行々てたふれ伏すとも萩の原

 凡語:ハギの秋

 秋分の日も過ぎて、朝夕はめっきり涼しくなった。コオロギやスズムシの音が秋の深まりを感じさせる季節である▼長浜市の神照寺でハギが見ごろと聞き、4連休の最終日に訪ねた。境内には、足利尊氏が弟の直義と和解のために訪れた際に植えたとも伝わる約1500株、2千本。多くが紅白の花をつけ、かれんな姿を見せている▼秋の七草の筆頭に掲げられるハギは日本人に古くから愛されてきた花だ。万葉集では160種類以上の植物が歌われているが、その中で最も多く詠まれ、当時人気のあったウメをもしのぐ▼植物学者の湯浅浩史さんによると、詠み人の名が不明な歌の方が多く、上流階級より庶民に好まれたとみられるという。秋の花見の対象でもあったそうだから、よほど日本人の感性に合う植物なのだろう▼寺の人から気になる話を聞いた。近年は葉が小さく緑も薄くなりがちで、いまひとつ見栄えがよくないと。他のハギ名所でもしばしば同様の傾向があるらしく、夏の猛暑と雨が少ないためではないかという。万葉一といわれる花も、気候変動と無縁でいられないということか▼<萩の風止まりし蜂を飛ばしけり>阿部みどり女。台風12号は東寄りに進路を変え、きょう関東沖を進むとみられる。穏やかな秋であってほしいと願うばかりだ。(京都新聞:2020/9/24)

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白露もこぼさぬ萩のうねりかな 芭蕉「栞集」
一家に遊女もねたり萩と月 芭蕉「奥の細道」
行々てたふれ伏すとも萩の原 曽良「奥の細道」

  萩(ハギ)はとてもも好きな草花です。小さいころは、身の回りのどこにでも群生していたし、可憐な花が呼び掛けているような風情が心地よかった。これまでに住んだ家にもいつも植えていました。現在の拙宅にも何本か植えてあるが、「江戸小紋」とかいう洒落た名がついています。今夏の異様な暑さでほとんど草刈を怠っていたせいで、名も知らない草に埋もれている始末ですが、健気に、それでも息づいています。やがて白や赤の花をつけることでしょう。草刈正雄にならなければ。

 東京に住んでいたころは、面倒を厭わず、しばしば向島の百花園(都立)に通いました。折々の花々に出会うためということにしておきます。(時には黒髪の華もいましたよ)なかでもハギのトンネルが見事だったという記憶があります。何かの折に車でその前を通ることもありますが、すこしも情趣がわかなくなったのどうしてですかね。こちらの水分が蒸発しきって、すっかり心身共に干乾びたせいであるかもしれません。でも、車の洪水から一歩中に入ると別乾坤です。いまでも鈴虫を泣(鳴)かせているのか。虫籠に入れて、草むらに置かれていました。そればかりは、いかにも無粋でした。駅のスピーカーから流れる「鳥の声」のようで、心ない仕業だと苦々しく思ったことでした。向島はぼくの散歩道で、「墨東奇譚」の世界。

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● 本園は、江戸時代文化2年(1805)頃、佐原鞠塢(きくう)という粋人が、向島の寺島村で元旗本、多賀氏の屋敷跡約3000坪を購入し、当時鞠塢と親交の深かった一流の文人墨客の協力を得、梅を多く植えたことから、「新梅屋敷」として創設したのが始まりとされています。/ 往時は、江戸中に百花園の名が知れ渡り、多くの庶民の行楽地として賑わいました。なかでも、弘化2年(1845)には、12代将軍家慶の梅見の御成りがあり、明治になると皇室関係をはじめ、多くの著名人が来遊した記録が残っています。(以下略)(東京都墨田区の歴史 向島百花園HPより)

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3割バッターになれるよう心がけて

 中曽根から菅まで…政治をチクリと34年 本紙政治マンガ・佐藤正明さんが日本漫画家協会賞大賞(2020年9月19日 05時55分)

