實ハ僕ハ生キテヰルノガ苦シイノダ

  

【地軸】母八重 偉業は一人ではできない、陰に日なたに人がいるからこそだと思う。正岡子規は多くの友人らに囲まれたが、長い病床生活を最も身近で支えたのは言うまでもなく母の八重と妹の律▲あまり光の当たることがない八重を取り上げた特別展が、松山市立子規記念博物館で開かれている。松山藩の儒学者、大原観山の長女として生まれ、夫の病死後、幼少の子規と律を親族の助けを得ながら育てた。苦労は並々ならぬものがあったろう▲子規は「内藤先生へあつかむやうな言葉甚だよろしからず」と八重にたしなめられ、年長の内藤鳴雪にわびる手紙を送っている。人前でなく後で叱られたと見え、出しゃばらないが道理や礼儀を重んじ、毅然(きぜん)とものを言う八重の人柄が浮かぶ。指摘を受け入れる子規の信頼ぶりも▲「寒さうに母の寝給ふ蒲団哉」「行く年を母すこやかに我病めり」。八重を敬慕する子規の思いは、句や文章のそこかしこに▲「サア、も一遍痛いというてお見」。布団に斜めになったまま亡くなった子規の体を直そうとしたとき、強い調子で言ったと河東碧梧桐が回想している。静かで何事にも動じなかったという八重。人前で取り乱したのは、唯一このときだけだったのではないかと想像する▲母の強さやすごみ、温かさを改めて感じさせられた。秋の夜空を見上げ、親子のかけがえのない姿を思う。「タラチネノ母ガナリタル母星ノ子ヲ思フ光吾ヲ照セリ」子規。(2020年10月19日(月)愛媛新聞)(ヘッダー写真は明治三十三年四月五日、子規は三十五歳)

################

「地軸」という言葉も好きだし、それが表わす地球の姿にも感動に似たものを覚えます。愛媛新聞も、熱心な愛読者ではありませんが、ネットで読める程度の記事には目を通してきました。もちろん「地軸」は毎日見張っています。この「地軸」は何度傾いているのでしょうか。松山だから、子規ものは安心して読めるというのは、ぼくの先入観ですが。

 最近のWEB版記事には多くに鍵マークがついていて、有料となっています。当然と言えばそうですが、なんか意地悪されているようで、気分は愉快ではありません。看板の「コラム」さえ有料なのがありますが、大した度胸だと思いますね。でも度量が狭いんじゃないですか。スーパーのトイレットぺーパー並みに、店頭に出す、ただで持っていけ!(そんな店はないけど、あったらいいね)、複数の記事の中で有料と無料が入り混じっているというのはどうなんですかね。ネットものは無料が相場だとは思わないけど、この先の変化が気になります。 

 子規にはいろいろな逸話があります。(それはまたの機会にして)漱石との交友は、ことのほか熱いものがありました。今思っても羨ましいというほかありませんし、その出会いと別れに、ぼくはかぎりない哀惜の情を掻き立てられるのです。子規は俳句の革新を成し遂げ、病床にありながら、宇宙の森羅万象に関心を持ち続けた人だった。また、高浜虚子をはじめとする後輩たちにもじつにていねいな交わりを欠かさなかった。いわば「水平のつながり」でした。彼の人に対する優しさは母親の影響大であったでしょうが、それに反して妹の律さんには厳しかったし、冷たかったと思われるところがありました。(このあたりについては機会を改めて)

 どこかで少し紹介した柴田宵曲さんが書いています。「月並といふ言葉は月々催されるという意味で昔からあつた。それに新たな解釈を下し、俳句その他の批評に用ゐたのは正岡子規である。子規は当時の既成俳人、すなはち旧派の俳句仲間を指して月並連と云ひ、その作る俳句を月並俳句と称した。これが最初で次第に文学以外にも応用されるやうになつたのである。(中略)/ 由来月並なるものは諸事停滞の辺に生ずる。停滞は腐敗堕落の前提である。子規の書いた「ホトトギス第四巻第一号のはじめに」といふ文章の中に、

 我々は斃れて後に已むの決心を以て進むばかりである。併しながら永く都会に住んで 居ると、自然と腐敗して来る事は世の中に実例が多い、万一我々が都会の腐敗を一掃する前に軟化して勇気が挫けたといふやうな事があつたら、其時には第二の田舎者が出て 来て必ず我々の志を継いでくれるであらうという事を信ずる。といふ言葉がある。この腐敗はすなはち月並化を意味するので…。(以下略)(柴田宵曲『明治風物詩』ちくま学芸文庫。2007年)(左の写真は漱石が松山中赴任中に下宿していた「愚陀仏庵」)

++++++++++++++++++

 かなり以前に愛媛の地を訪ねたことがあります。どこを見たいというのではなく、彷徨するばかりの旅にもならない時間を過ごしました。これはどこに行っても同じで、その土地に足を印したというだけでぼくは満ち足りてきます。松山には相当に若い後輩(女性)がどこかの学校で教師をしていますし、ある放送局に勤務している人もいました。たったそれだけで、その土地が身近に感じられてくるのですから、単純なものですね。

