いちばん悪い時にも足場はある

「戦後民主主義」とはなんのことですか

 記憶は曖昧ですが、以下の話はこのブログのどこかで触れました。記述はしていないが、触れようとしました。すでに四十年前に書かれた文章ですが、今でも十分に参考になります。敗戦直後からさかんに「戦後民主主義」という言葉が流行しました。その反動かどうか、今日ではほとんど口の端に上ることはなくなりましたが、一時期の流行りは猖獗を極めていました。まるで猫も杓子もといった塩梅で、「戦前派」までが盛んに吹聴していたものでした。それを快く思わない人がいるのもまた、当然だし、ぼくも数の中に入るつもりです。「戦前、にも「戦中」にも民主主義はあったからです。戦後の文部大臣のごときは「天皇制民主主義」とまで言ったことがありました。「民主主義」はいたるところに存在するようです。独裁・専制とだって同居するのです。

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 「だから、戦後の初心に返るというのはあんまり好きじゃない。むしろ、戦中の初心に返ったらどうですかと言いたい。人間が生きているところに権力を批判しようという動きは必ずあるんで、そこからとらえていくことが重大なんじゃないでしょうか。

 戦後民主主義の型にもどろうと思ったって、そんなもの足場もなにもあったものじゃないですよ。いちばんわるいときにも足場はあるはずで、いまももちろんあるんです。だから、今の足場からやるのがいいだろうというふうにわたしは思いますね。

 戦中の民主主義の話として私が思い出すことが一つあるんです。京都に進々堂というパン屋があるんですが、その社内報に續木満邦という人が自分の戦争中の思い出を書いていたんです。

 この人はかなり年をとってから招集されたんですが、招集から十日後に二等兵のまま中国の前線に送られて、そこで訓練された。しばらくたってから、二月の寒いときだったそうですが、「あした、林に連れていく。スパイを木に縛りつけておくから、それを銃剣で突き刺せ。死刑にしろ」と言う命令が出たんです。肝だめしの訓練ですね。その晩、眠れないでベッドの上で考えた。逃げようかどうしようか。そして、明けがたになってようやく決断したんです。現場には行く、しかし、殺さないと。

1902年(明治35年)7月、内村鑑三第3回夏期講習会に集った人々。2列目右から7人目が内村鑑三。前列右から4人目が続木斉、3列目右端が有島武郎、5列目左から4人目が志賀直哉、最後列右から4人目が小山内薫等。(満邦氏は斉氏の四男。彼もまた内村派でした)(http://www.shinshindo.jp/

 朝になって林のなかに行くと、木にスパイが縛りつけられている。しかし、実はスパイかどうかわかりゃしない。裁判も何もないんだから。小隊長が「突け」という命令を出した。しかし、續木氏は動かなかった。「續木、なんだ!」って、名指しされたけれども、それでも動かなかった。そうすると小隊長が自分から寄ってきて、銃剣をとって尻をポカンと殴った。そして、兵営に帰ってから「おまえは犬にも劣るやつだ。軍靴をくわえて四つんばいで歩け」というわけで、兵営の庭を歩かされたそうです。人を殺さなかった續木氏を犬にも劣るやつだというセンスが実におもしろいんだけどね。

 續木満邦氏は去年(一九八二年)亡くなりましたが、日本人のなかにはそういう人がいるんだね。戦中にも、ある種の民主主義、権力の命令に対する抵抗はあるんですよ。そういう人は自分の尻の上に坐っていた人で、精神の現象学とは関係ないんです。「戦争が終わった、これから民主主義だ」なんていう人はどうかしてる。そんなふうに考えていたら、別の時代が来ると崩れるのはあたりまえでしょう。だから、戦争中にもどって考えなおしたらどうですかと言いたいし、…」(鶴見俊輔)

 別のところで鶴見さんはこの記事にふれて、つぎのように書いておられます。「不服従の作法」と題して。軍靴をくわえてはいまわったのは、彼だけではなかったそうです。

 「行儀について書こうとする」時、まず浮かんできたのは、續木さんの文章だった。

 「日本人でなくても残虐行為はするし、社会主義国の国民も残虐行為をすることは、第二次世界大戦とその後の三十五年間の世界史でわかった。

 しかし、日本人の行儀作法を考える時、残虐行為を命じられた時にもしないという作法を身につけた人(そういう人がたしかにいた)がどういうふうに育ったかを知ることが根本問題の一つだと思う。

