花は半開、酒は微酔にかぎるって

 今週の「半開に微酔に」

 人間は何事も「ほどほど」がいいという。関西風に言い換えると、「ぼちぼち」となる。やり過ぎはアカンでえ。上や下やいうても、ちょぼちょぼでっせ。この「菜根譚」はいまだに隠れもしないベストセラーですなあ。 AIだの5Gだのと、やかましいことを言うてる暇に、えげつないことがあちこちで起こってますやん。また若い人が「自死」だとか。詳細は分かりませんけど、「ネット中傷」のせいだとも。いかにも悔しいことや、「ぼちぼち」ができなかったのでっしゃろか。(想像でものをいうのはよろしくない)季節外れの「コラム」です。くれぐれも味読を、「菜根譚」。(ヘッダー写真は「毎日頭條」:https://kknews.cc/essay/8kxayy4.html

斜面 ほどほどにと思っていながら、つい度を越して…。お酒との付き合い方は難しい。どれくらい自分が飲めるか、まだ限界が分からない若い人はなおさらだろう。笑い話で済めばまだしも、そうばかりではない◆大学や職場での新人歓迎会の時季に合わせ、市民団体の「イッキ飲み防止連絡協議会」が展開する啓発キャンペーンは、ことしで20回目になった。急性アルコール中毒などを防ぐため、無理強いしたりしないよう呼び掛けている。息の長い活動に頭が下がる◆適度に楽しむ分には心を軽くし、ストレスを和らげてくれる。仲間と酌み交わし、会話が弾めば、お互いに親しみも増す。一方で、飲み過ぎるのは危ない。県外では、サークルの合宿で飲酒した学生が吐いた物を喉に詰まらせ、亡くなる例が最近もあった◆東京ではことし、花見をしていて急性アルコール中毒で病院に運ばれる人が昨年や一昨年に比べ、急増した。県内もこれから桜前線が次第に北上してくる。飲み過ぎて倒れたりするようだと、周りの人たちに迷惑を掛けてしまう。せっかくの楽しみに水を差す◆毎年、今ごろになると、中国の古い言葉を思い起こす。「花は半開を看(み)、酒は微醺(びくん)に飲む」。花は五分咲き、酒はほろ酔い加減で。どちらも満たされ切ってしまわないところに本当の味わいがあるという。そうありたいと、自戒を込めながら、かみしめる。(信濃毎日新聞・12/04/15)

花看半開、酒飲微酔。
此中大佳趣。
若至爛漫酕醄、便成悪境矣。
履盈満者、宜思之。
「菜根譚」 )(本により「異字」あり)(岩波文庫版による)

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●菜根譚=中国、明みん)代の末期に流行した「清言(せいげん)」の書。著者洪応明(こうおうめい)は、字(あざな)は自誠(じせい)、還初道人(かんしょどうじん)と号し、万暦(1573~1619)ごろの人。四川(しせん)省成都(せいと)府の出身。儒教的教養を基礎とし、そのうえに道教、仏教に通じて三教兼修の士となることは、明代中期ごろからの流行であったが、著者はその優れた一人であった。本書は、前集は222条、後集は135条、合計357条の「清言」からなる。前集は、主として世間にたち、人と交わる道を述べて、処世訓のような道徳的な訓戒のことばが多く、後集は、自然の趣(おもむき)と山林に隠居する楽しみを述べて、人生の哲理や宇宙の理法の悟了を説くことが多い。この人生の哲理、宇宙の理法は、儒仏道三教に通じる真理であり、それを語録の形式により、対句(ついく)を多用した文学的表現をするのが「清言」である。書名は、宋(そう)の汪信民(おうしんみん)の『小学』における「人常に菜根を咬(か)みうれば、すなわち百事をなすべし」からとったものである。中国よりむしろ、江戸末期の日本で多くの人に愛読された。洪応明にはほかに『仙仏奇蹤(きしょう)』4巻(『消揺嘘(しょうようきょ)』『長生詮(ちょうせいせん)』『寂光境』『無生訣(むせいけつ)』各1巻)の著がある。[藤原高男]『今井宇三郎著『菜根譚』(1967・明徳出版社) ▽今井宇三郎訳注『菜根譚』(岩波文庫)』(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

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「教養」は教育できないと知るべし

旧制一高(現在の東京大学教養学部)正門

 記者の目:北杜夫さんを育てた旧制高校=澤圭一郎

 「学校の勉強以外で教師や友人と深く触れ合ったのが、旧制高校でしたね。私は松本高校(長野県松本市、現信州大)に入ったことが人生の転機になり財産になったと思っているんです」。先月24日に84歳で亡くなった作家の北杜夫さんにインタビューした時の言葉を、今も口調とともにはっきり覚えている。毎日新聞の教育のページで今も続く「学校と私」のコーナーで、高校時代の思い出を話してもらった。その生活を描いた著作「どくとるマンボウ青春記」(1968年出版)には、旧制高校の教養教育や教師と生徒の触れ合いが、ユーモラスなエピソードとともに描かれる。その描写を暗記するほど読み、憧れて大学に進んだ私は「そんな教育こそが必要ではないか」と今、思う。