 ぼくは若いころから子規がことのほか好きでした。漱石とは比べ物にならないくらいです。その理由は分かりませんが、きっと彼が若くして死んだことと関係があるのかもしれません。(漱石だって亡くなったのは五十歳。決して長生きではなかった)子規がロンドンで苦しんでいた漱石を励まし、英国から病床にある子規に声涙下る便りを書いたのは漱石でした。この二人の交わりを見て、「明治」という時代や国家が何と若かったのかと驚嘆したことを今でもはっきりと覚えているのです。「刎頚の交わり*」というのかしら。(*《「史記」藺相如(リンショウジョ)伝から》その友のためなら、たとえ首を切られても悔いないくらいの親しい交際。デジタル大辞泉)

 「明治は遠くなりにけり」と虚子に連なる中村草田男さんは詠じましたが、遠くにかすむが如くに、若い子規たちの笑い声が聞こえてきそうです。知りもしないのに、なつかしいなあ、という感情が溢れます。そして、その青年たちの横にはきっと、母の八重さんと妹の律さんが座っているのです。この地(東京や愛媛)では、「男社会」が頑として成り立っていたんですね。こんな場面がいつまでも消えないで残っているのが不思議なくらいです。

 ロンドンの漱石にあてた「子規の手紙」一通。(この手紙の翌年(明治三十五)年九月に子規は亡くなる、漱石の帰国はさらに次の年(明治三十六年)一月末のこと)

「僕ハモーダメニナツテシマツタ、毎日譯モナク號泣シテ居ルヤウナ次第ダ、ソレダカラ新聞雜誌ヘモ少シモ書カヌ。手紙ハ一切廢止。ソレダカラ御無沙汰シテスマヌ。今夜ハフト思ヒツイテ特別ニ手帋ヲカク。イツカヨコシテクレタ君ノ手紙ハ非常ニ面白カツタ。近來僕ヲ喜バセタ者ノ隨一ダ。僕ガ昔カラ西洋ヲ見タガツテ居タノハ君モ知ツテルダロー。ソレガ病人ニナツテシマツタノダカラ殘念デタマラナイノダガ、君ノ手紙ヲ見テ西洋ヘ往タヤウナ氣ニナツテ愉快デタマラヌ。若シ書ケルナラ僕ノ目ノ明イテル内ニ今一便ヨコシテクレヌカ(無理ナ注文ダガ)
 畫ハガキモ慥ニ受取タ。倫敦ノ燒芋ノ味ハドンナカ聞キタイ。
 不折ハ今巴理ニ居テコーランノ処ヘ通フテ居ルサウヂヤ。君ニ逢フタラ鰹節一本贈ルナドヽイフテ居タガモーソンナ者ハ食フテシマツテアルマイ。
 虚子ハ男子ヲ擧ゲタ。僕ガ年尾トツケテヤツタ。
 錬卿死ニ非風死ニ皆僕ヨリ先ニ死ンデシマツタ。
 僕ハ迚モ君ニ再會スルコトハ出來ヌト思フ。萬一出來タトシテモ其時ハ話モ出來ナクナツテルデアロー。實ハ僕ハ生キテヰルノガ苦シイノダ。僕ノ日記ニハ「古白曰來」ノ四字ガ特書シテアル処ガアル。
 書キタイコトハ多イガ苦シイカラ許シテクレ玉ヘ。
   明治卅四年十一月六日燈下ニ書ス
                                         東京 子 規 拜
     倫敦ニテ
   漱 石  兄

 この手紙を受け取った漱石は、ロンドンの街中で「死の練習」をしていた。重度のノイローゼに罹患し、生きた心地がしなかった時期でした。ある本によると、この頃、文部省は人を介して「漱石の帰国」を求めたらしい。このままでは「危ないから」と。漱石は国費留学を命ぜられていたのでした。後年、文部省から「文学博士」の学位を示されて、彼は頑なに辞退したこともあります。「則天去私」だか「私の個人主義」というものがそうさせたのでしょね。

 ともかく、苦しみの只中にあった漱石を救ったのは二人の同期留学生、早矢仕有的と池田菊苗でした。早矢仕は大変な実業家であり、「新生島国」の医師、実業家、銀行家でもあり、なんと「丸善」を起こし、「ハヤシライス」まで生んだ人。一方の池田は化学者でグルタミン酸という「うまみ成分」を見つけ、それを「味の素」と命名、のちの会社化につなげた人。ハヤシライスと味の素の生みの両親に漱石は助けられ、かつ病床の子規に励まされて、やがて帰朝後、早くも「文豪」になったのでした。それを大いに助けたのが虚子だった。いや、じつに明治は遠くなった、ホントに。(この辺の「青春の群像」も書きたいですね)

_______________________________________

もう一度勉強し直して参ります

「足立区滅びる」発言を議事録から削除へ LGBTで問題発言の自民区議が申し出
白石正輝区議(足立区議会ホームページから)

白石正輝区議(足立区議会ホームページから) LGBTなど性的少数者を巡り、東京都足立区の白石正輝区議(79)=自民=が、同性愛が広がれば足立区が滅びる、との趣旨の発言をし批判を浴びている問題で、足立区議会は19日、白石氏から発言の一部を取り消す申し出書が提出されたことを公表した。20日の本会議で許可されれば、「足立区は滅んでしまう」などの白石区議の発言が議事録から削除される見通し。区議会ホームページの動画からも関係部分は削除されるという。(以下略)(東京新聞:2020年10月19日 16時12分)

