多様性に向けた変化を確信

[ラゴス 29日 ロイター] - ファッションモデルのナオミ・キャンベル(50)はロイターとのインタビューに応じ、長らく多様性に欠けると批判されてきたファッション・美容業界も、雇用の創出や幅広い顧客に向けた製品の開発などを通じて変化し得るとの見解を示した。/ 人種差別に対する抗議運動の高まりを受けて、一部には製品の変更などを行う企業もみられている。米日用品・医薬品大手ジョンソン・エンド・ジョンソン(J&J)(JNJ.N)は、より幅広い肌の色に対応したばんそうこう「バンドエイド」を発売すると発表した。/ キャンベルはモデルとして34年のキャリアを持ち、黒人モデルでは初めてフランス版「ヴォーグ」や米「タイム」誌の表紙を飾った経歴を持つ。/ キャンベルは「全世界が同じ思いだ。人々が声を上げている。そうした動きを、われわれは変えられるとの期待を持って見ている」と述べ、黒人にもデザイナーやスタイリスト、メイクアップアーティストなどの職に就く機会が増えると信じている、と語った。(2020年6月30日 )
1970年5月22日生まれ、サウス・ロンドンのストリーサム生まれのナオミ・キャンベル(Naomi Campbell)。90年代を代表するスーパーモデルの1人。ジャマイカ人と中国人の血を引く。(vogue)

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裁判官は弁明し、謝罪もする

 〇正義のかたち:裁判官の告白/5 2度の再審無罪

 ◇自らの裁定、異例の謝罪--終生責任負い続け

 横浜駅から数駅で降り、何度か坂を上り下りした先に、目指す家はあった。閑静な住宅街の木造2階建て。今は別の表札がかかっている。かつてのあるじは元裁判長だった。

 40年近く町内会長を務めた男性(80)だけが「町内会顧問をお願いした」元裁判長を記憶していた。「定年になって」と転居してきたが、現役時代のことは多くを語らなかった。数年後、新聞で名前を見つける。

 <谷口さん、家族関係者に長い間ご迷惑をかけて申し訳ありません>

 「財田川事件」の谷口繁義死刑囚が高松地裁で再審無罪判決を受けた84年3月の毎日新聞。再審前に死刑を言い渡した裁判長のコメントは「顧問」のものだった。

 元町内会長は証言する。「あれから家に引きこもるようになってしまった。かわいそうなくらい落ち込んで……。がっくりきたんでしょう」。さらに約1年半後、「徳島ラジオ商事件」で、既に病死していた冨士茂子元服役囚が請求し、遺族らが引き継いでいた再審の無罪判決が確定。実刑判決を出した裁判長として、毎日新聞に再び名前が載った。

 <死後であっても無罪判決が確定して良かった。おわびしたい気持ちはある>

 その2年後、元裁判長は病死する。

 両事件の再審を担当した判事たちは「明らかに証拠が足りない」「事実認定が職業的なレベルに達していない」と批判する。ただ、根拠とした証拠物の鑑定結果が科学の進歩で覆るなどの事情があったのも事実だ。

 取材に応じての異例の謝罪。裁判官の鉄則とされる「裁判官は弁明せず」に元裁判長は逃げ込むことを潔しとせず、亡くなるまで悩んでいたようだ。

 山田真也弁護士(72)は、徳島ラジオ商事件で元裁判長と合議した裁判官が「裁判長とは考えが違う。私たちは間違っていない」と話していたことを覚えている。また、財田川事件で元裁判長とともに死刑の結論を出した別の裁判官は「人間のすることだから結論が変わることもある。当時は最善を尽くした」と言葉少なに語った。

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 元プロボクサーの袴田巌死刑囚(72)の再審請求が最高裁に係属中の袴田事件。1審の死刑判決文を書いた熊本典道さん(70)は昨年「無罪の心証だった」と公表した。「合議した裁判官の主張で死刑になった。2対1で負けた」と、評議の秘密さえも明かした。

