list=RDltJ-bB1hGy4&start_radio=1&t=1s

 またイスラエルとパレスチナ(ハマス)の「戦闘」は、すでに2年が経過しました。この間のパレスチナの犠牲者は6万7千人余と報じられています。「多くはなんの罪もない女性や子どもたちである。あすをどう生きるか、と同時に、あすどう死ぬのかをいつも考えている―。現地から伝わる声に胸が痛くなる」と北海道新聞のコラム「卓上四季」は書く。「ガザは長らく<天井のない監獄>といわれてきた。いまは血で染まる地獄さながらである。人としての尊厳を根こそぎ奪われ、命をつなぐことすら厳しい」とも。イスラエルのミサイルが、ガザの住民の居るところを、意図的に狙ったかのように発射・爆撃を繰り返し、世界はまた、それを遠目で見ているだけ。あるいは「平和実現」と称して、イスラエルにさらなら武器の供与とガザの「無条件降伏」を使嗾する大国の狡猾さをも知らされています。「戦争と平和」、あるいは「戦時と平時」、それはいつでもどこでも起こりうる現象の二つの側面でもあるかのようでいて、実は根底ではこの「二つ(戦時と平時)は一つ」であって、どこかで通底しているのでしょう。

 琉球新報のコラム氏は沖縄都市モノレールのある駅に設置された「駅ピアノ」に触れて、「先日、男子生徒がショパンの曲を演奏していた。連れの生徒が聞き入っている姿がほほえましかった」「一台のピアノを取り巻く景色はドキュメンタリー番組の一コマのよう。気のめいる雨の日、仕事のやる気が湧かない日にピアノの調べは癒やしになる。音楽の力を感じる」とも書く。そうでしょう。音楽もまた、生きる支えになる、そんな力があるというのです。「平和」であればこその音楽でしょうか。いや、戦争を持て囃す音楽もあれば、戦争を、殺戮を、頑なに拒絶するための音楽もある。まるで博物館入りを果たしたような「音楽演奏」を広く解放・開放するかの勢いで、演奏されているストリートピアノとその奏者の魅力を、ぼくは何度かこの駄文録でも触れています。

【金口木舌】音楽はビタミン剤 沖縄都市モノレールのおもろまち駅の改札内コンコースに設けられた「駅ピアノ」。誰でも演奏できる。先日、男子生徒がショパンの曲を演奏していた。連れの生徒が聞き入っている姿がほほえましかった▼当方は通勤でこの駅を使う。一台のピアノを取り巻く景色はドキュメンタリー番組の一コマのよう。気のめいる雨の日、仕事のやる気が湧かない日にピアノの調べは癒やしになる。音楽の力を感じる▼ピアノといえば、「ピアノの詩人」と称され、19世紀に活躍したポーランド生まれのショパンを連想する人も多いのでは。名曲「革命のエチュード」は、ワルシャワにロシア軍が侵攻した時の絶望と怒りを込め作曲したという説がある▼クラシック界最高峰のコンクールで開催中の「ショパン国際ピアノ・コンクール」は、予選を通った84人が参加を予定する。日本人は13人、どのような調べを紡ぐか楽しみだ▼彼岸を過ぎ、夜が長くなった。夜勤の帰路、ドビュッシーの「月の光」など夜にまつわる曲を配信アプリで聴く。仕事から気持ちを切り離すスイッチになる。ささやかな楽しみがビタミン剤になっている。(琉球新報・2025/10/08)

 「金口木舌」氏はショパンコンクールに触れておられました。二日前、何気なしにネットで遊んでいたら「ショパンのピアノ曲」が演奏されている場面に出会った。映像にはどこか(写真で)見覚えのある女性の姿があった。それは第19回ショパンコンクールの予選会の一場面で、奏者はKさんだとテロップが出た。彼女には直接面会したことはなかったが、幼児からよく知っていました。彼女の母親は、ぼくが勤めていた学校の卒業生で、在学中から親しくしていた。バレーや歌曲にも積極的に取り組み、その活動ぶりはよく知らされていました。卒業後、やがて結婚され、生まれたお嬢さんは早くからピアノに向かっていること、音大を卒業後、欧州に留学したこと、各地の音楽コンクールで輝かしい成績を残していることなど、それこそ手に取るようにわかる、そんな報告をぼくは受けていました。ショパンコンクール会場での、彼女の演奏をぼくはゆっくりと聴きました。

