緊急事態はどこにあるのか

 いま現在、アメリカには強烈な順応主義がはびこっています。九月十一日の攻撃の成功に、人びとは驚愕し、衝撃を受け、怯えています。最初の反応は結束すること(列を引き締める[close ranks]いう軍隊用語を想起させる)、そして愛国心の再認。あたかも、あの攻撃により、愛国心に自信がもてなくなったかのように。国じゅうが国旗に覆われています。アパートや家の窓から国旗が垂れ、店やレストランの表に国旗が掲げられ、クレーンやトラックにも、カーラジオのアンテナにも国旗がたなびいています。アメリカの伝統的な暇つぶしだった大統領(それが誰であれ)の揶揄も、愛国心にもとると決めつけられるようになりました。

 何人かのジャーナリストが新聞や雑誌から解雇され、ごく穏やかな批判的見解(攻撃当日のブッシュの謎の失踪に疑問を投げかける、など)を授業で述べただけで、公に譴責を受けた大学教師もいました。検閲のなかでももっとも重大にして効果のある自己検閲がそこここで行われています。討論を展開すれば意見の相違と同一視され、さらに意見の相違は忠誠心がないものと決めつけられます。この新たな、先の見えない緊急事態では、従来のさまざまな自由の保障は「贅沢」かもしれない、という思いがひろがっています。世論調査によると、ブッシュの「人気度」は九十パーセントを超えそうですが、旧ソ連型の独裁体制の指導者たちの支持率にほぼ近い数字です。(スーザン・ソンタグ『この時代に想う テロへの眼差し』木幡和枝訳、NTT出版刊、2002年 In Our Time, In this Moment) 

9.11後のアメリカの恐怖を感じさせる「順応主義」についてのソンタグ(Susan Sontag 1933-2004)の発言です。

 アメリカのことはともかく、こちら側でも「愛国心」の押し売りが始まっています。「お国のために命を投げ出すことができる人間を作る」そんな教育をするためにこそ、教育基本法を改正するんだといわぬばかりです。二十年前の話です。

 おりしも、この島では教育基本法「改正」問題が論議を呼んでいました。(2006年12月、ABE内閣(一次)時に改正)

 《自民党と公明党は全面改正の「基本法」案分の調整を進めています。「国を愛する心」の表現は、自民が「伝統文化を尊重し、郷土と国を愛し、国際社会の平和と発展に寄与する態度の涵養」とした。一方の公明は、自民の「郷土と国を愛し」の部分を「郷土と国を大切にし」とする案まで譲歩した》(朝日新聞・04/06/10)

貴重な読書経験をしました

 ゴミみたいな話ですね、「愛する」と「大切にする」とにどんなちがいがあるんですか。汚く言えば、「目くそ鼻くそ」。どっちにしても、どうあってもこの文句(「愛国心」といわれるもの)を「基本法」に書き加えたいというのですね。

 この島の「指導者」は米国の後塵を拝するのを国是(正確には島是)にしてきたし、いまはもっと後塵を吸引すらしているのです。「感染」もまた政治なんだ。ブッシュジュニアに尾を振った総理がいました。

 そして、今現在の状況です。ソンダク指摘するところの「体制順応主義」がはびこっているのは彼の国、彼の地だけではない。ほぼあらゆる問題について、わたしたちの社会(島)でも、多くの人はじつに従順です。異論を唱えながらも、従順なんだな。「この受け身の姿勢は、リベラルな資本主義と消費社会の勝利の当然の結果なのかもしれません」(ソンタグ)

 そういえば、アメリカには二大政党があるといわれているけど、「この二大政党はじつは同一の党の二派」なんですね。イギリスもご同様。この島のいくたびかの総選挙で、「二大政党の時代、政権交代の可能な政党政治」がさけばれましたが、なんのことはない、同一政党の二つの派閥にすぎなかったというわけ。それは今に至ってじつに明らかですね。

 現下の「コロナ禍」問題では、何を血迷ったかといいたいほどに、「要人」どもは人民を煽りに煽っています。敷島の東西南北、まことに危機意識過同調強制のオンパレードです。この問題が発生した当座、心配はいらない、大事なのは「正しく恐れる」なのだとしたり顔でノタマッテいたお歴々が形相も凄まじく「緊急事態宣言を」、「バカ殿、決断なされ」と。ロックダウンだのオーバーシュートだのと騒ぎに騒いでいるうからやからの胸の内こそが「緊急事態」じゃないか。「正しく」でも「正しくなくても」でもかまわない、恐れる必要はない。恐れるべきは、この機に便乗して人民の心や情緒を蹂躙する輩の赦しがたい姦計なんだ。誠実を装う不誠実が横行している。 