 当時、無罪判決の下書きを破り捨てて書き直したが、良心に反する判決に耐えかね半年後、退職した。それから40年。袴田死刑囚の釈放のため、中断していた弁護士活動を再開する意向だ。「本来、自分の考えと違っても判決の責任は負うべきだ。だが、このまま冤罪(えんざい)で死刑になれば新たな殺人に手を貸すことになると思った」

 裁判員も6人が常に全員一致とは限らない。裁判員法は、役目を終えた後も終生、評議内容の口外を禁じている。=つづく

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 刑事訴訟法で定められた「再審制度」、もしこの規定がなければ、いったいどれほどの裁判によって「冤罪」が作られたことか。ぼくは、まるで空想のように、あるいは専門家からは嘲笑されるかもしれないと思いながら、担当する裁判で「誤判」によって「冤罪」を生み出すような裁判官(もちろん検察・警察も含めて)は何らかの法的裁き(処罰)を受ける必要があると考えてきたし、語りもしてきました。ことに「死刑」判決が誤りであったなら、取り返しがつかいからと素人ながら思い悩んできました。今回の裁判官の「告白」「謝罪」は異例なのでしょうが、文献として掲げた『財田川暗黒裁判」の著者である矢野伊吉さん(右写真)は、この事案の担当判事した。その軌跡は著書を読まれることを勧めますが、いかに判事が無謬でないか、またことに「死刑判決」の場合は全員一致という上下関係の社会における「足枷」が強くはたらくか、それを如実に示しています。司法界もまた「立身出世主義」に毒されています。

 ぼくが「死刑制度」を認められない理由はいくつかありますが、この「冤罪」の蓋然(危険)性、それを生み出す強制的な「取り調べ」「証拠等の捏造」など、数々の検察(警察)の横暴(人権無視)もその一つです。起訴独占、有罪立99パーセントなどが、多くの過ちをこれまで生み出してきたし、これからもそれは続くでしょう。「公権力の恣意的行使」の過ちが裁判で明らかにされるのはごく一部です。取り調べの可視化などいくつかの変革は見られますが、その根っこの部分は「腐敗」したままの司法制度こそ、白日の下にさらされなければならないでしょう。まるで「百年河清を俟つ」気味があるのですが。

 「後の祭り」という表現があります。It is too late for regrets now.こういうことが生じないための最善の策はなさそうです。ならば、次善の方法を求めるべきでしょう。「死後であっても無罪判決が確定して良かった」といわれて、どう返せばいいのでしょうか。「人間のすることだから結論が変わることもある。当時は最善を尽くした」から、「死刑」も甘んじて受けろ、というのですか。

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 ■ことば  ◇財田川事件、徳島ラジオ商事件

 50年2月、香川県でヤミ米ブローカーが刺殺された財田川事件。谷口繁義さん(右写真)が別件逮捕され、57年1月、最高裁で死刑が確定。84年3月、高松地裁で死刑囚として2人目の再審無罪に。53年11月、徳島市のラジオ店経営者が自宅で刺殺された徳島ラジオ商事件。懲役13年の実刑判決を受けた内縁の妻冨士茂子さんは服役中に再審請求。85年7月、徳島地裁で史上初の死後再審無罪が確定した。(毎日新聞 2008年3月25日 東京朝刊)

● 再審制度=冤罪を防ぐため、確定した判決を再び審理して見直す刑事訴訟法で定められた制度。無罪を証明するような新しい証拠が見つかったり、証拠がウソだったことが分かったりしたときなどに裁判所に再審開始を請求できる。裁判所の開始決定が確定すれば、通常の裁判と同様、公開の法廷で再審公判が行われ、判決を出す。(朝日新聞掲載「キーワード」)

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魂を裸にして吟味する仕事

 教師は「教える人」であると同時に、あるいはそれ以上に「訊ねる(尋ねる)人」なのだということを執拗に言いたい気がします。何十年にもわたって、ぼくは一つ覚えのように「教えすぎてはダメだ」といい続けてきました。「考える」「疑う」という余地を子どもから奪うことにしかならないからです。さらに、「教える=与える」とするなら、与えられる不幸というものもあるということを考えてほしいのです。教師は教える人、それがいわば定番で、日本の学校の頑迷な固定観念にすらなっています。たくさん「教える=与える」教師は「いい教師」というけれど、何のために「いい教師」なのかは問われないままです。質問するこころざしを持つ必要があることを忘れている教師が多すぎます。考える働きを行使するのは、自らが自由であることの証です。その働きを奪うというのは、どういうことなのか、それをよく考えたいですね。 