*****************************

 これで一件落着なんですか。区議さんや区議会はさらに過ちを重ねたようです。「そんなつもりで言ったのではない。もし傷ついた方がおられたら、お詫びします」というのが「嘘謝罪・偽謝罪・戯謝罪」の基本形(定番)です。謝罪でも何でもない。「前科一犯さ」くらいの舐めた姿勢の表れですね。この区議はどうなんですか。他人の発言に目くじらを立てるなと言われそうですが、目くじら(「目尻。目角 (めかど) 。また、怒った目つき。」デジタル大辞泉)を立ててなんかいない、むしろ嘆いているんです。十一回当選の議員さん。

 差別発言をした、それは間違いだと指摘された。ならば「申し訳ない、そのことに無知だった。勉強して出直します。お許しください」とどうして言えないのかね。沽券にかかわるなら、そんなもの捨ててしまった方がいい。「沽券(こけん)などという古い言葉を出しましたが、無用・役立たずの古証文のことです。(「人の値うち。体面。品位」もともとは「土地・山林・家屋などの売り渡しの証文。沽却状。沽券状。(沽は売るという意味)」(デジタル大辞泉)

 どうして「発言取り消し」になったのか。議会の常套方法によって、件の議員氏は説得されたのでしょうが、ぼくはそんなことには興味がない。問題は「議事録から削除」という始末の仕方です。これは改竄じゃないですか。歴史の偽造だといいたい。ある議員がこんな愚かな発言をした、世間で問題となったが、議会としては放置しておけないから取り消しました、というのでしょうか。起こった事実が「消える・消される」ことになる、これこそが悪質だとぼくは言いたのです。あったことをなかったことにして、一件落着か。

 いたるところで、こんな不始末がくりかえされてきましたし、これからもくりかえされるでしょう。どうしてまちいの事実を残さないのか、まちがった事実を消せば、間違ったことも消えるという作為・錯覚が働きます。「二度としません、過ちは」と言いつつ、二度三度と同じ過ちを犯してきたでしょう、多くの人が(ぼくも含めて)。今回の議員さんや議会も同じことを言うのですが、二度ではなく「三度も四度もまちがえる」と言ったに等しい。政治家の「食言」が止むことがないのも事情は同じです。まちがったと微塵も思っていないからです。なにも政治家だけに限らない、人間は何時でもこんなまちがいや過ちをくりかえしてきました。そう思ってもいないのに「まちがえる」という、それは集団・社会の側の問題でもあるのです。

 まちがいを肝に銘じるというなら、それを消去しないことです。記憶にとどめておく必要があります。歴史に「過ち」が記録されていなければ、それを学ぶ理由はなくなります。英雄伝や痛快談、野蛮劇だけが残るほかないからです。歴史を学ぶ理由は、単純です。自分(たち)が「過ち」をくりかえさないためです。学ぶのは試験のためなんかではない。「前車の轍・前轍」という言い方があります。轍は「わだち」「通りすぎた車輪の跡」です。「途轍」「途轍もない」という言い方もあります。「道筋」「道理」です。(面倒だからやめにしますが)歴史は「轍」「前轍」なんだといいたいんですね。同じ失敗をしないためにそれを学ぶ、それがお手本となり、自らを矯(た)める、そのために歴史の学習があるんじゃないですか。歴史はクイズではありません。

 発言を消去すれば、それを言った人も聞いた人も「言われたこと」がなかったと思い込む。言ったことは消されているのですから。おそらくこの方々は同じ失敗を重ねても恥じるところがないでしょう。これをして、なんと「誠意」のない連中だといいたくなります。大事なのは「誠意」「誠実」です。沽券だのバッジなんかどうでもいい。その根っ子が忘れられているのは、「歴史から学ぶ」ことを怠ったからだ。 

 水俣の海は埋め立てられて、今では公園になっています。歴史を抹殺する手法として「埋める」というのは象徴的です。先年亡くなられた女性作家は『沖縄の骨』という本を書かれ、あらゆる地のしたには「骨」があると書かれていました。その骨の上で、ぼくたちは「束の間の繁栄」だかを享楽しているのでしょうか。歴史は「地層」でもあります。深く学べば学ぶほど、ぼくたちは多くの「過去」から何かを学ぶことができるのです。昨日の出来事を隠して、さて、僕たちはなにを「歴史」として残しうるのでしょうか。(上の左二枚は現●K記者の友人が現地取材により、ぼくに送ってくれたものです)

*******************************

 蛇足(が多いですね) 亡くなった、八代目桂文楽さん。通称「黒門町(の師匠)」にいくつものエピソードがありますが、ぼくはこれにもっとも打たれました。最晩年のことです。他者からの引用で申し訳ありません、このくだりはつらくて、自分では書けないのです。

***************

「そして、運命の日、昭和46年8月31日を迎えるのだ。/ この時のことは、『対談落語芸談2』(川戸貞吉編)に詳しい。川戸は学生時代から文楽に可愛がられていたが、文楽が専属となっていたTBSに入社し、落語番組の制作に深く関わるようになっていた。この日も中継のため会場の国立小劇場に来ていた。楽屋に挨拶に行くと、いつもは明るく会話に興じている文楽が、この日は無言で鏡を見つめている。ただならぬ気配に、川戸は声を掛けることもできず、そのまま中継車に戻り、「黒門町、今日は様子がおかしいぞ。念のためマイクのレベルを上げておいてくれ。」と指示を出した。/ 文楽の出番は2番目。演目は『大仏餅』。『大仏餅』というのは、文楽にとって、体調の悪い時や客が合わない時に演じる、いわば安全パイのネタだった。しかも前日の東横落語会にもかけている。その『大仏餅』の主人公、神谷幸右衛門の名前が出てこない。文楽は突如しばらくの間沈黙し、静かにこう言った。「申し訳ございません。台詞を忘れてしまいました。」そして、声を張って「もう一度勉強し直して参ります。」と言って高座を下りていった。