 旧制高校は1894年に高等学校令により正式に設置され、一高(現東京大)から八高(現名古屋大)のナンバースクールや新潟や松本の地名がついた高校、武蔵や成城といった私立高もあった。当時の日本のリーダーを輩出したが、戦後、学制改革で1950年に廃止され、新制大学に切り替わった。

 ◇本を読み議論し、生き方を考える

 大半が3年制で、1学年200人程度の男子校。寮生活が基本にあり、落第もある厳しさだったが、旧帝大とほぼ同じ定員で、卒業後は帝大に進学できた。今の比ではない受験競争を勝ち抜いたスーパーエリートの学校だったが、生徒は「善の研究」(西田幾多郎)など古典的名著のほか、国内外の本をしっかり読み、生徒同士で議論し、教授と問答をしながら、人生の意味や社会の中で人はいかに生くべきかを考える「教養教育」が施された。これぞ学校の神髄であると思う。

 「青春記」を読んで私が信州大学(左下写真旧制松本高校跡)に進んだ当時(85年)、大学にはまだ教養部というものがあり、1、2年はこの教養部に属して語学や哲学、自然科学を学ぶ仕組みになっていた。旧制高校の残り香があれば、大学教養部はひょっとして私を満足させてくれるかもしれぬと期待を抱いたが、これは見事に裏切られた。教養部の授業は高校の授業の焼き直しにしか思えず、教授も「青春記」に出てくるような人物はいなかった。

 私の感覚は正しかったようで、91年には大学設置基準が緩和され、専門教育の充実を旗印に、東大など一部を除き、教養部は解体してしまった。失敗したのである。当時、4割に上る進学率で大衆化した大学の限界と、専門教育を上位に見て教養を軽視した大学内の事情など、さまざまな要因が重なったことが理由だ。/以前、コラムで旧制高校復活論を唱えたら、全国から賛意のお便りを頂いた。「『よく学び、よく遊べ』を実践していた学校だった」と懐かしむ手紙もあった。中でも、旧制高校出身者らで作った「日本の教育改革を進める会」(西澤潤一代表)のメンバーからは「ぜひ、良かった点を今の教育に復活させたい」と連絡を頂いた。同会は97年から09年まで活動を続け、専門だけにとらわれない幅広い基礎学力と人格形成に徹した教育をする「教養大学」の創設など、7次にわたる提言をまとめて文部科学相らに提出している。メンバーの一人で、旧制浪速高(現大阪大)卒業生の藤田宏・東京大名誉教授は「今はリーダーを育てる教育が失われている。旧制高校の良さを生かし、ロマンを持った若者を育てるべきだ」と話す。

 ◇実学偏重を改め、本当のゆとりを

 一部では具体化している大学もある。秋田県雄和町(現秋田市)に04年に開学した国際教養大(写真右下)は、英語を基本とした授業や1年間の寮生活、留学、幅広い教養科目の履修など、今の時代に即した教養重視の教育を実践し、評価が高い。国際基督教大(東京都三鷹市)も語学と教養重視の学校だ。

 今、中学でも高校でも「受験に関係ない」という理由で、人間の幅を広げる勉強がおろそかになっていないか。あるいは「実学志向」で、すぐに役立つ勉強偏重になっていないだろうか。受験にしても就職活動にしても、その対策に追われるばかりで、ゆっくりと本を読んで議論するような時間が少なすぎる。世間の不評を買ったが、本当の「ゆとり教育」とはそういうことではなかったか。どのような人材を育てるべきなのかを考えたとき、北さんの「青春記」に描かれる旧制高校の教育には、大きなヒントがあると思う。(東京社会部)(毎日新聞・11/11/25)

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 温故知新といいます。旧制高校はある人々にとっては懐旧の対象ではなく、むしろ現実の存在であって欲しいというのでしょう。げに、歴史は一筋縄ではいかないもののようです。この記事を書かれた記者氏は、この時期には、おそらく四十を出たところだと思われますが、やはり「旧制」に思いを届けておられるようです。ぼくにはそれがよくわからない。「北杜夫」という作家の影響だ大きいのかもしれないし、それ以上に旧制高校は「いいところだった」という評価があるのでしょうね。下の図表を見てください。1962年版「教育白書」(文部省)の示すところは、昭和十年、旧制高校(現大学)生の「進学率」とみていいでしょう。北さんが旧制高校に在学していたのは戦前戦後の混乱期だったと思われます。この時期の旧制高校生や大学生は、きわめつけの「少数(精鋭といえたかどうか)」でした。百人中三人から五人くらいしか進学しなかったのですから、世間からは大いに「学士さま」と甘やかされていたでしょう。

