「すべての国民の皆さま」に自分…

菅義偉首相の名刺は1枚1万円、政治家の名刺が転売市場に流出するワケ 9/25(金) 週刊SPA!(画像はメルカリより)菅義偉氏の首相就任をきっかけに、意外なものが高額転売されるようになった。それは「菅氏の名刺」である。/ 日本人の名刺好きは、海外のビジネスパーソンの間では有名だ。本来、名刺というのはただのアドレスカードに過ぎないのだが、日本ではそれが特別な意味を帯びる。政治家の名刺となると尚更だ。従って、菅氏の名刺もネットフリマで高値がついている。(以下略)(https://news.yahoo.co.jp/articles/daa6e6c996e8dc5026b303e230129133d0133989)

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 オークションというものをぼくはしたことがないから、どういう心理で売ったり競ったりするのか知りません。最初、この写真を見て「菅✖✖」が¥15.000かと勘ちがいしました。大変な時代になったもので、なんでもセリにかけるのですから、それだけ買う人がいるというわけです。売買ゲームの時代、素人も玄人も「売ってなんぼ」の時代なのか。数か月前には「マスク」で数百万円も稼いだ御仁がいたという話題があふれていました。盗んだ品物を売りに出す盗人猛々しい輩もいる。消毒液(イソジン)まで宣伝する知事(痴事か)がいるんですから、なにも驚かないですね。

(これも「競売」か)

 でもアッと驚くのは、「すべての国民の 皆さまが輝く日本に。」という売り言葉です。「キャッチ」とも言いますが、どういう意味なのか、ぼくにはよくわからない。だから「買わない」に決まっているさ。「一億総活躍」「すべての女性が輝く社会づくり」なども不真面目・不謹慎そのもの、じつに人民を愚弄しているし、愚弄テスクだね。こういうコピーを、いけシャーシャーと人前に突きだすのは勇気があるのか、それとも人さまを舐め切っているのか。ぼくには覗き趣味ないつもりですけれど、首相官邸は「伏魔殿」になり下がって久しいというほかありません。そこの主はどんなに下品で無知蒙昧であるかを天下に示し続けてきました。

 今の政治や経済(政治家や企業人)に欠けているのは、他人をいささかも尊敬できないという一点です。「自分は偉い」とか「自分は優れている」と他人を見下す習癖が幼少のころからついた人間は、よほどでないかぎりは、この習性は終生、治らないと思います。(へそを曲げて生きてきた人間として、ぼくは「すべての国民の皆さま」に入りたくないし。入れられたくありません)

 誠意のかけらなどと言いますが、誠意に「かけら」なんかありません。あるかないか(有か無か)、それだけです。政治家に何か(例えばモラルなど)を求めるというのは、ないものねだりといいますか、藪蛇と言いますか、つまり、滅茶苦茶、やってはいけないというのでしょう。悲しいけれども、現実ですね。

 ものを右から左に移すだけ、それで商売が成り立つ時代・社会になりました。(この原型は「商事だった」会社でしょう)

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ふるさとは遠きにありて思ふもの

(写真は共同通信)

 初優勝、バンザイ! 正代の故郷・宇土市も興奮 花火20発も彩る 

 初優勝、バンザイ-。大相撲秋場所千秋楽の27日。優勝争い単独首位の関脇正代(28)=本名正代直也、時津風部屋=が歴史的な勝利を決めた瞬間、故郷熊本県宇土市の市民体育館ecowin宇土アリーナのパブリックビューイング会場に地鳴りが響いた。応援グッズを身に着けた後援会メンバーやまわし姿の相撲少年ら200人余りは、県出身力士初の快挙を大喜びした。/ 正代が会場の大画面に姿を現すと、ボルテージも最高潮に。自然と「正代」コールが湧いた。そして行司の軍配が返り、激しく動き回る翔猿に土俵際に追い込まれると、悲鳴が上がった。だが、しぶとく回り込んで難敵を突き落とした瞬間、歓喜に変わった。(熊日新聞・2020/9/27 22:02 )

