もっと賢くなるためにどうするか

 なんだか、宮本常一さんのことが想い出されて仕方がない。没後四十年です。思いつくままに、メモ風に彼の文章を並べてみました。 まずは、宮本さんの故郷、周防大島でのことです。

 村にひとりの大工がいた。旅暮らしをしている間にひとりの女ができた。大工は女を置いたまま村に帰った。そこには女房がいたのである。女は大工を恨み狐を仕掛けたというのです。まもなく男は足を病んでしまった。大工は自分にとりついた狐を丘の畑の松の下にまつったが、ついに足が腐って死んでしまった。

 その後、このほこらにはときどきお参りする人もあったが、だんだんと忘れられてしまった。「私はそのほこらのほとりをたまたま通ったのだが、誰かそれを見ていたらしい。まもなく、私がそのほこらの信者であり、そこへ参って病気もよくなり、きちがいも治ったといううわさがひろがった」それからというもの、ほこらに参る人が増えだし、赤い鳥居が建ち、小さいお堂もできた。荒熊神社と名づけられ、眼病に効くともいわれて戦争の終わり頃まで相当の参拝客があったそうです。

 「ひとつの信仰の流行の起源にはこんなところにあった」と宮本さんはいわれます。

 ひとのうわさも七十五日?

 師範学校を卒業し、大阪は泉南郡田尻小学校に勤務していた宮本さんは胸を病み、周防大島に帰郷して長期の療養をしていた時期のことでした。昭和五、六年ころです。ようやく健康を回復して野山を歩き回ったり、浜や田んぼで寝ころがったりしていたら、そのうちに近所のひとびとの間に「宮本は気が狂った」といううわさがひろまった。「道行く女が顔をそむけ、道をさけ、子供に石を投げられるようになって」はじめて、自分のことがどのようにうわさされているのか気づいたというのです。

 村では、一日中仕事もしないで田んぼや浜辺で寝ころんでいるような暮らし方がなかったためだと宮本さんはいいます。「きちがいと思ったのも無理はないであろう」とも。

 「その私が、ある丘の上の小さなほこらの前を通って田のほとりに出たことがあった。そのほこらというのは、狐をまつったものである」(宮本「民俗学への道」1968年)

《…人をいそがしくさせることが文明の最後の目的ではない。ときには静かでおちつきのある調和のとれた生活をすることが文明の目的であるとするならば、今われわれのあるいている道は目的から少しそれはじめているのではないか。

 そしておどろきをもって見た橋に不調和を観ずるようになっていく中にわれわれは本物を失わないで歩いていこうとするもうひとりの自分を見出すような気がする》(「一枚の写真から」)『日本を思う』(1973年9月)

《…一つの封鎖せられた社会は同一の文化をもっている場合、どこかに中心をもとめずにはすまない性質をもっていたのであると思う。地方は地方で、そこに一つの中心点をもってくる。その中心点を軸にして動いてゆく。文化とはそういうものである。そうした小さな渦が大きくなっていく》(「日本を思う」)

 《…私の仕事は民俗の研究ということになっているが、私自身の仕事はむしろ、私の周囲で働きつづけている人たちの生活が少しでも充実し向上し安定することのための協力につとめて来た。

 …何よりも大切なことは人間一人一人がもっとかしこくなることであり、お互いがただ自己の権利を主張するだけでなく、共通の分母を見出してゆくことだと思う》(『日本を思う』「あとがき」)

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 経世済民などという語は今でも使われているのかどうか。本来は政治方面の言葉でした。よりよく国(世のなか)を治めて、人民の苦しみをより少なくするという政治の要諦を言い当てたものでした。いまではすっかり廃れてしまい、こんなことを政治(家)に期待すれば、笑われてしまうのが落ちです。ないものねだりといいますが、そりゃあ、ねだる方がまちがっているというのでしょう。「八百屋で魚」の類ですね。宮本さんは言います、「私自身の仕事はむしろ、私の周囲で働きつづけている人たちの生活が少しでも充実し向上し安定することのための協力につとめて来た」と。大した自己評価であると、ぼくは本当に感心するのです。その目的で仕事をされていたのか、と

