戦争が終わった時、どこに根を…

「僕も(デモで)歩きながら、不戦と民主主義の憲法、つまり「戦後の精神」を譲らない老人でいようと思う。」(大江健三郎)(『朝日新聞』2014-04-20)

(ヘッダー写真「戦争と平和を考える 犠牲はいつも無辜の民」東京新聞・2022年8月13日)

 《 戦争がおわったとき、ぼくは山村の小学生で、十歳にしかすぎなかった。天皇がラジオをつうじて国民に語った言葉は、ぼくには理解できなかった。ラジオのまえで大人たちは泣いていた。ぼくは、夏の強い陽ざしのあたっている庭から、暗い部屋のなかで泣いている大人たちを見つめていた。(略)

 天皇は、小学生のぼくらにもおそれ多い、圧倒的な存在だったのだ。ぼくは教師たちから、天皇が死ねといったらどうするか、と質問されたときの、足がふるえてくるような、はげしい緊張を思い出す。その質問にへまな答え方でもすれば、殺されそうな気がするほどだった》(大江健三郎《戦後世代のイメージ》)

 その天皇が「ふつうの人間の声で語りかけた」ことに大江少年は驚きに打たれた。そのような畏れ多い存在が「人間になってしまうということ、それは信じられることだろうか」と。その思いを少年は教師に尋ねた。「天皇制が廃止になると大人がいっているが、それはほんとうだろうか?教師はものもいわず、ぼくを殴りつけ、倒れたぼくの背を、息がつまるほど、足蹴にした。そしてぼくの母親を教員室によびつけて、じつに長いあいだ叱りつけたのである」

 この後、大江少年は学校に行くことができなくなり、家の裏の森に入っていった。このことは以前に触れました。

 《 最初に私が、なぜ子供は学校に行かねばならないかと、考えるというより、もっと強い疑いを持ったのは、十歳の秋でした。この年の夏、私の国は、太平洋戦争に負けていました。日本は、米、英、オランダ、中国などの連合国と戦ったのでした。核爆弾が、はじめて人間の都市に落とされたのも、この戦争においてのことです 》

 嵐にあって森から出られず、大変に衰弱していたところを救い出された。そのとき、看病していたお母さんは「ぼくは死ぬだろう」と心細くなっている少年に、次のように答えたのでした。

 ― もしあなたが死んでも、私がもう一度、産んであげるから、大丈夫。

 若いころから、ぼくには大江さんのような感受性というか、政治判断力というものが著しくかけていることに気づいていました。おれはダメだ、というのではなく、なぜ大江さんはあのように「時代認識」を鋭敏にもっているのかと、脅威を感じたことがしばしばでした。戦後世代を自任ていた彼とぼくはわずかに十歳ほどしか違わない、育った環境の似たようなもの(都会の真ん中ではなく田舎)、あるとすれば、才能という可能量の差だけだと、ぼくはいやおうなく「利口な人」の存在を認めさせられたのでした。だから、ある時期から、大江さんの歩き方を常に注意して眺めていたように思うのです。だが、彼の真似をしようとか、うらやましいと考えたことはなかった。布右派布うなりに、自分の脚で歩くだけだ、と

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 七十五年が経過した現在でもなお、さまざまな「八月十五日」の経験(体験)ということを考えます。今となれば、歴史的な時間の連鎖に組み込まれてしまっていますが、人それぞれに「戦争の終わり」(敗戦)を受けとめたはずです。大江さんの場合は「小国民」としての、それでしたが。現場の教師はどうであったか。二つばかりの例を挙げてみます。「敗戦を現実に生きた」ものと、「そうではなく、歴史の上で経験する」ものの差異は決定的なのかどうか。

① 七月末、新聞の下のほうに小さく、連合国がポツダム宣言を発表したこと、わがほうはこれを黙殺して聖戦完遂に邁進する、という記事を見た。ばかな!(中略)八月十五日、老婆と子どもを疎開させようと上伊東へ、国民学校二年の次女と荷物を運んだ。昼食のお湯をもらいにいくと放送中 ― 敗戦の宣言とわかった。次女をつれてそのまま山道を越えて帰った。「見ろ」と叫びたい気持であったか、やっとといった安堵感であったか、やはり興奮して帰ったようで、的確には思い出せない。夏の道がかっと白く、長かった。

