新型爆弾 被害は僅少の見込み

1945年9月8日に爆心地から約0.4キロの浦上天主堂西側で撮られた1枚には、軍服姿の男性が写る。資料に付属する説明によると、戦略爆撃調査団撮影班のダニエル・マクガバン中尉で、山里町で民家の焼け跡を調査しているという。被爆直後に米軍撮影 米公文書館で収集46点 2019/3/16 00:00 (JST)3/16 16:00 (JST)updated ©株式会社長崎新聞社
長崎新聞は1945年8月10日付の紙面で「長崎市に新型爆弾 被害は僅少の見込み」との見出しで、「西部軍管区司令部発表(昭和二十年八月九日十四時四十五分)一、八月九日午前十一時頃敵大型二機は長崎市に侵入し新型爆弾らしき物を使用せり 二、詳細目下調査中なるも被害は比較的僅少なる見込み」との記事を掲載した。(2014/08/01 掲載)

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 この島社会は「世界初の被爆国」を喧伝してきました。事実はその通りですが、はたして、「被爆する」とはいかなることを意味していたのか、今ではよくわからない雲行きになってきているのも確かのようです。「核兵器禁止条約」について、どんな姿勢を取っているか。日本政府の考えは、以下の通り。

 「日本は唯一の戦争被爆国であり、政府は、核兵器禁止条約が目指す核兵器廃絶という目標を共有しています。一方、北朝鮮の核・ミサイル開発は、日本及び国際社会の平和と安定に対するこれまでにない、重大かつ差し迫った脅威です。北朝鮮のように核兵器の使用をほのめかす相手に対しては通常兵器だけでは抑止を効かせることは困難であるため、日米同盟の下で核兵器を有する米国の抑止力を維持することが必要です。(中略)日本政府としては、国民の生命と財産を守る責任を有する立場から、現実の安全保障上の脅威に適切に対処しながら、地道に、現実的な核軍縮を前進させる道筋を追求することが必要であり、核兵器保有国や核兵器禁止条約支持国を含む国際社会における橋渡し役を果たし、現実的かつ実践的な取組を粘り強く進めていく考えです」(外務省・https://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/bluebook/2018/html/chapter3_01_04.html#T012

 「西部軍管区司令部発表」は今でも健在です。大本は「大本営発表」だったのですが、一字一句もたがえずに、「垂れ流し」状態は、復活したのか継続していたのか。「その筋」の発表こそが権威であり、それ以外は報道するに足らずとなっているのかどうか。テレビも新聞も、右へ倣えであり、横一線です。異なる・違う報道はタブーであるというのは、「報道」の自死に等しい。ぼくたちは、横並びをよしとする狭い了見で生きているのか。個性とか自分らしさを言い募るにもかかわらず、万事が平均や平準がよしとされているなどと、思い込んでいるのでしょう。個を突き出せ。その前に、突き出すべき個を育てよ。個に向かって語れ、個に寄りそって生きよ。

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静かな湖を持つべきだ、

  みずうみ 
 
〈だいたいお母さんてものはさ
 しいん
 としたとこがなくちゃいけないんだ〉
 
 名台詞を聴くものかな!
 
 ふりかえると
 お下げとお河童と
 二つのランドセルがゆれてゆく
 落葉の道
 
 お母さんだけとはかぎらない
 
 人間は誰でも心の底に
 しいんと静かな湖を持つべきなのだ
 
 
 田沢湖のように深く青い湖を
 かくし持っているひとは
 話すとわかる 二言 三言で
 
 それこそ しいんと落ちついて
 容易に増えも減りもしない自分の湖
 さらさらと他人の降りてはゆけない魔の湖
 
 教養や学歴とはなんの関係もないらしい
 人間の魅力とは
 たぶんその湖のあたりから
 発する霧だ
 早くもそのことに
 気づいたらしい
 小さな
 二人の
 娘たち

 どんな詩でも(文章でも)、何度も繰り返し熟読・賞味したい。すると、そこからはっきりと詩の味わいが立ち上がってくるのではないでしょうか。「人間は誰でも心の底に しいんと静かな湖を持つべきなのだ」といい、「人間の魅力とは たぶんその湖のあたりから 発する霧だ」という。教養や学歴とはなんの関係もない、人間の魅力とはなんでしょうか。おおいに考えなければならない謎(問題)のように見えます。「生身」の「素」の人柄、というものか。