 いよいよ異論も討論も許されない雰囲気が劣島に充満しかかっています。「大本営」発表を露疑わないという、この愚愚愚。旧来式のme-tooism(右に倣えば、怖くないね)という無責任な風潮を断ち切れるか。一人ひとりが自主性かつ自守性を奪われないようにしたい。都都逸には「毒」があるんですね。でも高熱も咳も伴いませんし、肺炎なんぞにはまず無関係ですね。いいとこrは、精神の気概を保ち、かつ伸ばしてくれる点です。

 嫌なお方の親切よりも 好いたお方の無理が良い

 野暮で渡れる世間じゃないが 粋で暮らせる世でもない

学校が兵営でない限り(承前)

 内には立憲主義、外には帝国主義を標榜していた日本、世に「大正デモクラシー」と称され、あるいは民本主義が唱われていた時期、それが大正という時代でした。多くの師範学校出身教師たちはこぞって「新教育運動」に参画しようとしていたのでした。

 上庄さんが教師になったのは大正三年、すでに彼はデューイをはじめとする「児童中心」の教育実践を試みていた。「児童の自由を尊敬しようとするには、教育者は自ら自由人でなければならぬ」というのが彼の心情となっていた。それは当時にあって、「国家の教育」「国家の教師」というくびき(規制)が勢いを増して学校を支配していたことの証明でもあったでしょう。教師の自立、教育の自由の達成、それは個々の教員の努力や情熱だけではとうてい達成できないものであった。そこに「闡明会」は生まれたのです。

 「たとへ正当な主張要求も、少ない力では蹂られるから、蹂られないだけの力を為すために団結である」(「闡明」創刊号)

 視学の訃を聞いた時、僕でさえ涙を感じた。けれ共それは単に視学の死を惜しむ涙ではなくて、衷心おしむことの出来ないこおとを悲しむ涙であった。(中略)

 人間が人間の死をかなしみ得ないほどの悲痛がまたとあろうか。(「闡明」)

 その後、上田庄三郎さんは幡多郡益野小学校(現土佐清水市)の校長になりました。二十七歳だった。赴任当時、焼失して校舎がなかった益野小学校で、彼は校舎のないままで森や野原、あるいは神社や空き地を利用して縦横無尽の活動を子どもたちと展開するのでした。

益野小学校(2009年に廃校となりました)

 彼はそれを「益野自由学林」と称し、詳細な「益野小学校経営案」を立案します。

 「全教育方針」と題して、次のような教育哲学(原理)を鮮明にします。

・学校全体にわたる教育方針は全校教師児童の総合意志によって樹立せられ、校長はこれの実現の任にあたります。

・右の方針は固定せられたものではなく、むろん、全校教師と児童とはこれが批評と改造の自由と責任とを持っております。

・校長は常に自分の教育精神を深刻堅実偉大に成長させ、自分の人格の威力を逞しくして、全校教育の清新自由な活動を生起させる淵源と自負して居なければなりません。

・どこまでも純真なる愛、どこまでも自由、そうして児童の全意欲が健かに生きてひしめく「子供の国」にしたいと云うのが理想です。(原文は仮名書き)(著作集①『大地に立つ教育』所収、国土社刊、1978年)

 校長として再建運動に奔走したわけでもないのに、やがて住民からの強い要求によって校舎は新築されました。ときに、大正十三年四月でした。その際に語られた上庄校長の「謝辞」が教え子の西村政英によって書きとめられています。(西村著『魂をゆさぶる教育』)

 「学校が兵営でない限り、学校が牢獄でもない限り、子ども達に最大の自由が認められ、最大の創造心を培う殿堂であらねばならない」

   「 およそ子ども達の自由と創造の天地と殿堂を壊し、これに圧迫を加えようとするものは、もはや、教育というものではなく、また教育を語る資格はない。自由と創造のない処、学校というものは不必要である」

 ひとりひとりの心身に深くかかわる教育は国事(国策)そのものなのでしょうか。この時代のこの国において、なお教育は私事にきわまると、ぼくは考えている。私事といえばただちにわがままで自分勝手な、と非難されそうですが、それは浅はかな言い分だと思う。

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

うその世界から来た私が

 十一年私の精励した教員社会というものは、溌剌たるライフに遠ざかること、土方社会、馬喰社会以下であると断言したところで、あながち私の悪口雑言癖だと、一笑に付するには当るまい。否それは正しく、私の誠実と真面目の実証なのだ。それが私の生まれつきででもあるかの如くに、私はそこで間断なき反感と憎悪の中にしかめつらばかりしていなければならなかった。世に拗ねてばかりいなければならなかった。これ以上いたら恐らく私は、到底、再生復活の見込みのない迄に硬化した木人参になってしまうところだった。(中略)

 私の啄木はうたう。

  こころよく我にはたらく仕事あれ それを仕遂げて死なんと思ふ

          (上田庄三郎「土を離れて」『大地に立つ教育』所収、1938年) 