 堂々たる演奏、すでに立派なピアニスト、そんな印象を強く持ちました。間もなく三十歳だというのですから、卒業生も結婚三十年を過ぎたのかと、余計なことを考えてしまいました。まだまだ、今次のコンクールは続くようです。結果について、ぼくはあまり関心はありません。第一に、何に限らず「コンクール」「コンテスト」というものが死ぬほど嫌いだからですが、それ以上にコンクールの覇者の、その後の演奏を耳にしてきて、いったい、コンクールという試練が演奏家の、その後の活動にどんな意義を持っているのか、持っていたのか、大いに疑問を抱かされても来たからでした。ショパンコンクールの「第一位」を獲得したピアニストのほとんどを聴いてきたと思います。しかし、今なお、このピアニストは素晴らしいと感じることができる演奏家は、ぼくの中にどれくらいいるか。長い目で見れば、コンクールの業績は、ある種の打ち上げ花火のように儚くも美しく燃え、その後は鳴かず飛ばずという人がほとんどではなかったか、とぼくは思ってきました。一位より二位だったピアニストが大成した例もありました。もちろん、そんなところに不参加でいて、優れた活動を続ける演奏家も知っています。具体的な名前は挙げないが、早くに「コンテストは殺人行為だ」といった、たった一人のピアニスト(カナダ)だけが(とは言わないが)、ぼくの記憶の中で音楽(就中、バッハ)を奏でている。彼は四十年以上も前に、五十歳を一期に亡くなった。いやなことですけれど、音楽家にも「偏差値」「学力・学歴」競争があるんですね。

 「金口木舌」氏は「音楽はビタミン剤」であると書かれています。それは演奏家にとっても聴衆にとっても同じような意味(効き目)があるということでしょう。平和であればこその音楽という意見にも一理はあります。しかし、平和を希求する音楽もまた、人々の胸に鳴り響いてきたし、今もなお響いているのです。ショパンはロシア帝国に反抗した故国の革命軍の蜂起(1890年11月)の失敗に打ち萎れながらも「革命(のエチュード)」(練習曲(第12番・ハ短調)を作ったという。1891年9月とされます。それ以前、ナポレオン一世の存在に魅了されて、「英雄」なる交響曲を作った作曲家もいましたね。

 ぼくは一日にして、ワルシャワの演奏会場とガザ市民が殺戮されるパレスチナの戦禍の場面を見ていました。まさしく「戦争と平和」「戦時と平時」はいつだって、どこにおいてであっても「同時並行」で起こることだと改めて見せつけられる思いがしました。そして、はっと気が付いたのです。ぼくは今、どこにいるのだろうか、と。「平和」であることに嫌気がさしているのではと思われる政治家に事欠かない、この国では、あるいは「初の女性宰相か」と、ごく一部でしょうが、浮足立ち浮かれ切っている人々がいます。総裁選候補者が挙って、腐敗しきった政治と政治家で充満している自党の再生を願い、口をそろえて「解党的出直し」を呼号した「総裁選」が終わり、気が付いたら「旧体制復活」「派閥政治再興」が現前している。愕然とする人がいるとするなら、それはあまりにも呑気に過ぎませんか、と冷や水をかけてやりたい。

 この事態をして「大惨事(第三次)安倍政権」と糾弾した人がいました。国家尊重が個人尊重に優先する、そんな「国家主義」イデオロギー政治の再来でしょうか。天皇制国家の再強化の前触れでしょうか。国の独立を何よりも優先する考えの持ち主である政治家が、率先して米国属国(米国追従)の地位に徹する根性を丸出しにする、そのような笑うほか仕方のないような「転覆政治」がいよいよ再開されるようです。学校教育現場に「教育勅語」が名実ともに再登場する時代に入りました。「我力臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世々厥ノ美ヲ済セルハ此レ我力國體ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス」(明治二十三年十月三十日)

 そして、我に返ったと思ったら、目の前には「株高・物価高・円安」という、再来した悪夢の「トリプルセット」は、いよいよ方向を失いつつも暴走する気配は濃厚です。

 「平和の中にこそ戦争の芽」があり、「民主主義の隙間にこそ独裁政治の萌芽」が存します。その「隘路」の危険性を頻りにぼくは考えている。そして、ぼくの耳には「露衛の歌」「暁に祈る」が、遥か遠くから響いてきている。もちろん、それは、ひとりの老人にしばしば生じている錯覚(空耳)であり、記憶力衰退・錯乱の印(幻想・幻聴というもの)であることは自分でもわかっているんですよ。大半の国民は歴史も記憶も持たないままで、ときの勢いに流されるんですね。まさしく「流れに掉さす」という、雰囲気に呑まれるかのようであります。暫時安眠を貪って後、正気に戻ったら、ぼくの国は「戦時中」だったということになるんでしょう。でも、いったい、どこと、何のために「戦争」するんですか。相手がいるんでしょうか。まさか、自分の中の「幻の敵国」と、ではないでしょうね。

 (蛇足 以下に示した2曲の軍歌の作曲に当たった古関裕而氏(1989~1989)は、それこそ戦前・戦中・戦後を一貫して活動された音楽家でした。敗戦直後は「とんがり帽子(鐘の鳴る丘)」を、東京五輪(1964年)では開会式の入場行進時に奏された「オリンピック・マーチ」を作られました。歌謡曲の分野では、押しも押されもしない大作曲家だった。古関さんの中には「平和と戦争」は同じ場所に位置していたのでは、と思ってきました。そして、もっとも人口に膾炙した曲は、今もなお歌い継がれる「栄冠は君に輝く」でしょう。これを聴くと、ぼくの中では「露衛の歌」にぴたりと重なるんですね。つまり、甲子園の野球は「勝ってくるぞと勇ましく」という精神(大和魂)を鼓舞する舞台なんです。なにはともあれ「旗も歌も」勝ち鬨(どき)のためのもの、ぼくには、いずれも怖いですね。)

