弘法は筆を選ばず、どこでも学べる

 森のようちえんの「小学校版」が開校 設立者の思いとは

 子どもたち自身で考えることが尊重される学校が、9月7日に開校した。一般社団法人「MORIWARA」が運営する、森のようちえん「森のわらべ多治見園」(通称・森わら)の小学生対象の学校部門「大地組スクール」である。

 森のようちえんは森や里山を教室とする自然育児を実践していることで知られる。園舎を持たないため国の決める幼稚園や保育園の範疇には含まれず、昨年10月からスタートした無償化の対象からも外されている。その代わり、国の規制に縛られず、「人間らしく生きる」ことを主眼にした育児が実現されている(活動の幅を広げるため、この9月にフットサルパーク施設の一部を賃貸して「園舎」としても活用)。

 2009年に森わらを起ち上げたのは、現在も園長を務める浅井智子さんだ。なぜ今度は学校部門をつくったのか、彼女が語る。

「自然のなかで自由に育って卒園した子たちが、小学校に入ると苦しそうな表情をしているのが、ずっと気になっていたんです。既存の学校では何でも決められてしまって、それに子どもたちは従うしかない。窮屈でしかたないけど、ほかに選択肢がない。その選択肢を広げようと、思い切って起ち上げました」

 スタート準備のオンライン授業を経て、月2回のフィールドワークも行い、そこには10人ほどが集まっていた。そして週4回の本格開校となったのだが、残ったのは1年生と2年生の女の子、3年生の男の子の合計3人だけとなった。

「母親か父親のどちらかが反対だったようです。理由はいろいろあると思います。公立学校なら無料ですが、ここでは月3万円の月謝が必要になることが大きかったのではないでしょうか」と、浅井さん。続ける。

「森わらの方針を理解してはもらっているんです。それでも親としては、普通の学校に適応してもらいたいとも思うんですね。だから大地組スクールを起ち上げて選択肢を示し、そうした親の気持ちを揺さぶりたいとも考えました」

 大地組スクールでは、その日にやることは自分たちで考える。考え、行動し、そして結果を受け入れるのが大地組スクールでの学びだからだ。たとえば先日は、昼食を自分たちでつくった。

「1人300円の予算で、何をつくるかとなって話し合いをし、ラーメンに決まりました。1人が『キャベツと豚肉を炒めたのを乗せると旨い』と提案し、それもやることになったんです。買い出しから調理まで、話し合いながら自分たちでやりました。私もびっくりするくらい美味しくできました。もちろん、子どもたちも満足していました」と、浅井さん。

 普通の学校でやるような勉強もする。ただし強制的にやらせるのではなく、子どもたちの自発性にまかされている。/「放っておいても子どもたちは学びたいと思うものです。思ったら、学習の方法はいくらでもあるし、自発的にやったほうが身につきます」(浅井さん)

 ただし、大地組スクールは学校として認められているわけではない。子どもたちは、通学しないが地元の公立小学校に在籍はしており、そこを卒業することになる。認可されていないインターナショナルに通う日本人の子どもたちが、籍だけおいている日本の小学校を“卒業”するのと同じだ。

「スタートしたばかりで大地組スクールを選択しようかどうか迷っている子どもと親はいます。それでも、確実に変わってきていることも事実です。9月にスタートして、来年の入学を前提に、すでに2組の家族が見学にきてくれました」/ 既存の学校が失っている価値観を必要としている子どもも親も確実に存在している。それに応える学校も生まれてきている。 ◆取材・文/前屋毅(フリージャーナリスト)(http://www.morinowarabe.org/)

