学校の中で多数派と多様性を考える

 《 平均値によって語られる全体は、一々のちがいを問うことをせず、問題があっても、それを例外としてしりぞける。ですから、教育の偏差値偏重にしめされるように、平均値ばかりが優先されることになると、一人ひとりがいま、ここにもつ生きかたという具体的な視野が、ずんずん失われてってしまうようになる。平均値にたよってものをかんがえ、一々の事実の語るところのもの、一人ひとりのちがった生きようがになっているものを落っことしてしまえば、平均的には理想的だけれど、ありていは惨憺たるものというようなありようを、みすみす甘受しなければならなくなるでしょう。『一九八四年』の作家オーウェルのいった痛烈な言葉をおもいだすんですが、オーウェルは「正気というのは統計的なものじゃない」といった 》(長田弘「一人ひとりの側から」)

 平均値にたよって物事を判断することがどんなに「惨憺たるもの」か、その事例には事欠かない。「統計をとって、一致してる数のおおいものを多数というふうにとるのは、いかにも目だつし、みやすいけれど、数というのは勘定のしかたで、とてもトリッキ-になる」(同上)ものです。ぼくはどこかで「世論調査」は「世論操作」だといいました。調査する側の操作を言う場合もありますが(そちらの方が多いか)、出された数値そのものが世人に与える影響が「操作性」を持っているともいえるのです。

 たとえば選挙の例を挙げてみます。ある自治体の知事選挙の投票率が30%だったとします。有権者が300万人とすれば、投票した人は90万人。候補者が何人いても、相対的多数を獲得した候補者が当選するわけですから、実に奇妙なことが発生します。一位が10万票だとすると、なんと有権者数の三十分一の得票で知事になる。

 でも、この知事選でもっとも多数を占めたのは棄権した人で、その数は210万人。一位の候補者に投票しなかった人は290万人いたことになります。「多数派がピックアップされてゆく過程で、何を百としての多数派なのかという、もとになる百、もとになる全体というものが、だんだんちいさくなってゆくんですね」(同上)

 これはなにも選挙にかぎらない話です。「多数派」を優先させる社会の落とし穴とみていいですね。数によって示される全体(多数派)の意思というものがますます小さな部分になっているにもかかわらず、それをもって住民や国民の総意とされてしまう。「それはみんなの意見だ」というときの「みんな」は一割だとか五分だいうのは、いかにも奇妙で恐ろしい事態だし、「惨憺たるもの」というほかない。「多数派」を優先すると、見なければならない大切なものを見落としてしまう、そのことの弊害を考える必要がありそうです。

 「いまはすべてをベストテンみたいなしかたで測って括って、数のおおいものに時代の焦点をみようとしがちで、そうしたなかで、社会の全体像がずんずんちいさくされている、あるいはちいさくみせられていることがあるとおもう」(同上)10%が全体である状況を放置しておくと、それはやがて5%になり3%になることは時間の問題で、最後にはたった一人が全体を代表することになりかねない。そんな状況があちこちで見られているのではないですか。

 《 しかし、社会の容量というのは、多数派によってではなく、多様性によって決まる。今はこういう時代なのだと、多数派の言葉で語るベストテンやクローズアップされた情報の側からでなく、一人ひとりの側から、わが身の側から、ものをみていくようにしないと、(中略)われにもあらず、じつはトリッキーなしかたでちいさくされてゆく全体に、足をとられちゃうことになる。多数派が幅をきかせる社会というのは、きまって浮き足だった社会です 》(同上)

 全体主義社会とは圧倒的多数の意向が力をもつような社会のことではないとぼくは思う。社会の全体像がかぎりなく小さくされてしまう状態にある社会のことじゃないか。少数意見が全体の意見にされるような社会だといってもいい。マイノリティとマジョリティなどといわれますが、じつは無力なのはマジョリティの方なんですね。さきほどの選挙の例をもう一度考えてみましょう。10万票が多数派だとみられますが、実際の多数派は290万人の方です。でもその290万人は一つのかたまりじゃない。極論すれば、各人各様ということです。だから、数のかたまりでいえば10万が多数になるだけの話です。

 「それぞれがたがいにちがうということが、わたしたちにとってのたのしいありようなのだという感じかたを、じぶんに失くさないようにしたい」(同上)