  露衛の歌(詞:籔内喜一郎・作:古関裕而)


 ⒈勝ってくるぞと勇ましく 
  誓って故郷(くに)を出たからは 
  手柄立てずに死なりょうか 
  進軍ラッパ聞くたびに 
  瞼(まぶた)に浮かぶ旗の波 

 ⒉土も草木も火と燃える 
  果てなき曠野(こうや)踏み分けて 
  進む日の丸鉄兜 
  馬のたてがみなでながら 
  明日の命を誰か知る 

 ⒊弾丸(たま)もタンクも銃剣も 
  しばし露営の草枕 
  夢に出てきた父上に 
  死んで還れと励まされ 
  覚めて睨(にら)むは敵の空 

 ⒋思えば昨日の戦いに 
  朱(あけ)に染まってにっこりと 
  笑って死んだ戦友が 
  天皇陛下万歳と 
  残した声が忘らりょか 

 ⒌戦争(いくさ)する身はかねてから 
  捨てる覚悟でいるものを 
  鳴いてくれるな草の虫 
  東洋平和のためならば 
  なんの命が惜しかろう 
 (東京日日・大阪毎日新聞懸賞入選歌
  1937(昭和12)年10月)
 暁に祈る(詞:野村俊夫・曲:古関裕而)

⒈ああ あの顔で あの声で
 手柄頼むと 妻や子が
 ちぎれる程に 振った旗
 遠い雲間に また浮かぶ
 
⒉ああ 堂々の 輸送船
 さらば祖国よ 栄えあれ
 遥かに拝む 宮城(きゅうじょう)の
 空に誓った この決意

⒊ああ 軍服も 髭面も
 泥に塗れて 何百里
 苦労を馬と 分け合って
 遂げた戦闘(いくさ)も 幾度か

⒋ああ 大君の 御為に
 死ぬは兵士の 本分と
 笑った戦友(とも)の 戦帽に
 残る恨みの 弾丸(たま)の跡

⒌ああ 傷ついた この馬と
 飲まず食わずの 日も三日
 捧げた生命 これまでと
 月の光で 走り書き

⒌ああ あの山も この川も
 赤い忠義の 血がにじむ
 故国(くに)まで届け 暁に
 あげる興亜(こうあ)の この凱歌
(昭和15年発表)

*「露衛の歌」https://www.youtube.com/watch?v=lzpjBdxz5io&list=RDlzpjBdxz5io&start_radio=1)                                (*「暁に祈る」https://www.youtube.com/watch?v=9aijn3vNQYc&list=RD9aijn3vNQYc&start_radio=1

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

問い方にこそ、ヒントがある

 「一年生になったら 友だち百人できるかな」という童謡がありました。意外に新しく、作詞はまどみちおさん、作曲は山本直純さん。1966年発表と言います。まどさんは「ぞうさん」、山本さんは「男はつらいよ」でお馴染み。恐らく、この歌は幼稚園の卒園時に、よく謳われたのではないでしょうか。ぼくは幼稚園は行かなかったと思うし、小学校入学時の記憶も皆無ですから、「ともだち ひゃくにん できるかな」などということはまったく想定の外だったと思う。小学校に限らず、それ以降も含めて、果たして何人の友だちができたか。第一、できる・できないなんて、想像すらしなかったですね。

(*「♪一年生になったら」https://www.youtube.com/watch?v=Qc9lFVljxUg&list=RDQc9lFVljxUg&start_radio=1

 この年齢(八十一)になって、「親友は何人いますか」と訊ねられたら、「さあ、片手かな。いや、もう少し多いか。いやいや、かみさんだって怪しいもんさ」」というくらいのものですな。そもそも「友だち」というのはどういう存在なのかを考えると、なかなか簡単には答えられないですね。作家の小谷野さんの高校時代の「いやな気分」という想い出がコラム「日報抄」に出ています。「高校に入学して初めての遠足。周囲は友だちといっしょに弁当をほおばっていたのに、自分は一人で食べていた。卒業アルバムには、ぽつんと一人で食べる自分の写真が載った。「何とも、嫌な気分だった」とあります。そうだったんでしょうね。「嫌な気分」というところが重要でしょう。

