迷人の方所を弁ぜざるが如くあれ

 どこにでも、よく見られる風景です。ある問題に遭遇し、「私はこう思う」「ぼくはそうは思わない」などと、議論百出。それはまことに結構なんですね。問答多様はぼくのもっとも望むところですが、世の風潮では「問答無用」が幅を利かせています。さらにいうと、「異論封じ」です。まるで穴八幡神社の「虫封じ」の護符をかざすが如くに、邪魔者はどけ、消え失せろとか、おっかないことおびただしい状況にしばしば直面します。

 「君はまちがっている」という発想は、間違いなく「私(こそ)が正しい」という窮屈至極な穴倉から出てくる。それは間違いだと、誰が決めたのか。おれが決めた、文句あるかと言わぬばかりです。とすれば、世のたいていの宗教・宗派(まがいも含めて)はそういう穴倉(場所)であるらしいというのはどうですか。ぼくは若いころから、この穴倉の住人をほとほと嫌いぬいていました。お前は頭が固いと、褒められたんじゃないでしょうが、しょっちゅう言われていました。三つ子の魂なのか。宗教というものの正体(実態)はよくわからないにもかかわらず、宗教・宗派(周波)には近づかないようにしていた。感染を恐れたのではなく、その頑なな「独善」が我慢できなかったからです。それはなにも、宗教・宗派にかぎらない。

 君はまちがっているけれど、ぼくも怪しい、そんなあいまいな態度では宗教にはならない、そんな頼りないところ(穴倉)に誰も入ってこないからです。でも、「真理はわれにあり」という呪文がどれほどの悪をなしてきたことか。白くも見えれば黒くも見える。ここ(不分明)(いわく言い難い部分)のところになんかがあるんじゃないですか。ぼくはずっと「煮え切らない派」です。

 こんなことを言いながら、ぼくは禅宗だの鎌倉仏教だのの難解な本を枕に気楽に夢の中を彷徨うのが趣味になってきました。また、教祖というか名僧の「智慧」「知識」には万感の敬意を示してもいるのです。親鸞や道元、果ては読めもしないのに空海などを齧ったりしました。雪舟や良寛などなど。それにとどまらず、禅僧たちの逸話にも感心したり驚いたりと、まことに忙しい読書に耽ってきました。お釈迦さまにはまだまだ近寄れませんが、その後裔者たちには、怖いもの知らずで、近づいたり、遠巻きにしたりしています。今回は馬祖道一(バソドウイツ)です。

 馬祖道一(ばそ・どういつ)は唐代の生まれ。彼が残した教えに「迷人の方所を弁ぜざるが如くあれ」(めいじんのほうしょをべんぜざるがごとくあれ)という禅の心得を示唆した言葉があります。つまりは「手探り」で「暗夜」を歩くという話。ナビもなければ、道案内もない。それが生きること。覚悟を決めて参禅し、「うまくいったら悟れるぞ」なんて思うな、迷うことから離れるなと、繰り返し道一はいう。「迷うことはやめる」という不動の境地に達しようとするな、それは明らかに夢・幻なんだ。それは夢の夢。覚悟だの悟りだの、そんなものは迷いにいたらない迷いなんだ(迷い以前の戯言)とも。堂々と、あるいは苦しみながら迷いを重ね、弱々しく(しなやかでもある)生きていると、こんなにもたくさんの仏心・仏性が顕現するのかしらと(つっかえながら)読んでいて、うれしくなる。説得するな、説得しようとするな、肩ひじの力を抜いて、ゆっくり歩き、ゆっくり座す。お腹がすいたら食べ、眠くなれば眠るだけ。だけ。

 有名な逸話です。

 “磨磚成鏡” 「馬祖はまだ若かったころいつも般若寺(南岳衡山)の伝法院で坐禅していた。師父の懐讓は,覚悟に坐禅は必ずしも必要なく,大事なのは自性の道理を体悟することだと啓示しようとして,彼の前でレンガを磨いてみせた。馬祖がなぜレンガを磨くのかと問うと,懐讓は“鏡にするのだ”と答えた。馬祖が“レンガを磨いても鏡にはならないでしょう”と疑問を呈すると,懐讓は答えた:“レンガを磨いても鏡にならないのに,坐禅をすれば仏になれるのか?”馬祖は醍醐を口にした如く,ここに大悟した」(不用意なこと、出典箇所(不記載)不明。後ほど明示します)