 日本漫画家協会(里中満智子理事長)は18日、第49回日本漫画家協会賞の大賞(カーツーン部門)に、本紙朝刊で連載中の佐藤正明さん(71)の「風刺漫画/政治漫画」を選んだと発表した。若々しい批評精神や新しい情報の吸収力などが評価された。
 同賞(コミック部門)は、みなもと太郎さんの「風雲児たち」(リイド社)。賞金は各50万円。また特別賞は、漫画同人誌即売会のコミックマーケットを主催する「コミックマーケット準備会」(賞金20万円)。文部科学大臣賞は、昨年死去したモンキー・パンチさんの「ルパン三世」が、圧倒的な存在感のキャラクターで、アニメ界にも大きな影響を与えたとして受賞が決まった。贈賞式は今後、関係者のみで行う。
◆「縁のない賞だと…選考会の日忘れてた」
 日本漫画家協会賞の受賞が決まった佐藤正明さんは名古屋市内の事務所で取材に応じ、「私には縁のない賞だと思っていて、選考会の日取りすら忘れていたほど。受賞の実感がありません」と語り、マスクの下に笑みを浮かべた。(三品信)
 1949年、名古屋市生まれ。南山大卒業後、デザインプロダクション勤務などを経てフリーに。1コマ、4コマなどで競うコンテスト「中日マンガ大賞」の大賞や「読売国際漫画大賞」金賞などを受賞した。(以下略)(https://www.tokyo-np.co.jp/article/56443?rct=bunka)

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 新聞を購読しなくなって、弱ったな、困ったなという悩みがいくつかあります。第一に(というわけではありませぬが)、連載漫画が読めなくなったことです。往時は、各新聞では名うての漫画家、新たな書き手たちが覇を競っていましたから。何新聞のだれさんのと、今でもそれをよく思い出したりします。佐藤正明さんは、たまーにネットで探し当てて読むという程度ですが、なかなか辛辣でもあるし、きわどくもあるしで、ときたまですが、大いに感心しているのです。

 佐藤さんいわく「「良い作品が描ければ楽しいのですが、まだまだ納得のいかないことが多いのが現実。『3割バッター』になれるよう心がけていますが、それには達していません」と謙遜する。」(同上記事より)いかにも真面目なんですよ。(右の「youtube」など、いかにも佐藤さんの性格が出ているように思えます)

 岡本一平氏や近藤日出三さん、清水崑さんに加藤芳朗さんなどなど、たった一コマで「政治」を切り取って(切り捨てて、か)いました。武器は鋭利な刃物だったり鈍刀だったり、という感じだった。まるでそれは「切り裂き魔」か「撲殺」のようでしたね。その他数えられないほどの方々がいました。横山ブラザーズさんしかり、当時の若手も…。洋の東西を問わず、漫画家が風刺したり批判したりしない政治家はまともではないというほどのものだったといえます。風刺・批判というけれど、それは有名税でもあるのでしょうか。漫画になる、漫画にしてみたいという政治家がいなくなったのは、われわれ庶民の大きな不幸でもあります。「漫画政治」は「政治漫画」にはならないんでしょうね。嘘つきは絵にならぬ。不人情あるいは非人情もまた、絵のネタにはふさわしくありませんね。

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建国二百五十年を前に、苦悩と混沌

事件から半年以上経った今も、テイラーの死を悼む人は絶えない Bryan Woolston-REUTERS
寝室に踏み込んだ警官3人が黒人女性を撃ち殺しても、誰も殺人罪に問われない不正義
Officer Involved in Breonna Taylor Shooting Not Charged in Her Death 2020年9月24日(木)17時20分 エミリー・チャコール
<公正な裁きを求める市民の声に押され、大陪審は「無謀な危険行為」の容疑での起訴を決定>
救急救命士として働く26歳の黒人女性ブレオナ・テイラーがケンタッキー州ルイビルの自宅アパートで恋人と就寝中、「ノックなし」の家宅捜査を認める令状を持った警官が部屋に踏み込み、恋人と警官の撃ち合いのなかでテイラーが死亡する悲劇が起きたのは今年3月。それから半年余り経った今、家宅捜査に加わった元警官のブレット・ハンキソンは殺人罪ではなく、第1級の「無謀な危険行為」で起訴されることになった。/ アメリカの司法制度では、検察ではなく、一般市民の陪審員で構成される大陪審が、容疑者を刑事訴追するかどうかを審査する。ジェファーソン郡大陪審はハンキンソンを訴追するに足る十分な証拠があるとして、9月23日午後、起訴状を提示した。ただしそれはテイラーを撃ったからではなく、ハンキンソンの撃った弾の何発かが壁を貫通して隣室に達していたからだという。(以下略)(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/09/post-94521.php)

