児童には各自各位の個性があって

 いつの時代から、学校は「優劣を競う」アリーナ(闘技場)になってしまったのか。あるいは「成績(点数)」が人間を計る尺度になってしまったのか(土台、そんな滑稽なことはあり得ないにもかかわらず)。このことを根っこの部分から考えるために学校教育の歴史の最初期から教職にかかわってきた(児童生徒として、教師として)芦田恵之助さんに焦点を当てて考えてみたいと思う。(芦田さんは、けっして学校優等生ではなかった。それはとても大事な教師の資質ですね、自分を優等生だとみなしている人は教師には向かない)

 「生活綴方」という教育実践を通して、彼は何を成し遂げようとしたのか。生活綴方とはどんな教育だったのか。日本における「生活綴方」の源流に位置するひとりだった彼の求めたものはなんだったのか。

 随意選題の提唱

《 私の随意選題による綴り方教授は、当時漸く抬頭して来た自由思想の影響をうけたのではありましょうが、その根抵をなしたものは、従来の綴り方教授、即ち課題によるものが、自分でも興味がなかったし、担任学級に課してみても、児童が少しも喜ばなかったという事実でした。興に乗っては、何事にも夢中になる児童が、いかなければ生ける屍のごとく、その苦痛をすら訴え得ぬことをしみじみあわれに思いました。何とかして児童をその拘束から脱して、文を綴る喜びに浸らせたいと思いました 》(『恵雨自伝上』)   

 決められた題を与え、決められた形式の文章を書かせようと「どんなに骨折ってみても子供が作文を書かん」それならいっそのこと、「お前ら書きたいことを勝手に書け」となったというのです。押しつけではなく、強制でもない作文教育の方法は窮余の一策だった。行くところまでいって、その先一歩も進めないときに、道は開かれた。道元の言葉だったでしょうか、「百尺の竿頭、進一歩」というのがあります。ながい竿の最先端まで登っていき、先のないところをさらに一歩を進めと。無理難題なのですが、万策つきる地点までいたらなければ、なにかが生まれるはずもないのです。(外からの強制ではなく、内からの動機がなければ始まらないという、当然の理屈を芦田さんは見出した)

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劣等児と優等児 教師が神経過敏になって、児童の学業を督励し、児童も孜々として学業に勉強する。その結果は神経過敏の劣等児と神経過敏の優等児を生ずる。優等児は級の平均点を高める者として尊重せられ、劣等児は之を低める者として軽侮せられる。然し両者その相距る事は甚だ遠くない。何となれば両者共に学問の真意義を知らず、学習の態度が確立していない。又教育時期を過ぎて、知識の剥落する傾向をもっている事も亦甚だ相似ておる。余の意見にして若し幾分の真理があるとしたら、間違った教授のために、児童は日夕不幸の運命を自ら作りつつあるのではあるまいか。

学科の成績  心なき父兄は学科に対して器械的な考えを持っている。教師の中にもないではない。学科の全部が優良であるのを非常に喜ぶ傾きがある。したがって全課を優良ならしめようために、種々なる方法を以て督励する。余は心窃かにその真意を解するに苦しむ。多くの児童中には研究心うちに旺盛して、学習の態度も確立し、恰も坦々たる大道を虚心平気に歩むがようにして、而も全科優良の好成績を収める者がある。そは優良なる天賦と真意義の教育をうけた者の享有する特権である。他の督励により、強度の努力によって得た全科の優良などは、全く似而非なる者である。

 即ち真の教育をうけた者の研究心は、独り学科の上のみならず、社会万般の上に働いて、向上発展その停止する処を知らぬものがある。督励による研究心は、学科の優良がその到達点で、ここに到達すると共に衰頽の兆を示すものである。要するに学科の全部が優良であるという事実は父兄が喜ぶほど尊いものではない。したがって学科に長短のある事も、さして憂うべきことではない。児童には各自各位の個性があって、真の研究心が何科にその萌芽を発するか知れぬ。吾人はその萌芽を培養することが任務である。児童がいかなる門より入るも、確固たる研究心が樹立せば、一切の真理はいたる所に発見することが出来る。今後の教授は知識の伝達よりも、研究心の養成を重んじなければならぬ。(芦田恵之助『読み方教授』大正五年)