 繰りかえし、茨木のり子さん。また、別の詩「汲むーY.Yにー」では、「初々しさが大切なの 人に対しても世の中に対しても」「あらゆる仕事 すべてのいい仕事の核には 震える弱いアンテナが隠されている きっと…」といわれています。

 さて、「初々しさ」とはなんですか。「弱いアンテナ」も同じような意味を含んでいるとも読めますが、いかがでしょか。繊細とは違う、もっとしなやかで素朴な、肌触りのような。この「Y.Y」さんは女優でした。生涯を舞台で生きた方だった。ぼくは何度も、彼女の「初々しさ」に引き付けられるようにして。(今は、いやになるほどぼくは、堕落したが)

 わたしたちはなんのために学び、そして働こうとするのか。ものを学ぶ動機と、そこから生じる利得はどのようなものか。その点を百年も前に明確に指摘した人がいます。この文章もまた、忘れてはならない方向です(どこかで紹介しておきました)。方向というのは、「真理」のありかを示しています。羅針盤を持つようなものです。

 それはまた何度でも、くりかえし立ち返りたい出発点でもありますね。教師も親も、そして、子どもたちも、ここに立ち(帰り)、ここから始めたい。時が過ぎれば、ぼくたちは大きく方向を間違えてしまう。「初心に戻る」というのは、その点で大切ですね、もっとも「初心」があっての話ですが。「たちかえり 今もときどきその意味を ひっそり汲む」 

 「…たんに事実や真理を吸収するということなら、これはもっぱら個人的なことがらであるから、きわめて自然に利己主義におちいる傾向がある。たんなる知識の習得にはなんら明白な社会的動機もないし、それが成功したところでなんら明瞭な社会的利得もない。

 「実のところ、成功のためのほとんど唯一の手段は競争的なものであり、しかもこの言葉の最も悪い意味におけるもの ― すなわち、どの子どもが最も多量の知識を蓄え、集積することにおいて他の子どもたちにさきがけるのに成功したかをみるために復誦ないし試験を課して、その結果を比較することである。

 じつにこれが支配的な空気であるから、学校では一人の子どもが他の子どもに課業のうえで助力することは一つの罪になっているのである。学校の課業がたんに学科を学ぶことにあるばあいには、互いに助け合うということは、協力と結合の最も自然な形態であるどころか、隣席の者をその当然の義務から免れさせる内密の努力となるのである」(ジョン・デューイ『学校と社会』岩波文庫版)

 デューイという人は、大正時代に来日し、当時のこの島社会の歩む方向を指し示しましたが、ほとんどの人たち(政治家や学者など)に黙殺されました。対中国との関係に関しても、まことに示唆にとんだ「助言」をしたのに、それを聞く耳を持たなかった。なぜだったか。明らかな理由があったようにぼくには思えました。(いずれ、それにも触れてみたい)ぼくは、大学に入ってすぐに、偶然に図書館で彼に出会いました。以来、半世紀、「たちかえり ときどきその意味を ひっそり汲む」ことを続けているのです。彼の明示した「プラグマティズム」はぼくの背骨になりました。

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Enola Gay and Little Boy

広島への原爆投下機「エノラ・ゲイ」、存命最後の1人が死去 2014年7月30日 17:01 発信地:ワシントンD.C./米国 [ 北米 米国 ](c)AFP
  広島に原爆を投下した後のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ(Enola Gay)」の搭乗員。左から、セオドア・バン・カーク(Theodore Van Kirk)航法士、ポール・ティベッツ(Paul Warfield Tibbets, Jr)機長、トーマス・フィアビー(Thomas Ferebee)爆撃手(1945年8月撮影、資料写真)。(c)AFP
【第2次世界大戦(World War II)末期、米軍のB-29爆撃機「エノラ・ゲイ(Enola Gay)」が広島に原子爆弾(原爆)を投下した際の搭乗員の中で、存命する最後の1人だったセオドア・バン・カーク(Theodore Van Kirk)氏が、米ジョージア(Georgia)州で死去した。93歳。/ 米NBCテレビによると、「オランダ人(Dutch)」の通称で知られたカーク氏は28日、ジョージア州ストーンマウンテン(Stone Mountain)にある高齢者居住区パーク・スプリングス(Park Springs)で老衰のため死去した。
 広島に原爆が投下された当時、カーク氏は24歳でB-29爆撃機の航法士だった。カーク氏が搭乗したエノラ・ゲイは、1945年8月6日午前8時15分に広島に原子爆弾「リトルボーイ(Little Boy)」を投下した。/ 人類史上、戦闘で原爆が使用されたのは広島が初めてだった。2度目は3日後の8月9日、長崎への投下。(c)AFP