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 子どもは「遊びの天才」だなどと言われます。弘法は筆を選ばず、お大師さんは図抜けた能書家と言われるほどの方でしたから、筆に関していい悪いは言わなかった。さすれば、子どもも遊びの達人ですから、小弘法と言えます。何があるとかないとか、条件などは付けない。ゲーム機なんか目じゃないさ。遊び(工夫すること)は学びでもあるのですから、子どもは「学びの天才」でもあるということです。学べるところはどこであれ、なんであれ、それが学び舎(学校)です。ある時期、ぼくの学校は呑み屋(👈)(この学び舎には何十年も通いました)だったし、誰かさんのは競馬場だったと言うわけです。ここに紹介したくなった「森わら」はまだ卵状態ですし、この先どうなるか、ぼくにはわかりません。でも岐阜の山の中というのは、東京の新宿や渋谷より、子どもにとってはよほどいい環境です。あるいは親たち(大人)にとってもいいところでしょう。(創立百何十年もいいけど、瞬間において学ぶ機会が生み出される学び舎もまたのぞましいね)

 どうなれば成功か、学校として公認されていないじゃないか、といろいろと注文があるのでしょうけれども、要するに子どもたちが学び、成長する、それにつれて親(大人)も成長する、それができれば「成功している」といっていいでしょう。形や規則じゃない、中味(実態)があれば、それが教育なんだというのです。ぼくはささやかな一人の応援団員として、この先、「森わら」を遠くから眺めていきたいと考えています。まだ「飛ぶ教室」とはいきませんが、でもいずれは?動く教室や歩く教室、あるいは走る教室はいたるところに出現しているのかもしれません。

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昔も今も、大学は出たけれど、だね

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 落語にしろ浪曲にしろ、ぼくは小学校の低学年頃から、毎日のようにラジオにかじりついて聞いていました。たしかに娯楽の少ない時代でもありましたし、寝る前の楽しみはラジオでした。今では歴史の彼方に消えてしまったような、多くの人々の悲喜交々、喜怒哀楽、あるいは勧善懲悪、そういったものは落語や浪曲、あるいは歌謡曲にきっちりと語られつくしていたと思います。今でも、それぞれの分野の名人の名前と話や歌をはっきりと思い出すことができるほどに、ぼくの老衰著しい脳髄にさえ、ある感情を伴って残されています。(右下は講談師・神田香織さん)

 今は性差を見えなくする(が見えなくなる)時代というのか、落語家にも浪曲師にも女性が多く輩出しています。ぼくはなぜだか、めったに聞かないのですが。やはり、この芸能の世界もまた「男社会」であった証拠でしょう。昨日の「余録」に玉川奈々福さんのことが出ていました。この人もいまだ聞いたこともないのですが、ぜひ、近いうちに聞いてみたいなと、思わず気分が乗ってきたのです。その昔はたくさんの女性浪曲師がいましたし、ぼくも一人前によく聞いたものですが、今ではラジオですら聞く機会がなくなりました。落語に講談、女性の進出(というのか)は好ましいものですが、多くが新作ものなので、ぼくにはまだその味がわからないと、正直に言っておきます。(古典もはじめは新作でした)

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 かつて「長者番付」と呼ばれる高額納税者リストの注目された時代があった。戦後初の発表は1947年。芸能人部門には浪曲師が並んだ▲明治初期に生まれた浪曲は戦意高揚の波にのって人気を博し、43年には浪曲師約3000人。落語家が今、900人弱であることを思うと浪曲盛況のほどがうかがえる▲その隆盛も今や昔。浪曲師は約80人にまで減少した。ただ、気を吐く若手や女性は少なくない。玉川奈々福(たまがわななふく)さんもその一人。80年代後半に上智大学で国文学を学び、卒業して筑摩書房の編集者となる。井上ひさしたちと交流する中、自分に語れるものがないことに気付く▲それを探して日本浪曲協会に三味線教室の門をたたいたのが94年。その後、浪曲師となり、退社までの20年間、二足のわらじを履いていた。スタジオジブリ・アニメの浪曲化にも挑戦し、2年前には欧州、中央アジアで公演した。「MTK(もっと玉川奈々福を関西に呼ぶ会)」というファンクラブもある▲そんな彼女が今、挑むのは空手家、岡本秀樹の生涯である。70年に単身シリアに渡り、ゼロから空手を指導。2009年に亡くなるまでに中東・アフリカ地域の空手人口を約200万人に育てた。破天荒を貫いた彼の評伝にあったある言葉に奈々福さんはしびれた。「非常識の中に可能性を探す方が楽しいじゃないですか」▲24日の新作披露に向けアラビア語や空手の指導も受けた。常識を離れて可能性を模索する奈々福さん。その姿に岡本を見る思いがする。(毎日新聞・2020/9/20)