【日報抄】高校に入学して初めての遠足。周囲は友達と一緒に弁当をほおばっていたのに、自分は一人で食べていた。卒業アルバムには、ぽつんと一人で食べる自分の写真が載った。「何とも、嫌な気分だった」▼作家の小谷野敦さんが著書「友達がいないということ」で振り返っている。胸の痛む思い出だろう。腹を割って話せる友達がいれば、ありがたい。人生も豊かになりそうだ。けれど友達作りが得意な人ばかりではない▼自分には友達がいない。そう思う人にとって人工知能(AI)は心強い存在かもしれない。対話型の生成AIが登場し、私たちは膨大な情報の集合体と会話できるようになった。ブッダの教えやソクラテスの哲学を学習し、人生相談をすれば偉人のような言葉が返ってくるものも開発されたという▼友達のように寄り添ってくれれば助かるが、ぞっとするような話もある。何でも肯定してくれるAIとの対話を続けた結果、自殺や殺人につながったケースが米国で相次いで報じられた▼ある高校生は生きる意味に疑問を抱き、自殺をほのめかした。AIは「恥ずかしいことではない」と同調し自殺の手法を尋ねられるたび、詳細な情報を提供した。高校生は教えられた通りに命を絶った▼開発企業を提訴した両親は、他社との競争に勝つため、利用者がAIに感情的な依存を高めて長時間対話するように設計していると主張した。時には耳の痛い指摘もしてくれるのが真の友達-。そんなふうに言われたこともあったような。(新潟日報・2025/10/07)

 小谷野さんは、淋しかったのでも孤独だったのでもなく、級友と離れて「一人で食べていた」、その写真がアルバムに乗ったことに「嫌な気分」が湧いたのだったかと思う。ぼくはこれまでに、友だちを作るという言い方をしたことはなかったし、作るも作らないも、長い時間、同じ空間にいる(いた)のだから、自然に話が合うとか、気が合うという付き合いがあり、それが続けば「友だち」になるだろう、でも卒業や進学で別れ別れになれば、後はまったくの無沙汰・無音。後顧の憂いなく、ぼくたちは新しい環境に入るのでしょう。

 「友だちができません」「どうしたら友だちができますか」と、誰彼から相談を受けた経験はなかったと思う。あるいは、あったのでしょうが忘れてしまったのですかね。相談されたら「犬とでも猫とでも、いっしょに遊んだら」と言ったはずです。犬や猫に限りません、草花でもいいし、小動物でもいい。必ず友だちになれるとは限らないけど、付き合ってみる値打ちはありますよ。「友だち」は、いれば素晴らしい、楽しいというものでもないでしょう。喧嘩することもあるし、顔を見たくなくなることもある。いい時も悪い時も含めて、付き合いが続けば、それが「友だち」、その程度に考えていましたね。「腹を割って話せる友達がいれば、ありがたい。人生も豊かになりそうだ」ということもあります。でもそれだけではないと思う。右の石垣りんさんの「随想」、読むたびに涙が零(こぼ)れます。

 ぼくはしばしば、幼稚園や保育園、あるいは学校へ行くことの第一の(唯一の、かもしれない)利点(効用)は「通学しなければ出会えない、そんな人たちに会える」ということを言ってきました。「自分と他者」を経験できるということです。もっと言うなら、「わたし(I)とあなた(you)」という共同体(public)を作れるかもしれないということ。「私」だけなら、それはいつでも「私的(private)」で、世界は広がりませんね。ぼくには驚きだったんですが、幼稚園時代の友だちと結婚した夫婦を何組か知っています。「よく飽きないですね」という感想が直ちに湧きますが、知り合いは「仲良きかな」の継続です。。人間の幸運は「未知との遭遇」、つまりは「エンカウンター(encounter)」でしょう。その意味は「〔偶然・思いがけなく〕出合う、出くわす〕〔問題・不運・危険・反対などに遭う、出会う、遭遇する〕〔困難・現実などに〕直面する」「〔思いがけない〕出会い、巡り合い、遭遇、接触」とあり、その例文の一つに、Treasure every encounter, for it will never recur. : 出会いを大切にしなさい。それは一度きり[二度と繰り返されないの]ですから。/ 一期一会。です」(英辞郎)とあります。

 ところが、コラム氏は異なことを言われます。「自分には友達がいない。そう思う人にとって人工知能(AI)は心強い存在かもしれない。対話型の生成AIが登場し、私たちは膨大な情報の集合体と会話できるようになった」と。「そんな馬鹿なことを」、と言うつもりはないし、「対話型AI」も、いわば犬や猫の類と捉えれば、それはそれでいいでしょう。でも、そうなるとまるで「ゲーム機」かなんぞのようで、生きた人間や動物と付き合うのとははなはだ勝手が違いますね。いいことずくめとは言い切れない問題もあるかもしれません。使い方次第、人それぞれですから、一概に「こう付き合うべきだ」とは言えないと思います。コラム氏も「アメリカの問題」に触れておられる。「何でも肯定してくれるAIとの対話を続けた結果、自殺や殺人につながったケースが米国で相次いで報じられた」とあります。自動運転の車に乗って、目的地まで行く途中で、思わぬ事故に遭ってしまう事態も少なからずあります。

 (「対話型 AI」に向かって、どんな質問をするか、とても大事な問題だと思う。往々にして、「質問」のなかに答えが隠されている、そんな「質問」をすべきですね。(人間が運転する)車に乗れば誰だって、無事に目的地に着けるとは限らない、運転技術が試されます。車の使い方を誤れば取り返しのつかない事故に遭遇する。三重県内で軽自動車に6人も乗って、時速百キロで飛ばし、路側帯にぶつかり、5人が亡くなったという報道がありました(2025/10/03)。何事に限らず、最後の最後は人間が意識を確かにして判断するのです。「注意深い人間」になることの重要性は、他に比べるものがないほどでしょう)