 「日本人」というかたまりはどうか。「日本人として、日本人らしく…」というかたまりを強いる教育が横行してきました。このようなときに大切なのはかたまりからぬけでるというか、自分をひきぬくことだと思う。自分はかたまりの一部じゃないという姿勢。どこにでもかたまりはできるし、ひとたびかたまりが生まれ、自分がその一部になると、なんだか自分は強くなったような気になる。みんないっしょ、という相互依存の気持ちが働くのでしょうか。でもよくよく考えてみれば、一枚岩とか一糸乱れずというのはいかにも不自然で、そんなことをあり得ないし、あってはいけないことだとぼくは思います。あるはずのないことをあると信じるのは錯覚であり、錯覚に乗っかると奇怪なことを犯してしまう。徒党を組み、党派に頼るというのは一種の暴力主義だといえます。

 ぼくたちの社会が進めてきた学校教育で、この多数派と多様性というものはどのように受けとめられてきたのか。たいていの教師は口を開けば、個性の尊重という。一人ひとりの個性を伸ばしたいと。教育は個性の尊重につきるとまでいわれることもあります。まことに美しい表現ですね。でも、個性とはなんだろうか、というもっとも素朴でもっとも肝心な事柄にかんしてはおどろくほど無関心というか冷淡なんじゃないですか。多数派(集団)というものでもって多様性(個人)をからめとってきたのが学校教育の歴史の実態だとみるのは極端にすぎますかね。

________________________________________

お互いを育てる場に働く親和力?

 そだてるということは、そだてられるということと、きりはなせない。

  そだてるものみずからがそだてられるということがなければ、そだてるということは、なりたたないのではないか。/ そだてるという行為は、せまく見れば、ふつう家の中でおこなわれている。/ 社会が社会一般として次の世代をそだてることができないから、家という小さな場をとおして次の世代をそだてるというふうに考えられないこともない。そうすると家には、現存の社会をこえる一つのかけが、いつもあるわけだ。

 家というものは、性の欲望によって男女がむすびついてつくるもので、そこに生殖がおこなわれ、生まれた子をそだてることになる。/ いったん家がつくられると、無制限に性の欲望をみたそうとしてゆくことはできない。そういうはだかの欲望をおさえるための秩序が家を保ってゆくためには必要とされ、そこから、近親相姦の禁止などという規範がたてられることになる。/ 秩序が家の中にできるということは、うらがえして考えれば、家の中では、おたがいが殺そうと思えばたやすく殺せる間柄にあるということである。(「世代から世代へ」鶴見俊輔集10『日常生活の思想』所収。筑摩書房刊、1992)

+++++++++++++++++++

 子殺しや親殺しはいつの時代にもありました。でも近年のように、まるで近親関係を成りたたせていた結びつきそのものが壊れてしまった状況は、かつてなかったのではないでしょうか。他人の家に入り込んで殺すより、よほどかんたんに殺人を犯しやすい場所(空間)だからこそ、おたがいに殺さない・殺されないという約束をまもり、それぞれがそだち―そだてられるという関係を長い期間にわっって保ってゆく、それが家というものの原型だったと思われます。

 そんな家の形が壊れてしまって、たがいが助け合ったり、そだてあったりできなくなったのはたしかですが、もしそうだとするなら、その理由はどこにあるのか。家にいると安心というのが相場でした。「安」というのは、家で寛ぐ女性を示しています親子関係だけではなく、二世代三世代にまたがる関係も、また新たな課題を生んでいるのです。親がいたいけな子ども(幼児)を殺す、子どもが親を殺す、こんな事件が後を絶ちません。

 親が子どもの命を守り育てる、それは親の「義務」であり、子どもが健やかに育つのは、子どもの「権利」です。つまるところ、子どもの権利は、保護者が義務として守り育てることがなければ、存在しえないのです。権利と義務は相反するするものでも、別個のものでもありません。権利を保障するものが義務です。義務は権利を認めてはじめて果たされるのです。