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 「自分に語れるものがないことに気付く」とあります。だれだってきづくかというと、けっしてそうではないし、まして大学を出たからなおさら、自らの足りない部分を自覚するのが困難な場合がほとんどでしょう。けっして彼女が特別の存在なのではなく、多くが同じ条件を抱えていながら(男であれ女であれ)、職を辞して方向転換を図ることが決断できないで生きているというのが実際なのではないでしょうか。ぼくもそうでした。「ここで」と踏ん切りがつけられないままに、惰性に任せてここまで生きながらえたというばかりです。だからこそ、奈々福さんのような例に出会うと、ぼくは惹かれるんです。

 ずいぶん昔の話ですが、宮大工の棟梁のところに近所のかみさんがきて、「棟梁、うちの息子はバカ(勉強ができない)ですから、弟子にしてください」と言われた。それを聞いた棟梁は「バカで大工ができるか、何もできないなら、大学へでも行って、卒業したら、会社にはいって頭をすぼめて生きていろ」と言い返したそうです。今も昔も、何をしていいかわからないから「大学へ行く」というのが大半じゃないでしょうか。「大学は出たけれど」は不況時だけのことではなさそうです。大学は方向指示器なんですか。いや人間振り分け機なんですね。

 ぼくは詳細は知っているとはいえませんが、この島社会の大学生は大体そんなもんじゃないですか。「やることを見つけるために」大学へ行く。行くと見つかるんですかと、問いたい。(何を隠そう、ぼく自身もそんな、やわな一人でした)そうこうするうちにどこでもいいから(とは言わないが)、ちょっとばかり体裁のよさそうな会社に入るんでしょうな。それが悪いわけではありません。奈々福さんのような、生き方の模索から、何かをつかもうとする人もいる、これもまた一つの「生き方の流儀」なのでしょう。「大学をでたにもかかわらず」、やりなおしの流儀です。

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寛大なる、利己的でない尊い感情

 コミュニケーションが不足するというのは、悪いことばかりではありません。脳細胞を刺激してくれる。例えばということで、次のミスコミだか、ディスコミをどう読まれますか。行き違いがあってこその付き合いでもあります。「理解する」というのは「誤解する」行為の蓄積の結果です。

■ラブストーリーは  最近のお気に入りドラマは、若い男女3人の恋愛模様を描いた「シェアハウスの恋人」だ。母(68)に「このドラマ、面白くてすごく笑えるよ」と話すと、後日、母が言った。「『ケアハウスの恋人』見たよ。面白かった」 (岡山県倉敷市・それじゃ、老いらくの恋・40歳)(「いわせてもらお」朝日新聞・13/04/06)

■自虐ネタ  5歳のめいっ子の保育園は、誰がお迎えに来るか、毎日保育園の連絡ノートに書かなければいけない。「明日は仕事で遅くなるからお迎え頼むわ」という妹(29)に、母(60)は「ほんなら、連絡帳に『おバカ祖母』って書いといて」と答えた。「そんなん書いてもウケへんと思うで」と私が言うと、2人とも不思議そうな顔。そうか、「叔母(つまり私)か祖母」ね! (兵庫県三田市・お迎えは『おバカ叔母』に・32歳)(同上・13.03.16)

 なんのために歴史を学ぶのか(これは何度か引用した文章のようにも思えますが、あえて何度でも)

 《人間の不幸の大部分が天災地変でなく、あるいは何人かの悪い考え、また誤った考えから出ていることは、宗教家でなくてもこれを認めることができる。しかもその誤れる考えはもちろんのこと、いわゆる悪い考えというものでも、さらに今一つ根本に遡(さかのぼ)って見ると、あるいは境遇でありまた行き掛りであった。つまりこれを免(まぬが)れる方法が発見せられぬ間の考えなし、智慧なしまたは物知らずの結果であったことが、しずかに外に立って観察する者には、そう大した骨折りなしに、推論することができるのである。この原因の発見と理解から、ついで起るところの感情は、憎悪ではなくしておそらくは人を憐れむ心、世を憂える心であろうと思う。