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 昔(栃若・柏鵬時代)ほど相撲に興奮はしなくなりましたが、時には線香花火のように燃え上がることもあります。このニュースで何がぼくを引き付けたかというと、お国贔屓というか、郷土意識です。熊本は何かとぼくにも縁のある土地柄でしたが、それはともかく、何かにつけ地域対抗意識のような雰囲気が今でも濃厚に残っているのでしょう。「都市対抗」というのはよくないね。村や町は排除されていますから。地方意識の持続化に一役も二役も買っているのは「大相撲」と「N●K」です。まるで「のど自慢大会」のように「地方場所」は盛り上がる。現下のコロナ禍であれば、なおさらにそうなります。閉塞感の打破ですか。加えて熊本地震や豪雨災害で立て続けに打撃を受けてきた熊本だけに、その感が強い。ここは「火の国」といわれます。「火の女」は石川さゆりさんはじめ、たくさん。(熊本の友人は狂喜乱舞しているかもしれない)

 ネットでしか見ませんが、正代は入幕したころから「強くなる」と予感していました。そんなふうに思える力士は数えるほどですが、二か月ごとの本場所で年に六場所、過酷な土俵が続くので怪我人が多発しています。遥かの昔には、「一年を二十日で暮らすよい男」という江戸川柳があったほどに、春秋の二場所、それぞれ十日間ずつの興行でした。また、「無事これ名馬」という格言みたいなものがありますが、「無事これ名力士」というのでしょうか。ともかく、この優勝で熊本が少しでも元気になったとすれば、正代の功績は大大です。地方の時代などというフレーズは、今や絶えて聞かれなくなりましたが、「愛国心」などという人為的なものより、よほど郷土主義は健全だと思います。これが本来の「愛国心」(My Country)の原初・根源じゃないでしょうか。「郷土思い」「古里・故里」への郷愁、それが人を忍耐強くも優しくもするのです。

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つかず離れず四十年、気になる関係

 異化と同化について

 《…福田定良は法政大学に行って林達夫に接するのだけれども、どうしてもあわないんだな。一生懸命勉強して、林達夫の教えたものをいくらか学ぶんだけれども、いまにいたるまでほとんど四十年たっているんですが、どうしても林達夫の歩いた道というか、その学問には納得できないんです。…つまり、自分が同化できない相手というのは、えらいのかもしれないですよ。それにつかず離れず、つまり四十年、気になる相手であったわけですね。しかし、これは自分の学風ではないと、いま自分が五十過ぎて思い定めるわけだけれども、その自覚に達せるのは林達夫の影響なんですよ。そこのあたりにわたしは感心したなあ》(鶴見俊輔座談『学ぶとは何だろうか』)

 ある種の教育(者)には同化を促すよりも異化(反発)をひきおこしてしまうことがあるのでしょう。あんな教師のいうことなんか聞くものかとか、親父の顔を見るのもいやだ、という具合に。これもまた一つの教育です。同化教育とは別種の教育なんですね。ここで問題となるのは、同化教育一辺倒でもいけないし、異化する(反発を招く)教育だけでも駄目なんじゃないかということです。異化・同化両々あいまって、というのがいいのじゃないか。教育というよりは人との交わりの問題だと思うんですけれども、ある時期に強烈な感化・影響を受けて、それが自分の生涯を決めるほどのものだったということがあるでしょ。その反対に、どうにも我慢できないくらいいやな教師に出逢うこともあります。どちらも一回かぎりのものなのかもしれないんです。この関係が持続することはきわめてまれだと思います。ここに教育、ことに学校教育の限界、また救いもがありますね。

 卒業してしまえば、それで終わり。それをこえて関係がつづくということはまずありません。これも考えてみれば不思議な話です。教師と生徒が教室や学校のなかだけに縛られない交流というものがもっとあってもいいし、それがいかにして可能かという道を探ることも、教育の重要な意味なのではないか。このことに関して、鶴見俊輔さんが教師と生徒の一つの関係のありようを話されたとみていい。異化か同化か、それが問題なのではなく、異化と同化をあわせもつ関係というか、異化と同化がまるであざなえるなわのごとくに、からみあいながら相互交渉を重ねていった一つのケースを話されているんです。

(福田定良さんには独特の雰囲気がありました。飄々というか、悠揚迫らずというか。ぼくはほとんどのものを読んだといえるかもしれません。いつでも肩ひじは張っておられなかったように生きた方でした。その師であった林達夫さんにもいろいろと学ぶことができました。ある種の「教養」の瑞々しさといってもいいかもしれません。博学多識、博覧強記とはこんな人の事を言うのだと、若い時に遥か彼方を眺めるように、まじめに読んだことでした)

