目立たぬように はしゃがぬように

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 この歌をぼくは歌ったことがありません(カラオケはまずやりませんし)。もちろん、英五さんでなんども聞きました。さらには、ちあきなおみさんでは聞き惚れてしまいました。歌詞をよく読んでみると、これがどうして「時代遅れ」なのか、よくわからなくなりますが。いや、ひょっとしたら、世の中は「時代おくれが」トレンドだという阿久悠氏のメッセージだったかと思い当ったりしました。時代おくれの男たちは「一年一度 酔っぱらう」というのですが、これはよくわからない。几帳面なんですか。今日は何月何日(自分の誕生日、あるいはかみさんの)だから、あるいは親の命日だからか、これでは酔えないかも。阿久さんは「下戸」だったかな。

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 話題は激変します。政治の話なのか、議会で扱う問題なのか、よく理解できませんでしたが、こんな記事が出ていました。先月、都内のある区議会でのことでした。

( 自民党の男性区議が、「LだってGだって法律で守られているじゃないか、なんていうような話になったんでは、足立区は滅んでしまう」などと発言。批判が殺到している。)( Huffpost・2020年10月05日)
「性の多様化だとか、LGBTだとか言われて、性の自由を尊重しようという地方自治体があちこちに生まれつつある。私は、人間の生き方ですから、本人の生き方に対して干渉しようとは思いません。LであろうとGであろうと、本人の生き方に干渉しようとは思いませんけれども、考えてください。こんなことはありえないことですけれど、日本人が全部L、日本人が男が全部G。次の世代生まれますか?1人も生まれないんですよ。1000年とか200年じゃない。次の世代を担う子供達が一人も生まれない。本当にこんなことでいいんだろうか」「BとTについては生まれつきのこともありますから、必ずしも言うべきではないかもしれません。でもL、レズ(※)とG、ゲイについてだけは、もしこれが足立区に完全に広がってしまったら、足立区民いなくなっちゃうのは100年とか200年とか先の話じゃない。私たちの子供が1人も生まれないということですから。次の時代、30年から40年後にいなくなっちゃう。」
(※編集部注釈)「レズ」という言葉は、レズビアンの差別的な呼称とされている。「性を尊重する、そのことはわかります。でもこれを学校教育を取り上げた時に、普通の結婚して、普通に子供を産んで、普通に子供を育てることがいかに人間にとって大切なことなのか。子供を産んで子供を育てることは経済的社会的に大変かもしれないが、本当に素晴らしいことなんだ。楽しいことなんだ。そのことを教育の場で子供たちにしっかりと教えないと。LだってGだって法律で守られているじゃないか、なんていうような話になったんでは、足立区は滅んでしまう。そのことをよく考えて、教育の中でその問題をどう取り上げていくのかについてご答弁をいただきたいと思います。」(以下略)

 この議員さんは何を主張されるのか、「足立区は滅んでしまう」から「LGBT」はいけないというのか。でも「本人の生き方に対して干渉しようとは思いません」ともいわれる。「ありえないことですけど」といって「本当にこんなことでいいんだろうか」と嘆きます。当局の答弁はどうでしたか、質問の「核心」はすべてスルーされていました(内容は浅薄振興会でした)。

 問題はここからです。ぼくも「時代おくれ」などとのんきに歌おうと思って、この議員さんの件を出したのではありません。世の中で起こっている多くの問題の中でも、取り違え・勘ちがい・誤解・無理解などなど、いくつもの障害があって、十分に問題の根っこには届かないで無理矢理に扱われていることが少なくない、その典型例としてだしてみました。一時流行した「ジェンダー」などもその典型です。もともとこの島に地生えの現象(文化)だったともいえるのですが。(これに関しては以前に触れましたし、さらに書くつもりです。存在した事実を認めることと、それ(事実)に賛成ということとは別次元の話です)

 この議員さんは「少子化」「無子化」を歎き、「足立区が滅ぶ」のを心配しているのでしょうが、少子化は「LGBT」に起因するのでもなければ、「足立区滅亡論」も「区名変更」が起これば実現します。また「他地域」への移住者が増えれば、「足立区民は少なくなる(ゼロにはならないはず)」でしょう。この方は、むりやり「LGBT」にくっつけて問題を「スリカエ」ているんですね。ある種の職業人に特有の性向です。でも、本音は「LBGTは絶対認めない」というのでしょう。ならば、はっきりと言明する方がいいように思います。本来あってはならないことなんだと、いえば「時代おくれの男」らしいかも。

 それができないから、苦労しているんだね。「不器用だけれど しらけずに」「ねたまぬように あせらぬように」はその通り、でも「目立たぬように はしゃがぬように」とはいきませんでした。「似合わぬことは無理をせず 人の心を見つめつづける」、そんな「時代おくれの男」にはなれなかったかもしれない。でも諦めるのはまだ早い。「時代は君を待って」いてくれるでしょう。(つづく)