 高座のそでで出迎えるマネージャーの出口一雄に、文楽は「三代目ンなっちゃった。」と呟いた。三代目というのは、三代目柳家小さん。夏目漱石が激賞したこの名人も晩年は呆けてしまい、噺が堂々巡りをして途中で幕を下ろされるといった悲惨なエピソードを残している。文楽はこの三代目の晩年を知っており、常々「三代目にはなりたくない。」と言っていた。そう言ってはいたが、いずれ自分も三代目のようになるのではないか、という不安を文楽は抱いていた。不器用な文楽は、やがて来るであろうその日に備え、客に詫びる口上を練習してさえいたのだ。(しかし、この日の朝は、その稽古をしていなかった。前日つつがなく演じた『大仏餅』を、まさかしくじるとは思っていなかったのであろう。)
文楽の言葉に出口は男泣きに泣いた。これが、名人文楽の最後の高座となった(http://densukedenden.blogspot.com/2011/03/blog-post_26.html) 

+++++++++++++++

 足立区議の話と何の関係があるんですか、と詰問されるでしょうが、ぼくは答えない。文楽さんの無念や悲しみを感じて、この逸話を思い出すたびに、「人の誠意」というものを思わないわけにはいかなくなるのです。この話は、ぼくの後輩で、先年亡くなった友人からじかに聞きました。彼はこの寄席(会場)にいた。ぼくが涙をこらえられなくなるのは、「もう一度勉強し直して参ります」と高座を降りたことより、その日のあることを恐れて(確信してだ)、毎日セリフ(口上)をくりかえし練習していたということです。「名人」の最晩年の「無観客」の寄席でした。

 自分には誠実に、他人には誠意をもって。過ちは人の常ですよ。それにどう向き合うか。向き合えるか。

______________________________________

なぜスカートを履かせたがるの、学校は?

Cassandre Bau-Plourdeさんのインスタグラムよりカナダ・ケベック州でスカートを履いて登校した男子生徒たち
私の壁見えてますか2020年10月12日 14時36分 JST
男子生徒がスカートで登校。何が起こった?制服への抗議運動が、カナダの高校生の間で広がる
彼らが訴えているのは、ジェンダー平等と性的マイノリティの権利についてだ。若田悠希

 カナダ東部のケベック州にある複数の学校で、制服のルールに抗議するために、男子生徒がスカートを履いて登校している。/ 現地メディアが複数の学生に取材。彼らが訴えているのは、ジェンダー平等と性的マイノリティの権利についてだ。

「男子生徒の気が散る」のは女子生徒のせい?

 CBCによると、ケベック州ラヴァルの私立高校に通う男子生徒ジュゼッペ・コセンティーノさんは、モントリオールのサウスショアの、スカートを履く男子生徒のSNSの投稿を見て、自分たちのクラスでも、何か行動を起こそうと計画したという。/ この高校には、他の学校と同様に「スカートの丈は、最も短くて膝上10センチまで」というルールが存在する。一方で、男子学生が着るショートパンツなどの制服には、このようなルールは存在しない。/ コセンティーノさんは、CBCの取材に対し、「多くの教師が女子生徒に対し、『気をつけなさい。スカートが短すぎて、男の子たちの気が散るだろう』と注意しています。しかしそれは、女の子ではなく、男の子の問題のはずです」と回答。性差別的なドレスコードや、女性の身体の過度な性対象化に、異議を唱えている。(以下略)(https://www.huffingtonpost.jp/entry/story_jp_5f83a20fc5b6e5c32000327f?utm_hp_ref=jp-homepage)

99999999999

 制服のイメージは何でしょうかね。ぼくはまず軍服を想定します。いろいろと変遷がありますが、制服(uniform)を着用することで一体感をかもすということがあります。第二に、これは軍隊の場合ですが、制服・制帽・軍靴などは「天皇からの授かり物(恩賜)」、それゆえの「国家への忠誠」を図ることなどがあるでしょう。この島の学校制度は軍隊の開設と同時期に始まりました。したがって、制服ばかりか、学校の価値観というか、習慣やしきたりも軍隊から借りてきた。そっくり軍隊が姿を変えて学校に入り込んだんですね。懲罰(体罰)・怒声・号令・遠足(これは軍隊の訓練の一種だった)、その他、いっぱい。「全員集合!」はとても嫌だった。「点呼」なども残っていますね。なんでもかんでも、てんこ盛りだ。

 ぼくも人並みに学校に行きました(行かされた)が、「制服」には頓着しませんでした。着たい服を着るという、単純な姿勢を押し通そうとしたように思います(スカートは履かなかった)。もちろん、教師からやかましく言われたが、これも無頓着でした。(●とん‐じゃく〔‐ヂヤク〕【頓着】 の解説[名](スル)《「貪着」と同語源。「とんちゃく」とも》深く気にかけてこだわること。執着すること。「相手の気持ちに頓着しない」)(デジタル大辞泉)一ミリのはみだしも許さないくせに、家ではだらしない大人ががほとんどかな。

