子どもの知恵を呼び覚ますのが大人

「アテネの学堂」(ラファエロ作・ヴァチカン美術館蔵)ヴァチカン宮の「署名の間」にあるフレスコ。正面中央右がアリストテレス、左がプラトン。(二人の腕の向きに注目)その左八人目あたりの黄土色の着衣がソクラテスとされる。その他、ここに描かれているのは当代を代表する哲学者たちだった。

 大江健三郎さんの講演の一部から。

 (ギリシアの哲学者のプラトンという人はその師匠であったソクラテスを主人公にしてたくさんの対話篇を書きました)そのなかに『メノン』という作品があります。他の都市国家から来たメノンという人と、ソクラテスがこのように話したという本です。『メノン』は、ソクラテスが死ぬ三年前にこういう対話があった、という仕方で書かれています。ソクラテスは七十歳で死にましたから、三年前というと大体いまの私ですね。いまの私はあのソクラテスの年齢なんですよ(笑)。

 ソクラテスをつうじてプラトンは、『メノン』という本でどういうことをいっているかというと、人間の徳、人間の一番大切なもの、その人の生きている社会で役に立つ知恵、英語のvirtueという言葉とつうじるものですが、力として役に立つ徳ということですね。人間の資質の本当に優れているところ。それは人間に生まれつくものか、そうでなくて教育することができるものかということを議論している本なんです。

 そこに、生徒は先生にとってどういう関係にあるかということを書いたところがあります。(中略)

 それで根本にあるのは、ソクラテスがこう考えていることです。プラトンもそう考えているわけです。子供はみんな本当の知恵を持っている、先生が知っていることを子供に教えるんじゃない。そうじゃなくて、子供が知っているけれども、自分ではっきり知っているとわかっていないことをはっきりさせてやる。それが、教えるということだと。もともと子どもは知っている。子供には知恵がある、それを呼び覚ましてやること、それが教育だ、というのがソクラテスの考え方、つまりこの本を書いたプラトンの考え方ですね。だから教育の現場では、生徒が先生に質問するよりも、先生が生徒に質問することのほうが多いんだ、とソクラテスはいうんです。このことは重要です。君はどんな問題を持っているのか、きみには何が大切なのか、きみは何がわからないと思っているのか、ということを子供たちに発見させてやる。それが教育だ、というんです。(大江健三郎「きみたちにつたえたい言葉」『鎖国してはならない』所収。講談社刊、2001年)

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  このくだりはとても有名なものです。一辺が二プウスの正方形、その二倍の面積をもつ正方形はどのようにして求められるか。それをメノンの家の小さな「奴隷」に尋ねます。彼は学校に行ったことがありません。その彼に向かって、ソクラテスは幾何の問題を提出したのです。棒切れを使い、土間に図を書いて「問答」を続けていく。

 結論をいうと、次のようになります。それはソクラテスの言でもあります。

 「この子供は自分と話しているうちに、いまの図を作って考えて行って二倍の正方形の作り方が正しいということを自分でわかっていた。それは教えたんじゃない」「子供が学んでそれを発見したのだ。かれは本当に自分が知っていたものに気がついたのだ。それが本当の、子供が新しいことを発見してゆく仕方だ」(大江)

 「皆さんが、学校で学ぶことも、たいていさきに自分でわかっていること、自分で知っていることなんです。たとえば『なぜ人を殺してはいけないか』というようなことを、大人がこのごろ訊ねるしょう。それは子供が生きてゆく上で、ちゃんと自分で知っていることです。そして守っていることでしょう?いまなぜ自分が人を殺さないかということは、自分の心のなかではっきり知っている。あらためて質問するなら、それを子どもたちが自分の言葉でも表現できるようにする。ソクラテス式にそれをたすける話しをしてゆく、ということが必要です。ただ『なぜ殺さないか』という質問をして、そのまま答えを待っている先生は間違っているんです。子供と話しながら先生が、あるいは親が、『なぜ自分が人を殺さないのか』、それを本当は自分が知っていると、子供の心のなかではっきりしてくる方向に向かわせる。そこへ子供たちの考える運動を導いてゆくのが先生の教え方、父親の教え方だということを、もう二千三百年も前のソクラテスが教えていたわけです。それが重要だと私は思うんです」(大江)

 なんかじつに簡単な方法だと思われそうですが、なかなか、そうじゃないでしょう。先ず時間がかかりすぎる。(これは「問答法(対話術)」 という)教師の仕事は「教えないで、質問する」ことだと再三いってきました。ここでもまた、同じことがいわれています。「教えないで、訊ねる」これにはどのような仔細が背後に隠されているのか。じっくりと考えてみる必要がありそうです。『メノン』をくりかえし読むことが何よりです。

 「ものを知る」というのは、すでに知っていて、それを忘却しているのだから、うまく思い出す、つまり「想起する・させる(アナムネーシス)」のだというのです。(*哲学におけるアナムネーシス (ギリシア語: ἀνάμνησις )とはプラトンの認識論的・心理学的理論で使われる概念。日本語では想起という訳語が与えられる。この概念はプラトンの対話篇の中でも『メノン』および『パイドン』で発展させられ、『パイドロス』でもそれとなく言及されている。wikipedia)