 ここに「醍醐」という語が出てきました。「ガンダーラ」でもなければ「北川景子の夫」でもありません。いろいろに使われます。天皇や寺の名。あるいは「醍醐味」などとも。さぞかし、それを口にして、得も言われぬ幸福境に入れるのでしょうね。間違いを知る、誤りを知らされる、それが「醍醐味」なんだ。

(五味=大般涅槃 経に説く、牛乳を精製して順次に生ずる五つの味。乳味・酪味・生酥 (しょうそ) 味・熟酥味・醍醐 (だいご) 味で、醍醐味を最高の味として仏の涅槃にたとえる。天台宗ではこれを釈迦1代の教説の順序になぞらえ、五時教に配する。デジタル大辞泉)

 「レンガを磨いても鏡にならない」と悟って、「仏の涅槃」を知ったというのです。つまり、なにをしても「悟り」なんか得られないと。この道をまっすぐ歩いていくと、悟りの門に至るということはあるはずもないのです。この道理を知る、これこそ「醍醐味」なんだと「悟った」らしい。ぼくにはよく感じとれませんが、なにをしても悟りなんか得られないんだという。なんだか格好いいじゃんと思ってしまうのです。この僧にはいくつも後世に残された「名言」らしいものがあります。その一つを。「平常心是道」という。「即心是仏」「非心悲仏」とも。何とでもいえる、それでいいし、そこに道の核心があるんでしょうか。「禅」は宗教とは違う、と思う。でも寺に籠っています。

 少年の頃、庭に遊んで「参禅」なんかしなかったが飛び回っていた京都花園の妙心寺(臨済宗妙心寺派総本山)がこんなことを、とても立派な哲学を語っています。

 「禅とは心の別名です。ひとつの相にこだわらない無相。一処にとどまらない無住。ひとつの思いにかたよらない無念の心境を禅定と呼び、ほとけの心のことです。/ 私たちの心は、もとより清浄な「ほとけ」であるにも関わらず、他の存在と自分とを違えて、対象化しながら距離と境界を築き、自らの都合や立場を守ろうとする我欲によって、曇りを生じさせてしまいます。/ 世の中、意のままにならないものですが、正確には我欲のままにならないということです。禅語の「如意」は意の如くと、思いのままになることを言いますが「如意」の「意」は我欲のことではなく、自他の境界と距離を超えた森羅万象に共通するほとけの心のことを指しています。

 この「ほとけ」の心の働きには「智慧」と「慈悲」があり、それは認許とも言い換えられます。自分とは違う相手を許し認め、自分とひとつとする「不生不滅・不垢不浄・不増不減」の空の価値観に立つおおらかな心のことです。/ 自他の距離と境界を越えるには、自分自身を空しくすることです。/禅とは、雀の啼き声を耳にしても障りなく、花の香りの中にあっても妨げにならず一如となれる、そういう自由自在な心のことです。」(https://www.myoshinji.or.jp/about_zen/zen)

● 涅槃=《(梵)nirvāṇaの音写。吹き消すことの意》仏語。 煩悩(ぼんのう)の火を消して、智慧(ちえ)の完成した悟りの境地。一切の悩みや束縛から脱した、円満・安楽の境地。仏教で理想とする、仏の悟りを得た境地。 釈迦(しゃか)の死。(デジタル大辞泉)