 一体感というか、全体の中に個を沈み込ませる、個人を隠す・消すという効果というか、全体主義の空気が横溢するのが望まれていたと思う。だから、そこから外れることは徹底して嫌われるし、外れる奴は許そうとしなかった。それが学校の「制服」強制の背景というか光景です。詰襟のボタンをいつでも外していましたが、それにいちいち文句を言われたが、言わせておけ、という姿勢も曲げなかったようです。あいまいな言い方をしていますが、ぼくは「揃えられる」ということが何よりも「好かん」人間だったから、そのことで不利益?を被っても意に介しなかった。(強がりを言っているように聞こえますが、当時はビビっていたでしょう、ちょっとは)

 制服や制帽、カバンまで同じ。さらに校歌を歌わせられる。学校では教えなかった流行歌は一度聴いたらすっかり歌えましたが、校歌というのは何も覚えていません。小・中・高・大学と、それぞれの学校にあったんでしょうが、歌った記憶すらありません。歌も言葉も「旗」になる、「旗」にする。「旗の下に」という教条主義は学校(にかぎらない)の最悪の慣習で、それを取り除いたら、学校は学校でなくなると心配されるんです。

 スカート問題から離れてしまいましたが、スカートに代表される着物は「スティグマ(烙印)」なんですね。その典型は「囚人服」でしょうか。さらに古くは、人間を選別するための着衣が強いられた時代もありました。身分や地位をあらわす「名詞」「番号札」みたいなものでした。今だと、「あいつはコロナだ」と指さすように、区別や排除(差別の機能)を持たせたのでした。「女はスカート」「男はズボン」、これも一種の明確な烙印です。この烙印を押すのはだれかが問題となりますが、言わずともわかるでしょう。

 「私作る人」「俺食べるサル」というのも役割分担というより、狭い穴倉に「性を閉じ込める」強い働きをしてきたのです。だからスカートを男の子が履こうが、犬が履こうがいいじゃないかというのは、一つの価値観からすれば許されないことだった。性の区別が混乱するからです。性別を上下(優劣)関係に置き換えていた人間にとっては。だから混乱した方がいいんです。価値観が壊されなければ、新しいものの誕生はないからね。ここは「男子がスカートをはいても、自由学園だ」という学校があってもいい、ある方がいいね。ぼくも今日から「プリーツのついたスカート」を履いて徘徊しようか、自主トレを兼ねて。「防災無線」で山中に知らされるかも。

 みんなでというのではなく、「私が決める」「ぼくがする」というのがいいね。

\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\\

選挙権がないなら納税しない

 小社会 民権ばあさん

 日本の女性が選挙権や被選挙権といった参政権を得たのは太平洋戦争が終わった1945年。翌年の総選挙で初めてその権利を使った。漫画「サザエさん」の作者、長谷川町子さんは10年後の56年、こんな作品を描いている。/ 山頂で10周年を大喜びするサザエさん。しかし、山へ至る道には笑顔がない女性が列をなす。参政権がないまま、さまざまな制約の中で暮らしてきた明治や大正、戦前の昭和期の女性たちだ。漫画1枚で、その長い歴史を表している。

 明治時代、女性として初めて女性の参政権を求めた「民権ばあさん」こと楠瀬喜多の没後100年。その企画展が高知市の自由民権記念館で開かれている。社会見学の小学生が展示品の一つ、漫画パネルを熱心に見ていた。/ 戸主として納税の義務を負いながら、女性というだけで投票権がないのはおかしい―。喜多は男女同権を求めて現在の知事に当たる高知県令に訴えた。立志社の演説会に参加し、自由民権の考え方に共感していたのだろう。/ 訴えてから2年後、一部の自治組織で女性参政権が認められた。だが長くは続かない。終戦まで、さまざまな人が運動や活動をし、それらは苦難の連続だった。

 企画展には模擬投票コーナーがあり、子どもが票を投じていた。ある女子児童は「民権おばあちゃんは勇気があった」。短い時間ながら参政権の歴史に触れ、大切なことが心に届いていた。きょうは喜多の命日。(高知新聞・2929/10/18)

 一ツとせ~ 人の上には人ぞなき 権利にかわりはないからは コノ人じゃもの(植木枝盛「民権数え歌」)(「自由は土佐の山間より出づ」と叫んだ人。福沢諭吉の愛弟子だった)

+++++++++++++++++

● 楠瀬 喜多(読み)クスノセ キタ=生年月日天保7年9月9日(1836年) 出生地土佐国弘岡(高知県) 経歴車力人夫頭袈沙丸儀平の長女。小山興人の塾で漢学を学ぶ。安政元年(1854年)土佐藩の剣道指南役楠瀬実と結婚、剣道・薙刀を学び、かたわら鎖鎌も修得した。明治7年夫と死別したのちは、時事に奔走。板垣退助に共鳴し、立志社の民権運動に参加、自ら壇上に立ち民権家壮士と共に阿波、讃岐などに遊説した。河野広中、杉田定一、頭山満などの同志の面倒を見、“人権婆さん”として知られた。晩年は潮江村の寺に託居、念仏三味の余生を送る。没年月日大正9年10月18日(新訂 政治家人名事典 明治~昭和の解説)