 今この島は世界最高の長寿社会を迎えていますが、それははさまざまな新規現象をもたらしています。すべてが肯定できるものだけではないから、この島社会の現実は危機をはらんでいるというのです。あるいは、危機を通り越してしまったのかもしれません。近親者の殺害事件が後を絶たない。昨日のこと、こんな戦慄すべき事件が起こりました。興味本位ではなく、じつに深刻な状況を知らせているようにぼくには思われるのです。祖父が孫を殺害したというのです。(別の報道では、孫娘はある男性と「同居」していたとされます)

 育つ・育てるの関係が「親子関係」「祖父母孫」にまたがっていたといえそうです。核家族(a nuclear family)の変化・変貌、いまおこっているのは核爆発か、核融合か。ぼく自身足元を含めて、けっして予断も油断もできない事態がこれからも続きます。少子高齢化時代のさなかに、その次の家族の姿かたちを考えているのです。

女子高生の遺体が見つかった住宅周辺を調べる捜査員=10日午後4時56分、福井市 

 孫娘殺害疑いで同居祖父逮捕 鋭利な刃物使用か、福井 2020年9月11日 07時21分 (共同通信)

 福井市黒丸城町の2階建て住宅の室内で10日未明、高校2年の冨沢友美さん(16)が死亡しているのが見つかり、福井南署は同日深夜、殺人の疑いで、この家で同居する祖父の無職進容疑者(86)を逮捕した。/ 福井県警によると、進容疑者は9日夜に鋭利な刃物で友美さんを殺害したとみられる。上半身には複数の刺し傷があり、致命傷となったことも判明。進容疑者は友美さんと2人で暮らしており、凶器の特定や動機の解明を進める。県警は認否を明らかにしていない。/ 県警によると、進容疑者は事件後、友美さんの父親に電話で連絡。駆けつけた父親が「娘が倒れていて動かない」と110番した。

++++++++++++++

 鶴見さんの語るところをつづけます。

 「家というものは、いつ家人に殺されてもよいという覚悟に結ばれた場であると言える。そういう場で、体力差のあるもの、知力差のあるもの、関心の差のあるもの、かせぐ力の差のあるものが、たがいに助け合って、共同のくらしをたてている。それが家という、おたがいをそだてる場であり、その場をなりたたせるもとの力として、おたがいにたいしてはたらく親和力がある。性交への衝動が家をつくる最初の力であったとしても、その親和力のほうが、性にたいする欲望や、生殖にたいする欲望よりも、長期にわたって家をなりたたせる力としては大きい」(同上)

  親和力 ― それは自然界にみられるような弱肉強食、競争主義によって営まれる生存競争を回避するための「家」にこそふさわしい、助け合いやいたわり合いの感情といってもいいでしょう。親は子どもの面倒を見るのがあたりまえというのではなく、親が衰えれば子どもが世話をするというのはどこにでもみられました。兄弟姉妹の関係も、けっして長幼の序などに縛られてはいなかったように思われてきます。祖父母―孫関係もしかり。たがいに助け合うという心組み。助け合い、育て合い、支えあう関係、つまりは親和力 ― 血縁だからという必要はない ― それが家のなかから消えてしまったら、それに代ってどんな力がはたらくか。

 「助け合いの気組みが家の中に生じたあとでも、それが保たれるためには、家をとりまくもっと大きい隣り近所、それよりさらに大きい社会の中に助け合いの気分の回流があって、それが家の中にも流れ入ってくるようでないとむずかしい」(同上)

 今は家族は孤立して漂流しているように見えます。どこかに行く当てもなく彷徨っている。船長もいなければ、航海士もいない。船自体は外に向かって閉じられている。救助信号も届かない。極端に聞こえそうですが、まるで絶望の海をひたすら彷徨っているようではないでしょうか。以前は方向を知らせてくれた、その灯台さえもない(見えない)。そのような閉じられた空間から、時に荒れた海に飛び込むように脱出を図る人も出てくる。それを阻止する力も働く。

 学校が競争主義の原理に毒され、教師と子ども、子ども同士のあいだに「そだて、そだてられる」という関係がなりたたなくなったとき、それはまことに殺伐とした空間となってしまったのは明らかです。学校から、ある種の親和力が失われて久しいのですが、それにやや遅れて、いよいよ家のなかからも親和力が奪われてしまった、それが家族を結びつける力としてはたらかなくなったといわなければなりません。