 第二次世界大戦のころの日本では礼儀作法がやかましく言われた。敬礼、正座、靴のぬぎかた、電車内の席のとりかたは、戦後の今よりもずっときちんとしていた。それでも日本の国外に出ると、作法は根本のところが守られなかった」

 民主主義というのは礼儀作法のことだったのです。自分はどこにお尻をのせて坐っているのか。はたして、「自分の尻の上に坐っている」のか、それとも他人の肩や口車に乗っかっているのか。「集団の動きにかぎりなくゆずってゆく身ぶりとしての行儀と別に、集団の狂気から身を守る用意のある行儀が大切だ」と鶴見さんは言います。

 民主主義だ、平和だといっても、さて、自分はなんの上に坐って、ものを考えものを言っているのかということです。戦争中にも民主主義があったというのは特別な話じゃないわけで、それが外国から、他者から与えられたというほうがおかしいというか、まちがいなんじゃないか。もともと、「わたし(じぶん)」のなかに、そのような平等を求めようとする、あるいは権力の無謀に対する批判・抵抗の精神があるということに気づくことが大切なんだといいたいのです。誰彼の胸中には必ず理不尽なことに対する怒りや反抗の気分はあるのです。それをわざわざ隠すことはない。

 今日の状況をみれば、やたらに礼儀が廃れていると思われるのは、きっと礼義が死んでいるからにちがいない。いったい、何のための教育なのかと、あらためて問い直したい。自分がなければ、礼儀も生まれない。コロナ禍にも、民主主義は死なないで、つまりは生きているのです。「集団の狂気」に引き込まれない準備(用意)こそ、礼儀なのだから。ここで「礼儀」というのは、自分に対する注意深さを指しています。

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だまつて今日の草鞋穿く

しぐるるや死なないでゐる

水に影ある旅人である

しぐるるやしぐるる山へ歩み入る

木の芽草の芽あるきつづける  (種田山頭火)

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遊びの中で学ぶのが一番

「生徒の心に生涯残り、生きる糧となる授業をしたい」との思いから、1950年、新制灘中学校で新入生を担当することになった時点から、「教科書を使わず、中学の3年間をかけて中勘助の『銀の匙』を1冊読み上げる」国語授業を開始する。単に作品を精読・熟読するだけでなく、作品中の出来事や主人公の心情の追体験にも重点を置き、毎回配布するガリ版刷りの手作りプリントには、頻繁に横道に逸れる仕掛けが施され、様々な方向への自発的な興味を促す工夫が凝らされていた。同年10月、東京教育大学(現:筑波大学)教授の山岸徳平が授業を見学し、「横道へ外れすぎではないか」との批判を受けたが、これこそがこの授業の最大の目的とする所であった。(Wikipedia)(13年9月11日死去)

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 ■120歳まで生き、死ぬまで授業したい

 ――「国語は人間の学ぶ力の背骨」とおっしゃってますね

 国語をやっていけば、物事を考える根拠になっていく。自分の生活を豊かにしていく根拠になっていくわけです。数学は理論でしょ。社会は現象。でも国語は言葉ですからね。「銀の匙(さじ)」だろうが何だろうが、それをもとに横道にそれていくことで、言葉も知識も豊かになっていくわけです。

――スローリーディングの授業をされましたが、昨今は速読が話題で学校にも広がっています

 世の中全体は、なんだかあわただしい気がしますわな。話し方一つでもそうでしょ。私は、教室中の子どもたちに聞こえるように、大きな声で一つ一つ言葉を選び、はっきり、ゆっくりと話すよう心がけてきた。だから、耳が遠くても、こっちの言っていることが相手に伝わらないことはない。

 子どもって、ゆったりと遊びながら育っていくんですよ。遊びの中で学ぶのが一番。学校もその延長です。遊ばせる授業をすれば、子どもの方から進んで勉強に入ってくる。遊ぶひまも与えられないで、ガチガチ上から押さえ込む授業をしたら、子どもは受け身になるしか仕方なくなる。だから勉強も嫌になりイライラするんではないですか。