 どこまで行っても器械は器械です。人との出会いは「エンカウンター」、つまりは、交差点で「出会いがしら」に遭遇するようなものです。だから、時には大きな「怪我」をするかもしれないし、幸いにも「掠(かす)り傷」程度で済んで、後はうまくやれるということもあるでしょう。また「出会いは別れ(会うは別れの始め)」でもありますから、いちいち気にしていても仕方がありません。お互いが「死ぬほど好きやねん」という二人が結婚したまではよかったが、その後には「憎しみ抜いて、相争う」ことだってあります。「友だち百人 できるかな」というのは、なんとも惑わしい童謡でしたね。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 以下に、少し古い記事ですが、友だちは「数より多様性が大事」という専門家?の記事がありましたので、紹介しておきます。

「友達100人できるかな」の呪縛に悩むあなたに伝えたい研究結果…「友達は『数より多様性』が大事です」(神戸新聞・2021/6/20)
あなたには友達が何人いますか? 友達がたくさんいる人は「社交性がある」「明るい」「きっとみんなに好かれる性格なんだろう」とポジティブに受け止められることが多いようです。しかし、本当に友達の輪が広い人ほど「信頼できる人認定」がされるのでしょうか? /友達の数って大事なことでしょうか。
■友達付き合いに疲れ切ってしまった26歳の彼
26歳の男性と話していた時のことです。彼がこんなことをいいました。
「友達が多いことに悩んでいます」
大勢の友人に囲まれてきた彼。彼はいつも“他人の目に映る自分の姿”が気になっていたそうです。良い人と思われたい。誰からも嫌われたくない。みんなに好かれたい。だから常に愛想良くして、集団の中でもうまく立ち振る舞ってきたつもりだといいます。
おかげで彼にはたくさんの友達ができました。いじめを受けたこともありません。
ところが彼は次第に「友達が多いこと」が悩みの種になっていったというのです。
遊びにいかない?飲みにいかない?買い物に付き合ってくれない?ヒマなんだよね、どんな声がけにも彼は「もし断って嫌われたら」という思いが強く、ついつい付き合ってしまっていました。
■一人ぼっちになるのが怖い
友達というと、この曲を思い出します。小学校に入学する時に歌う「一年生になったら」。その中に印象的な歌詞がありますね…「友達100人できるかな♪」。
友達は多いほうがいい。私達は、無意識にそう思ってきたのかもしれません。
いじめで、よくあるのが仲間外れです。
意図的ではなくても、グループ作りでどこからも声をかけてもらえなかったり、誰かとペアを組むのに最後まで残ってしまうと、とても辛く、屈辱的に思うことがあります。私達は、仲間というカタチに敏感です。
話を聞いた彼は「仲間に入れてもらえなかったらどうしよう」という意識が強かったのでしょう。一人ぼっちにならないように、ひたすらみんなに好かれようと振る舞ってきたのです。(中略)
あなたには、あなたが考える、あなたにとっての友達が何人いますか? 
◆くま ゆうこ デジタルハラスメント対策専門家。株式会社マモル代表取締役社長。自身の強みであるWebマーケティングのノウハウを活かし、 いじめや組織のハラスメントを未然に防ぐシステム「マモレポ」を開発する傍ら、学校コンサルティング、いじめ・ハラスメントのセミナー登壇、執筆を行う。(https://www.kobe-np.co.jp/rentoku/omoshiro/202106/0014430746.shtml)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

物いへば唇寒し穐の風(芭蕉)

【金口木舌】はっきり言える大人に ロックバンドのフラワーカンパニーズが歌う「大人の子守歌」は、年を重ねることの哀愁をつづる。歌詞には次のような一節がある。「子どもの時ははっきり言えたのに、どうして大人は黙ってしまうんだろう」▼童話「裸の王様」を思い起こす。権力者の異変に気付いても周囲の大人はなかなかそれを指摘できない。純粋な心を持つ子どもだけが「王様は裸だ」と大声で叫ぶ▼大人の1人として考えさせられる。力のある存在を恐れるあまり思っていることを口にしない。本当は間違っていると分かっているのに黙ってしまう。大人になると、子どもの頃より臆病になるのだと自省する▼南城市では市民が古謝景春市長のセクハラを訴え、第三者委員会がそれを認め、議会で不信任決議が可決された。たくさんの大人が権力者の間違いを指摘した。いずれも勇気ある行動だったと言えよう▼セクハラを認めない市長は職にとどまり、議会を解散する可能性がある。その結論は市民の理解を得られるのか。声を上げた人々の勇気を置き去りにしてはいけない。間違いをはっきりと言える大人が社会を正しい方向に導く。(琉球新報・2025/10/06)