 記憶を失ってしまったというのは正しくないので、どのような記憶でも、脳内に保存されているのだが、それをうまく取り出す(思い出す)仕組みが機能していないから、それを手助けする人や働きが求められるというのです。ここに「教育」(問答法→産馬術(生み出す)((maieutikē の訳語)」の役割があり、教師や親の仕事があるのです。教え込むのではなく、引き出す。思い出させるということ、「あっ、そうだったのか」という具合に。そのとき、「生みの苦しみ」が必ず伴うのです。

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● ディアレクティケ(英語表記)dialektikē=問答法ないし弁証法を意味するギリシア語。ディアレクティケの創始者はエレア派のゼノンとされ,その方法は相手の主張を仮説として認め,その仮説が矛盾した結論を導くことを証明して相手を論破する争論的性格のものであった。しかしプラトンはそれを真の意味での問いと答えの弁証法として哲学そのものの方法にまで高めた (『国家』『クラテュロス』) 。一方,アリストテレスは真の前提から出発する演繹体系として分析論から区別して,一般的に承認された見解に基づく推論をディアレクティケと呼んだ (『分析論前書』) 。またストア派では「真と偽および真偽いずれでもないものを問いと答えのうちに弁別する知識」と定義されている。以後中世末期までは一般的にいってディアレクティカ (ラテン語形) は論理学の一部あるいは論理学そのものであった。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

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いったい、何を裁くのだろう?

 〇正義のかたち:裁判官の告白/3 重荷背負う、死刑判決

 ◇「被告を憎んではならない」--今でも、苦い思い出

 死刑か無期か。「ギリギリのケースだった」

 山口県光市で起きた母子殺害事件の上告審で、裁判長を務めた元最高裁判事の浜田邦夫弁護士(71)が、06年6月に言い渡した判決について胸中を明かした。

 裁判官4人の合議による判決は元少年について「特に酌量すべき事情がない限り、死刑を選択するほかないものといわざるを得ない」と指摘。そうした事情の有無について審理を尽くさずに無期懲役とした2審判決は「甚だしく不当だ」として、広島高裁に差し戻した。2度目の高裁判決は4月の予定だ。

 40年間の弁護士生活を経て5年間最高裁で経験を積んだベテランにとっても「死刑」が絡む決断は厳しい。昨年11月の取材で浜田さんは「高裁の判決理由だけでは不十分だった」と語っている。

  ◇  ◇

 賛否とは別に制度がある限り、裁く者は死刑と向き合う責務がある。重みを知るからこそ、証拠と格闘し事実を突き詰める。

 熊本地裁八代支部時代の免田事件で、史上初めて死刑囚に再審無罪判決を言い渡した河上元康弁護士(70)は「判決は事実認定が勝負」と思い定めてきた。別の事件で死刑判決を下した際には「とことん調べたから粛々とやった。前夜に寝付きが悪いこともなかった」と自信を持って振り返る。

 反対のケースも。裁判官を約40年間務めた鬼塚賢太郎弁護士(84)は裁判長として臨んだ唯一の死刑判決で、弁護人に「控訴してはどうか」と勧めた経験を持つ。

 連続少年誘拐殺人事件で、被告の男は死刑を望み口をつぐんだ。ほとんど審理が終わった段階で裁判長を引き継いだが、間違いは許されない。困り果てた末、控訴する気のない弁護人にあえて言葉をかけたのだった。最終的に被告は控訴、上告し、最高裁で死刑が確定。鬼塚さんは「嫌な思い出。今も心に残っている」と顔をゆがめた。死刑言い渡しについて元裁判官の山田真也弁護士(72)は「嫌でも納得せざるを得ない。苦い薬を飲むようなもの」と表現したうえで「平気でできる人に裁判官になってほしくない」と語る。

  ◇  ◇

 重い決断を迫られる「死刑」事件も裁判員制度の対象だ。

 千葉・市川一家4人殺人の控訴審で、東京高裁裁判長として犯行時19歳の少年だった被告に死刑を言い渡した神田忠治弁護士(73)は「人の命が奪われるのだから良かったなんて思わない。被告に憎しみは持たないし持ってはいけないと思う」と話す。判決が最高裁でも維持され、確定した今もそう感じる。

 浜田さんは思い切ったように言った。「裁判員には大変な重荷を背負ってもらうことになる」=つづく

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 ■ことば  ◇免田事件

 1948年12月、熊本県人吉市で祈とう師一家4人が殺傷された事件。別件逮捕された免田栄さんはいったん自供したが、公判途中から否認。50年3月、熊本地裁八代支部で死刑判決を言い渡され、52年1月、最高裁で確定した。83年7月、同支部で再審無罪となった。(毎日新聞 2008年3月23日 東京朝刊)

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 殺人を犯した人間を「裁く」のは当然でしょう。社会のルールを壊すような破壊行為は法に照らして処罰しなければならない。時代は「厳罰化」に傾いているといわれます。ぼくにはそれはわからない。そうかもしれないし、そうでないかもしれない。裁判には「判例」が欠かせないが、それも微妙な変更がいつしか大きな差異となることもある。これまでは「死刑」が当たり前とみなされた事案が、時間の経過とともに「無期」ということもありうるし、その反対もあるでしょう。「永山基準」の現状はどうか。それは十分に考慮されているのか、いないのか。