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政府の権威が厳密に正当であるためには…

 以下の引用はどこかですでに用いたものです。ぼくの感覚では、何度でもこのソローの姿勢や態度(すなわち「哲学」)から、自分流に学び取りたいと、彼が生きた時代の環境や政治制度とは正反対の過密状況に生きているからこそ、かえってぼくたちが失ったもの、あるいは取り戻す必要のあるのもが明らかに映し出されているのではないか、そんなふうにぼくは考えているのです。ソローが生きていた時代は「呼べば答える近さ」であり、それはぼくたちの歴史にまっすぐにつながっているのです。同じ道を歩いてきたのですから。

《 私はいかなる人とも国家とも争いたいとは思っていません。些細なことにこだわったり、つまらない差別をしたり、隣人たちよりも上位に自分を置きたいとは思っていません。むしろ私は国の法に従う口実を探してさえいると言っていいでしょう。もういつでもそれに従う用意はできているのです。ところが実際はこういう自分に疑問をいだいてしまうのです。(中略)

 しかし、私にとって政府はそれほど重要でもありませんし、政府について将来考えることもほとんどないでしょう。この世界に暮らしていても、私は政府のもとで生きている瞬間はそれほど多くありません。実際、人は思想、幻想、想像の虜にならないかぎり、すなわち存在しないものを長期にわたって存在していると思わないかぎり、愚かな支配者や改革者によって致命的なかたちで干渉されることはありません。(中略)

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●Henry David Thoreau=「アメリカのエッセイスト、思想家。(1817年)7月12日、マサチューセッツ州コンコードに生まれる。ハーバード大学卒業時の演説「商業精神」で、週に1日のみ働き、「あとの6日は愛と魂の安息日として、自然の影響にひたり、自然の崇高な啓示を受けよ」と語り、一生この主旨に沿った生き方を試みようとした。家業の鉛筆製造事業のほか、教師、測量、大工仕事などに従事したが、定職につかず、コンコードに住む超絶主義者のエマソンや彼の周辺の人々と親交を結び、日々の観察と思索を膨大な量の日記として残した。」(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

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 私のような者が進んで従うつもりの政府の権威―というのも自分より知識と実行力がある人に、また多くの点でそれほど知識や実行力のない人にも、私は喜んで従うつもりなのです―そういう権威であっても、やはりまだまだ未熟なものです。政府の権威が厳密に正当であるためには治められる者の承認と同意が必要です。政府の権威は、私の身体と財産に対して、私が認めたもの以外は、なんら理論的な権利をもつことはできません。専制君主制から立憲君主制へ、立憲君主制から民主制への進展は、ほんとうに個人を尊重する過程です。私たちが現在知っているような民主制が、政府において可能な最後の到達点なのでしょうか。人間のさまざまな権利を認め、それを有機的につなげるさらなる前進は可能ではないのでしょうか 》(ヘンリー・デヴィッド・ソロー『一市民の反抗―良心の声に従う自由と権利―』山口晃訳、文遊社刊。2005年)

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●「作品には、兄のジョンJohn Thoreau Jr. (1815―1842)と1839年に行ったボート旅行をモチーフにした随想と詩『コンコード川とメリマック川での1週間』(1849)と、ウォールデン池畔に小屋を建て、自然の啓示を受けて単純素朴に生きる実験を行った2年2か月の生活を、初夏から次の春までの1年分にまとめた『ウォールデン――森の生活』(1854)がある。ソローは具体的事物を細かく観察したが、事物を単に事実としてのみ見ずに、ウォールデン池について、「この池が一つの象徴として深く清純に創(つく)られていることを私は感謝している」「私が池について観察したことは、倫理においても真実である」と説くように、具体的事物のかなたに普遍性を読み取ろうとした。それが「自然の崇高な啓示を受ける」ことにほかならず、このためには、観(み)る行為が正確で純粋でなければならないと同時に、観察した事象について時間をかけて思索する必要があった。ソローは1862年5月6日、44歳で死んだが、思索を十分練らないままに残された旅行記は、『メイン州の森』(1864)、『ケープコッド』(1865)、『カナダのヤンキー』(1866)の3冊にまとめられ、それぞれ死後刊行された。」(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

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 《 国家が個人を国家よりも高い自律した力として認め、国家自体の力と権威はその個人の力から生まれると考え、そして個人をそれにふさわしいかたちで扱うようになるまでは、ほんとうに自由で開かれた国家は決して実現しないでしょう。すべての人にとって公正であり、個人を隣人として尊重して扱う、そうした余裕をもった国家が最後にはできることを、私はひとり想像しています。そのような国家は、もしも国家から離れて暮らし、国家に口をはさまず、国家によって取り囲まれず、それでいて隣人、同胞としての義務はすべて果たす少数の人たちがいても、その安寧が乱されるとは考えないでしょう。国家がそのような果実を結び、熟して自然と落下するような経過をたどれば、さらに完全で栄光ある国家への道が開かれるであろうとまた想像することもありますが、そのような国家はまだどこにもありません 》(同上)