 一人の哲学者、ソクラテス研究者の告白を紹介します。林竹二(1906-1985)さん。東北大の教授を務められ、そのご新設された宮城教育大学の学長に就任された方です。

 《 自分が授業というものに興味を持って関われたのはソクラテスを学んでいたからだ。彼の問答法というのは、魂を裸にして吟味する仕事で、それこそ教育というものであった。でも、それはけっして「教える」ことではなかったのだ、と。/ これだけは「教える」必要があると勝手にみなしたことを徹底して教え込む。それが子どものためになるかどうか、そんなことはいっさいかまわない。教えることこそが、自らの仕事だと思いこんでいるのが教師というのだろうか。そこには「教」はあっても「育」は存在しないのだ 》(林竹二「〝生きたソクラテス〟に会う」1981/12)

 晩年の貴重な時間を使って、全国各地で授業行脚を続けられた人でした。上に引用した文章には、次のように書かれていた。

《十年前に私はある小学校の六年生と、はじめて人間についての授業をした。ごく軽いきもちで試みた授業だったが、クラスの全員が感想を書いてくれた。それを読んで私は、はじめて子供の内側を垣間見た思いがした。

 その中に一枚「林先生が人間についてのことをぼくのひみつにしておきたいと思いました」という感想があった。そこにはつづいてこう書かれていた―「林先生はぼくたちのことをいっしょうわすれることはないと思いました。しかしぼくだったら、すぐわすれているかもしれませんけど、ゆるしてください。林先生げんきでいてください」。  この授業が私に、かつて予想したこともない道を歩かせることになった。まさしく転機であった。授業は私に人生の新しい地平を開いた。その新しい地平のなかで、かつて私が人生や学問での出会いを経験した人たちが、新しい生命をもって立ち現れてくるのを見た。私は授業ではじめて子どもたちの内面にふれた。それは私が、教育という営みにはじめてじかにふれた経験であったといってよいだろう》(同上)

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 すでに紹介した大江健三郎さん。かれは林竹二さんとは別の表現で、しかし同じ意味合いの教師・教育論を述べていると、ぼくには思われるのです。以下にその障りの部分を引用しておきます。 

 《 先生とは、本来、すくなくともプラトンの『メノン』以来認められてきたとおり、知らない人間に教えることを知っている誰か、というのではありません。かれは、むしろ生徒の心のなかに問題をあらためて作り出すようつとめる人であって、それをやるかれの戦略は、なによりも、生徒にかれがすでに、はっきりと言葉にできないけれど知っていることを認めさせることなのです。それは、かれが知っていることを本当に知ることをさまたげている、心のなかの抑圧の、いろんな力をこわすことをふくみます。生徒よりむしろ先生の方が、たいていの質問をすることの、それが理由です 》(『「自分の木」の下で』毎日新聞社、01年)

 《 柳田國男という学者が、先生から教えられたことをそのまま真似るような勉強の仕方をマナブ―マネブという古い言葉と同じ―、それを自分で活用することも出来るようにするのがオボエル―自転車の乗り方をオボエルというでしょう―そして教えられなくても自分で判断できることをサトルと分けました。マナブからオボエルまで進まなくてはならないし、できればサトルようになりたい、といっています 》(同上)

 「学」と書いて「まなぶ」と読ませます。まなぶとは「まねぶ」(まねる)を意味します。「覚」と書いて「おぼえる」と読ませます。おぼえるとは「まなぶ」を意味します。元来、「学」と「覚」は同根です。面倒なことははぶきますが、「學」も「覺」も根っ子はいっしょだと考えられていました。その「覚」(おぼえる)はまた「さとる」とも読みます。「まなぶ」から「おぼえる」まできて、さらにそこからなにかを「さとる」(発見する)。これこそがものを学ぶという行為の深い姿ではないかと思われてきます。