 これはまことにまれな場合であるかもしれません。一代の碩学、林達夫に接して、しかもその内部にまで入りこむことができなかった、これまた哲学の徒である福田定良。つかず離れず四十年、これくらいの交渉、それも同化一辺倒でもなく、異化作用だけでも続くはずもないのです、 「それはほんとうの意味での交渉があったということ」だと鶴見さんはいわれます。このような交渉の持続が「人間の教育」だといわれるのじゃありませんか。  

 それは学校教育では望むべくもないということになるのでしょうか。教育にも人間的要素があるのだということを願うのなら、これくらいの時間をかけてその成果というものをつむぎだすことが大切じゃないか。教えられつづけて、期限(卒業)がくればお終いというのでは、あまりにもあっけないという気もします。また、だからといってだれかれにも、福田と林のような関係を期待することもできない。では、どうすればいいのかという具体的な問題に直面しますが、鶴見さんの話をもう少し聞いてみましょう。

 《つまり、同化というのは、なんとなく壇の上に立って直線的に教えるでしょう。異化というのは反発してはじき合っちゃうわけだけれども、同化と異化をともにふくむような相互交渉というのか、それはある時間をともにしなければ、なかなかそういう教育効果というのはあらわれないんですよ。どちらが教育するかわからないけれど、ある時間をとおしての成熟ですね》(同上)

 同化と異化を同時に含む関係(つきあい)、あるいは親子の関係に近いかもしれない。ぼくには親父とのつながりにおいて、この微妙な結びつきがわかるように思えます。親子だからできて、他人同士だから不可能であるとは言わない、福田・林関係は特例であるにしても、そのような寄りながら離れながらという、そんな関係は決して稀ではないようにも考えているのです。教え、教えられるという交々の交わりがどうすれば可能か。作為が働くとも思えないし、自然に生まれるというものなのか。いや、はじめはぎこちなかったけれど、時間の経過に応じて、つかず離れずの関係が滋味を帯びてくるのかもしれません。ぼくは、一人の人間と可能な限り長くつきあう、その中に教育というものが生まれてくるのだといい続けてきました。あるいは、そこに生まれるのが「教育である」と。

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●福田定良 1917-2002 昭和後期-平成時代の哲学者。大正6年4月6日生まれ。昭和21年法大教授。徴用労働者として南方戦線に投入された体験記「めもらびりあ―戦争と哲学と私」を23年に発表。45年の学園闘争で大学をやめる。だれもができる哲学を主張,生活者の感覚に根ざした哲学を追求した。平成14年12月11日死去。85歳。東京出身。法大卒。本名は瀬川行有。著作に「民衆と演芸」「仕事の哲学」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

●林達夫 1896-1984 昭和時代の評論家。明治29年11月20日生まれ。昭和4年から岩波書店の「思想」を編集。戦後は中央公論社出版局長などをへて平凡社「世界大百科事典」編集長をつとめる。すぐれた識見とひろい視野をもつ啓蒙(けいもう)家として活躍。31年明大教授。昭和59年4月25日死去。87歳。東京出身。京都帝大卒。著作に「歴史の暮方(くれがた)」「共産主義的人間」など。【格言など】政治くらい,人の善意を翻弄し,実践的勇気を悪用するものはない(「新しき幕明き」) (デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

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「分ける」から「育てる」に逆流

 「いつだったか新聞の家庭欄に載った、とても興味ある投書を読んだことがあります。/ 結婚している女性の投書でしたが、夫はたいへん本が好きである。何かというと、すぐに本を買ってくる。ただ、全然読まない。積んでおくだけなので、家中いまや本だらけだ。夫の買い求めてきた本を、女性は読んだことがない。自分はたくさん本を読むと思うが、読むときは図書館から借りてきて読む。つまり、こういうことです。夫は本を買うが、読まない。自分は本を買わないが、読む。」(長田弘「失いたくない言葉」『読書からはじまる』所収。NHK出版刊、2001)