 以前にも述べたように、ぼくは「死刑廃止」を考えている(願っている)ものです。おいおい、その理由や背景を述べることになると思いますが、人間の可能性、それも道徳的な可能性をさらに考慮すべきだと思うのです。「更生」という言い方がされますが、過ちを犯した者が生きなおす、やり直すことにもっと積極的な価値(意味)を見出したいと考えているのです。これは多数決で決めるべき問題ではありませんが、「個人の尊厳」は犯罪の有無に左右される程度のものかどうか、それを深く問いたいというのです。けっして、「犯罪行為」を軽視しているつもりはありません。死には死を以て報いろ!というのは「その通り」ともろ手を挙げて賛成といいたくなりますが、だが、待てよというのです。その根拠は(?)

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 死刑廃止 – 著名人メッセージ:団藤重光さん(東京大学名誉教授、元最高裁判所判事)

 最高裁判事としての痛切な経験

以前から学者として、死刑は廃止するべきだと考えてはいましたが、最高裁の判事になってから痛切な経験があって、確定的に死刑廃止論者になりました。

それはある事件の裁判でのことです。
もっとも裁判官として、自分が扱った事件をとやかく言うことはできませんから、少し抽象化して申しますので、ご了承下さい。

その事件はある田舎町でおきた毒殺事件でした。

事件の被疑者としてある男が捕まったのですが、彼は逮捕以来ずっと否認を続けていました。 直接証拠は何もないのです。指紋も残っていませんでしたし、他にも直接証拠は何もなかったのですが、状況証拠から言いますと、この人がやったと疑わせるに十分な証拠がありましたので、一審二審ともに死刑判決を受けていたのです。

ところが弁護人の主張によりますと、警察は町の半分くらいを調べただけで、この男を被疑者として逮捕したようです。 そのため弁護人は、「残り半分の地域を調べたら、同じような状況にある人間が出てきた可能性がある」と主張しました。

それはもっともな話です。けれども、それだけで一審二審の死刑の判決を覆すだけの理由があるかというと、個々の状況証拠は動きませんから、それは難しいのです。

判決に影響を及ぼす重大な事実誤認があるときは、下級審の判決を破棄できますが、この程度のことでは破棄できません。私も記録をずいぶん詳しく調べたのですが、合理的な疑いをこえる心証が取れれば有罪というのが刑事訴訟の建前ですから、そのまま判決を確定させることになったのです。

いよいよ死刑判決を言い渡す日になりました。 裁判官がみんな席に着き、裁判長が「本件上告を棄却する」と言いました。

棄却するということは死刑が確定するということです。 そして裁判官専用の出入り口から私たちが退廷し始めたその時です。 「人殺し!」という声が法廷中に響いたのです。罵声です。私たちが罵声を浴びせられたのです。

私はいつもでしたら傍聴席のこんな罵声くらいで驚きはしませんが、正直なところ、「本当にこの人がやったのだろうか」という一抹の不安を持っていましたので、このときの「人殺し!」という声はこたえました。その声は今でも忘れられません。

その事件で私が感じたわずかな不安というものは、多分に主観的なもので、人によって違うと思います。その小法廷の5人の裁判官の中でも、そういう不安を持ったのは、おそらく私だけだったでしょう。残り4人の裁判官は、自信を持って死刑判決を言い渡したと思います。 でも私には、わずかに引っかかるものがありました。

しかし現在の司法制度の下では、このようなケースで判決を覆すことはできません。そして死刑制度がある以上、この事件で死刑が確定したことはやむを得ない結果でした。

私はこの経験を通して、立法によって死刑を廃止する以外には道はないとはっきり確信するようになりました。

https://www.amnesty.or.jp/human-rights/topic/death_penalty/dandoshigemitsu.html

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疑わしきは被告人の利益に

 〇正義のかたち:裁判官の告白/2 木谷明さん、30件超す無罪判決

 ◇「再審開始すべきだと思った」--「白鳥事件」の悔い原点

 痴漢冤罪(えんざい)事件を描いて昨年ヒットした映画「それでもボクはやってない」で、周防正行監督が参考にした元裁判官がいる。

 「無罪言い渡しに喜びを感じていた、と言ったら監督に驚かれましたよ」と笑う法政大法科大学院の木谷明教授(70)。現役時代に30件以上の無罪判決を言い渡し、すべて確定した。自分の判断で無辜(むこ)の人を刑罰から解放できたのが喜びだった。有罪判決を出した映画の中の判事の対極に立つ。その原点には「幻の再審」がある。

 確定した判決の審理をやり直す再審。その開始条件を緩和したのが最高裁の「白鳥決定」(75年)だ。

 1952年1月21日、札幌市警本部(当時)の白鳥一雄警部が射殺された。日本共産党札幌地区委員長(94年死亡)が、国外逃亡した実行役に指示したとして逮捕・起訴され、最高裁で63年、懲役20年が確定する。委員長は65年再審請求。札幌高裁に棄却されるが、異議を申し立て、同高裁の木谷さんの部に舞台は移った。