●芦田恵之助(1873‐1951(明治6‐昭和26))=大正・昭和初期に活躍した国語教育者。号は恵雨(けいう)。兵庫県に生まれる。兵庫県、京都府訓導などを経て、1899年(明治32)東京高等師範付属小学校準訓導、のち訓導。樋口勘次郎(ひぐちかんじろう)(1872―1917)の思想的影響を受け、綴方(つづりかた)教授の改革にあたる。また坐禅(ざぜん)主義者岡田虎二郎(とらじろう)(1872―1920)について静坐(せいざ)を修行、自己内省の方法を改革に生かそうと試みる。旧来の課題主義による範文模倣的な綴方教授に対し、自由に課題を選ばせ、自由に記述させる随意選題主義を唱え、後の生活綴方教育運動の一源流となる。また読みと思考を中心にした読み方教授法の改革をも試みた。1917年(大正6)文部省嘱託を兼ね『尋常小学国語読本』を編集し、また1921年、朝鮮総督府編集官として『普通学校国語読本』の、また1924年には南洋庁嘱託として『南洋諸島国語読本』の編集にあたった。1925年の退職後はもっぱら全国を授業行脚(あんぎゃ)した。『同志同行』誌(1930創刊)を発行。主著に『綴り方教授』(1913)、『綴り方教授に関する教師の修養』(1915)、『読み方教授』(1916)などがある。[尾崎ムゲン](日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

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 上に示した、二つの記述を熟読するまでもなく、そこに今日(これまで)の学校教育の悪弊がどのようにして萌芽し、のさばるかを芦田さんは如実に示しているのではないか。「優等生」「劣等性」の「相距たる事は甚だ遠くない」。どちらも「学問の何たるか」も知らないし、「学習態度」ができていないからだという。子どもの不幸は教師によって生み出され、さらに培養される。自分で学ぶ「方法」をこそ、児童が見つけられるように教師は尽力する必要があるのだ。誰ができて、誰ができないかを自他に明らかにするなどは、下の下の下の仕事だけれど、それだけが(といいたいほど)教師の教育目的になっているんじゃないですか。ぼくは一貫して劣等生だったから、このことはよくわかるつもりです。人より優れていたいという感情は否定しないが、自分を高めるために他人を貶めるような、成績獲得競争には一利もないし、それを強制しようという教師の振舞いは全否定されなければならない。人に敬意を持つ気分がいつの間にか消えてしまうという、学校教育の惨状をこそ、肝に銘じておかなければなるまい。(並みいる政治家や官僚や大企業の幹部たちは、この「学校優等児の成れの果て」かね)

 子どもをまともに教育しようとするなら、まず親を再教育すべきであると、ぼくは言い続けてきました(まあ、ほとんど手に負えないのが通常です。もう「育ってしまった」「育ちたくない」と固く信じているんだから)。学校という場所は「子どもを人質」にして、「親を鍛え上げるところ」だと。うちの子はだれちゃんより頭がいいのだと願うのはいいが、引合いに出された子どもには迷惑な話です。自分の子中心でしか学校教育を考えられない親の子どもが、どんな子に育つか。己(親)を越えて子どもは「優れる」ことはないのです。別に卑下する必要もない。子どもは子どもの道を見つけるように条件を整備するのが親の責任じゃないですか。

 ここに、芦田さんを持ち出したのは、学校制度の開始以来、いつでも学校は「優劣競争」「成績獲得争い」に明け暮れていたという状況に、時にはそれは間違いだ、子どもの力を、その独自性において見出す、それが教師の天職だという、まことにご苦労な仕事を引き受ける教師がいたということであり、ある意味では両派(優劣顕在派教師対優劣似たりよったり派)に割れた教師たちの戦いの場であったということを示したかったからです。数の上では圧倒的に芦田派は少数でした、いつの時代も。だから、存在の意義は厳としてあるんだ。悔しかったら、「優劣似たりよったり派」になって御覧な。なかなかいい汗がかけるかもしれないね。