● 馬祖道一=709生。中国、中唐期の禅僧。漢州(かんしゅう)(四川(しせん)省什邡(しゅうほう)県の出身で、俗姓が馬氏のため馬祖と通称される。州の羅漢寺(らかんじ)に投じ、資州処寂(ししゅうしょじゃく)(648―734)の下で出家し、益州長松山、荊南(けいなん)明月山などで修行した。ついで南岳懐譲(なんがくえじょう)に師事し、「南岳磨磚(なんがくません)」の話によって心印を得、建陽(けんよう)(福建省)仏迹巌(ぶっしゃくがん)で開法した。その後、江西省の新開寺、龔公(きょうこう)山、開元寺などに住して宗風を挙揚し、湖南の石頭希遷(せきとうきせん)と並び称された。馬祖やその門人たちには口語による説法の記録が多く伝わり、後世の膨大な禅宗語録出現の契機となった。788年2月1日、潭(ろくたん)の石門山宝峰寺で示寂した。1966年『馬祖禅師舎利石函(かん)題記』が石門山で出土発見された。[石川力山](大日本百科全書)

___________________________

よろしくお取り計らいください

 河北春秋 毎年、3月11日の午後2時46分になると、仕事や家事の手を休めて黙とうし、東日本大震災の犠牲者の冥福を祈る。被災地で暮らす人にとっては当たり前のことだが、中には何もしない人も。でも、他人がとやかく言う筋合いはない▼個々人の心の問題である弔意の示し方を巡って波紋が広がっている。きょう東京都内で営まれる内閣と自民党による故中曽根康弘元首相の合同葬に合わせて、文部科学省が国立大などに弔意を表すよう求める通知を出していたからだ▼通知にはご丁寧にも、弔旗の掲揚の仕方や黙とうする時間を知らせる文書が添付してあった。「協力を求めるもので、強制を伴うものではない」と加藤勝信官房長官▼言わずもがなのことを額面通りに受け取れないのは、日本学術会議の問題に続く教育・学問の現場への「政治介入」と受け取られかねないからだ。「無言の圧力」と捉えて「忖度(そんたく)」する人がいてもおかしくはない▼元首相の合同葬に合わせて弔意の表明を求めたのは、小渕恵三、鈴木善幸、橋本龍太郎各氏の3例がある。前例踏襲の見直しを掲げる菅義偉首相は、日本学術会議だけでなく、この件に関しても見直しを検討してもよかったのでは。さもないと、政権の看板が、しょせん恣意(しい)的なものだと勘ぐられかねない。(河北新報・2020.10.17) 

********************************

 この件に関して、ぼくには何かを言う準備も興味もありません。「劣島不沈空母」を打ち上げたのも、国鉄・電電公社民営化(=会社化)を打ち出したのも、この人でした。もっと忘れてならないのは「初の原子力予算」を計上させた議員だったということです。早くから原子力の利用に大きな関心を持って旗を振っていた政治家でした。したたかな政治家だったし、「首相公選論」を早くから叫んでいたのも、国民投票に「勝てる」自信があったからでしょう。「青年将校」ともてはやされていたのです。ぼくがもっとも許せないのは「ロッキード事件」の背後に回り「対潜哨戒機P3C」導入にかかわるスキャンダルを闇に葬った張本人だったということです。(児玉某氏との関係が取り沙汰されてきました)

 ここでは述べませんが、「風見鶏」と称されたように「機敏」かつ「硬軟使い分け」で、総理にまで上り詰めた人物でした。名うての「嘘つき」だったと思う。

 彼の葬儀に際して、「弔意を示せ」と文科省が通知を出したという。それに従う学校も従わない学校もある。いささかの興味もありません。国の税金が入った学校だからか、通知を出すことに衒いも迷いもないのは不思議。「俺らの仲間だった、『偉い政治家』の葬儀に際して、黙禱して弔意を示せ」と、どの面下げて言い募るかと、ぼくは嫌な気分に襲われ、吐き気を催す。「国民各位」も同じように弔意を示せと言っている。(総務大臣宛て文書)なぜか。どうしてか。この島では長年にわたって「愛国心」の強制が学校などで問題となってきました。「国を愛せ」と強いるのは「俺を好きになれ」というのと同じで、「強制✖✖罪」ではないですか。タガが外れたとは、このことです。断じて認めたくないですね。