 ――「銀の匙」の授業は、灘中だから成功したのでしょうか

 中学だからでしょう。公立だろうと私立だろうと、ああいうやり方なら、子どもたちは近づいてくる。いまの子は、帰っても塾やお稽古ごとで、自由になる時間が少ない。塾で自由に学べない子が、学校で自由に学べる、自分から行動できるようにし向けていけば、学ぶことが楽しくなるんですよ。

 ――いい国語教師とは

 生徒と友だちづきあいみたいにしながら、一緒に遊んで、それが授業になるのが、プロですわな。そして最終的には、生き方と言うんでしょうかねえ、生きる能力を高めていく。そのために国語教師は存在するんでしょう。そして、教師と生徒が自由に学べるようにするのが、いい学校でしょう。

 ――120歳まで生きることをめざしていらっしゃるそうですが、これから20年間は?

 「自分史いろはかるた」を48の文章にしていこうと思っています。それを書き上げたら、また、「銀の匙」の研究ノートの現代版を作ったり、和綴(と)じ本を作ったりしていけたらと思ってます。

 ――機会があれば再び教壇に?

 そりゃあ、立ちたいですよ。昨年の灘校の授業も、希望者が多くて抽選になったようですし、終わった後ももう一回やってほしいという声があったそうです。私は国文学者でも、評論家でもない。寄り道だらけに生きてきた国語教師ですから、死ぬまで授業したいですね。(聞き手・宮坂麻子)

 はしもと・たけし 1912年京都府生まれ。34年に旧東京高等師範学校を卒業し、旧制灘中学の国語教師に。21歳から71歳まで教壇に立つ。遠藤周作らが教え子。近著に「〈銀の匙〉の国語授業」(岩波ジュニア新書)など。(朝日新聞「人生の贈りもの」・12/04/20)

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 橋本さんの授業論というか、そう教育観というものが、この新聞の短い記事(インタビュー)でも、過不足なくというのは大げさですが、読み取れるように想われます。言われていることはやさしく簡単に聞こえますが、それが実際に可能となるにはおよそ想像を絶した研究・研修の積み重ねがあったということでしょう。ぼくが興味をひかれたエピソードは学生時代に諸橋さんの「漢和辞典」のお手伝いをしたこと、そこから得た体験が教職で活きてきたと明かされていたことでした。(← この辞典は今も、ぼくの「愛読書」です)

 大村はまさんについても同じことをぼくはいいました。いろいろな経験が積み重なりながら、筋肉となり脂肪となって骨格や体形を作るように、教師もまた、その栄養とする養分は数知れないものの中から得られるはずです。それを偏らないで吸収するうちに、自分らしさが生まれてくるのでしょう。(大村さんは、晩年でも週に三日は徹夜されていたと語っておられました)(これも何事においても必須条件ですね、いい恩師(教師)に出会うことです)

 子どもは遊びながら育っていく。自分から行動するように仕向けて行けば、子どもは楽しみながら学ぶんだというくだりに、何度も首肯させられました。教師は運転手のようでもあるとぼくは思いますが、それは自動車が快調に動くように仕向けなければ、運転は楽にはならないでしょうし、同乗者も疲れるばかりです。あまり適切な例ではありませんが、教室の教師も、子どもを上手に動かすことができるようにならなければ、教師も子どもも楽しく学べないでしょう。「遊び」が極意です。窓外の景色に見とれているうちに、意外な意見や考えにいたることがあるのです。運転手に恵まれなければ、安心して窓の外など見ておれないですね。

 どんなものにも「道」はあるのですが、それは驚くほど簡単であり、やろうと思えば誰だってできるものです。(自動車の運転のように)でもそれを長い時間をかけて丁寧に行うことが至難なのでしょう。交通違反を一度も犯したことのない人はどれくらいいるでしょうか。人生違反はどうですか。嘘をつかない、遅刻をしない、妬まない、侮らない、その他…、たまにだったら誰もができそうで、実際にはいつでも(つねに)できるものではないこと、それを実践し続ける「志(こころざし)」というものが求められるのかもしれません。つまりは、持続するこころざしです。

