あなたは男 つれない男 はい私は放す

十三年前の九月のことです。捲土重来、「逃げ出した」という罵詈雑言の「恨みを晴らすため」にとあらゆる手を使ってやりたい放題でしたが、能力と人徳のなさは覆うべくもないらしい。こういう人物だから、さらに不死鳥の如く甦るか。後継は「太郎」だとか。どっちの、といって「歳上」だよ。(近々、こんな事態が起こるのかしら)(号外の喜びでもないか)
昭和30年(1955年) JASRAC No.095-0188-6
渡り鳥いつ帰る 作詞:石本美由起 作曲:上原げんと 
歌唱:初代コロムビア・ローズ 制作:滝野細道
 
(一)
別れちゃ嫌だと 泣いたとて
花でもつんで すてるよに
そしらぬふりして 別れゆく
あなたは男 つれない男
いいえ私は はなさない
 
(二)
死んでもはなしは しないよと
誓った言葉 嘘なのね
口笛吹き吹き 別れゆく
あなたは男 気強い男
いいえ私は はなさない
 
(三)
別れちゃならぬと すがりつく
私のこの手 この心
あっさり振り捨て 別れゆく
あなたは男 きままな男
いいえ私は はなさない (註 初代ローズさん、あなたは偉かった。
             絶対放さなかったから、屑のような男をさ)

安倍首相「高齢化する被爆者に寄り添い支援」長崎平和祈念式典 2020年8月9日 12時19分(NHK)

安倍総理大臣は、長崎市で開かれた平和祈念式典であいさつし、広島と長崎に原爆が投下されてから、ことしで75年となる中、高齢化が進む被爆者に寄り添いながら援護施策を進めていく考えを強調しました。

この中で安倍総理大臣は「新型コロナウイルス感染症が世界を覆ったことし、世界中の人々が試練に打ち勝つため、奮闘を続けている。75年前、一木一草もない焦土と化したこの街が美しく復興を遂げたことに、改めて、乗り越えられない試練はないこと、そして平和の尊さを強く感じる次第だ」と述べました。

そのうえで、非核三原則を堅持しつつ、立場の異なる国々の橋渡しに努め、各国の対話や行動を粘り強く促すことで、「核兵器のない世界」の実現に向けた国際社会の取り組みを主導していく決意を改めて示しました。(以下略)

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世界は日の出を待っている、ホント?

首相の被爆地あいさつ、文面酷似 広島と長崎、何のために来たのか 2020年8月9日 23時22分(共同通信)
8月6日と9日に広島市、長崎市の両被爆地でそれぞれ開かれた平和式典での安倍晋三首相のあいさつの文面が酷似しているとして、被爆者から「何のために被爆地まで来たのか。ばかにしている」と怒りの声が上がった。官邸のホームページに掲載された双方の全文を比較すると、両市の原爆投下からの復興を称賛した一文や、「広島」「長崎」といった地名などは異なるが、その他は段落数や構成、表現が同じ。結びの段落の言葉も「永遠の平和が祈られ続けている」「核兵器のない世界と恒久平和の実現に向けて力を尽くす」などと完全一致している。
首相、核兵器禁止条約不参加と重ねて表明2020年8月9日 14時4分 (共同通信) 安倍晋三首相は記者会見で、核兵器禁止条約について「わが国の考え方とアプローチを異にしている」と述べ、日本は参加しない考えを改めて表明した。

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 挨拶文も捏造。「昨年に同じ」「広島に同じ」となぜ言わないか。嘘と偽りでできた存在。風前の灯火だというほかありません。「世界は日の出を待っている」と、あちこちから怨嗟ではなく、期待の声が聞こえてきますが、待っていてもいいのでしょうか。もっと質の悪いのが出てきそうです。生来の政治家はいないもので、すべからく有権者が育てるのだというなら、期待するのは無理筋です。希望もなければ、絶望するほかない。希望も絶望も、ようするに「棚から牡丹餅」の類であるなら、そんなものは持たない方がいい。期待するのは、自分に対してだけです。(後継は「口をゆがめた男」ともっぱらの情報。それはないぜ)

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「あれ?これがウケるの?」と…

共感する声が殺到! 木賃ふくよし(芸名)さんによる黒板格言
コロナ禍で閉店…京都のバー店長の“黒板格言”に12万いいね!「マジでそう」共感集ま(ORICONNEWS)20/08/09) (https://news.goo.ne.jp/picture/trend/oricon-2169010.html