 内面の自由、これをとやかく、だれかに命令されてなるものかという怒りが半分と、他人に命令を下す権限が「自分にはある」と勝手に決めつけている盗人猛々しい根性をに反吐を吐きたくなるという軽蔑の念が入り混じって、ぼくはきわめて不快な雨の朝を迎えています。凄惨な「錯誤」に陥っているのがこの政府であり、政治家たちです。なんでもできる、やれないことはない、という可哀そうなほどの蒙昧地獄の住人だというほかない。「自分ファースト」を地で行くような手合いぞろいです。

 「雨雨フレフレ もっとフレ わたしのいいひと連れてこい」

_____________________________________________

健康で文化的な最低限度の生活を営む権利

(日本郵便の非正規社員の格差是正訴訟で、勝訴判決の内容を記した紙を掲げて喜ぶ原告ら=最高裁前で2020年10月15日午後4時2分、幾島健太郎撮影)
扶養手当の非正規不支給は「不合理」 最高裁判決 夏・冬季休暇など5項目(毎日新聞・2020/10/15)
日本郵便の非正規雇用の契約社員らが、一部の手当や休暇が正社員だけに与えられているのは「不合理な格差」に当たるとして、同社に格差是正を求めた3件の訴訟の上告審で、最高裁第1小法廷(山口厚裁判長)は15日、扶養手当をはじめとする5項目の待遇格差をいずれも「不合理」と認める判決を言い渡した。/ 日本郵便は従業員約37万人のうち、約半数の18万人が非正規社員。格差是正を巡る訴訟は東京、大阪、佐賀の3地裁に起こされ、扶養手当▽年末年始勤務手当▽夏季・冬季休暇▽有給の病気休暇▽年始期間の祝日給――の5項目について、正社員との待遇格差が適法かどうかが争われていた。【近松仁太郎】

*****************************

「従業員約38万人の約半数の18万4千人が非正社員という巨大企業に対する、待遇格差についての初の最高裁判断。13日には退職金やボーナスの支給を認めない第三小法廷の判決が出たが、この日は実質的な原告勝訴で、非正社員の待遇を見直す動きが広がる可能性がある。」(朝日新聞・20/10/15)

 日本郵便はこの島における労働問題の坩堝(るつぼ)です。詳細は省きますが、公社だったものをを民営化(じったいは会社化)し、それが有していた資本を市場に開放するという美名のもとに、いまでは全国の郵便局でアメリカ資本の「がん保険」が販売されています。何のための「郵政民営化」だったが、今になってどうしようもないほどの政治目的で強行されたかが分かります。その後の日本郵便のでたらめさは、郵便行政や保険業務のだとうせいをついきゅうするためのものではなく、ひたすら強国にゆすられたための「会社化⇒資金の開放化」だったのです。歴代の幹部職員は天下りや民間企業の「老害」効用所となり、会社は滅茶苦茶になってしまいました。詳細は省くといいながら、キーを叩いているうちに「政治家」「民間下がりの老害「天下り官僚」などの腐敗しきった顔がちらついて、頭がくらくらしてきました。

++++++++++++++++++++++++

 今回の判決は当たり前の権利の証明みたいなものでした。この権利獲得のために裁判に訴え、それも長い時間をかけなければ勝ち取れなかったことの方がむしろ犯罪的だと、ぼくは言いたい。人民を句する占めるためにこそ、政治は機能してきたというむなくそのわるくなる「典型」です。遠い回り道を人民はいつでもさせられているのです。「月がとっても青いから」と、遠回りするのも市場がありそうですが、これは生活闘争です。本来は当然保障されるべきものだったのに、裁判で下された判決が「地獄に仏」のように思えてくるのだから、じつに嘆かわしい。けれども、これが頂門の一針となり、奪われている人民の権利が回復される道がつけられたことはいいことだった遠むのです。隗より始められた、第一歩です。一歩前進二歩後退か。

 それにしても「生存権」という権利保障のげんともなった「朝日訴訟」から六十年以上も経過して、なお「朝日訴訟」は続いてきたのですね。これからも、延々と続くに違いありません。この島は人間使い捨ての島ではなかろうかと、大きな挫折感に襲われもするのです。「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」をほしょうする、それは「自助」でも「共助」でもない、「公助」そのものだ。眼を開け耳を掃除して政治や行政に携わってくれ。自らの急場凌ぎに「劣悪マスク」で数百億円、税金で権力維持を図るという、これは「泥棒にも劣る」政治犯罪ではないですか。人民の権利を損なう「最低限度の政治」だな。