 教職はどこにでもあり、またかならず必要とされる職業ですが、橋本さんたちのお仕事を見るにつけ、なかなか大変だからこそ、やりがいのある、やってみる価値のある仕事だと今更のように痛感しているのです。

 (まさしく蛇足です。クリスチャンを見れば、「敬虔な」という修辞がつくのは何でか。敬虔とは縁遠い、キリスト教徒もいるはずなのに。橋本さんに関しても、たいていは「伝説の」という枕詞のような符丁がつけられます。ぼくにはよくわからない、悪しき習慣ですね。橋本氏の仕事に対して大いに敬意を欠いていると思う)(さらに蛇足です。「伝説」の解説 1 ある時、特定の場所において起きたと信じられ語り伝えられてきた話。英雄伝説・地名伝説など。言い伝え。「浦島伝説」 2 言い伝えること。言い伝えられること。また、うわさ。風聞。〔デジタル大辞泉〕)

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ニセものであることの楽しみ

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 《 私は戦後を、ニセの民主主義の時代だと思うが、しかし、だからといって、それを全体として捨てるべきだとは思わない。ニセものは死ねと、ほんものとしての立場から批判する思想を、私は、政治思想として信じることができない。それは精神の怠惰の一種、辛抱の不足の一種だと思う。

7月19日は戦後民主主義到来の日(ヨシタケシンスケ作・2016/07/19)東宝映画「青い山脈」が初封切りされた日です。(←)

 しかし自分をほんものと規定しないかぎり、ニセものをニセものとして見て批判する運動には共感をもつ。自分を幻想なきものと規定しないかぎり、民主主義をふくめて戦後のさまざまの幻想を批判する運動に共感をもつ。戦争中の軍国主義と超国家主義のにない手がそのまま戦後の平和主義と民主主義のにない手であるような日本の現代が、ニセものでないはずはない。(中略)

 二十三年間の戦後日本の民主主義に失望することはない。この民主主義が、実は軍国主義によってになわれてきたこと、今も部分的にその状態が続いていることを直視して、これと正面から対立することを自分に課して生きてゆけばいい。ニセもののニセもの性をあばくあらゆる動きを、その動きがみずからをほんものと規定している点を別とするならば、私たちは受入れるべきだ。戦後日本の民主主義のニセもの性を照し出す実にさまざまの光源から、私たちは光をかりてくる必要がある。

 在日朝鮮人の問題、沖縄の問題、占領軍からも政府からも見捨てられてきた原爆被災者の問題、十五年戦争の事実をかくそうとする教科書検定制度の問題。それらの問題からとってきた光によって、私たちは日本政府のとなえる民主主義のニセもの性をはっきりさせるとともに、私たちの戦後民主主義のニセもの性をあわせて照し出し、そのニセもの性とともに生きる決意を新たにしたい。ニセものであることのたのしみが、人生のたのしみではないのか。自分のニセもの性をみずから笑うたのしみが、私たちが開拓することにできるもう一つのたのしみではないのか 》(鶴見俊輔「二十四年目の『八月十五日』」・1968)

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 鶴見さんの指摘からもすでに半世紀以上が経過しました。はたして「ニセの民主主義の時代」は終わったか、あるいは依然として継続しているのか。いわずもがな、です。ひょっとして、ニセものを本物と取り違える人は大いに増加したのかもしれないし、同時に、「自分は本物」だと錯覚する人が大いに勢いを増している、そんな時代をぼくたちは生きているにちがいありません。「自分をほんものと規定しないかぎり」、「自分を幻想なきものと規定しないかぎり」、と鶴見さんはくり返しています。「自分のことを棚に上げない」「自分を別の惑星人であるとみなさない」のは当たり前で、ぼくたちは「ニセもの性」の中で育ってきた。嘘に染まり、ニセもの性の空気を吸ってきたのは事実で、だから厄介であるというのです。ニセの世界の住人であることをやめることは、自分を失うことでもあるからです。ニセの部分を含めて自分である、と。(←「青い山脈」・↓靖国神社)