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●「ソローはまた若いころから家族ぐるみで奴隷制に反対し、奴隷制を許す体制を批判して人頭税納付を拒み続け、1846年7月投獄された。1日で釈放されたが、このときの体験がのちに『市民としての反抗』としてまとめられた(1849)。個人の良心に基づく不服従を説き、「まったく支配しない政府が最上の政府である」と主張するこの書物は、のちにガンジーやキング牧師に愛読された。」[松山信直](日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

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 彼が亡くなった時から、およそ百六十年が経過しました。彼の没年は明治維新直前に当たります。この百六十年は加速度的に、この島社会が世界に向けて開かれていった(翻弄された)時期でもありました。「文明開化」と称される時代の激流はあらゆるものを舐めつくすように、この島の姿を激変させてきたとも言えます。いわば「文明と文化」の対立とも拮抗ともいえる事態が延々と続いてきたのです。(左はターシャ・チューダ・Tasha Tudor 1915-2008)

 「文化」は地域に根差した、地域独特の生活(思考・行動)様式であり、それは自然の環境を背景にしてしか成立しなかったものです。一方、「文明」は科学や技術の一定のレベルがあれば、いかなる自然環境も一変させる力を有しており、各地域の「文化」を呑み込んで(平定して)いったのです。その結果、地域間の生活様式の差はなくされ、生み出されたのは格差でした。文化は個々の違いを見せますが、比較は無意味です。一方の文明は「開かれているか、未開化」という点では程度の差、つまりは「格差」「優劣」が問題にされるのです。高いか低いか、進んでいるか遅れているか。まるで「偏差値」だね。

 だからこそ、ぼくは「時代錯誤(anachronism」」に思いをはせてみたいと考えつづけてきたのです。この言葉は「否定的」「嘲笑的」「侮蔑的」というように、総じてマイナス評価がつけられるものです。あえて、ぼくはこれを取り出し、「アナクロニズム」のどこが悪いのか、それを考えようというのです。逆にいえば、「時代の流れ」だの「世のなかの大勢」だなどと言って、その風潮に自分を合体させるだけが意味のある生き方なんかではないことはだれも知っています。ソローの時代にあって、彼自身は「時代遅れ」と罵られていました。いままた(いつでも)「時代遅れ(ガラケー)」を意味もなく詰る輩が群生しています。それを否定(拒否)しませんが、時代の波に翻弄されるとどうなるか、それを黙考したいだけなんですね。ぼくはガラケーでさえもない。携帯電話を使ったことがありません。ましてスマホなど…。

 ぼくは歩きます。かなり歩く方でしょう。嫌いでもありません。山の中を十キロほど、天候に恵まれれば、ほぼ毎日歩きます。都会(拙宅の近郊(十キロ先)にもあります)では「動くベルト(ランニングマシーン)」に乗って走らされている、しかもお金を出して。人間のモルモット化か。「時代錯誤」とはなんでしょうか。

 「自分の脚で歩く」と、「動くベルトで走らされる」と。あなたはどちら派ですか?(つづく)

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トランプは大統領に戻れる状態ではない

(隔離中にも関わらず病院の外に出てきて両手の親指を立てるトランプ)Cheriss May-REUTERS(10月4日、メリーランド)
Stanford Prof Questions Trump's Ability to Lead While on Dexamethasone
<トランプが投与された「デキサメタゾン」には精神作用があり、何でもできる気になる。執務に戻ったら戦争を始めかねない、と経験者は語る>
新型コロナウイルスに感染し、ドナルド・トランプ米大統領に投与されたのと同じステロイド薬「デキサメタゾン」を投与されたことがあるスタンフォード大学の教授が、トランプの精神は薬のせいでまともではなくなっており、とても執務に戻れる状態ではないと警告している。/「私がデキサメタゾンを処方されていた時には猫の面倒さえ見られなかった。トランプも大統領の職務に復帰するなど許されるべきではない。下手をすれば戦争を始めかねない。トランプは正常ではない」と、スタンフォードで法律と社会学を教えるミシェル・ダウバーは日曜の午後のツイートに書いた。
「私は脳の手術の後にデキサメタゾンを与えられた。これは精神を侵す薬だ。早く止めたかったが、この薬はいっぺんにやめられず、徐々に減らさなければならないので時間がかかる。トランプもそうだろう」/ トランプの医療チームは週末に、ウォルター・リード陸軍病院でトランプにデキサメタゾンを投与した。トランプは木曜の夜遅くに、彼と妻のメラニアは新型コロナウイルス陽性だとツイートした。そして金曜の午後に、ホワイトハウスからヘリでウォルター・リードに移った。/ アメリカ国立衛生研究所(N I H)はデキサメタゾンは人工呼吸器に繋がれているか、酸素吸入を必要とする患者に推奨している。N I Hのウェブサイトでは、デキサメタゾンの副作用の1つに精神症状を挙げている。/ トランプは日曜、支持者向けにビデオメッセージを送り、「サプライズ」を待てと言った。直後、トランプはS U Vの後部座席に乗って表れた。黒いマスクをしたトランプは支持者に手を振り、親指を立ててO Kのサインをして見せた。
異様で、同乗者を感染の危険に晒すこの車によるパフォーマンスは、薬の影響かもしれないとスタンフォードのダウバーは言う。「私の時は手術の直後主治医から、副作用の『ムード変容』のために山にれ、マラソンも走れるような気持ちになると言われた」/ ト ランプの医療チームはトランプは5日にも退院できると言っている。(スコット・マクドナルド)(NewsWeekJapan・2020年10月5日)
 