●朝日訴訟=岡山県の療養所に重症の結核患者として入院していた朝日茂さん(当時44)が1957年、生活保護費が少なすぎて必要な栄養すらとれず「健康で文化的な最低限度の生活を営む」には不十分だとして、国に改善を求めて起こした行政訴訟。60年の東京地裁判決は全面勝訴したが、3年後の控訴審では敗訴。上告後、朝日さんが亡くなる直前、支援者の健二さん夫妻が養子になり、訴訟を引き継いだが、最高裁は継承を認めず67年に上告を退けた。一連の訴訟は大きな社会的関心を呼び、「人間裁判」と称された。その後の日本の社会保障制度のあり方にも多大な影響を与えた。(2009-05-03 朝日新聞 朝刊)

____________________________________

日の出6時10分、日の入り17時32分  

(その昔、ぼくは「旧暦」の大ファンでした。眺めるだけです。月齢なんかもいいね。今は小ファン)

************************************

 以前にもどこかで触れておきましたが、ほぼ毎日、ぼくはネット上の「47コラム」という頁に目を通します。これは悪癖というのかどうか。島の各地の新聞を網羅(全部ではない)したようなものがあり、各地の新聞「コラム」を読むともなく目を通すのが楽しみになっています。生意気を言うようですが、近年、「コラム」の質というかレベルが高くないというより、低くなっているのはなぜかと、気を揉んでいるのです。ほとんどどれもパッとしない、いけませんね。「なんだ、偉そうに」と言われるでしょうが、ぼくはおべんちゃらが言えない質ですので、悪しからず。おおよその見当はついているんですが、どこかで当事者に出会ってから「推論」を述べてみたい。

 でもそこはうまくしたもんで、何日も空振り三振(ぼくじゃありません)がつづいても、たまにポテンヒットが出ると、まるでHRのようにうれしい。何にもない日ばかり(零封・無得点)つづきだと、以下の「旧暦」欄がとんでもないタイムリーヒットに見えてきます。これを高知の読者はどうとらえておられるんでしょう。「完封」されたように、すっかりダメな時も楽しみはあるもので、他の新聞の「慰み」コラムについても、いつか触れてみたい。

#########

 10月15日のこよみ。

旧暦の8月29日に当たります。かのと う 三碧 赤口。

日の出は6時10分、日の入りは17時32分。

月の出は3時56分、月の入りは16時50分、月齢は27.7です。

潮は大潮で、満潮は高知港標準で4時28分、潮位189センチと、17時06分、潮位199センチです。

干潮は10時46分、潮位30センチと、23時09分、潮位47センチです。

 10月16日のこよみ。

旧暦の8月30日に当たります。みずのえ たつ 二黒 先勝。

日の出は6時11分、日の入りは17時31分。

月の出は5時07分、月の入りは17時25分、月齢は28.7です。

潮は大潮で、満潮は高知港標準で5時16分、潮位202センチと、17時38分、潮位205センチです。

干潮は11時27分、潮位31センチと、23時47分、潮位30センチです。

(「小社会」高知新聞・2020.10.15 08:00)

______________________________________

Sexual orientation is a key part of a person’s identity

発言は侮辱的で間違ったものだ。SNSに批判が投稿される(承前)

この発言に対し、ソーシャルメディアにはバレット氏の「性的嗜好」という言葉が、侮辱的で間違っているという指摘が次々と投稿された。/ MSNBCの番組「ザ・ラスト・ワード」シニアプロデューサーのカイル・グリフィン氏は、「バレット氏が使った“性的嗜好”という言葉は、侮辱的で時代遅れな言葉です。この言葉はセクシュアリティが選択できるものであるかのような意味を持っています。それは間違っています」とツイートした。/ ニューヨーク市のリッチー・トーレス市議会議員も、セクシュアリティに対するバレット氏の考え方は「過去の遺物」だと述べ、次のような批判を投稿した。/「ゲイ男性の私には“性的嗜好”はありません。“人種の好み”や”民族の好み”がないのと同じように。私にあるのはセクシュアルアイデンティティーです」