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安楽死、それは合法化できるか

 〇正義のかたち:裁判官の告白/4 安楽死、認める4要件

 ◇進まぬ議論嘆く「遺言」--「殺人罪」評議に重圧

 判決後も退官後も「裁判長」にとって事件は終わっていなかった。ビデオの中で、迫り来る病魔を感じさせない熱い口調で語る。

 「近い将来に安楽死の問題が出てくる気がした。議論の材料を提供する意味で、少し踏み込んだ判断を示したんです。判決から10年たちますけど遅々として議論に進歩がない」

 終末期医療での医師の行為が初めて刑事裁判になった東海大安楽死事件を横浜地裁で裁いた松浦繁さん。殺人罪に問われた医師に95年3月、執行猶予付き有罪判決を下した。06年3月に富山県の呼吸器外しを巡り取材を受けたテレビ番組の録画ビデオは今「遺言」に見える。約半年後の同11月、松浦さんは63歳で生涯を閉じた。

 東海大の医師は、末期がん患者を苦しみから解放するよう家族に頼まれ薬物を使った。判決は有罪無罪の前提として(1)耐え難い肉体的苦痛(2)死期が迫っている(3)苦痛を除く手段が他にない(4)本人の明確な意思表示--という積極的安楽死が許される4要件を新たに提示。患者が昏睡(こんすい)状態で痛みを感じておらず、(1)(3)(4)に反するとして有罪と結論した。

 4要件は捜査や裁判の今も変わらぬ基準だ。だが松浦さんは、医療現場や市民も議論に加わり終末期医療の指針作りや法整備が法廷外で進むことを念じていた。「仕事のことは黙して語らずの夫が、議論が進まない、と嘆いていました」と妻真理子さん(60)は話す。

 真理子さんに車の運転を頼んで事件現場へ休日に出向くなど、現役時代は納得できるまで考え抜いた。自宅書斎に70冊以上並ぶ安楽死に関する本が、退官後の関心を物語る。

 真理子さんは「たとえ自分の基準が否定されてもよかったはずです」と亡き夫を代弁する。朝日新聞(2014/01/17)

 延命治療の中止などは患者本人の決定を基本とする「終末期医療の決定プロセスに関するガイドライン」を厚生労働省が定め、一歩を踏み出したのは昨年5月。亡くなってから半年後のことだった。

  ◇  ◇

 裁判官は法と証拠に照らして事件を裁く。よりどころの「法」にあいまいな点があれば、自ら基準を設定せざるを得ない。終末期医療を巡る事件で言えば、百家争鳴の「死の迎え方」についてわずか3人、裁判員制度でも9人で一つの答えを決めねばならない。

 幅広い議論の必要を感じながらも、密室の評議で決断を迫られる矛盾。「医師の行為が良かったのか悪かったのか。市民感覚を聞いてみたかった」。松浦さんと共に東海大事件を担当した元裁判官の広瀬健二・立教大法科大学院教授(57)は、再び医師が殺人罪に問われた川崎協同病院事件での胸中を語る。

 広瀬さんは05年、同じ横浜地裁で今度は裁判長として執行猶予付き有罪判決を出した。川崎事件は発生から起訴まで4年以上たっていて、事実関係を見極める作業で困難を極めた。この経験から「国民参加には大きな意義があるが、裁判員制度に向かない事件もある」と見る。

 プロの裁判官が悩みや苦労を抱えてきた安楽死事件。殺人罪で起訴されれば、裁判員も同じ立場に立つ。=つづく(毎日新聞 2008年3月24日 東京朝刊)

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● 東海大学安楽死事件=患者は多発性骨髄腫のため、東海大学医学部付属病院に入院していた。病名は家族にのみ告知されていた。1991年(平成3年)4月13日、昏睡状態が続く患者について、妻と長男は治療の中止を強く希望し、助手は、患者の嫌がっているというフォーリーカテーテルや点滴を外し痰引などの治療を中止した。長男はなおも「早く楽にしてやってほしい」と強く主張。医師はこれに応じて、鎮痛剤、抗精神病薬を通常の二倍の投与量で注射した。