 50冊を超す記録を読み、唯一の物証だった2発の弾丸に疑問を持つ。確定判決は「事件が起きた52年1月上旬に札幌郊外の山中で試射した弾丸」と認定したが、発見されたのは、事件の1年7カ月と2年3カ月後だった。発見されるまで土に埋まっていたのに腐食がない。新たな鑑定書も「長期間土中にあれば、弾丸の表面にひびが入る」と指摘しており、証拠の捏造(ねつぞう)を疑った。

 木谷さんは当時、裁判官3人のうち最も経験の浅い判事補である。合議で、先輩2人に審理のやり直しを訴えたが、理解してもらえない。再審は「開かずの扉」。開始は、真犯人が現れた場合などに限られていた。

 「再審開始すべきだと思った。私の実力不足だった」と木谷さんは悔やむ。決定に「弾丸の疑惑」を盛り込ませたのが精いっぱいだった。その4年後、「白鳥決定」が出る。

 決定は「疑わしきは被告人の利益に」の原則が、再審でも適用されることを明確にうたった。検察側の証拠で考えても「犯人らしい」という程度にとどまるなら被告に有利な無罪に、疑問の余地なく確信できる時だけ有罪に--。裁判員制度でもこの鉄則は揺るがない。

 木谷さん流の表現では「検察官が有罪と認めさせる十分な証拠を出したか」が裁きの基準だ。弾丸に感じた「証拠捏造」の可能性も忘れず、証拠を深く吟味した結果が、多くの無罪判決につながった。

 裁判員が臨む法廷では、過去の事件を完全には再現できない。だから、と木谷さんは説く。「裁判で絶対的な真実を発見することは不可能と割り切ることが必要。想像で証拠を補ってはいけない」=つづく

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 ■ことば     ◇白鳥決定

 白鳥事件で最高裁は75年、再審請求の特別抗告を棄却するが、確定判決に合理的な疑いを生じさせる新証拠があれば、再審を認める緩やかな基準を示した。これを追い風に財田川、免田など死刑事件でも再審が一時相次いだ。しかし、名張毒ぶどう酒事件で名古屋高裁が一度出た再審開始決定を取り消すなど、扉は再び閉じつつある。(毎日新聞 2008年3月22日 東京朝刊)

●白鳥事件=1952年札幌市警察本部の白鳥警備課長が殺害された事件。警察は日本共産党関係者の犯行とみて捜査し,1955年共産党地区委員長らが起訴され,控訴・上告を経て1963年に懲役20年の刑が確定した。これに対して再審請求がなされ,1975年最高裁判所はこの特別抗告を棄却したが,決定理由の中で,従来の再審開始の要件を大幅にゆるめ,全証拠の総合評価の方式および〈疑わしきは被告人の利益に〉の原則の再審請求への適用を説いた。このいわゆる〈白鳥決定〉は,その後の再審請求実務・理論の展開に大きな影響を与え,実際,いったん死刑が確定した事件についての再審無罪の判決がいくつか出た。しかし最近では再び再審請求に対して厳格な対応がとられつつあるという批判がある。(百科事典マイペディアの解説)

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●再審請求=判決が確定した事件について、法に定められた事由がある場合に、判決を取り消して、裁判の審理をやり直すよう申し立てること、およびその手続き。再審を請求できる事由としては、虚偽の証言や偽造・変造された証拠などが判決の証拠となったことが証明されたとき(刑事・民事)、有罪の言い渡しを受けた者の利益となる新たな証拠が発見されたとき(刑事)、脅迫などの違法行為によって自白を強要された場合(民事)などがあり、刑事訴訟法・民事訴訟法にそれぞれ規定されている。刑事事件で再審が開始された場合、刑の執行を停止することができる。死刑確定後に再審によって無罪となった事件に、免田事件、財田川事件などがある。(デジタル大辞泉の解説)

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 白鳥事件は法律的には決着がついています。しかし事件の真相は「藪の中」にあります。戦後の混乱期に発生した数々の「事件」、松本清張さんの「昭和史発掘」の格好の主題となりました。三鷹事件、松川事件、下山事件、白鳥事件等々、これらは当初から「真犯人」は別にいると疑われたのでしたが、裁判では「共産党活動家」たちの共同正犯であるという見方が強く主張されていました。各事件ごとにていねいに論述すべきものですが、ここでは詳細は省きます。ようするに、いったん出された判決後に「新たな証拠」が出されれば、「再審」を認めるべきであるという判断が出された意義は大きい。

  いまなお「再審請求」が続けられている事件はいくつもあります。まずは「狭山事件(無期懲役刑が確定)」、さらには「袴田事件(死刑確定)」などです。両事件とも事件発生以来、半世紀以上も経過しました。三審制の先に、再請求裁判が認められています。その「再審開始」の確率はきわめて恣意的であるとぼくには思われる。上の表にも見られますように松山事件の再審無罪確定が84年でした。以来三十五年以上も再審の扉は閉ざされてきました。なぜでしょうか。裁判の決定(判決)に誤りがなくなったからでもないでしょう。あまりにも「再審無罪」が続くとどうなるか。「いいかげんな裁判をするな」という、裁判(官)不信が澎湃として起こってくるのは目に見えています。だから、というのはいかにも恣意的です。「疑わしきは被告人の利益に」という大原則は曲げられてはならない。