 自分らは多くの日本の青年が、この大切なる中学教育の期間に、一度でもこのような寛大なる、利己的でない尊い感情を練習するの機会を得ずして学校を終え、突然として実施の職業生活に出立(しゅったつ)し、茫々(ぼうぼう)たる浮き世の荒波に揉(も)まれてしまう傾きあることを惜しむ者である。大は国全体のためまた世界のために、小は家庭郷党のために、これはまったく淋しいことであると思う》(柳田国男(「無学と社会悪」)

 この文章は1924年6月、栃木中学校での講演「歴史は何の為に学ぶ」をもとに編まれた「旅行と歴史」という一文にまとめられ、28年4月に『青年と学問』という書名で出版。(現在も岩波文庫で読めます)ここで柳田さんは二十歳前の青年たちを前にして「歴史は何の為に学ぶ」とつよく問うている。多くの人(教師も生徒も)には「たんに治乱興亡の迹(あと)を知って、のちの誡(いましめ)とするという風に教えられた」あるいは上級学校の受験科目だから、ひたすら年代や事項を暗記することが「歴史を学ぶ」理由となっていたのではなかったか。

 愛国心などというものは、このような学習からはまず生まれてこないし、さらにいえば(もう滅んだと油断してはならない)(変質してしまいましたが)、「新しい歴史教科書を作る会」の教科書で学んでも生まれる気づかいはない。「国を愛せよ」という、当の教師自身が「国」というものについてなにを知っているというのか。これは「新しい歴史」教科書を作ろうとしている人びとだって同じですね。「自分にとって、国とは?」(2016年だったかの調査 ⇒)

 《それを自分はこう考えておればよいかと思う。我々がどうしても知らなければならぬ人間の生活、それを本当に理解して行く手段として、人が通ってきた途(みち)を元へ元へと辿(たど)って尋ねるために、この学問は我々に入用なのである。苦いにせよ甘いにせよ、こんな生活になってきたわけが何かあるはずだ。それを知る手段は歴史よりほかにない。つまり現在の日本の社会が、すべて歴史の産物であるゆえに、歴史は我々にとって学ばねばならぬ学科である》(同上)

 すべて「学問は歴史にきわまり候」といったのは荻生徂徠(おぎゅう・そらい)(1666・1728)でした。その意味するところは深くて広いですね。歴史というのは、経験されたことです。自分であれ他人であれ、すでに経験されたことを、ぼくたちは学ぶ、それはなぜか。理由はいろいろでしょう。でも学ぶことには意味があるのです。ある人を知るとは、その人がどのように生きてきたか(どんな考えで、どんなことをしてきたか)を知ることです。これは人でも集団(家、村、町、国)でも同じことです。学ぶというのは、自分流を発見するためです。

 そして、歴史の学び方は多様です。いろいろな学び方をとおして自分流に歴史を知る、それがひとりひとりがかしこくなるということですね。大学入試や卒業条件に英検を課す、道徳を教科にする、あるいは…、公然として、どこかのだれかが策略を練っています。そんなことを企む人々は断じて「かしこくない」と思う。自分たちの意向で他人をいかようにも動かせるという浅知恵は筋の悪い政治屋の仕業だといっておくだけではたりない。「国民錬成」などという悪夢は二度と見たくないものですが、いつそれが現になるかもしれないのです。

 なんのための教育かと問われたら、ぼくはまた柳田さんの文章を紹介するほかありません。一世紀前の青年たちもまた、心許なく、社会に出されていたのです。

 人の悲しみを悲しみ、喜びを喜ぶという当たり前の感情を犠牲にしてまで「得ようとしたもの」はなんだったか。「自分らは多くの日本の青年が、この大切なる中学教育の期間に、一度でもこのような寛大なる、利己的でない尊い感情を練習するの機会を得ずして学校を終え、突然として実施の職業生活に出立(しゅったつ)し、茫々(ぼうぼう)たる浮き世の荒波に揉(も)まれてしまう傾きあることを惜しむ者である。大は国全体のためまた世界のために、小は家庭郷党のために、これはまったく淋しいことであると思う」