 いまなら、「ダイヤモンドの塊」くらいにちやほやされていただろうと想像します。ぼくの、うんと年上の先輩は旧制高校での「学士さま(医者でした)」でした。その裕福というか、ぜいたくぶりは貧乏学生だったぼくには驚愕すべきほどのものでした。話を聞いていても、嫌になってしまうほど、学校(時代)格差というものが実感されました。でも、少しもうらやましいとは思わなかった。「教養教育」に関してもいくつかのエピソードが、ぼくにはありますが、書くほどのものでもありませんので。近年ますます大学は「実学志向」であるといわれるのはその通りです。でも今では「実学以前」が大学の風潮になっているようにも、事情をよく知らないぼくは勘ぐってしまいます。つまり「実学以前=虚学指向」で彷徨っていないかどうか。

 面倒なことを言う気もありませんが、「教養」は教師が教えたり、教師に教えられるような、そんな半端なものじゃないということだけは言っておきたいですね。教養、あるいは修養というものは、教わるのではなく、自らの裡に成し遂げる、一種の精神の栄養のようなものです。身につく身になるといおうか。すべては経験(体験)が元手です。それがなければ、暗記科目の如くで、必要がなくなればそれで御用済み。もっとも素朴は語感は「栽培(耕作)」でしたね。畑(自分)を耕して種をまき、実や花をならせる、換言すれば、それによって収穫(人間ができるともいいます)があったという具合に、自身の裡に何事かが生まれるということでしょう。自分もまた、「荒れ地」であり、「耕作」によって「収穫」を得たいものです。その伝でいえば、田植えは立派な「教養」行為です。田圃は人民の学校でした。

 ぼくは学校用の「教養」には興味がない。「国際教養」って、どういう代物ですか。 

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*(おんこ‐ちしん〘名〙昔のことをよく学び、そこから新しい考え方や知識を得ること。また、過去のことを研究して、現在の新しい事態に対処すること。◇『論語・為政』の「故(ふるき)を温たずね(または、温(あたた)め)新しきを知らば、以(もつて)師と為(な)るべし」から。「温古知新」としない。(明鏡国語辞典)

*北杜夫(1927~2011)小説家,エッセイスト。本名斎藤宗吉。斎藤茂吉・輝子の次男として,東京都港区南青山に生まれる。旧制松本高校から東北大学医学部卒業。医学博士(精神医学)。1960年,《夜と霧の隅で》(新潮社)で,第43回芥川賞受賞。さらに同年の,船医として水産庁の調査船に乗った経験を描くエッセイ《どくとるマンボウ航海記》(中央公論社)がベストセラーとなり,作家としての位置を確立した。トーマス・マンの《ブッデンブローク家の人々》の影響下に,父斎藤茂吉をはじめとした斎藤家の歴史を描く小説《楡家の人々》で毎日出版文化賞,《青年茂吉》など茂吉評伝4部作で大佛次郎賞を受賞。自ら深刻な躁鬱病に苦しんだが,その病状をしばしばユーモラスなエッセイのかたちで語っている。(百科事典マイペディアの解説)

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 辞書は世に連れ、世は辞書に連れ

 「ことばと教育」、あるいは「ことばの教育」

金口木舌 辞書の序文や後書きには、言語に対する編著者の見識や編さん作業の経緯が記されている。編著者自身の辞書論や言語研究にまつわる体験を披歴したものなど読み応えがある▼近代的辞書の先駆けとなった1904年の「言海」を編んだ大槻文彦は17年に及ぶ編さん作業の苦労を奥書に刻んだ。現代の国民的辞書「広辞苑」の編者、新村出はこの奥書を「名文」と評している▼伊波普猷は38年の「琉球戯曲辞典」の冒頭で「辞書と呼ばれるには、余りに冗漫で、むしろ琉球語に関する随筆集ともいふべきものである」と控えめに書く。もちろん伊波はこの辞書にも沖縄への愛情と誇りをささげたに違いない▼伊波の薫陶を受けた仲宗根政善さんは83年の「沖縄今帰仁方言辞典」の序文に、ひめゆり学徒隊の引率教師として死線をさまよった沖縄戦体験を書き残した。方言を「民族の呼吸だ」と慈しむ伊波への敬慕と方言研究への熱意も文面からにじむ▼今年の菊池寛賞に決まった前新透さんは「竹富方言辞典」の序文で「言葉を忘れたら生まれ島をも忘れ、生まれ島を忘れたら親までも忘れる」と竹富の言葉で記した。生まれ島への愛惜は読む者の心を震わせる▼「竹富の人々の生活や文化のすべて」が根差す竹富言葉の保存を前新さんは力説する。それは辞書編さんを超え、島への愛情を後世へ伝える信念と責務を私たちに教えてくれる。(琉球新報・11/10/22)

●言海=国語辞書。大槻文彦(おおつきふみひこ)編、4冊(初版)。1889~91年(明治22~24)初刊。わが国で最初の近代的な組織の普通語辞書。収録語数3万9103語。1875年(明治8)文部省の命によりつくり始める。ウェブスターのオクタボ版にその構成を倣い、多年の労苦のうえ完成した。特色としては、(1)基本語も含めた普通語の辞書であること、(2)五十音順で配列したこと、(3)近代的な品詞の略号と、古語・訛語俚語(かごりご)の印をつけ、活用を示したこと、(4)語釈に段階づけをしたこと、(5)用例を載せたこと、などがある。これらは以後の普通語辞書の範となった。のちに『大言海』(冨山房刊)として増補された。巻首の「語法指南」は『広日本文典』、『広日本文典別記』(ともに1897刊)の基礎となった。[古田 啓](日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

