半日本人の抗いの記

「シンセタリョン(身世打鈴)」

 大山も(カン)もわが名よ賀状くる

 名を問はれ生姜の姜の字と書く()け地

 ビール()むにつぽん人の(かほ)をして

 ビール酌むわが本名を告ぐべきか

  〝パンチョッパリ〟と嘲笑(わら)ふ者あり、それもよし。吾は半日本人なり

 河豚の座の毒も食らはむパンチョッパリ

  失業 

 蝶去りてパンチョッパリはまた昼寝

 望郷や夕焼けの(いろ)にごりゆく

 故郷(ふるさと)が無いから黙つて花菜食ふ

 指紋()す拳に汗を握りしめ

 選挙権なし銀杏(ぎんなん)を踏み砕く

 永住権貰ひにゆくや河豚(ふぐ)食ひて

 永住を許されし夜や底冷えす

 祭り太鼓われ他国(よそ)者と思ふ日ぞ

 本名と通名 一九三九年、日本が植民地支配のため皇民化政策の一環として、朝鮮人から固有の姓を奪い日本式の氏名に変えさせる「創氏改名」が発令された。四五年八月の解放後は本名にもどったが、在日朝鮮人・韓国人の場合、民族差別等のため今日も通名として創氏改名時の名を使っている者が多い。

 在日 一九一〇年から一九四〇年代にかけて日本帝国主義の植民地支配の結果、日本への移住を余儀なくされたり、太平洋戦争中に労働力として強制連行された朝鮮人の数は百十九万人を超す。日本の敗戦による解放後も米ソによる南北朝鮮の分割占領、朝鮮戦争勃発などによって日本に在留せざるをえなくなった者およびその子孫を「在日」とよぶ。

 パンチョッパリ 半日本人という意味。チョッパリとは豚の足のことである。下駄を履くとき足の指が(ひづめ)のように開くことから日本人を罵る語として使われる。韓国人でありながらチョッパリ(日本人)化していった〝在日〟の蔑称でもある。

 外国人登録 在日韓国人・朝鮮人は三年ごとに外国人登録の切り替えをしなければならない。顔写真を提出し指紋を()す。自分が日本人でないことを再確認する時でもある。

 一九八三年、外国人登録法が改正され、永住権を持つ在日韓国人・朝鮮人の指紋押捺(おうなつ)義務が廃止された。だが外国人登録証明書の常時携帯義務と罰則はそのままで、登録証を携帯していないと外出もできない。

 永住権 一九六五年六月二十二日「韓日条約」と同時に調印された「在日韓国人法的地位協定」は「韓国籍」を取得した者にのみ永住権を認可することにした。さらにこの年の十月「韓国だけが国籍、朝鮮は用語」という統一見解を出し、在日韓国人・朝鮮人の二分政策に拍車をかけた。(姜琪東(Kang Kidong)『身世打鈴 シンセタリョン』石風社、1997年)

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  姜さんは一九三七年に高知県に生まれた韓国人です。身世打鈴とは「身の上話」にあたるものですが、姜さんの「身の上話」はじつに読むのがつらくなるようなドラマといえるでしょう。

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 「本書はいわゆる〈句集〉ではない。俳句という表現形式による一人の在日韓国人の自叙伝であり、パンチョッパリ〈半日本人〉と呼ばれる男の精いっぱいの抗(あらが)いの記である」

 「考えてみれば、韓国人の私が日本語で考え、話し、書くという行為は決して自然な姿ではない。だが、この不自然な姿こそが私の姿そのものであり、私の俳句なのである」(「あとがき」)

 ここにも一人の「在日韓国人」がいます。

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〇姜琪東(カン・キドン、1937年 – )は俳人。高知県出身、福岡県在住。横山白虹、加藤楸邨に師事。元アートネイチャー代表取締役会長。現・出版社「文學の森」代表取締役社長、月刊『俳句界』発行人兼編集総務。通名は大山基利。(出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)

 「在日のおかれている現実は、在日という言葉が存在する限り、在日コリアンがこころから笑い合える日は永遠に来ないのだ。」(『ウルジマラ(泣くな)』「あとがき」)