 「ニセものであることのたのしみが、人生のたのしみではないのか。自分のニセもの性をみずから笑うたのしみが、私たちが開拓することのできるもう一つのたのしみではないのか」というほど、ぼくは達観も楽観もできないし、自分のニセもの性を笑う楽しみが持てるとは、残念ながら思えない、そのおのれの弱さを鍛えたい。もっと弱い人間であるという、その在り方を高めたい。つまり、自分はまた立派なニセものであるという自覚は失いたくないと、改めて敗戦から七十六年目の歩みだしに際して痛感しているのです。「バカだ」ということと、「おれはバカだ」と告白(自白)するのは違う。大いに違うと思います。「バカにしないでよ」と、ぼくはプレイバック(playback」はしないつもりです。

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途方もない無責任の連鎖、今も…

「思わざる失態」を演じるな――終戦の5日後、憲兵隊司令部から各部隊に注意を促す通達がなされた。終戦前日に命じた文書焼却についての念押しで、それが実に微(び)に入(い)り細(さい)をうがっているのがすごい▲引き出しの奥にはりついた文書はないか。棚の奥に落ちたもの、焼却物の焼け残りや周囲への散乱、私物の本へはさんだものはないか……箇(か)条(じょう)書(が)きで点検を求め、なかには「机の動揺止めの為(ため)脚下等に挟みたるもの」まで挙げている▲終戦時の文書焼却は軍だけでなく、内務省、外務省などでも行われ、市町村の書類にも及んだ。内務省の焼却は三日三晩に及び、外務省は8000冊を焼いたという。明治国家は軍人や役人の戦争責任を煙に変えた炎とともに滅んだ▲コロナ禍という世界的試練の中で迎える終戦から75年の節目である。行政文書による記録を義務づける「歴史的緊急事態」に指定されたコロナ対応だが、果たして後日の検証や将来の感染症対策に資する記録がなされているだろうか▲疑うのは、今の政府の公文書管理のでたらめを見てきたからである。さらに振り返れば、外国の文書公開で自国の密約外交を知った日本の「戦後」だった。75年を経ても、日本人はその事績を公文書で検証できる政府を築けないのか▲途方もない無責任の連鎖が引き起こした先の戦争であった。その内外の戦没者の魂を鎮める日、どんな為政者も官吏も、いつか必ず文書で立証される歴史の法廷に立ってもらう民主政治の原則を心に刻みたい。(毎日新聞2020年8月15日 東京朝刊)

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 今年の八月十五日の「余禄」です。内容はまことに仰せの通りで、空恐ろしくなるような退廃の歴史をこの島社会は歩んでいることが如実に判然とします。公文書というものは存在しない、一政府や官庁の一存で消したり変えたりで来る「上書き放題」の私文書遊びをしているようなものです。ぼくは、公文書や統計、あるいは白書や報告書の類いは、情けないのですが、ほとんど信用してこなかった。実に悲しいサガというほかありません。まず疑う、これが身に沁みついてしまいました。もうこの疑念は消しようがないと、ぼくは諦めています。

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 戦死した兄の供物は「ゆずの枝」だけだった。『お国のために働いてこい』と送り出した母の後悔を語り継ぐ「この子が戦いに巻き込まれないように、声を大きくして戦争反対を叫べよ」。長男を出産したとき、母から託された言葉。母は2人の息子を戦争で失った。https://www.huffingtonpost.jp/entry/75th-anniversary-of-the-end-of-world-war-ii_jp_5f31d1afc5b6fc009a5c38a0?utm_hp_ref=jp-homepage
「死んでしまうとしたら、この思いを書いておかなきゃ。戦争のこと、もう誰も知らなくなる」
長野県千曲市の田中頌子(たなか・のぶこ)さん(90歳)は2017年から18年にかけての冬、長い間心の中にしまっていた戦争体験を記録し始めた。
2017年の秋に体調を崩した頌子さん。「もしかしたら冬を越せないかもしれない」。いよいよ死を意識したとき、後世にどうしても伝えたい記憶があった。戦死した兄のこと、そして息子を失った母が人知れず流した涙のこと。「伝えなければ」。20枚の原稿用紙に思いを託した。(同上)
(田中頌子さんご提供)母・とみさん