●伊波普猷(1876~1947)言語学者,民俗学者。沖縄那覇の人。東大国文科卒。1910年沖縄県立図書館創設とともに館長となり郷土史料収集に努力。1925年再度上京,琉球語や沖縄史,特に大学以来のおもろさうしの研究に没頭。沖縄学の父とされる。柳田国男,折口信夫などが沖縄文化に注目する端緒となったのも伊波の仕事であり,沖縄研究は日本民俗学の形成に深くかかわることになった。主著《古琉球》《沖縄女性史》《琉球古今記》《をなり神の島》《おもろさうし選釈》《南島方言史攷》等。全集11巻がある。(百科事典マイペディアの解説)

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天声人語 小紙に連載されて人気を博した井上靖の小説「氷壁」は最後に主人公が山で落命する。主人公に目をかけていた上司が社員を前に悼辞を述べる。思わず口をついて出た「ばかめが!」の一語で締めくくるくだりは印象深い場面だ▼作中で井上は、この一語を吐いた上司の内面を練達の筆で描く。哀惜と喪失感、憤りがせめぎあう。せんだっても小欄に書いたが、「ばか」の持つニュアンスの幅はずいぶんと広い▼平野復興相が公の場で、津波被害について「私の高校の同級生みたいに逃げなかったばかなやつがいる。彼は亡くなりましたけど」と語ったそうだ。これも辞書そのままの意味ではなかろう。だが問題になり謝罪した。言葉をめぐる空気が、どうも息苦しい▼扱いが難しい言葉だけに、発言に逸脱感はあるにせよ、事例を調べる必要を述べた前後の文脈はまっとうだ。自民党幹部の言う「許されない」ようなものだろうか。むしろそうした反応に「やれやれ」の感がある▼言葉の切っ先は、ときに人を傷つける。無神経は論外だが、心地良い言葉を並べてことが済むものでもない。現実を見すえ、問い、答える言葉がリアリティーや闊達(かったつ)を欠けば、本日召集の国会論議も深まるまい▼思い起こせば、味わい深く人を「ばか」呼ばわりする達人はフーテンの寅さんだった。その寅さんにも「それを言っちゃあおしまいよ」の決めぜりふがあった。おしまいにはせぬ節度を保ちつつ、震災後を語り合う言葉の自由度を広く取りたい。(朝日新聞・11/10/20)

●井上靖(1907-1991)旭川市生れ。京都大学文学部哲学科卒業後、毎日新聞社に入社。戦後になって多くの小説を手掛け、1949(昭和24)年「闘牛」で芥川賞を受賞。1951年に退社して以降は、次々と名作を産み出す。「天平の甍」での芸術選奨(1957年)、「おろしや国酔夢譚」での日本文学大賞(1969年)、「孔子」での野間文芸賞(1989年)など受賞作多数。1976年文化勲章を受章した。(新潮社編)(註 大学は八年かけて卒業。在学中に結婚し、子どももいました。就職の同期には、むのたけじさんがいた、柔道何段だったか。自伝的小説にも柔道に打ち込む姿が。『北の海』ほか)

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 本日の二つのコラムは、いずれも「ことば」を問題としてあつかっています。なんでもないようで、ことばというのはわたしたちの生きている証となるものだともいえます。ことばを軽んじる人は、みずからを軽んじていることに気がつかないのです。人は言葉から成り立っているとも言えます。だから、成り立ちが怪しい輩もたくさんいるのです。「募集」と「募る」は異なる言葉(意味)だと強弁したり。ごまかしや虚言をくりかえすのは、コトバというものが、自身の裡に育っていないからです。言葉が軽いというレベルじゃない。言葉が当人に寄り付かないという恐ろしい事態が進行しているのです。いったい、そんな人物をだれが信じられるのでしょうか。

 何のための教育か、としばしば自問してきましたが、それはことばの力を侮らないためであり、みずからのことばを育てるためだといってもすこしもおかしくないと思うのです。

 ここに示した事象や人物それぞれにいろいろな思いが、ぼくにはあります。の些細な事柄を言うのは避けますが、やはりこんな人に出会っていたり、こんな本(辞書)に遭遇していてよかったな、という感慨はありますね。『言海』は愛読書の一つです。「民主主義(デモクラシー)は下克上か」とあったり、「文明は西洋かぶれだ」などと、おどろくほど個性(独走・独創)的解説に驚喜した経験があります。その他はいずれまた。

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こちらが責任を持つ、という無責任

 学校はだれのものなんだろうか

 いったい、学校はだれのものでしょうか。子どもを教育するところ、いや教師の職場である、とんでもない、国家が発展するために作られた制度だと議論は沸騰するのかも知れません。じつに奇妙な話です。学校教育が始められてから一三〇年以上も経過していながら、いまだにこのような疑問がときとして大まじめに出されるのです。