 上田庄三郎(1894~1958)。高知県土佐清水市出身。小砂丘忠義とともに高知で教師生活を送っている中で、いわば県教育界から追放されるがごとくに、上京し、新たな視野を開いた人でした。いまでは、二人ともに忘れられた日本人です。彼らは教師の本領を発揮することがどんなに権力と衝突し、その抑圧を受けるか、その見本のような人物でした。

  貧乏の家に生まれて店奉公 夜な夜な泣いた十六の頃  (庄)

 明治四十三年に高知師範学校に入学。大正三年四月、母校の岬小学校の訓導に赴任。三年後に下川口小学校に配転される。この間に、着々と県視学の間に「上庄、度し難し」の素地が作られていきました。

 私が君等から「先生々々」と呼ばわるようになったのは、去年(大正九年)の四月か らの事だ。それまでは全く知らぬ人間同士であった。初めて君等に逢った時はいやに私が偉そうに勿体ぶっていたねえ。でも君等はすぐに信じきったように知らぬ私を「先生」 と呼んでくれた。そこではじめて君等を生徒だと感ずるようになった私だった。

  是から一年余りの間に、私は君等に何を教えることが出来ただろう。私の心はそれを耻(はずか)しがっている。うその世界から来た私が、君等にうそを教えはしなかったとどうして断言することができよう。うそばかり教えていたのだ。私は君らにうそを教えた。そのかわり君らは私にほんとうを教えてくれた。何という恐ろしい代償であろう。うそで曇っていた私の心が君らの神さまのようなほんとうの心に清められて、ようやくほんとうに甦ろうとしているのだ。今私の心はまるはだかになってほんとうのすがたを、君らの前にあらわしたさでいっぱいだ。それで私はこの誓言を書く。(上田庄三郎「土の子供と語る」『大地に立つ教育』上田庄三郎著作集①所収、国土社刊。1978年)

  「私が初めてこの学校へ来たとき私は君らの前に立たせて校長先生が言ったっけ」

上田に師事した西村正英著「青年教師上田庄三郎」

「ここに見えられるのは上田先生と云われます。上田先生。…お生地は三崎で六年前にK市の師範学校を優等で卒業せられましてから、郷里の三崎に三年下川口に三年と郡下有数の大きな学校ばかりおいでになりました。私はいつかああいう立派な先生をお迎えしたいと始終思っておりました。今多年の希望がはたされまして非常に悦ばしく思っております。皆さんも…」

   この驚くべき虚の挨拶にびっくりした私は何を言ってよいかわからなかった。

 「只今校長先生の云われたのはみんな虚です。ああして私を偉そうに思わせようと言っとるんです。あれは大人がよくするお上手というものです。君らはどんなことがあっても心にもない嘘をいうものではありません。嘘は人間を傷つけるものです。今私の魂はあきらかに傷つけられました。」(同上)

 子どもたちの前で「校長の嘘っぱち」を暴露したものだから、狸校長はジロッと上庄さんを睨んだそうです。じっさいのところ、校長は彼が赴任してくるのを望まなかった。「あんな理屈をいうのがくると困るな」というのだった。

 上田さんはただちに教師の権利を守るために「闡明会(せんめいかい)」なる団体を結成します。

 「放課後の職員室に居残って、「闡明」の原稿を書き、手を真黒にして印刷することは、歓ばしい労働である。それは誕生の歓喜であり、創生の法悦である。

  闡明は営利を目的とする内職ではない。勿論危険思想の掃き溜めでもない。僕等二十有余の同人が、内的に外的に加えられたかも知れない児戯的迫害によって、新生命の、止むに止まれぬ顕現である。自我の向上と会の発育とが握手する処とに新味を有する「闡明会」の同人が、会に対する、同時に自我に対する最高の奉仕である」(「闡明」第一号、大正九年六月)(大正九年三月に同人の多くが「不意転(意に添わぬ、強いられた転任)」にあっている)(つづく)

*上田庄三郎氏の文章中には、今では明らかな「差別表現」と言うべきものが認められます。初読時には驚きを禁じ得なかったし、同時に「上庄」にしてと落胆したのでした。引用に際しては「訂正」すべきだったかもしれませんが、当時の状況や彼の仕事(実践)の性質等を考えそのままにしたことを断っておきます。

他者に対する尊敬心は

 いつもながら、芸のないことで、はなはだ恥ずかしい限りです。以下の引用は司馬遼太郎さんのエッセイ「赤尾谷で思ったこと」からの長い引用です。あるいは全文を引いてみようかとも考えたのですが、なにかと障りがありますので、それだけはやめにしました。

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 越中庄川の上流に、赤尾谷という冬は雪にとざされる村がある。その村の宿にとまったとき、赤尾の道宗のことなど、あれこれおもった。赤尾の道宗とは、/「ごしやう(後生)の一大事、いのちあらんかぎりはゆだんあるまじき事」