 身につまされる。世のため他人のために役にたつ、これがささやかな人間のささやかな幸福であると、ぼくは柳田さんから感化され、今もそうだと考えている。他人より優れていたい、他人に負けたくないというのも人生なら、「憎悪ではなくしておそらくは人を憐れむ心、世を憂える心」をもって生きるのもまた人生です。ぼくがことさらに「かしこい」というのは、このような尊い感情を持てる人の心根を指して言います。そのように「かしこく」ありたい。

 柳田さんにならって、「寛大なる、利己的でない尊い感情を練習するの機会」それこそが、学校という競争場と化してしまった修羅場に自分を失わないための教育(教室)の実現を願う理由です。一人の教室、あるいは移動する教室、それはたった「一冊の本」ばもたらしてくれるものです。

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マスク?あなたはどう思いましたか

 正平調 そのフランス詩には、今日の感覚からして多分に差別的な言辞が含まれている。-アフリカで生まれた彼は黒人だった、〈人が名を問ふと/有難(ありがと)うと答へた〉(フランシス・ピカビア「黒奴(くろんぼ)」、堀口大学訳)◆人の名前にはこの世に生を受けた祝福と、親が子を思うありったけの愛情がつまっている。彼は名を聞かれ、なぜ「ありがとう」と答えたか。それまでどう呼ばれてきたか。詩の一節から想像しうることは多い◆女子テニスの全米オープンで優勝した大坂なおみ選手がマスクで問うたものに思いを巡らす。決勝まで7枚のマスクを用意し、警官に撃たれるなどして亡くなった黒人の名前を1人ずつ入れた◆決勝時のマスクは「タミル・ライス」君、12歳の少年である。おもちゃの銃で遊んでいたところを警官に射殺された。4回戦では高校生の「トレイボン・マーティン」さん。コンビニの帰り、自警団に撃たれた◆「返事をなさい」とわが子の名を叫び続けた親があり、泣き崩れてその名を呼んだ友もいたことだろう。マスクの意味をインタビューで聞かれ、大坂さんは逆に問い返している。あなたはどう思いましたか-と◆肌の色を問わず、誰もが等しく一つだけの命を授かって生まれてきたのはなぜか。あなたはどう思う?(神戸新聞・2020・9・19)

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 全米テニスにおける大坂なおみさんの「マスク」は話題になりました。「人種差別」に対する決然とした抗議(彼女はそれを「人権問題だ」といった)に多くの差にが示されたが、一方では反対派もいた。いわく「スポーツに政治を持ち込むな」と。それはどうか、ぼくは奇怪な主張だと思います。「スポーツは政治ではない」がスポーツを行う「人間は政治的であるほかない存在」です。五輪にも政治問題が絡むというより、まったく政治そのものであるといえるのではありませんか。商業主義は行きつくところまで行き、その上を政治が言っていると、ぼくには思われるのです。

 ぼくがなおみさんに大きくひかれたのは、「テニス選手の前に、私は黒人女性です」という自身の根拠から主張し、講義ではなく「人権問題です」と断言したことにあります。いろいろな思惑があるなかで、「言わねばならぬ事」を彼女は言った(彼女の場合は「しなければならない事をした」)という点に、ぼくは敬意を表しているのです。それに加えて、もう一場面のことを期しておかなければなりません。「全米」の前の試合で、準決勝をかけた試合を彼女は放棄(棄権)(彼女は「試合に出ない」といった)したことです。勝負の前にしなければならないことがあるということだった。これに対しても批判がありました。多くはスポンサーについてでしたが、彼女は意に介さなかったとも思われる振舞いを取りました。「当たり前」に生きることは、時には波乱を呼びます。「当たり前」と思わない人々が世には多くいるという意味です。でも「正しさ」や「誠実」派けっして多数決なんかではないのです。