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悲しみと怒りが、ぼくが詩を…

<1> 二つの顔 療養中 朝鮮戦争に衝撃

詩人 御庄博実さん(1925年~)2010/7/27

現役の医師として診療現場に立つ(広島市安佐南区の広島共立病院・右写真)

 詩人と医師。御庄博実さん(85)=本名丸屋博、広島市安佐南区=は二つの顔を持つ。岩国市に生まれ、原爆投下2日後に知人を捜し広島市内に入った。戦後、峠三吉らと活動する一方、医師として国内外の被爆者に心を砕き、今も診療現場に立つ。(御庄さんは2015年1月18日に亡くなられました)(http://www.hiroshimapeacemedia.jp/?p=39979

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 僕の中で、詩人と医師は併存している。「命と向かい合う」のが医師。それは、詩人も変わらないし、そんな詩人でありたい。「人間の命」への思いが底流にあります。

 最近の現代詩は思想が飛躍し過ぎて、「言葉遊び」になっている面がある。僕は医師、つまり科学者という面も持ってますから、あまり理屈を飛び越えてしまうとついていけない。古いタイプの詩人なんです。

 「文明社会」の根幹は批評精神と想像力の二つだと考えています。それは常に人間の命にかかわる問題。ピカソは、ヒトラーがゲルニカを爆撃して大量虐殺を行った際、すぐにあの大作を描き上げた。その想像力、批評精神。僕の詩の基本も同じです。政治や権威に対する批評精神は常に磨いておかなければならないと思います。

 ヒロシマを体験した僕は、医師として韓国人被爆者や、イラクの劣化ウラン弾被害者と真剣に向き合ってきた。すると、酒が発酵、熟成するように、言葉が出始め、詩が生まれるんです。

 岡山医科大(現岡山大)3年のときに結核を発症し、療養のために岩国に戻る。1950年、朝鮮戦争が勃発(ぼっぱつ)。故郷は米軍の街に変貌(へんぼう)しようとしていた

 療養していた国立岩国病院(現国立病院機構岩国医療センター)からほんの数キロ先、敗戦により連合国に占領された岩国飛行場から、米軍の攻撃機が朝鮮半島に向けて飛び立っていくことに衝撃を受けました。

 岩国飛行場は戦前、旧海軍の飛行場として造られ、中学生だった僕たちも工事にかり出された。もっこを担いで土砂を運び、育ち盛りの稲が茂った青田を赤土で埋め立てた光景を鮮明に覚えています。子どものころ、友達と食用ガエルを捕って遊んだ思い出の場所でもありました。

 その飛行場が、米軍の攻撃拠点になり、また多くの命を奪っている。原罪感というのでしょうか。悲しみと怒りが、僕が詩を書くきっかけになりました。(この連載は文化部・伊藤一亘が担当します)(中國新聞・2010/7/27)

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 《 八月六日は家(舟入本町)におりました。腹が痛うて工場へ行かずに寝とったんです。そいでピカ落ちるのも知らなんだ。目つぶっとったので何も分からん。そいで目を開けてみたらふっと家が倒れるようなんです。さっと出たら下敷きにならなかったのに、起きたらふっと倒れるから倒れる方へ逃げたんです。それでぽかあんと下敷きになって。

 はじめは黒うて何も見えない。そのうちすうっと夜が明けるようになって、ありゃ家だけバラックじゃからつぶれたと思うて、家だけ爆弾落ちたあいうて隣の人呼んで、屋根がトタンだったきにね、それでも大きな板押さえとるからなかなか出られないです。どうして抜けられたか分かりません。上がろうにも穴がない。頭つっこんでみたり、腕をぐうっと上げてみたり、夢中であがいて、その時は簡単服着てたんですが、出られた時にはぼろぼろ真っ裸になっていました。そして上がってみりゃ家どこじゃない、みんなじゃ。》(李貞秀「裸で三日位歩いておったんです」) 