 という文章ではじまる「赤尾道宗二十一箇条」を書いたひとである。室町期のひとで、文章には文亀元年(一五〇一年)何月と日付が入っている。かれはよく知られているように、在郷の念仏信者で、蓮如に親炙した。道宗においておどろかされるのは、人間が人間に対してこれほど尊敬できるものかということである。

 道宗は京からみれば僻遠の山中にいながら、年に何度か京へのぼって蓮如のそばに侍し、その法話を聴いてよろこぶだけでなく、蓮如の息の仕方から洟のかみよう、あるいは蓮如が無言でいるときのたたずまいにいたるまで、そこに何事かあるがごとくに感じとろうとする姿勢をとった。たまたま蓮如と道宗がいた世界が、分類的にいえば宗教の分野であったがために、われわれはこの両人の関係を、特殊な精神の感作や感応のおこなわれる世界として棚にあげてしまいがちだが、それにしても道宗の蓮如への傾倒はすさまじすぎる。

 あるとき、はるばる京からもどってきて、この山中の自分の屋敷の縁側に腰をおろし、わらじを解こうとした。このとき京で忘れものをしたことに気づく、そのままわらじを結びなおしてふたたび京の蓮如のもとにっむかって発ったというのである。忘れものというのは、自分の妻女に頼まれていた事柄であった。妻女はかねて道宗に、「こんど京へのぼられたとき、自分のような者にもわかるような御言葉をちょうだいしてきてほしい」とたのんでいたのだが、道宗はそのことを忘れて帰国し、妻女の顔をみて思いだしたのである。

 この挿話は、百年前までの日本の社会にいた者なら感動したかもしれないが、現代ではむしろ滑稽感さえつきまとう。現代というのは、人間が人間を尊敬せずとも済むという思想もしくは機能をふくみこんでいるようである。子供があすは遠足だという場合、晴れなのか雨なのか、かつては母親にきいた。もしくは自分で即製のマスコットをつくって祈るという、軽微ながらも敬虔の念をもつ体験をした。そのことが、こんにちの機能性に富んだ社会では、母親もマスコットも必要とせず、さらにはそれと同じことを繰りかえすようだが、仰いで恃み入る姿勢を必要とせず、電話機に命ずればそれで用は完結するのである。子供にとって受話器のかなたからひびいてくる声に対し尊敬したり感謝したりする必要はなく、子供はその声を使用するだけで済む。子供が主人で、声は奴隷の立場にある。子供たちは万事、このような社会にいるのである。

 以前の社会はそうではなかった。/ ひとつの原形として原始社会を考えれば、猪を獲る方法を身につけるには、村の名人に肌身を接し、赤尾の道宗が蓮如に対してそうしたように、名人の呼吸の仕方から咳ばらいの仕様、または山歩きするときの足腰の動かし方にいたるまで吸収せざるをえなかった。その吸収の仕方には方法というものがなく、その名人を全人的に尊敬してしまう意外になかったであろう。尊敬するという姿勢をとるとき、体中の毛穴までが活動し、何事かを吸いとることができるように思われる。

 人間が生物としてはかない面があるのは、通常孤立して生きてゆけないことである。人間は人間との関係において生存を成立させている生物である以上、古来、自分以外の何者かを尊敬するという姿勢を保っていることによって社会を組みあげてきたように思える。

 ちかごろ、若い母親が嬰児を殺したり、妊娠中にノイローゼになって自殺するといった事件が多い。その事例のほとんどが核家族においてあらわれているという。医者たちのいうところでは、一般に出産や育児に自信がもてなくなったというのがその心因であるらしく、こういう種類のノイローゼは原始社会以来、ごく最近までなかった。老人の体験や知識に対する尊敬心をうしなったためにその助言や助力を得られず、頼むところのものは市販の育児書だけであり、その関係はさきにふれたダイヤルをまわせば天気予報がきけるということに似ている。育児書の活字は、心のささえや、信頼すべき老人たちがおしえてくれるたかのくくりかたまで教えてくれないのである。このことも、人間が人間に対する尊敬心をもつという原始以来の習性をうしなったための、大げさにいえば文明史的な不幸というほかない。

開基とされる行徳寺

 教育の場では、子供たちに批判する心を育てねばならないが、同時に人間を尊敬するという心の姿勢もあわせてもたさねば、健康で堅牢な批判精神というものができあがらないであろう。(中略)

 つい赤尾谷の宿で考えたために、道宗という重い例を持ちだしてしまったが、私がここで触れたかった課題はもっと軽い。人間が他の人間を尊敬するというこの奇妙な精神は、人間の生存のために塩と同様重要なものだということを言いたかっただけである、むろん血液の中の塩分がそうであるように少量でいい。それがもし人間の社会からなくなってしまえば、この生物の生存関係としての社会はごく簡単にくずれ去ってしまうにちがいない。そういう恐怖感をちかごろもっているのである。(『司馬遼太郎が考えたこと7』新潮文庫、2005年刊)(初出は1973年3月)