 日本帝国主義の崩壊 ― 長い屈辱の日々。暴力への怒りが徐々に、腹の底から湧いてきた。(藤原 治『ある高校教師の戦後史』)

② 昭和二十年八月十五日「鬼畜米英」も教えた。「打ちてしやまん」も教えた。「大君のへにこそ死なめ」とも教えた。そして卒業生たちに出征のたびに激励のことばも送った。その私がどのつらさげて再び子どもたちの前に立つことができようか。(金沢嘉市『ある小学校校長の回想』これについては既出)

 ぼくはこの種の「回想・回顧」「反省」「後悔」「怒り」などがこめられた、じつにたくさんの残された記録を読んできました。それぞれに切実であったのだろうという思いとともに、自分であればどうだったか、という疑似体験に似た思いをいだかされて来ました。七十五年たって、今はどうなんだと聞かれれば、じゅうぶんに答えることができそうにないのです。理由は? 憲法があり、敗戦の歴史があり、被爆という稀有の体験も舐めた島社会の一人の人間として、ぼくは「戦争を忌避する」点では疑問の余地もないのですが、この島社会が再び戦争することがない、そのためにお前はなにをするのかと問われているからこそ、七十五年の歴史をもってしても、うまく答えられそうにないのです。

 国会議員をはじめとして、バカな連中は「敵基地攻撃能力」などという戦争仕掛けごっこを楽しんでいるようにさえ思われます。軍備増強を言い、専守防衛のために同盟国とともに戦うのだと勇ましいことを吹聴している人は「戦争(兵隊として)にはいかない」ことがはっきりしている。 戦争に駆り出されない側の人間が戦争を語るという滑稽かつ堕落した仕組みもまた、ぼくにはこの問題を現実問題として理解させ難くしています。

 「敗戦後」、ぼくたちはどこに根っ子をおろそうとしたのか、それがあいまいであった、あるいは軽々しいいものだったがために、いまになって方向を定めがたくさせられているのです。「土下座はした」が、その根はどこにも張っていなかったし、だから育っていなかったのだ。いまだに根無し草の縹渺とした歩みをさらしている。浮き草暮らしが身についてしまったというのでしょう。

 学校教育の偽善性ということを、長い間、ぼくは考えてきました。「反省」はさせられるのではなく、するのだということを、実践したいと念じています。馬鹿の一つ覚えのように、教師は「反省文」を書かせます。それでどうなの?「書いたら、反省した気になる」のが人情であるし、反省していると認めたくなるのもまた腐った人情です。自省というのは、他人の目を気にしないことであり、自分に正直になることを言うのです。自省は、きっと自制を促します。

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◇資料「アメリカ教育使節団(第一次)報告書」より

 「われわれは決して征服者の精神をもってきたのではなく、すべての人間の内部に、自由と、個人的・社会的成長とに対するはかり知れない潜在的欲求があると信ずる、経験ある教育者として来たのである」

「しかし、われわれの最大の希望は子供たちにある。子供たちは、まさに未来の重みを支えているのであるから、重苦しい過去の因襲に抑圧されるようなことがあってはならない」

「われわれは、いかなる民族、いかなる国民も、自身の文化的資源を用いて、自分自身あるいは全世界に役立つ何かを創造する力を有していると信じている。それこそが自由主義の信条である。われわれは画一性を好まない。教育者としては、個人差・独創性、自発性に常に心を配っている。それが民主主義の精神なのである。われわれは、われわれの制度をただ表面的に模倣されても喜びはしない。われわれは、進歩と社会の進化を信じ、全世界をおおう文化の多様性を、希望と生新なカの源として歓迎するのである」「本来、学校は、非文明主義、封建主義、軍国主義に対する偉大な闘争に、有力な協力者として参加するであろう」(以下略)

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誤ったことの記憶を保ち…(承前)