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生活じゃなく、文章のために生活が

《 文章を、生活から離れた技術としてとらえる態度、つまり美文意識は、官僚文化につきもののようである。文化が官僚化されるにしたがって、文章が美文化される。文章(表現)は、それを生み出したもの(生活)と関係なしにそれ自体で発展する傾向があるので、だからそれを引きしめ、絶えず生活とのつながりを反省していないと、糸の切れたタコのように、どこへ飛んでいってしまうかわからない。こうなった文章は、もはや文章とはいえないのだが、官僚文化のワクの中では、文章はどうしてもこうなるし、また、こうなったことを自覚することができない。一時代の文章に美文意識が支配的であるということは、その文化が、官僚文化、つまり生産性をもたない文化だということと切り放して考えられない 》

《…会計係が宴会費をひねり出すために架空の人間を紙の上で出張させるように、あらゆる文章の書き手たちは、かれらの美文意識から見て完璧な文章を志している。要するに、紙の上でツジツマがあっていればいいのだ。事実に当たって検証する必要はない。もしも事実に符合しないとすれば、それは事実のほうがまちがっているのだ。生活のために文章があるのではなく、文章のために生活がある。これが美文意識の生みだす倒錯観念である 》(竹内好「美文意識について」「文芸」所収 昭和二十六年七月)

まるで古証文のように、竹内さんの文章論を持ち出したのは、ほかでもない「官僚文化」と「官僚文章」をともに考えさせる事件がこの数年たてつづけに生じてきたからです。もちろん、これは官僚時代の初めから起こっていたことで、何も目くじらを立てる必要もない話であるという向きもあるでしょう。ぼくは若いころ、必要があって明治期の政治家・官僚の文書(文章)をたくさん読んでいました。大したものだと感じ入った文章は驚くほど少なく、たいていは「作文じゃないか」というものだったし、竹内さんの言われる「美文」調が勢いを持っていたようにも思う。

 まだ、学校教育が軌道に乗る前(日清戦争前頃)のことでした。その後、学校では「書き方」「綴り方」「作文」などという教寡黙を通して、おさない子どもの脳髄に「美文長」を叩きこむようになっていくのでした。以下に、時代の隔たりはありますが、学校教育に多大な影響を及ぼした「文章」論の大家の美文じゃな文章を紹介しておきます。

 《…世間で「あの人は教育がある。」といい、或は「ない。」という。その「教育ある」という義が余にはきわめて不透明である。「教育ある」とは学校を経過した義であろうか。或は文字力のある意味であろうか。或は又智識のある意であろうか。将又智徳の完備した立派な人になろうという態度をさすのであろうか。世は多く学校経過の義に解しておる。文字力ある義に解しておる。智識のある義に解しておる。しかし世には高等の学校を卒業した人で、自己の専攻した法律に触れて、縲絏(るいせつ)の辱しめをうける人が少くない。世には文字や諸学科の智識を悪用する者がないでもない。教育が若し学校卒業の文字力、智識等によって論ぜられるものならば、教育は社会の為に危険なものといわなければならぬ 》(芦田恵之助『読み方教授』1916年)

 《 多くの人々は、綴方の作品が伸びにくいのをこぼしている。しかし、或人々の場合には、作品が延びないというのには、まず第一には、児童には到底かけないことをかかせようとかかっているような、根本の無理が手伝っている。まずその点を反省しなければならない。つまり題材の問題である。われわれにしても、物をかくといえば、所詮、じぶんが実さいに見、聞き、感じ、考えたことしかかけるわけがない。要約すれば、われわれ自身が経験した事実でなければ叙出できない》《事実は書ける、概念、観念はかけない。かけても没個性的な、共有性のものに終わるのみで、作品としては何等の価もない 》(三重吉『綴方読本』1935年)