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 「人間が人間に対してこれほど尊敬できるものか」、これがこの短文の核心でしょうが、それはまた同時に「人間が他の人間を尊敬するというこの奇妙な精神は、人間の生存のために塩と同様重要なものだ」という問題に直結しているのです。学校教育の不毛を嘆くのは当然として、その先に、後でもいいのですが、血中の塩分と同様に、人と人の間に「尊敬心」という別種の塩分が枯渇しているという恐怖心をいだくのは健全な心持だと思う。でも、その社会生活に不可欠の心持が多くの人々の中に育てられていないという状況に対する警鐘でもありました。

 司馬さんの鳴らした警鐘乱打はやむことがないのです。その不幸の真っただ中に、ぼくたちは暗夜に手探りしているわけです。「尊敬」というのはなにか高尚なものをいうのではないでしょう。相手に対する「慮(おもんぱか)り」とも「思いやり」ともとらえられるものです。少しばかりの気づかいです。たがいが「少しばかりの気づかい(配慮)」を失って、他者と暮らすとはどのようなさまをいうのでしょうか。

 道宗は生年は不詳、1516年に没。富山県五箇山赤尾谷の人。妙好人(在俗の篤信者)とされます。「妙好人」*とは浄土宗や浄土真宗における篤信者をさす言葉で、とくに浄土真宗では俗世にある篤信の人を言いました。

*「真宗を中心とした浄土教の篤信者のこと。《観無量寿経》が念仏者を〈人中の分陀利華(ふんだりけ)〉とたとえたのを,唐の善導が《観経疏散善義》で注して,〈人中の好人,人中の妙好人,人中の上上人,人中の希有人,人中の最勝人〉と称したのに始まる。本来は念仏篤信者に対する褒賞語で,法然,親鸞,一遍などもその意に用いたが,江戸時代末に《妙好人伝》が板行されて以後,とくに真宗の在家念仏者の篤信家を指す語となった。そのほとんどは農民を中心とする庶民的な念仏者で,その生活がすべて念仏中心に展開するのを特色とする」(世界大百科事典第2版)

 若い時に、五箇山には当地出身の友人に誘われて一夜の宿、地酒(三笑楽?)をたしなみ、翌朝は二日酔いのままにひどい雑談をしてしまいました。ぼくよりはるかに年上の方々(何人おられたか、百人は越えていました)を前に「山の人生」から学ぶというような暇話でした。

 この文章を書かれた時代、司馬さんはまだ四十代だったと思われます。じつに溌剌としていました。その後はすこしどころか、まことに偉大な存在となられたのか、ぼくにはわからない部分も出てきましたが。しかし、よく読みました。肩や肘に力みのない文章(表現)にはずいぶんとあこがれたものです。関西人(兵庫生まれの大阪育ち)の軽妙洒脱・洒落っ気もほどよい加減でありましたね。

「家」崩壊からの旅立ち

 「人間の能力は対等ではない。競争して他人をけおとす場合もあるだろうし、力のない他人がほろびるのにまかせる場合もある。だが、能力のちがいのある相手を助けようという気組みが生じる時、家らしい間柄が生じる。その気組みなくして、家はうまれないし、守れない。血のつながりとか生殖という事実は、はじめの動力になるとしても、家をつくり保つための十分な条件にはならない。

 私たちは、それまでにくらべて格段にゆたかになった一九六〇年代以後の日本で、このごろさかんに子ごろし、親ごろし、妻ごろし、夫ごろしの新聞記事を読む。家庭とは、他人をもっとも殺しやすい場であることは、前にのべた。他人の家におしいって殺すよりは、おなじ家の中にいて殺すほうが、はるかにたやすい。殺人のもっともしやすい場にあって殺さないという規約を守り、たがいにそだてる―そだてられるという間柄を長い間にわたって保ってゆくためには、原爆にうたれてにげまどう群衆の中でおとなと子どものあいだにめばえた助け合い、巡礼遍路のゆきかう道ばたの宿屋で生じた助け合いとよく似た気組みが、男女の性交・生殖・血縁をいとぐちとしてあらわれることが必要だ」(鶴見俊輔「世代から世代へ」)

 「原爆にうたれて…」というのは『黒い雨』、「巡礼遍路のゆきかう…」は『へんろう宿』という小説で克明に書かれている「赤の他人」の交わりや支えあいのことで、いずれも井伏鱒二(1898-1993)の作品です。一読をすすめたいですね。