 李さんは1920年生まれ、四歳の時に渡日し、広島の吉島に住まわれた。被爆したのは二十六歳のときでした。韓国慶尚南道の陜川 出身でした。敗戦の年の十一月に帰国。その後の生活は辛酸をなめるがごとくといったものでした。九十年に死去。

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  《 昭和五年十二月二十八日、私は江波と境になっている広島市舟入町で生まれました。…

 私の父は、大正時代に故郷の慶尚南道の陜川を離れて広島にやってきて、鉄くずや 古本を集める仕事をしていました。母も韓国の人ですが、広島で知りあい、結婚したと  のことです。…/八月六日、運命の日の朝、八月の太陽が熱い光で広島を隅から隅まで  赤く彩りながら昇っていました。土手の上で赤いお日様に何かを祈っていた隣のお婆さ んの姿が、五十余年過ぎたいまでも私の脳裏に残っています。…

 その日は勤労奉仕で道路拡張のために家屋を倒す作業に従事していたそうです。仕事中に大原という少年が離れたところから手を振って自分を呼んだので、「何か変わったことがあるのかなと思い、列を外れて行ってみました」そこは元病院だったという建物で、疎開のために何ひとつ家財道具が残っていなかった室内に入っていったそうです。

 二人は風の通る涼しい奇麗な床に寝転んでみました。その時、何か黄色い光がぴかっ とした瞬間、私は気を失ったようです。気がついたときは薄暗い壊れた建物の下敷きに なっていました。崩れ落ちた壁土や、いっぱいの埃を打ち払い、側にいたはずの大原君 を捜したがどこに行ったのか見当たりません。私が気を失っていた時間がどのくらいで あったのか分かりませんが、死んだと思って先に逃げて行ったようです。…

 一九八二年三月頃から下腹が変に少し痛みを感ずるようになりました。たいしたこと ではないと思っていましたが、数日過ぎても治りません。病院に行き診察を受けました。 医師は神経性の大腸炎だと言い、注射と何日分かの飲み薬をくれましたが、痛みはます ますひどくなるので、大邱 の東仁外科病院に入院しました。そこで大腸の切除術を受 けました。妻の話によると、大腸がもつれて、約二十センチ切り、取り除いたと言うの です。八日間の入院が自分の気持ちではじりじりして何ヶ月もたったと思うほどでした。》(李順基「陜川で芽生えた広島のどんぐり」)

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 どれほど前のことでしたか(出版直後であったのを記憶しています)。ぼくの敬愛してやまない医師であり詩人でもある丸屋博先生から一冊の本が送られてきました。それは『引き裂かれながら私たちは書いた』(西田書店刊、2006年)。その副題は「在韓被爆者の手記」とありました。ある事情から先生との出会いがかない、何度か親しくお話を伺う機会がありました。また、何冊もご著書をいただくという幸運にも恵まれました。この『引き裂かれながら…』は読むのがつらい本でした。

 上に紹介した、ふたつの文章(引用)はそこからの引用です。

 「まえがき」で丸屋先生は「数年来交友をつづけていた原爆被爆者の李順基氏の進行癌が判明したのは二〇〇一年一月であった。五十六年遅れの原爆症というべきであろう。

 『ガン告知』をうけ、自らの『死』と直面しながらの彼に韓国人としての「被爆者の自分史」を書き残すことを強く勧めた。彼が苦悩しながら決意して書き終わるまで、年余にわたる痛恨の日々と深くかかわる事となった」

 この本には十一人の韓国人被爆者の悲痛な声が刻まれています。

 被爆した朝鮮人は広島で約五万人(約三万人死亡)、長崎で約二万人(約一万人死亡)だといわれています。日本は世界で「唯一の被爆国」だということがことあるごとに叫ばれます。はたしてそうなのか。表面的にはそうかもしれないけれども、日本人以外の被爆者が世界の多くの地域で「日本国」のいかなる庇護も援護も受けないままですくなからず存在されていた・いるという事実を忘れてならないでしょう。(五年も前に先生の訃報を聞いた後も、何もできない・していない自分の不甲斐なさをいまなお嘆いているのです。さまざな思いを込めて先生のお仕事をていねいに学んでいきたいと念じています。温厚そのものだった表情の下に、どれほどの怒りと悲しみを湛えておられたのか)

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What kind of America is it?