*************************

 土佐というところは面白いですね。親父の故郷でもあり、ぼくも何度か通いました。長曾我部以来の、「平等」の伝統もあるのです。目上に対して、男に対して「敬語」がないというのは、それだけ「俺とおまん」の関係が成り立っていたという意味でしょう。ぼくは枝盛も好きでした。小野梓も大好きでした。

 今日は楠瀬喜多さん。ほとんど知られてはいないかもしれません。学校でも学ばないでしょう。でもそれでいいのです。学校を出てから、どこかで「出会う」方がはるかに大切ですから。試験に出るから「楠瀬喜多」と暗記されてはたまらない。今日は彼女の没後百年。このところ、LGBTQに関する話題に触れてきましたが、彼女はどういう女性だったか。「女はいつも嘘をつく」といった女性もいましたが、男も嘘をつくのを嫌になるほど見せつけられています。要するに「人間は嘘をつく動物である」ということ。それに反して、犬や猫は嘘をつかない。楠瀬喜多さん、です。

 彼女は漢学を学び、武芸も習得し、そのうえで、民権運動に奔走した人でもあります。下手な形容詞がつかないくらいに、聡明で親切で女気(男気はすっかり影を潜めてしまいましたが)あふれる女性でした。いるところにはいるんですね、こんな人が。(☜ 敗戦直後の国会)

#############

 「明治11年(1878年)、区会議員の選挙で「戸主として納税しているのに、女だから選挙権がないというのはおかしい。 本来義務と権利は両立するのがものの道理、選挙権がないなら納税しない。」と県に抗議。しかし県は規則だと要求を受け入れず、喜多は内務省に訴え出たのでした。 これは婦人参政権運動の初めての実力行使となり、全国紙大坂日報、東京日日新聞などでも報道されました。(以下略)」(http://www.tosa-jin.com/kita/kita.htm)

 まるで米国のソローのような人ですね。ちなみに、ソローは1817年生まれ。ニ十歳ほど歳上でした。二百年近くも前に、洋の東西の男女が権力の理不尽さや不合理に身を挺して抵抗(闘争)したというのも痛快という以上に、勇気のある行動をとったと感心します。(今では当たり前に選挙権があるからか、それをいいことに脱税する輩がいます)この地には、当時は漂流していましたが、ジョン万次郎もいました。(1827年生まれ)彼もまた、びっくりするくらいに聡明で開明的で、自立心の確かな人でもありました。(ここでちょっと、書きたくなりましたが、いずれ別の機会に)

 この駄文の目的は、土佐の「楠瀬喜多」という女性が生きて、今から百年前に亡くなった、その生涯は驚くばかり開明的な思想と信条で生き抜いた、今から見ても勇気ある人生だったということを改めて学びなおすきっかけにしたい、亡くなって百年という区切りの日に、有無定かでないぼくの向学心をゆすぶるためにもと記した次第です。これを期に、自主トレに一層励むんだ、郷司君よ。

(権力を行使してまで「弔意・黙禱」を強制しなければ墓前に額ずかれない「大勲位」より、ひっそりとささやかに、百年の後に、たった一人で「思いを馳せる」男がいるという、その機微にふさわしい人でもあったと、ぼくは愚考します)(蛇足 「民権ばあさん」という呼称、時代背景を考慮したとしても、ぼくは適切ではないといいたいね)

________________________ 

秋の夕日に 照る山紅葉 濃いも薄いも

タイの首都バンコクで緊急事態宣言発令後に集結し、明かりをかざすデモの参加者ら(2020年10月15日撮影)。(c)Jack TAYLOR / AFP
異例の王政批判も…タイ民主派デモ、最新情勢と今後の見通し  2020年10月16日 15:05 発信地:バンコク/タイ [ タイ アジア・オセアニア ]
【10月16日 AFP】タイ全土でこの3か月間、学生たちが率いる民主派デモが激しさを増している。デモの参加者らは、批判不可能とされてきた王室の改革を求めて異例の声を上げている。
 15日早朝、政府は非常事態宣言を発令し、5人以上の集会を禁じた。同日、主要な指導者らを含むデモの参加者20人以上が逮捕された。
■デモ隊の要求は?
 抗議行動に参加している人々はまず、プラユット・チャンオーチャー(Prayut Chan-O-Cha)首相の退陣を求めている。元陸軍司令官のプラユット氏は、2014年にクーデターで政権を掌握して以降、5年間にわたって軍事政権を率いた。この軍政下で新憲法が起草され、昨年、新憲法下初の総選挙が実施された。/ この総選挙の結果、プラユット氏は文民政府を率いる首相として選出されたが、これについては新憲法の条項が同氏に有利に働いたと専門家らは指摘している。デモの参加者らは、プラユット氏選出に至る全ての行程が裏切りであると非難し、議会の解散、憲法改正、デモに対する弾圧の中止を求めている。/ さらにデモの参加者らは、強大な力を有する王族を批判からかばう不敬罪の廃止を含む、10項目の王室改革要求を掲げた。
■なぜ今なのか?
 若者の間で人気のある野党・新未来党(Future Forward Party)の指導者らが政治活動を禁止された2月以降、不満が沸き立っている。デモの参加者の多くは、新未来党の排除は政治的な動機によるものだと非難している。/ 新型コロナウイルスのパンデミック(世界的な大流行)によるロックダウン(都市封鎖)は、タイの経済状況を急激に悪化させ、富裕層と貧困層の間にある亀裂を露呈させた。
 さらに今年6月には、カンボジアで亡命生活を送っていたタイの著名な民主活動家ワンチャルーム・サッサクシット(Wanchalearm Satsaksit)氏が失踪した。ツイッター(Twitter)上には、その答えを求める活動家らの抗議が広がった。/ 7月半ばになると、ネット上の抗議が現実の抗議デモとなり、タイ全土に波及。9月中旬には、2014年のクーデター以降、最大規模となる約3万人がデモに参加した。(以下略)(https://www.afpbb.com/articles/-/3310244?page=1&pid=22743210)
ASSOCIATED PRESS警察隊(2020年10月15日)