> 『人間、時間だけあっても、時間制限がないと動かないもんなんだな。』。そんな心に響く格言(?)を黒板に書いたTweetが、12.6万いいねという大反響を集めた「木賃ふくよし(芸名)」さん(@wb_opus_1)。木賃ふくよしさんは京都でバーを営んでいたものの、コロナ禍の影響で閉店。現在「無職」だからこそ生み出された言葉には、「深い!」「相田みつをのよう」との反応のほか、「自粛中に同じことを感じた」「自分も休業中なので共感する」「オンライン授業中だけどマジでそう」と、コロナ禍ならではのコメントも寄せられた。これらの格言が生まれた背景とは?(以下略)(同上)

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完全なる人物を養成するの術なり

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 教育とは何ぞや、教育とは何ぞや。曰く完全なる人物を養成するの術なり。人物即ち人とは何ぞや。身体と精神との二者より成立して、其霊万物に長たるものなり。今之をして完全なる人物たらしめんには、其心力と体力とを育成するの術、即ち教育を施さヾる可らず。

 縦令ひ其心力と、体力とを育成するも、之を応用するの才能なくば、猶之を育成せざるが如し。又之を応用するは正邪の二道あり。苟も正道に就くに非ずんば、亦何の益あらん。

 故に教育とは人の心力と体力とを育成し、其諸力を正道に応用するの才能を得せしむるの謂ひにして、即ち完全なる人物を養成するの術なりと云ふべし。(伊澤修二述『教育学』明治15年10月) 

 日本で最初の「教育学」の著書だとされているものです。今日もこれと同じことをいっている学者は腐るほどいるんですから、伊澤修二の先見の明を評価すべきか、それとも「教育学」なんてものは時代感覚にはまことに疎い代物だというべきか。「教育学」はともかく、教育ってのはむずかしいですね。「完全なる人物たらしめる」とは、さしずめ「人格」と「体格」において完璧を期すということなのかな。でもそれは無理ですよ。体格は立派だけれど人格はどうも、という人がほんとに多いですね。ぼくは、井澤という先人は学校「教育」よりも学校「音楽」に寄与したという点で、大いにかどうかは怪しいけれども、評価しているのです。(彼についてもどこかで述べてみたいですね、なにしろ、この島社会の学校教育制度の恩人の一人ですから)

 伊澤修二(1851~1917)という人は、とにかく日本における学校教育の恩人です。信州は高遠の内藤藩(3万石)、進徳館出身。明治8年(1875)から4年間アメリカ留学。帰国直後に文部省音楽取調掛を作り、初代御用掛。この組織はその後東京音楽学校、東京芸術大学(音楽学部)となります。彼は愛知師範学校長(24歳)、東京師範学校長(29歳)、東京音楽学校長(38歳)、東京盲唖学校長、東京高等師範学校長(48歳)等を歴任、貴族院議員にもなりました。また、学校唱歌の導入に力を尽くした人でもありました。今も歌われる卒業式で歌われる「仰げば尊し」も彼の作品だといわれています。ここでは「紀元節」(明治21年)も。作詞は薩摩藩出身の高崎正風(1836~1912)。今でも「建国記念の日」に厳かに(?)歌っている人がいますよ。

 ついでにというのも気が引けますが、もう一つ日本初の軍歌「皇国の守」があります。「来たれや 来たれ」で知られています。作詞は外山正一(1848~1900)。彼は幕臣。「新体詩抄」(1882)の作者の一人。後の東大総長、文部大臣。漢字廃止、ローマ字採用論者。(右下写真)

 新体詩といえば、柳田国男、あるいは島崎藤村が並びます。漢詩に対して作られた名称。その後の「国語」誕生と密接な関係をもちました。

 学校唱歌はさまざまな効果を教育に及ぼした、というより唱歌を用いて尊王愛国の感情を「脳髄に感覚せしめ」たわけですね。国民国家を形成するためのエネルギーは凄まじいものだったことになります。

 この島社会の〈近代化〉には二つのヴェクトルがあったといわれます。「復古主義」と「文明開化」がそれ。時間の経過とともに、二つの方向が互いに交わるというよりも、禍福(吉凶)糾(あざな)える縄の如し、つねに入れ替わり立ち替わりして今日に至っているのではないでしょうか。「アマルガムの近代化」というほかないでしょう。

 「洋服に下駄を履くやうな」といったのは柳田国男さんでしたが、新旧入り乱れて一体となったのが、この国の実体でした。学校教育もまさしくそのとおりで、個人の尊重と集団の優位という、およそあり得ない方向をたどろうとしてきたのでした。これは〈文化〉と〈文明〉の葛藤だといってもまちがいではないでしょう。