 考えてみれば、こんな疑問は不思議でもなんでもないのかもしれません。だれかのものと決めつけようとすることこそが奇妙だといえます。ひとそれぞれに、自分の立場にたって、学校教育を論じようとするのですから、だれもが納得する結論がでることはないといってみたらどうでしょうか。ようするに、どのような視点から学校を見る(論じる)かが重要だといってみたくなります。

 子どもの成長や発達を願う立場からみれば、学校は子ども(その関わりでいうなら、親たち)のためのものだといえます。教師がいてこそ、子どもの成長や発達に資する教育が可能となる(そのように懇望してやまない)というなら、それは教師がいなければなりたたない組織であると考えられましょう。しかし、子どもの成長を可能にする教師の役割を容認するにしても、けっして個々人の努力や情熱だけでは一日だって維持できないのはいうまでもありません。それがじゅぶんに達成されるためには莫大な経費や施設・設備が欠かせないのです。

 ここまできて、学校はけっしてだれだれのものと、所有者を特定できないことがわかります。そんなことはあたりまえだといわれそうですが、この国における学校教育がつねに問題をかかえており、ときには驚くばかりの愚劣な議論が政治の領域でなされるのをみるにつけ、学校は「俺のものだ」という我が物顔の主義主張がまかり通ってきたともいえるのです。

 教育の政治的中立性とはどういうことか。いかなる党派であれ、ある種の政治権力が学校教育を、どのような方法を使おうとも、支配することをいさぎよしとしない、民主主義社会のためのひとつの原理を示すものだと考えられます。国家権力であれ、一人ひとりの教師のそれであれ、はたまた子どもや親たちの意向であれ、それらが学校教育をかたよった方向に導かないためにはこの原理をないがしろにしてはならないことを教えています。

 ではなぜ、このような原理が大きな価値をもつのか、もたされているのか。いうまでもなく、特定の権力(勢力や党派といってもいい)が学校教育を牛耳り、そのあり方をきわめていびつなかたちにゆがめてしまうことがあったからです。その具体例はあげるまでもないでしょう。学校教育をみずからの思想や教義のための道具とした事例は枚挙にいとまなしです。明治以降の学校教育史とは、一面ではまさしく学校・教育が政争の具とされてきた歴史でもあったし、その流れは今日においてもまったく変わりません。

 時には、「学校はおれのもの」だという、驚くべき錯誤を信じて疑わない虚仮がいるのだから、油断も隙もあったものではないのです。どこを叩けば、かかる頓馬が飛び出してくるのかしら。誰のものでもない、みんなのものだという「公共」という概念すらもたないから意識もないのか。考えてみれば、恐ろしいことです、こんな輩が宰相だというのですから。何かと心配する文科大臣(虚仮の子分だとされます)を前にして、「こちらが責任を持つ」といったそうです。「責任」という言葉を使えば、「責任」を果たしたことになると心底思いこんでいるんですね。驚愕すべき頽廃のきわみ、薬石効なしですな。(「責任」=責任という語を用いること、という奇怪な辞書があるらしい、非売品だ)

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 世間の批判をかわすために、「学校一斉休校」を宣言するというとんでもない暴挙を行ったのは、まさしく、学校・教育の政治的利用の最たるものです。子どもの教育や親の事情など一切関係なく、おのれの評判(支持率)を死守するためだけに、こんなに愚かなことができるというのも前代未聞でしょう。これは才能のなせる業なんですか。

 いともかんたんに、かかる蛮行を許してしまうという現行の教育行政の体たらくをぼくは糾弾したい。これまで営々と築いてきたものがまったく砂上の楼閣ならぬ、張りぼてだったということが白日の下にさらされた瞬間でした。誰一人抵抗するものもなく、てもなく響宇高に追い込まれ、果ては休校先陣争いのごとき惨状を呈していました。二度と再び、口先だけの政治屋に翻弄されないだけの矜持を持たなければ、話になんないね。 

 マスクを数百億円使って、求めてもいない人民に配布するという破天荒の愚策をやった人間を長い間支持してきた島社会です。数え上げればきりがない野放図なバカさ加減を提灯持ちよろしく「よいしょ」してきたのは誰だったか、と問えば、天から唾が落ちてきます。まだ懲りずに「go toキャンペーン」だってさ。コロナ禍にやられたのかしら。今や都心は「エピセンター」になっているというのに、です。人民の死は、災害であれ、なんであれ、すこしも構うものか、という「悪辣非道」の万世一系かとも思ったりします。それに抵抗したい。抵抗しなければ。

 「一斉休校」、それはまさしく能天気なPMの「スクールジャック」でした。いったい学校はだれものもか、という問い自体が意味をなさないくらいに、落ちるところまで落ちたのです。ぼくは「教育は私事である」と思って、これまで生きてきた人間です。「一旦緩急あれば、義勇公に奉じ」「天壌無窮の皇運を扶翼すべし」といった犠牲礼賛、滅私奉公奨励、皇室尊崇を強いる学校教育は破棄されたのではなかったか。この期に及んで、まだそんな寝言をお前は言ってるのか、と嘲笑されるのが落ち、そんな時代にぼくは生きている。歴史が明治と陸続きであることは否定できないが、心機一転、気分一新、生まれ変わろうとする志(再生への意欲)はとっくに失われたのか、端からなかったのか。