 コロナ禍で制約を受けるアメリカの日常は、黒人にとっての日常(パックン)2020年05月30日(土)15時30分

 ロブ・ロジャース(風刺漫画家)/パックン(コラムニスト、タレント)

 …風刺画では「自由の国」なのに、経済活動も生活も自由にできないって、どんなアメリカだよ(What kind of America is it?)と、新型コロナウイルス感染拡大中の生活に不満を感じる白人の疑問が挙がっている。そして普段から学校でも、銀行でも、不動産屋でも、会社でも裁判でも平等な扱いを得られず、買い物、デートなど外に出るだけで命の危機を感じる黒人は「俺のアメリカだ(My America)」と答える。切ない限りだ。

 さらに残念なことに、コロナ危機においても黒人が受けるダメージは白人のそれより大きいようだ。職種や貯金額などの違いから自宅待機ができないとか、「疑われると撃たれる」恐れがあるからマスクを着けないとか、さまざまな理由で感染率が高い。そもそも黒人の医療保険の加入率が白人より低い。予防治療を受ける割合も低い。黒人が受ける医療の質も低い。その結果の違いが、いま著しく表れている。全国平均で、黒人のコロナによる死亡率は白人の死亡率より2.4倍も高い。

 ここまで病んでいる国がMy Americaでもあると考えると、僕は実に恥ずかしい。(https://www.newsweekjapan.jp/)<本誌2020年6月2日号掲載>

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 いまアメリカで生じていることは、けっして対岸の火事ではないとぼくには思われます。銃が発射されたり、街頭で火の手が上がるような事態にはめったに遭遇しませんが、事いたったならば、その程度のことは起きても不思議ではないでしょう。要するに「きっかけ」の有無が問題になっているのです。さらにいえば、それだけ日常的に「抑圧」や「強制」、あるいは監視や管理が現下一にまで達しているからこそ、時には暴発するのだというのです。

警察署に火をつけ、集まるデモ参加者。5月28日、ミネアポリスで撮影(2020年 ロイター/Carlos Barria)

 君は「暴力」や「暴動」を認めるのかと問われれば、ぼくは場合によっては、というほかありません。圧倒的な武力(暴力)を一方的に容認されている権力側に対抗する、どんな手段を民衆は持っているのか。むのたけじという人が怒りを以て言われたことがありました。秀吉は「刀狩り」をしましたとかんたんにいうが、それは「刀狩られ」だと。武具や農具をことごとく召し上げられ、以来、武力は権力の占有となったのです。それに対するに、被抑圧者は身命をかけるしか方途はないのです。アメリカとこの島では事情は大いに異なりますが、「差別」とそれを生み出す「偏見」が野放しされているままで、どれだけきれいごとをいっても始まらないというのがぼくの実感です。

 目には目を、歯には歯( lex talionis )をというのはいかなる意味合いだったか。ぼくは詳しくは知りませんが、同じ力関係でない限り、この報復は成り立たないでしょう。暴力を肯定はしませんが、それも条件次第です。ガンジーの非暴力抵抗主義も単純なものではないようです。「暴力(武力)」をだれが使うか、行使するかということを見逃すべきではないとぼくは考えているのです。「自衛」「防衛」は認められなければならないでしょう。そのために力や武器を使うこともある。それを禁じたなら、事態は変わらず、権力はいつでもそれを我が物にするだけです。

 「もしも黒人の暴動がなかったら、アメリカは少しも変わらなかったろう」という意味のことを言ったのはM.Foucaultでした。

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日本の生活圏に同化埋没し…

「在日」を生きる

(毎日新聞・2019/07/01)