  「本を読む」と「本を好む」とはちがうというのでしょう。夫は読みもしない本をせっせと買ってくる。妻は買わないけど、図書館から借りてせっせと読む。もっとわかりやすくいえば「本を買う」と「本を読む」とはちがうことなんだという話。本に対するふたりの姿勢のもっともちがうところはどこにあるのでしょう。「活字離れ」や「読書ぎらいの若者」の増大を嘆いてみてもしかたがないわけです。ぼくにも身に覚えがあります。高校卒業まではまともに本を読まなかった。国語の授業のコマ切れ感が身についてしまっていたから、本は五十分読んだら閉じるというけったいな習慣が出来上がっていたのだ。

 目的意識もなく大学に入ったが、本だけは読もうと決めていた。ぼくには「本の世界」は未知の領域だった。文京区本郷に住み、毎晩のように本屋(古本屋も多かった)に通い詰めました。気が付いたら、相当な借金をしていた。これと同じことがレコードに関しても起こっていた。地下鉄の本郷三丁目駅前のレコード屋で毎月のように新しいレコードを買った。ここでも借金がたまりました。何年分かの授業料に匹敵する大きな金額だった。なに、払えなければ、売ればいいやという気分でいた。おかげで、ぼくは自分流の本読み・レコード聴きになっていました。どこかで書いたような気がしますが、この当時、平櫛田中という彫刻(木彫)家は九十歳をはるかに超えていましたが、自宅の裏庭に三十年分の木材を寝かせていたという話を聞いたか読んだかして、たいそう興奮したことを覚えています(右写真)。いまだに、二十年分くらいの未読の本を積んでいます。いや、寝かせてあります。先憂(借金の支払い)後楽(読書の楽しみ)ですね。

 元に戻ります。「読む」と「買う」といいましたが、今日もっぱら勢いのあるのが「買う」という行為。まさに何でも買う。それは所有するということです。一時的であれ永続的であれ、買って所有する、所有するために買うのです。「買う」も行為なら「読む」も行為ですけど、このふたつの行為はあきらかにことなっています。どのようにことなっているか。わかりやすい例になるかどうか、一例をあげてみます。

 ここにトマトを求めるひとがいます。Aさんはスーパーかコンビニかでトマトを買う。それに対して、Bさんはじぶんの家でトマトの苗木を植えて、それからトマトを収穫したいと望んでいる。本をめぐるふたつの行為のちがいは、いうならばこんなところにあるのではないでしょうか。

 十人が同じ本を買う、十人が同じ本を読む。ここまでくれば、「買う」と「読む」のちがいは明らかになりませんか。買うなら、どこで買おうがたいしたちがいはない。それ(本という情報)を所有するのが動機なんだから、十人の行為に差はない、いっしょです。ところが、その本を読むとなると、それぞれの読み方がありますから、いっしょということにはならない。Bさんの読み方とCさんの読解とはちがう。

 長田さんは、先の夫婦の本に対する嗜好のちがいを「生産・製造」と「物流・流通」のちがいに例えています。

 「今日の暮らしをささえている仕組みというのは、大雑把に言えば、モノを生産し、製造する。そして生産され、製造されたモノが物流し、流通していって、日々の土台というべきものをつくっている。その伝で言うと、読書というのは生産・製造に似ています。そして、情報というのは物流・流通に似ています。(中略)/ 簡単に言ってしまえば、読書というのは「育てる」文化なのです。対して、情報というのは本質的に「分ける」文化です。(同上)

 たとえば、コンビニエンス・ストア。それが担っているのは、人びとの日常のかたちをなす「分ける」文化です。コンビニにあるのは、八百屋にあるもの、魚屋にあるものとは違う、すべてできあがったもの、つくられたものです。コンビニに代表されるのは、できあがったもの、つくられたものを分けていく文化のかたちです。コンビニエンスは、もともと便利、便益、便宜という意味の言葉ですが、そうした便利、便益、便宜であるコンビニエンスを、どのようして、どれだけもたらすことができるかということこそ「分ける」文化の眼目です。(長田弘)

 コンビニが感染病さながらに、この小さな島に蔓延してきました。およそ半世紀前に拡張期が始まります。おそらく列島全域には約6万件に届こうかという店舗が林立しています(2018年現在)。長田さんが指摘されるように、そのコンビニにあるのは「すべてできあがったもの、つくられたもの」ばかりです。つまり、材料や原料を買ってきて自分で作る(料理・調理する)のではなく、買ったままで食べられる「中食」文化(?)が猖獗を究めているというのでしょう。自分で食事を作れない、作らない人が満ちあふれている時代、それが「分ける」文化大流行時代の実相です。