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 テイラー事件から半年が経過しています。その後、全米各地で同様の事件が頻発してきました。この事態をどのようにとらえればいいのか、ぼくにはアメリカが根底において、「黒人差別」を厳存させてきたこと、それがアメリカの文化(というものがあるなら)の根拠になっているというほかないようにさえ思われてきます。どこかで触れましたが、その昔の大統領選挙である候補者が「アメリカから黒人差別がなくなったら、それはアメリカでなくなることだ」という趣旨のことを叫んだことがありました。黒人が大統領になっても事態は少しも変わらないどころか、かえって反動をよんでしまっているのが、現下の信じられない状況だといえます。

 人種差別、女性蔑視を信条とする大統領が選ばれる国だといえば、それまでですが、それに対してかつて見られなかったほどの抗議運動、人権死守のための運動が、これもまた全米で根強く続いています。人権問題も民主主義も「多数決」ではないことをアメリカは示さなければならないし、示すべきであると、遠くにいるぼくは心を寄せながら念じています。(今はアファーマティブアクションの効力さえ疑われています。「公民権法」はどうなってしまったのでしょう。最後は、「良心」「誠実」というものがものをいうのですね。一歩先に進むというのは、未曽有の出来事です。あるいは進退をくりかえしながら、ようやく五ミリしか進まないのか。途方に暮れるような、緩慢きわまりない歩みを人類は続けています。その道はまた、民主主義(democracy)の道でもあるのです。

● アファーマティブアクション(affirmative action)差別や不利益を被ってきたマイノリティーの、職業、教育上の差別撤廃措置。具体的には、入学者数、雇用者数に受け入れ枠や目標値を定めて、白人男性が歴史的に圧倒的多数派を形成してきた領域での、黒人、ヒスパニック、女性などの就学、雇用の機会を保証しようとする。最も典型的なのが裁判所の命令により、生徒を隣接地域へバスで強制的に通学させるバッシングで、公民権法などにより禁じられた後にも根強く残存する差別の除去には、一定の効果を収めた。だが、リバース・ディスクリミネーション(逆差別)につながるとする白人たちの反発、巻き返し(ホワイト・バックラッシュ)は、人種別割当制度の是非、公民権法案の修正などをめぐる差別・逆差別論議を呼び、共和党は機械的な差別解消策はかえって「機会均等」を妨げるとして撤廃を主張。とりわけ黒人に対する優遇措置に逆差別感情を抱く者の割合が年を追って増え、非白人層にまで及んでいる現実を踏まえて、クリントン政権は1995年7月、制度継続と部分的改善の必要性を主張。経済的困窮度の高い人を優先するなど制度の公正な適用を求めると共に、機械的な割当制の撤廃を提唱した。ブッシュ大統領は、ミシガン大学が割当制に基づき、少数者優遇措置で黒人学生などを優先入学させることを、不公正な仕組みで憲法違反だと批判。2003年1月、連邦最高裁判所に意見書を提出した。同最高裁は同年6月、適用や運用の範囲を限定しつつ、措置そのものは合憲と決定を下した。(知恵蔵の解説)

●公民権法(Civil Rights Act )人種・民族,皮膚の色,宗教,あるいは出身国を理由とする差別を終わらせることを意図し,1964年に制定されたアメリカ合衆国の包括的な法律。アメリカの公民権にかかわる,連邦再建(→再建法)以来最も重要な法と位置づけられる。第1編では,社会における少数者や社会的・経済的弱者に対する不公正な登録要件や手続きを排除することにより,平等な投票権を保障している。第2編では公共施設での分離または差別を禁止している。第7編では,労働組合や教育機関における差別,州際通商や連邦政府との商取引を行なう事業者の雇用差別を禁じている。雇用については性差別も規定し,その条項を履行する政府機関として雇用機会均等委員会 EEOCを設立した。このほか,公立学校における差別撤廃を要請し(第4編),公民権委員会 CRCの職務を拡大し(第5編),連邦政府後援事業での資金分配における無差別を保証した(第6編)。1963年にジョン・F.ケネディ大統領が提案,その後任のリンドン・B.ジョンソン大統領の肝いりでより強化された法案が連邦議会上院での歴史に残る長期にわたる審議を経て可決され,1964年7月2日にジョンソン大統領が署名した。黒人との融和に反対する白人団体の反発は強く,抗議行動や黒人への暴力行為も発生した。ただちにこの法律の合憲性が問われたが,試験的訴訟として起こされたハート・オブ・アトランタ・モーテル(ジョージア州アトランタのモーテルの名称)対合衆国裁判(1964)でアメリカ合衆国連邦最高裁判所は合憲判断をくだした。公民権法により,雇用,投票,公共施設の利用における人種差別を防ぐ権限が法執行機関に付与された。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