 細かいことは省きますが、たしかに宮本さんは営農指導に類する仕事もされたし、佐渡では青年たちに太鼓の導入も進めたりしました。地域の状況に応じて、村や町にふさわしい職業を言い当てたりもされました。それもそうですが、彼が足を棒にして全国を歩き回って残された仕事そのものが、それ(業績)から学ぶ人にとっては、文字通りに「経世済民」の人であったと思われるほどに、すこしでも地域をよくするための「民俗学」だったといえるのです。

 彼を顕彰するための「記念館」も郷里に作られましたが、それは決して宮本さんを尊敬する行為などではないとぼくなどは考えたりします。なぜか。言うまでもないことで、残された彼の仕事に、敬意を以て近づくこと、そこから学ぶものがきっとあるはずです。劣島には「記念館」や「記念碑」だらけになってしまいますね、やがて。いまだってそうですよと、誰かが言う声が聞こえてきます。廃墟や廃物化したものも少なからず見られます。当の本人を「尊敬」しているのではなく、「侮辱」しているように、ぼくには感じられます。

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北方教育、貧困と闘った教師たち

 職業

父「サキ、何職業さつく気だ。」

私「ドゝ(父)さ聞いだどもだまつてんもの。俺だて分らなくて農業つて書いだ。」

父「農業でもする気か。」

私「…」

 この頃先生が自分の職業を書く紙をよこした時、どの職業につけばよいやら分らなかつたので、「自分の望む職業」と書いてある所へは「農業」と書き、将来希望する職業」へは「裁縫」と書いてやつたのであつた。

 けれども父はもう五十になつた。酒によふたときは元気でも、めつきり顔のしわがふえて手の筋が目立つた。母は耳が遠い上に、尚この頃は眼が悪くなつて困つている程であつた。

 私の下の弟は未だ十三だから少なくとももう六年も父は働かなければならない。だが五十にもなつた父がどうして体が長く続くだらう。

 今だつて寒い日や雪の降る日は「俺は仕事することが出来ない。」といふのであつた。又余り寒い日など体をこごえらせてくると

 「俺の体はとても続かない。あしたから仕事を止める。五十もなつて土方してんなは、赤石の人と俺とたつた二人だ。んがだ(私達のこと)かて(糧)(のために)俺はかうして仕事さねまねなだぞ。俺はまるで、んがだかて使はれてゐるなだ。俺は何の因果でかう働かねばならねだ。」

といふのです。かういふ父がもう六年も労働を続けることが出来るだらうか。いや出来ないのがあたりまへなのだ。

 さうなつたら私の家は亡びるより他にないのだ。父が十七年かゝつて作つた土地も、家も、皆人手に渡らなければならない。これ等は皆父と母の結晶だ。父の苦しんでゐるのを見てゐて、どうして私は農業の手助けをしてゐることが出来よう。私には又農業が性質に適してゐない。

 私はやはり職業婦人となつて家に少しでも手助けをしなければならない。私はぐづぐづしてなどゐられないのだ。

 少くとも一労働者の子としてとして生れた私は、外の家に生れたならば高等科にも入ることが出来ないであらう。是等は少しでも私の幸福といふものだらうと、人々の上級学校へ行くのをうらやましいと思ひながら、半ばあきらめてゐた。

 私はやはり職業婦人になるのが一番よいのだ。遂に決心して「交換手にでもなつて、休みだ日は徳さんの家さ行つて裁縫でも習ふと思つたども。」と言つた。(高井有一『真実の学校』より) 

(「職業」をめぐる、この親子の話し合いは延々とつづいた)

 この綴方を同人の前に突きだしたのは鈴木正之でした。当時、彼は秋田県由利郡金浦(このうら)町の小学校に赴任していました。金浦は漁師町、ここの子どもたちはまるで大人と同じように小さなからだをはった労働にかり出され、昼夜の別ない仕事に追われていた。ある子どもは午前二時には小型底引動力船に乗り込む船員の家を廻って出漁をつげて歩く。岸壁にかけつけ桶に汲んだ飲料水や漁具、漁箱を船に積み込む。前日使った漁具の手入れ、魚をいれるカン集めなど。伝馬船を漕いで帰港する漁船を迎えに港口までいくと、もう日が暮れている。それから…。家に帰り着くのは夜半過ぎ。海があれないかぎり、毎日のようにこんな苛酷な労働がつづくのです。

