「子どもの国」を実現したい(承前)

 視学の訃を聞いた時、僕でさえ涙を感じた。けれ共それは単に視学の死を惜しむ涙ではなくて、衷心おしむことの出来ないことを悲しむ涙であった。(中略)

  人間が人間の死をかなしみ得ないほどの悲痛がまたとあろうか。(「闡明」)

 その後、上田庄三郎さんは幡多郡益野小学校の校長になりました。二十七歳だった。赴任当時、焼失して校舎がなかった益野小学校で、彼は校舎のないままで森や野原、あるいは神社や空き地を利用して縦横無尽の活動を子どもたちと展開するのでした。

彼はそれを「益野自由学林」と称し、詳細な「益野小学校経営案」を立案します。

 「全教育方針」と題して、次のような教育哲学(原理)を鮮明にします。

 ・学校全体にわたる教育方針は全校教師児童の総合意志によって樹立せられ、校長はこれの実現の任にあたります。

  ・右の方針は固定せられたものではなく、むろん、全校教師と児童とはこれが批評と改造の自由と責任とを持っております。

・校長は常に自分の教育精神を深刻堅実偉大に成長させ、自分の人格の威力を逞しくして、全校教育の清新自由な活動を生起させる淵源と自負して居なければなりません。

・どこまでも純真なる愛、どこまでも自由、そうして児童の全意欲が健かに生きてひしめく「子供の国」にしたいと云うのが理想です。(原文は仮名書き)(著作集①所収)

 校長として再建運動に奔走したわけでもないのに、やがて住民からの強い要求によって校舎は新築されました。ときに、大正十三年四月でした。その際に語られた上庄校長の「謝辞」が教え子の西村政英によって書きとめられています。(西村著『魂をゆさぶる教育』)

《学校が兵営でない限り、学校が牢獄でもない限り、子ども達に最大の自由が認められ、最大の創造心を培う殿堂であらねばならない。

    およそ子ども達の自由と創造の天地と殿堂を壊し、これに圧迫を加えようとするものは、もはや、教育というものではなく。また教育を語る資格はない。自由と創造のない処、学校というものは不必要である》

******************

 ひとりひとりの心身に深くかかわる教育は国事(国策)そのものなのでしょうか。この時代のこの国において、なお教育は私事にきわまると、ぼくはかんがえている。私事といえばただちにわがままで自分勝手な、と非難されそうですが、それは浅はかな言い分だとおもう。

下中弥三郎

 次に引用するのは、少し意外の感がある人です。

 《私の見るところでは、教育の本義は至つて簡単なことだと思ふのであります。

 「個性と個性の相互接触によつて互に個性の発達をはかる」

 これが教育の本義だと思ふのであす。これを外にして教育の意義はないと思ふのです。

 子供から申せば、自分の天分を伸ばさうとすることであり、親、先生、友人、社会から申せば、他の個性(子供であれ大人であれ)の存分な発達のために力添へすることであり、而も、それ等の力添へが、やがてまた力添へをする人々自身の個性を発達させることになる、それが教育のまことのすがたであります》(下中弥三郎「教育の本義を思ふ」)

 上田庄三郎さんは、下中さんとは早い段階からの知己だった。

日本で最初の教員組合を主唱したのが下中さん。「啓明会」の、いわば土佐支部として「闡明会」(大正八年)を作り、それを拠点に教育界の民主化に乗り出したのが上田さんでした。結局は、頑迷固陋で凝り固まっていた土佐教育界の見事なまでの策略に引っかかって、ついには故郷を捨てざるを得なくなった。時に、大正十四年三月のことだった。翌四月には上京することになります。

 「貴兄はかねてから県外への志望があるときいた。貴兄のような有為な人材をおくのはおしいから、新学期の異動期にご希望にそいたいので至急赴任先を知らせるよう」

という手紙が視学(現在の教育委員会教育長か)から上田さんのところに届いた。それをみて烈火の如く怒った上田さんは返書をしたためた。

 「県外志望をしない者に虚構の云いがかりをした者は誰か、視学でありながら有為の人材を郡内におくことを喜ばないのは何故か、退職する者が赴任先を知らせねばならぬという法律がどこにあるか」と、十ヶ条の質問書を送りつけた。こうまでしても、厄介者を追放したかったのが視学でした。いまでも官僚組織は自己の論理であらゆることを差配しようとします。今日では教員組合はまったく骨抜きにされましたし、それは教員の権利を防衛するという意味ではまことに残念だし、あらためてその問題を再考すべきだと考えてしまいます。その点でも上田さんの実践した組合活動は線香花火のごときものでしたが、十分に評価される必要があるとぼくは考えています。

 高知では高校全入運動が全国に先駆けてさかんに唱導されたのも上田さんたちの前史があったからこそでした。そして、その運動を側面からも大いに助けたのが下村さんでした。上京後は、その死(1958年10月)に至るまで、下中さんと交わりつづけた。下中さんについても、どこかでお話をしたいと考えています。なかなかの傑物・怪物でした。