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GET IN GOOD TROUBLE…

アメリカの理想に邁進した不屈の闘士、ジョン・ルイスから託された夢の続き(パックンの風刺画コラム)
2020年08月04日(火)19時00分[ News Week Japan]
ロブ・ロジャース(風刺漫画家)/パックン(コラムニスト、タレント) 
ルイスのモットーはGet in good trouble(よいトラブルを起こせ)だったが、有言実行でしばしば警察と衝突し、40回以上逮捕された。その多くは黒人への対等な投票権を求める運動中。60年代まで続いた不公平な有権者登録制度の廃止はできたが、今も黒人の投票率は低い。しかし、ルイスはアメリカを改善する手段として、ずっと黒人の投票を呼び掛けていた。橋の名前を変えるのもいいが、本当に喜ばせたいなら、ルイス先輩が血と汗で勝ち取った参政権を生かし、後輩の皆さんの票の力でホワイトハウスの表札にある名前を変えることだと思う。
 
ところでBLM=Black Lives Matterは「黒人の人生に意味がある」とも訳せるが、「全ての人間が対等につくられた」という、独立宣言が掲げた理想へとアメリカを導いたルイスにぴったり当てはまる言葉だ。これほど意味のあった人生はめったにない。ジョン・ルイス先生、安らかにお眠りください。

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米国の公民権運動の象徴的存在として知られ、下院議員を長年にわたって務めたジョン・ルイス氏が17日、死去した。80歳だった。/ ルイス氏は膵臓(すいぞう)がんを患い、6カ月間の闘病生活を送っていた。家族は声明を出し、同氏について「その生涯のすべてを非暴力の政治運動に捧げ、歯に衣着せぬ発言で米国での平等を実現するべく戦った」と、その死を悼んだ。
ペロシ下院議長も声明で、ルイス氏の死去を発表。「米国の歴史上最も偉大な英雄の1人」「議会の良心」と、民主党の下院議員として30年以上活躍した故人の功績をたたえた。/ アラバマ州トロイに生まれたルイス氏は、マーチン・ルーサー・キング牧師が主導した公民権運動に加わり、1963年の歴史的なワシントン大行進で基調演説者を務めた。/ 2年後にアラバマ州セルマで行われた行進では、重武装した警官隊と対峙(たいじ)。警棒で殴られ頭蓋骨(ずがいこつ)を骨折した。後年受けたインタビューでルイス氏は、流血沙汰となって米国中に衝撃を与えた当時の状況を振り返り、「死を覚悟していた」と明かした。/ 2011年には、黒人初の大統領となった当時のオバマ大統領から、民間人に対する最高勲章である大統領自由勲章を授与されている。(CNN/2020.07.19 Sun posted at 10:55 JST) 

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浦島太郎は、異邦人だったか

 今回は「浦島太郎」です。ご存知でしょうか。それは次のようないくつもの文献に著されています。その理由はなんでしょう。きっと、今ではわかりにくくなった「時代相」というものが隠されているはずです。

①「日本書紀」 

 秋七月に、丹波國(たにはのくに)の餘社郡(よさのこおり)の管川(つつかは)の人瑞江浦島子(みずのえのうらしまこ)、舟に乗りて釣す。遂に大亀(かめ)を得たり。便(たちまち)に女(をとめ)に化為(な)る。是(ここ)に、浦島子感(たけ)りて婦(め)にす。相逐(あいしたが)ひて海に入る。蓬莱山*(とこよのくに)に到りて、仙衆(ひじり)を歴(めぐり)覩る。

*蓬莱山・ほうらいさん=中国の伝説で渤海(ぼっかい)にあるとされる島。三神山の一つ。神仙が住み,不死の薬,金銀の宮殿がある。

②「丹後国風土記」

浦嶋神社 京都府与謝郡伊根町本庄浜141

 雄略天皇の御世、丹後国の与謝の郡、日置の里、筒川の村に、一人の男がいた。彼は日下部首等の先祖であり、筒川の浦の嶼子という。姿の良いこと限りなく、水の江の浦の嶼子(しまこ)と呼ばれた。嶼子は一人で小舟に乗り、海に出て釣りをしたが、三昼夜を経ても一匹の魚も釣れず、ただ五色の亀を得た。奇異に思って舟に置いたが、嶼子が寝入ると、亀はたちまち麗しい乙女に変身したのだった…。