(蛇足 これは日本語だけなのかもしれないのですが「女子選手権」「男子決勝」などと「当たり前」に使用しています。大いに違和感がある。「女子プロレス」というけれど「男子プロレス」と言わないのはなぜですか。と、些細なことのようですが、男社会の名残りだか、名残り惜しさだかが「滓(かす)」のように残存しています)

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●フランシス ピカビア(英語表記)Francis Picabia 1879.1.22 – 1953.12.3 フランスの画家,詩人。パリ生まれ。最初は後期印象派の風景画家として評価されていたが、1909年からキュビズムに参加し、’11年には「セクション・ドール」創立に加わった。’13年代欧米を行き来し、ダダイスムの重要な推進者として活躍、のちにシュルレアリスムに移った。’45年からはまた抽象の世界に戻った。詩作は「言語なき思考」(’19年)、「詩選」(’45年)などがある。作品は「セビリャの行列」(’12年)、「ウドニー」「皮肉な機械」連作(’13年)などが代表にあげられる。(20世紀西洋人名事典の解説)

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至るところに学び舎は存在するのさ

インドの連邦政府直轄地ジャム・カシミールの山上で、青空教室に参加する子どもの手を消毒する教師(2020年7月27日撮影)。(c)Tauseef MUSTAFA / AFP
アンデス山脈のペルー・コナビリの丘の上で遠隔授業を受ける子どもらと、サポートする母親(2020年7月24日撮影)。(c)Carlos MAMANI / AFP
教師に宿題を手渡す子ども(中央)。教師のアーサー・カブラルさん(右)は、インターネットにアクセスできず遠隔授業に参加できない子どもに、自転車で教材を運んでいる。ブラジル・ペルナンブコ州で(2020年7月25日撮影)。(c)Leo Malafaia / AFP

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 コロナ禍の現在、世界各地では多様な教育(学習)の機会を求めるための模索が続いています。学校はどこにでもある、そんな学校(学ぶ場)がいま求められているのです。もっとも肝心なことは、自分の脚で立つように、自分の意欲で学ぶということ。それこそが教育の核心ではないですか。一人で何かをするには助けが必要です。それが教師であったり親であったりするのですが、何よりも学ぶ姿勢を一人の子どもがしっかりと持つ、育てるということです。学ぶ場所はどこにでもある、そこが学校というものです。上に掲げた三枚の写真は、緊急避難状況の特別な学習形態であると、ぼくには思えない。その昔、ぼくたちの先人たちが培っていた成長のあかしでもあるように思います。自然の世界に囲まれて、その恩恵も恐怖や危険もすべて身を持って体験したところから、かけがえのない学習(見習い・聞き覚えから始まる学習)を重ねていったのです。そこで学んだ事柄の最も大切な核心は「注意する(pay attention)」だった。この幾分かを「自然児として」ぼくも経験しました。 

 ものを買うには店に出向かなければならないという時代は長く続きました。でも店はいたるところにできるという状況が各地で生まれています。移動販売、それは今に始まったことではなく、そんなセコイ商売は儲けが薄いからと捨てられていたわけでした。金権亡者の大手コンビニやスーパーまでもが移動してくるのです。学習教室も同様です。コンクリートの冷たい教室に子どもたちは出向かなければ学べないなんて、それは真っ赤な嘘です。だいいち、それはまことに不自由です。いまに至って、このような儲け主義や点取り競争から離脱せざるを得ない・離脱しようとしている多くの人々がいます。生活(消費や学習を含む)の変化が人々の価値観をきっと変えるに違いありません。ものを学ぶという喜びを、ぼくたちはもう一度取り戻そうとしているのです。それは生きる喜びの探求でもあるはずです。

http://sanno-gakusha.or.jp/ ☝

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流行は容易に中止せず、勢ひ益猖獗

 社説 桐生悠々を偲んで 「西班牙風」と言論の自由  (東京新聞・2020年9月10日 07時13分)