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 この一枚の写真が、現代歴史の予期せぬ「過誤」の証明にならないことを祈っています。感染症で隔離中の大統領が「己の示威行為」のために法律(規定)を無視し、同乗者を危険にさらしたという、なんという愚昧で異様な情景ですか。よくぞ医師団がこれを許可したと思われますが、なにそんな「諫言」さえ無視して、「October Surprise」(「米国で、大統領選挙の前月に起こる、選挙結果に大きく影響するような出来事」デジタル大辞泉)に及んだという恐るべきこの人物の荒唐無稽(absurdity)ぶりです。

 (この写真にかかわる一連の大統領の行動自体が、医師団や関係者と巧妙に(?)図って仕組まれた「演出(Fake)」である疑いはぬぐえない。再選されるためにはどんな手を使ってもやり遂げようとする人物であることは、これまでにも証明済みだからです。ぼくは四年前から、他所事ながら、こんな「人間」を大統領に選ぶアメリカという国の悲しさ、救い難さを感じてきました。いかなる意味でも「他山の石」であり「反面教師」としてしか受け取れない事態です)だが、ぼくの言いたいのはそれではありません。(ここでは、デキサメタゾンの効能や副作用については触れないでおきます。かなり前に、高名な学者から、この薬に関してはいろいろと伺ってはいましたが、今般の事情が分かりませんので、ここでは割愛)

 もう一か月半近く前(8月28日)になりますが、この島のPMが「解離性大腸炎」の悪化を「理由」に「辞任」表明の会見をしました。その際にも触れたことですが、彼は徹頭徹尾、逐一報道関係者に情報を流し、あろうことか車列よろしく、病院の往復道中まで写真と記事にしていました。(情報公開か)自分は病気なんだ、大変な重病なんだと宣伝する総理大臣が実在するのだから、驚きでした。長生きはしたくない、したいもの、どちらかに決められない稀な出来事。会見も時間をかけて練った作戦通りに、立派な振る舞いで開かれました。ぼくは怪訝に思い、さらに奇妙だなと感じたのは、すべてが「自作自演」だったという、その一点です。医療関係者は一度も顔を出さなかった。詳細は省くが、会見に病院の医師が同伴を求められたが、医師の責任上から、申し出を断ったとも伝えられています。医師の立ち合いがない代わりに「診断書」が出されたということはまったくなかった。

 一国の、いや一島の最高権力者が病気を理由に「辞任」するという緊急事態時に、見事な演技(だったか)を演じきったPMは、その後は「外交大使」(読売新聞)にでもと、大張り切りです。大事に至らなかったのは不幸中の幸いでしたが、いかにもつじつまが合わないという疑惑ばかりが残りました。指を指されるような事案があったら、議員も総理も辞めると、つまらぬ啖呵を切ったが、本音は「何があっても、どんな悪いことがバレても総理は辞めない」であったことは、さすが「権力志向ばかりは、ちっともブレない」最長不倒の人だった。

 このトランプ氏の入院・治療・外出(退院はまだですが)まで、その一挙手一投足に深く医師団がかかわり、逐次記者会見をして情報(内容の当不当は、今は問わない)の公開を進めています。島の「緊急事態」の状況となんと異なることか。なに、それは国力・影響力のチガイだからだ、と言えればいいが、そうはいきません。いかに小さいと言えども、一端(いっぱし)の権力者の交代ですから。さらにこのPMは権力欲の高さは偏差値の比ではなさそうだと睨んでいたのですから。ぼくはトランプに感じた異常とはまた違った異様(abnormality)を「トランペット」のケースにも感じていました。