③「万葉集」(高橋虫麻呂)

 水の江の浦の嶋子が船に乗ってカツオやタイを釣り、七日間も漕ぎ続けて、ついに海の果てを越えてしまった。そこで偶然に海の神の娘に出逢い、彼女に求婚して、二人で海の宮殿の奥に入って婚姻を結んだ。

「家に帰って、両親に君と結婚したことを報告してくるよ。そうしたらまた帰ってくるから」「また この常世の国に帰って私と暮らしたいなら、この箱は決して開けないでね」

 そう言って、海の神の娘は嶋子に一つの櫛笥(くしげ)(櫛や化粧道具を入れる箱)を渡した。

 こうして嶋子は故郷に帰ってきたが、自分の住んでいた海辺の里はなく、自分の家も知った人もいない。動転(動顛)した嶋子は、これを開ければ元の様子に戻るかもしれないと、海の神の娘にもらった櫛笥を少しだけ開けてしまった。途端に白い雲が常世の国に向かってたなびき、嶋子は立ちあがって走り、叫び、転んで、足摺りしながら、たちまち気を失った。肌にはしわが寄り、髪も白くなって、そのまま息が絶えてしまった。

  浦島太郎(文部省唱歌・明治44年)

 一、昔昔、浦島は
   助けた龜につれ連れられて、龍宮城へ來て見れば、
   繪にもかけない美しさ。
 二、乙姫様の御馳走に、鯛や比目魚の舞踊、
   ただ珍しくおもしろく、
   月日のたつも夢の中。
 三、遊にあきて氣がついて、
   お暇乞もそこそこに、歸る途中の樂しみは、
   土産に貰つた玉手箱。
 四、歸つて見れば、こは如何に、
   元居た家も村も無く、路に行きあふ人人は、
   顔も知らない者ばかり。
 五、心細さに蓋とれば、
   あけて悔しき玉手箱、
   中からぱつと白煙、たちまち太郎はお爺さん。

 今は昔の物語です。おそらく小学校三年生のころ、学校で学芸会があり、「浦島太郎」が演じられました。なぜだか、ぼくは一人の村人になって、太郎とすれ違いざま「昔臭い人やなあ」とか何とか言って舞台から消えた。たったそれだけのことですが、この「一コマ」が今に及んで忘れられません。すっかりぼくが浦島太郎になってしまったわけですが、玉手箱をもらったのでもなければ、それを開けたわけでもないのに、「たちまち太郎はお爺さん」と。月日のたつのも夢の裡と、教師たちは教えたのでしょうか。もう一つ、助けたカメの背中に乗って海中に、はいいんですが、いかにして息を継いでいたのかと、とても気になったことも記憶しています。「太郎は両生類」だったのか、と。

 昔話のついでです。学生時代に、新宿だったかどこだったか、「竜宮城」というキャバレーのようなところに悪友とは言ったことがありました。カメに乗ってではありませんでした。陸上にあったんですね。さぞ「乙姫様」がたくさんいるんだろうと思いきや、月日のたつのも夢のうちどころか、入った途端に飛び出しました。どうしてだか、その理由は言えませんが、学校では教えてくれない勉強をしたと思っています。「竜宮城」は怖いとこやでえ。ひげ面のお姉さんもいた。以来、ぼくは律義にも「竜宮城」のような場所(異界)(「夜の街」)には近づかなくなりました。

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  この話に類似した神話は中国や朝鮮(韓国・北朝鮮)をはじめ世界中にといっていいくらいに分布してします。その理由をかんがえてみてください。

 「浦島太郎」にみる特徴

 男が異類の妻を得て異界で暮らすが、やがて望郷の念に耐えかねて妻と別れ、現世に帰る。しかし現世では膨大な時間が過ぎ去っており、男の帰る場所はなくなっていた……。

<異類婚姻~異界>男が異類の女に招かれ、結婚して異界で暮らす

<現世への帰還>男は故郷が恋しくなり、妻の反対を押し切って帰還する

<妻との約束>妻は、帰還する夫に「決して○○しないように」と約束させる

<超時間の経過>故郷では膨大な時間が過ぎ去っていた

<不幸な結末>男は妻との約束を破る

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 ここから肝心の問題に触れなければならないのですが、ちょっと面倒くさいので止めておきます。問題点とは。

①どうして同じ話がいろいろな文献に残されたのか。(これは浦島だけではありません)