 今年、私たちの暮らしを一変させた新型コロナウイルスの感染拡大。「抵抗の新聞人」として知られる桐生悠々(きりゅうゆうゆう)が筆を執っていた約百年前も「西班牙風」(スペイン風邪)が猛威を振るいました。

 桐生悠々は、本紙を発行する中日新聞社の前身の一つ「新愛知新聞」や長野県の「信濃毎日新聞」などで編集、論説の総責任者である主筆を務めた言論人です。明治から大正、戦前期の昭和まで、藩閥政治家や官僚、軍部の横暴を痛烈に批判し続けました。

◆感染拡大で一部休刊に

 スペイン風邪が日本を襲ったのは、第一次世界大戦中の一九一八(大正七)年。内務省統計は日本で約二千三百万人が罹(かか)り、死者約三十八万人と報告しています。/ 大戦末期のシベリア出兵は国内で米価暴騰を引き起こし、七月には集団による抗議行動「米騒動」が始まります。当時の寺内正毅(まさたけ)内閣は政府の無策を新聞に責任転嫁し、騒動の報道を禁じました。/ これに激しく反発したのが新愛知主筆だった悠々です。社説「新聞紙の食糧攻め 起(た)てよ全国の新聞紙!」の筆を執り、内閣打倒、言論擁護運動の先頭に立ちます。

 批判はやがて全国に広がり、九月には寺内内閣が総辞職に追い込まれます。後を継いだのは初の本格的な政党内閣、爵位を持たない「平民宰相」の原敬(はらたかし)でした。/ スペイン風邪の日本での本格的な流行は、この政変とほぼ並行して八月に始まり、第一波のピークを十一月に迎えます。/ この間、新愛知社内でも多くの感染者が出ました。十月下旬に連日、紙面に載った「緊急社告」は新聞製作や編集に携わる社員に多くの感染者が出たため、一部紙面の発行停止を告げています。

 悠々はこの時期、コラム「緩急車(かんきゅうしゃ)」に「西班牙風(スペインかぜ)と米国風(べいこくかぜ)」と題してこう書きます。

◆新聞紙法の圧力と戦う

 「欧州大陸の一端に発源した西班牙風は、戦争の終結を見込んで、今や世界の到(いた)る処(ところ)に其(その)猛威を逞(たくま)しうし、終(つい)に其(その)名を世界風(せかいかぜ)と改むるに至つた」「世界風は実に恐ろしい。政府は直(ただち)に防疫官を各流行地に派遣して、其情況(そのじょうきょう)を視察せしむると同時に、適当なる防疫方法を講ぜしめた。小学校は全部休校して、世界風の感染を防ぎつゝある。而(しか)も其(その)流行は容易に中止せず、勢ひ益猖獗(ますますしょうけつ)(猛威を振るう状態)である」(新字体に、以下同)

 悠々の関心はスペイン風邪の猛威に加え、米国の民主主義にもあったようです。それはコラムのタイトルからもうかがえます。/ 第一次大戦を機に、ロシアでは社会主義革命が起き、ドイツでも帝政が終わり、共和制に移行しつつありました。日本でも社会運動が高まっていた当時です。/ 世界を席巻しつつある民主主義の流れに「抵抗するは愚」としつつ「これを日本的に修正しなければならぬ」と指摘します。立憲君主制の日本に、共和制を敷く米国の民主主義をそのまま導入するのは難しいと考えたのでしょう。

 悠々は当時、言論統制の圧力を高める当局と戦ってもいました。/ 後に、悠々は信濃毎日時代の三三(昭和八)年、「関東防空大演習を嗤(わら)ふ」と題する論説で信毎を追われますが、新愛知時代にも当局から数々の圧力がありました。/ 大阪朝日新聞の幹部の多くを退社に追い込んだ言論弾圧「白虹(はっこう)事件」も寺内内閣当時のことです。/ 当局が言論取り締まりの根拠としたのが〇九(明治四十二)年に施行された新聞紙法です。