 生活苦と闘う子どもたちが学校(勉強)から離れていくことはとめようがない、そんな現実に、教師たちはなすすべを持たなかった。「彼等の生活が、学校教育を受付けなかつたのである」(高井)

 佐藤サキは鈴木正之の担任ではなかった。綴方の苦手な学級担任に頼まれて週に二回の授業を受け持っていたのです。「生活というものはかならず変えられる。だから貧乏に挫けるな」と彼は教室で言いつづけていた。そこに出てきたのがサキの綴方だった。正之は自分のことばに責任を感じていた。サキの将来をどうするか、なんとしても道を開いてやりたかった。だが、その道はまったく見えなかった。思いあまった正之は作品研究会に集う同人(仲間)に一切を投げ出してみようと決心した。

 教師の仕事とはなんだろう。読み書きや計算ができるように子どもたちを導く。もちろんそれは当然のことだ。しかし、大人に混じって朝の二時から夜中まで働きつづける五年生に「学校教育」はどんな意味をもち、学校教師になにができるのだろうか。これはけっしてその子どもたちの家庭の貧困だけの問題ではないはずです。「彼や彼女の生活が、学校生活を受けつけなかった」という現実に対して、教師たちは手をこまねいているだけでいいのか。

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【解説】明治以降に始まった日本の学校教育のなかで、いまでは「国語」科といわれる教科の一領域に綴方(つづりかた)と呼び習わされた分野がありました。今では「作文」と称されるものです。この文章に記された話は実際にあった出来事です。

 今から八〇年以上も前(昭和一〇年前後)の東北地方で「綴方」教育を通じて、子どもたちの生活力を育てるために懸命に教職に打ち込んだ教師たちが何十人もいました。その中心になっていたのが成田忠久(右写真→)で、彼の周りにはたくさんの若い教師たちがいました。佐々木昂(こう)、鈴木政之(まさゆき)もその仲間でした。貧困にうちひしがれている子どもたちと真剣に交わり、子ども自身がみずからの生活(貧困)をとらえなおすために、教職に身命を賭(と)していたといっていいでしょう。

 同人(仲間)たちが月に何度か集まりを持ち、それぞれの教室から生みだされた「綴方」をめぐってその批評をするのがつねでしたが、あるときに鈴木政之が持ち込んだ、ひとりの生徒(高等小学校・現在の中学校二年生)の綴方が同人の間に大きな波紋を引き起したのです。(つづく)

〇参考・引用文献 高井有一著『真実の学校』新潮社刊、一九八〇年)

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 まるで「悪夢」のような学校教育史の一コマです。たかだか八十年余の過去、劣島の北方(秋田・青森・宮城・福島・岩手・山形など)といわれる地域に、ぼくたちの想像を絶した、若い教師たちの格闘があった。相手は「子どもたちの救いがたい貧困」だった。いまなら、「生活保護」だ「児童手当」だなどどいうネットがあるといいますが、貧困とそこから生み出される「困難な人生」は、今も昔もまったく変わっていない「過酷そのもの」なのだと、ぼくは言いたいのです。

 ここで「生活綴り方」や「北方教育」などと言おうものなら、まるで河島英五(時代おくれ)だぜ、と非難されそうです。学校教育もいまではずいぶんとハイカラ(上品?)な顔つきをしていますが、はたして「時代遅れ」だなどと揶揄していいのか。表面は新奇をてらってはいるが、その内容は驚くほど浅薄じゃないかという声がしてきます。

 「彼や彼女の生活が、学校生活を受けつけなかった」、それほどに「貧困」は、戦うには困難を極める相手であったし、必ず教師たちは敗北に打ち負かされるほどの強敵であった。教師仲間から自死するものや、権力に扼殺されるもの、長期にわたって拘禁されるものたちが続出したのです。教師の仕事はなんであるか、疑うべくもない自明の理に翻弄された教師たちの闘いの跡をたどり、今につながる学校教育の、もう一つの歴史を手探りで実感してみたいのです。「死屍累々」とは、この教師たちの闘いのあとに残された「万骨枯る」さまをいうのでしょうか。