 「戦争」をどのように体験したか。田中さんのような辛酸をなめた方は無数に居られた。それに対して、国はいかように報いたか。小さいころ、多くの家の玄関の柱に「遺族の家」という札がかかっているのを、不思議なものを見るように見ていたことを、よく覚えています。それがなんであるか、当時はわからなかった。「遺族」という家が何とたくさんあるものかという頓珍漢を犯していたのです。結婚して、かみさんの父が若くして「戦死」したことを知り、小石が入った木箱があったのを記憶しています。何の呪(まじな)いかと訝った。そん時にして、ようやく事情が分かったというくらい、目がよく見えていなかったす。

 「お国のために」という身振りはせねばならぬが、本心・本懐はそんなものじゃなかったという心持をぼくは、今こそ大切にしたいと念願しています。「振り」はよくない。国であれ地方であれ、権力の側はまず信用なりません。おのれ(私一個)の空間・領域をそれらに足蹴にされてたまるかという気概ばかりを膨らませて、ぼくは生きてきたし、生きています。そのせいかどうかしらぬが、まことに歪な人間になった。

 途方もない無責任の連鎖は、戦前戦後を一貫して、一度として途切れることなく連綿と続いています。それはまるで人民を舐めつくすシロアリの「万世一系」のようでもあります。その「シロアリ」を延々と養成してきたのが✖✖だったとしたら、ぼくは死にきれないね。

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古い上衣を着たままで、再生の道?

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『国体の本義』(昭和十二年五月三十一日 文部省)

第一 大日本国体 一、肇国

 大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である。而してこの大義に基づき、一大家族国家として億兆一心聖旨を奉体して、克く忠孝の美徳を発揮する。これ、我が国体の精華とするところである。この国体は、我が国永遠不変の大本であり、国史を貫いて炳として輝いてゐる。而してそれは、国家の発展と共に弥々鞏く、天壌と共に窮るところがない。我等は先づ我が肇国の事事の中に、この大本が如何に生き輝いてゐるかを知らねばならぬ。/我が肇国は、・・・即ち古事記には、/天地(あめつち)の初発(はじめ)の時、高天(たかま)ノ原(はら)に成りませる神の名(みな)は、天之御中主(あめのみなかぬし)ノ神、次に高御産巣日(たかみむすび)ノ神、次に神産巣日(かみむすび)ノ神、この三柱の神はみな独神(ひとりがみ)成りまして、身(みみ)を隠したまひき。/とあり、・・・かゝる語事(かたりごと)、伝承は古来の国家的信念であつて、我が国は、かゝる悠久なるところにその源を発してゐる。(以下中略)/結語  世界文化に対する過去の日本人の態度は、自主的にして而も包容的であつた。我等が世界に貢献することは、たゞ日本人たるの道を弥々発揮することによつてのみなされる。国民は、国家の大本としての不易な国体と、古今に一貫し中外に施して悖らざる皇国の道とによつて、維れ新たなる日本を益々生成発展せしめ、以て弥々天壌無窮の皇運を扶翼し奉らねばならぬ。これ、我等国民の使命である。(以下略)

 はたして歴史的な文献となって倉庫におとなしく収まっているのかどうか。敗戦時にいちばん問題になったのは「国体の護持」でした。その護持されるべき「国体」とは「国体の本義」のなかで涙ぐましいほどに縷説(ウソ八百を並べて)されています。「大日本帝国は、万世一系の天皇皇祖の神勅を奉じて永遠にこれを統治し給ふ。これ、我が万古不易の国体である」と。だれにも文句は言わせない、完全かつ荒唐無稽な神話をでっちあげた「国家」観、これがこの国の麗しい「本義」だというのでした。

 あまりにも古色蒼然、がちがちの「日本主義」に窒息しそうなので、脇道にそれて深呼吸、精進落としをしたくなります。先祖帰りというかなんと言いますか、「朝日社報」は社主(社長)がひたすら叱咤激励、新聞もまた一億一心、「新聞報国に玉砕の決意」と、人民を煽りに煽ったのです。