 初めに 表題句は芭蕉作。作句の年月は不明ですが、「蕉翁句集」(服部土芳編)では「元禄四年」とあります。芭蕉四十八歳。

 「元禄四未ノとし 座右銘 人の短をいふ事なかれ 己か長キをとく事なかれ もの云ハ唇寒し秋のかせ」とあります。詮索はともかく、この句は芭蕉にしては珍無類の「教訓」を垂れた句と評判が立ちましたが、さて、事実はどうだったか。そこはそれ、素直に「何か言おうとして、口を開ければ、冷たい秋の風が 」と、それだけのこと。花を見れば花を見たと、雨が降れば雨が降ったと、そればかりを詠めばいいもので、教訓めかすのは禁物というのが芭蕉流だったとぼくも思います。「『ものいはでただ花を見る友もがな』といふは、何某鶴亀<なにがしかくき>が句なり。わが草庵の座右に書き付けけることを思ひ出でて」(「真蹟懐紙」)とは芭蕉自身の言とされる。「座右に書き付ける」というのも、芭蕉らしからぬと思わないでもありませんが、それはそれ。

 (琉球新報のコラムに刺激されて、「物言わぬ大人」たちに関して駄文を綴ろうとして、先ず俳聖の一句に意識が及んだだけのこと。以下、「唇寒し」をさらに促すような駄文を続ける無粋・無礼をお見逃し下さい)

 このところ、各地で「首長」の驚くべき「破戒僧」「破天荒」ぶりが目に立ちすぎます。「破天荒とは、元来がだれもしないようなことを初めてする、大胆で不届きな行い」と捉えられてきた表現です。近年は、「首長」たるもの「やらなきゃ、そんそん」とばかりの壊れぶり。この領域では、なんと「男女の別なし」なんですから、ご同慶の至りというか、語るも汚らわしいというべきか。「戒律を破った坊主」には僧にしてはおけぬ(破門)という「掟」がありますが、はたして、正風(性風)乱れる「政治家」はどうか。別名「性治家」と言われても違和感も異論もないような「奴輩」の奔出(ほんしゅつ)に、このぼくでさえも肝を潰し、胸を痛めている。「厚顔」「鉄面皮」「恥知らず」、何と言われようと「蛙の面に小便」だというのですから、風儀・風紀の頽廃・退廃、その留まるところを知らず。なんで有権者は、こんな輩ばかりを選んだんですかと、問いたいほど。誰もが一皮むけば、性に狂うというのもまた、情念か、情動か。まるで「動物並み」ですね。

 かかる「不祥事」続出の理由・背景がきっとあるのでしょうね。もちろん、これまでにも政治家に関わる、数多の不祥事があったが、少なくともその「事実」が露見した段階で、自らの「出処進退」は誰に言われるまでもなく、潔く判断・決断したもの。時代も変れば、人品が下卑て来たのか、有権者を裏切るような行為に及んでも「辞めない、辞めようとしない、辞める気も見せない」、そんな政治家がごまんといる理由や背景は何でしょうか。思い当たる節がないわけではありません。「時の総理大臣」が嘘八百を議会でついて、いけシャーシャーとしているなどは、この風紀が乱れる元凶の一つではなかったか。それも含めて、もちろん短絡してはいけないが、積年の「学校教育」の暗い成(性)果だと、ぼくは考える。頭(点数稼ぎ)ばかりを問題にし、「自制心・注意力」を自らが育てることを疎(おろそ)かにしてきた結果(報い)です。「情念(passion)」という化け物を野放しにした末の社会現象でしょうか。

 この「情念」とは「驚き、愛、憎しみ、欲望、喜び、悲しみ」というデカルトいうところの「六つの基本情念」がもとになっている。あまりにもそれらが強すぎると、人間は自分を失う。前後の見境がなくなるほどに「取り乱す」のでしょうか。これら「情念」はすべからく人間の外からやってきて、その暴力的強さには人間は受け身(passive)であって、やがてその暴力は内部の「情動(emotion)」と結びついて、精神(意識)に「攪乱」「錯乱」「騒乱」を巻き起こす。「カッとなって人を殺める」「殴るつもりはなかった」「セクハラ・パワハラをしようとは思いもしなかったが、気が付いたら、していた」「アクセルとブレーキを踏み間違えた」(これは自動車運転時のことではない、普段の生活においても、踏み間違えるのだ)等々、際限のない不注意人間の不始末と不祥事の連鎖と蓄積です。醜聞や不祥事があまりにも多発しすぎているので、大多数の人々は、それに対して「無関心(apathy)(indifference)」になったともいえるでしょう。反対から見れば、「寛容(tolerance)」になった、そうも言えるでしょうか。もっとはっきり言えば、「そんなん、どうでもいいじゃん」という投げ槍になったのだと思いますね。

 政治家にモラルを求めるのは、ゴキブリに礼儀作法を求めるようなもの。こういう風に言われていいんでしょうか、問題を起こした政治家諸君よ。「子どもの時ははっきり言えたのに、どうして大人は黙ってしまうんだろう」という、その疑問は当然ですが、黙ることが大人の証拠、黙認という受け入れの方法です。つまり、一人前の大人は「清濁併せ呑む」と世間はいうかもしれない。けれども、「清流も濁流も、区別しないで飲み込む」のは「海」、器の大きな大人は「海」のようでなければならないというのであって、ときに及んで「言うべきこと」を言わないで「黙ってしまう」のは、海でもなければ大人でもない、「小人(しょうじん)」である証拠です。「度量や品性に欠けている人。小人物」であります。