 「(神ならぬ)人」が「人」を裁く。微塵の過ちも許されないとしたら。しかし、どんなに手を尽くしても、過ちは必ず生じるとすれば、どういう方法(制度)が後に残されることになるのか。

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「永山基準」とはなにか

 手許の辞書を見ると、以下の説明があります。「裁判(judgment; Entscheidung)=適法,違法または権利義務の存否をめぐって争われる事件または争訟について,第三者機関が法を適用して,公権的に判断し,解決する作用。裁判所だけが行うとは限らず,たとえば,憲法に議員の資格争訟の裁判は各議院が行い (55条) ,行政機関も前審として裁判を行うことが予定されている (76条2項) 。しかし裁判を行う主たる機関は司法機関としての裁判所で,裁判という場合には通常,裁判所の行う裁判のみをさす。日本国憲法上,裁判所の行う裁判には,民事,刑事事件の裁判のみならず行政事件の裁判作用も包含されると解されている。裁判は原則として公開して行われる (82条2項) 。裁判の形式は判決,決定,命令の3つに分れる。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)」専門(家)的な理論や実際を知るのではなく、この社会で行われてきた裁判例を通して(死刑制度の)「問題点」をはっきりさせたいと考えてきました。そのための格好の材料が、この連載記事「正義のかたち:裁判官の告白」でした。(以下の新聞記事「さまよう家族」は東京新聞です)

〇正義のかたち:裁判官の告白/1 永山事件・死刑判決 被告の死、望んでなかった

 市民も重大事件の判決を言い渡す裁判員制度が、約1年後に始まる。これまで刑事裁判を担ってきた裁判官は、何に迷い、正義のありようをどう決断してきたのか。その言葉を通じて「人を裁く」意味を考えた。

 ◇「無期」との差に苦悩

 「多数意見には到底同調することができない」。死刑が絡む判断は全員一致が慣例の最高裁決定で、異例の表現が2度繰り返された。

2008/03/21 11:12

 福島県で03年、元暴力団組員(29)が三角関係のもつれで2人を射殺し、30万円を奪った強盗殺人事件。第1小法廷は2月、2審で無期懲役だった被告の死刑を求める検察側上告を3対2で退けた。「死刑が相当」と強硬に反対したのは、甲斐中辰夫(検察官出身)と才口千晴(弁護士出身)の両裁判官だ。

 被告は事件時25歳。甲斐中裁判官は「若い被告の場合、有利な事情を可能な限り酌むことを心がけた」が、死刑回避の事情が見当たらないと言う。才口裁判官は「永山判決をよすがにした死刑の量刑基準を、裁判員制度を目前に明確にする必要がある」と付け加えた。

  ◇   ◇

 「永山判決」に、名をとどめる永山則夫元死刑囚(97年執行)は、極貧家庭で生まれた。両親から育児を放棄され、無学の末68年、19歳の時に神奈川県横須賀市の米軍基地からピストルを盗み、1カ月の間に東京、京都、函館、名古屋で警備員やタクシー運転手ら4人を無差別に射殺した。だが、拘置所で著した手記「無知の涙」は高く評価され、別の作品で文学賞も受賞する。

 事件の重大さと公判中の変貌(へんぼう)。命を奪うのが正義か生かすのが正義か。死刑制度の存廃さえ議論になった。2審の無期懲役を破棄した83年の第1次上告審判決で死刑の適用基準が示され、「永山基準」として知られる。

 東京地裁で被告と向き合った元判事2人が初めて口を開いた。

 初公判から論告まで裁判長を務めた堀江一夫弁護士(89)は「起訴状通りなら死刑はやむを得ない。言い分をよく聞こう」と心がけた。手記の草稿を読んで「よくあれだけのものを書けるな」と感銘を受けた1人だ。

 ただ、貧しさと無知に事件の原因を求める内容に違和感も覚えた。「彼は社会に責任を向けた。その分だけ世間の同情は薄くなったのでは」と話す。

 一方、途中から審理に加わり、79年7月の死刑判決を言い渡した豊吉(とよし)彬弁護士(78)は「死刑と無期では差があり過ぎる。もし制度があれば、終身刑を選択した」と断言する。結果的に死刑を選んだが、死を望んだわけではなかった。3人の裁判官による合議では「こんな貧困を、行政は何とかできなかったのか」と話し合った。高裁で無期に覆された時は「よかったと思った」と明かす。

 死刑判決は、被告の更生可能性を完全否定する。立ち直りは期待できないから、生命で償わせるしかない、という理屈だ。永山元死刑囚のケースは、どう評価すべきなのか。

 豊吉さんは元死刑囚を「永山さん」と呼んで振り返る。「拘置所は本でいっぱいで、永山さんは外国語の原書も読んでいた。人間って努力するとすごいと思った」。畏敬(いけい)の念すら抱いているように見えた。=つづく