 「特効薬が効いて、元気だ」と元PMは遊行の境地のようで、なにはともあれ、ご同慶の至りですけれども(腸(ハラワタ)は煮えくり返っているんだが)、いったい「辞任」の真意、真相は何だったのか。ほんとはここに書きたいんですが、今は筆(じゃなくキーボード)を折る(壊すか)ことにします。「腐っても鯛」(A diamond on a dunghill is still a diamond.)(この鯛は腐っていないね)ならぬ、腐ってもアメリカというのか、天文学的な愚かしい御仁であって、なお権力誇示と自己宣伝に身命をかける、この大統領の計り知れない愚行や欺瞞、恐喝や不道徳を、彼の国は余すところなく公開している、そのことを羨ましがるのではなく、本来、あるべき人民の「知る権利」がなんとしても堅持されようとしていることに万感の思いをいだきつつ、属国魂の卑屈さを、時の権力者の人間性やその陰湿な行動に見るという、けた違いの権利(人権)意識の希薄さ、薄情さに砂粒を噛み、それを嚥下するという、なんともいやーな思いがします。ぼくの持病は胃潰瘍だ。虫唾が走る。ああ、無常・無情!

 蛇足 「トランプは大統領に戻れない」という評価がありますが、こなたはどうか。「あわよくば、三度目の登場」となるか。二度あることは三度ある。仏の顔も三度まで、といいます。そのこころは「《いかに温和な仏でも、顔を三度もなでられると腹を立てるの意から》どんなに慈悲深い人でも、無法なことをたびたびされると怒ること。」(デジタル大辞泉)とすれば、庶民は仏ではないのですから、三度と言わず四度でも五度でも、登板はありそうですね。先発もリリーフもさっぱりの「選手」だと思うのですが。それに反して、中抜きは?(左は北海道新聞・2007年9月25日朝刊)

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主権在民の否定、それが政府の真骨頂だ

1915年、秋田県六郷町(今の美郷町)生まれ。21歳で新聞記者になる。45年、敗戦を機に朝日新聞社を退社し、48年に横手市で週刊新聞「たいまつ」を創刊。78年に780号で休刊した後も評論家として活動した。2016年に101歳で死去。(朝日新聞掲載「キーワード」の解説)

「本物のデモクラシーは少数意見を尊重するだけでなく、むしろ少数意見の発生を助長する。本物のデモクラシーは満場一致の成立を歓迎しないだけでなく、むしろ嫌悪し警戒する」

「肉体に身の丈があるように、精神にも身の丈がある。それを思い知らされた人はふるい立ち、出なおすものではあるまいか。打ちあけると私は幾たびも自嘲をバネとして元気を取り戻した。内なるわが身の丈をゆびさして、「おまえはなんとおろかなやつだ」とあざけるおのれに向かって、「くそくらえ」ともう一人の自分がつかみかかるように腰を上げて、それで失意のそこから歩き直すことができた」

「学校教育の課目の中で、「歴史」は内容がいきいきしていて、人を賢くする養分が特に抱負です。青少年は飛びつくはずなのに、背を向ける理由は、二つ考えられる。第一、人民にあまり賢くなられては困る支配権力が、歴史嫌いの青少年をふやそうと教育内容に干渉している。第二、権力のそういう悪だくみを打ち破れるまで親も子もまだ賢くなっていない」

「学校のテストでは、問いも答えも教師によって用意されていて、生徒は弓矢で標的を狙うようにして単一の正解を射ようとする。社会生活で出会う試練では、問題が他人によって用意されている場合よりも、何が問われているかを自分で考えなければならない場合が多い。解答も自分で手づくりして、ああでもない、こうでもないと模索を重ねながら解いていく。学校のテストで訓練される能力と、社会生活で要求される能力とは、方向があべこべだ。学校の優等生が社会で落後しやすいのは当然である」

「…一プラス一はいくつ?」と問うて「二」という答だけを正解とし、他の解答にはみなバッテンをつけ、バッテンの多い子を劣等視する行為は、人間そのものの開発をめざす教育とは全く無縁である。学校が子供から個性を抜き取る装置であることをやめるには、テストの成績で子供に優劣をつける振る舞いをやめるだけでなく、そもそも子供をヨイ子とワルイ子、優等生と劣等児に区分する発想を棄てなければならない。もしテストをやめれば学校が成りたたないなら、学校それ自体をやめなければならない」(むのたけじ著「詞集 たいまつ Ⅲ」評論社刊、1988年)

東京新聞(2013/11/28)

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 むのさんが亡くなられて四年が経過しました。むのさんは、自分には「余生」も「老後」もない、死ぬ時が来るまで「現役」「生きている今が、いつも頂点(てっぺん)」だと宣言され、その通りの生涯をまっとうされました。戦前は新聞社の、戦後は個人経営の新聞で、あたうかぎりの健筆、鉄筆を振るわれたと、ぼくは受け取ってきました。「新聞人」というものが驚くほど軽薄になり、主張を持たなくなった時代にも、むのさんはさまざまな方向から叱咤を飛ばし、激励にこれ務められたといえます。亡くなられてから、その存在の稀有であったことがいまさらのように思われてならないのです。桐生悠々、石橋湛山と並んで、むのさんは、ぼくにとってはかけがえのない「民主主義」の橋頭堡のごとき存在でであったとの思いを深めています。

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テーマは「問答無用」、是?非?