 しかしなおも苦しそうな状態は止まらず、長男から「今日中に家につれて帰りたい」と求められた。そこで助手は殺意を持って、塩酸ベラパミル製剤を通常の二倍量を注射したが、脈拍などに変化がなかったため、続いて塩化カリウム製剤20mlを注射した。患者は同日、急性高カリウム血症に基づく心停止により死亡させられた。 翌5月にこのことが発覚し、助手は塩化カリウムを注射したことを問われ、殺人罪により起訴された。なお、患者自身の死を望む意思表示がなかったことから、罪名は刑法第202条の嘱託殺人罪ではなく、第199条の殺人罪とされた。

 裁判において、被告人側は公訴権の乱用として、公訴棄却もしくは無罪の決定・判決を求めた。 なお、先例として名古屋安楽死事件がある。(wikipedia)

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 安楽死に賛成か反対か、という問い方はどうだろうか。生死にかかわる問題を多数決で決めるような方法は正しいとは思わない。(しかし、最後はそのようにしか決められないのかもしれない)それはまるで、死刑制度に賛成か反対かという問題に重なる。「人為的死」は「殺人」と地続きだからです。この社会で「臓器移植」問題が議論された時にも(「脳死臨調」)、けっして議論が一つの結論に収斂することはなかった。最終的には「心臓移植の必要性」から「脳死は人の死」という観点で臓器移植がみとめられた。

 安楽死を「君はどう考えているか」、この問いにぼくはじゅうぶん納得できるような解を自分に与えることはできない。考えを深めていけば、ついには正解にいたる問題であるとも思われない。東海大学における事案以降も何件か、医療現場で「安楽死」問題とされる事件が生じています。法廷で裁かれた事件もあります。交通違反のような線引きは不可能であり、だからこそ、多くの関係者は悩むのだ。ぼく自身が当事者になれば、とうぜん何らかの反応を示さなければならないが、現時点では、この問題に関する「是非」は判断中止であるといわざるを得ない。生死の問題は計算でも統計でもないからだ。

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無言の抵抗、それがもっとも手ごわい

革命叫べば逮捕、ならば無言で抵抗 香港人が訴える「目に見えない大切なこと」香港国家安全維持法(国安法)の施行で「革命」などのスローガンが禁止されたことに、香港市民が「無言」で抵抗している。香港の飲食店などには、スローガンを書いた付箋を貼って連帯を示す「レノン・ウオール」と呼ばれるボードがあちこちにあったが、施行後はボードを掲げるだけで同法違反に問われる可能性がある。そこで登場したのが、何も書いていない付箋を貼った「無言」のレノン・ウオールだ。色とりどりの付箋だけのボードは、香港市民の強い怒りを示している。香港の繁華街・銅鑼湾の飲食店に登場した「無言」のレノン・ウオール=2020年7月4日、福岡静哉撮影(毎日新聞)

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Lennon Wall at City University Hong Kong. September 25 2019. This is one of many locations that has Lennon Walls containing posters, messages and grafitti that are found around Hong Kong.(一年前の様子。上下二枚の写真を凝視してみます。民主派がここまで追い込まれてしまったという側面と、習近平派がこんなことまでしなければ「迫りくる危機」を乗り越えられないという側面がある。これから Long Revolutin   への闘いが続く。独裁権力はきっと倒される。現下の政治状況は、二十年前の「ソ連」に酷似していると、ぼくには思われる。この状況は「対岸の火事」などではまったくない。いつでもどこでも、どんな権力も「独裁」や「専制」を欲するものだ。

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学びの場は現場だったってこと

 「学校と私」

 小学校の思い出は、やはり写真との出会いかな。下町でげた店を開いていたおやじは、本業より写真に夢中。セミプロ級の腕前で、よく七五三や入学式の写真撮影を頼まれて、おれが助手としてついていった。