 明治以来、あるいはそれ以前の「家制度」が壊れ、家族関係が壊れてしまったのは事実ですが、家や家族関係を成りたたせていた地域そのものが破壊されてしまったことにもっと大きな理由を求めたいと思う。たがいにもやい(舫)ながら、大海に浮かんでいる小舟集団が村なり地域だとするなら、たった一軒・一家だけが安全であるなどということはありえない。好いも悪いも、一蓮托生、それが支えあい、助け合う関係をむすぶという意味でしょう。地域が根こそぎ引き剥がされたというのは、そこに根づいていた文化、それは人間関係をなりたたせる(生活環境)万般を含むものですが、その文化(生活の仕方・土台)が押しつぶされたということです。 

 土地を奪われ、土地に住みついていた人間の生活が奪われるとはどういうことか、それをわたしたちはいまになって思いしらされている。悪質な政治行政の心ない仕業でした。文明開化といい近代化といわれて、多くの人はその行く末に疑問をもたなかった。政治や行政の暴力はさらに加速しています。そのセクターに勢力を与えているのはだれか。

 ぼくはいま、自治行政単位で言うと「町」に住んでいます。本当は「村」や「郡区」ならもっとよかったんですが。つまり、島全体を統治する行政(政府)は明治以降、なんどかにわたり市町村制度を「整理」し、村や町や市をできるだけ少なくする「市町村合併」なる地域社会の破壊を繰り返してきました。その根っこにはいくつか理由がありますが、住民本位ではなかったのはたしかでした。村より町、町より市、市より都市という素朴かどうかわかりませんが、なんかハイカラになった気のする一部住民の一瞬の気分を悪用したんじゃなかったか、とぼくなんかは思ってしまう。

 地名の無意味な変更もコンビニ感覚で行ったでしょう。それはまるで、イ、ロ、ハだの甲、乙、丙だの、一、二、三だのと歴史を根こそぎ無視するかのような悪質きわまる変更でした。地名を安易な名称に変え、村を町に変えただけではなかった。そこにしか育たなかった文化や歴史までも殺したのでした。柳田国男という人はさかんに「家殺し」「家の自殺」のことを指摘しましたが、それは今に至っても底しれない痛みや苦しみを民衆に与えているのではないでしょうか。核家族もまた「家殺し」だったのか。これはたんなる家制度のことではありません。 

 学校崩壊 ― 不登校児の大量発生、いじめ(暴力行使による排除)の横行、授業(教室)の崩壊などは、学校にのみ発生する現象なのではなく、学校をくるんでいる地域社会、あるいはそれをも取り巻いている社会全体に生じている状況の、学校内への反映にほかなりません。生徒が教師や同級生などに暴力を振るう、教師が生徒に対して暴力に訴える、それは毎日どこかで起こっている暴力事件が学校にも起きたというだけで、不思議でも異常でもないのです。親が子を殺し、子が親を殺す、これも事情は同じです。

 家であれ、学校であれ、はたまた地域社会であれ、そこではひとがひとに育てられ、ひとがひとを育てるというしっかりした文化という名の「生の営み」が息づいていたと思われます。それが目先の豊かさ、モノの大量所有・消費に心を奪われた結果、気がついたら取りかえしのつかない荒廃を招いてしまっていたのです。覆水は盆に返らず、ですね。 

 「育てる」と「育てられる」の代わりに登場した、「勝ち負け」を競い合い、「優劣」を比べ合う学校教育が家庭内にまで及んできたことは事実です。学校をとりまく大きな社会に蔓延している競争主義とそこからの脱落を悪(弱)とする風潮が、教師も親も子どもをも取りこんでしまったのです。そこから抜けだす糸口があるのかどうか。歴史を遡ること。

 いったん壊れてしまった家族のかたち、それを旧に復することはまず不可能です。ではどうするか。助け合い支えあうことでなりたっていた家族の関係(かたち)が壊れたという事実から、なにが見えてくるか。なぜこうなったか、を問うこと。

  親から子へ、子から孫へと生の営みの大切な部分を受け渡す機能をもっていた家庭から、その機能が完全に失われてしまった。だから、それに代わる受け渡しの場をどこかで設けなければならないということ。しかし、その機能を学校が担うのはきわめて困難であるということ。これだけはハッキリしています。

 「格差」問題があちこちで取りあげられています。それに関して、少し旧聞に属しますが、こんなインタビュー記事が新聞に出ていました。いつでもこんな問題にぼくたちは直面しているのです。(朝日新聞・07/04/28)

 ― 日本社会はこれからどういう方向に行くのでしょうか。

 「いまは、どこかをまねしたら道が開けるというものはない。自分で考えることだ。おまえはどう考えているんだ、と問いを突きつけられている状況だ。自分は、頼りにならない、ろくでもない政治しかないと思っているから社会や文化の革命はどうしたらできるかを考えているが、日本はまだしばらく、でれでれとしながら行くんだろうと思う。強制力がある政治になればまた別なのだろうが、政治が変に強制力を持っても良い社会になるかどうかはわからない。人が大人になっていくように、他人や弱者のことを考えられる、身近な平等が確保される、そういう成熟した資本主義になっていけば、まだましということかもしれない」(と答えるのは吉本隆明さん)「一人ひとりが孤立し、家族も地域もバラバラというのは米国型社会、資本主義の良くないところも全部まねしたからだ」とも。