〇下中弥三郎 出版人。兵庫県に生まれる。幼少で父を亡くし、陶器職人として修業していたが、1898年(明治31)神戸に出て、検定で教員の資格を得る。1902年(明治35)上京、『婦女新聞』記者を経て1911年埼玉師範学校教諭となる。1914年(大正3)百科事典の原形ともいうべき『ポケット顧問 や、此(これ)は便利だ』を著したが版元が倒産、同年6月平凡社を創業、自著を通信販売する。関東大震災後の1924年、本格的な出版を始めた。円本ブームのなか1927年(昭和2)に『現代大衆文学全集』、1928年に『世界美術全集』を発行、地歩を固めた。1931年破産したが、『大百科事典』の企画を発表、1935年完結後ふたたび破産。一方、1925年ころから農民自治運動を指導、1931年以降大アジア主義者として活動、1940年の大政翼賛会発会に協力するなど、社会運動に関心をもっていた。これが理由で第二次世界大戦後公職追放になるが、1951年(昭和26)社長に復帰、「百科事典の平凡社」としての特色をつくった。世界連邦運動の推進者、世界平和アピール七人委員会委員としても知られる。[清田義昭]『下中弥三郎伝刊行会編『下中弥三郎事典』(1965・平凡社)』(日本百科全書(ニッポニカ))

難死やあわれ、生き延びよう

 《エール大学の心理学者が行った実験のことを書いておこう。…「体罰と学習」の心理学の実験をするという名目で、さまざまな年齢、社会的背景の人々をアト・ランダムに集める。隣室に生徒がいて簡単な質問に答えて行くということになっていて、集められた被実験者は「教師」で、「生徒」がまちがった答を出すと、「教師」は(生徒に)「体罰」を加える。その体罰によって、「生徒」の学習効果がどれだけあがるか―「体罰と学習」の実験の目的はそこにあると、被実験者は教え込まれている。さらに、この実験がいかに重要であるかについても、人類の科学の進歩にいかに貢献するかについても。

 「体罰」は電気ショックによって行われることになっていて、被実験者のまえには、ちょっとしたショックにすぎない十ボルトくらいから死の危険さえ招く四百ボルトにいたるまでのスイッチがならんでいる。しかし、本当のところは、「生徒」など隣室にいなくて、「生徒」の解答と称するものは実験者、つまり、エール大学の心理学者の手によって被実験者にわたされるしくみになっている。それによって、被実験者は「体罰」の電気ショックのスイッチを入れる。スイッチを入れると、「生徒」の反応が壁づたいに聞えてくる。―それは、あらかじめテープにとられたさまざまな人工的な反応なのだが、真実そのままにでき上がっていて、「止めてくれ」、「助けてくれ」という懇願の声、哀訴の叫びから、最後には壁を叩く音、ついでは、死を思わせる沈黙までもが含まれている。

 一方、実験者の側からは被実験者に対して、あらゆる種類の「激励」が加えられる。「それぐらいは大丈夫だ。あいつはウソを言っているんだ。」「この実験は科学の進歩のために必要なのだ。」「何ごとがおこっても、エール大学が責任をとる。」こうした状況の下で、いったい何人が四百ボルトのスイッチまで手をのばすか―実は、実験の目的はそこにあった。エール大学の心理学者は、あらかじめ、全米のその領域の専門家に彼らの予測を求めていたのだという。専門家は一致して、十パーセントぐらい、つまり、真の狂人だけがそれをなし得るという数字を出した》(小田実「平和の倫理と論理」『「難死」の思想』所収。岩波現代文庫。2008年)

 小田実(1932~2007)作家、評論家。61年『何でも見てやろう』。大学卒業後、代ゼミの英語講師。渡米。65年「ベトナムに平和を!」市民連合(ベ平連)を結成。小説に『Hiroshima』『「アボジ」を踏む』『玉砕』など。評論に『世直しの倫理と論理』『市民の文』『中流の復興』など多数。

 小田さんが上の文章を書いたのはいまから五十年以上も前のことでした。東京オリンピックが開かれたのが1964年でしたが、その数年後の時期でした。そこで問題となっているのは「国家(権力)と個人(の権利)」で、いまなお、それはわたしたちの課題でもあるでしょう。

 《戦争の理念が国家の強制原理としてあるとき、それに対決し、抗する道は、より高次の人類の普遍原理に依拠することだろう。国家が自己の理念達成のため、また、その自己保存のため、人を殺せ、と命ずるとき、私たちは、いかなる理由においても人間には人間を殺す権利はない、という普遍原理によってそれを拒否することができる。国家が戦えと命ずるとき、いかなる理由においても戦争は罪悪であるという理由で、その命令に抗することができる。おそらく、私たちの被害者体験を論理的に救い、それを下から強力に支えてくれる原理は、こうした普遍原理しかあり得なかっただろう》(同上)

 彼がアメリカ滞在(留学)中にエール大学の「心理学実験」の話を聞いたそうです。

 このスイッチを押せば、「生徒」が死ぬにちがいない、こんな残虐な行為は「狂人」しかしないだろうと、その道の「専門家」は判断したという。はたして、実験の結果はどうだったのか。

 《しかし結果は六四パーセント―ということは、これは狂人の行為でも何でもなく、ふつうの人間がふつうになし得る行為だということだろう。そして、その行為は、決して、強制された行為ではなかったのだ》(同上)

 なぜ、このようは結果が生じたのか。そこにはさまざま要因が考えられます。(この島における「死刑制度」に賛成する人はおよそ八割だという報告が時として政府の調査として行われてきました。ぼくは以前から「官僚の統計」はまず信用しないことにしてきました。魔が差して使ったことも幾たびかありますが、かならず「眉唾」とことわっていました。悲しいね。

 人間は寛容にも不寛容にもなれる。また慈悲深くもあるし、無慈悲でもあるのが人間なのでしょう。それだけの話です、と言い切ってしまって構わないのか。当事者でないことを前提にすれば、人間はどんなに悪辣にも、あるいは良心のかたまりみたいな存在にもなれる。本人にも自覚がないのがほとんどでしょう。自分を棚に上げないことだ。

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 世界の多くの国では「新型コロナウイルス」の猛威(医学や科学の無力+政治の不作為 ー ことに日本劣島においては)にノタウチまわっているというのが現状です。このところの報道を見るにつけ聞くにつけ、「自称・詐称 政治屋」どもは自らの権力や特権を確保・維持するためには人民の苦しみを歯牙にもかけず、あまたの「市民・国民」の死すら、数字でしか語ろうとしない。血圧が高いとか低いとか、「下血」がどれだけあったとか、(やんごとなき方の病状について)いかにもフザケタ情報を垂れ流したのは三十年ほど前のことでした。大きな顔をしている「報道機関」はすでに、とっくに死んでいます。いままた同じ過ちを平然と繰りかえしている。要路にある屑どもは必要な情報を隠し、改ざんし、自分たちの都合に合わせて捏造する、税金を元手にして好き放題な振る舞いに狂奔している。

 「人を殺す」「人の死を平常心を以て見る」のはおそらく奴らには日常茶飯事なんだとぼくは思っている。人命は尊いなどという利いた風なことを抜かさないでくれ。生きること、それもつましく生きることをけっして邪魔してほしくない。邪魔されたくない。具合が悪い人は「医者にクルナ」という算術家医者たちは人を殺すのを商売にしているとしか思えない、症状を訴える人間より、感染したくない・感染を恐れる手前の都合を優先する、そんな破天荒な断末魔の修羅の海にぼくたちは浮遊している。自分の力で生き延びる。安易に「専門家」崩れには身を任せない。(誠実な政治家・官僚・医者がかならずいることをぼくは失念しているのではありません。だが、でかい声で利権をあさる、反吐の出そうなあさましい連中の暴力・悪逆のかぎりに、少数者の良心は圧殺されかかっているのです)

*難死=戦争や大震災によって多数の一般市民にもたらされる無意味で不条理な死のこと。作家小田実の造語。現下の「犬死」も同然の不幸こそ、「難死」というべきだ。

*この島で、意図的に検査を回避している理由はなにか。感染者の累積数しか報じないのはなぜか。消極的な検査体制を放置したまま、感染爆発を煽り続ける輩がこの島を乗っ取ってしまったかのようです。 

ポイズン・アイビーと無断欠席と

 初めて「登校拒否」という日本語を知ったとき、ぼくはどこか、すがすがしい気分を味わった。自分の過去のひそかな一コマを思いがけず、棚ぼた的に公認されたような感じがして。

 子どもが学校に不安を覚えて心理的な理由で行けなくなるケースは、もちろんアメリカにもある。けれど、それを歴(れっき)とした社会現象といちづけて、簡潔且つオフィシャルらしく表してくれるイディオムがないのだ。あるいは、カウンセラーたちの間で何か用語が使われていながらも、一般に流布していないだけのことかもしれないが。(A. ビナード「ウルシ休み」『空からやってきた魚』所収、草思社刊。2003年) 

和英辞典には:

refusal to attend school (登校拒否)

psychological hatred of attending school(心理的理由からの登校ぎらい)

schoolphobia(学校恐怖症)

truancy(ズル休み)

 A. Binardさんは1967年、アメリカ・ミシガン州生まれの在日米国人。「朝美納豆」と日本名表記。詩人、文筆家、ラジオ出演も。広島在住。最近は島のあちこちで講演活動を重ねてもおられます。その彼が上に紹介した文章につづけて、次のように語っています。「学校なんか行きたくないなあ」というのは、古今・東西を問わず、いつでも見られる現象だったことが分かります。ただ、その現象に対して、社会(世間)がどのような反応を示すかが彼我のちがいのようです。

 《ぼくは中学校で truancy に手を染め、高校でも続行した。だが schollphobia の経験は小学二年生のときの一度だけ、それも本当の「登校拒否」とはいえず、ニアミス程度だった。夏休み中に引っ越し、転校生として新学期からクラークストーン・エレメンタリー・スクールに入ることになったぼくは、ミセス・ウエストランドの教室は何だか冷ややかで、自分の居場所がうまく見つからなかった。先生とのコミュニケーションも取れず、そんな或る朝、ぼくは母に「学校はやめた」と宣言したのだ。》 

 それに対してお母さんはどのように答えたと思われますか。

 「そんなことは許しません」

 「行きたくなければ行かなくてもいいのよ」

 「わたしには関係ないことだわ」

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 …そんな或る朝、ぼくは母に「学校やめた」と宣言したのだ。

 「そうなの?」といって理由を聞いたり、「行った方がいいと思うけど」とやわらかくアドバイスするみたいに母は話したけど、無理に登校させようとはしなかった。その日の午後はずっと『大草原の小さな家』を数章分、読み聞かせてくれた。

 翌朝、ぼくが再び「行かない」というと、パジャマ姿のままいっしょにシリアルを食べながら、母は自分が子どもだった頃のエピソードを問わず語りに ― 厳しいカトリックの小学校に通っていた母は、クラスきってのおてんばで、低学年からすでにズル休みの常習犯だった。とはいえ、老練な修道女たちは容易にだまされず、親にもだんだん見ぬかれてしまい、しかしそれでもズル休みの新しい手口を捻り出そうと日々探求していた。そこでふっと思いついたのが「ポイズン・アイビー」。(同上)

 ズル休みと登校拒否

 「登校拒否」にあてはまる言葉がアメリカにはないということから、ビナードさんはみずからのschoolphobia(学校恐怖症)の体験を語っていたのでした。小学校の頃に、担任教師とウマが合わず「学校やめた」と宣言したら、母は自分のtruancyのことを話してくれた。ポイズン・アイビーは「ツタウルシ(蔦漆)」。その枝葉にふれるとたいていの人ははげしくかぶれます。お母さんは、この漆にかぶれれば学校が休めると考えて、友だちと林に入って、ご丁寧にも葉っぱを身体に塗りつけたそうです。(しめしめ、と思ったことでしょう)

 その結果は?なんと治るのに二週間もかかった重度の皮膚炎になり、まるで拷問の苦しみを味わったといいます。「こんなひどい全身のかぶれなんて見たことがない、一体どうしたんだ!と祖父が繰り返し追求したところ、とうとう母は白状して、泣き面に蜂の大目玉を食らった」

ツタウルシ

 「母の話は覿面(てきめん)ではなかったが、じんわりと効果があって、一週間休んでから、ぼくはまた学校へ行き出した。そしていたたまれない気持ちになったとき、全身皮膚炎の試練を想像して、少しは楽になった気がする」

 ことの顛末(てんまつ)を聞いてしまえば、「なんだ、そんことか」とあまり印象には残らないかも知れませんが、それは学校に行きたくなかったご当人ではないからでしょう。行きたくないし、行かなければならないと焦っている子ども(ビナード)にとって、母親の経験談(だった?)は、「学校(教室)へ行くのはいやだ」という引くに引けない緊張状態を少しはほぐしてくれることになったんじゃないでしょうか。学校の絶対性とでもいうべき「掟」に穴が開いたのかもしれない。

 「お前はズルしてるんだ」と真正面から迫ってこられたら、結果はどうなったでしょうか。これは登校することが暗黙の前提、無条件の約束なんだとかたくなにとらえられていてはできない相談です。どんな関係をふだんから築いているかという親子の関係(コミュニケーション)のなかで交わされた感情の綾だったとも思うのです。

 そこまでいって、さらに学校にむやみに自分をあずけるのはどうかと考えます。これはぼく自身の経験であり感覚でもありますが、学校や教師から一歩も二歩も身を引いておくことが大切なんじゃないですか。その理由は? 繰り返してあちこちで騙っていますね。

 つまりは、学校は絶対ではないということ、あるいは、ぼくは学校を全否定はしませんでしたが、相対的なものととらえ、自分とは五分五分じゃないかと幼いなりに悟ったんじゃなかったですかね。成績はふるわなかったけれど、あんな勉強、その気になればいつだってできるさ、とたかをくくっていました。いまだに「その気」にはならないままですが。学歴も学校歴も、わが身の丈には合いませんよ、古すぎて。(若いころ、まわりに「博士号」を所持しているのがたくさんいました。「偉いのか」と思っていたが、当人を見るとどうもそうでもない、まるで「クズ(屑)」にしか見えなかった。それなりに歳を重ねて「学位」の仕組みがわかって納得したのでした。何十年も前に取得したものをいつまでもぶら下げているんじゃないよ、と悪態をついたものでした。運転免許証だって、三年ごとに更新講習や試験がありますよ)(「学位」を金で買った知(痴)人もいたね)

(追記 ビナードさんが拙宅に来てくださった。二年前のこと。ぼくの友人家族も一緒だった。とても忙しい日常を贈られているので、申し訳ないと思いながら、感謝した次第。づいうきっかけだったか、彼が日本に来て、日本語で文章を書きだした直後から、大変な米国の詩人がいると、大いに関心を持ちました。それにしてもたくさんの本を出し、たくさんの活動をなさるという点では、ぼくなどは足元にも及ばない人ですね。彼の「原発」問題に(限りませんね)対する考え方にも大いに触発されもしました。それにしても、たいそうな日本語使いですね。多分、ぼくなどの端倪すべからざる態度を育て上げられた結果だと、ぼくのような不良年寄りを尊敬せずにはおかない、そんな稀有な存在として、仰ぎ見るほどでした。ますますの活躍を祈念していますね。またお会いできる日が来るでしょうか。2026/06/19・山埜記)

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優越感を感じるから褒めるわけだろ

 学校の先生と生徒は本来は師弟だよな。だけど、親方と弟子みたいな関係にはなっていないな。なっていたら世の中はもっと違うだろうしな。先生と生徒はまだまだ他人だよ。先生はほんとうにその子が立派に育って欲しいと思っているんだろうか。あるいは思っているかもしれないけれど、実際はそうしているようには見えないよ。無事に何もなく静かに卒業していってほしいと思うほうが強いんじゃないか。(中略)

 だから、そういう忍耐というか我慢というか、そういうものが一つもなくて、人と接するという時代だから、昔とは全然違ってきているわけだよ。

 人を預かるとか、人を教えるとかいうのは、そんな軽いものではないよ。それこそ、その子がいろいろなことを気づくまで、じっと待ってやって、その子が感じて、そして行動をとって、思い切りやって、本当に一所懸命やった結果であれば、それがどうであろうと、結果はいいよ。一所懸命きちっとやれれば、それでいいんだ。そこまでの責任は親方が取るわけだ。だからまかせるにしても、放り出してやるにしても、背負うのは親方や。

 そんなだから、弟子の側に行って、「ようやった」とか、そんなふうに褒めるのはバカだよ。だいたい、いまの人は褒めるけども、そんなもんじゃないわ。

 褒めるっていうのは、自分が優越感を感じているから褒めるわけだろ。自分は何もしないのに。それこそずるいよ。弟子だって、ずっとやっているんだから、褒められたくてやっているんじゃないってことに気づくよ。師弟とはそういうものやと俺は思うな。(小川三夫『不揃いの木を組む』) 

 すでに別のところで触れていますが、小川光夫さんは宮大工の棟梁。法隆寺、法輪寺や薬師寺金堂の修理や創建に西岡常一さんの副棟梁として従事した大工さんです。その後、宮大工(養成)集団「鵤(いかるが)工舎」主宰しましたが、いまは後進の指導に当たっておられます。詳しいことはともかく、ものを学ぶというのはどういうことかを如実に示してくれるのが小川さんの「現場」主義です。大工の仕事場(建築場)であり、教師の仕事場(教室)です。「現場」という言葉の有する雰囲気にぼくはあこがれてきました。現場で自分のすること、すべきことがあるから「現役」なんですね。

 この二つの「現場」はもともと一つであったとおもわれますが、いつとはなしに(学校教育が始まってからでしょうか)はっきりと分離したのです。それがいいか悪いかということではなく、ものを学ぶ方法や目的が異なってしまったという意味です。またものを学ぶ側にも二通りの人間が生み出された(いいかえれば、新たに「もの学びの人種」が作られたということです)ことになります。学校の登場は「教えられる人間の登場」でもありました。

 《大工というのは、まず自分ができなくてはならない。他人じゃないんだ。みんなしてどうこうしようというのはいかん。それは、まだ学校の気分が抜けないからだな。なぜできないやつがそういうことをしたり、いうかといったら、結局は自分に自信がないからだ。自信があれば、そんなものいらん。一人でもやる。(中略)

 できないやつにかぎって、仲間だからといって、いたわりみたいな気持ちでやっているのだろうけれども、そんなのは仕事のうえでは必要ないんだ。みんなして相談しあいながら、人のあらはほじくらないように、痛いところは触らないように気を遣ってというような、そんな考えではだめなんだ。それというのも、要するに、自分自身が弱いからだよ。 触れられたくないから触らない。そういうことも、まあ、年格好も腕も同じぐらいだからそうなってしまうんだな。そういう状況だと、仕事は上のやつが引っ張るんではなくて一番最低が平均点になってしまうんだ。

龍源院(座間市)鵤工舎施工(平成27年9月)

 きっと学校ではそういうふうに教えているんだろうな。小学校でも中学校でも人の悪口をいうのはやめましょうとか、みんなでかばい合いましょうとか、助け合ってとか。学校の先生は、二年先か三年先のことを考えればいいけど、俺らは一生食える職人に育てなければならない。一生のことを考えたら、かばい合いとか助け合いだとかの前に、自分がちゃんと生きていく技を身につけなくてはいかんということがあるんだ。 

 生きていくための職業だとか、一生自分のためだとかいう考えは学校にはないからな。これは先生にもないものな。そういう点でも、いまの学校はだいぶひどいらしいな》(同上)

 昔から大工さんの仕事を見るのが好きでした。一日中、見ていて飽きることがなかった。そのうちに自分でも大工になろうかと考えたこともありました。もちろん、大工に必要な肝心なものがいちじるしく欠けていたので、その望みは絶たれてしまいましたが。

 どうして大工さんに惹かれたのか、というよりは「大工の現場」に魅せられたのか。そこに「仕事」があるからだということだったと思う。まちがいなしに「現場」がそこにあったからです。

富山県高岡市国泰寺

 小川さんたちが八一年年から三年がかりで取りかかった仕事に、富山県高岡市の国泰寺建立がありました。その時にはつぎのようなエピソードが残されました。

 国泰寺の現場で朝の散歩をしていたら稲葉心田老師に会った。

 「老師、みんな、朝ここへ来て座禅を組んでいるようですけど、うちの職人にも座禅を組ませなくちゃいけませんか」

 「バカッ、あんなのは暇人のするこった。おまえらはそれだけの時間があれば仕事をせい。それが座禅以上の修行だ」

 やるべき仕事があるというのはそういうことなんですね。仕事に没頭する。

 《職人っていうのは、考えたことと実際にやることの両方をするんだから大したものだと思うんだよ。ほかのものは知識だよ、知識だけでいいんだから。大工は知識だけじゃないんだから。知ったことを生かさなくてはならない。生かしてものをつくるんだから。それができるようになれば、後のことはついてくるんだ。

 試験なんか記憶力のテストだけど、職人の仕事はその人の全人生や。

 木に鋸(のこぎり)を入れたら、それで終わりだよ。元に戻せない。真剣勝負ですよ》(同上)

 「知ったことを生かさなくてはならない」という教育の現場はどこにあるのでしょうか。

教師っていってもなんでもないのさ

 生徒の反抗は、個々の教員の授業スタイルや教科内容にたいしてというよりむしろ、学校というもののたたずまいや教育関係の枠組みにたいして向けられている。経験的に体得された全体としての階級文化に照らしてそれらが相対化されるところに、生徒の反抗の真因があるのだ。そして、授業のスタイルや具体的な学習内容に工夫をこらすことはできても、学校の構成や教員ー生徒の規範的な教育関係を変えることはきわめて困難である。それでも個々の教員は、現存の学校秩序を与件としながら、居心地の悪い教室で不本意な授業をつづける以外にないし、そういう日々の実践から長期的は展望をつむぎ出すほかない。(略)

 今、教育の「危機」がやかましく論じられている。論争の渦中にあるのは進歩主義教育の基本的な考え方でありその適格性である。議論のトーンは高くなる一方だが―そして、実際に教壇に立っている教員たちの声が事実上かき消されていること、生徒たちの声に至ってはまったく耳に入ってこないこと、その点がいかにも気になるけど―実情から見れば、それは徹頭徹尾イデオロギー的な争いである。真の論点は、学校教育という場で生起する階級対立にあり、労働力の再生産過程にあり、総じて文化と社会の再生産過程にあるはずだ。(ポール・ウイリス『ハマータウンの野郎ども』熊沢誠・山田潤訳、筑摩書房。ちくま学芸文庫版もあります)

 Learning to LabourーHow working class get working jobsというタイトルで本書をウイリス(社会学者)が出版したのは1977年のことでした。「学校への反抗・労働への順応」といえば、いかにもイギリスの話だということになりそうですが、わたしたちの社会においても同じような問題が発生していたにちがいないのです。そして現在も、それとは同根ではあっても、別種の学校とのたたいが行われているのだといいたい、それはけっしてだれの目にもはっきり映っているとは思えないのですが。「学校の種別化」というのはどういう問題から生じたのか。教育における「格差」でしょうか。それとも、人によって在学する学校というものが社会的(階級的)に決定されているとでもいうのかしら。

 「反学校の文化の内奥から表層まで一貫している特徴は、『権威=当局』(オーソリティ)に対する、類型的でもあれば個性的でもある抜きがたい敵愾(てきがい)心である」(同上)

 (何人かの生徒の対教師への「敵愾心」をこもごもに述べています)

ジョウイ …教師はおれたちを処分できる。教師はおれたちよりもえらいんだ。やつらにはおれたちよりもでかい組織がひかえてる。おれたちのはタカがしれてるけど、教師はでっかい制度を味方にもってるものな。それでも、言いなりになるってのはシャクじゃないか。なんていうかな、権威ずくってのはムカツクね。

エディ 教師だからっていうだけで、教師は自分たちのほうがえらいし、力もあるんだって思ってるのだ。でもほんとうはさ、教師っていってもなんでもないのさ。ただのふつうの人間じゃないかよ、なあ。

ビル 教師って、よほど何でもできると思ってるんだ。そりゃ、おれたちよりはできもよくて、えらいかもしれないけどさ、やつらはそれよりももっとえらいって思ってるんだぜ、そんなことないのにさ。

スパンクシー ファースト・ネイムで教師を呼びつけにできたらどんなにいいだろう。やつら、まるで神さまきどりだもんな。

ピート 神さまならよほどましだよ。

 「反学校的」な男子生徒は自称〈野郎ども〉(the lads)と名乗っている。彼らの悪態はとどまるところをしらない。(彼らに対する、筆者のウイリスのインタビュー)これだけあけすけに、言いたい放題に口にだして言うのは「健全」なんでしょうか。反対に、表向きはいい子ぶっていて、実際はえげつないほどに学校や教師を軽蔑している子がいるとするなら、それに対してどういえばいいんですかね。〈野郎ども〉は優等生にむかっては〈耳穴っこ〉(ear’olesーear holes)とさげすんで呼ぶのです。

ビル 教師に接する態度ってものを連中はやかましくいうだろう。生徒のおれたちに接する態度ってものもあるはずだよ。

ジョウイ 人生、ちょっぴりおもしろくしようと思うんなら、教師がしてくれたことになにかお返しをしてやることだよ。

 学校とはなんだろうか?

 「能力主義の社会秩序とその教育体系は抜きさしならない二律背反を含んでいる。なぜというに、大多数は敗者となる定めであるにもかかわらず、全員が同一のイデオロギーに与(くみ)しつつ競い合うことが求められているのだから」(ウイリス)

 「だれだって、やればできるのだ」だって。ホントかね。学校はどの地域でも、どの国においても似たりよったりで、まず同じような顔をしているんだ。学校はなくならない、そして行かなくてはならないものなら、それとの付き合い方を十分に学ばなければならない。「野郎ども」のような反抗心むき出しの行動や態度もありえますが、そこはもう少しかしこくつきあいたいものです。ぼくが願うのは、学校の餌食にならないことです。あまりにも近づきすぎたり、反対に全く学校と交わりを持たないのも、どうでしょう。ぼくは早い段階から、学校や教師に不信・不審の念を隠さなかった。「優等生」にはなる気がなかったし(なれなかったのではないさ)、劣等生に甘んじるものどうかね、という中途半端な姿勢を貫いていた(結果からみれば)とも言えそうです。(「権威ずくってのはムカツクね」、ホントに)

知育偏重より知育不徹底の弊害

 教育者に主義のあるのは非常に宜しい。又何々主義の教育の如き名称を有するのも便利であるに相違は無いが、主義の適用には大いに考慮を費さねばならぬ。主義に囚われた教育者ほど厄介なものは無い。微妙至極の人性を取扱うのに主義などを振回されてはたまったもので無い。教師は主義を立するのもよいが早く主義を超越しなくてはならぬ。(ヘッダー写真「ドルトンプランを提唱したヘレン・パーカスト」)

 私は学習の名称を用ゐる。時には自律的学習と云ふが、その自律的たる形容詞も時には誤解の種子となることがあるから用ゐない方がよいかとも考へる。只教育と云へば教師の側面から眺めた様に思はれるから、児童の方から眺めた学習と云ふ名称を用ゐるのである。

 学習の意義は沢山ある 学習を単に事実の記憶とするならば、それは学習を最も狭義に用いたもんである。有機体が外界の刺戟に反応して起す所のあらゆる変化を学習というのならば学習の意義は最も広い。…生活によってよりよく生きることを体得するのが学習で、学習は生活を離れて存するもので無い。(右写真は奈良女子師範付属小学校)

 我が現時の教育に於て知育偏重の弊が指摘されている。如何にも知育の偏重は悪いが偏重と言うよりも寧ろ知育の不徹底と云いたい。及ぼしては教育方法の不徹底と云いたい。情操教育を十分にしないで何とて知育の徹底があろう。人生を渾一的に取扱わず、徒らに分析的思想に囚われた教育をするから、知育偏重の弊を痛感せねばなら様になるのだ。…余は再び云う知育偏重でなくて知育の方法が悪いのであると。

 学習室は生活場 いまの教室生活は余りに静止的で活動的で無い。又束縛的・定型的・受動的だ。之を改めて自立的に発展的に能動的に学習する様にしたいものである。…教室と云うより学習室と云うほうが適当であろう。

 教科書学校 社会国家の進歩に伴うて学習も進歩したならば社会応じ又社会を創造することが出来るのだろうが、慣習的勢力に屈服して伝統的学習生活をしては社会の進歩に伴うことは困難である。他人の作った教科書又は教授細目によって学習する教科書学校の学習は社会の進歩に伴うことが困難で、且つ学習者の実際生活と離れるのが極めて普通の状態である。(以上はすべて木下著『学習原論』目黒書店 1923年刊)

「学習原論」

◎ 木下竹次(1872-1946)、福井県出身。東京高等師範学校卒業以後、各地の師範学校(奈良、富山、鹿児島、京都)の教員を経る。1919年奈良女子高等師範学校教授。大正時代の「新教育」の担い手の一人として論陣を張り、「合科学習」を主張して、新教育の方向を促そうとした人でした。引用文は「合科」学習論の一部です。ここに提示している課題はぼくたちの時代に直結している大きな課題でもあります。(飛びとびに、任意の箇所引用をしておきました)

*木下竹次=大正・昭和期の新教育運動の指導者 奈良女高師付属小学校主事;京都女子師範学校校長。 新教育運動指導者。生年明治5年3月25日(1872年) 没年昭和21(1946)年2月14日 出生地福井県 旧姓(旧名)川崎 学歴〔年〕東京高師〔明治31年〕卒 経歴福井県下で小学校準訓導を勤めた後、東京高師を卒業、奈良師範学校付属小学校主事、富山県師範学校教諭、同付属小学校主事、鹿児島師範学校、同女子師範学校長となった。このころ独自の学習法理論を形成。その後京都女子師範学校長を経て大正8年奈良女子高等師範学校付属小学校主事となり、同校学習研究会を組織、特設学習時間を設け、低学年の大合科学習、中学年の中合科学習、高学年の小合科学習という学習法を実践、雑誌「学習研究」を通じて全国に広がり「奈良の学習」と呼ばれた。著書に「学習原理」「学習各論」「学習生活の指導原理」などがある。(二十世紀日本人名辞典)

*「合科学習=各教科に含まれる教育内容を一定の中心的課程に統合し、総合的に学習させる方法。主として小学校低学年で行われる」(大辞林第三版)

◎ ドルトン・プラン(どるとんぷらん)(Dalton Laboratory Plan)= アメリカの女流教育家パーカーストHelen Parkhurst(1887―1973)がマサチューセッツ州ドルトンのハイスクールにおいて実施した教育計画のことで、正式の名称はドルトン実験室案という。/ このプランは単なる教育課程や教授法の改革ではなく、学校生活の新しい方法の確立を目ざすもので、学校全体を一つの共同社会とし、「剛気なる人間」fearless human beingの育成を理想としていた。プランは、小学校4年以上の学年、学校に適用される。従来の教科を二群に分け、数学、歴史、理科、国語、地理、外国語を主要教科とし、音楽、図画、家庭、工作、体育などを副次教科とした。/プランの特色は主要教科の学習にある。「実験室」とよばれる教科別の教室が設けられ、教具や参考書などが備えられ、教科担任の教師が配される。生徒は毎月1か月分の週ごとの学習割当を教師と相談のうえで決め、それを教師との契約という形で自ら責任をもって果たす。この学習割当に従って、午前中3時間、それぞれ任意の実験室に入って自学によって学習する。その後各学級に帰り、各自進度の確認、自己評価、困難点の相談・討議などを行う。午後は学級を単位とし副次教科を一斉に学習する。/ 新教育運動のなかで注入主義教育を克服する大胆な試みとして、進歩的、積極的な役割を果たした。日本では大正自由主義教育運動で取り上げられたが、一部の私立校で行われるにとどまった。(日本大百科全書ニッポニカ)

 ブログのこのカテゴリーでは「生活綴り方」にかかわる雑文を展開しており、それが大正時代の「新教育」運動そのものだとはいえないにしても、なにがしかの影響を互いに与え合ったのは事実だと、ぼくには思われます。いわゆる大正デモクラシー期に勃興した「新教育」運動とそこから生まれ出た「新教育」に土台を据えたいくつもの私立小学校の誕生は、さまざまな毀誉褒貶を含みながら今日まで歴史を重ねてきました。木下さんはそのような教育史のなかで一定の役割を果たした存在として、再評価されるべき人物だとぼくは考えています。

 いずれ機会を設けて、彼の「理論と実践」について駄文を述べることがあるかもしれません。さらには「新教育」の担い手となったいくつもの私立小学校に関しても、不十分であることをあらかじめお断りしたうえで、触れてみたいと愚考しているのです。

(追記 以前にどこかで触れた東京高等師範学校付属小の佐々木秀一校長先生も、木下さんと同じ師範学校の卒業生でした。卒業年次は木下さんが1898年、佐々木さんは1902年でしたから、かろうじて重なって在学していた時期があったと思われます。この時期、あるいはその後には、アメリカのジョン・デューイがこの島では大いに受容されたし、二人ともデューイの直系筋にあたっていたとも言えます。なお、デューイが日本に初めてやってきたのは1919年~21年でした。その間に中国にもわたっています。この時のデューイの日本に対する見方が大きく変わった根拠になる発言も残されています。大正デモクラシーがいかなる状況下で育っていったか、デューイを通して考えられそうです。

 日本におけるデューイ研究の礎を築いたのが佐々木さんでしたが、木下さんの、いってみれば経験主義的な教育・学習論にもデューイの影響は濃厚に認められそうにぼくには思えます。この点に関しては、もうすこし資料等にあたって、いくばくかの新たな視点が提示できれば面白いと考えてもいます)

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