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 通常なら、ここで官僚の「美文」調を紹介すべきでしょうが、止めておきます。上に述べたようにぼくは反吐が出るくらい官僚の「悪分という美文(嘘八百)」を読んできました。だから今更、それをここに出すにはぼくのささやかな意地が許さない。二度と再び、「悪分といいう美文(嘘八百)」に手を染めるな、染めたくないという矜持です。目にするのも汚らわしいという感覚だ。「美文」がいまでは「のり弁に早変わり」する時代です。それが許されるんだから、驚天動地の禍だと、ぼくなどは考えている。「舐めた態度」というか、「舐められたもの」だと言おうか。嘘八百を書いて「情報開示」も白々しいが、「真っ黒に消し潰した」ものを開示するという、汚い根性には言葉もないのです。こんな事態に誰がした。

 こんなヤクザな文章(雑文・駄文)を書いてしまうのも、竹内先生の時代からははるかにゴミ溜めのような汚れた時代社会にぼくたちは「生かさぬよう、殺さぬよう」に、生殺しの常態におかれ、好き放題にアシラワレているという現状に狂気をこめて「呪いの一撃」を吐き出してやりたいのです。こんなに民衆が虚仮にされた時代があったでしょうか。

 ぼくはそのすべてをなにかに帰するつもりはないのですが、多少は事情を知っているつもりでもあるので言いうのです。かなりな部分、それも本質のところで「学校教育」の空洞・堕落・頽廃化が、現状の官僚・政治家どもにあっては、人民に対する敬意の念が跡形もなく失われてしまった主因であろうと感じ入ってきました。他人を蹴落とす教育、勝てば官軍といわぬばかりの成績至上主義、他人を蔑む悪意の助長、その他言うも無残な学校教育や教師の死屍累々たる実践の墓場に、官僚文化の「華が咲いている」という顛末をぼくは、目を開け、耳をこじ開けて感じ取らなければならないと覚悟しているのです。(左の写真は、「学歴」を虚仮にし、都民を虚仮にし、自分を貶めた「某痴事」。これもまた、学校教育の仕掛けた陥穽にハマった「犠牲者」ですね。彼女は「いかなる美文派」なんでしょうか)

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民間の学問、人権としての学問

対談「民間学」のすすめ(三省堂)

鶴見 武谷三男の『特権と人権』(勁草書房)は重大なことを言ってるんだけど、左翼全盛時代の三段階論ほどもてはやされていない。今だからこそ重要なんだ。「特権としての学問と人権としての学問」ということです。助手から教授にと、これ、特権なんだよ。大学にいると、それが特権だということが分らなくなるんです。

 だけど問題は、人権としての学問というのは、少なくとも自分の暮しに目を開いて、役に立たなくてはいけない。少なくとも楽しませなくてはいけない。自分がしゃべっていて面白い講義でなければならない。新しく考えたこと、面白いことっていうのは、声が自然にのってくるわけです。古い講義をしていたら、自分が面白くないからダメなんだ。そういう、少なくとも自分を楽しませる、自分の暮しの展望を開く。これが人権としての学間なんだ。

佐高 だから今、大蔵官僚の腐敗とか、さまざまな問題が出てきてますね。大蔵官僚の中島義雄という、たかりをやった人は江田五月と同期で丸山真男のゼミの出身なんですね。あの人たちって、まさに特権としての学問だけで、人権としての学問は残念ながら身につけてなかった。そういうアカデミズムの学問に対する、解毒剤でもあるわけですね、この民間学は。

鶴見 そう、民間学というのは人権としての学間なんだ。それへの道を開こうという一歩。一歩にすぎないんです。はるか向こうに、理想形としてのイシがいるんだ。イシはいた。彼を目指して歩く、その方向の提示だ。  

(鶴見俊輔氏と佐高信氏との対談です。学問が、特定の人々に占有されて久しいし、特定の占有者の学問でないと、「評価」されないという悪弊を産んで実に久しい。あるいはそれは「学歴社会」の進行と軌を一にしていたか。日常生活万般から、自然環境問題に至るまで、在民間の学問というほかない研究調査の歴史が、この島社会の今日を大本でで作ってきたにもかかわらず、ぼくたちは「民間」や「民間学」に親しみが少なくなったのはどうしてか)