②この劣島に「浦島本家」があちこちにあります。ここでは京都がもっとも有名だし、行政も宣伝にこれ務めているのが実情です。どうしてアチコチに「昔話」「伝説」の本場があるのでしょうか。たぶん「ハナサカ爺さん」や「スズメのお宿」には本家争いはなさそうですが。

③あちこちの「浦島」噺には少しずつの異同があります。その理由はどこにあるのでしょうか。

④「浦島」(だけではありません)には内外に同じような話が記録されています(同工異曲)。「竹取」でもそうです。中国や朝鮮、あるいは東南アジア諸国にも、みとめられます。なぜそういうことが生じているのでしょうか。

 これに答えるのはそれほど難しくはありませんし、おおかた誰かがすでに何らかの答えらしいものを出しておられます。言われてみればなあんだ、陳腐やなあとなりそうです。でも、昔話とか、伝説などと軽くあしらっていいとはぼくには思えないんです。いまだって、どんな「今話」「伝説」を真に受けているか分かったものじゃないからです。我々の先祖たちがまだまだ幼かったころ、この手の話を心底受け入れて、生きる縁にしていたことだけは確からしいとまでは言えそうです。イブの夜の靴下の話とか、鰯の頭も信心からのような話は洋の東西にもあります。「鬼は外 福は内」などなど、いまでも半分は商売係で習慣化されています。昔話や伝説から、人々は自由にはなれないらしいね。信仰という問題にも直結してきますね。(いずれ機会を設けて、せこい自説を)

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学校が受け付けなかった存在(承前)

 朝鮮で見たものは(「金子ふみ子」の巻、重複を恐れず)

 九歳(一九一二年)の夏、朝鮮につれていかれます。その二年前に、ご承知のように日本が韓国を併合し植民地にしていました。まさにその時に重なるように、彼女はある理由があって朝鮮につれていかれました。まあ、連行のようなかっこうでした。「両親」から捨てられたというのが実情です。そこにおよそ七年間いましたが、その七年間というのはまるで地獄のような生活であったと自身の手記に書いています。たしかに想像を絶するような過酷な試練をうけた時代のようでした。ふみ子さんはそこで何を見たか。植民地化された直後の半島で、受け入れられた家は裕福にも、朝鮮人を何人も雇っていた。多くの日本人はそうでした。この間の事情については、森崎和江さんの著書に詳しい)

 十六歳(一九一九年四月)のときに日本へ戻ってきます。そして母親の実家のある山梨県の諏訪村に戻ってしばらく滞在していましたが、その後一人で東京へでてきます。東京にきていろいろな職業につきました。住み込みの女中さん、新聞販売、飲み屋の店員、夜店の売り子などなど。苦労しながら自活の道を開こうとし、なおかついくつかの専門学校にかよい、またキリスト教に近づきながら学ぶことに対する餓えをみたそうとするのでした。学校に行けなかったという負い目か、あるいは実の親から捨てられたくやしさが彼女に学問への執着をもたらせたといっていいかもしれません。この時期の生活もそれ以前に劣らず過酷なものであったわけですが、外から強いられたのではなく、みずから選んだという点では充実していたようにもみえます。じつにけなげに真摯な生活をつくりあげようとした形跡がうかがえます。

 そのような生活を送るなかで、何人かの在日の朝鮮人に出会うことになります。そして結論的にいってしまえば、そのうちの一人の朴烈(パク・ヨル)という人といっしょに住むようになります(一九二二年)。この当時、朴烈は抗日テロ組織である「「黒友会」の指導者であり、また在日思想団体「黒涛会」の中心人物でもあった。金持ちは結婚すれば新婚旅行にいく。でも自分たちはそうはできないから、なにか記念になるようなことをしようといって、二人で出版社をつくります。仲間を集めて出版社をつくったのです。

 その名前がふるっているんですね。「不逞社」。不逞(ふてい)の輩(やから)っていう言葉をご存知ですね。まことに挑戦的ではありませんか。そして雑誌を発行するんです。その雑誌の名前がまたすさまじい。『太い鮮人』、「太い」(不逞)というのはどういうことでしょう。「あいつは太い野郎だ」という言い方がありますが、図々しい奴、横着者ということでしょうか。「鮮人」という言葉はただいまではつかわれませんが、朝鮮人に対する蔑称としてこの国では常用されていました。だから、それを逆手にとったんですね。この『太い鮮人』という雑誌は何号か出されました。