 昭和二十四(1949)年に発表された(西條八十詞・服部良一曲)「青い山脈」の二番、三番の歌詞を示しておきます。後に映画化。原作は石坂洋二郎さん。新しい時代の到来ともてはやされた流行の先陣を切った感があった歌であり映画でした。

古い上衣(うわぎ)
よ さようなら
さみしい夢よ さようなら
青い山脈 バラ色雲へ
あこがれの
旅の乙女に 鳥も啼(な)
く

雨にぬれてる 焼けあとの
名も無い花も ふり仰ぐ
青い山脈 かがやく嶺(みね)
の
なつかしさ
見れば涙が またにじむ

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 戦前・戦後は一本道でつながっていたのです。そんなことは当たり前だといわれればその通りで、もしそこに決定的な違いがあるとしたら、それは「敗戦に至る戦争」をそれぞれがどのように体験したか、あるいは受け止めたか、そのけじめというか決意のようなものがあるかないか、その違いでした。「古い上衣よさようなら」、と気軽く着替えて心身ともに新たになったという錯覚がほとんどの人に働いたのでしょう。この時期、ぼくはまだ虫けらのような存在でしたから、世の中がいかにして回転・浮遊していったのか、皆目わかりませんでしたし、学校に入ってからはなお混とんとしていました。確かにひもじい思いをいつも持ちながら、貧しい生活に安閑・安穏としていたのは、ぼくにかぎっては事実でした。「反省なら、サルでもする」と言ったり、「反省はするもので、させられるものじゃない」という気が強くしましたし、いまでもそういう心持を維持しているのです。

 物心がついて、一人で出歩くようになってから、気が付くとぼくはこんな歌を口ずさんでいました。じつに頽廃的だといわれもしました。驚くなかれ、まだ就学以前のことだったと思う。この歌のほうに、ぼくははるかに深く動かされました。なぜか、後年になってその理由に納得したのでした。(「星の流れに」清水みのる詞・利根一郎曲・菊池章子歌)(昭和22年(1947年)東横映画「こんな女に誰がした」主題歌)(こんなことは学校では教えてくれなかった)

(一)星の流れに 身をうらなって
   どこをねぐらの 今日の宿
   荒む心で いるのじゃないが
   泣けて涙も かれ果てた
   こんな女に 誰がした
(二)煙草ふかして 口笛ふいて
   あてもない夜の さすらいに
   人は見返る わが身は細る
   町の灯影の わびしさよ
   こんな女に 誰がした
(三)飢えて今頃 妹はどこに 
   一目逢いたい お母さん
   ルージュ哀しや 唇かめば
   闇の夜風も 泣いて吹く
   こんな女に 誰がした

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だれかとつながりあうための力

 余録 言葉の持つ力。それは「傷つけるためではなく…

 言葉の持つ力。それは「傷つけるためではなく、だれかを守り、だれかに伝え、だれかとつながりあうための力」だ−−。今年の本屋大賞を受賞した小説「舟を編む」(三浦しをん作、光文社刊)の一節である。辞書は言葉の海にこぎだす舟、その舟を編むのが辞書づくりだという比喩が美しい▲悲しいかな、私たちが現実に耳にする言葉は、辞書づくりに一生をかける作中人物たちのように温かくはない。相手を責め立てる言葉、だれかとつながりあうための言葉ではなく、だれかを傷つけるための言葉がはんらんしている▲

 大型連休前の問責決議で、田中直紀防衛相の資質を問う国会論戦があった。子どもの世界のいじめにも似た集団での嘲笑に、眉をひそめる国民も多かったのではないか。その職にいかに不適格かを丁寧に説く方が、よほど言葉に重みがあっただろうに▲この国の政治は議論がいつもかみあわない。与党も野党も自分たちの陣地を築き、壁を高くして、互いに言葉を投げつけ合っている。壁の内側は仲間の世界だ。そこでしか通じない言葉を使っていれば、それはいつしか仲間だけを守り、敵を傷つけるための言葉になってしまう▲

 コミュニケーションとは本来、考えを異にする者同士が相手の意見に耳を傾け、それを尊重し、そして自らを高めていくことである。人と人がつながりあうために、言葉は生まれたのだ▲連休明けには問責決議の後始末と消費税の国会審議、そして小沢一郎元代表の処分解除をめぐる民主党内の論議が始まる。言葉のつぶてがむなしく飛び交う政治の光景を、また見せつけられるのはごめんこうむりたい。毎日新聞・12/05/05)