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 ■ことば ◇永山基準  最高裁第2小法廷が83年7月、永山元死刑囚に対する判決で示した。(1)事件の罪質(2)動機(3)事件の態様(特に殺害手段の執拗=しつよう=性、残虐性)(4)結果の重大性(特に殺害された被害者の数)(5)遺族の被害感情(6)社会的影響(7)被告の年齢(8)前科(9)事件後の情状--を総合的に考慮し、刑事責任が極めて重大で、やむを得ない場合に死刑も許される、とした。

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◇永山元死刑囚に対する判決◇

判決時期  裁判所  量刑

79年7月 東京地裁 死刑

81年8月 東京高裁 無期懲役

83年7月 最高裁  破棄、差し戻し

87年3月 東京高裁 死刑

90年4月 最高裁  死刑(毎日新聞 2008年3月21日 東京朝刊)

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 「永山事件」は、ぼくにっても記憶の底に張り付いて忘れられないものとなっています。その後の「殺人事件」の裁判のたびにといっていいほどに、永山事件はいつでも呼び戻されてきたのです。ここではっきりといっておく方がいいと思います。ぼくは死刑制度には「反対」です。これは一貫してきたつもりです。さまざまな角度から考え、他国の制度の推移をも考察してきたうえで、ぼくははっきりと死刑制度そのものに反対を表明もしてきました。法があり、違法行為がある以上は「裁く制度・裁かれる制度」は欠かせないと思います。なかでも「死刑存置」についてはこの社会では当然であるというはんだんで続けられていますが、さてこのままで継続させていいのかどうか。

 二冊の著書を紹介した堀川さん、もとはNHKのディレクターで、現在は作家。優れた仕事を重ねてこられ、ぼくは大いに教えられてきました。また次に示すURLは「封印された…」のテレビ番組です(https://www.youtube.com/watch?v=Bk1ElWo68Kw)。これも堀川さんが担当されたものです。このドキュメントをぼくはくり返し見てきました。何度くらいになるか。そうして思ったことは「裁判官は、いったい被告の何を裁くのか」という問題でした。「情状酌量」という問題でもあります。犯行に及んだこと自体は「裁かれる必要がある」のは、そのとおりでしょう。しかし、…、という大いなる疑念が残ります。

 これまでにも「死刑制度廃止」に至ったフランスのケースを垣間見ました(右下の写真はフランスの元法務大臣バダンテール氏)。「罪を憎んで、人を憎まず」とはどういうことか。「被告の自由の剥奪」が裁くことの相当の理由だとすれば、それが死刑であって、終身(無期)刑でないのはなぜか。疑問は尽きません。三審制度も、明暗両面があります。「永山事件」の場合はどうでしたか。基本的には同じ証拠と法に基づいて、しかも「死刑」と「無期懲役」に判断が分かれています。この判断の相違自体が制度の健全性をを証明するという考え方もあります。それだけか。一審・二審が相異なる判決を出すこと自体に、裁判制度のうかがい知れない謎(闇かも)がありそうです。

 死刑判決を受けた場合、法務大臣は六十日以内に「死刑執行」のサインをしなければならなと規定されています。でも現実には何年も何十年も未執行のケースが数多くみられるのはどうしてか。「冤罪」の恐れがあるから、万全を期すため、あるいは「再審制度」が認められているのだから、それを担保するためなど、いくつもの理由や背景がありますが、ようするに「無条件で執行」できない(してはいけない・したくない)という人間の条件のようなものがそこにはあるのではないでしょうか。

 ここに「精神鑑定」報告が証拠として採用されたら、どういうことになっていたのか。何を根拠に「鑑定書」は斥けられたのか。ドキュメントに登場する元裁判官の発言にも耳を傾けてほしい。「冤罪裁判」という人間の誤謬が避けられないという大きな課題も残されたままです。

 この問題に正解はない。「人権を尊重する」という社会の基本理念を現実に引き戻すと、どんな「正義にかたち」がありうるのか。

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個人の尊厳を重んじ、真理と平和を…

国民学校における体錬・打倒すべき標的は「鬼畜米英」でルーズベルトとチャーチルに見立てています。女生徒は槍を持っています。少年少女もまた立派な兵隊さんたれ。怠りいさめながら、教師も励んだのです。この場に「ぼく」がいたら、どうだったか。「模範少年兵」へと一直線であったか。あるいは「兵隊ヤクザ」の牙を磨いていただろうか。

 《 戦争の間の国民学校で、私は軍国主義の教育を受けましたが、放課後は家の隅に閉じこもりわずかな本を暗記するほど読み返している子供でした。いまも自分の性格に、英語でいうよく訓練された(ディシプリンド)ところが欠けているのを感じます。
 私が学校に行くことと自己解放を初めて重ねることができたのは、敗戦後二年たって、夢のまた夢だった松山の中学校の代わりに、村にできた新制中学に入っての短い間でした 》

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*国民学校=1941年3月国民学校令が公布され,同年4月からそれ以前の小学校が国民学校に改められた。初等科6年,高等科2年で,ほかに特修科 (1年) をおくこともできた。「皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為ス」ことを目的とした。この名称はドイツのフォルクスシューレによったものであった。教科の編成を改め,教科書も新しく編集された。第2次世界大戦後は 47年の新学制により,初等科は新制の小学校に改められ,高等科は新制の中学校設置の母体となった。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