#################################

 香港に刺激されて行われたと言われていますが、それだけではないでしょう。クーデターをおこして政権を奪取し軍政を敷く、偽りの「民政移管」をしたところで「お里」は知れています。この政権もまた「独裁」への道を闊歩し始めたからです。武力で人民を抑圧する快感に勝てないのはいずこも同じです。それに輪をかけたのが現「国王」。腐敗と堕落ではだれにも負けないと自負(したかどうか知らぬが)せんばかりの退廃のきわみでした。「ワチラロンコン国王は2016年に即位して以降、600億ドル(約6兆円)規模とされる王室の資産を個人管理している他、陸軍の2部隊を自身の直轄下に移動させている。/ タイでは現在、秘密主義の王制への透明性と改革を求める前例のない民主派デモが起きている。」(AFP・2020年9月2日 )

 対岸の火事だと思っているのは暢気ですね。にわかにこの島でもタイ並みの「デモ」が起こるとは考えられないとみる人はほとんどでしょ。でもどうでしょうか。今年とか来年というのではありません。でたらめのかぎりをつくし、嘘八百を並び立てる政治がこんなに長く続くとどうなりますか。まさか「皇室」廃止や「天皇退位」を求めるデモが起ることはないとぼくも考えるのは、「ワチラロコン」に比べるべくもない質素な生活に徹しておられる皇族の生活を見れば明らかです。でも、「民主主義の旗」を立てながら、手前勝手な政道を敷設する愚を許すにも程があるという事態は、実はぼくたちの足元近くまで来ているのではありませんか。

“”””””””””””””””””””””

 西に東に「政争」「反政府運動」「抗議デモ」…と、大きなうねりのような「民主主義(回復)運動」が陸続と連鎖するのはなぜでしょうか。それだけ政治の質が悪くなってきた証拠です。権力は腐る、腐るのが権力だ、そのようにぼくは言ってきたし、ささやかな世界でしたが、それを経験しても来ました。権力の大小を問わず、腐るんですね。そんな危険地帯に長居は無用とはいかないのでしょう、ある種の人々にとっては。いずれにしても、ぼくには図り(計り・諮り・謀り)がたし、です。

 「権力は腐敗するってホントだね」(朝川 渡)

______________________________________

「住めば都」って、なぜ「都」なの?

  魅力度ランキング

 何とも罪づくりなランキングである。民間調査会社による地域ブランド調査で、長年40位台に低迷していた本県の魅力度は最下位に転落した▼12年連続1位の北海道をはじめ、上位は京都や沖縄といった人気観光地の指定席で、ウェブ上の見出しを見ても話題の中心はもはや「どこがビリか」に変容した感がある▼最下位続きだった茨城県は過去最高の42位に上がった。昨年の発表は台風19号の被災直後だったこともあり、大井川和彦(おおいがわかずひこ)知事が激怒して耳目を集めた。今年は「魅力度ナンバーワンの県を目指したい」とコメント。どう受け止めたらよいのか▼本県は本年度まで5年間、25位以内を目標にさまざまなイメージ戦略を展開してきたが、ブランド力向上と因果関係が見えないとして来年度以降、順位を指標にしない方針を決めた。そうした中での最下位転落も皮肉である▼ただ、本県は魅力がないというより、印象が薄いのは間違いない。調査結果を伝えた日の紙面には、本県の県民所得が全国3位という記事も載った。本県の底力をいかに知ってもらうかの方が重要だ▼その陣頭指揮官を選ぶ知事選が1カ月後に迫る。本県をビリと位置付けたランキングを見返せるような県に変えるため、候補者がどんな戦略を掲げ、有権者は誰に一票を投じるか。そちらの方が注目に値する。(下野新聞・20/10/17 8:23)

==========

「地域ブランド調査2020」は、1,047の地域(1,000市区町村、及び47都道府県)を調査対象とし、全国3万人が各地域のブランド力を徹底評価する日本最大規模の消費者調査です。2006年に調査を開始、毎年実施し今回で15回目の実施となります。/ 調査はそれぞれの地域に対して魅力度、認知度、情報接触度、各地域のイメージ(「歴史・文化のまち」など14項目)、情報接触経路(「旅番組」など16項目)、地域コンテンツの認知(「ご当地キャラクター」など16項目)、観光意欲度、居住意欲度、産品の購入意欲度、地域資源の評価(「街並みや魅力的な建造物がある」など16項目)などを質問。調査項目は全84項目で、各地域の現状を多角的に分析できます。(https://news.tiiki.jp/05_research/survey2020)