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自分のもの、それは自分の働きだけ

 ここで、わたしたちの現在の生活ぶりにとって、ひじょうに象徴的な物語を紹介します。(承前)

 ロシアの作家だったトルストイ(一八二八~一九一〇)が書いた『イワンのばか』という民話集(岩波文庫版)に「鶏の卵ほどの穀物」と題された、文庫本で六ページ足らずのきわめて短い話があります。その内容は以下のようなものです。 

 あるとき子どもたちが谷間で「まん中に筋のある、鶏の卵ほどの穀粒」のようなものをみつけた。通りがかりの人が子どもからいくらかの金額で買って町にもっていって、珍しい品物として王さまに売りわたした。王様は何人もの賢人(物知り)を集めて「これはいったい何なのか」と調べるように命じたが、だれもそれがなんであるのか答えられなかった。ところが、その不思議な物を窓際においたところ、鶏が飛びあがってつっついたので、どうやらそれはなにかの穀物の粒(種)だと見当がつきました。

 「王さま、これは裸麦の穀粒でございます」

 このように答えた物知りたちに命じて、「いつどこでこんな穀粒ができたのか」を調べさせました。しかし、いくら調べても、彼らにはわからなかった。

 「わたくしどもにはお答えができかねます。…これはやはり、百姓どもにたずねてみるよりいたしかたなかろうと存じます」

 それを聞いて、王さまはうんと年寄りの百姓をさがしてくるように命じた。やがてひとりの老百姓が連れてこられました。「青い顔をした、歯の一本もないその老人は、二本の撞木杖にすがって、やっとはいって来た」のです。彼は耳も聞こえず、目もよく見えなかった。

  「これじいよ、おまえはこれがどこでできたものか知らないか? おまえ自身でこんなふうの種子を、自分の畑にまいたことはないか、それともまた、どこかでこんな種子を買ったことはないか?」

 問われたことをようやく理解したその老人は、「いいえ、こんな穀物をうちの畑に播いたことはございませんし、とり入れたことも、買ったこともございません。わたくしどもが穀物を買いました時には、みんなもっとずっと小さなものばかりでございました。これはどうしても、わたくしのおやじにきいてみなければわかりません」と答えたのでした。

 そこで、王さまは人をやってその老人の父を呼びにつかわした。「このたいへんな年寄り」は、一本の撞木杖にすがってやって来た。王さまは穀粒をみせながら、前とおなじことをその「たいへんな年寄り」にたずねた。

 彼は「こんな種子はわたくしの畑に播いたことはございませんし、とりいれたこともございません。また買ったこともございません」自分たちの若いころには「金」というものはまだできていなかった。人はみんな自分が収穫した穀物をたべていたし、必要なときにはたがいに分け合っていたともいうのでした。

 「なんでも、おやじから聞きましたところでは、おやじの時代には、今よりもずっといい穀物ができて、打ちべりも少なけりゃ、穀粒もずっと大きかったということでございます。おやじにたずねてみるがええかと思いますが」

  王さまはまた人をつかわして、その老人の父親をさがさせた。連れてこられた老人は杖もつかず、らくらくと歩いて王さまの前に進みでた。目もよく見えたし、耳もよく聞こえた。

  穀粒を見せられた老人は「わたくしはもう長いこと、こんな昔の種子は見たことがございません」といって、それを噛んでみてからいった。

 「たしかにそれでございます」

  「ではな、じいよ、ひとつわしに、そんな穀物はいつどこでできたものか、教えてくれ、おまえは、自分の畑にそんな穀物をまいたことはないか、また、どこかでそれを買ったことはないか?」と王さまたずねた。

  その老人は次のように答えました。

  「わたくしの世ざかりには、こんな穀物はどこにでもできていましたです。わたくしなぞは生涯この穀物をたべてきましたし、人にもたべさせてきました。わたくしはこれを、自分でもまきますれば、とり入れもし、打ちもいたしました」