 教育に必要なのは、最も求められるのは「人間の要素」「人間の条件」です。面倒なことは言わないつもりですが、競争を煽り、優劣を競わせる、そんな現実は決して教育における人間の要素たりえないのは言うまでもありません。教師と子ども、子どもと子ども、そのなかにこそ、血中に必要な塩分量のように、人間的要素が求められているのです。血液の中にはさまざまな要素が含まれており、それをさまざまな臓器や器官が働いてバランスを保っている。果たして家の中、学校の中にバランスの良い養分が含まれているだろうか。過酸性、過アルカリ性になっていないだろうか。塩分や中性脂肪は適正量を保っているだろうか。その適正はバランスを保とうとする器械は正常に働いていないようですが、なんとかそれを正常にしたいと、ぼくは遅ればせながら、やきもきしているのです。もう一度、現場に戻るか。

_______________________________________

生きている地球指数は、やがて…

1人当たりの環境フットプリントを示した図。(c)AFP

___________________

野生動物の個体群、46年で平均68%減  WWF 2020年9月10日 18:47 発信地:パリ/フランス [ フランス ヨーロッパ ]
人間の活動は、地球の陸域の75%と海洋の40%に深刻な悪化をもたらした。急速な自然破壊は人間の健康と生活に甚大な影響を及ぼす可能性が高い。
4000種以上の脊椎動物を追跡調査している「生きている地球指数(Living Planet Index)」は、1970年から2016年の間に野生動物種の個体群が平均で68%減少した主な要因は、森林伐採の増加と農業用地の拡大だと警告している。生きている地球レポートは、世界自然保護基金(WWF)の国際事務局であるWWFインターナショナル(WWF International)とロンドン動物学協会(Zoological Society of London)が共同でまとめたもので、隔年発表されており、今回で13回目となる。(以下略)(https://www.afpbb.com/articles/-/3303986?cx_part=latest

++++++++++++++++++

 毎年のように報告されている「絶滅危惧種(レッドリスト)」指定の主体であるWWF。いわば幽霊会員のようなものですが、ぼくはこの NGO のメンバーを相当長く続けています。特に積極的に何かの活動をするわけではありませんが、人間が人間以外の動植物にいかなる悪影響を与えているか、それは避けられないことなのか、よく使われたヒューマニズムというのは「人間中心主義」というべきなのではないかなど、この団体から様々な刺激(驚愕)を受けてきました。その結果、教育や文化といった社会・政治問題を考える際に、大きな視点を与えられてきたとも言えます。

 うんと若いころ、いわゆる「先進国」なみに「途上国」が経済「成長」(実は量的な規模拡大のこと)を遂げようとすると、食料や燃料その他、莫大な量の消費が想定され、遠からず地球資源は枯渇し、環境は破壊されると指摘され、しかし、まだまだ現実味が薄かったことを覚えています。それから数十年、初期の想定どおりに、経済規模の拡張があらゆる地域で進行してきた結果が今ある事態を生んでいるのです。「途上国」(これを後進国と呼んでいた。経済の指標で先進・後進を分けていたのです。まるで学校の点数・成績評価みたい)環境破壊はよろしくないというのは、手前勝手な「勝者(強者)」の理屈だったのです。現在「持続可能な発達」やその「目標」などと勝手放題の「人間中心主義」「経済至上主義」の論議が盛んです。ほとんど、この点においても、ぼくは絶望しています。

 「ここ数年、SDGs(持続可能な開発目標)という言葉をよく見聞きするようになった。いままでどおりの開発の仕方を続ければ、地球環境の悪化や資源の枯渇が限界に達してしまうためだ。衣食住の分野での大量生産とゴミ廃棄。世界中のすべての人が、量の多寡にかかわらず、毎日の生活の中で生み出すそれらのものが大きく影響していると考えられている。(以下略)」(上間常正・https://www.asahi.com/and_w/20190712/711808/)