 祖国の置かれている状態を、よんどころなくひっかぶって生きつつも、なお、祖国の実情実態を一つの視野に収めうる立地条件を生きると言うことは、裏を返せば、本国の五千万同胞をね、打って返しうる存在体でもありうるだろうという思いがあるのですね。在日朝鮮人は、立場が違うからとか、思想、信条、政見が違うからといって、〝在日〟という一つのところを変えるわけにはいかない生存基盤を分け合って生きているわけです。いやがおうでも、一つところを同じく生きねばならない実情、実存を生きているという事実、この動かざる現実を積極的な意味と価値に転換しうるだけの意識がたくわえられていくならば…。

 ところが、一方で、在日世代の圧倒的多数を占めるようになった在日三世、四世たち、この世代たちのほとんどが、実に八四パーセント近くが日本の学校に行っているのですけれど、十三万八千といわれる就学児童、学生のなかで、十一万あまりが日本の学校で学んでいるのですから、「民族性を失わずに・・・」という期待は、生育の下地のところで崩れていっているのですね。日本への傾斜は加速度を加えて、ここ七、八年前までなら、年四千名前後の帰化者であったものが、いまでは五、六千名になっているほど、〝朝鮮からの脱落〟は年を追ってつよまっているのです。そして、おそるべきことには、これはある日本の朝鮮研究者から聞いた話ですが、法務省のマル秘資料にですね、在日朝鮮人の趨勢を二十五年と踏んでいる数字が出ているというのですね。二十五年たてば、在日朝鮮人はみな日本人に吸収されるものとして、ちゃんと計算がはじかれてあるというんです。(中略)

金 …いつのまにか在日朝鮮人のことを、「在日韓国・朝鮮人」という併称でもって呼びならわされていることも合わせて、在日朝鮮人の存在自体に対する軽視をかい間見る思いですね。

 このこと自体、わたしは在日朝鮮人の存在を侵害するものだと思っていますけど、つまり、こういうふうに言われるようになった直接の契機は、一九六五年韓日会談の締結なんですけどね。韓日条約締結によって、在日朝鮮人の在留条件が永住権申請、取得という条項でもって規制されるようになってしまいますね。永住権を申請するためには、自動的に韓国籍を取得しなくちゃならない。これは在日朝鮮人への、陰険きわまりない国籍条項の強要を秘めていた。それで一夜にして、在日朝鮮人の勢力分布は入れ替わってしまった。いまはもう五分の四が〝韓国〟籍と見られています。朝鮮総連の現役活動家だって、韓国籍を内密に取っている人が少なくない。そういうご時勢なんですね。これ自体が擬態を生きている。〝在日生きる〟とはけっしてそんな従属の生ではない。(中略) 

金 思い起こすだにいまいましいことですが、在日朝鮮人の趨勢をそれほど左右するようになった韓日条約の締結にあたってですね、当の在日朝鮮人の心情とか意思がはかられたことはまったくもってなかった!(中略)

 在日朝鮮人七十万という存在体はね、八十年前もいまも、祖国の恩典も庇護も受けたことのない集団なんですよ。その集団がね、一朝にして韓日条約の規制を受けて、いきおい韓国国民に糾合されちゃって、韓国の法権力の規制を受けるようなことはね、在日朝鮮人七十万の存在をほんとにきびしく見る立場からするならば、これは不当・不合理きわまりないことなんです。なんらの救済も庇護もうけたことのない「本国」の片方から、徐勝兄弟の青春に見るような無残な仕打ちを受けるいわれは、在日のわたしたちにはない!正当な関係からするなら、それはまったくもって逆のことなのだ。わたしたちの悲痛きわまりない思いが祖国にぶつかるべきことであって、祖国の権勢がそのわたしたしたちにかぶさる―法的にね―かぶさることじゃないと思う。(中略)

金 …多少とも在日朝鮮人のありかたに思いをはせるものからしますとね、わたしたち在日朝鮮人にとっていちばん、いま、苦悶に近く大きい問題は、在日世代三世、四世のですね、日本の生活圏に同化埋没していくことなんですよ。(中略)

 これはまあ「風化」という言いかたもありますけど、わたしは「風化」というのはむしろ変わらなくて、原型がこり固まってしまうのが風化なんで、そういう言いかたはしませんけど。むしろ溶解と言うべきじゃないでしょうか、溶解…。(中略)