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 「民間学」という言葉は、鹿野政直がその著書の題名にはじめて使った。それまでに「民間史学」という言葉はあったが、鹿野は、その考え方を史学よりも広くとり、柳田国男らの民俗学、柳宗悦らの民芸研究、今和次郎の考現学にあらわれた共通の学風としてとらえた。

 この一三〇年の日本の民間学を実際以上に大きく見ることを戒め、しかしとにかくこの期間を通じて民間学の流れがつづいてきたことによって、官学にしのびこみ易い大勢順応主義に別の色合いをそえていることを認めて、これからの時代に対して、ゆっくりと、学問の気風の転換をもとめる。(三省堂 「民間学事典」一九九七年「刊行のことば」)

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(*シオドーラ・クローバー 『イシ―北米最後の野生インディアン』岩波現代文庫)『ゲド戦記』(邦訳、岩波書店)を書いた作家のル=グウィンはクローバーの娘。シオドーラの夫だったアルフレッド・クローバーはドイツ生まれの文化人類学者。ヤシ族のたった一人(最後)の生存者であったイシと運命的に出会い、彼が再現して見せたイシ族の生活やモノの見方考え方を含めて、それが偉大な文化であることを教えられた。彼の死語、残されたメモや夫からの聞き書きをもとに、シオドーラが書いたのが「イシ」という書物です。一読をすすめたいですね。そこに、「一人の賢者がいる」という風情があります。

 イシ族を含めて、先住民族を撲滅・殲滅したのはアメリカ人(白人)であったのは、いうまでもありません。「文明」がどんなに野蛮であるか、一目瞭然です。ぼくたちは、その強大な影響下にあるのです。(筆者註)

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成長しないで、成長させるなんて…

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文学史練習問題

一 次の①~⑤ の説明に当たる人物と作品を、それぞれ後から選び、記号で答えなさい。

① 江戸時代、一生を旅ですごし、多くの俳句を作り、東北地方の大旅行をまとめた紀行文もある。

② 奈良時代、日本最古の和歌集を編集した。

③ 明治時代、人間は皆平等であると唱え、自由民権の考えに大きな影響を与えた。

④ 江戸時代、蘭学がおこったころ、日本の古い書物を研究する国学という新しい学問もさかんになった。

⑤ 平安時代、世界最古の長編小説。のちのちの小説の手本とされた作品。

A 大伴家持 B 清少納言 C 紫式部 D 福沢諭吉 E 紀貫之 

F 松尾芭蕉 G 宮沢賢治H 本居宣長 I 杉田玄白

ア源氏物語 イ学問のすすめ ウおらが春 エ古事記伝 オ万葉集

カ古今集 キ奥の細道 ク雨ニモマケズ ケ解体新書

二 次のA群の作品につながりのあるものを、B群、C群から一つずつ選び、記号で答えなさい。

〈A群〉     〈B群〉     〈C群〉

1 二十四の瞳       ア夏目漱石   A 仙人

2 山椒太夫    イ山本有三    B 大石先生

3 坊ちゃん    ウ芥川龍之介   C 吾一

4 杜子春     エ森鴎外     D 赤シャツ

5 路傍の石    オ壺井栄     E 安寿

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 どこかの中学校の入試問題だそうです。一問五点として、百点満点。さて、いったい何点取れるでしょうか。

 今時、こんな程度の低い問題を入試に出題する学校があるでしょうか。受験生の何を調べるのか、まったくなっていないんじゃないですか。これをどこかの教師が出したとしたら、「お辞めなさい忠告したいね。

 この試験で高い点数を取るというのは、どんなことを意味するのか。このような試験を前提にしておこなわれる授業(教育)のねらいはどこにあるのか。また、こんな試験や授業を実施する教師という存在の特質はなんなのか。といったように、さまざまな疑問や批判がわき出てくるような教室の実態ですが、これに打つ手があるのでしょうか。この教室の教師と児童はどんな関係なんですかねえ。中学入試ということは、小6が受験するんですよ。はやいだんかいから、こんなアホみたいな問題を提示されて、まじめにシャカリキになって(それは怖いこと)、その後の成長(脳細胞の)は大丈夫ですか。