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現実のなかに正路を開拓しよう

 《 あらゆる学校のあらゆる学級に何人ものサキがゐる。彼等に対して、教師はどのやうな態度で接しなくてはいけないか。その理論を堅固(けんご)に作り上げない限り、解決はあり得ない筈(はず)であつた。傷口に膏薬を貼るやうな姑息な方法ではなく、傷を根治させるための、更には滅多に傷を負はぬ強靭な体質に育てるための理論の構築。しかし、果してそんな事が可能であらうか。

 教室での教育には、当然ながら限界がある。教科書がなくて教師の裁量に任される場面の多い綴方は、指導を通して子供の生活に触れる部分が大きく、それ故に教師の情熱の対象ともなり得たのだが、サキの例は、それにも限界があるのを教へて呉れたやうでもあつた。本当に教育者であらうとすれば、先刻も不充分ながら議論されたやうに、学校教育からはみ出した部分にまで触手を伸ばして行かなくてはならないだらう。若(も)しかすると、生活綴方の根本は、もともとさうした教室内の綴方科からはみ出した部分に求めるのが本来であつたのかも知れない。だが、六十人もの生徒を相手にして、果して誠実が貫けるだらうか。彼はそこでまた堂々巡りをしないわけには行かなかつた。どうすれば、何をすればいいのだ、この惨めな土地の教師は 》(高井)

 サキの仕事さがしは困難をきわめました。男鹿の話はまとまらず、子守奉公くらいがせいぜいでした。それは「職業」といえるものではなかった。サキの担任教師は父親を説得して「小学校の補習科」に進学させた。二年修了の補習科では主として裁縫の指導をすることになっており、就職に有利だと考えたからでした。しかしその一年後、サキは補習科を辞めた。金がつづかなかったからだ。

 それからは由利郡前郷の教師の家に「女中奉公」に出ますが、「女性として居たたまれないやうな事情」もあって、一年後にはそこから逃げだします。その後、金浦の菓子屋に一年、薬屋に四年。そして、二十三歳で塗装業の男性と結婚した。三人の子どもを育てるのに、ソバ屋の手伝い、保健の勧誘員、二十㌔もの昆布を背負って行商にもでました。ようやく生活が落ち着くのは昭和も四十年代だったそうです。生活苦との闘いは何十年もつづいたのでした。

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 「北方教育」と呼ばれた教師たちの実践 秋田を中心として、大変な課題に挑戦した教師たちの実践を考えてみることにようとしています。この教育実践の「狼煙(のろし)」のように評価され、多くの教師たちに衝撃を与えたた小さな詩、まず最初に、その詩(生活綴方詩)を読んでください。(この情趣はきっと分かりづらいだろうと想像しています)

 汽 笛(きてき)   (秋田県金足西小学校4年生)
 あの汽笛          
 たんぼに聞こえただろう
 もう あばが帰るよ
 八重蔵 泣くなよ

  北方教育の中心となって困難な仕事を導いたのは成田忠久という人だった(1897年9月~1960年10月)(写真右上)。1929(昭和4)年に「北方教育社」を興し、翌年には雑誌「北方教育」を創刊。北の地方から全国に「生活教育(=子どもの生活に密着し、子どもの生活を子ども自身でつかみなおさせるための教育)」の実践を呼びかけた人でした。今、日本海に面した秋田県山本郡八竜町の役場前に「記念碑」が立っている。しばらく八竜町の浜田尋常小学校の代用教員をつとめた縁からです。

 (十年ほど前だったか、ぼくは秋田県を取材に訪れた。その際、成田さんの「記念碑」を探して、その近くの役場(三種だったか)に入った。理由を説明して、「どこにあるのでしょうか」と尋ねたら、職員さんは成田もしならければ、北方教育も知らなかった。昭和は遠くなりにけり。帰ろうとした瞬間、一人の方が「石碑でしょ」と声を出し、「あのバス停にあるのがそれじゃない?なんか大きなのがあるから」といった。役場前の停留所の横に大きな碑が建っていた。碑文を読み、写真を撮った。確かに記念碑だった「北方教育の父」と成田忠久さんを湛えていたが、ぼくは悲しくなった。役場のだれ一人、興味も関心もなかったのです。そんなもんだな、と何か寂しくなりながら、役場を出たのでした。職員さんを非難するのではありません。写真はフィルムのままカメラに入って、今も手つかず)

 成田は後に「北方教育の父」などと称されるようになった。幼児期に両親を亡くし、母親の実家で育つ。第一次世界大戦では通信兵として従軍、青島(ちんたお)に滞留しました。復員後の代用教員経験が成田さんを学校教育の裏方(支え役)に導いたのです。

 《 子どもの自主性、創造性をのばそうとする大正自由教育に打ちこむ青年教師だった。グループ学習や童謡劇、綴方も取り入れた。運動会では午前中の記録をガリ版で刷って速報として配り、自分が作詞した校歌に振り付けしたマスゲームを披露し、村民を驚かせた。が、校長の不義を偶然見たという理由で退職させられる 》(佐藤国雄『人間教育の昭和史「山びこ」「山芋」』朝日新聞社刊。1991年)