 この十年以上も状況は変わらなかったどころか、悪化しています。隆明さんの予言(予見)はみごとに外れたといいますか。いや「予言」なんかしていないし、できなかった。考えなければならないのは、「家」「家制度」そのものであることは明白です。従来言われてきた「家」は崩壊しました。いまではその形骸のみが残存していますが、まだあらたな「家」に代わるものが生まれていないように思われます。「家庭」「家族」「ホーム」「ファミリー」と、それらしき言葉はさまざですが、さて、自分はなにごしっくりときて望ましいのか、もうこの探索の旅は始まっています。

 身近な所から、手近なことから水平・平等を実現するという方向をねらう、はたしてそんな道が開けるか。自分だけが豊かになってもしょうがないじゃないか、と他者の立場に自分を置いてみる。勝ち負けというその発想自体がどうにもぼくには我慢なりませんね。沈没寸前の船の上で「勝った、負けた」と、アホぬかすな。

   山に登れば淋しい村がみんな見える (右は尾崎放哉・1885-1926)

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教育界の不良児

 一人の巨人がいた

 小砂丘忠義(ささおか・ただよし)。この人もまた、いまでは「忘れられた日本人」です。高知県の出身。生年は1897(明治三〇)年。後年、「生活綴方の父」と謳われた人物です。大正二年、高知師範学校に入学。

 「一体私はうけてきた師範教育をありがたいとはそんなに思わぬ代わりに全然之を牢獄の強制作業だったとも思わぬ。ただ時がまだ、官僚気分のぬけきらぬ、そして、自然主義前派の馬鹿偶像礼拝の気の濃い時だったので、今考えて、まだまだ修業の足りない教師のいたことは事実である」(『私の綴方生活』)

 大正六年四月にみずからの出身校であった杉尋常高等小学校に赴任します。たった一学期間いただけで、短期現役制度*により現役入隊(六週間)することになりました。

 *兵役法に定められた師範学校卒業者に対する兵役上の特典。1889年の徴兵令大改正ののち,師範学校の卒業証書を有する満28歳以下の官公立小学校教員は6週間現役に服したのちただちに国民兵役に編入する6週間現役兵制が創設された。当時一般の兵役が現役3年,予備役4年3ヵ月,後備役5年の服役後に国民兵役に編入される制であったことにくらべると大変な特典であった。この制は1918年に1年現役兵に改められた。27年の兵役法により,さらに短期現役兵の制に改められた。

 「イヤナ軍隊。殺風景ナ軍隊。軍隊ハ非常ニ殺風景ナリ。今夕フットカウ感ジタ。上官ハ大声ニカミツク様ニ叱リツケツツ呼バハリタリ。喧タリ。戦友何レモ無造作ニ大声ヲタテツツアリ。価値ナキモ馬鹿言ヲ繰リ返セルナリ。ソレデ平気ナリ。聞キ居ル人モ平気ナリ」(「軍隊日誌」)

 かならず上官が検閲することになっていた「日誌」にこのように書くのです。六ヶ月のあいだそれは一貫していました。中尉からは「日誌ハ最劣等タルヲ免レズ」と酷評されたのですが、時代がよかったのかいっさいのお咎めはなかった。「作字文章共ニ不可 然レドモ永久重宝トナスベシ」と書いたのは連隊長だった。これはどういうことだったのか。かれはいさんで学校にもどります。

   不寝番立ちてたまたま持つチョーク 思い出さるる教え子どもら

 欠点だらけの人間の仕事である

 小砂丘さんの言葉をつづけよう。

 《謝っても謝りきれぬ大きな罪悪を愛する子どもの上に毎日毎日皮をはがしてまでうちつけているかもしれないとは何という残酷な矛盾の多い、情けないことであろう。

 デリケートな感能に生きる子ども達に、涸れはてた荒びぬいた、僻みきった、乾涸した感情を以て大人の吾々がはたらきかけるのが教育だと考えたとき天下幾万ののびゆくものが艾除(がいじょ)されていることを思う時、何として、吾人は平気で仕事ができよう筈がない。(中略)

 自己の行為に対してあくまで責任をもち得るだけに深い生を続けて欲しい。教育精神なるものもここから生まれてこよう》(『極北』二号、1921年2月)