 ネットの時代になってから、すでに三十年ほども経過したでしょうか、大変に重宝していることがいくつもありますが、その一つに各地方の新聞、ぼくの場合には特に「コラム」(47コラム)が読めるという楽しみがありました。コラムは、その新聞社の姿勢や方針のバロメーター担っていると、ぼくは考えています。「楽しみがありました」と過去形でいうのはなぜか、言いにくいのですが、近年の「コラム」はぼくにはまったく読みでがないからです。ほとんど毎日、読んでみます(目を通します)が、「こりゃー、いいな」と納得や合点とまではいかなくとも、そこそこというのもまた意外にないんですね。どうしてか、理由はわかりますが、今は語りません(問答無用)。時宜にかなったテーマを上目遣いではなく、上から目線でもなく、教訓をたれる流儀でもなく、軽快にあるいはユーモアたっぷりに切り取り掬い取ってくれると、朝から道端で百円玉を拾った気分になるのです。この数年、悔しいけれど「三文の徳」はほとんどない。ぼくは早起きかどうか分かりませんが、まず五時には外に出ています。 

 深刻な問題を「軽やかに」というのもおかしいが、深刻であればあるほど、ユーモアを含んだ、おしゃれであって、しかも、罵倒ではなく「茶化し倒す」という遊びが「コラム」にあったらいいなあと思ったりします。本日も「愚行の愚」というべき「学術会議会員任命拒否」という「天に唾」の殺風景に触れておきます。これは看過も傍観もできない愚行であり、暴挙でもあると考えるからです。放置しておくと、拙宅に土足で踏み込んで右だ左だといいだすに違いない、無智が武装しているような醜悪きわまる政権であり、政治屋の所業だからです。ぼくは一私人ですが、だからこそ言えることがありますし、事態の深刻度が、それなりに分かっているつもりだから、身にあった発言だけはしておくのです。ハンコがどうの携帯料金がどうのデジタル庁がなんだかんだという、目くらまし政治(まがい)に、誤魔化されないように、眼光だけはしっかりとしておきたい。 というわけで、二つの「コラム」から、件(くだん)のテーマに関する部分を以下に掲げておきます。

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 春秋 「学匪がくひ)」とは、学問や知識で民心を惑わし、社会に悪影響を及ぼす学者や学生を指す。そう非難されて弾圧された人がいる。憲法学者の美濃部達吉だ▼統治権は国家にあり、天皇はそれを行使する国家の最高機関とする「天皇機関説」。この美濃部の学説は大正デモクラシーや政党政治の思想的基盤となった▼だが、軍国主義が台頭する中で、天皇を絶対的な主権者とする軍部と衝突。その圧力で学説は公然と否定された。美濃部は不敬罪で告発され、著書も発売禁止処分となった▼今は日本国憲法23条に「学問の自由」が明記されている。戦前、戦中のような圧力や弾圧はあり得ない…はずだが。かつてこの国を覆っていた空気と通底するような嫌な感じに胸がざわつく▼政府機関「日本学術会議」が推薦した新会員候補105人のうち、6人の任命を菅義偉首相が見送った。安全保障法制や特定秘密保護法、「共謀罪」法、辺野古埋め立てなど、安倍晋三政権の看板政策に異を唱えた人たちだ。政府は見送りの理由を明かさないが、官房長官として前政権を支え、政策も継承するという首相だけに、なるほどね、とふに落ちる▼「学匪」と呼ばんばかりに政権に批判的な学者を排除するのならば、学問の自由を踏みにじるものだと言われても仕方ない。首相は、指示に従わない官僚は「異動させる」と脅した。人事で圧力をかける菅流は、学問の世界にまでも。(西日本新聞・2020/10/3)

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 小社会1933(昭和8)年の「滝川事件」の後、京大生たちは酒場で高唱して自嘲したという。〈ここはお江戸を何百里/離れて遠き京大も/ファッショの光に照らされて/自由と自治は石の下〉。軍歌「戦友」の替え歌である。/ 京都帝大法学部の滝川幸辰(ゆきとき)教授の「刑法読本」が共産主義的だとして、文部省が一方的に滝川教授の休職処分を発令。学問の自由、大学の自治を侵すと教授会や学生は猛反発したが結局、滝川ら多くの教官が辞職した。/ 刑法読本には何が書かれていたのか。「犯罪をなくすためには重罰だけではだめで、社会環境をよくしなければならない」「妻だけを罰する姦通罪はおかしい。そもそも法で罰すべきものではなく、道徳の問題である」。/ どれも当たり前のことだろう。文部省の主張は言いがかりに等しい。そんな時代に逆戻りしたのかと感じるのは一人、小欄だけではあるまい。菅首相は日本学術会議が推薦した新会員候補のうち法学者ら6人の任命を拒んだ。/ 6人は安保法制などに反対意見を述べてきた。政府方針に異論を唱える学者を排除した形だ。拒否の理由について口を閉ざす政府は、戦前の文部省よりもたちが悪いと言うほかない。/ 学術会議は首相の所轄だが、政府への勧告など職務は独立して行うと法律に定めている。法の精神は尊重されなければならない。菅首相は学問の独立や自由を、再び石の下に埋めるつもりなのか(高知新聞2020.10.03 ) 