 そういうことが、いちばんわたしたちの苦悶なんですね。わたしたちはまだ一つに帰一してもないのにね、その道程なかばに至らずして、もしくはなかばを実は超えているのかもしれないけど、人生後半のだな、わがだいじな意識体、存在自体がね、溶解してしまうことがいたたまれないんです。(中略)

 そういった人たちにとってはね、市民的権利というのは、溶解するのにものすごく好都合なわけ。(以下略)

 「在日を生きる」と題された対談の初出は、雑誌『朝鮮人』(一八号、一九八〇年四月)。(左写真は済州島)

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 ぼくが尊敬してやまないのは、金時鐘さんの上に述べられている「生の条件」の一貫性の故でした。氏はいまも奈良に住まわれて、九十一歳の春から夏を送られています。生涯をかけて「在日のはざま」をえぐり続けてこられた、金さんの健康を祈るや切です。

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人にも植物にも芒種の候あり

1979年、非行とその克服の記録『ブリキの勲章』が話題となり、1981年に映画化された(中山節夫監督、中村嘉葎雄主演)ぼくは一度だけでしたが、中山監督と親しく話をしたことがありました。中山さんは社会派というか深い問題となっている事象をテーマにして映画を作っておられます。1970年のデビュー作は「あつい壁」、とても考えさせられるものでした。熊本菊池出身の監督の郷里で生じた事件の映画化でした。

 自分の「芯」になるものあった=非行克服支援センター理事長・能重真作さん

 戦時中小学生時代には配給のたばこを吸ったりして「ワル」でした。両親ともに教師で、いつも「先生の子」として見られていました。私が来ると周りの子がピタリと話をやめたりすることもあった。だから「おれだって人の子だ」と行動で示すしかなかった。

 教師は「なぜやるのか」の説明がなく、何も言わない。そのころの子どもは理由を聞かずに従っていればよかった。しっかり意識していたわけではないが、感覚的に「おかしい」と思った。

 小学6年の時に終戦を迎えました。それまで「きさまら」「日本男児」と言っていた人たちがガラッと変わり、「君たちは」と言い始めた。毎日教科書を墨塗りしました。

 勉強は嫌いでしたが、読書と演劇はずっと好きでした。中学生のころから浅草に映画や演劇を見に行ったりしていた。いつも本を持ち、読んでいました。私にはそういう自分らしくあるための「『芯(しん)』になるもの」がありました。(毎日・07/01/08)

   ■人物略歴:のうじゅう・しんさく=1933年生まれ。東京学芸大卒業後、中学教師に。非行少年などの問題に取り組み、実践記録「ブリキの勲章」は映画化された。現在も非行や不登校に悩む親と子を支えている。(同記事より)

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 勉強と遊び

 勉強が嫌いだったが、読書と演劇は好きだったと能重さんはいわれています。その理由らしきものはなんだったのでしょうか。おそらく「勉強」は強いられたのに対して、「読書・演劇」はじぶんでやったからということだったのではないでしょうか。

 だから、強いられる「勉強」ではなく、遊ぶような「勉強」が求められるんじゃないですか。遊びの面白いところは「工夫する」余地がたくさんあるというところです。その余地がなければ、つまりじぶんでためしてみる部分が少なければ、あるいはまったくなければ、好きだったものでさえ「嫌い」になるのです。

  どんなに学校の成績がよくても、遊びの部分・余地がなければ、なんというか、とてもつまらない生活を送ることになるんじゃないですか。能重さんは「芯」ということばをつかっておられますけど、この「芯」はじぶんで育てるのであって、そとから植えつけることはできそうにありません。だから「芯」は勉強からではなく、遊びから育つといいたい気がするのです。「遊びをせんとや生まれけん」

〇「芯」=(多く「芯」と書く)もののなか。中央。中心。㋐内部の奥深いところ。「からだの心まで冷える」㋑中央にあって、重要な役割をになう部分。「鉛筆の心」「蝋燭 (ろうそく) の心」「一家の心となって働く」㋒火が通っていない飯粒や麺の、中央の硬い部分。「心のある御飯」㋓物の形状を保つために、その内部に入れるもの。「襟に心を入れる」(デジタル大辞泉)