公聴会でも、民主党のメイジー・ヒロノ議員が、バレット氏の「性的嗜好」という言葉は間違っており、侮辱的だとバレット氏本人に伝えた。ヒロノ氏はこう述べている。

Sen. Mazie Hirono (D-Hawaii)

「性的嗜好は、侮辱的で時代遅れの言葉です。この言葉は反LGBTQの活動家らによって使われ、性的指向は選べるものという考えを示唆していますが、間違いです。性的指向は、人間のアイデンティティーの重要な一部なのです」/(“Sexual preference is an offensive and outdated term,” Hirono said. “It is used by anti-LGBTQ activists to suggest that sexual orientation is a choice. It is not. Sexual orientation is a key part of a person’s identity.”)

間違いを指摘されたバレット氏は「私は決してこの言葉をLGBTQコミュニティの人たちを、侮辱しようとして使ったわけではありません。もし私の言葉が侮辱であったのであれば、心からお詫びします」と謝罪した。(“I certainly didn’t mean ― and would never mean ― to use a term that would cause any offense in the LGBTQ community,” Barrett said. “So if I did, I greatly apologize for that.”)(以下略)(同前記事)

===================================

 「性的嗜好」と「性的指向」、この二つの言葉は(日本語の)発音は同じでも、内容(意味)は全く異なる。この二つの語を混同するのかあるいはわざと誤用する、おそらくはそのような間違い(語を使う側の意識の「あるなし」が重要です)がほとんどですが、じゅうぶんに理解していないから間違えるというのと、わかっていて「誤用する」のは明らかに次元は違います。知らなかったから「性的嗜好」という言葉を使ってしまった、指摘されて自分の間違いが分かった、それだけをいえばいいのに、「性的嗜好」はいかにも「好き嫌い」を意味しているから、人それぞれの好みを、私は認めているといって、自分の犯した誤り(差別的侮辱)を認めようとはしない。これはLBGTQ問題にかぎらず、「差別の場面」で多くの「(差別をしているという)「確信」者」が犯す言葉の便宜的な使い分けです。自己の根底にある「差別感情・意識」を表面的な「言葉の使い方」問題にすり替えるという詐術なんです、でも差別感情は生き残る、生き残す。 

 バレットさんは「相手を侮辱しようとして使ったのではない。侮辱したのなら誤る」という。このような態度というか偽謝罪(謝罪のふり)の場面を、ぼくたちは何度も見せつけられてきました。この島で話題にされている「学術会議会員任命拒否」問題でも、きっとこの「一見謝罪風偽装」「言葉が足らなかった、だから謝る」(と言って、頭を下げたまま「舌を出す」)という景色がまもなく見られるはずです。(絶対に自らの「誤り」を認めない。それを認めたら、自分が壊れるほどに、差別意識が充満しているんだ)(「使った言葉は取り消す。しかし言葉の底にある「差別感情」はかえって増幅させるのがたいてい、恥をかかされたというのだろうか)

 「嘘も方便」という。これはなかなかの言い草(表現)で、まるで嘘が生きて存在することを認めている風でもあるのです。方便とは「たずき」「たつき」「たどき」ともいって、手段や方法、さらには 生活の手段=生計を意味します。政治家の多くにとって嘘というのは「生活の手段」だというのです。ここまでくれば、なんともすごいね。 あたらしいPMはのっけから「嘘も方便」をさらけ出しました。恥知らずであり、礼儀知らずですが、それは政治家の常だということなら、ぼくには注釈の余地はありません。「嘘」が始まったからには、周りがとりつくろわねばならない。というので、嘘の上塗りです。この「嘘」から「誠」は絶対に出ない。情けないけど、「自分は偉い」「他人より優れている」と思い込みたい奴ほど、「嘘にハマる」それで乗り切れたと錯覚したから「嘘のおかげ」を信じているのです。つまり「嘘も方便」となります。可哀そうだね。