 兄弟は他にもいたのになぜおれを選んだのかはわからない。三脚を立て、暗箱の中にカメラを組み立ててレンズをのぞくと、逆さまの校舎が見えた。一切の風景を遮断して被写体と向き合う、あの不思議な一瞬は忘れられない。

 おやじはじきに、ベビーパールという名前のおもちゃのようなカメラを買ってくれた。それでいっぱしの「芸術作品」を撮るぞ、と思ったんだな。小学校の林間学校で日光の東照宮に行った時、1人で朝早く起きて、閉まっていた門を乗り越えて、中の風景を撮ったことを覚えている。

 放課後はろくに勉強もせず、外で友達とメンコや剣玉、ベーゴマ遊びをしていた。でもなぜか成績はよくて、5段階評価で音楽が3だった以外はオール5だった。読書が好きだったわけでもないけれど、作文もほめられたりしたなぁ。

 小学校で覚えているのは戦地から引き揚げてきた帰還兵の先生。毎朝、本を朗読してくれた。朗々と「レ・ミゼラブル」を読み上げるんだが、ジャン・バルジャンの人生が胸に迫り楽しみだった。クリスマスの時期になると外国人の家に連れていってくれ、ジングルベルを聞いたりした。読書とか英語とか、これからの時代を生きるのに必要だと思ったんだろうなぁ。

 中学で初めて好きな女の子ができた。修学旅行ではその子を狙ってシャッターを押した。もちろん寺も撮った。女と風景。そのころからずっと、同じものを撮っているのかもしれない。

 写真を専攻しようと千葉大工学部の写真印刷工学科に進んだが、期待と違って、フィルムやカメラの仕組みを勉強する学科だった。32歳でプロになるまで特に撮影の勉強はしなかった。おやじが購読していた「写真新聞」を小さいころからながめたり、撮影助手をしたりで、自然と感覚が身についた。学びの場は現場だったってことだろう。【聞き手・山本紀子】 ==============

 ■人物略歴

 ◇あらき・のぶよし=40年東京都生まれ。通称アラーキー。64年、下町の子どもを撮った写真集「さっちん」で太陽賞受賞、72年に電通を辞めフリーに。女性ヌードを多く手がけ、作品に「わが愛、陽子」など。(毎日新聞 2008年5月19日 東京朝刊)

  このコラムはどれくらいつづいているのか。(ぼくは新聞を読まなくなってから久しいので、このコラムの現況も知らないままです)新聞は旧聞になり、反対に旧聞は新聞に顔貌をかえるのが世の常のようでもあります。したがって、「旧聞」をひとまとまりでも束ねておけば、世の中の人情や世情を知るのに不自由しないという仕儀に至るようです。ぼくは今では考えられませんが、「切り抜き」などという面倒をいとわずにやっていたことがあり、それがかなりは分量になって残っているのです。ひまにあかせて折々、そいつを引っ張り出してはあらぬことを妄想したり、世の無常や無情を嘆いてみたり、ということはしませんで、いつでも変わらないままなんだなあ、という諦念を強くするのです。

 本日はアラーキーです。一度だけどこかで会った記憶があります。不思議なお顔をされていました。小さな方でしたね。でも、さすがに彼のフォトはいいものだというぐらいはわかります。森山大道さんとは全く異なりますが。

 それぞれのひとが「自分と学校」、「自分の学校」を語ってきました。学校に対する距離感の違い、教師に向ける眼差しの濃淡、あるいは学校そのものに対する信心と不信。学校(教育)に寄せる想いはまた、一人ひとりの生き方の流儀を語るものでもあるようです。卒業して何(十)年も経った時点での語らいですから、美化する人もいれば、はなから峻拒する人もいます。自分にとって「学校」派立った人地ではないはず。監獄が、酒場が、映画館が「がっこう」だという人は無数にいるはずです。自分が「(いろんな意味で)賢い人間」に慣れたか、なりかけたかしたら、そのきっかけになるのが「学校」だ。

 だが、そこに共通して認められるのは、多様で多彩な不信の念のようでもあります。不信はいけないのではなく、それは独立心(他人に依存しない傾向)を強めてもくれるのですね。荒木さんの場合は、どうですか。

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