 「ここで、それはおかしい」というべきなんだが、それをいうと「恨まれる」し、「青二才だ、子どもだ」と言われる、だから「恨まれたくない」し、「自分は子どもではない」と、わざわざ態度で示しているんでしょうね。その挙措は、「物いへば唇寒し穐の風」という風流とは無関係だと思います。

 「大人の1人として考えさせられる。力のある存在を恐れるあまり思っていることを口にしない。本当は間違っていると分かっているのに黙ってしまう。大人になると、子どもの頃より臆病になるのだと自省する」とはコラム氏。つまり、コラム氏は、あるいは新聞記者だとすると、新聞記者その人が「言う(書く)べきことを言わ(書か)ない」のですから、後は推して知るべし。「間違いをはっきりと言える大人が社会を正しい方向に導く」と、ここでもまたコラム氏は明言している。つまりは、「そんな大人はほとんどいないに等しい」のだから、ますます社会は間違った方向に進むと確信しておられるのでしょうね。春雨が降ろうが、秋風が吹こうが、人心は荒廃し、遺風は廃る一方の我が国民・国情ではあります。「忖度」と「洗濯」は大違いだということ。

 「物いへば唇寒し穐の風」は一つの「風流」であり「風情」です。「パワハラやセクハラ」の如き、拭い難い暴力という「無風流」「野暮」「犯罪」なんかでは、断じて・毛頭はありません。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

「徒然に日乗」(872~878)

 〇2025/10/05(日)お昼前に茂原まで。食パンや牛乳など、それに夕食の食材等を求めた。会計は7千円超。取り立てて高い品物を、それもたくさんの品数を買ったわけでもないのに、この金額。ものみな高騰、そんな期間が長く続きすぎると思う。その大半は「便乗値上げ」ではと疑っている。悪質な間接的「増税」で、この間の物価高騰により生まれた消費税等による税収増は12(15)兆円規模というから、目に余る政治的不作為だ。帰路に、近所のHCで、猫用のドライフードと、怪我をしている猫用のゼリータイプの食糧等の購入。▶気温は30度未満、終日快晴だった。秋らしい天気というのだろうか。しばらくはこの天気は続きそうだが、すでに台風22号が小笠原近海を西に進んでいる。劣島に接近する予想も出ているようだ。▶少し凌ぎやすくなったので、そろそろ室外作業をしたいのだが、まだ高めの血圧が落ち着かないので、様子を見ている状態。低い値で安定するといいのだが、どうしても睡眠が足りていないのが問題だろう。本日も午前3時過ぎには起こされた。▶政権党の「首領」選挙は極右候補者が選ばれたが、この選挙ではY紙M紙が積極的に女性候補に加担して、前首相降ろしの構図そのままに、新総裁選びにも加担していた。つまり、コップの中の争いは、外様(メディア)を含めて、目も当てられないこの社会の政治腐敗構造を醸してきたのだと思う。「裏金議員」も健在、統一教会シンパ議員も同様に居座っている。悪くなりはしても、よくなる気遣いは無駄。。(878)

〇2025/10/04(土)お昼前に猫缶購入のためにあすみが丘へ。前回の購入時にいつものメーカーの缶詰が品切れになっていたので、改めて求めようと思ったから。しかし、前回よりは商品はあったが、全体的には揃っていなかった。どういうことだろうか。それに代わる代用品があれば構わないが、そうでなければ、当面の猫たちの主食が問題になるだろう。ホームセンターに行く前に、これまでたくさんの猫たちの「手術」などで大変に世話になった「動物病院」に、些かの気持ちとしてお茶請け(ケーキ)を少しばかりお持ちした。どれだけのスタッフがおられるかわからなかったが、10個ほどを渡しておいた。この先もどういうことで世話になるかわからないので、これまでとこれからの「ありがとう」「よろしく」の意を含めたつもり。▶午後3時ころから、自民党総裁選挙の投開票が始まり、その結果、(多くの予想を覆して、らしい)女性候補氏が当選。さて、この先の政治がどうなるか、さらに混迷を深めることになるだろうという予感がする。もちろん、いささかの期待も持てない「新総裁」だから、あれこれと暴走・迷走するだろう。国会における首班指名選挙で「首相」に選ばれればなおさら、さらに先行きは不透明だと思う。(877)