 一人の教育者の「回想」をさらに引用します。これまでにもたくさんの教師たちの「戦時と戦後」を調べてきました。そのほとんどに認められるのは、この金沢さんに読み取れるような懺悔と反省の気分横溢した回顧録です。若かったぼくは、「いい気なものだ」という感情を隠さなかった。知りうる限り、敗戦を機に、自らの責任を痛感して教職から離れた教師はきわめて総数だった。その教師たちのこともどこかで触れるかもしれませんが、大半の教師たちの「反省と再生」の中途半端さ(気軽さ)は必ずや、再び大きな過ちを起こすことにつながるであろうという危惧の念を持たざるを得なかった。その危惧をいだかせたのは教師たちばかりではなかったのは言うまでもありません。(上の写真の「土下座」の意味が、今になってもぼくにはわからない。誰に対して、何のために「土下座」しているのか。不快です)

〇ど‐げざ【土下座】 の解説[名](スル) 1 昔、貴人の通行の際に、ひざまずいて額を低く地面にすりつけて礼をしたこと。2 申し訳ないという気持ちを表すために、地面や床にひざまずいて謝ること。「土下座して許しを請う」(デジタル大辞泉)

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 終戦の詔勅は郷里愛知県の蒲郡できいた。警備召集の通知を受けていた私はこれから後どうなるかわからないので父母と家族のいる郷里蒲郡に帰った。その時八月十五日をむかえた。(中略)「鬼畜米英」も教えた。「打ちてしやまん」も教えた。「大君のへにこそ死なめ」とも教えた。そして卒業生たちには出征のたびに激励のことばも送った。その私がどのつらさげて再び子どもたちの前に立つことができようか。政府の指導者は大いなる誤算であったとすましていられるかも知れないが、一人一人の魂に接していく教師、人間の真実に迫っていく教育、つねに真理を真理として教えていく教師が、今までのことは間違いであったと簡単に言うことは道義的にはできないのである。それが純真な子どもであればある程人間としての責任の深さに思い悩んだ。(金沢嘉一・同上)

 教科書の一部に墨を黒々と生徒に塗らせて抹殺させようとしたときは、ドーデの『月曜物語』の中にある〝最後の授業〟―プロシャに占領されて、きょう限りフランス語による授業が受けられなくなったことを悲しむ教師と生徒のことを思い出しながら、敗戦のきびしさを教えなければならなかった。子どもから戦犯と言われても仕方のない私が、その口をぬぐって子どもたちの前に立ち、日本再建の話をするなどと言うことは…と心がひけた。(同上)

 ときの政府、ときの軍部のいう通りにすることが民族の未来のために真に幸福な道であるとは思えない。人間の魂にふれていくわれわれ教師は、もっとりこうになり、もっと真実を求めるための教育をしなくてはならない。そして私自身は再びあやまちを繰り返さない教育をしなくてはならないと、自分に言いきかせるとともに子どもたちにも呼びかけていった。(同上)

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 同じ回想記のなかで金沢さんは次のようにも書いておられます。それは日本のたくさんの教師達が抱いた感懐であったろうと推察されます。

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 ちょうどそのころ、心から私を喜ばせてくれたのが憲法の草案である。

 この憲法だったらやっていける。この憲法の平和を志向する精神こそかねがね私が求めていたことである。私は幾度もこの草案を読み返してみた。これならやっていける。この憲法精神をもとにした教育こそ私が望んでいた教育である。わが半生はこの憲法精神によって生きていかなくてはならないと改めて決意したのである。

 それはまた私だけの感銘ではなく、当時の国民感情もこの憲法精神をよりどころにするところに新しく生きる日本の道を見つけ出したといえるのではなかろうか。

 当時相前後して、占領軍から民主化のために新しい勧告が出されてきたが、その中でも深い印象として残っているのは、昭和二十一年三月に来日したアメリカ教育使節団の報告書であった。そこには日本教育に新しい改革と民主主義への示唆があった。

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 このように書いて「教師の最善の能力は、自由の空気の中においてのみ十分に現される。この空気をつくり出すことが行政官の仕事なのであって、…」というくだりを引用されています。この報告書を読んで歓喜の涙を流した教師も多かったのですね。