==================

 つまりは好き嫌いのランキングであり、自己宣伝がうまいところが上位に来るだけの話で、そこに住んでいる住民にとっては迷惑ではあっても、何が嬉しいものかというばかりだと、ぼくはみている。昨年までの抜群最下位「茨城」も新たなブランド度ワースト県「栃木」も、ぼくはそれなりに知っている。何度も訪れている。観光地などにはいかないが。どこがよくてどこが悪いかに、それほど、いやまったく興味はない。両県は、鮟鱇や餃子がともに自慢の種だけれど、行きもしないでいい悪いは判断できない相談です。見たことも会ったこともない首相の「魅力」がやたらに高い、いわば好感度が高いというのは、忽ちに嫌悪度に早変わりするのが世の常です。何事にも軽薄、これがカルチャーなんだ。気にするなというのも無責任ですが、「人の口には戸が立てられない」といいます。放置しとくにかぎりますよ。

 政治や経済の要職にある人間が己の評判ばかりを気にして、本来の筋道をわすれていることにまったく頓着しない、そんな無責任が横行している時代ですから、高い低いを気に病んでも仕方がないと、矢張り口走ってしまいます。「順位を指標にしない方針」という舌の根が乾かないうちに、「ランキングを見返せるような県」などと宣う。負け犬根性を持ちながら、新聞記者が県民に嘆いてみて、どうします。ぼくは自分が住むところが何番だとか最下位だとか、そんなことには一向に関心がない。順番や序列(をつける根性)ほど愚劣なものはないと、生まれてこの方、筋を通してきました、自慢ではありませんが。一番がいるのはビリがいるからです。「ビリになるにも、能力がいる」といったのは久野収さんでしたね。ぼくは尊敬しています。

 ずいぶん幼いころ、マルクスとエンゲルスという名前につづいて、エンゲルスは最高の「セカンドバイオリン」だと書いてあったのを記憶しています。「一番じゃないとダメなんですか」と口走って「叩かれた女性」議員もいました。ぼくなら、「番外ではアカンのか」と言いますね。本来つけられない順番をつけることがそもそもの間違いだし、それに口をはさむのもどうかしているね。(数字で表せるということ自体が、明確な限界を示しています)犬と猫のどっちがいい(好き)かっていう類ですよ。どっちだっていいじゃん。ラーメンと日本そばのどっちが好き?勝手に食えよ。

 「住めば都」と言いますが、ぼくはこれが気に入らない。「都は京都」と辞書にはあります。宮家のあるところ、三宅(みやけ)も大宅(おおや)も「宮処(みやけ・みやこ)」といって、「天皇」がいる場所という意味で長く使われてきました。まあ、御所です。だんだんとつまらぬ話になりましたので、これ終わりにします。(蛇足 明治になり、京都にいた「天皇」が巡幸のつもりで「ちょっと東の地」に出かけ、そのまま江戸に住みつかれた(つかされた)。当時「江戸は」「東京(とうけいとも)」と称されました。拉致されたんですね。今もそうです。京都から東京に行くことを「下る」と言い、行かないのを「下らない」と言った。つまらんを下らんというのはそこから出てきた。今はすべて東京行きは「上り」という。負け惜しみだね。京都は「千年の都」という、桓武さん以来ね。それも貧乏たらしくて嫌ですね。今では「大吟醸」になっています。小学校の同級生も酒を造っています。先年、帰京の折に戴きましたが、銘柄は忘れました)

     (「ちょっと東に」と、今はやりのGO TO TRAVELに出かけたんですね)

 ご当地自慢は分かりますが、のど自慢じゃないんですから、他所からとやかく言われる筋もなければ、評判が芳しくないからと、怯むこともありません。「我が家(ばかり)」が一番と言いたいが、それは比較を絶しているということ。どこかと比べられるかよ。また「隣の芝生」という、厄介ですね、人間の情念は。その意味は?

####

 ただいま大阪「都構想」なるインチキ政治を標榜しているグループがあります。これは何でしょうか。「二重行政」除去とか「府・市合わせ」だとか、つまらんしゃれにもならぬことを言って、要するに「東京」に対する対抗心というよりはコンプレックス(劣等感)が見え透いています。その東京は京都に対して、今なお劣等感を持っています。「下らない」ねえ。その「京都」が「長安」に対抗する意識を持っているかどうか知らないが、今も「天皇帰京」を待望している(集団)があって、活動している。ぼくはそんな「京都」は大嫌いです。

(*明治3年(1870年)3月14日、東北の平定が未だに行き届かないこと、諸国の凶作、国費の欠乏など諸々の理由で京都への還幸を延期することが京都市民に発表された。翌明治4年(1871年)3月になって、結局大嘗祭は東京で行うことが発表され、同年11月17日に東京で行われた。(Wikipedia)(註 いつでも「御所」に帰れる制度になっています)

●東京=(《東にある都の意》日本の首都。都庁は新宿区にある。慶応4年(1868)江戸を東京と改称、京都から遷都。当初は漢音「とうけい」と呉音「とうきょう」とが並び行われた。明治4年(1871)東京府となり)(以下略)(デジタル大辞泉)

●住めば都=どんな田舎であっても、そこに長く住んでいれば、慣れて住みよい土地に思えてくるということ。「都」は、政治や経済・文化の中心となる、住みやすい場所の意。(故事ことわざ辞典)(註 この解説はつまらないですね。どんな田舎であっても、という言い方がまちがっています。「どんなバカデモ…」というニュアンスがふんだんに含まれているでしょ。解説者自身は「都派」だと自白していますね。長く住んでも「都」にはならないよ、「住みつづけたい」のがいいところってことさ)

____________________________________________