 一九二三年、関東大震災が九月一日に発生しました。ご承知だろうと思いますけれども、その関東大震災の騒ぎに乗じて、当時日本にいた朝鮮人(それに中国人も)が、正確な数字はよくわかりませんけれども、四千人とも六千人ともいわれるほどたくさん虐殺されるという事件がありました。ふみ子と朴の二人は関東大震災に遭遇して、最初は凶暴な市民から身を守るためといって陸軍によって保護検束されました。それ以前より「不逞社」は治安警察法違反という理由で「秘密結社」の指定を受けていたのです。その後すぐに逮捕監禁されます。刑法第73条(大逆罪)と爆発物取締罰則違反という嫌疑でした。

 およそ二年の予審後、大逆罪を犯したというかどで裁判にかけられます。明治四三年に幸徳秋水たちの「天皇暗殺」計画事件がありましたが、それと同じ「大逆罪」容疑で起訴されたのです。当時は大正天皇の時代ですが、その天皇の息子である皇太子(後の昭和天皇)の爆殺を計画したとして、大審院で非公開の裁判を受け死刑を宣告されます(二六年三月二五日)。その直後の四月五日に恩赦があり、二人は罪一等を減じられ、死刑から無期懲役に減刑されます。(この予審の弁護を引き受けたのが布施辰治です。当時の法廷はむろん非公開であり、事件は捏造というか、でっち上げだった。犯罪事実に関する証拠は何もなかったのです。だから、法廷は彼ら(朴やふみ子)の行為を裁いたのではなく、彼らの「思想」(といえるほどのものだったかどうか疑わしいが)を栽いたといわなければならない。どんな思想や信条を有するかが犯罪とされたのです。今日からは信じられないほどの野蛮であったと、はたしていえるかどうか。お隣の香港の現在はどうか。がえって、ぼくたちの島社会は、はるかに自由であるともろ手を挙げて、主張できるのでしょうか。

http://www.fuse-tatsuji.com/commentary.html)(左上の写真は朴烈) 

 「恩赦」というのは政府によって、その大半は国家規模の慶事にさいして「犯罪者に対して刑罰権の全部または一部を消滅させる処分」(広辞苑)のことで、その種類には「大赦・特赦・減刑・刑の執行免除及び復権」の五種類があげられています(「恩赦法第1条」)。これはずいぶん古い制度ですが、金子ふみ子、朴烈の二人は特赦(「有罪の判決を受けた特定のものに対してこれを行う。(第4条)」)をうけ、死刑から無期懲役に減刑されたのでした。

 現在も地名がのこっていますが、新宿区富久町というところがあります。今はなくなってしまいましたが元の新宿厚生年金会館があった裏にあたる場所です。そこに当時市ヶ谷刑務所がありました。さきほど名前が出た幸徳秋水たちはここで処刑されました。いまもそのことを記した碑があります。「刑死者慰霊碑」という石碑がそれです。「東京監獄」として作られたのが明治三三年で、大正一一年に「市ヶ谷刑務所」と改称されています。いまの区域は余丁町に入りますが、富久町児童公園となっているところです。ある時期は、ぼくの散歩道でした)

 金子ふみ子と朴烈も市ヶ谷刑務所に収監されていました。刑務所所長は秋山要という人でした。まず朴烈に特赦状を渡して、朴烈はそれをうけとります。彼は二十年後の一九四五年十月、GHQの指令によって釈放されます。翌四十六年十月に「在日本朝鮮人居留民団」が結成され、初代団長に就任しています。彼は七十四歳で一九七四年に現在の北朝鮮で亡くなりました。

 彼女は所長から特赦状をわたされ、所長の面前で破りすてたといいます。その直後、宇都宮刑務所に移送され、七月に獄中で死去(自殺したとされています)。栃木に移され獄中で書いたのが『何が私をこうさせたか』という手記です。彼女には学校歴はほとんどないにひとしい。かろうじて学校に行ったといえなくはないんですが、いずれもほんの瞬間のことでした。だから、この本を一読するかぎり、学校教育をうけたことによって、彼女がなんらかの知識をもった(得た)という形跡は認められない。それだから、といえば言葉がすぎるでしょうが、ともかくこれは最良の人間の記録だとぼくは思いました。

 いろいろな重要事項を書き残しています。というか、書きあぐんでいるというべきか、能天気なぼくとしては極めて珍しい事態です。それだけ、金子ふみ子という人物に思いを寄せているというのですかね。(この項は、さらにつづく、かもしれない。困ったことです。書きなぐった原稿は、これまでのものを含めて数百枚あります。困ったことだ)

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