 ここまで来ると、どなたもお気づきになるでしょう。

 日本の学校は「教育界のコンビニ」であったというのです。「分ける」文化の魁(さきがけ)であったかも知れません。どんな問題でも自分の頭で考え、自分の言葉で表現する必要性はまったくない。すべて出来合いの「符丁・符号」を教師から、金を払って買う。教師が販売する商品(符丁や符号)は全国一律、いやそこまではいかなくとも、似たようなモノです。セブンイレブン系もあれば、ローソン系もあるし、山崎系もサンクス系もあるというわけです。味や値段に若干のちがいがあっても、ようするに出来合いであるという点ではまったく同じです。面倒な作業はいっさいなし。金さえ出せば、商品は手に入る。それを所有すれば、当座の生活の間に合う、つまり、入試や普段のテストに役に立つかどうか、それが問題なんです。でもそれだけです。コンビニのコンビニたる所以は、保存が利かないということ。その点では食品でも「符丁や符号」(学校で与えられた・買った「情報・知識」)でも事情は同じです。

 社会が「育てる」文化を、もはや手間暇かけて育てられなくなっているのです。「二一世紀になった途端に、いままでずっと技術文明にささえられてきた社会が直面することになったのは、『分ける』文化の未来と可能性とは裏腹の、『育てる』文化の困難と衰退です」(同上)(右の写真は、ある私立校で「コンビニ」が併設された時のものです)

 「育てる」ではなくて「分ける」、これこそが学校の任務だった。でも本家筋のコンビニにも異端者が現れてきました。唯々諾々と命じられたままにはなりたくないという経営者(オーナー)が出現してきたのです。これからは、コンビニ本来の、という意味は、お客主体の、店舗経営がかならず実行されて行くでしょう。もちろん経営者主体でもなければなりません。二十四時間頑張れますか、という愚問がいまさらのように胸に刺さる方面が多いのではないでしょうか。

 ならば、分家筋の学校も「分ける」ではない、「育てる」方向にはっきりと舵を切る必要に迫られてきます(もうとっくの昔に求められていたんですが)。はたして、その道に、いまから行けますか。それとも「分ける」に留まっていますか。

 元来、食料も教養も「自給自足(self-sufficiency)」が相場でした。産業化社会が生み出されてきた結果、専門家とか技術者と言われる階層が求められ、それらが「分ける」社会を作り出したのです。その余波で、「育てる」は脇に追いやられた。だから、元に戻るだけの話です。自給自走で賄えない分、互いに交換すればいいじゃないですか、となる。リスタートです。すでに先を歩いている先行者の後ろ姿も見え隠れしています。ー かうして生きてはゐる木の芽や草の芽や(山頭火)

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自分の弱さを自分に隠さない人に

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 自分は平均点(ふつう)より高いか低いかということに一喜一憂するのはあまり賢明なことではない。「ふつう」とか「平均点」というのは、なにかの実体(物事の姿や中味)を表してはいない。「ないもの」「架空のもの」を基準にして、なにどうすればいいのか。何を求めるのでしょうか。高齢化と言われて、さかんに平均寿命が話題にされますが、それと自分の年齢とはどんな関係にあるのか。平均を超えたからよし、平均以下だからダメといえるのですか。

 他人と比較して、自分は背が高いとか低いとかいう。そもそも高い低いは相対(比較)的なものだから、おなじ「百六十センチ」でも相手によって高くもなり低くもなる。あの人より背が高い、でもこの人より背が低いというように、具体的な相手との比較ならまだしも、コンプレックスの正体は「平均値」「ふつう」「人並み」という抽象(架空)的な観念である場合がほとんどだろう。試験の点数が平均(中心)値より右か左かで幸不幸が定まるという「教え」はどこから生まれたか。だれが流行らせたのか。学校はこの点でも大きな過ちを犯してきたのではなかったか。

 そればかりだとはいえないが、学校という場所は生徒を比較せずにはおかない組織・機構でもあるようだ。だれが上手でだれが下手か、どの生徒ができてどの生徒はだめか。英語がいちばんできるのはだれか。国語は…。成績の差を明らかにするのが目的となってしまったと思われるほどに序列化・分類を好む。(高校生の頃、英語の教師からだったと思いますが「このクラスで、一人で平均点を下げているやつがいる」と褒められたのか、貶されたのか。今に忘れない。「それがなんだよ!」(と、非難された時にも、ぼくは発しましたね)