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 「学匪」という言葉を久しぶりに目にしました。よく似た語の「曲学阿世」というのも使われました。これは吉田茂元総理が、当時の東大総長だった南原繁氏に「曲学阿世の輩」と使って有名になった。理由は明らかです。政府の方針だった「単独講和」にやかましく反対したからです。これが先例になっているのか。今回は、こんな言葉で罵るというのでもなく、「政権が立案した(安倍のすること)政策に文句をつけた」から、「この怨みを晴らさで置くべきか」という小心翼々たる前総理の「怨み骨髄」を継承した、継承する約束を実行したというだけの話ですが、傍の迷惑は生半可なものじゃありません。その「始終・顛末(の恐ろしさ)」を知らないからこそ、地雷を踏んだんですね。地団駄ではありません。かかる「不始末」「不首尾」に及んだ「理由」を語ればいいだけ。「山口の仇を東京で」という下らぬ図です。

 なぜこうなったのか。はっきりと「俺たちに逆らうからだ」と言えばいいじゃないか。あるいは「顔つきが気に入らないから」というのも拒否の立派な理由ですよ。でもそんな恥ずかしいことは言えない、その程度の羞恥心でさえあるとは思えない。持った刀(権力)を振りまわしたかった、鈍刀の試し切りだったんだね。何とかに刃物。だから「問答無用」一点張りなんです。己に弱みや疚しいところがあれば、きっと「問答無用」とくるのがお定まりですから。「行政府の長(盲腸)」が聞いて呆れます。この数年間に、いったいどれだけの問題に対して「問答無用」「諫言無視」を決め込んできたか。嘘で固められた行政のオンパレードだった。これぞ、歴代第一位の性悪さでした。

 どんな些細なことでも、「そうなるには訳がある(雨の降る日は天気が悪い)」ということ。ある結果には、きっと理由(ワケ・「中条きよし」って知らない人がほとんどか)がある。今回の場合、任命しなかった(拒否した)理由は何か、それを明らかにすればいいだけ。そうすれば、「ああ、やっぱり」と腑に落ちることもないではないでしょうに。藪から棒に「任命拒否だ」、理由は?「言えない・いう必要がない」つまり「問答無用さ」じゃ話にもなりません。「法に基づいて適切に対処した」のなら、どの法に依拠したのか、その説明はしなけりゃ。「適切如何」は他人(選挙民)が判断します。勝手に筋書きを書かないでくだされ。それができなければ、辞めるほかないでしょ。

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委縮につながるものではない、だと

「日本学術会議」 任命されなかった6人の学者はどんな人? 任命除外される異例の事態。「政府に反対した学者」が含まれており波紋が広がっている。ハフポスト日本版編集部
 
学術会議は、科学に関する重要事項を審議したり、研究の連絡をすることを目的にした科学者の組織だ。政府に対して提言をするのが役割の一つ。210人の会員は非常勤特別職の国家公務員。この210人の半数の105人が3年ごとに入れ替わる。/ 会議は、内閣総理大臣が管轄するが、政府から独立して職務を行う「特別の機関」だ。国費で運営される。原子力三原則など国の大型プロジェクトの元になる「マスタープラン」を策定したり、素粒子実験施設の誘致についてや地球温暖化、生殖医療などについて提言や声明を発表したりする。人文・社会科学、生命科学、理学・工学の全分野の約87万人の科学者を代表し「科学者の国会」とも言われる。/ 菅首相は10月1日、会議が推薦した会員候補105人のうち6人を除外して任命した。推薦された人を任命しなかったのは、会議が推薦する方式になった2004年度以来初めてのことだ。(ハフポスト日本版編集部・2020年10月02日 16時05分 JST )(加藤官房長官「萎縮に、直接つながるものではない」 日本学術会議、任命問題で)