  王さまはさらにたずねた。

 「では、じいよ、ひとつわしに話してくれ、どこでおまえはこんな穀物を買ったか、それとも自分で自分の畑にまいたか?」

  そう聞かれて、老人は笑いだしました。

 自分の時代には穀物を売るとか買うなどといった、そんな罪なことはだれもしなかった。金なんかだれも知らなかったし、穀物もだれのところでも欲しいだけあったのだから、といった。

 「ではな、じいよ、おまえはこんな穀物をどこで播いたか、おまえの畑はどこにあったか、それをひとつ話してくれ」

 「わたくしの畑は、神さまの地面でした。どこでも、犂を入れたところが畑でございました。土地はだれのものでもありません。自分の地面などということは、言わなかったものでございます。自分のものというのはただ、自分の働きということだけでございました」

 そこまで聞いていて、王さまはどうしても二つのことをたずねたくなりました。

  一つは「昔はこういう穀物ができたのに、今はなぜできないのか」

 もう一つは「おまえの孫は撞木杖を二本ついて歩き、お前の息子は一本ついて歩くのに、おまえは、杖もつかずにらくらくと歩いて来たばかりか、目はそのとおりはっきり見えるし、歯は丈夫だし、言葉もてきぱきして、愛想がいい。それはいったいどういうわけか」

 そこで三人のなかでもいちばんの年寄りだった、その老人はいった―

 (さて、不思議な老人は王さまにどのように答えたのか。答えはそれぞれに出せるでしょうから、一つとは限らない。正解は「一つだけ」というのはこの島の学校が微塵も疑わない信仰ではありますね。その方が採点も楽だし、子どもも納得するし。でも本当は納得なんかしちゃだねなんだ。したがって、ここでトルストイとは別個の回(解)答をするのも一興でしょう。肝心なことは「現場」はどうなるのでしょうか、という一点に尽きますね。あなたにとって、「現場」はどこですか。それは、なんですか。「イワンのバカ」ばっかりですね、この世は。

自分のものとは、いったい何か

 自分のものとは

 信じられないようなおぞましい出来事や事件がいたるところで続発しています。まるで、いのちそのものが一枚の木の葉より軽々しくあつかわれる状況に似ています。わたしたちが生きている時代や社会、それはひとりの人間が正直に生きるのが奇蹟のような時代であり社会なのだと痛感します。どうしてこんなふうになったのでしょうか。(元ウルグアイ大統領 ホセ・ムヒカ)

 いまの時代の風潮を「豊かだけれども貧しい」といった人がいます。その言い方にはいくつかのふくみがあります。「豊かだと自分では思っているが、ほんとうは貧しい」ということであり、「身のまわりに物は豊かにあっても、そのこころは貧相なのではないか」という意味であり、そもそも「豊かであること、それが貧しいのだ」といっているようにも思われます。

 「豊か」と「貧しい」は、釣りあいのとれた天秤のようではなさそうです。けっして釣りあおうとはしないからです。片方が重くなれば、もう一方はつり上がる。まるで豊かさと貧しさがたがいに競争しているみたいです。豊かになればなるほど、一方では、自分のなかのなにかが貧しくなるのを避けられない。いったい、どうしてそうなるのか。

 わたしたちは生活の便利さを求めてやみません。不便であるよりは便利である方がどれほどいいか、そんなことはいうまでもないとされます。便利さを追求するのにかまけて、知らないうちに自分でできる領分を失っているのに気づかなくなるのです。

 便利さを計る尺度は時間や労働の節約という偏った価値観にもとづけられています。自分の身体を使わなくてもいい、いたずらに長い時間をかけなくてもできてしまう、つまるところは、容易で効率のいい生き方を願ってでもいるようです。でも、求めている便利さ(コンビニエンス)は無償で手に入れることはできない。その価値(値打ち)は機器や技術によってもたらされるものであり、その機器や技術は金銭によってしか購われないからです。

 だからでしょうか、金さえあれば、金がなければ、それこそが時代の合言葉のようになっていないでしょうか。金に追われ、金を追い求めるのが、私たちの有様だといえば、どうでしょう。