 《 たしかに、憲法や報告書はたくさんの教師たちに希望の光を与え、勇気を授けたにちがいない。それを否定することは私にはできないことです。でも、それが大きな支持を受けたということはまた、別の問題を露わにすることにもなったのでないか、と思うんです。 「報告書」を貫流する「自由と民主主義」を主題とする教育哲学は、旧来の軍国主義や超国家主義の教育体験者には無条件に受け容れられる素地をもっていた。そのような理念は、旧習に泥んでいた自己を裁く格好の口実となり、同時にそのような教場に教師を投げ入れた国家を断罪する武器ともなったからである。だが、無条件に受容されたということ自体、自らを厳しく問い直す確かな契機とはならなかったという点で、「民主主義の教育」理念は多くの教育関係者にとっては、戦中から戦後に移住するための「パスポート」の役目しか果たさなかったとも言えよう。民主教育を自身の存在根拠として引き受けることは、戦時下に時を過ごした多くの教師にとっては想像以上に困難な課業となったにちがいないのである。》(岡村遼司「教育改革と民主主義観」『占領と戦後改革 第4巻』所収、岩波書店、1995年)

 もちろん、このようにいえるのは歴史の後知恵に類することで、それだけのことだろうと思います。ぼくは誰彼を非難するのではない。ことさらに竹内さんを引用したのにはそれなりの理由がありました。自らが間違ったことを記憶に留めるということ、しかもそこから戦後の生き方を始めたということを厳しく受けとめたかったからです。

  いままで誤ったことの記憶を保つことが真理の方向を示す。そういう考え方。真理はこれだ、これを見よ、私はそういう考えに立たない。自分はこういうふうにしてまちがえた。それをゆっくりもう一度考えてみると、真理はこっちじゃない、こっちだろう、となるでしょう。真理をそういう方角としてとらえるというのが基本的な考え方なんです。(鶴見俊輔)

 反省ならサルでもする、というのはとんでもない誤りで、サルは反省などという惨めったらしい、嘘くさいことなんかしないですよ。「反省する」tぴいますが、実際は「させられている」のです。人間も同じじゃないですか。反省するふりをする、そのふりで「自分が騙される」んじゃないでしょうか。サルは反省なんかしない。

 なぜって、彼らは人間みたいに質の悪い過ちを犯さないからです。ざっとこの七十五年を概観してみて、なんだか出発地点に戻ったような気がしないでしょうか。国も個人も、誤ったことの記憶を忘れないこと。人間は弱い存在なんだということをDNAのレヴェルで保持したいものですね。でも時間の経過とともに、記憶の風化というのか、都合よく、具合よく「忘れる動物」でもあるんです、人間は。ここは、立派なサルになりたい。それがぼくのひそかな願い。

 原爆投下の地で、時の総理が「記念式典」で読み上げた挨拶文が心にもない、上書き作文だったと批判されています。実を言えば、反省などしてはいないのは当然で、投下した国の大統領に何よりもゴマをすって、あろうことか、あらゆる無駄遣いの元凶である「武器」を強制的に買わされてきた当人でした。憲法も遵守しないし、教育基本法も歪曲した、そんな政治家を担ぎ上げて好き放題してい来たのがこの何十年でした。頽廃のきわみです。歴史に学ぶいうのは、誰彼にできることではないのです。「矛盾、支離滅裂?大いに結構」、それが現下の政治家状況だというほかないですな。歴史を知らなければ、どんな悪行だって平気です。いのち、それってなんだという感覚です。自分以外の人間の顔が見えない(見ない)のが政治家の条件かもしれない。

 「誤ったことの記憶」を持つのは、まともな人間性や人間の感覚を失っていないひとのみに通じる「お説教」です。香港で生じているのはこの島社会で、かつて起こったことであるし、また起こりえる事でもあるのです。心にもない虚言を連ねるよりも、正直にまちがったという地点にまで立ち返る、そのための起点になるのが「敗戦の日」だと、ぼくは感じながら生きてきました。

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「戦争」が通り抜けた時代の果てに

 八・一五は私にとって、屈辱の事件である。民族の屈辱であり、私自身の屈辱でもある。つらい思いでの事件である。ポツダム革命の惨めな成りゆきを見ていて、痛切に思うことは、八・一五のとき、共和制を実現する可能性がまったくなかったかどうかということである。可能性があるのに、可能性を現実性に転化する努力をおこたったとすれば、子孫に残した重荷について私たちの世代は連帯の責任を負わなければならない。(竹内好「屈辱の事件」1953/8)