 「違ったカルチュアの精神的作品を理解するときに、まずそれを徹底的に自己と異なるものと措定してこれに対面するという心構えの希薄さ、その意味でのもの分かりのよさから生まれる安易な接合の『伝統』が却って何物をも伝統化しないという点」(丸山真男『日本の思想』)、それがこの国の性癖であったのです。あるいは宿命であったかもしれない。

 敢えて言うなら、外発的なものと内発的に折り合いを付けてしまうということです。あるいは「前近代と超近代」の奇妙な接合こそが日本文化の粋ということになります。今日においてもその事態は変わらない。洋服に下駄はおろか、背広に一本差しの風はよく見られる風景です。何物も取り入れるが何物も自分の物にしない。異木間の接ぎ木であり、胡瓜の蔓に茄子をならせるような芸当、このような異文化の需要の仕方が日本の伝統になったのも、そこには明らかに「自己本位」が欠けていたからで、徹底した自己の欠如がこのような「未消化の伝統」を作ってしまったといえます。

 時代が過ぎていまではすっかり「この悪しき伝統」はなくなったといえるか。下駄や一本差しはすっかり見られなくなりましたが、パンにみそ汁みたいな和洋折衷の珍妙さはあちこちにみられるのではないでしょうか。それがいいとか悪いとかいうのではありません。それもまた「自己本位」が稀薄ながらも、島らしさの表れなのですから。音楽でも絵画でも、その他いろいろな分野で、いよいよ「接ぎ木文化」は隆盛を極めています。それはまた、世界の一方向を生み出しているとも言えそうです。「文化」が「文明」になるというのはこれまでにもいくらでもあったことです。

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人間普通日用に近き実学こそ大事

学問のすゝめ=福沢諭吉の著。明治5 (1872) ~1876年に,ときに断続的に出版された 17編の小冊子で,のち1巻にまとめられた。第1編冒頭の「天は人の上に人を造らず,人の下に人を造らずと云へり」の一句は有名。実学をすすめ,自由平等と分限の関係を説き,個人の自由から国家の自由独立に言及し,学問の必要性を強調している。本書には,旧思想 (封建的儒教主義) の打破に急なあまり,往々矯激の言がみられ,世の非難を招いたこともある。しかし,一般には新時代の指導原理を明快平易に説いたものとして歓迎された。初版約 20万部,97年頃までの流布部数約 340万という数は,その影響の大きさを示している。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)
 学問とは、ただむつかしき字を知り、解し難き古文を読み、詩を作るなど、世上に実のなき文学を言うにあらず。これらの文学も自ら人の心を悦ばしめ随分調法なるものなれども、古来世間の儒者和学者などの申すよう、さまであがめ貴むべきものにあらず。古来漢学者に世帯持の上手なる者少なく、和歌をよくして商売に巧者なる町人も稀なり。これがため心ある町人百姓は、その子の学問に出精するを見て、やがて身代を持ち崩すならんとて親心に心配する者あり。
 無理ならぬことなり。畢竟その学問の実に遠くして日用の間に合わぬ証拠なり。されば今かかる実なき学問は先ず次ぎにし、専ら勤むべきは人間普通日用に近き実学なり。…一科一学も実事を押え、その事に就きその物に従い、近く物事の道理を求めて今日の用を達すべきなり。右は人間普通の実学にて、人たる者貴賤上下の区別なく皆悉くたしなむべき心得なれば、この心得ありて後に士農工商各々その分を尽し銘々の家業を営み、身も独立し家も独立し天下国家も独立すべきなり。(福沢諭吉『学問のすゝめ』初編)

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 世には名前だけはよく知られていても、まったくそれがなんであるかを承知しないものが実にたくさんあります。書籍でもそうで、さしづめ『学問のすゝめ』などはその典型でしょう。これもまた、学校教育の弊害がもたらす最たるものの一つです。「福沢諭吉」と『学問のすゝめ』が結び付けられれば〇(合格)、そんなことばっかりしてきたんですから。「ゲーテ」と『若きウェルテルの悩み』が直結すれば、それが魚なのか野菜なのか、何も知らなくても構わないというていたらくです。実学と虚学といいますが、まず虚学のすゝめこそ、明治以来の学校教育が盛んにしてきたお経(般若心経)のようなものでした。意味も中身もわからないけど、ありがたい、わからないからありがたいという始末です。