  “So if I did, I greatly apologize for that.”「この言葉が侮辱に当たるのなら、それについては誤る」というのですが、それ以上のことは言わない。言っていない。ある言葉を使って、当事者を傷つけたり侮辱したのであれば、今後、この問題についてはこういう姿勢や態度をとるので赦してほしい、このように言う人はまずいません。「言葉」は取り消す、だから「侮辱」は消えるという具合にはいかないのですが、それで追及も謝罪も止まってしまうのです。残されるのは「虚しさ」と「後味の悪さ」だけ。今回(バレット氏)もそうでしょう。間違いは間違いだ、とどうして認められないのか、自分が減るんですか。じぶんの「自尊心」が傷つくというのなら、「あなたの言葉で傷つけられた人がある」とどうして気が付かないか。と言ってもダメなんだ。つける薬がないなあ。副作用のない「新薬」開発を急ぐか。

 apologizeというのは「お詫びする」のでしょうが、それは「弁解する」という意味でも使われます。誤ったんだから、もういいじゃないか、そんなつもりじゃなかった、真意はこうだとか何とか。弁明とも。また「謝罪」というのも軽い言葉になりました。「罪の自覚」があって、初めて「謝る」が生まれるのでしょうに。頭を下げるのが「謝罪」だと錯覚しているんですな。

 島社会では常に、「謝罪会見」のオンパレードですが、誰に対して何を「謝罪している」んですか、ぼくにはさっぱりわからない。何度か、会見の真似事をさせられましたが、「ぼくがやったんじゃない」とかならず「前置き」を入れました。評判は悪かったけど。このテーマについては円地文子さんの『食卓のない家』を読まれますように。我が子(成人)が大きな過ちを犯した。世間からの糾弾を家長は受けるが、間違い(過ち)を起こしたのは子どもだ、自分ではないと、親の自分は弁解も謝罪もしない。そんな親を社会はまず許さない。「この親にしてこの子あり」とか何とかいって、いちゃもんしかつけない、非難の矢を放ち続ける。

 「自他の区別」「自分と会社」「自分と学校」、その区別がついていない人が多いですね。「うちの会社」「ぼくの学校」「私の国」などなど、私やぼくは「塊」の一部なんかじゃない、という自覚が皆無です。反対に、集団と自分が合体しているのです。いまだにこんな物言いに出会うと、ぼくは卒倒はしませんが、驚きあきれます。「これは、お前の国かよ」「これはお前の学校かい?」とね。

 ぼくもこのような場面(謝罪の儀式)に何度も立ち会ってきました。「差別糾弾」「謝罪要求集会」というのでしょうか。「踏んでいる足をのけてください」「あらごめんなさい」これでことは済んでしまいます。何はなくとも、まず「偽謝罪」が肝心だというわけです。踏まれた足は「差別を受けた」ということだし、「あらごめんなさい」は「差別をやめる、謝る」と取れますが、踏まれた側の足の痛さは忘れられないのに対して、踏んだ方は「すっかり忘れて」しまう。また踏むかもしれないけれど、踏んだ後から忘れる。偏見や差別がくりかえされるのはこういった背景(事情)があるからでしょう。差別する側に「反省や謝罪」「(差別しない)学習や行動」を要求しても、「喉元過ぎれば熱さを忘れる」か「羹(あつもの)に懲りて、鱠(なます)を吹く」かのどちらかに終わってしまうのです。「謝罪」で終わるのではなく、そこから始まるのですが。

 なぜそうなるのか。それは「偏見や差別」はたった一人の問題であると同時に、その「一人」が生きている「社会」(世間や時代)の問題でもあるからです。「自分は差別するつもりはなかった」「ほかの人もやっていることを自分はしただけだ」というような「弁解・弁明する(apologize)」がどこでも見られます。それで、自らの「差別感情」「差別行為」を消そうとします。「社会」ぜんたいが差別しているのに、それを理解しないで、これは常識や通念であって、差別なんかではないと勝手に思い込んでいる、強弁しているだけです。さらに追及すると「開き直る」のですよ。「男社会」がかくも長く続いた結果、女性に向けられた偏見や差別がひどいものであっても、あるいは男・女ともにそれを「差別・抑圧」などとは自覚も意識もできなったに違いない。これは今に続く大きく深刻な課題です。