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友人たちと過ごせる時間はあと…

香港の裁判所に出廷した香港の民主活動家の黄之鋒氏(中央、2020年9月15日撮影)。(c)ISAAC LAWRENCE / AFP

【9月24日 AFP】香港の著名な民主活動家、黄之鋒(ジョシュア・ウォン、Joshua Wong)氏(23)が、2019年の「違法集会」を理由に逮捕された。弁護士が明らかにした。/ 弁護士によると違法集会とされたのは、香港政府が昨年導入したデモ参加者の覆面を禁じる緊急条例に抗議するデモ。黄氏のツイッター(Twitter)への投稿によると、「覆面禁止条例への違反」も逮捕容疑の一つだという。(c)AFP

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 周庭さんにつづいて黄さんの逮捕。これは予想されていたこと。一日前に語っていました。「【9月23日 AFP】香港警察内部に新たに設けられた公安部隊が自分のところにやって来るまで、時間はあとどのくらい残されているのか。香港の著名な民主活動家、黄之鋒(ジョシュア・ウォン、Joshua Wong)氏(23)が、こう考えない日はない。/ 黄氏は、反政府デモを率いたことで身柄を拘束されたことが2度ある。しかし、7月に中国政府が香港への統制を強化した国家安全維持法(国安法)を施行して以来、リスクは大幅に高まった。」「毎晩寝るとき、いつ警察に踏み込まれるだろうということは頭に浮かばない」と言う黄氏。AFPの取材に対し、「どの活動家も考えるのは、自分のプライベートな時間はあとどれほど残されているのかという問題だ」と話した。「国安法の下で中国政府に逮捕されるまで、友人たちと過ごせる時間はあとどのくらいあるのだろう」

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 中国の覇権主義は目に余ります。その強硬な姿勢は何を示しているのか。習近平氏の権力集中の筋道つけに必然的に取らざるを得ない政治的示威行為なのか、それとも他の理由があるのか。ぼくにはよくわからないが、対アメリカでは一歩も引かない姿勢を見ると、世界の新たなリーダーに列するための、危険な綱渡りのようにも思えます。その犠牲として香港の民主派が根こそぎやられているというのかもしれません。

 いまや、「新たな冷戦」と呼び出されています。アメリカと中国、それに加えてロシアもまた「新冷戦」の一角を占める意図がありありと見えます。専制独裁を許す素地が現代世界の政治風土にあるのは否定できません。この先も、さらなる覇権主義が横行する雰囲気があることは間違いなさそうです。

 さて、香港です。ぼくは香港の民主主義体制への土壌は相当程度に進んでいると判断してきましたし、若い人々の中に自らの政治力で香港を「壊されたくない」という防衛の意識は高いとみています。中国政府の一連の強権的な行動は、その象徴である若い指導者をねじ伏せてでも沈黙させたいという、一面では焦りでもあるように見えます。民主化が香港で進めば、本土でも現体制が瓦解するという恐怖心があるはずです。だから古手形でもある「一国二制度」の問題(の終わり)をあえて持ち出してまで、香港や台湾は「内政問題」であると強弁するのでしょう。先行きは不透明ですが、時代に逆行することはあり得ないほど、香港も台湾も開かれていたし、それは今後も続くはず、と期待と願いをこめてぼくは判断するのです。そのとき、この島の政治勢力は中国に対していかなる判断で行動するのか、この方面にもぼくはかすかな期待を持っていることを隠しません。