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 教師っていうのはなんだよ、ことばの種をまく人だと思うな(山埜)

  《 孤立した人間がいないのと同様に、孤立した思考(たった一人で考えるということ)もないんです。ものを考えるには、その対象が必要となりますが、さらにことばを交わしあう一人の相手がいなければならないのです。したがって、人間の世界はコミュニケーションの世界となるんですね。つまり、「わたし」と「あなた」と「(その間を媒介する)対象」があって、はじめて「考える」という行為は成り立つということです 》(山埜郷司)

 以下は識字教育に深くかかわった思想家の文章からの引用です。

「ねえ君、君は最初のことばを読み書きできたとき、どんな感じをもった?」

「ことばを話せることがわかって、うれしかったな」と、かれは応えた。

← 出典:総務省「世界の統計 2016」

 ダリオ・サラスDario Salasは、次のように報告している。

 「農民との会話のなかで、私たちは、識字者になることの利益と満足感を表現するために、かれらが使ったイメージに衝撃を受けた。例をあげてみよう。

 『以前おれたちは目が見えなかったが、今では目からうろこが落ちてしまった。』

 『わしは、自分の名前の書き方を習うためだけに来た。この年になっても字を読めるなんて、思いもよらなかった。』

 『これまでは、文字が小さなあやつり人形みたいに見えた。今では、文字がおれに向かって囁きかけ、文字に口を聞かせる事ができる。』

 サラスの報告は続く。

 「ことばの世界が眼前に開けるときの、農民たちの喜びを目にするのは感動的である。ときとしてかれらは、こんなふうに言ったものだ。『疲れすぎて頭痛がする。だけど、読み書きを学ばないで、ここから帰ろうとは思わない。』」

 鳥には翼がある。

 エバはぶどうを見つけた。

 おんどりが鳴く。

 犬が吠える。

 このような細切れの言語・文脈について、その人、パウロ・フレイレは次のようにいいます。

 《(それらは)たしかに言語の文脈である。しかしそれが機械的暗記や反復に堕するとき、その言語文脈は、現実とダイナミックな相互作用する思考―言語としての真の次元を剥奪される。このように思考―言語としての価値を奪われているがゆえに、これらの文章は、真の世界表現たりえないのである》(フレイレ「人間と世界のかかわりのなかで」) 

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 文章が書けて、読める。それだけでも大したものですが、読み書きだけで完了しないのが「ことばの力」です。ぼくたちは、「ことばの力」に負けることもあれば、それに励まされることもあるのです。人間は何から作られているか、と問われたら、ぼくはまちがいなく「ことば」からと答えるでしょう。読み書きだけで用が足りることもありますが、それを越えて、ことばが力をもつことの方が多いのです。ここで「言霊」などという得体のしれない単語を使いたくありません。「傷つけるためではなく、だれかを守り、だれかに伝え、だれかとつながりあうための力」こそが、ことばの真意だという三浦さん。本当にそうだといいたいですね。

 いまはさらに「ことばが軽い」時代になっています。誰彼の語る言葉自体が軽々しいし、ある一定の間尺に合う範囲でしか使われない言葉もまた「せまくるしい」「遊びのない」ものにならざるを得ません。よく「生きたことば」などといわれますが、それはどのような言葉なのでしょうか。メールやSNSなどに固有のことば(記号)があるのでしょう。(ぼくは今風のスマホなどは一切やらないから、事情には疎いのを隠しません。だが、たとえば、cancel culture などという語が通用する社会や時代がどんなに言語に関して貧しく卑しいものになっているかはわかるつもりです。「伝え、つながる」ための力を失い、「傷つける」「貶める」力が猛威を振るうというのはいかにも、言語の世界が破壊されている証拠でもあるでしょう。社会の指導者と目される人が率先して、悪意に満ちた言葉を、まるで弾丸のように乱発する時代や社会に生きるというのは、ことばで出来上がる人間の存在の(破壊の)危機であることは言うまでもありません。

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