「日本では毎年、約650万トンの食物と約10億着の服が捨てられているとのこと。そして、その半分は生産や売る側だけではなく、消費する家庭からの廃棄だという。650万トンは、1人当たり毎日140グラム、茶わん1杯分のご飯を捨てていることになる。10億着は新品のまま廃棄されていると推定されている数字で、毎年1人当たり約8着という計算になる。食品について言えば、賞味期限が過ぎれば商品棚や家庭の冷蔵庫から処分されるだろうし、服ならますます速くなっている流行サイクルに遅れたり売れ残ったりした分は、在庫にしておくより廃棄する方が経営的には有利だからだ。」(上間)

 近年は、断捨離などと、いかにも奇天烈な言葉も散見されていますが、すべて、余計なものを余計に所有した結果であります。その傍らで飢えに苦しむたくさんの人々が存在しています。「捨てる」こと自体がまちがった「消費」だったことの証明ですが、それだけではなく、かかる無駄をあらゆるところで生み出した結果が WWF 報告になるのでしょう。ぼくは、年に数回、家庭から出す粗大ごみや缶や瓶類、その他の廃棄物を直接に公営のごみ収集所(焼却場)に運びこんでいます。もちろん、指定された廃棄物ごとの分類をしたうえで、処分場に搬入するのです。周に三回、ゴミ収集日がありますが、それは最低限度排出される「生ごみ」だけを出します。燃えるものは敷地内の焼却場で処理するようにしています。

 長く生きていれば、それだけ無駄や浪費が生じてくることは明らかです。人間の生活の都合が動植物を想像を絶するように絶滅に追い込んでいる状況をどうすればいいのか。

●持続可能な開発目標(SDGs)とは,2001年に策定されたミレニアム開発目標(MDGs)の後継として,2015年9月の国連サミットで採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」にて記載された2030年までに持続可能でよりよい世界を目指す国際目標です。

*************

 経済は「成長」しません。拡大する(拡大させるのは人間)ように「経済」活動したい人間の欲がもたらす、地球資源収奪と環境破壊行為です。それを「経済成長」などといい気な言葉で語らせてきました。その勝手放題をこの先も続けるのか、少子化が進行すれば、おのずから終焉するのか。ぼくには疑問ですが、それもこれも、ぼくたち次第であるということだけは間違いありません。「経済拡大」を延々と続けた国々が、おのれの活動とその結果を省みることがなければ、人類が「絶滅危惧種」から「絶滅種」になるのは確実です。ぼくの机の横の壁に、WWFから届いた写真が何枚も飾られています。何事によらず、「拡大」は狭い場所をさらに狭くします。窮屈で、暑苦しくて、イライラが募ります。やはり「方丈記」だと思う。兼好さんよりも長明さんです、ぼくの好みは。究極の省エネ人生だったからね。

 「生きている地球指数」は、やがては「死んでいる地球指数」に。でもだれが「指数」を計るんですか?

________________________

ありまさん! ありがとう。

(提供:ありまさん ありまさんの漫画の一コマ)
見知らぬ人からの「ブス」が、私を卑屈にした。“呪縛”を乗り越える転機を描いた漫画に反響
高校時代、見知らぬ人から容姿への暴言を受け、自信を失った女性。それ以来他人からの褒め言葉を素直に受け止められなくなったが、あることがきっかけで、褒めてくれる人に「ありがとう」と伝えるようにしたーー。/ イラストレーターの女性が、自身の体験を基に描いた漫画が、SNSで反響を呼んでいる。漫画をTwitterで投稿したところ、2日間で3万件以上の「いいね」がついた。
褒め言葉を喜べるようになって、「幸せが増えて負の感情から解放された」と語る女性。漫画で自身の実体験を伝えようと思ったきっかけは?作者に聞いてみた。/ ある出来事が転機になった。/ ありまさんが尊敬するクリエイターに「大好きです」と伝えた時、相手から「いやいや...自分なんか...〇〇も▽▽もダメだし、全然だよ...」と言われ、衝撃を受けたとう。 「『こんなに素敵なのに、どうして?お世辞じゃないのに』という気持ちと、『自分の愛が届かなかった悲しさ』を感じました。この体験をきっかけに、褒め言葉を全力で否定するという同じ行為を自分もしていること、それによって相手を悲しませているかもしれないということに気づきました」(ありまさん)