 代用教員を退職した後、秋田市内(市内には秋田連隊があり、そこが得意先だった)で豆腐屋を開業。その利益で「北方教育」を支えます。彼のまわりにはたくさんの教師たちが集まった。東北はいうにおよばず、関東や北陸、そして全国から有形無形のつながりを求めた教師たちでした。滑川道夫、近藤国一、佐々木昂(こう)、加藤周四郎、鈴木正之、佐藤忠四郎ら。さらには、国分一太郎、鈴木道太、池田和雄、平野婦美子、近藤益雄、寒川道夫などなど。成田さんが「北方教育社」を起こした昭和4年当時、東北地方の生活状況は厳しさの度を増していた。宮澤賢治が「雨ニモマケズ」を書いたのは昭和六年。亡くなったのはその二年後だった。

 《 成田らが北方教育をめざした二九年、世界大恐慌が起こり、米価の下落、不景気…。翌年には日本にも波及、さらに全国的な凶作で、とくに東北の農山村の生活は崩壊寸前だった。長期欠席、身売り、欠食児童など、を目の前にして東北の教師たちはもの言わぬ子どもたちの生活環境(生活台)にとび込み、生活のありのまま、本音をつづらせ、そのなかから子どもたちに生きる意欲をもたせようとした 》(佐藤・前掲)

 《 百姓の子は都会の子どものように感覚が浮動していない。鋭敏でない。悪くいえば牛のように鈍重(どんじゅう)だ。鈍重な牛を動かすほど農村の鞭は深刻で凶暴な風格をしているのだ。/ 百姓には都市生活者のような虚飾がない。食われなくなれば馬を売る相談を子どもの前で実直に話している。せわしくなれば乳飲み子を三年や四年の子どもの首にぶらさげて田畑へ出る。/ 十か十二の女の子に父親の昼飯の心配させるような家庭なのである。こうした家庭だけなのである。

 子どもとおとなの境はない。子どもはおとなの言葉をあたりまえに使っている。「不景気、不景気」という言葉をあたりまえに言っている。ただ関心の程度が深いか浅いかである。/ 子どもの自己凝視はまず自己批判としてしだいに批判精神を増大していく。(中略)  客観的な現実と特殊的な個人との統一の上に一切の幻覚を清算し、生活の真実へ緊迫してきた。ここでもう一度われわれは文学と綴方(重要な部分)の一致した動向をみなければならない 》(佐々木昂「菊池勇氏の文藝運動と綴方教育」『北方教育の遺産』所収。日本作文の会編集。百合出版刊)

《 どこまでも、生活にしがみついて、自分をうちたてていこうとする意志は、現実なる諸条件のうそでない認識から明朗に発足すべきものだ。/ 皮肉と風刺の中におちこむ超越的態度を警戒しよう。/ おっかぶせて子どもを引きづる観念的な盲信を反省しよう。/ ここにのみ、ぼくたちの子どもたちとともに、彼らの生活を愛する情熱が生まれてこようというものだ。この情熱的実践行を、ぼくたちは時代の教育者として態度する 》(成田忠久「実践の方向性」『北方教育』第十四号。昭和九年八月)

 「現実のなかに正路を開拓しよう」貧困を極めた子どもたちを前にして、教師たちは「宣言」した。

 (「サキさん」の後日談があります。高等小学校を中途でやめて、さまざまな苦労を重ねながら、彼女は東京に出ます。そこでも辛酸をなめながらの生活は続きました。やがてようやく家庭がが落ち着き、ほっとしていたころです。テレビの取材があり、彼女は「北方教育」の経験者として語りだしていました。その様子を遠くはなれた秋田県由利本荘の地で臥せりながら観ていた人がいました。それは誰あろう、鈴木正之さんでした。涙を流しておられました。

 鈴木正之の「綴方」の授業を聞かれてサキさんは、感慨深げに「これまで、いろいろと大変な生活だったけれど、今このようにして生きているのは、やはりあの時の先生方のおかげだった」と。もう少し詳しく述べられればと、機会を改めて書こうと考えています。

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教師の仕事はどこで終わるのか

「綴方生活」は小砂丘忠義さんの編集で出版されていました。この目次に名前のある教師たちは、綴方教師としてそれぞれが大きな足跡を残されました。(ヘッダー写真)

 《 父親がろくに働けない生活をしながら高等科まで進めたのは、サキ自身の言ふ通り〈幸福〉だつたのに違ひなく、それだけ卒業したあと家計を扶ける義務が、サキには重たく感じられたのであらう。だが同時に、サキは〈職業〉に夢を賭けてもゐるのだ、と鈴木は思つた。裁縫を習ひたい、交換手になりたい、産婆の学校へ行きたい、と言ふとき、サキは何か一つ技術を身に付けて、現在の境遇から脱出しようと願つたのではなかつたらうか。「百姓は性質に適してゐない」「百姓は嫌ひだ」としつこいくらゐに書くのも、百姓になれば現在と同じ生活がずつと続くばかりだといふ懼(おそ)れの反映であり、それと対照に、〈職業婦人〉の未来が美しく見えてゐるのに違ひなかつた 》(高井)