 24日午後7時過ぎのニュースで、黄氏が「保釈」されたと伝えられました。このような陽動作戦を権力がとる背景には何があるのか。いずれにしても「見せしめ」の逮捕であり、今後はさらに強硬な態度をとることが想定されます。

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回向の主は死者、不正は死者が裁く

あいつぐ異常気象・疫病・飢饉・大地震、そして承久の乱。荒廃する国土をもたらしたのは、正法が廃れ、邪法=専修念仏がはびこる仏教界の混迷である。日蓮は、社会の安穏実現をめざし、具体的な改善策を「勘文」として鎌倉幕府に提出したのが『立正安国論』である。国家主義と結びついてきた問題の書を虚心坦懐に読み、「先ず国家を祈って須らく仏法を立つべし」の真意を探る。 (右書物の記述より ⇒)

 記者の目:上原専禄さんが現代に問うもの=田原由紀雄(専門編集委員)

 ◇生命蔑視の風潮、先駆的に告発

 60年安保闘争では反安保の学者・文化人グループの支柱として活躍したが、突然、姿を消し、75年に亡くなった後3年8カ月もその事実が世間に知られなかった歴史学者、上原専禄(せんろく)さん(1899年生まれ)。その「死者との共生・共闘」という特異な思想が没後35年という歳月を経て注目されている。多数の生死・居所不明高齢者がいることが発覚するなど死者を軽んじる風潮が目につく今日、透徹したまなざしで日本社会の病根を見つめ続けたこの学者に学ぶべきものは少なくないと思う。

 ◇妻の死きっかけ 独創的日蓮解釈

 西洋中世史家の上原さんは学長まで務めた一橋大学を60年に退職。71年親しい編集者以外には行き先を告げずに東京を離れ消息を絶った。翌年に京都府宇治市内に家を建てて長女と2人で隠れ住み、75年10月に76歳でひっそりと逝った。私は三十数年前、駆け出しの宗教記者として東本願寺紛争の取材中に上原さんが同寺の改革運動に共鳴していることを知って、その講演録を読み、強い衝撃を受けた。捜し出して会おうと思ったが果たせなかった。

 京都の日蓮宗の寺の檀家(だんか)に生まれた上原さんが日蓮の遺文や法華経を新しい視点で読み込み、独自の死者観に到達するきっかけは69年に妻利子さんをがんで亡くしたことだ。上原さんは次のように考えた。利子さんの死は医師の怠慢、無責任、患者よりも利益追求を優先する医療などが重なった結果であって、単なる病死ではなく、人為的に、社会的に「殺された」のだ、と。利子さんの死の翌年に行った講演で次のように述べる。

 「今日の日本社会においては、単純素朴な死というものはありえないのではないか。人びとは、正義によわい社会の仕組み、その中に生きる正義によわい人びとの邪心によって殺されていっているんではないのか。それと同時に、その殺す作業に私が参与しているということがありはしないか」

 上原さんは利子さんの死を見つめることを出発点として公害など日本の社会にはびこる「生命の蔑視(べっし)」の現実をえぐり出し、鋭く告発するとともに、死者を欠落させた時代思想を根底から批判していく。

 ◇「死者と共闘」 生者の責任説く

 日蓮宗の場合、一般的にいえば題目を唱え、お経をあげ、回向と呼ばれる営みをすることで、迷っている死者の霊を成仏させることができる、とされているが、上原さんはそうした回向のあり方も否定して「回向の主体は死者」「社会的不正は死者が裁く」「生者は死者と連帯し、共闘し、死者のメディアとなってこの世で審判の実をあげなければならない」という独創的な思想、日蓮解釈を打ち出すに至る。連帯する死者はアウシュビッツの虐殺で亡くなった人々らにも及ぶのである。

 上原さんの死後、宇治の家には長女弘江さんが1人住まいし、05年3月に亡くなるまで父の著作集の編集に打ち込んだ。宇治支局長時代に弘江さんと知り合い、親しい交際のあった滝沢岩雄・元毎日新聞論説委員によると、父娘は生前、宇治の家を「闘う拠点」と呼んでいた。姿を消す前、上原さんは「妻の回向三昧(ざんまい)に生きる」ともらしていたが、著述という形で死者との共闘を続けていたわけだ。そして、弘江さんによる著作集編集も死者との共闘だった。