〇生]1910.10.2. 長野,臼田 [没]1977.3.3. 東京 中国文学者。 1934年東京大学支那文学科卒業。同年,武田泰淳,岡崎俊夫らと,旧来の漢学,支那学を否定して「中国文学研究会」を結成,機関誌『中国文学月報』 (のち『中国文学』) の編集にあたった。第1回大東亜文学者会議に際し非協力を表明して 1943年同研究会を解散,『魯迅』 (1944) を書き上げ一兵卒として応召。 1946年復員後は,在野の評論家として,中国文学との対比による日本の「近代」批判,「国民文学」の提唱,現代中国論など幅広い評論活動を行なった。 1953年東京都立大学人文学部教授となり,1960年日米安全保障条約の国会強行採決に抗議して辞職。 1963年「中国の会」を発足させ,雑誌『中国』を創刊,『中国を知るために』などのエッセーを載せた。『魯迅選集』 (1965,共訳) ,『魯迅文集』 (6巻,1976~78) など魯迅作品の翻訳のほか,『竹内好評論集』 (3巻,1966) ,『日本と中国のあいだ』 (1973) などがある。(ブリタニカ国際大百科事典

 それぞれの八・一五ということがいわれます。単にその1日が問題となるのではなく、その前とその後の間にある1日ということでしょう。本日は竹内好さんを紹介しました。竹内さんについては、これまでにも触れてきました。なにかと興味をそそられる思想家であったのは事実です。早くにアジア、それも中国を意識していた竹内さんは、中国文学会を組織し盛んに活動をされました。その彼が1942年1月の段階で「大東亜戦争と吾等の決意」という世界大戦の開戦に寄せた断固たる宣言文を起草していました。

 《 十二月八日、宣戦の大詔が下った日、日本国民の決意は一つに燃えた。爽かな気持であった。これで安心と誰もが思い、口をむすんで歩き、親しげな眼なざしで同胞を眺めあった。口に出して云うことは何もなかった。建国の歴史が一瞬に去来し、それは説明を待つまでもない自明なことであった。(中略)中国文学研究会一千の会員諸君、われらは今日の非常の事態に処して、諸君と共にこの困難なる建設の戦いを戦い取るために努力したいと思う。道は遠いが、希望は明るい。相携えて所信の貫徹に突き進もうではないか。耳をすませば、夜空を掩って遠雷のような轟きの谺するのを聴かないか。間もなく夜は明けるであろう。やがて、われらの世界はわれらの手をもって眼前に築かれるのだ。諸君、今ぞわれらは新たな決意の下に戦おう。諸君、共にいざ戦おう。》

 戦争に積極的に荷担した事実を隠すことなく、それを戦後の言論活動の基底に据えたことは誰もがよくなしえた行為ではなかった、この点に注意を払う必要をぼくは認めるのです。このことを「教師達の八・一五」として見るとどうなるでしょうか。ここでは、ほんの一例を挙げておきます。懐かしい人ですが、去る者 日々に疎しという通り、遥か彼方に往かれてしまったという思いも強く、懐旧の情もだしがたく、という心持をぼくは抱いて、紹介するのです。

 金沢さんはテレビにさかんに出られた教育評論家の走りのような方でした。一面識もなかったが、戦前戦後を現場で経験された教師の典型として何かと学んだのでした。(今でいえば、尾木直樹(ママ)氏のような役回りをされた)

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  金沢嘉市の〈戦争と平和〉

 昭和十五年、私は港区の南桜小学校に移動した。その翌年には日本は太平洋戦争に突入し、国をあげての臨戦体制になった。その後の子どもたちは愛国行進曲にあわせて全員が少年団の訓練を受け、教師は皇国民錬成の指導者として臣民の道を朗読したり、ついにはミソギをして神ながらの道を信奉するように命ぜられるにいたった。

 こうした中で私はただ政府の言うまま、時の文部省の言うままに日本の必勝を願いながら日々の教育の道にたずさわっていた。

 子どもたちは次々と出征していった。私はその知らせを受ければ急いでかけつけ激励してやり、その数は数えきれない程であった。(金沢嘉市『ある小学校長の回想』岩波新書)