他人からの心ない暴言に傷ついた人。自信を失くし、褒められても卑屈になってしまう人。褒め言葉に対して「感謝を伝えられるようになりたい」と願う人...。/ ありまさんの漫画は、そんなあなたに向けられたエールだ。/ 自分を一番苦しめているのは、実は自分かも?/ 漫画は、一度立ち止まってそう問いかけ、自らの「呪縛」から自分を解き放つことも大事だと教えてくれる。(https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5f5886e3c5b62874bc1600d8?utm_hp_ref=jp-homepage)

++++++++++++++++

 同じ言葉であっても、言われ方や言われた人によって、受け止める側にちがった感情が生まれます。「自分は、そこそこかわいい」と自己評価していたのに、見知らぬおっさんに「ブス」と言われて、すっかり自信喪失。(このおっさん、失礼な奴)この類の経験は誰にもあるはずです。だからマニュアル本が後を絶たないのです。「自己評価を高める13の秘策」とか何とか。

 若いころから、「君はどうしてそんなに自信たっぷりなんだ」と、一回りも年上の先輩からも、うんと若い後輩からも言われ続けてきました。自身では自信なんて微塵もなかった、そんな言われ方など、思いもよらなかった。おそらく、ぼくの態度がデカそうに見えたので、周りは誤解というか錯覚というか、ぼくの値打ち(底)を見抜けなかったのです。(底が知れているということ、「そこ」がみえなかった)今でもそうかもしれない。どんなことでも自信なんかなかった、自信を持ちたければ、それなりにやればいいではないか、そんな風に考えてきました。学年で一番?なんやそんなもん。その気になればいつだって、なれるよ、と。一度だってその気にならなかっただけ。ぼくは競走馬じゃないんだと、小さいころから思っていたな。

 「自己肯定感」が高いとか低いとか、あくまでもそれは仮想・仮象に過ぎない。身長165センチの人が、150センチの人と並ぶと、背が高い、となるし、170センチの人と比べれば、低いとなる。これは相対的で、誰が来ようが、自分は165センチなのだ、文句あっか、この考え(態度)をぼくは徹底して維持してきたのです。それが自信家と言われ、生意気とも言われた理由だったようです。逃げも隠れもしない。「目の前の鼻は低いが、ほんとは別のことろにもっと高い鼻をもっている」といっても、だれも信じない、いや嘘つきと言われるのがオチです。鼻なら諦めるけれど、別のものなら、なかなかありのままを出せないということはあるでしょう。ぼくは「素直より、正直だ」という一本槍でした。他人(教師を含む)の評価に一度だって気を許したことはなかった。低評価なら、こいつ、俺の真価を知らないな。高ければ、何ぞ考えてるんかと疑っていました。自分の程度は自分がもっとも知っている、これ、自信ですか。ー 俺は河原の枯れすすき です。

 「ありのままで」行こうではないですか。人は好き好きで判断するもので、それにふりまわされるのはしんどい。「ありまさん」では「ありません」が、「ありがとう」という言葉が知らずに出てくるまで、言い続けるのがいいですね。とにかく、ありがとう、です。「蟻がとおなら、ミミズは二十歳、蛇は二十五で嫁に行く」といったのはフーテンの寅さんでした。自己肯定というものが何なのか、ぼくにはわかりませんが、年相応にお腹の周りに脂肪がつくように、きっと「自信」もついてくるのでしょう。

 ぼくが私淑していたともいえる、ある高名な文芸評論家は「自信てのは、朝起きてみると軒先まで積もっている雪のようなもんさ。知らないうち(寝てる間)に積もるんだよ」本当にそうですね。豪雨や暴風なんかではなく、知らないうちに、年年歳歳、自信が積もる、雪のように」それは「亀の甲より年の巧(劫)」などともいうものでしょう。人生は、終わりのない修行です。クイズじゃない。お腹の周りに就くのは自信よりも脂肪の方だという時代もありました。いまだって、自信なんかありません、何事においても。

 ずいぶん昔の話を今思い出しました。亡くなられた宮城まり子さんが語られていた話です。彼女が主宰していた学園に就職した若い女性職員が、しばらくしてから退職したいと言い出した。その理由を宮城さんは聞いたら、「今の仕事に自信がなくなったからです」といったそうです。宮城さんは強く叱ったそうです。「自信があって就職したのですか、その自信がなくなったからやめるんですね。いかにも仕事を舐めているではないか」という趣旨でした。この手の人間がたくさんいそうですね。最初から自信がある人なんかいるものか。