 最近、上原さんの思想に関心が高まっている。仏教学者の末木文美士(ふみひこ)・国際日本文化研究センター教授は、新著「他者・死者たちの近代」の中で、上原さんの思想を「最も深いところからの近代批判」と高く評価している。ある評論家も対談で上原さんによる歴史学の再構築、死者との連帯に触れていた。

 上原さんが見直される背景には、近代合理主義思想の行き詰まり、さらには生者を優先し、死者を排除する方向で進んできた日本社会の精神的な荒廃が顕著に顕在化してきたことがあると見てよいだろう。「単純素朴な死というものはありえない」というのは極論だが、毎年3万人を超える人が自殺し、父や母の死を隠し、遺体を放置する事件も相次ぐ現代日本の社会状況を予見していたようにも思える。末木教授が指摘するように上原さんの死者論は「時代に先駆けすぎていたために、正当に評価されることなく、埋もれていた」に違いない。(← 千葉天津小湊・誕生寺)

 上原さんは日蓮に帰依したまれな知識人だった。その厳しい生き方はだれにもまねはできない。だが、死者と向き合った真摯(しんし)な姿勢や深い思索はこれからの葬送や現代社会の中での生者と死者の関係を考えていくうえで大きな手がかりになるのではないか。(毎日新聞 2010年10月26日)

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● 上原専禄(1899―1975)歴史学者,思想家。京都に生まれる。東京商科大学一橋大学。1923年−1926年ウィーン大学で厳密な史料批判に基づいた中世史研究を学ぶ。1939年東京商科大教授,1946年一橋大学長となる(1949年まで)。第2次大戦の経験を重く受け止め,歴史教育や歴史学の根本的反省と主体性の確立を訴え,日教組が創設した国民教育研究所などに深くかかわる一方,アジア・アフリカ問題に関心を向けていった。しかし安保闘争後の革新政党や労働組合・知識人のあり方に疑問と失望を抱いてからは全ての公職を辞し,幼少時から親しんでいた日蓮の研究に没頭。妻の死(1969年)後は,死者との共闘を通した新しい世界史認識を追究するようになった。《上原専禄著作集》全28巻がある。(百科事典マイペディアの解説)

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 掲載当時の読み方とはまた異なった思いでこの記事を読んでいます。上原さんはぼくには「懐かしい人」というよりは「強靭な人」という印象が強くありましたし、今なおその感が深い。もちろん、ぼくは西洋中世史の研究をしたことはない。せいぜい興味をそそられた人の書籍を眺める程度で終わっています。偶然ですが、一橋大の後輩である阿部勤也氏などのものを数冊読んだくらいです。上原さんのものも、60年代以降の社会的・政治的発言を記録した評論などが主たる対象でした。しかし、それでも、当時においても古いと思われる教養主義に、ぼくは飢えていたのかもしれません。

 何年もの空白期間があった後、上原さんの死が報道されて驚いたことを記憶しています。日蓮研究というか、あるいは日蓮に帰依していたのか、いずれにしてもその晩年の履歴にぼくは心を打たれたのでした。「記者の目」という記事に遭遇して、改めて上原さんの生きる流儀とでもいうものにぼくは関心を寄せてしまいました。ぼくの貧相な書庫にも上原さんの数冊の書籍が並んでいます。未整理で、足の踏み場もないのですが、近々、掃除を兼ねて彼に再会してみたいと思いながら、この雑文を書いています。「生者必滅(しょうじゃひつめつ)会者定離(えしゃじょうり)」ですね。

 無謀にも日蓮の『立正安国論』を読んだことがあります。それだけの話で、内容はどこかに消えてしまいました。また彼の所縁の地である小湊の誕生寺には何度か赴いたことがあります。近くに鯛の浦という景勝地もあります。交差点が「日蓮交差点」だったか。

 今は日蓮を偲び、上原さんに思いを及ぼそうという魂胆でもないのですが、安房鴨川近くの小湊出身のマスターが経営している寿司屋さんにほぼ毎週通って、しらふ(素面)(酒類なし)で、連れ合い(かみさん)と寿司をいただいています。房総の地は山も海もあって食べ物(山の幸・海の幸)に恵まれています。酒飲みの時代っだら、はたしてどうなっていたろうなどど、不謹慎なことを思いながら、お茶を傍らにおいて肴に舌鼓を打っています。