 〇明治41(1908)年10月2日 昭和61(1986)年10月10日 愛知県蒲郡市 青山師範〔昭和3年〕卒 主な受賞名〔年〕モービル児童文化賞 経歴昭和3年東京西多摩郡の多西小学校に赴任。以来、戦前戦後を通じて41年間の教師生活を送る。世田谷区の祖師谷、三宿、代沢小学校校長を経て44年退職。その間、27〜41年にはNHK学校放送の「このごろのできごと」に出演しニュース解説をする。53年より子どもの文化研究所所長を務めた。教師の勤務評定を教育委員会に提出拒否して注目され、学力テストや教科書検定など国の文教政策を批判する立場から活動を続けた。著書に「ある小学校長の回想」「人間にくずはない」「ほんとうの教育を求めて」などの他、授業ノート「金沢嘉一の仕事」(全5巻・別巻1 あゆみ出版)がある。平成5年著書や関連文献、講演テープなどが遺族から蒲郡市に寄贈され、7月同市立図書館内に金沢ヒューマン文庫がオープンした。(日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」)(つづく)

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民権自由の世の中に まだ目の…

香港、メディア王の黎智英氏を保釈 国安法違反で逮捕  2020年8月12日 3:18 発信地:香港/中国 [ 中国 中国・台湾 ]
【8月12日 AFP】中国政府が香港に導入した国家安全維持法(国安法)に違反した容疑で10日に逮捕されていた香港民主派のメディア王、黎智英(ジミー・ライ、Jimmy Lai)氏(71)が12日、保釈された。
 現地のAFP記者によると、黎氏は12日午前0時(日本時間午前1時)ごろに市内の警察署を後にし、支持者らの歓声に迎えられた。

 11日夜には、黎氏と同じく10日に国安法違反容疑で逮捕されていた若手民主活動家の周庭(アグネス・チョウ、Agnes Chow)氏も保釈された。(c)AFP

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 逮捕の理由や保釈の条件が何であるのかが一切わかりませんので、 暢気はことは言えませんが、一晩で「保釈」せざるを得なかったのは、よほどの背景があるのだと考えられます。これは香港の国内問題ではなく、すでに大きな国際関係の中で物事を判断しなければならない背景を考慮したのかもしれない。 「国家安定維持法」というえげつない抑圧(弾圧)法を制定すること自体が、当局がはだしで刃の上を歩くような愚行であったし、それをじつにでたらめに適用するのも恣意的なのですから、内外の反発を買うことは不可避でした。香港当局ではなく中国が事態を動かしているというジレンマもあります。衣の下の「鎧」が怪しく動いている問い滑稽図。

 この先どのように事態が進むのか、まったくぼくにはわかりませんが、「強圧」をにおわせるだけで、大きな負の連鎖を伸ばすだけであるということを考えています。強く出れば出るほど、権力側の脆弱性がにじみ出てくるのです。余裕がないというわけだ。

←(保釈された周庭氏=香港の大埔警察署前で8月11日午後11時5分、福岡静哉撮影・毎日新聞)

 時代が変わり、人心も大きく変化した状況をくみ取れない権力の鈍さを痛感します。決して後退しない道を選んだ人民の意識を暴力で覆いかぶせることはできない相談です。(各地域で生じている「反権力の運動」は、さらに勢いを増すでしょう。アメリカの BLM Movement も同じ流れをたどっています。権力の側は自分の立場しか考慮しない「できない」という狭量を持ちがちですが、それが失敗の元凶になります)(米中に国の愚かさ比べ、それでわが身が右往左往はたまらない)(適切かどうか心もとないが、「針で掘って鍬で埋める」という。 「民主主義の歩み」の切なさ)

 この島社会の百五十年前に民衆が謳った「世情を振起」した叫びを二つばかり。

 よしや圧政するならさんせ ルイ十六世の末をみよ

 民権自由の世の中に まだ目のさめない人がある コノあわれさよ

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「分離主義を煽動」したと、逮捕

【8月10日 AFP】(写真追加)香港の著名な民主活動家の周庭(アグネス・チョウ、Agnes Chow)氏が10日夜、国家安全維持法(国安法)違反の容疑で逮捕された。周氏の公式フェイスブック(Facebook)アカウントは「アグネス・チョウが国安法により、『分離主義を扇動』したとして逮捕されたことが今確認された」と発表。警察筋はAFPに対し、国家の安全をめぐる捜査で10日に逮捕された10人のうちの一人が周氏だったことを認めた。(c)AFP