 もちろん、このような物質主義に支配された生活(生き方)を安易に受けいれようとはしない人びとがいることを忘れているのではありません。にもかかわらず、世の中の風潮は否定すべくもないといわざるをえないようです。

 ほとんどの人が使っている携帯電話(スマホ)を例にとります。かけたいときにかけたいだけ使うことができる、まことに便利な機器(道具)です。しかも、それは通話するだけにかぎりません。メールにしてもネットへのアクセスにしても、チャットにしても、ツイッターにしても。好き放題に、つまりだれに気がねをすることなく、自由自在に使える機器です。いったん携帯電話(スマホ)を使い始めれば、それがない生活を想定することが不可能なように感じられてくるから、奇妙というよりは、恐ろしい事態だというのです。(ぼくはスマホは持ったこともないし、使ったこともない。多分スマホとはそんなものだろうという勘繰りで話しています)

 便利であるというのは、わたしたちにとって、どのようなことをさすのでしょうか。

 自分の足で歩くかわりに、車に乗る。手間と暇をかけて食事を作る面倒を省いて、近所の「コンビニ」で用を足す。あるいは、以前ならば十時間もかかっていた仕事(労働)が、便利な道具を使えば一時間で済んでしまう。

 仕事(労働)、それは、いまでは時給いくらの計算で比べられる苦役となってしまったかのようです。時給が低いから、時給が高いからというのが、仕事(労働)を選ぶ基準になったのだとしたら、いったいどのような状況が、そこからうみだされるのか。「便利」は「不便」であり、「不便」よりももっと「不便」です。便利が途切れたら、どうしましょう。(もっと早いリニアを、と望むのは誰だ)

 文明の進歩ということがさかんにいわれてきました。遅れた生活、進んだ生活という比較もなされてきました。新しいことはいいことだという価値観を拒否しなければならないというのではありません。人間が生活する(生きる)とは、自分の身体を使って働くという生活のことなのだといいたいだけなのです。「「文明の進歩」は「文化の破壊」です)

 わかりきっていたはずなのに、労働とはなんだろうか、あらためて考える必要があります。

 (折しも、コロナ禍という災厄が襲来を辞めそうにないのです。これがかなり長く続くとなると、おそらくこれまでの生活スタイルを否応なく変更せざるを得なくないでしょうし、変更されつつあるのかもしれません)

 ここで、わたしたちの現在の生活ぶり(習慣)にとって、ひじょうに象徴的な物語を紹介したくなりました。(つづく)

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米国が「人権立国」になる日は…

13th -憲法修正第13条- 2016  1時間 40分ドキュメンタリー
現代の米国の社会問題に、アフリカ系アメリカ人の"大量投獄"がある。黒人が犯罪者として逮捕されやすい事実を学者、活動家、政治家が分析するドキュメンタリー。(https://www.youtube.com/watch?v=krfcq5pF8u8
『13th -憲法修正第13条-』(13th)は、エイヴァ・デュヴァーネイ監督による2016年のアメリカ合衆国のドキュメンタリー映画である。人種差別、法と政治、そして大量投獄の関係性に踏み込んだ作品である。タイトルの13thは合衆国憲法修正第13条(奴隷制廃止条項)を意味する。/ この作品は冒頭、アメリカ合衆国前大統領バラク・オバマの発言映像から始まる。それは、「アメリカの人口は世界全体の5%にすぎないにも関わらず、アメリカ人受刑者は世界全体の受刑者数の25%を占めている」という問題提起だ。そして、アフリカ系アメリカ人公民権運動の結果廃止されたはずの奴隷制度が、現代もなお形を変えて残っていると指摘している。(以下略)(wikipedia)

初公開: 2016年10月7日 (アメリカ合衆国)
監督: エイヴァ・デュヴァーネイ
音楽: ジェイソン・モラン
プロデューサー: エイヴァ・デュヴァーネイ、 ハワード・バリッシュ、 スペンサー・アヴァリック