 これまでにも何度か、あちこちで言及した大村はまさん。こんなことをいっておられます。

 教室は、生徒を教えながら、教師である私も生徒に教えられながら、生徒が進むとともに、私もその日、何らかの意味で教師として成長する、そういう場所でなければならないと思います。そういう教師の成長ということのない教室というのは、いろいろ骨を折ってみても、結局、生きた教室にはならないでしょう。教師である私が何も成長しないで止まっているのに、子どもたちだけ成長させるというわけにはいかないと思います。(大村はま『教えながら教えられながら』共文社刊、1989年)

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 「育つ」「育てる」ということのなかに「育てられる」という部分がなければ、なにも育てられないね。「育てられる人」と「育てる人」は、どこかで「育てあっている」んでしょうね。ぼく育てる人が、もう育ち切った人であるなら、どうして誰かを育てられるんですか。これは、ぼくの積年のテーマ(主題であり宿題であります)となってきました。親子でも夫婦でも同じじゃないですか、その関係は。

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 大村村さんに生部、といいます。それはどんなことを言うのでしょうか。彼女のいいところを受け入れる、あるいは自分がいいと思ったところを自分のものにしようとすること。まあいろいろな言い方ができるし、どれも間違いじゃないでしょうが、ぼくはこのように考えてきました。大村さん(他のだれからでも)に学ぶというのは、彼女が自分の「方法」を発見し発掘し、ついに自分自身の方法としたのはどのようにしてであったか。大村さんが大村さんである、その方法をいかにして見つけたか(育てたか)、そのようにして「ぼくも」「わたし」も「自分の方法」を発見し発掘し、育て上げるように努める、うまい表現じゃありませんが、ぼくはそのように考えてきました。模倣することでも、亜流に甘んじるんでもない。自分が自分でである、自分になるための方法、自分流の方法を見つけるためには「先人」が欠かせないんですね。先人に学ぶ、先達に習う、そのための学習(研究)なのではないでしょうか。

 山の学校けふはよき日の旗をあげ (山頭火)  

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嘗めて来し生の苦杯の終りかな

 「獄中手記(何が私をこうさせたか)」

 《 此の手記が裁判に何等かの参考になつたか何うだかを私は知らない。しかし裁判も済むだ今日判事にはもう用のないものでなければならぬ。そこで私は、判事に頼むで此の手記を宅下げしてもらふことにした。私はこれを私の同志に贈る。一つには私についてもつと深く知つてもらひ度いからでもあるし、一つには、同志にしてもし有用だと考へるならこれを本にして出版してほしいと思つたからである。

 私としては何よりも多く、世の親たちにこれを読むでもらひ度い。いや、親たちばかりではない社会をよくしようとして居られる教育家にも、政治家にも、社会思想家にも、凡ての人に読むでもらひ度いと思ふのである 》(金子ふみ子『獄中手記 何が私をかうせたか』増補決定版、黒色戦線社。1972年)

 金子ふみ子。学校に自分をあずけられなかった人間が、どのように生きて死んだかをたどってみる、そこからどんな生き方が見えてくるか。学校に行くのが当たり前だとされる時代に生きているぼくたちには、学校に行かなかった、行けなかった人の心情を想いはかることはとてもできそうにありません。反対に、学校に行かなかった、行けなかった人の側から見れば、いったい学校ってなんだろうという疑問がすけてみえるかもしれない。

 学校にはほとんどいけず、肉親の愛情を浴びることもなかったひとりの女性が二十三年の生涯をどのように歩きつづけたか、今では想像を絶する「生き方の流儀」だったとおもわれます。家庭からも学校からも捨てられたとき、人はいかにして生きていこうとするのか。時代の波をかぶり、時代の波に棹さすことをしないで生きていこうとすると、人はどこまで自分を追い込んでしまうのか。