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 ここ(逮捕)までは想定されていました。いわば反国家(権力)・反香港(権力)のシンボルを「見せしめ」として逮捕したというわけです。問題はこの後です。当局は大きな賭けに出たし、危険な博打のような手を打ったことになります。もちろん建前では「裁判」を実施しますが、簡単にはいかないとぼくには思われます。反対派(民主派)はこの先も反対運動を展開するでしょうし、権力側も圧力をかけ続けるはずです。問題は香港や中国の内部問題ではなくなっているという点です。周さんたちも当然のように他国・他地域への連帯を呼び掛けてきましたし、国家権力(中国当局)もまたその国際地域連帯を恐れていたのだから、ここしばらくは「熾烈なせめぎあい」が続くのかもしれません。

 いい加減な推定はしません。確かに思われることは、いったん開かれた「自由・解放の扉」はそれを再び閉じることは至難の業であるということです。中国当局もまた一枚岩ではないことは明白ですから、さまざまな要素を織り込みながら一進一退の経過をたどるとみられます。もちろん、今回の件で身柄を拘束された人たちの解放が何よりも望まれます。加えて、米中関係が大きなカギを握っていると思います。「新しい冷戦」が生じることはないし、あってはならないことです。その際に、この島社会が何をやるべきか、明白ではないでしょうか。アメリカの尻馬に乗ることは最悪。

 天安門事件(1989年6月)を想起します。民衆(人民)の決起を侮るとどうなるか。中国を見る目は、当時とは大きく異なっています。小の虫を踏み潰すような権力の奢りや乱用ががあるなら、必ず大きく間違える。

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精神の異同を養成して以て独立の…

《且夫れ一定の学制を布きて国民を一様に教育せんとするは、結局行われざるのみならず、設ひ実行せらるヽも、所謂一主義を国中に弘布するものにして、国家開明の最も害とする所なり。全国民をして一様一体の精神に養成せしめんと欲せば、則ち浴衣の揃でもよし裸の揃でもよし、斉しく是れ一様なり一体なり、唯有形無形の差あるのみ。豈国民をして如此操人形に為す可けん哉。宜く精神の異同を養成して以て独立の気象を渙発す可き也》(植木枝盛『愛国新誌』明治十三年十月)

 《且つ夫れ教の義たる、先覚者の後覚者を開誘するにある以上は、恰も父母の児童を訓ゆると一般なり。父母の児童を訓ゆるは緊束を要す。則ち教育の義、固と干渉の旨を含有せりとす。且つ夫れ普通教育にして政府の干渉すること無ければ、則ち教員たる者教育の順次を誤まり、自己の癖する所に随て子弟を誘導し、未だ人間普通の徳義を弁ぜらるの児子に高尚の理論を教え、史学に托して政論を説き、甚だしきは世変に処するの術を講ずるものあるの徴を現ずるに至る》(河野敏鎌「地方学事視察につき上書)

 この二つの文章をじっくり読んで下さい。いずれも土佐の出身である両者は、〈教育〉を巡って両極に位置しています。一方は〈自由教育〉を標榜し、他方は国家の〈干渉教育〉を主義としているのです。いずこも同じ秋の夕暮れ、ならぬ教育のたそがれのように思われます。時は明治十三年。自由民権運動に脅威を感じた政府筋は、国権の発動として教育を管掌するためのさまざまな策を凝らします。これはその後の「学校教育」の分岐点となりました。この国の〈近代化〉に「学校教育」が負わされた制度的な使命は幾変遷をたどりつつ、敗戦にまで至ります。

 また、以下のような政策が宣言されたこともありました。事情が許さずに廃止されましたが、スキあらば、といつでも権力の椅子にへばりつく者たちはこんな圧政を企んでいるんですな。