  背比べはこの社会の伝統なのだろう。自分がどれくらい伸びたかというのは、過去の自分との比較においていわれるもの。だがほとんどの場合、ほんとうは比較できないものを比べるのです。だからというわけではないが、自己防衛するにかぎる。そのためにはたやすく数字。数値などに自分をあずけないように用心する必要があるだろう。数字の中に自分を閉じこめないことだ。他のだれもが自分とちがう、その意味は「自分は他のだれともちがう」ということでもある。たがいがちがうというところから出発しなければ、社会(集団)はゆとりを失い崩れてしまう。楽しくないよ。

 「人並み」になりたいとだれもが望むのは理解できるとしても、「人並みにならなければだめだ」と強制されれば、いったいどうなるか。ものの見方も考え方も人並みというのは滑稽な話で、あってはならない。だれかが正しいというから、自分も正しいとおもう、だれかが美しいというから、自分もそう見えるというのはいかにも危(あぶ)なっかしい。その「だれか」とは、いったいだれのことか。「だれか」に「右に倣え」というけったいな風潮は集団に沁みついている。それを利用すれば、統制しやすいということはあるでしょう。「人並み」「普通」というのは、誰かが作った一種の「仮の土俵」です。そこで相撲を釣らなければならないとは限りません。自分はそれとは異なる足場に立つということが大切じゃないですか。

 他人と比べて「劣る」点がない人間はいない。どのような表現を使うかはともかく、自己を偽るわけでも、虚勢をはるのでもなく、自分の弱さや欠点とされる部分を自分に隠さない。自分は他人を妬む「弱い人間」だという自覚をもてば、その分だけ強くなれるのだと、ぼくは貧しい経験から学んだ。人間の強さとはそういうものだといいたい。弱さを自覚するから強くなれそうなのであり、「弱さから強さに変わる」ということではなさそうです。弱さを隠したままの強さなどは存在しない。 金があるから、素晴らしい学歴だから、人は強くなれるのではありません。問題は、自分という「中味」なんですね。

 自らの「弱さ」を埋めるためになにかを得るのは悪いことではない。でも、それが弱さを克服するたったひとつの方法だとするなら、その道は際限がなくなるにちがいない。世の中でもっとも強いと自他ともに任じている人ほど弱いというのは、よくある例ではないか。大事なのは「弱さ」を自分に隠さないこと。自分の欠陥(欠点)をとらえることは、それだけで立派な「能力」なのだから。いうまでもないのですが、弱さをさらけ出したり、開き直ったりすることを勧めているのではありません。まして「嘘」を「嘘ではない」と言い張る輩は、どこまでも弱い人間なのです。

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「白人至上主義」という毒を飲む

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NBC via Getty Images
レディー・ガガさん=2020年4月6日
アメリカのアーティスト、レディー・ガガさんがビルボードのインタビューに応じ、その中で「Black Lives Matter」運動に関連する自身の意見を話した。
ガガさんは、「この国に生まれた時、私たちは皆『白人至上主義』という毒を飲むのです」と表現し、「私は今、学び、そして、人生で“教えられてきたこと”を脱ぎ捨てる過程にいます」と、自身も価値観を更新しようとしていることを明かした。/「社会正義(Social justice)とは単にリテラシーではありません。それは“生き方”なのです」
「Black lives matter を支持しているか?」/ BLM運動については、下記のように話し、自身の考えを明白にした。
「Black lives matter」を支持しているか? はい、支持しています。
「BLM」はもっと広がると思っているか? そう信じています。
そうなる(BLM運動が広がる)べきだと思うか? そうなるべきです。(2020年09月18日)
(https://www.huffingtonpost.jp/entry/lady-gaga-black-lives-matter_jp_5f641191c5b6480e896c01a3?utm_hp_ref=jp-homepage)