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 《 憲法が施行された年でもあり、教師から話を聞いて、まだその教科書が届かないまま、同じ年にできた教育基本法を、私はノートに写しました。自分の好きな言葉を覚えるために作ったノートです。村の農家の長男だった先生が、何にでも興味を持つ子供を笑わず、憲法を全部写すのは無理やが、基本法は短いし、わかりやすい言葉で書いてある、とすすめてくれたのです。
 私が好きだったのは、《 個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性豊かな文化の創造をめざす教育 》という文章で、ずっと後になってから、野上弥生子さんに、あなたはどうして希求するというような古い言葉を使うの?といわれました。
 中学校には都会の勤め先や家が戦災で焼かれ、疎開して来たまま、村にすみついて臨時に職につかれた先生がいました。その人たちの口ぐせは、本当の中学校はこんなものじゃない、というものでした。それが私を、独りで本を読み、言葉を収集する、自己流の勉強に押し戻したように思います 》(大江健三郎「伝える言葉 もう一度、新しく(de nouveau)」(朝日新聞・04/06/08)

 もう一度、大江さんです。ずいぶん古い記事ですが、とても印象に残っているので、ここに再録しました。このブログの「教師の残影」というカテゴリ内で大江さんの文章「未来につながる教室」をご紹介しました。(タイトル名は「教室の中での解放感」)

   《 ぼくは村の国民学校で解放されていなかった、と思う。また教室は教師を鵜匠とし、子供たちを鵜とした鵜飼のようなもので、子供ひとりひとりと教師とのあいだに束縛とにたつながりはあっても子供たち同士の横の自由なつながりはなかった。その二つが両立するなど思ってもみることはできなかったものだ。横のつながりを子供仲間でつけること、それはひそひそ内緒話をすることにすぎなかった。それはむしろ教室の敵だった。
 教室のなかでの解放感、子供どうしの横のつながりが、先生との縦のつながりをさまたげるどころか、かえってそれをおしすすめるという感覚…》

 「学校に行くことと自己解放を初めて重ねることができた」のは敗戦後二年経った新制中学校においてであった、と言われます。1947年のことです。でも、その解放感も瞬時につぶされてしまいました。「本当の中学校はこんなものじゃない」という都会出の先生たちの「口ぐせ」だったといえば、なんともやりきれない気がします。ちょっとぐらい夢を見させてやってもいいじゃないか、といいたくなります。都会出の教師がいった「本当の中学校」とはいったいどんな学校だったのでしょうか。ぼくはずいぶん前から「本当の教育」「本当の教師」「本当の…」という表現に大きなる違和感をいだいてきました。本当の…なんて、いったいどこにあるのさ。そういう言ういい方をしている当人の頭の中にしかないのではありませんか、と。それは「観念論」というもので、まるで「蕎麦屋も釜」です、「湯(言う)」だけだという程度のものでしょうに。

 この時代、新制の中学校(三年制)が出発したばかりでした。
 ぼくは大江さんほどに感受性は鋭敏でもないし、根がまじめでもなかったから、学校というものにほとんど信や真をおいたことはありませんでした。「ホントの学校なんて、どこにあるかよ。いまある、この窮屈な学校こそが、ホントの学校や」と、京都のせせこましい学校を、はっきりとそのように見ていました。だから、学校に溺れることもなければ、学校に反発をおぼえることもなかった。そのことになにか意味があると思いませんが、学校にくっつきすぎることがなかったがゆえに、「学校の餌食」にならないですんだという実感だけはあります。学校って、「なんぼのもん?」というようには言わない。行っても行かない、居ても居ない、こんな芸当を平気でするような生徒だったな。

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 《 今の世の中には、民主主義ということばがはんらんしている。民主主義ということばならば、だれもが知っている。しかし、民主主義の本当の意味を知っている人がどれだけあるだろうか。その点になると、はなはだ心もとないといわなければならない。

 では、民主主義とはいったいなんだろう。多くの人々は、民主主義というのは政治のやり方であって、自分たちを代表して政治をする人をみんなで選挙することだと答えるであろう。それも、民主主義の一つの現れであるには相違ない。しかし、民主主義を単なる政治のやり方だと思うのは、まちがいである。民主主義の根本は、もっと深いところにある。それは、みんなの心の中にあるすべての人間を個人として尊厳な価値をもつものとして取り扱おうとする心、それが民主主義の根本精神である。

 人間の尊さを知る人は、自分の信念を曲げたり、ボスの口車に乗せられたりしてはならないと思うであろう。同じ社会に住む人々、隣の国の人々、遠い海のかなたに住んでいる人々、それらの人々がすべて尊い人生の営みを続けていることを深く感ずる人は、進んでそれらの人々と協力し、世のため人のために働いて、平和な住みよい世界を築き上げて行こうと決意するであろう。そうして、すべての人間が、自分自身の才能や長所や美徳を十分に発揮する平等の機会を持つことによって、みんなの努力でお互の幸福と繁栄とをもたらすようにするのが、政治の最高の目標であることをはっきりと悟るであろう。それが民主主義である。そうして、それ以外に民主主義はない 》