 《朕恭しく惟るに、天神天祖極を立て統を垂れ、列皇相承け、之を継ぎ之を述ぶ。祭政一致、億兆同心、治教上に明らかにし、風俗下に美し。而るに中世以降、時に汚隆有り、道に顕晦有り、今や天運循環し、百度維れ新たなり。宜しく治教を明らかにして、以て惟神の道を宣揚すべきなり。因て新たに宣教使を命じ、天下に布教せしむ。汝群臣衆庶、其れ斯の旨を体せよ》(「大教を布告するの詔」明治3年1月)

〇大教宣布(たいきょうせんぷ)=明治維新の当初神道によって国民思想を統一し,国家意識の高揚をはかった政策。神祇官が再興され,教導局,宣教使が設けられ,明治3 (1870) 年1月3日には,大教宣布に関する詔書が出された。のち,教導職,大教院の設置など,宣教の拡大がはかられたが,仏教側の反対により,1884年には終止符が打たれた。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

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 明治七年生まれのある学者は次のように当時を回想しています。

 《曽て板垣さん(右写真)が自由は死せずと呼号した時代に、私の旧宅の門前に於て、若い酔狂人が大の字になって怒鳴って動こうとしない。母は出て行って門の戸を締め貫抜きを通し、私たちは陰に隠れて恐る恐る覗いて居ると、彼の友だちが傍にそっと近よって、百方なだめすかして連れて行こうとするが、酔っぱらいは愈々強く踏みしめて、自由の権だいという文句を何遍か高く唱えた。是が私の此語を学び始めた日であったが、それから今日まで此語はきらいである》(柳田国男『故郷七十年』)

 「そんな自由なことは許しません」というほどに、〈自由〉が嫌われた例を柳田さんは出しているのだが、「よしやシビルは不自由でもポリチカルさえ自由なら」と「よしや節」が盛んになればなるほど、権力あるものはそれを抑圧するようになる、ということの繰り返し、それが人間集団の歴史であったともいえそうです。「自由教育」か「干渉教育」かという教育観の対立も、結局は政治の世界の問題であったことになります。教育は政治問題そのものです。先年、ぼくは土佐を訪ねて、いろいろと考えました。後ろは山ばかりで猫の額ほどの土地に張り付き、山を均して家を建て、畑を作る。長曾我部の末裔の辛苦を目の当たりにして感慨が深かった。親父の郷里も土佐で、まことに頑固者でした。前は太平洋でその先にアメリカがあるといったのは、小野梓でした。板さんよりよほどの人物でしたね。

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〇よしや節=今日の「よさこい節」の元になるものとされます。

①安岡道太郎「よしや武士」(抄)・・・民謡「よさこい節」の替え歌(註 安岡は土佐の民権家だった)

   ▽よしや南海 苦熱の地でも 粋な自由の風が吹く

   ▽よしやこの身はどうなり果ちよが 国に自由がのこるなら

   ▽よしやお前が通さぬ気でも 開けゆく世に関はない

   ▽よしや糸目が切れよとままよ わたしゃ自由の奴凧(やっこだこ)

   ▽よしや憂目にアラビア海も わたしゃ自由を喜望峰

   ▽よしやシビル〔文明度〕はまだ不自由でも ポリチカルさへ自由なら

   ▽よしや圧政するならさんせ ルイ十六世の末をみよ

②植木枝盛「民権数え歌」(抄)(註 植木は福沢諭吉の愛弟子でありました)

   ▽一ツトセー 人の上には人ぞなき 権利にかわりがないからは コノ人じゃもの

   ▽二ツトセー 二ツとはない我が命 すてしも自由のためならば コノいとやせぬ

   ▽三ツトセー 民権自由の世の中に まだ目のさめない人がある コノあわれさよ

〇安岡道太郎(1847-1886)明治時代の民権運動家。弘化(こうか)4年3月8日生まれ。安岡覚之助,嘉助の弟。はじめ道之助と称した。摂津住吉(大阪府)の高知藩陣屋につとめ,維新後は立志社に参加。明治11年杉田定一(ていいち)とともに九州地方をめぐり,愛国社の再興をうったえた。民権歌「よしや節」の作者。高知新聞の記者となった。明治19年6月26日死去。40歳。土佐(高知県)出身。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

 「よしや圧政するならさんせ」と唆し、「民権自由の世の中に まだ目のさめない人がある」と嘆息自在でした。

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