 これも蛇足として加えておきます。誰に聞いたのだったか、忘れましたが。プロ野球の若い選手が「スランプ」で悩んでいたそうです。それを聞いたある元野球人が言った。「王や長島じゃあるまいし、生意気なことを言うな、スランプだなんて」それなりのレベルに達していて、初めて「スランプ」がやってくる(襲う)というんですね。ことほど左様に、熟するというのは並大抵ではないという話。自分の足りないところを見失なわないで、コツコツと単打主義で修行するほかないのじゃないですか。欠点があってこそ、自分なんじゃないですか。「ありがとう!」

_________________________________

食い逃げよりも、悪辣千万です

2018年3月、財務省が公表した森友学園への国有地売却を巡る決裁文書改ざんの調査結果。改ざん前の文書には安倍首相の妻昭恵氏に関する記述もあった

 変えて隠して疑惑逃れ…モリカケ桜の記録はどこへ<安倍政権 緊急検証連載>(東京新聞・2020年9月3日)

 2018年3月、財務省が公表した森友学園への国有地売却を巡る決裁文書改ざんの調査結果。改ざん前の文書には安倍首相の妻昭恵氏に関する記述もあった

 辞任を表明した8月28日の会見で、安倍晋三首相は7年8カ月の在任中に残したレガシー(遺産)を問われ、こう答えた。/「国民の皆さん、歴史が判断していくのかと思う」/ ちょうどテレビで会見を見ていた三宅弘弁護士は、この発言に首をかしげた。「だったら安倍政権は、これまで国民が判断できるだけの記録を残してきたのだろうか」。頭をよぎったのは、官僚による忖度や「お友達優遇」と指摘された数々の私物化の疑惑だった。

◆森友、加計…変えたり隠したり

 三宅氏は2018年まで政府の公文書管理委員会の委員を務めた。隠蔽、改ざん、廃棄ー。安倍政権下でずさんな公文書の運用に直面してきた。/ 例えば、首相の妻の昭恵氏が名誉校長に就いていた森友学園への国有地売却問題。17年に格安の払い下げの事実が明るみに出ると、財務省は「保存期間1年未満」を理由に取引の交渉記録を「廃棄した」と述べ、事実確認を拒んだ。決裁文書については、首相が「私や妻が関係していれば首相も議員も辞める」と答弁した直後、昭恵氏に関する記述などを削る改ざんが行われていた。

◆都合が悪いと「怪文書」

 首相の知人が理事長を務める加か計け学園の獣医学部新設では、「総理の意向」との内部文書が報じられると、菅すが義よし偉ひで官房長官は「怪文書」と強弁。政府側は国会で「記憶にない」「記録はない」と繰り返した。/ モリカケ疑惑を受け、政府は17年12月、公文書管理のガイドライン(指針)を改正した。

◆抜け穴、例外、あいまい基準

 改正は当初、公文書管理委が手掛ける想定だった。ところが財務省にヒアリングを始める直前、首相直下の内閣官房から改正の原案が委員会に示される。突然の政府の方針変更に委員たちは驚いた。/ 原案は、文書の保存期間を「原則1年以上」と定めながら、抜け穴も用意していた。日程表など軽微な文書は「1年未満」との例外を設け、何を軽微とするかは各省庁の判断に委ねられた。委員からは、1年未満の扱いを助長しないか懸念を抱く声もあった。(以下略)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/52815)

===============================

 これは悪事のほんの一例。これで総理大臣も議員も辞めなければならないと、宣ったのはご本人だった。議員の質問で「疑惑をかけられたが、ただじゃ置かない」という意味のセリフを吐いていました。盗人猛々しい、とはこのこと。公文書改竄にかかわったのは「末端の」役人、命じたのは本庁の幹部、そいつを動かしたのは「空気」だということになっている。その空気を吸った幹部たちは軒並みに「階級上昇」(出世というらしい)でした。挙句には一人の官僚が遺書を残して亡くなられた。検察も裁判所も「空気」は裁けないというらしい。「空気殺人事件」です。この空気は「忖度の気」とも言います。