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  上の記事のつづきを読んでください。

 《私は大学に入り、東京の下町の学校へ教育実習に行きました。その学校には、下校時間が来ても言うことをきかずに校舎に残る子どもたちがいた。

 会って接してみると、その子どもたちは、自分の子どもの時代の子どもと違っていたんです。自分が常に持っていた「『芯』になるもの」がなかった。その子どもたちは、家に帰っても親の仕事が忙しくて誰もいないから帰らないという事情もありました。

 「この子たちこそ教師を必要としている」と思いました。そして教師になろうと思ったんです。私に「生きる道」を与えてくれたのは子どもたちでした。

 昔の子どもも今の子どもも本質的には何も変わっていないと思います。発達過程も思春期を迎える時期も変わらない。そしていつの時代も子どもたちは常に自分の存在を認めてほしいと思っています。

 今も私自身は「子どもから学んでいかなくてはならない」と思っています。

 そしていつも教師や大人は、子どもに対して謙虚な姿勢を持たなくてはならないと思います》<聞き手・吉永磨美>

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   評価されたいという衝動

 「昔の子どもも今の子どもも本質的には何も変わっていないと思います。発達過程も思春期を迎える時期も変わらない。そしていつの時代も子どもたちは常に自分の存在を認めてほしいと思っています」と能重さんはいわれます。それもひとつの子ども観でしょう。でも、どうでしょうか。放牧された牛と牛舎に閉じこめられた牛では、牛であることは変わらないけど、その質(肉質もふくめて)ずいぶんとちがうんじゃないですか。

 だから、大切なのは、この子は放牧派か牛舎派かを見きわめることです。教師の仕事の値打ちも腕の見せ所も、ここのあるともいえるのです。そして「そしていつの時代も子どもたちは常に自分の存在を認めてほしいと思っています」というのはそのとおりだといえますね。これは大人だって変わらないのではないですか。そうはいっても、だれからも認められたいのではないのです。犬でも猫でも、認めてもらいたいというのではない。

 評価を求めるのは、わたしたちの一種の衝動です。この衝動は曲者だといわなければならない。強力かつ執拗ですから。いやな勉強でも、それによって評価されるなら我慢してやろうとします。いやだけれど、しかたがないけどしなければならない。唯一、そんないやな勉強でも、成績が高ければ評価されるからです。その証拠に、いくらやったところで、だれも見向きもしてくれなければ、やらなければならないことでもしようとはしないのではないですか。

 学校は評価されたいという子ども(人間)の衝動をてっていして利用しているのです。

ススキの紋所

  これはけっして教師にかぎられることではなく大人にも当てはまるのですが、「子どもから学んでいかなくてはならない」という姿勢をもつのは簡単じゃないですね。子どもに学ぶというのは、はたしてどのようなことをさしているのでしょうか。赤子からも幼児からも学ぶことができるひと、それは稀有な存在だといえそうです。

(本日で五月は終わり。なにか感慨があるのではありませんが、春の香りも酣(たけなわ)と思いきや、もう梅雨が近くまで来ています。「芒種(ぼうしゅ)」の候となりました。「芒」は「のぎ」です。稲や麦の先端のとがった部分。またはススキを指す。(右はススキの紋所)

〇 芒=稲や麦などイネ科植物で、花の外側の穎 (えい) の先端にある針状の突起。分類上重要。または、芒(すすき)とも=イネ科の多年草。山野に群生し、高さ約1.5メートル。秋、茎の頂に十数本の枝を出し、黄褐色から紫褐色の大きい花穂をつける。これを俗に尾花といい、秋の七草の一。(デジタル大辞泉)

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略奪が始まれば、銃撃が始まる

 テイラー・スウィフトさん、黒人男性死亡めぐりトランプ氏を批判2020年5月30日(AFP)