 学校教育の階梯を昇っていくことが人生の大事なら、誕生の瞬間において、そこから外れてしまうというのはどういうことだろうか、金子ふみ子の生涯をたどりつつ、ぼくはいつでも同じところにたちすくんでしまうのです。

 親からも教師からも教えられる、また、たくさんの本を読んで教えられる。それが学ぶことの常道であるとするなら、その方途を奪われた人間にはどのような学び方が残されているのだろうか。彼女は人からも書物からも教えられなかった。一面ではまことに不幸であったが、他面では、だからこそ自力でしか歩くことはできなかったのです。

 《 地上における自然的存在たる人間としての価値から言えば、すべての人間は完全に平等であり、従つてすべての人間は、人間であるというただ一つの資格によつて、人間としての生活の権利を完全に、かつ平等に享受すべきはずのものであると信じております》  

 《本来平等であるべき人間が、現実社会にあつていかにその位置が不平等であるか。私はこの不平等を呪うのであります 》(同上)

 彼女は「教育」さらには「学校」というものを深く「学びなおす」きっかけを与えてくれたという意味で、ぼくにはかけがえのない存在でありました。本から学び、教師から教えられて、彼女は何かの知識を得たのではなかった。まったく自己流に、自分流の学び方で生きた人、それがふみ子という女性の生涯でした。それ以外に生きる余地はなかったからだ。彼女が歩いた茨の道、それは薄幸の女性がこの世に残した稀有な思想になった。

 「手記」の中で、ふみ子は次のように述べています。

 「私はその時もう七つになつて居た。そして七つも一月生れなので丁度学齢に達して居た。けれども無籍者の私は学校に行くことが出来なかつた」

 「何故私は無籍者であつたのか。表面的の理由は母の籍がまだ父の戸籍面に入つていなかつたからである。が、何故母の籍がそのまゝになつて居たのか。それについてずっつと後に私が叔母からきいた事が一番本当の理由であつたやうに思ふ」

 「叔母の話したところによると、父は初めから母と生涯をつれ添ふ気はなく、いゝ相手が見つかり次第母を棄てるつもりで、そのためにわざわざ籍を入れなかつたのだとの事である。…兎に角、さうした関係から、私は七つになる今までも無籍者であつたのである」(同上)

 金子ふみ子は獄中で多くの短歌を生みだしています。そのいくつかを、参考までに。

 ペン執れば今更のごと胸に迫る我が来し方のかなしみのかずかず

 空仰ぎ『お月さん幾つ』と歌いたる幼なき頃の憶い出なつかし

 朝鮮の叔母の許での思い出にふとそゝらるゝ名へのあくがれ

  六才にして早人生の悲しみを知り覚えにし我なりしかな

 一度は捨てし世なれど文見れば胸に覚ゆる淡き執着

 意外にも母が来たりき郷里から獄舎に暮らす我を訪ねて

 嘗めて来し生の苦杯の終りかななど思はれてそゞろ笑まれき (文子歌集より)

 日本が朝鮮を植民地として直後に、事情があって朝鮮半島に渡った金子ふみ子は、彼の地で想像を絶する生活を余儀なくされたのだった。そのような地獄の生活から、朝鮮の人びとと同じ苦しみを味わい、それを終生忘れなかったところに、彼女の悲哀が生まれたといえるし、それはまた、ぼくたちにとってはひとつの光明ともなったのです。

 日本と朝鮮半島の見過ごせない関係(それは一方的に日本国家によってもたらされたものです)、それをはっきりと知るためには金子ふみ子の生き方は最良の示唆をあたえてくれるはずです。(朝鮮半島にある墓)(朴烈の縁者が埋葬)(ふみ子さんの埋葬は「栃木刑務所の無縁墓地にあった)

《 彼女は、明治、大正、昭和の三代の国家理想に背をむけて生きた。その生き方は、なにかの本で読んで選んだものではなく、誰かに教えられたものでもない。彼女が、生まれて育つうちに、自分で身につけたものである。彼女が彼女らしく生きてゆくあとから、彼女の歩いた道として、その思想が、われわれに残された 》(鶴見俊輔)