 欠点だらけの人間の仕事、それが教育者の実践だと小砂丘さんは言います。万全(完全)を期すことは望むべくもないけど、「期すべからざる万全を目あてに進む所に生の意義を認めるものである」ともいいます。教育を考えようとする人間がみずからのみにくさを自分にかくさない、その程度には美しくありたいと願った人間の肺腑の言だと読んでみるのです。

 彼は教師になった当初から教育雑誌を作ります。その面では大きな才能をもっていたといえる。「極北」もその一つです。そこに彼は「校長論」を展開します。大正十年頃のことでした。その要点は以下のとおりです。

 「所詮は校長その人に眼ざめて貰いたいのだ。そして今少し教育精神を根強いところから樹立してかかってほしい。師範学校を卒業する迄にお習いした人の道なるものは私にとってはこの上ないあやかしいものだった。そして私は一切合切根本からそれを放り捨ててしまった。そしてそれからこの『極北』が生まれ、これから他に何かが生まれる筈である」 「平素部下にはよいが一度その筋との交渉に及べばグニャリとめげこむ校長もある。自己吹聴のために部下並びに生徒を見せ物扱いする校長もある。きついことも言わぬが、いざと言う段取りになって鎌の切れぬ校長もある。わけはわからずとも其の地方の重鎮とて無闇に何のかのと勿体をつけて議論する校長もある。

 何れ挙げ来れば無数の種類があるだろう。小砂丘式に一括すれば、みんな何かにあやつられている人形である。自己ない自己である」

 あやつられ人形はいたるところにいます。だから校長もそうであっていいのだとはいわない。じゃあ、どうするか。小砂丘さんは校長職に期待したのではなかった。ひとりの人間に期待したのだ。それにしても「自己のない自己」がのさばる(というのも変な表現だが)という風潮に今昔のちがいはなさそうです。

 出る杭は打たれる

 「小砂丘などのいうことは他人の悪口ばかしで三文の値打もないと附属の一先生がいっている。しかしそれが何だろう。値打があるかないか、それはその先生などの頭で考へられる性質のものではなく、もっと高いものである。私は云うべきことをいい、聞くべきことをきいてゆく。世間がどう云ったってよいことだ」

 「私を教育界の危険人物、不良児だとして罵る者も沢山ある。それが何です。つまり私がいることも一つの事実だし、その人々の云うこともすでに一分一秒過去になりつつある出来事です」(「雪隠哲学」)

 出る杭は打たれる。小砂丘さんは師範時代から打たれつづけていたといっていい。「しかしそれが何だろう」という姿勢は生涯にわたって失わなかった。なぜか。いわずと知れていることです。腐りきった教育界を根底から崩そうとしたからです。

 かれは足かけ九年の教師生活中に学校を七回も変わりました。変えられたというのが本当でしょう。あまりにも器量が大きかったからで、その器量を嫌うばかりで、使いこなす校長や視学(教育委員会幹部」がいなかった。

 大正十二年三月、今回はみずからの意向で転任します。妻の父親が病気になったので、その看病の都合を考えてのことでした。その際、視学との間で「契約」を交わします。

 1、雑誌「極北」をやめること(教育界のゴミ掃除のための雑誌でした)

 2、吉良、中島(二人は友人だった)とは絶交すること

 3、頭髪をのばさないこと

 4、中折帽をかぶること

 このような「契約」をどうみればいいのか。同時期に師範学校に在学していた妻の妹に対して学校当局は「小砂丘たちとはつきあうな」と注意したそうです。

映画「綴方教室」
(東宝・1938年)

 さて、小砂丘と義理の妹は、それぞれの「契約」「注意」に対してどう出たでしょうか。

 中休みのつもりで、小砂丘忠義さんの俳句をいくつかを以下に。

 大芭蕉悠然と風に誇り鳴る     破れ裂けし芭蕉葉にふり注ぐ雨

 涸れ沼に崩折れし葉あり大芭蕉   巨葉鳴らし風呑まんずと大芭蕉

 大芭蕉葉鳴りゆたかに風をのむ

 いまではまったく忘却の彼方の人となった感があります。これは当然のことで、去る者は日々に疎し、という鉄則のなせる業でもあります。だが、それゆえに、忘れようとして忘れられないという思いに駆られる人がいるのもまた事実です。小砂丘忠義さんに思いをはせる人がいろいろなところにいるのは当然です。

 戦後のある時期までさかんに支持された「生活綴り方教育」も、すでに島社会の教室から姿を消してしまいました。断定するのはまちいかもしれませんが、まったく教育の方法としては昔日の姿や形が消えているのは事実でしょう。それゆえに、このような独り言じみた駄文の片隅にでも記憶(記録)を残しておく酔狂も許されていいとぼくは一人で合点するのです。どこまで駄文がつづくか、まことにあやしいかぎりですが、急ぐ旅でもありませんので、自分の歩幅と歩調でゆっくりと、あちこち寄り道しながら歩こうという魂胆ですね。