 鈴木正之は仲間の教師たちにサキの「綴方」を突きだした。

 「昂(こう)さん、どう思ふ」と問われた佐々木昂はすぐには答えられなかった。この綴方はまさに自分が目指すリアリズムに徹した優れたものであることを彼は疑いませんでした。「だが、それは称賛するだけで終つてしまつていいやうな性格のものではないのは確実であった」

 「この娘(わらし)なば、悩んでゐる」

 「今まで俺たちがやつて来たみたいに、この文章の、どこがいいの、どこが悪いのと、突ついてみたとて、片が付かないのでねえか」

 「銭がかからなくて、私に適した職業で、家の手助けのできる職業」と、鈴木正之はサキの文章の一節を諳んじていました。

 「これなば、サキの言ふ通り、夢のやうな事だ。虫のいい望みだと言つたつていいかも知れねえ。だども、そいつを親身になつて考へてやる、サキの望みにどれだけかでも近い職業を探し出してやる、それが出来ねえば、なんぼ立派な事を言つたとて、サキに生き方を教へてやれねえのでねえか」

 正之はそのように言いました。

 佐々木昂は「俺たちの手で、この娘(わらし)さ、職業を見付けてやらなくてはなんね」

 「俺たちが、サキの生活さまで入って行かなくてはな」とくりかえすのでした。

 それをじっと聞いていた若い教師が言った。「昂さんの言ふ事は判るす」「判るども、それは学校の教師の仕事からは、はみ出した事でないすか。教師が、生徒一人ひとりの生活の責任まで負へるものだかどうか、俺なば疑問あるす」

 昂は若い教師に向かって言葉を返した。

 「教師はそこまでやるものでねえ。普通の場合にはな。だども、その教師の役割からはみ出した所で問題が起こつたとき、俺の知つた事でねえと外を向いたら、子供(わらし)ら、どう思ふべ。先生なば、それまで嘘こいてゐたと思ふでねえか」

 学校内で、あるいは教室のなかだけで「教育」は終わるのか。終わらせてもいいのか。教師の仕事は「教室で教える」ことにつきるのかどうか。これはけっして七十年以上も前の田舎教師たちだけの問題ではないように思われてきます。

 生きるためにもがき、生活を切り開くために救いを求める子どもたちを前にして、傍観者のように振る舞う教師とは何者だろう。いかにも無慈悲な官僚か、さもなければ、教育にも生活にも興味をもたない鉄面皮だといわなければならない。表面上のちがいはあるにせよ、いつの時代にも生きることに苦労しない子どもたちはいない。時代や社会が変わっても、そのような子どもたちの側に立ちつくす人間こそが教師であり、そのような仕事を教職というのではないか。ここに集まった教師たちは、そのような思いで身につまされていたのです。

 「正之の指導のおかげで、これだけの激しい訴へが、子供(わらし)から生れた。それをきちんと現実に即して受け止めてやれなければ、綴方の指導そのものが、虚しい事になりはしないか。教師の役割を外れたやうに見えるところに、実は教育の本質があると言へるんでないのか」

 いつ終わるとも知れない議論が延々と続いて、「男鹿(おが)さ知つた家がある」という成田忠久の一言で一応のけりがついたのは夜の八時でした。厳冬の二月のことだった。遅い汽車に間に合うように凍りついた夜道を歩きながら佐々木昂はずっと考えあぐねていた。(つづく)

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 この時期(昭和初頭)、学校の教科書はほとんどが「国定教科書」を使うことが求められていたし、その教授法もまた、教科書の内容を過不足なく教授するのが教師の仕事でした。唯一、「綴り方」だけが教科書のない教科だったのです。教師たちは、ここにおいて、自らの仕事に懸けるように使命を見出していたのでした。後年に「綴方教育」と称されるようになった教育方法はこの頃から一斉に各地で展開されるようになりました。すでにわずかばかり述べた土佐の教育実践もまた、上田さんや笹岡さんたちに導かれた教育運動でもあったのです。

 「教師の役割を外れたやうに見えるところに、実は教育の本質があると言へるんでないのか」、教室(学校)内で教師の仕事は完結するのか。苦悩にあえいでいる親や子どもを前にして、いったい教師にできることは何だろうか、これはいつの時代にも眼前に立ちはだかる教師の宿命ともいえる課題です。

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● 高等小学校=〘名〙尋常小学校の課程を修了したものを入学させて、さらに高度な初等普通教育を施すことを目的とした学校。明治一九年(一八八六)の小学校令によって設置。修業年限は四年だったが、同四〇年、小学校令の改正によって二年となり、場合により三年のものも認められた。多くは、尋常小学校に併設され尋常高等小学校と称した。昭和二二年(一九四七)廃止され、新制の中学校に代わる。高等小学。高等。高小。精選版 日本国語大辞典の解説

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