【5月30日 AFP】米北部ミネソタ州ミネアポリス(Minneapolis)で警察に身柄を拘束された黒人男性のジョージ・フロイド(George Floyd)さん(46)が死亡した事件をめぐり、米人気ポップ歌手のテイラー・スウィフト(Taylor Swift)さんが29日、抗議のデモ参加者への発砲を示唆したドナルド・トランプ(Donald Trump)米大統領を批判した。

 スウィフトさんはツイッター(Twitter)で、「就任してからずっと白人優位主義と人種差別の火をたきつけてきた。厚かましくも道徳的優越感を装った後に暴力で脅すのか」と述べた。スウィフトさんはツイッターで8600万人のフォロワーを持つ。

 トランプ氏は「略奪が始まれば、銃撃が始まる」とツイッターに投稿し、物議を醸している。この発言に対してスウィフトさんは「私たちは11月に投票によってあなたを退陣させる」と明言した。

 トランプ氏は、ミネアポリスで発生している警察に対する暴力的な抗議デモについて、デモ参加者を「略奪者」と呼び、軍隊を送ると警告していた。

 この投稿に対してツイッターは、「暴力の賛美」に当たり、自社の規則に違反するとして非表示にするという前例のない措置を取った。

 アフリカ系米国人に対する警察の暴行に抗議する暴動は29日、3日目の夜を迎え、ミネアポリスとセントポール(St. Paul)に数百人の兵士が配備された。

 抗議活動の起点となった事件が起きたのは25日。手錠をかけられ地面に横たわったジョージ・フロイドさんが、警官から5分以上も首を膝で押さえつけられて死亡した。この時の様子が動画に撮影されていた。 

 若くして大きな名声を獲得したスウィフトさんは、数年前から政治的発言をするようになり、過去にもトランプ氏を批判。2018年の中間選挙ではテネシー州の民主党候補への支持を表明した。(c)AFP

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【5月30日 AFP】(更新)米北部ミネソタ州ミネアポリス(Minneapolis)で、黒人男性のジョージ・フロイド(George Floyd)さん(46)が警察の拘束下で死亡した問題で、地元当局は29日、フロイドさんを死に至らしめたとされる元警察官の男を逮捕し、第3級殺人などの罪で訴追した。

 逮捕されたデレク・ショービン(Derek Chauvin)容疑者は25日、フロイドさんの首を少なくとも5分間にわたり膝で押さえつける様子が動画に撮影され、免職処分を受けた。ミネアポリスでは事件を受け、3晩連続で暴動が発生。店舗数百軒が損壊し、警察署が炎上する事態となっていた。(以下略)

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 先ごろ、この島でも多くの人のツイッター上の政治的発言が話題になりました。米国でも事態はより深刻だと思います。「大統領」の特異性というだけでは終わらない問題で、なぜこのような人物が「大統領」に選ばれたのか。民主主義のもっともも危ういところの一つでしょう。分断と断絶によって、選挙民は二分される。「いい人間」と「悪い人間」とでもいうのか。「上等」と「下等」とでもいうのか。分断や対立を起こさないようにするのが「政治」だといえば、失笑どころか、嘲笑を買うばかりなのかもしれない。

 民主主義のお手本だと「米国」を持ち上げてきたのがこの島社会の大半でした。実は表面からは見えにくいが、その足元には「差別と暴力」が蔓延していたのです。(状況はこの島においても変わらない)選挙民が賢明でなければならないとは思うけれども、選択を間違えない保証はどこにもないのです。失敗をし、また出直す。致命的な過ちを犯す(たえばた戦争行為など)、にもかかわらず、また出直す。全く同じ地点からの出直しなのか、一ミリでも進んだ地点からの出直しなのか。あるいは、…。(100対0から、99対1へ。気の遠くなるような道のりだけれども、バーバラ・リーさんのようにあきらめないこと、誠実を貫くこと、この地点を確保する、そこからまた、歩き出す。

 「おかしいことは、おかしい」という。「まちがいは、まちがいだ」と指摘する。一歩進んで二歩下がる状況が彼我の地に生じていますが、責任を放擲するわけにはいかないのです。

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