 新愛知は、原首相への政権交代を機に、紙面で「新聞紙法改正の要望 憲政最終の基礎は言論である」として、刑事被告人の擁護や白虹事件に適用された安寧秩序を乱す罪の撤廃を求めるキャンペーンを展開します。/ 「立憲政治は輿論(よろん)政治である。言論政治である」「立憲治下に於(おい)て、輿論若(もし)くは言論を反射し、指導するものは議会と新聞紙であらねばならぬ。議会と新聞紙に現はるゝ言論が官僚の為(ため)に圧迫さるゝのは、取りも直さず憲政其物(そのもの)の破産である」「最も親しく国民に接しつゝある新聞紙に此(この)種の言論の自由を与へないのは…実に不備極まる制度と云(い)はねばならぬ」

◆立憲主義働かず戦争に

 悠々らの訴えむなしく、自由な言論は封じられ、日本は戦争への道を突き進みます。新聞紙法が廃止されたのは戦後でした。/ 言論の自由が封じられ、国民が憲法を通じて権力を律する立憲主義が機能しなければどんな結末になるか、歴史が証明しています。

 きょうは四一(昭和十六)年に亡くなった悠々を偲(しの)ぶ命日です。/ 安倍晋三首相の後継が決まりつつありますが、どんな政権ができようとも、言論の自由のためには戦わねばなりません。悠々の生きざまは、言論や報道に携わる私たちに、その覚悟を問うています。

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 新内閣(どこが?)が発足し、高い高感度(支持率)で人民は祝杯を挙げ、祝福しているそうです。多くのマスコミが言うのですから、眉にたんと唾つけて、といきたいところです。逢ったこともない人間に、「信頼できるから」「人柄がよさそうだから」と胡麻を擂るのはマスコミか人民か。つまらないから書きたくないが、情報によると、ニューPMは毎月大手マスコミと膝を囲んでだか、抱き合ってだか、食事会なるものを開いてきたという。「ぼくは何でも読んでいるから」というのが決まり(脅し)文句(セリフ)だったとか。まるで「東条」の現代版です。

 権力者の「人物像」なるものを、これでもかと迎合しなければと、読者・視聴者お気に入り用に捏造し、ますます近づきたいというスケベ根性を丸出しにして提灯記事をかく。それをタイマイの金を払って、人民は購読する。消費税増税に際して、再販価格維持を主張して、価格転嫁を阻止するというお家芸を発揮したばかり。大マスコミは国有地を不当な値引きで手に入れて立派な本社屋を所有しているという、まるで不動産屋顔負けの商売をしたけれど、それについては頬かむりを決め込んでいます。「森友」は大新聞社並みのことをさせられただけ。

 百年前の桐生悠々を出して、東京新聞は何を語ろうとしたのか。それは言わないでもわかっているでしょう。個々の記者は「悠々」足らんとしているということを知らしめたいのさ、とはあり得ない話です。もちろん、ここに引いたのは他の新聞社の記事よりも「弊社の記事は権力に阿らない」という気骨を、ぼくは感じないではないからで、他社は語るに落ちるという次第です。こう言っても、この新聞記事にも、何せ浮世の付き合いは粗末にはできない、という卑屈さも見え隠れしているのです。この新聞社の女性記者が新総理になる前の官房長官に、蝮の如く「噛みついて」いました。あれをなんとかしろという「圧」かかったとかかからなかったとか。

 権力者と膝附合わせ、膝を交えて、毎月会食に及ぶというのは、如何にも腐っています。腐ってもマスコミか。マスコミは「第四の権力」というが、まさかマジで四列目に位置する権力(者)だとでも自認しているのかね。マスコミ(新聞)の風上にも置けない、とはこのこと*。

 悠々を偲んでいるだけでは、話にもならぬ。記事にするのではなく、何であれ、新聞人として悠々から奪うものがあるはずです。それを肝に銘じて、記事を書いてください。その昔の、しがない一人の読者として切に願っています。

(《風上に悪臭を発するものがあれば風下では臭くて困るところから》性質や行動の卑劣な者をののしっていう言葉。仲間としてはとうてい扱えぬほど卑劣だ。「男の―◦ないやつ」)(デジタル大辞泉)(左は長い休業が湯づく議事堂)

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