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 この問題について、すこしでもコメントをする気にもなりませんが、放置しておけないので持説を述べておきます。先にも触れておいたように、この内閣の閣僚たちは、以前にもまして一段と精神(智慧)のレベルで劣化が著しい。政治を心得違いしているし、自らの立場を必要以上に膨張させて、触れてはならないようなことに乗り込んでいます。「地雷原に入り、いくつもの地雷を踏んだ」といった通りです。国会を開かないで好き放題というよりは、唯我独断でことを進め、深みにハマっていくのでしょう。なんでもできるという自己錯誤が、この能天気な政治屋たちをして、荒唐無稽な権力のでたらめな行使に走らせているのです。側用人たる、多くの官僚たちは「面従腹背」を旨として、面白がって政治屋を煽っているきらいがあります。「この馬鹿どもめが…」と小声で叫びながら、明日のわが身を熟慮する、そんな自己保存本能でのみ生きている。

 このような政治家に嗅ぎ取れるのは、これぞ「不遜」というものと、まるで絵にかいたような傲慢な態度であります。今時、こんな珍種が生息しているのは、きっと永田町界隈だけだと、ぼくには思われます。それにしても、よくぞ今日まで生存していたなと、驚嘆するほどです。PMにはその傾向が顕著であるといえます。「質問には答えない」「問題はまったくありません」などと「木で鼻をくくった」ような「答弁にならぬ答弁」を飽きもせずに繰り返してきました。そのこころは、「質問には答える能力がない」「問題があり過ぎてどうしますか」と白状しているようなものです。前任者の後ろか横に八年近くいて、すっかり「学習した」と言いたい風袋ですね。後任の官房長官もまた「前任者を踏襲です」という下品な演技ぶり。政治活動によって、何をどうしようという魂胆すら皆目見えないのは、何という芸当でしょうか。前代未聞、空前絶後の「珍妙な風景」とはこのことです。

●《木で鼻を括(くく)る=「くくる」は「こくる」の誤用。「こくる」はこする意》無愛想に応対する。冷淡にあしらう。木で鼻をかむ。「―・ったような返事」(デジタル大辞泉)

東京看護学セミナーで講師を務める武谷三男氏(1965年ごろ)

 学術会議はなければならない機関だと思います。ぼくには興味も関心もありませんが、その理由のようなものと言えば、かかる機関が果たす役割は、政治面においても、いくらでもあると考えるからです。どこかで触れた物理学者の武谷三男さんは、日本の原子力政策では貴重な活動をされました、学術会議において。詳細は省きますが、「自主・民主・公開」という三原則を原子力政策の大前提にしたのは武谷さんの努力によるところが大であったし、それは学術会議がなければ実現しなかったともいえるのです。(その後の原子力政策のインチキさは今に至るまで、目を覆いたくなるようなひどさです。欺瞞に満ちた電力政策は、東電の「原発事故」までまっしぐらでした。学術会議は何をしていたのか)(「御用機関」あるいは「承認機関」に甘んじていたいなら、会員諸兄姉は学者・研究者をお辞めになればいいし、もしそれが嫌なら、断固として「異議申し立て」をしなければなるまい。

 今回の事態がどういうことなのかを彼(政治屋)らは理解していない。「文句を言うやつ」「楯突くやつ」「気に入らない存在」には✖をつける「権限・権能」があるという、驚天動地の無知が彼らを支配しているに違いない。でなければ、かかる愚行はできるものではないからです。この先、どう展開するのか、ぼくは岡目八目を決め込みますが、かりに学術会議が「言いなり(不発弾)」だとするなら、もう会議(機関)そのものを「解散」する方がいいでしょうし、ぼくをそうなることを(消極的ながら)期待しています。何かの必要性が生まれれば、「自主・民主・公開」を旨とした自前の会議体を、新規に作ればいい。まるで「芸術院」のような暗愚組織になっていたんだったら、即座に解散ですね。

 こんな仕打ちをしたら、「怖がって、政府に異論が言えなくなるのではありませんか」という記者の質問に、「委縮に、直接つながるものではない」とのたまわった。そのこころは「間接的につながる」ことを期待(画策)していると白状したことになりますし、不謹慎きわまりない、いかにもふざけていると、ぼくが想うのは、自分で答えるのかよ、「そんな人はいない」となぜ君が答えまで言うのか、という点です。「自問自答」ならぬ、「自作自演」です。下手な芝居さ。振付は誰だ、Kanか。

 他人の頭を殴っておいて、「怪我をしたらどうすんの」と注意され、「そんな人はありません」と、殴った当人が言うのかね。偉そう(上からの目線でものを言う)にしているにもかかわらず、観衆(民衆)の意向(顔色)を伺っている(上目遣い)という「気色の悪さ」が気に入りませんね。きっと「引かれ者の小唄」を口ごもっているにちがいない。よく聞いて見な。

 オーウェルに倣うなら、さしずめこの島は「動物列島」ですな。もちろん、ぼくも勘定に入れています、蟻かなんかで、「動物かどうか」怪しいが。なんでこんなことになってしまったのか、この劣島は。湛山さんに訊いて見たいですね。

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