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 彼女はとても重要なことを明確に言い切っています。「この国に生まれた時、私たちは皆『白人至上主義』という毒を飲むのです」と。それはどういうことか。白人はまず「人種差別」を生まれながらに持っているということであり、それに気づくことはまずないという意味でしょう。つまり、「みんながそうしているんだから」「自分も同じことをしているだけ」「同じ空気を吸っている」というのです。「それが差別である」と意識(自覚)されない世界に自分が生きているということになります。自分とは別個の視点がなければどうにもなりません。情けないけど、事情は少しも変わらないままで「差別」の仕方が露骨になってきています。「(黒人差別への)抗議デモ参加者は暴力集団、ファシスト」とならず者呼ばわりを、あろうことかプレジデントがしているし、それを熱狂して支持する多くの白人たちがいるのです。つい最近、「赤狩り」があったばかりの国です。どこまで「狩り」をつづけるのか。

 「飲むのは毒」ですから、吐き出したり、のどに違和感を覚えたりする人がいそうなものですが、「白人」はおおむね、その毒に対して抗体(免疫)があるから、痛痒を感じないのです。「私は今、学び、そして、人生で”教えられてきたこと”を脱ぎ捨てる過程にいます」という彼女の、この自覚というか、自意識はきわめて大事です。自分の中に差別感覚がある、差別意識を持っているという自覚が働かなければ、「人権を尊重しましょう」は、単に「信号を守りましょう」という、ルール順守に堕するのは避けられません。親や教師に言われたから「人権を守る」という問題にすり替えられてしまっている。もちろん、いわれないから「差別する」という理屈です。ここに「判断する力」が働いていません。彼女の意識がどこまで達しているかを、われわれは知るべきです。

 なぜ「白人至上主義」はダメなのか、許されないのか。ちょっとばかり考えても答えは出てきません。ちょっと考えるというのは、まったく考えないということと同じですから、アメリカ社会ではこの問題はつねに存在し続けるのでしょう。黒人が差別されるのは当然だろうよ、とまで言わないが、現状では「仕方がない」「差別される側に非がある」、そう考えている人間が多くいるということの証明です。

 ひるがえって、この島社会ではどうか。事情は同じです。差別や偏見で充満している、そのように感じていたから、無力を省みずに、ぼくは何十年もそのことを訴えても来ました。たいへんに誤解されそうな言い方ですが、「誰も差別しないようになったら、俺一人で差別するよ」と嘯いてもいました。そんな世の中にはなるはずがないということの確信から出た暴言でした。現状はどうですか。コロナ感染者への誹謗や中傷、ネット上での罵詈雑言、セクハラ、パワハラ、DV、虐待等々、裸足で逃げ出したくなるほどに、この狭い島では偏見や差別が蠢いています。Human Lives Matter と叫んで、あれっ、彼や彼女は人間じゃなかったのかと気付く。この頽廃の極北。

 ではどうするか。答えはないとは言い切りませんが、ぼくが絶望しているのは事実です。社会的・政治的には何らかの手段すらない。懸命におのれを磨いて、すこしでも他者に対して、他者であるがゆえに敬意を示す、あるいは尊敬心を以てまじわる、このようにささやかな行為を重ねるしかないように、ぼくには思えてきます。千里の道も一里から。いわば、進退窮まりながらの歩行です。あるいは難行道というのでしょうか。ガガさんの言うとおり、「人生で教えられてきたことを脱ぎ捨てる」ということです。とするなら、なんとも「学校教育は罪作り」ということになりませんか。

 余話です。日本の現行刑法に「人を殺してはいけない」という条項はありません。なぜですか。そんな狂気じみたことを人がするはずはないという人間高徳論からではありません。また条項を設けたところで殺人は必ず起こるのだから、そんな無駄なことはしないでおこうというのでしょうか。ぼくは法の専門家ではありませんからわかりませんが、書いてないからと実行に及んだら、死刑または無期、または懲役何年という可罰主義を取っています。要するに法理論の当然の建前なのでしょう。

 殺人行為は究極の「人権侵害」ですが、殺人事件がなくならないのと同様に「人権侵害」もなくなりはしないでしょう。だから、そうしてはいけないというのではなく、(ここに飛躍があります)すべからく人間として生きている以上は、そういう非(反)人間的な行為を犯さない、まともな感覚を持った人間でありたいという、人間尊重主義が個々人の深部にあるようにぼくは見ています。いまだ自覚されていないかもしれないが、あるとしたい。それは法律を越えた「人間の基礎付け」(Human Conditions)のようなものでではないでしょうか。法治論(主義)ではなく、道徳の問題です。「人生で教えられてきたことを脱ぎ捨てる」ちからは、その人に備わっているに違いないのです。

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