 それに真っ向から反対したのが諭吉先生の『学問のすゝめ』でした。なんとそれは、学校の教材(教科書)だった。この本を小学生や中学生が読むなどということは、今では考えられもしません。もっとも、それを「どのようにして読むか」が問われなければ始まらないのは言うまでもない。意味も理屈も知らないままで棒暗記させられてきた「教育勅語」の悪しき前例があるからです。読めればいい、理解はできなくとも、これが学校教育の看板でした。ひどい看板もあったもので、看板倒れもいいところ。ほんとに「看板に偽りあり」でした。この悪癖は今も治っていない。「あらゆる試験問題」を検討するまでもありません。(「学問」とは「教育」という語と同じ意味で用いられています)

「このたび余輩の故郷中津に学校を開くにつき、学問の趣意を記して旧く交わりたる同郷の友人へ示さんがため一冊を綴りしかば、或る人これを見ていわく、「この冊子をひとり中津の人へのみ示さんより、広く世間に布告せばその益もまた広かるべし」との勧めにより、すなわち慶応義塾の活字版をもってこれを摺り、同志の一覧に供うるなり」明治四年未十二月                               

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毎日が非戦の日、平和は家庭から

昨年、東京都内で行われた講演会で特攻隊の経験を語る岩井忠正さん(左)と忠熊さん。中央は忠正さんの長女直子さん=岩井直子さん提供(東京新聞・下につづく)
兄弟で旧日本海軍の特攻隊に志願し、生き残った百歳と九十七歳の二人が、終戦から七十五年を迎えるのを前に、当時を振り返る「特攻 最後の証言」を出版した。「戦死を覚悟するぐらいなら、なぜ死ぬ気で戦争に反対しなかったのか」。悔恨と、二度と悲劇を繰り返さないという思いを込めた。(梅野光春)/ 兄の岩井忠正さん(百歳)=東京都武蔵野市=と弟の忠熊さん(97)=大津市=が「記憶が確実なうちに若い人に伝えたい」と、昨年十一月に都内で二人そろって講演した内容を基に、対談形式でまとめた。/ 二人は学徒出陣で一九四三(昭和十八)年十二月、海軍に入隊。「この戦争でほとんどの兵士が死ぬと考えていたので、特攻隊に志願した」という。慶応大生だった忠正さんは人間魚雷「回天」と、機雷を付けた棒を持って海に潜る「伏龍」の訓練を受けた。出版した本では、あいさつをしないだけで殴られ、潜水中に気を失って入院したなどの軍隊生活を回想している。(2020年8月8日 16時00分 (8月8日 16時00分更新))

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 この島社会が、連合国軍に敗戦してから七十五年が経過しました。「戦後」七十五年というのが普通の表現ですが、ぼくは「敗戦後」は、すなわち、即「戦前」に当たるといい続けてきました。したがって、今もなお、来るべき(来てほしくない)戦争の「戦前」をぼくたちは生きていることになります。ある国の隷属国になって七十五年、この島人は香港を、まさしく「対岸の火事」とみていていいのか。今に生じている「香港事態」はこの島の現状を示しているとさえ、ぼくには感じられます。「対岸とは此岸のこと」なんです。

 ここに、二人の兄弟、ともに元特攻兵だった二人が「戦死を覚悟するぐらいなら、なぜ死ぬ気で戦争に反対しなかったのか」と肺腑の言をつづられています。ぼくは未知の先輩二人に対して、深甚の敬意を表したいと思っています。どんな戦争も愚かだし、再び戦火を見てはならないと、敗戦後を生き延びてきた世代のぼくは、心底より念じている。しかし、この島は戦場とはならなかったが、幾多の戦争状態をこれまでに経験してきた。爆弾が炸裂、艦砲射撃がうなりをあげている、その下で日常を破壊され、大切な人々のいのちを奪われている無辜の民が無数にいることを知りながら、ぼくたちは手をこまねいて傍観しているのです。

 「終戦記念日」を、年に一度の悔悟と、「不戦の誓い」をくりかえす日にしないためにも、戦争に連なる「平和の道」をぼくたちは心して歩かなければならない。コロナ禍の今も、この当たり前に存在している「道」は廃墟につながる道なのかもしれないのです。ぼくには毎日が「非戦の日」であり、何よりも「平和は家庭から」とかみさんとは不戦(非戦)条約を提携つしています。ときどき破棄したくなりますが、いやいや、と我慢というか、忍従というか。平和はなかなか一筋縄ではいかないね。

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