 これまでも言ってきたように、ぼくは政治にほとんど関心のない人間です。今でもそうです。しかし、だれがみても明らかな疑わしい挙措や態度、それも人を侮辱したら、嘘をホントと言いくるめるような「虚飾の言辞」に出会えば、何か反応します。しないほうがどうかしている。嘘をつきとおし、いよいよ通らなくなると、自作自演で「病気を理由」に辞任会見。それも嘘くさい。「政治不信」というのは符丁かなんかのように考えているらしいが、嘘を白昼堂々と吐く輩が国会にいること自体が「政治家不信」を生んでいるのです。

 政治に関心はないが、「人間」や「人情」には大いに関心があります。水が低いところから高いところに向かって流れたり、木の葉が沈んで石が浮かぶような、あり得ない状況を看過できないのが小人の所以です。ところが、法を無視し、倫理を笑いものにしきった屑政治家が、辞めたとなったとたんに、まるで英雄か君子になったかのような持ち上げ方には、死ぬほどの怒りがこみ上げてきます。抑制するのに困難を極めています。(やはり「世論操作」でしたね。それで誰が得をするのかしら)

 これを「泥棒に追い銭」というのです。もとを糺せば、ただの人間、その限りでは何も他者と変わらない。でも位人臣を極めると、ただの人間ではなくなったつもりになって、政治「専制」とやらをやられるから、衆生はこの上ない迷惑を被るのです。後とを目された御仁も同じ穴の狢。「共同正犯」でした。「たたき上げ」とは何のことですか。(悪いとはいわないが、どこにでもいる「上昇志向者(アリビスト)」というだけじゃないですかね。

 「セナで泣いてる 唐獅子牡丹」「義理が廃れれば こ世は闇だ」 太陽は西から出てくるに違いありません。

_________________________________________

何のための政治か、危機が問う

ベラルーシの反政権派幹部マリア・コレスニコワ氏(2020年7月14日撮影)。(c)Sergei GAPON / AF
【9月9日 AFP】ウクライナとの国境地帯でベラルーシ当局に身柄を拘束された反政権派幹部マリア・コレスニコワ(Maria Kolesnikova)氏について、同行していた側近らは8日、ベラルーシ当局が国外退去の強制を試みたことを明らかにした。コレスニコワ氏は退去を避けるため自身のパスポート(旅券)を破り、車の窓から外へ脱出したという。
 コレスニコワ氏は、先月の大統領選に出馬した主要野党候補スベトラーナ・チハノフスカヤ(Svetlana Tikhanovskaya)氏の選挙活動で大きな役割を果たした人物で、選挙後はアレクサンドル・ルカシェンコ(Alexander Lukashenko)政権に反対する大規模な抗議デモでも発言。だが7日に行方が分からなくなり、首都ミンスクの路上で車に押し込まれ連れ去られたとの目撃証言が出ていた。(以下略)(https://www.afpbb.com/articles/-/3303599?cx_part=top_latest)

************************

 世界の至るところで「独裁政権」が猛威を振るっています。時を同じくしての現象には何か大きな理由・背景があるに違いない。ベラルーシはぼくには懐かしい土地ですが、ここでも名うての独裁者(「欧州最後の」とされる)・ルカシェンコ大統領が君臨、長期にわたる悪政を敷いてます。過日実施された大統領選の結果に反対する運動がおこり、その弾圧が強行されるなかで、さまざまな事件が明るみに出されています。(左はルカシェンコ氏、上はチハノフスカヤ候補者)

 このような事態はいつまで続くのか。南北アメリカ、欧州、中東、アフリカと、至るところに独裁政治と反対派の衝突の導火線が敷かれている。この島はどうか。外交の✖✖と自虐ネタをまいていた御仁が辞意表明、ドナルドと好一対、ウラジミールと蜜月、ジョンウンとは馬が合わず(相手にされず)、文政権には反発され、とさんざんな身勝手「外寇・外構」ぶりで、この先どうなるのか、一人の人民としても安閑としておれない。武力や暴力が最少になるための「努力」を政治は担っているのだが。内政・外交に妙案はないし、当たり前の公正な「政治」が希求されている。

_________________________