〇2025/10/03(金)ただ今午後9時10分。室温24.4℃、湿度69%。すっかり秋の気配だ。一週間前の猛暑が恋しいと言えば嘘になるが、少しは懐かしいという記憶が疼く。▶お昼過ぎに買い物で茂原へ。その帰途に長柄町役場に行く。介護保険料の支払いに。九月は、初旬と最後の「二度の支払い」があったが、月末の分を忘却していたため。結局、九月は3万7千円×2=7万4千円。この割合3.7万円で、年に八回支払うことになっている。介護保険制度が始まってかれこれ25年か。開始は2000年だった記憶がある。これまで25年間、一度だって介護保険利用の申請をしたことはない。支払った金額はかなりになるだろう。それが必要な人が使う、制度の主旨には賛成だが、それにしても、年金生活者には負担が重すぎる。ここにも「政治は不在」というほかない。今後ますます、この制度利用者は急激に増加するだろう。果たして、制度の維持は可能なのか。専門職としてはあまりにも報酬は低すぎるにもかかわらず、きわめて重労働だ。人材の払底は目に見えているが、この問題を十分に視野に入れた行政政策は見当たらない。少子高齢化時代の到来は数十年前に叫ばれた。それ以降、この問題に有効な方針が策定され、実施に移されてきたとはとても思われない。政治の不毛・不作為は、国家・国民にとって存亡の危機だと思う。深刻な問題から逃避しないことを、政治も行政も真面目に心してほしい。(876)

〇2025/10/02(木)午前10時前にあすみが丘の動物病院で、一週間前に「避妊手術」をした猫の手術部分の糸を抜くため。診察の結果は問題ない。珍しいと思ったのは、この猫の手術に関わって三度ばかり病院に来たが、いずれも客はまったく来ていなかったこと。従前の混乱ぶりが珍しく感じられるような、閑散ぶり。偶然だったのかどうか。それはともかく、これで現在の家にいるすべての猫たちの「手術」が完了。総計20回を超えただろうか。あとは猫同士の喧嘩による怪我や、別の理由による病気などに気を付けるばかり。▶午後12時半ころにかみさんを茂原まで。集会があるということで、会場まで送った。運転免許証の再交付は、三週間先。このまま時間が経過しても、果たして運転するだけの技能・活力が維持できているかどうか、かなり危ないと判断している。(875)

〇2025/10/01(水)午前中に猫缶などを買いにあすみが丘へ。いつもの缶詰が不足していたので、中途半端な買い物になった。このHC、なにかと不行き届きがあるのが困る。近所だから利用しているだけで、他に店があれば当然そちらに出かけるだろう。どこの店でもいえることだが、パートやバイト中心で営業しているので、お客本意が忘れられている。この先はさらに悪くなることはあっても、改善されることはないだろう。▶終日はっきりしない天気で、雨が降ったりやんだりだった。東北や北海道ではまたしても集中豪雨が襲ったという。秋雨前線や低気圧の影響だった。この先、はたして、どんな台風が来るのだろうか、今からそれを心配しても始まらぬが、やはり気がかり。(874)

〇2025/09/30(火)ただ今午後8時40分過ぎ。室温25.7℃、湿度66%。いよいよ秋も深まる、の候だ。▶お昼前に茂原まで買い物。ついでに国勢調査票と年金調査の報告書の投函をした。本日で9月が終わる。まるで「釣瓶落とし」の如くに時間は足早に過ぎていく。真夏の酷暑に心身を痛めつけられている間に、季節は回転したのだ。猛暑の疲れが残っているままで、はや神無月。▶政権党の総裁選の愚劣(裏金・世襲・統一教会問題等を不問・無視する)と、経済同友会の代表幹事(違反薬物輸入問題の容疑)のお粗末辞任会見、かかる為体(ていたらく)を見せつけられる国民こそいい面の皮。政治・経済の中枢を担うような役回りだと勝手に思い込んでいた当方が迂闊だったということだろう。それにしてもこの社会や国の根幹は、白蟻に喰われ、イカレタ経済人や政治家に恣に腐らせられ、もはや修復も再建も不可能なまでに破壊されてしまったと、つくづく実感する。堕ちれば堕ちるもの。この先には何が待っているのだろうか。犯罪を疑われている被疑者が政治や経済のセンターに座るのを誰も咎めないとしたら、いったいだれが制裁を加えるのですかと、大声で叫びたい半面、なるようになる、先のことなど分からない、ケ・セラ・セラだな。有権者は誰ですかいな。(873)

〇2025/09/29(月)ただ今午後10時10分。気温26.9℃、湿度65%。終日、とても凌ぎやすい日だった。夜になって、小雨が降り出している。▶午後3時ころになって、突然かみさんが茂原まで行くという。昨日も出かけたアスレチックに行くと言い出した。(免許証の件を問い合わせたら、「警察に行って」と言われたと話す。まだ、彼女の中では免許証滅失の件は進行中だ。そのまま茂原警察に出向き、免許証再交付の申請をすることになった。いろいろと手間取ったが、何とか「再交付」申請を終えて、帰宅。約3週間後に出来上がるという。今回の「記憶喪失」はかなり深刻だと思う。免許証は、あるいは自宅のどこかに入り込んでいるのかもしれないという気がしている。臨時講習会を受講した際に「免許証提示」を求められ、それを返却されて、そのまま講習受講関係の書類の入った封筒に入れたのかもしれない。失くしたという話を聞いた段階で、臨時講習を受けた日付を確認したいので、何時だったかを尋ねたが、それがわからなかった。その段階で免許証が行方不明になったのかも。明日はそれを再度、再調査してみるつもり。すでに再交付申請をしているから、念のための「事情」確認のため。(872)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII