日常の暮らしが生命の根本

徳永 野の花診療所では死を前にした患者さんに何かしたいことを尋ねて、実現するようにお手伝いしています。「たんぼの土を踏みたい」「焼き肉を食べたい」「空をみたい」「道を歩いてみたい」・・・。

 生きているときは、日常の暮らしより理想や主義主張、仕事、金もうけが大事だが、死を前にすると価値が逆転する。ありふれた日常の暮らしが生命の根本だとわかる。今の社会は主義主張の方が肥大化しすぎているから、修正する必要がありますね。

鶴見 日常の暮らしというのはそれだけ、すごいんだ。

徳永 ベルトコンベヤーにのった人生はつまらない、と死ぬときにわかる。それでは遅いんだけどね。ところが、例えば好きな山登りをやったという人は「死の野郎がもうちょっと遅くきたらいいのに。でも山登りもいっぱいしたし、しょうがないかな」と、どこかで手を打つ。死と取引できたりする。だが、ベルトコンベヤー人生では取引できるものがないので、死んではならない。死は悪で、遠くにおくもの、となる。(中略)

 鶴見俊輔さんと徳永進さんとの対談。(「生き死に 学びほぐす」2006年12月27日・朝日新聞)徳永さんは現在、鳥取県でホスピスケアのある野の花診療所を運営している。

(http://nonohana.no.coocan.jp/)

 その徳永さんとガン患者の女生徒の会話。

 「がんでなかったら、がんでないとはっきり言って下さい」「ええ、がんじゃありません」「ああ、よかった」(その患者は自分ががんであることをしっているが、信頼する医者からそうじゃないといってほしかったのです)

 鶴見さんはこのことを次のようにいう。

 《医者は「あなたはがんです」というのが正しいのかもしれない。しかし、徳永が「がんではありません」というのは、死に臨む人が語り残したことばをくみ取り、まなんだからである。

 戦前、私はニューヨークでヘレン・ケラーに会った。私が大学生であると知ると、「私は大学でたくさんのことをまなんだが、そのあとたくさん、まなびほぐさなければならなかった」といった。まなび(ラーン・learn)、後にまなびほぐす(アンラーンunlearn)。「アンラーン」ということばははじめて聞いたが、意味はわかった。型通りにセーターを編み、ほどいて元の毛糸に戻して自分の体に合わせて編みなおすという情景が想像された。

 大学でまなぶ知識はむろん必要だ。しかし、覚えただけでは役には立たない。それをまなびほぐしたものが血となり肉となる。

 徳永は臨床の場にいることによって、「アンラーン」した医者である。アンラーンの必要性はもっとかんがえられてよい》(同記事より) 

 鶴見さんはみずからの大学体験(学生として、教師として)から、「大学でまなぶ知識はむろん必要だ」といわれるのですが、はたして必要なのかどうか。今日ではまことに疑わしい。それは大学にかぎらない話で、学ぶことが成りたっていないのが学校教育なんだから、まなびなおしもありえないという恐ろしい状況が浮かびあがってきます。

 知識をまなぶというよりは符丁や単語を受けいれるだけが生徒の仕事で、その符丁や単語を受けいれさせるのが教師の天職だというのが、まるでそれぞれの相場になってしまっているんじゃないでしょうか。

 まなぶという経験があって初めて、まなびなおす(学びほぐす)が意味を持ってきますね。単に試験のために覚える(暗記する)だけではほとんど学びなおす材料(元手)にはならないでしょう。

*https://www.thka.jp/helen/life.htm

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学校化社会の行方

 学校はすぐれてフォーマルなもので成り立つ世界だ。学校には画然とした構造がある。独特な建築様式があり、校内規則があり、教育上の慣行がある。教職員のあいだには位階制度があり、その権限は行きつくところは国家によって、威厳をつくした法律によって、国家に属する抑圧装置としての警察によって、正統性を保障されている。(ポール・ウイリス『ハマータウンの野郎ども』筑摩学芸文庫、既出)

  ここでウィリスが使っている「フォーマルなもの」「画然とした構造」「独特な建築様式」「校内規則」「教育上の慣行」「教職員の位階制度」ということばはすべて、学校文化を体現する内容です。学校が行使する権限は国家によって正統(正当)性を保障されているというのはイギリスだけではなく、この島社会における学校にも妥当するでしょう。むろんそれは近代産業社会に共通してみられる現象でもあるのです。なぜならば、産業社会が進化する度合いは学校教育が生みだす労働力の質と量に大きく依存しているからです。

 国家という大きな集団の秩序を維持させるためにはそれだけ教育制度を得体のしれないだれかの手に譲りわたすことができない装置だと認められている証拠でもあるのです。どのような集団においても「異質分子」は存在する。逆に、異質な存在を許さない集団、全員が集団の規範に従順であるような集団は永続することはできない。葛藤や対立があるからこそ、集団を維持させようという力学がはたらくからです。

 学校においても事情は変わらない。大多数が学校文化に同調しようとし、また同調をうながす工夫がなされる。でもどんなに巧妙に装置を駆使して同調を求めたとしても、そこにはかならず異質な存在、同調を拒もうとする生徒集団、あるいは教師集団が出現します。

(集団が一旦構成されると)今度は集団の意思として一定の(または特定の)行為の規準― 行動・態度・信条といった生活様式と言い換えてもよいし、広くは文化構造と呼んでもよいだろう ― を個人が内面化することを要求し期待するのである。そしてこの内面化の過程そのものが、言葉の広い意味では「教育」(教化・規格化・訓練などを含む)と一般に称されるものである。

 いずれにしろ、教師と生徒の関係は学校社会の根幹をなしています。かりにこの関係がくずれるならば、たちまちのうちに学校社会は機能停止におちいってしまう。「教える」行為が内包しているとみなされる権威とそれに対して教えられる側の子どもたちが服従するという関係、この枠組みが学校のすべてであるといっても過言ではないのです。 

 どんなことがあってもこの権威 ― 服従の関係を維持しようとするのは集団内で勢力をもっている側の人びとです。したがって、教師の話すことには侵すことのできない権威があると生徒たちに信じこませることがつづくかぎり学校集団は秩序を保てるのです。

 反対に、秩序維持を最優先させようとするところから、学校にみられる抑圧的な雰囲気や傾向が生まれてくるともいえます。学校において生じる諸問題の多くは、学校社会(集団)がかざす規範への同調化の強制からで生みだされるとおもわれますが、その裏側の事情としては、強制的に規範への同調をうながさなければならないほど、つねに対立や葛藤の危険性がそこに潜在しているということかもしれません。

 ウィリス(イギリスの社会学者)が描いたハマータウン校にも、箸にも棒にもかからない生徒たちが大手を振って闊歩している様子が活写されています。まさに傍若無人のふるまいようでした。そのような生徒たちを、ウィリスはlads(野郎ども)と名づけました。どうあがいたところで出身階級である労働者の身分から抜けだす手段をもたない子どもたちです。そのような「野郎ども」の代表格がジョウィと呼ばれる少年です。彼は学校における、学校に対する自らの距離感を著者との会話でつぎのように語ります。

  ジョウイ…この今のために生きたいんだよ。この若いうちに人生を楽しみたいんだ。出歩くために金がいる。できたら女の子と出歩きたい。今だよ、今、車が欲しいのさ。今、先のことを考えてどうするんだい、五年、十年、十五年、そのときはそのときで考えるさ。ところが他の連中はさ、たとえば、〈耳穴っ子(ears)〉(優等生)なんかはさ、やれ試験だの、それ勉強だので、仲間とつき合うこともしないし、楽しむこともとくにない、それで十五年も辛抱して気がついてみりゃいいおとなになっててね、結婚して所帯もってってぐあいになっちまってるんだ。おれたちとの違いはそこだと思うね。おれたちは今のことを考えてて、この今を楽しもうとしている。やつらときたら、将来のことを考えてて、いつか最高の日がくると思ってるんだね。そりゃ、きっと規則に縛られた生活だろうよ。言ってみりゃ、お役人タイプってとこかな。マイホームを持ったりするようなことは全部おれたちより先にするさ。やつらは名士になる。ああ、お役人タイプの名士になるぜ。おれたちは下積みでウダツがあがんないのさ。(同前)

  このような少年たちが示す学校観は、まさに反学校文化そのものというべきです。がんじがらめに張りめぐらされたフォーマルな文化の網目に対して、すきあらばそれを切りさこうとせぬばかりに学校文化を嫌いぬいているのです。一面では、反学校文化、対抗文化が棲息する余地があるというのは、学校集団の存続には欠かせない条件なのかもしれません。むろんそれは、教師たちにとっては許しがたい状況であるのでしょうが。

 ハマータウン(架空の都市)の時代からはるかに隔たった状況にぼくたちはいるように思われます。この島社会と英国の事情も同日の談ではありません。たしかに、われわれの社会において「学校崩壊」とでもいうべき危機的時期はありましたし、その余波は今なお継続しています。ただ表立って認められないのは、学校文化の一元化(単線化)、あるいは階層化がさらに進んだ結果でもあるでしょう。「格差」社会などといわれた事態がいっそう進化したため、それが常態となってしまって、あからさまに問題を深刻に受け止められなくなったともいえそうです。

 学校をめぐる問題が深く静かに先行してしまったような現在、事態はさらに深刻の度を増しているといえるでしょう。この島社会では猛烈な「少子化」が進行しています。「一定数による集団」によって構成(形成)されてきた学校も、この外的要因によって核心部分で変化せざるを得なくなっています。また少子化に見合った学校数を実現できているのかどうか、この問題も学校を根底から変えてしまう要素をはらんでいます。

 これまで学校がになってきた役割、資本や文化の再生産という機能は、経済社会の変質によって新たな方向をもとめざるを得なくなってきます。第一の波(狩猟社会)、第二の波(農業社会)、第三の波(工業社会)につづく第四の波はどんな社会なんでしょうか。その姿が見えるようで見えないのが今でしょう。「情報化」のその先になにが待ち構えているのでしょうか。人間性を放棄しないで、この先をどのように生きるか、生きられるか、それは学校の課題そのものです。

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試験勉強は堕落

 ケーベル博士は、試験勉強は勉強の堕落という意見であったから、試験などには一向重きを置かなかった。白紙の答案に対して、哲学はそう簡単にわかるものではない、白紙の答案はよい答案である、と云って八十点を与えたり、試験に欠席しても、事情を述べれば点が貰えるという時代さえあった。口頭試験の時、何を聞いても答えの出来ぬ学生に、それでは君に答えの出来る問題を出そう、一体何点欲しいのだ、と聞かれた。正直に六十点あれば結構ですと答えたら、よろしいと云って、即座に六十点くれたなどという話は、たしかに西洋人離れがしている。井上巽軒博士などはこういう流儀に不満で、あなたは惜しげもなく百点をやられるが、私にはそんなことは到底出来ないと云うと、ケーベル博士は笑って、それじゃ私も来年から三十点均一にしましょうか、と更に問題にしなかった。こんな自由な態度で試験に臨んだ者は、恐らく他に一人もあるまい。(柴田宵曲『明治の話題』ちくま学芸文庫、2006年)(引用文は現代仮名に改めた)

 *ケーベル博士(1848~1923)=ドイツの哲学者。ロシアに生まれ,横浜に没。モスクワ高等音楽院卒業後,イェーナ,ハイデルベルク両大学で哲学,文学を学ぶ。1893年東京帝国大学教授として来日,その教養と人格で学生を感化,大正期の知識人に大きな影響を与えた。《ケーベル博士小品集》(1919年―1924年)を残し,夏目漱石に随筆〈ケーベル先生〉がある。(マイペディア)

  *柴田宵曲(しばた・しょうきょく)(1898~1966)=日本橋の商家に生まれる。中学校卒業後、上の図書館に通い万巻の書を読む。独学で俳句・短歌に精通し、後にホトトギス社に入る。『子規全集』の編纂に尽力した人。『柴田宵曲文集』全八巻(小沢書店刊)。

 学校といえば子規も落第生でした。大学予備門(第一高等中学校、のちの旧制第一高等学校の前身。法・理・医・文の四学部とともに東京大学(1877-1886)を構成する)の入学試験を明治十七年九月にうけました。あらかじめ「英語はダメ(力不足)」と自覚していたが、度胸試しでの受験だった。それでも合格したそうですね。(このあたりにもおもしろいエピソードがありますが、いずれまたの機会に)

 「一緒に行った連中が片隅の机に並んで陣取り、互いに気脈を通ずる約束で、隣りの方からむづかしい字の訳を伝えて来る。或字の訳を「ホーカン」と教えられて、幇間と書いて出して置いたが、それは法官であったらしいというような滑稽が「墨汁一滴」に書いてある」(同上)

 子規と漱石は同級。漱石は子規よりは勤勉だったそうですが、「下読など殆ど遣らずに、一学期から一学期へ辛うじて綱渡りしていた」という始末。

子規

 その子規です。「昔から学校はそれ程いやでもなかったが、試験という厭な事のあるため、遂には学校という語が既に一種の不愉快な感を起すほどになってしまった」「余は今でも時々学校の夢を見る。それがいつでも試験に困しめられる夢だ」(同上)

  時鳥(ほととぎす)啼くや伏屋の受験生(尾崎紅葉)

    読んだノート読まぬノートや子規(ほととぎす)(沼波瓊音)

  「支邦の科挙ほどではないにせよ、試験が青年の心を蝕んだ分量も尠少ではなかったろうと思う」というのは、その被害をより少なくしか受けなかったであろう宵曲の感慨です。このブログの別のところで触れましたが、宵曲は開成中学に進んだが家の都合で数か月後に退学し、それ以降は上野の図書館に通いつめ万巻の書を読破したという傑物でした。  

 漱石も落第(留年)組でした。師であった人を描いた「ケーベル先生の告別」から一部を。

(ケーベル先生は今日きょう(八月十二日)日本を去るはずになっている。しかし先生はもう二、三日まえから東京にはいないだろう。先生は虚儀虚礼をきらう念の強い人である。二十年前大学の招聘しょうへいに応じてドイツを立つ時にも、先生の気性を知っている友人は一人ひとりも停車場ステーションへ送りに来なかったという話である。先生は影のごとく静かに日本へ来て、また影のごとくこっそり日本を去る気らしい。(中略)すべてこんなふうにでき上がっている先生にいちばん大事なものは、人と人を結びつける愛と情けだけである。ことに先生は自分の教えてきた日本の学生がいちばん好きらしくみえる。(⤵️)

(⤴️)私が十五日の晩に、先生の家を辞して帰ろうとした時、自分は今日本を去るに臨んで、ただ簡単に自分の朋友、ことに自分の指導を受けた学生に、「さようならごきげんよう」という一句を残して行きたいから、それを朝日新聞に書いてくれないかと頼まれた。先生はそのほかの事を言うのはいやだというのである。また言う必要がないというのである。同時に広告欄にその文句を出すのも好まないというのである。私はやむをえないから、ここに先生の許諾を得て、「さようならごきげんよう」のほかに、私自身の言葉を蛇足だそくながらつけ加えて、先生の告別の辞が、先生の希望どおり、先生の薫陶くんとうを受けた多くの人々の目に留まるように取り計らうのである。そうしてその多くの人々に代わって、先生につつがなき航海と、穏やかな余生とを、心から祈るのである(漱石「ケーベル先生の告別」『硝子戸の中』所収)

 明治時代がおおらかだったのではないでしょう。いつの時代にもケーベル先生はいたし、反ケーベル先生もいました。教育に向ける姿勢というか、教育をなんと考えるかという根本の哲学に決定的な相違があるのですね。ぼくは「教師」じゃありませんでしたが、こころはケーベル先生派でしたね。落とすための「試験」ほど嫌なものはありませんでしたから。あつかわれるのが瞬間の問題か人生の問題か、それが問われるのでしょう。

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ここでは、百年一日ですよ

 十年一日、というのが世間の相場です。だが、政治の世界や役人の世界ではちがう。以下の記事は「読売」という新聞社が乗せた記事だから驚くのではない。どんなところにもまとももいれば、頓珍漢で慇懃無礼もいるという例証に過ぎない。いまにつづく嘘つきとマヤカシの万世一系ですね。嘘つきはいまもなおイケシャーシャーと嘯(うそぶ)いている。昔も今も変わらぬものは、立て板に水と流れ出る 嘘も方便(無骨)

 小学校で先生が子供たちを諭した。「ひとが嫌がることを進んでしなさい」。ある男の子は教えを守るべく、女の子のスカートをまくって歩いたという◆実話か、誰かの創作か、国語学者の見坊豪紀(けんぼう・ひでとし)さんが著書「ことばの海をゆく」(朝日選書)に書き留めている。「ひとが(するのを)嫌がることを」の意味で先生が表現を縮めて話したのを、「ひとが(されて)嫌がることを」と勘違いしたらしい◆縮めた物言いとは誤解を招きやすいもので、「消えた年金」の公約論争もそうだろう。来年3月末までに記録の名寄せを終え、持ち主をすべて特定することを政府は約束した―一般にはそう受け止められてきた◆全体の2割、約1000万件が特定困難と判明し、政府は釈明に追われている。年度内の完了を約束したのは記録の点検であって、持ち主の特定ではない。「選挙だから“年度内にすべて”と(表現を)縮めて言ったのだ」(町村信孝官房長官)と◆スカートまくりの子と同じですな、短縮表現を誤解しましたね、と言われて得心のいく有権者はいまい。選挙であればなおさら、聞き手が誤解しない表現を普通は心がけるはずである◆言葉の信頼度?政権の寿命?次なる選挙の獲得議席数?言葉をあいまいに縮めたとき、一緒に縮んでしまったものは、さて何だろう。(07年12月13日  読売新聞「編集手帳」)

  教師も大臣もほんとに「縮めて言った」のだろうか。だから、誤解されたといいたいらしい。でも、よく考えるまでもなく、言いたいことを言っているのであって、誤解の余地がなさそうです。「ひとが嫌がることをせよ」というのは、そのとおりで、子どもが悪さをしたのは教師の言葉をまともに受けたからです。たしかに教師はそんなことを言うはずはないという疑問が一方にありながら、でもあの偉い先生だから嘘を言うはずはないと思ったのです。

 大臣の発言もけっして縮めていったのではない。あの人だからきっと、できるかどうかに頓着なく、「最後の一人まで」と啖呵を切ったのです。短縮形を誤解したほうが悪いなどと言う屁理屈は、そっくりお返ししたい。その証拠に、大臣を擁護し弁解がましい発言をした直後に「言い方が足りなかった」とかいいながら、謝罪?したのはだれだったか。「誤解されたなら、ごめんなさい」というのが口癖になっている政治屋。本音を言っておいて、真意が伝わっていないというのも、盗人猛々しい。

 ようするに、口からでる言葉が死んでいるんです。「口から出任せ」いって、批判されても、ほとぼりが冷めれば問題なしと口を拭ってしまう、その軽薄な根性がすけてみえるようです。軽佻浮薄(軽はずみでうわついている・こと(さま)。(大辞林)「プッツン」したり、「正直言って公約が頭にさっと思い浮かばなかった」などと、はずかしげもなくのたまう党首や総理が国政の任に当たっているのだから、油断も隙もあったものじゃない。

ぼくは受け取らない

 徴収した「税金も年金」もまるで自分の取り分とでも「誤解している」のか、好き放題に山分け、湯水の如く浪費するなどというのは政治家や役人の風上にもおけないといったところで、いけしゃあしゃあとしているのだから、開いた口がふさがらない。いままた、コロナ禍をして「奇貨居くべし」とばかり、湯水のごとくに「税金」を「私的に」利用する。「私的」とは自己宣伝であり、自己主張であり、自己愛であり、自己暗示であり、…。米国から武器を買うのも自己宣伝さ。

  「言葉とはさみは使いよう」といいたのではありません。「使いよう」をいう以前に、言葉に誠実さがあるかないか、それが問われなければ仕方ないのです。だれもが同じ言葉を使えば、その効用は同じだなどということはありえない。その言葉をどういう心持ちで使うのか、言葉を伝えたい相手の側に身を置くというなんでもなさそうな知恵が微塵もなさそうなのはどうしてか。言葉の不誠実はもちろん人間の不誠実の現れです。人間は言葉でできているとぼくは言う。存在を成り立たせている言葉に実がないのは、人間に実がないのであって、これはどう転んでも取り繕うことはできない。自分を大きく見せたがるのは小人の悪弊だが、大きく見せたつもりで、すこしも大きくなっていないことに気がつかないという人間の不出来には驚嘆する。俺は偉いだろと、飼い犬にまで言いふらしているのかもしれないとおもえば、さもしさの心情や哀れを催すね。

戦時下の議事堂前

 これは「国語力」や「会話の方法」の問題などではなく、人間教育の根本から生まれる結果なんだ。自分の言葉で騙る・語る能力を育ててこなかった報いがいま庶民の上に降りかかっているというこの上ない不幸をぼくは託(かこ)っている。形式民主主義の欠陥がもろに噴出しているのです。どうしてこんな奴原(ヤツバラ)が議事堂に屯(たむろ)しているんだと嘆いても始まらない。

  「言葉をあいまいに縮めたとき、一緒に縮んでしまったものは、さて何だろう?」

 パンツのゴムか、言った人の寿命か。はたまた相手に対する敬意の念か。詰問されてもいかようにも逃げられる道を用意していたのは事実でしょう。政治家本人に寄せる信頼は縮むどころか、地に落ちていますよ。しかしだ、尊敬の念が欠如していると、嘆いてみたところで、人に対する敬意の持ち合わせがないのだからと、まるであきらめの気持ちが生じてくる。それが作戦だったか?嘘を四六時中吐いていると、周りも本人も、それがホントだと信じ込むのだから、薬石効なし。あるのは他者への蔑(さげす)みだけなのか。

学習は教授の結果じゃないよ

 世界中どこででも、その秩序が革命的と呼ばれようが保守的といわれようが、漸進的といわれようが、学校は既成の秩序を再生産するように仕組まれた組織的な事業体である。いたるところで教育への信頼が失われ、学校に対する反抗が起こっているために、人々は根本的な選択を迫られている。つまりこの危機は、学校を新しい装置と置き換え、これらの装置に合うように現在ある権力構造を調整しなおすことによって解決することのできるまた、そうして解決しなければならない問題として取り扱うべきものなのだろうか。それとも、この危機は産業の過程を通じてそれ自身を再生産するどの社会の政治・経済にも本来そなわっている構造的矛盾に、社会がいやおうなく直面させるものなのだろうか。(イヴァン・イリイチ「学校をなくせばどうなるか」1973年)

 彼が1970年にだした『脱学校の社会』(Deschooling society)は、大変な反響を呼びました。「義務的な学校教育をなくしてしまえ」という意見は、あまりにも突飛であり、過激すぎるという点で、彼の真意がじゅうぶんに伝わらなかった嫌いがあります。半世紀が経過した現在、イリイチの言いたかったことはよくわかる気がぼくにはします。

 学校は人間を仕合わせにするどころか、かえって苦しめてきたのではないか。学校教育はどんな職業に対してもすべての人々に平等なチャンスを与えようとしてきたのではなく、「学校制度は…、チャンスの配分を独占してしまった」(『脱学校の社会』)のです。学校が「教育」を独占したという意味は学習のほとんどは「学校で、教師に、教えられたこと(teaching)」の結果だということで、何かを習うのに、得体のしれぬ大人からよりは、学校の教師からのほうが信頼されるという奇妙な事態が生みだされてしまったのです。(それがもたらしたのは「学歴社会」でした)

 「学校は、人々の成長し学習しようとする自然な傾向を、教授されることに対する需要に転換するものである」「学校は人々に自らの力で成長することに対する責任を放棄させることによって、多くの人々に一種の精神の自殺をさせるのである」(『脱学校の社会』)彼の指摘は過激に取られますが、正鵠を射ているとぼくにはかんがえられます。学校(教師)の権威主義の由来・来歴でもあります。「教師」に権威なんかありゃしないにもかかわらず、彼の教える「知識?」(試験問題)の持つ力を「自分の権威」と錯覚したんですね。今でもこの手の「かんちがい教師」はいますよ。

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 「しかし、それにしても、『学習』にこれ程までとりつかれた社会は、かつてほかにあったでしょうか。より多く、より良く、より速く、より容易に『学習』することばかり議論している社会は、以前この世に存在したことがあるのか。そもそも、『学習』に関する議論や懸念が存在すること自体が、私たちの社会の問題のあり方を示しているのではないか。ヘラクレスの時代、エリザベス朝の時代、独立戦争後のアメリカのようにエネルギーに満ち、健康で行動的で創意工夫に富んだ社会が、そんなに多くの時間を『学習』論議にさいただろうか?」((ジョン・ホルト『なんで学校へやるの』)

 答えは明らかだ、とホルトは言います。健康(健全)な社会の人びとは、物事をなし遂げようとすることによって学ぶのだ。「主体的で目的に満ち、意味に溢れた生活および仕事」と「教育」つまり「脅しと褒美、恐怖や欲望の圧力下で行われる、人生から切り離された学習」との間に一線を画すことの必要性を認めたと言うんです。

 彼の指摘は正しい。でも、それはことの半分だけです。確かに、わたしたちの社会においても、農林漁業などにあっては、そこで必要とされる技術や知識を「教える」学校などというものはことさら必要ではなかった。未熟な者はみんな、大人や熟練者がしていることを見覚え、見習いながら自分で訓練を重ねて、知識や技術を習得していたからです。

 ホルトはなにを言おうとしているのでしょうか。学校から逃れるため、学校を否定するために、もう一度第一次産業に従事することを唱えたのでしょうか。

 えらく過激な、また怖いことをいっていると思われるでしょうか。でも、そう思われること自体に、学校教育の影響というか力が働いているのかもしれませんね。たいていの人は、自分が経験してきた「学校教育」がそれほど非難されるものでも、あまりにも非人間的なものだったとも考えたくないのが人情なのだといったらいいか。それもまた、一つの経験に過ぎないとわりきれれば結構ですが、そんなに単純にうけとめられないのもまた人情なんですね。ホルトやイリイチなどが問題視した状況は半世紀経ても少しも変わっていないどころか、さらに学校や教育による「非人間化」の事態が進んでいるといわなければなりません。

 両者は「脱学校」のすすめを主張し実践しました。ホームスクールやフリースクールの叢生はその証明でした。ぼくたちの島社会でも同じような経過をたどって今日に至っています。学校歴や学歴がそれなりに幅を利かせているのは確からしい。でもその利かせる幅はずいぶんと狭く偏っているのも事実じゃないですか。人間の幸せ(仕合わせ)をどこに見出すか、それによって「学校」や「学歴」は浮いたり沈んだり。さらにいえば、どこであれ、大学にまで行ってしまえば手遅れになるような仕事や職業もあり、それによる幸不幸も異なるのです。職業選択の幅は大学に行くことで狭められるとは考えない人がほとんでしょう。でも、それは事実なんですよ。

 「(教師が」教えたことがらが学ぶということじゃない。それは学ぼうとしているものの活動から生み出されてくるものなんだ」(ホルト)教師なんていなくったって、ものを学ぶことはいくらでもできますよ。自学・自習は最も経験として貴重な教育機会ではないですか。今は「コロナ禍」の長丁場です。老いも若きも、ガセネタに惑わされないで、自分(我)流に「ものを学ぶ方法・態度」を身につけられるといいですね。他人からとやかく言われるのではなく、自分で自分を賢くするいい機会となりますように。(病院や医者がいまどんな状況なのか、病気を診てくれない多くの病院や医者がいる、なんでやねん?どうして院内感染が多発するのか(?)ウイルスにも医者にも政治家・官僚にも要注意だ)

 余話です。ぼくのところに来てくれる「石屋さん」は十五歳で仕事の道に入ったといわれました。ただいま、四十過ぎで、三人の子どもさんがいます。ぼくは全幅の信頼を彼においています。いい仕事をされるし、何よりも人の良さというか頼れる人というか、彼が高校や大学に行っていたら今のような職人さんになっていなかったと断言できます。大小取り混ぜて、粗末な庭に石を置いてもらっています。完成は未定で、作られてゆく過程を見ているのがいいですね。そこではぼくも彼の弟子のように動いたりします。(右は「石屋さん」が、最近手掛けている鳥居。この工事で出た土が拙宅の庭に運び込まれた。庭の手入れには格好の土となっています)

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少なくなった「大人の先生」

 学校と私:少なくなった「大人の先生」=住職・無着成恭さん

 山形師範学校にはいわば“緊急避難”で入学したわけで、実家が禅寺だから僧侶になるつもりでした。小学校のころから毎朝5~6時に起きたら読経や掃除、仏事の手伝いの日々。東京の駒沢大学に進学する予定でしたが、東京大空襲でそれどころではなく、実家から通える師範学校へ行くことになりました。

 入学した年の夏に終戦。戦後の混乱は戦中の混乱よりひどい「大混乱」で、食糧難や物資不足で大変でした。特に本が無くて困りました。毎日本屋をはしごしていい本が入荷していないか見ていました。2軒ほどなじみの本屋ができて、いい本が入ったら米1升とこっそり交換してくれたのを思い出します。山形市内を流れる須川の堤防が決壊した時には、授業を休んで補修工事の土運びを2週間して本を買うお金をためたこともあります。学校の1学年下に小説家の藤沢周平さんがいましたが、彼もいつも本を読んでいる学生でしたね。

 師範学校時代に思い出すのは、戦争直後の墨塗り教科書と米国の教育使節団の報告書でした。師範学校の学生でしたが、近くの小学校で戦前の教科書に墨で塗る様子をつぶさに見ました。「ああ、先生が自分で教えたことに墨を塗らせるような教育だったのか。自分が習ったことがうそだったのか。何がうそだったのだろう。教育というのは恐ろしいな」と思いました。その経験が原点になり、マニュアル的な「国家による教育」ではなく、人間の本質にある好奇心を育てる「人間の教育」が大切だと痛感しています。

 今は子どもの立場に立って自分を見ることができる「大人の先生」が少ないのが気になります。私が山元中学校の教師だったころ「学校のイチョウやモミジの木があるが、紅葉でイチョウは黄色く色づくのに、なぜモミジは赤くなるのか」と聞く生徒がいましたが、そこで「授業に関係ない」と言ってはいけません。「いいところに気づいた。一緒に考えよう」と話すべきです。答えは色素が変動する影響のためですが、今こそ生徒の疑問や考えを抑え込まない教育が必要です。<聞き手・船木敬太>

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今井正監督で原作の映画化が。

 ■人物略歴 ◇むちゃく・せいきょう=1927年山形県出身。48年山形師範学校卒業。山形県山元中学校の教師時代に文集「山びこ学校」がベストセラーに。56年、駒沢大学卒業。03年から大分県国東市の泉福寺住職。(毎日新聞・06/12/04)

 久しぶりに無着さんのお話が出ていました。いろいろな意味で、日本の教育、とくに学校教育にとっては大切な方だとぼくはおもってきました。戦後の「民主主義の教育」を心底から実践しようとした、「本物の教育」を生み出そうとしたという点では傑出した教師だったといえます。無着さんが実践されようとした教育はいつでもぼくたちの目の前に立ちはだかっています。教育という名でどんなことを行おうとするのか、それをいつでも教えてくれているように、です。

 ぼくにとってはいろいろな意味で、変な言い方ですが、懐かしい人です。「山びこ学校」出版に際してのエピソードを、その本の出版に携わった人から伺ったことがあります。

 いまでは学校教育は壊滅状態にあるといっても過言ではないでしょう。なぜそのような事態にいたったのか、たくさんの原因や理由がありそうにおもわれるし、いや、じつに単純な事から今日に至る事態がうみだされたともいえそうです。その意味では無著さんは「教育逃亡者」でした。若い時のエネルギーは「飛ぶ鳥を落とす勢い」だったが、そのさなかに、「勢いを殺がれた」「撃ち落された」。それほどにこの島の学校を動かす「暴力的な奔流」の激しさに音を上げざるをえなかったのだ。奔流は勢いを緩める濁流のごとくに流れています。教師も生徒もその奔流に「呑み込まれて」いるほかないのです。でも、ここからの反転をこそ、ぼくたちは静かに試みようとするのです。権力が使う暴力に怯むわけにはいかないのです。「人間の本質にある好奇心を育てる」本物の「教育」に大きな期待と希望をいだいて、一歩ずつ前に進みたい。

 そのためにも、いったい学校とはなんだろうか? いつでもこんな疑問を持ち続ける必要があります。生徒の疑問を抑えないためにも、みずから「疑問論難止むことなし」という姿勢を貫きたいですね。

(左上は、無著さんが戦後の一時期、勤務した「明星学園」です。現在もそこで、ぼくの友人が「悪戦苦闘」(なかなかの善戦ですよ)しています。

*https://www.news-postseven.com/archives/20160212_383376.html

*https://futoko.publishers.fm/article/14606/