 「男女雇用」(「女男」「女男平等」という並びじゃないですね。辞書も「時代おくれ」ですね)の機会均等などと、今頃いうかと思われますが、この段階を踏まなければ次のステップには進めないのです。前途を思えば気が遠くなりますが、バトンタッチを確実にしなければならない。「日暮れて途遠し」バトンを隠すことも落とすこともなく、丁寧に次の走者に渡すこと。(「女は平気でウソをつく」という女性は何なんでしょう、男ではないし、女性なんですか。あるいは、…。「女の敵は女」ということはあり得ます。男の敵は…)(この項、まだ続くと思います)(蛇足 「謝罪」は男の専売ですか?)

____________________________

 「私は“性的嗜好”で人を差別しない」

ASSOCIATED PRESS2日目の公聴会で話すエイミー・コーニー・バレット氏(2020年10月13日)、

***************

「私は“性的嗜好”で人を差別しない」――トランプ大統領が最高裁判事に指名したエイミー・コーニー・バレット(Amy Coney Barrett)氏の発言が、LGBTQ当事者や権利支持者たちから強い反発を招いた。/ バレット氏がこの発言をしたのは、10月13日に開かれた上院司法委員会の公聴会だ。/ 2日目となるこの公聴会で、バレット氏には人口妊娠中絶や健康保険制度、同性婚など、リベラル派と保守派で意見がわかれる様々な問題についての質問が投げかけられた。

DEMETRIUS FREEMAN via Getty Imagesダイアン・ファインスタイン上院議員

******************

民主党のダイアン・ファインスタイン上院議員はLGBTQの権利についての見解に触れ、「同性カップルの婚姻を憲法は認めていると考えるか」とバレット氏に尋ねた。/ バレット氏は9月に、自身の“司法哲学”は2016年まで最高裁判事を務めた保守派のアントニン・スカリア氏に通じると語っている。/ スカリア氏は、同性同士の婚姻を認めた2015年の歴史的な判決で、反対意見を表明した判事だ。/ バレット氏は質問に直接答えず、「スカリア氏と同じ決定をすると推測すべきではない」と回答した。

これに対してファインスタイン議員は「これは、この国の大勢の人たちに影響を与えることだ」と強調。

「LGBTコミュニティが、闘い続けてようやく手に入れた自由と保護を後退させかねないスカリア判事の価値観に、あなたは共鳴してきました。私が聞きたいのは、あなたがこのことについて違う立場をとるという言葉、そしてこの自由に敬意を表するべきだという言葉です。あなたはそれを言っていません」と述べて、回答を促した。/ このファインスタイン議員の言葉に対して、バレット氏は次のように答えた。

「はっきりしておきたいのは、私は性的嗜好で人を差別したことはないということ、そして性的嗜好で決して誰かを差別しないということです」「人種差別と同じように、差別は嫌悪すべきものです」(“I do want to be clear that I have never discriminated on the basis of sexual preference and would not ever discriminate on the basis of sexual preference,” Barrett said. “You know, like racism, I think discrimination is abhorrent.”)

発言は侮辱的で間違ったものだ。SNSに批判が投稿される。(以下略)(HUFFPOSTJAPAN・2020年10月14日)

+++++++++++++++++++++++++++++++

 バレット氏の「発言」のどこが、「侮辱的で」「間違ったもの」だというのでしょうか。「性的嗜好で人を差別したことはない」「差別は嫌悪すべきもの」だと彼女は発言した。いったい、この中のどの部分が批判。非難されることになったのでしょうか。またその批判はいかなる根拠(理由)に基づくのでしょうか。

 バレットさんの発言をこの島社会に置き換えてみると、なかなか「進歩的」「差別問題に鋭い感覚」として、評価されることはあっても批判や非難されなかった。いやとんでもない。アメリカと同じように彼女の発言は「侮辱的」で「間違ったもの」、けっして許されない、まして「最高裁の判事」になろうとする人なんだから、と言われるでしょうか。(つづく)

____________________________________