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 すでに触れました戦後に新設された教科であった「社会」科のあたらしい教科書『民主主義』(上・下)は48年に作成され53年まで中・高校で使われました。今でも僕は、このテキストをくりかえし読み直しています。文部省著作物で、これを書いたのは法哲学者だった尾高朝雄さんでした。(もちろん、ぼくはこの教科書を使ってはいません。でもその雰囲気はまだ濃厚に残っていた時代でありました。ぼくが通学した京都の中学校は、生徒数約2千名。「こんなん、学校とちゃうやん」と思い続けていました。暴力は日常の殺風景で、まるで軍隊だったか。でも好きな教師に出会った。数学担当、若くして亡くなられた)

 その教科書(文部省著作)『民主主義』の「はしがき」が上に引用した部分です。

 じつに明確に言い切っています。民主主義は人間の集団には不可欠の原理であり、目標であり、精神であるというのです。そのように貴重でもあり奥深くもある「民主主義」を体現することには大きな困難がともなうにちがいない。したがって《 複雑で多方面な民主主義の世界をあまねく見わたすためには、よい地図がいるし、親切な案内書がいる。そこで、だれもが信頼できるような地図となり、案内書となることを目的として、この本は生まれた 》というのです。教科書がそのような意味をもっていたとはどういう意味でしょうか。今日からはとうてい考えられないような姿勢であり態度だというべきかもしれない。

 この教科書は七十数年前に島の学校の教室に登場した。大江さんが学んだのはこのテキストであり、「あたらしい憲法のはなし」でした。「戦後世代」とか、「戦後民主主義」の申し子などと称された大江健三郎さん。その方が憲法九条改竄や民主主義の危機を訴えてデモ行進の先頭に立ち、抗議集会の演壇に立つという時代です。隔世の感、というべきか。(長年はまりきっている)中島みゆき流に「あんな時代もあったね」というべきか。大江健三郎、八十五歳。

 「自分の好きな言葉を覚えるために作ったノート」に書き写した「教育基本法」も無残にも、あるいは惨たらしくも「変質」させられました。教育にまったく興味も関心も責任も感じたことのない輩によって。

 ぼくたちはどんな時代に生きているのか。

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香港市民の自由と権利に…

【7月1日 AFP】(更新)香港政府トップの林鄭月娥(キャリー・ラム、Carrie Lam)行政長官は1日、国家安全維持法の施行について、香港返還以降「最も重要な進展」だと述べた。/ 林鄭氏は香港返還23年の記念式典で、「国家安全維持法の施行は、返還後の中央政府と香港の関係において最も重要な進展とみなされる」「国家安全維持法は、香港が混乱からよく統治された状態に移行するターニングポイントだ」と述べた。
 さらに、国家安全維持法が「香港の司法の独立性と高度の自治を損なうことはなく、香港市民の自由と権利に影響を及ぼすこともない」と述べた。/ 外国政府からの批判については「中傷的で悪意ある攻撃」と一蹴し、昨年民主派デモが起きたにもかかわらず、変わらず信頼し続けてくれたとして中国政府に感謝した。(c)AFP

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 一国二制度(香港においては消滅したとみられます)、習近平体制の中国では、早晩こんな事態が生じることはわかっていたから、反対運動が何年も続いていたのです。おそらくデモの参加者の多くは「権力」の暴圧を肌で感じていたに違いない。だから、「維持法」が成立する段階で民主化運動体からの脱出・解体を表明されたのでしょう。はたして、彼や彼女はこれからどうするのか。(ぼくの推測では抵抗運動、民主化運動はさらに続けられていくと思う。デモだけが反対運動出はないからです)

 行政長官は「大満足」なのかどうか。彼女は学生時代には体制変革の運動に積極的に参加していたし、官僚になった段階でも「進歩的な人物」として評価を高めていきました。政治家の挙措は、ぼくにはトンとわからないといっておきます。彼女には、他者には端倪すべからざる政治的到達点が見えているのかもしれません。「香港市民の自由と権利に影響を及ぼすことはない」と顔色一つ変えないで表明できる「破廉恥」「厚顔」でなければ、政治家は務まらない。

「権力」は「融通無碍」だし、「権力者」は「清濁併せ呑む」動物です。つまりは「貪欲」なんですね。

 いずれにしても、この一歩を越えて、中国はさらに覇権を強めてゆくし、米といえども経済規模では完全に凌駕されてしまった現在、中国と張り合うだけでいいのか。今後の米中関係も注目しなければなりません。島社会の政治家は、今度は「中国の手下」に収まる道を画策するのでしょうか。「香港」からの余波は、きっと「東海」岸にも及びます。

: 一个国家、两种制度/一国两制、: 一個國家、兩種制度/一國兩制、: One Country, Two Systems、: Um país, dois sistemas)は、中華人民共和国政治制度において、本土領域(中国政府が対香港マカオ関係で自称する際は「内地」)から分離した領域を設置し、主権国家の枠組みの中において一定の自治や国際参加を可能とする構想である。…本来は、中華民国の実効支配下にある旧台湾省・旧福建省金門馬祖)を中華人民共和国に併合するための構想であり、中華人民共和国では現在でもこれを目標としている。wikipedia)

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