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私の生きる理由は歌、と言えた人

「悲しみよこんにちは」から(1958年)

 仏大物歌手ジュリエット・グレコさん死去 93歳 2020年9月24日 4:31(AFP) ]

フランス人歌手ジュリエット・グレコさん(1968年12月10日撮影、資料写真)。(c)AFP

【9月24日 AFP】フランスの音楽界で50年以上にわたり活躍した大物歌手ジュリエット・グレコ(Juliette Greco)さんが23日、死去した。93歳だった。家族がAFPに明らかにした。/ 家族はAFPに対し、グレコさんが「心から愛していた自宅で、家族に囲まれ亡くなった」と説明。「彼女の人生は他に類を見ないものだった」とし、脳卒中のため引退した「89歳当時もフランスの歌を輝かせ続けていた」と述べた。/ グレコさんは脳卒中を起こした2016年、一人娘のロランスマリさんを亡くした。今年7月の文化情報誌テレラマ(Telerama)のインタビューでは、歌うことができず「とても寂しく思う。私の生きる理由は歌!」と述べていた。(c)AFP

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● 生後(1926年2月7日生)まもなくパリに移る。母姉がナチスの収容所に送られ、15歳で自活。第二次大戦後、パリのサン・ジェルマン・デ・プレの地下酒場に黒髪、黒づくめの服装で現れ、サルトルら実存主義者たちから“実存主義のミューズ”と騒がれたことがきっかけで1949年シャンソン歌手としてデビュー。哀愁を帯びた詩的な歌で人気を集め、世界最高のシャンソン歌手としてヨーロッパ、アメリカ各地を巡業した。また’61年以来何度も来日し、戦後日本のシャンソン・ブームの火つけ役ともなった。代表作に「パリの空の下」、「私は日曜日が嫌い」(’51年)、「ロマンス」(’52年)ほか。’91年1月7年ぶりにパリのオランピア劇場でリサイタルを開く。’94年1月全曲書き下ろしの新作「黒と赤いリボン」を発表。同年4月、’97年1月リサイタルのため来日。’99年5月歌手としては初めてパリのオデオン座に出演、その様子をCD「オデオン1999」としてリリース。2014年友人の歌手ジャック・ブレルの名曲を埋めつくしたアルバム「ジャック・ブレルを歌う」をリリース。映画は1949年「神々の王国」から出演、以来「オルフェ」(’49年)、「恋多き女」(’56年)、「悲しみよこんにちは」(’57年)、「陽はまた昇る」(’57年)、「自由の大地」(’58年)、「将軍たちの夜」(’66年)などに出演。歌詞に重きを置いた知的なシャンソン歌手として、男性のイヴ・モンタンと並び戦後最大のスターの地位を守り続ける。2009年6月、83歳でパリ公演、11月日本公演を行う。2015〜2016年88歳で「メルシー」と題した引退ツアーを行う。(現代外国人名録2016)

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 訃報は先ほど聞いたばかりでした。いろいろと思い出されてきます。単なるファンでした。大学に入りたての頃、知遇を得たお医者さん(ぼくよりニ十歳年上)からなにかと手ほどきを受けたものですが、シャンソンに関しても彼の自宅兼医院で数えきれないほど聞いたものです(大半はSPレコードでした)。ついにはものにならなかったフランス語も、いわばシャンソンの聞きかじりが発端だったといえます。グレコにもまたしばしば耳を傾けたのですが、この島社会のシャンソン歌手にほとんど興味がわかなかったくらい、ぼくは彼女たちにカブレていたといえます。東京銀座の「銀巴里」にも足を運びましたが、邦家の歌手には動かされませんでした。彼女を入り口にして、ぼくはささやかなフランス(西洋)体験を重ねたことになります。泰西への「入り口」であり、「お茶の間」でもありました。(蛇足 「仏大物歌手」というタイトルは目障りであり、彼女に合っているのかどうか。「大物」の反対は「小物」、どちらかというとぼくは「小物好き」です。事情に通じていないから文句を言うのかもしれません、事実、彼女は「大物」だったのだと思うのですが、その表現は不相応ですね。もっとも「大物」になる前の彼女が好きだったということです)

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