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 Black Lives Matter.いまアメリカで起こっているこの運動は、もはや「黒人差別」に対する抗議運動にとどまるものでありません。とうぜんながら、「人権」そのものを激しく問うものになっています。黒人問題は「白人問題」であり、黒人が自由にならなければ白人もまた自由にはなれないということを明示している Movement であると、ぼくは思います。このドキュメントが明かすアメリカ社会の政治的・制度的・社会的な差別問題、別けても「黒人差別」問題はじつはアメリカ社会の成り立ちからして、不可避の、あるいは必要不可欠の政治経済問題(条件)でもあった。「人権」を問う主体は「一人一人の人間」であるというあからさまな真理も、この社会では数えきれない犠牲者の上で保たれようとしてきたという歴史事実が明かされます。このドキュメントが訴えるところがいかにして自らに届くか、ぼくたちは激しく動かされるはずです。これは間違いなく、ぼくたちの社会における問題そのものでもあるのです。(上の写真、左はAngela Davis。右はAva DuVernay )

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死刑執行への立ち合いも権利

ダニエル・リー死刑囚。米首都ワシントンで(撮影日不明、2019年12月6日提供)。(c)AFP PHOTO /Spokane Police Department

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【7月11日 AFP】米連邦政府による死刑執行が来週、17年ぶりに行われる予定だったが、インディアナ州連邦地方裁判所は10日、立ち会いを希望していた被害者遺族が新型コロナウイルス感染拡大防止で移動を自粛するため刑の執行延期を求めたことを受けて、執行を見合わせると発表した。/ 白人至上主義者のダニエル・リー(Daniel Lee)死刑囚(47)は、1999年にアーカンソー州で銃器取引業者の男性とその妻、8歳の娘を殺害した罪で有罪となり、インディアナ州の刑務所で今月13日に薬物注射による死刑を執行される予定だっ/た。/ だが、殺害された少女の祖母、アーリーン・ピーターソン(Earlene Peterson)さんら遺族は今週、新型ウイルスの感染拡大を受け、死刑執行の延期を要求。死刑執行に立ち会う権利を行使するか、コロナ危機の中、移動を控えて自分たちの健康を守るかという厳しい選択を迫られたと述べた。/ インディアナ州南部地区連邦地方裁判所のジェーン・マグヌススティンソン(Jane Magnus-Stinson)裁判長は、延期要請を受諾。遺族の弁護士は、この決定に関して検察は最高裁まで争うことができるが、そういう事態にならないことを願うと述べた。しかし米司法省は10日夜、予定通り13日の死刑執行を求めて申し立てを行う姿勢を示した。/ ピーターソンさんは死刑に反対しており、ドナルド・トランプ(Donald Trump)政権に対し、リー受刑者への恩赦を何度も求めてきた。だがトランプ政権は、今年の夏に死刑執行を4回予定しており、執行は犯罪被害者のためだと主張している。
 米国では、大半の犯罪事件は州レベルで裁かれるが、テロや人種差別犯罪など重大事件の裁判は連邦政府が担う。/ 過去45年間で連邦政府が死刑を執行したのは3人だけ。その1人、ティモシー・マクベイ(Timothy McVeigh)元死刑囚は、168人が死亡した1995年のオクラホマシティー(Oklahoma City)連邦政府ビル爆破事件の実行犯として死刑判決を受け、2001年に刑を執行された。/ 連邦政府レベルで最後に死刑が執行されたのは2003年。(c)AFP

 アメリカの裁判制度はこの社会とは異なります。基本的には各州が独立して裁判権を有しますが、事案によっては連邦政府が裁判を主宰するのです。その扱いの違いは上の記事に出ているとおりです。また、死刑執行に際しても、遺族や関係者が望めば立ち会うことが可能です。これもこの島社会と異なっているのは事実ですが、それが進歩している(人権に配慮している)といえるかどうか、大いに疑わしいとぼくは考えています。「死刑(薬殺)」の存在自体は野蛮であることに変わりはないからです。どこにおいても死刑制度を残す(守る)国家は、その理由として「犯罪被害者(遺族)」の感情を慮ってと、似たようなことを言いますが、死刑を望まない遺族の感情は無視される(考慮されない)のです。同程度の犯罪を犯したものでも、。当該州の裁判で量刑が異なるのも残された課題です。しかし、ここでも一番最後の問題は「死刑制度」の存廃を挙げないわけにはいきません。このことに関しては、これからも思案し続けるつもり。

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