 彼女に関してはまだまだ描き切れていません。何年も前から原稿用紙に書き連ねてきて、いったい何枚なったか。一冊の本にでもと考えたりしながら、彼女の生き方を調べてきたのでした。(でも出版するのは、ぼくの目的ではない)金子ふみ子が生きた時代や社会、それはどんなものだったか。いうまでもなく、ぼくたちが生きている時代や社会と何か質の違いがあるとは思われない。一人の人間が生まれた瞬間、その運命は決まっているのでしょう。ふみ子さんの場合はあまりにも無残な両親のヤクザな生き方が、彼女のその後に決定的な影響を与えてしまったというべきでしょう。横浜管内の警官だった父親は、母を捨てた後、母の妹と関係します。その後もでたらめな生活は止まらなかった。母親にしても、六歳のふみ子さんを、三島のお茶屋に売ろうとしたり、ふみ子さんを捨てて郷里に帰り、土地の男と所帯を持ちます。生涯にわたって誰かに頼ってしか生きられない女性でした。

(とまあ、書き残された部分は多いので、機会を見つけて書き続けたいと考えております)

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 水みなぎつて舟あやうし

山形大雨 最上川5カ所氾濫 浸水90棟、避難2438人(毎日新聞2020年7月30日 東京朝刊)山形大雨 最上川5カ所氾濫 浸水90棟、避難2438人

 最上川のらんと、大石田と云所に日和を待。爰(ここ)に古き俳諧の種こぼれて、忘れぬ花のむかしをしたひ、芦角一声の心をやはらげ、此道にさぐりあしゝて、新古ふた道にふみまよふといへども、みちしるべする人しなければと、わりなき一巻残しぬ。このたびの風流、爰(ここ)に至れり。

 最上川は、みちのくより出て、山形を水上とす。ごてん・はやぶさなど云(いう)おそろしき難所有。板敷山の北を流て、果は酒田の海に入。左右山覆ひ、茂みの中に船を下す。是に稲つみたるをや、いな船といふならし。白糸の滝は青葉の隙ゝ(ひまひま)に落て、仙人堂、岸に臨て立。水みなぎつて舟あやうし。

五月雨をあつめて早し最上川

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 「五月雨を…」の句は、元禄二年五月二十九日、土地の船宿主の高野一栄宅において読まれたものです。はじめは「すゝしもかミ川」とされていました。川水も土地の俳人。その後、梅雨の雨を受けながら、一行は本合海から清川まで下り降りた。

  さみ堂礼遠あつめてすゝしもかミ川 芭蕉

  岸にほたるを繋ぐ舟杭       一栄

  爪ばたけいざよふ空に影待ちて   曽良

  里をむかひに桑のほそミち     川水       (「芭蕉真蹟歌仙」より)

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大雨の影響で浸水の被害があった山形県河北町付近(手前)。左は最上川(29日午前10時17分、読売機から)=三浦邦彦撮影 【読売新聞社】

 もともと最上川は急流(暴れ川)とされていましたし、芭蕉の「細道」にも「ごてん」「はやぶさ」という難所が記述されており、「水みなぎつて舟あやうし」とあります。しかし、そんなレベルをはるかに超えて、想像を絶する豪雨が芭蕉の曽遊の地でもある大石田を急襲したのです。いつ何時、どこでかかる危険に遭わないとも限らないのが近年の豪雨災害です。ニュースを見ながら、ぼくはごてん(碁点)・はやぶさ(隼)の超ド級の急流が暴れ狂うさまを夢にまで見た始末です。

 およそ梅雨らしからぬ激しすぎる「集中・局地豪雨」の季節がようやく開ける気配です。だが、コロナ禍は感染力をいや増しに増しながら、不始末続きの行政の隙間(無作為)を容易につきながら、真夏の島に襲来中です。くれぐれもわが身第一に、余力があれば他者にも力を。他人には頼らないこと、これを専一に注意深く過ごしたい。

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