疲れているが、今は慢心する時ではない

 (スペイン、全土の緊急事態宣言を来年5月まで延長 2020年10月30日(金)05時07分)(マドリードで28日撮影)(2020年 ロイター/JUAN MEDINA)

[マドリード 29日 ロイター] – スペイン議会は29日、新型コロナウイルス感染拡大に歯止めがかからない中、25日に全土対し発令した期間2週間の緊急事態を来年5月9日まで延長した。/ イラ保健相は議会で「何カ月にもわたり犠牲を強いられ、疲れが出ていることは認識している。ただ、今は慢心する時ではない。この先、状況は極めて厳しくなる」と述べた。/ 国内の新規コロナ感染者はこの日、2万3580人と最多を更新。累計では116万0083人となった。ただサンチェス首相は、統計漏れを考慮すると累計感染者は300万人を上回るとしている。コロナ感染症による死者は173人増の3万5466人。/ こうした中、スペイン中銀は、企業や家計がコロナ危機を乗り切るためには、欧州当局が一段と大胆な経済・政治的な対策を講じる必要があると述べ、銀行セクターの安定リスクに警鐘を鳴らした。(ロイター)(https://www.newsweekjapan.jp/headlines/world/2020/10/298717.php)

++++++++++++++++++++++++++

 欧州では感染が急増中です。現在は「第二波」と言われていますが、この波は第一波よりも大きく、感染者数は急増する傾向にあるようです。フランスもドイツもイギリスもイタリアも、いずれの国々も年初以来の「波状攻撃・襲来」に打つ手を失っているように思えますし、それが原因で庶民の日常生活は壊滅的な打撃を受けているのです。政治や行政が手をこまねいているというのではないのでしょうが、コロナに対する認識は十分ではないといわなければなりません。政治や行政の潜在能力が想像した以上に劣化、あるいは退化していることも事態を悪化させている原因でしょう。「なんだ、こんなこともできなかったのか」これはどこの国や地域においても違いはなく、コロナ禍に取り囲まれて、人民はは言い知れない不安を抱かされているのも否定できないようです。「先進国」も「後進国」もコロナは選びません。いったい、「先」とか「後」とかは、何を指して言うのでしょうか。

 気候や生活習慣、あるいは都市衛生の整備状況など、さまざまな要因が重なって感染力に地域差が出ているのは当然ですが、国や地域の境界を閉ざし、移動を禁止する。人混みの中に入らない、外出は緊急の場合以外は禁止など、まず通常の生活ができない状況が来年の五月まで続くと、スペインで「宣言」されたのです。まさに「戒厳令」に当たります。地球が異常に狭くなった時代、スペインは他国と離れているようでも、じつは同じ域内だというべきでしょう。人間の移動はウィルスの移動でもあります。

 世界の「空港の二百」ほどが今の事態が継続するなら「倒産」するとの予測も関係筋から出ています。この島の大きな空港会社二社が大変な打撃を受けている。人ではなく、モノを載せて飛んでいる状態です。多分、会社にとってはヒトでもモノでも、要するに「貨物」だったことになります。でも、ことは飛行機だけではない、ありとあらゆる職種・業種に悪い影響、深刻な打撃が波及しています。その間隙を縫って、日常世界の犯罪も休息をしていない。テロを含む凶悪な事件は昼夜を問わず、場所を選ばず多発しています。パンデミックは、人民の生活危機そのものです。肝心な時に、頼みの政治は役に立たないという無聊(tedium)、やるせなさ。

 国益や私益、それが当面の最重要課題であり、永遠の目的でもあるという「独尊主義」「私益主義」( egocentric)はコロナ禍に便乗して、裏でも表でも暗躍・躍動しているのも事実です。あまり嫌味なことは言わないつもりですが、この島政府の「政策・対策という名の愚策」のオンパレードがそれを実証しています。「税金で感染者数を増やしている」という破天荒の愚昧ぶりです、それが政治か?

 狭い劣島を往来するために税金を「湯水のごとく」濫費し、あたら各地に感染者を増やしているのです。当局者たちは毎日のように「検査」に怠りないのはいずれの国や地域でも同じですが、備えれば大丈夫と耳打ちされた庶民は(一網打尽)コロナに襲われているのです。いまだに検査数が足りない・増やすなどと寝言を言いながら、バカのかぎりをつくしているは当局者です。命は大切だと思う、だから自分で守るんだ。

(老若男女の区別なく、高いところに上りたがります。「天望デッキ」だそう。いったい、何を見たいんですか。「上から目線」を経験したいんですかね)(毎日新聞・2020年10月3日)

“””””””””” 

 曇天の朝、今にも泣きだしそうな空から、大粒の涙雨が落ちてきました。(風邪をひくな、コロナに近づくな)(7:00AM)

______________________________________________________

備えあっても憂いあり

  ベトナム中部に台風18号上陸 2人死亡、26人行方不明  2020年10月28日 21:55 発信地:クアンガイ/ベトナム [ ベトナム アジア・オセアニア ]
  
 【10月28日 AFP】(更新、写真追加)ベトナム中部に28日、台風18号(アジア名:モラヴェ、Molave)が上陸し、報道によると2人が死亡、26人が行方不明になった。木々が倒れ、住宅の屋根は吹き飛ばされ、ここ数年で最悪規模の被害となっている。/ 台風18号は、中部の沿岸都市ダナン(Danang)南部に最大風速約40メートルで上陸。当局は約37万5000人を安全な場所に避難させた。/ 国営メディアによれば、クアンガイ(Quang Ngai)省で少なくとも2人が、台風から自宅を守ろうとして死亡したという。/ 漁業関係者26人が行方不明になっており、捜索活動が行われている。台風で高さ6メートルの波が発生し、中部各地で停電があった。
  
  ベトナム赤十字社(Vietnam Red Cross)のグエン・ティ・スアン・トゥ (Nguyen Thi Xuan Thu) 氏は、同国で今月4度目となる台風18号の被害について、「多くの地域において過去最悪規模」だと述べた。/ 上陸に先立って学校やビーチは閉鎖され、多くの航空便が欠航となった。/ ベトナム中部は10月上旬以降、洪水と土砂災害に見舞われており、130人が死亡したとされている。また、国際赤十字・赤新月社連盟(IFRC)によると、洪水によって17万8000戸が浸水被害を受けた。(c)AFP 

**********************

 ほぼ毎日のように気象情報を確認します。多くは千葉県内の「Weathernews社」に依存しています。この会社は、終日情報発信中です。ぼくの「習性」のようなもので、幼いころの「伊勢湾台風」に遭遇して以来のものです。台風シーズンには、毎日太平洋上の雲の動きと海水温の状態を確認していたのですが、今月の半ばからほとんどの台風がヴェトナムを直撃しています。十五日ころ、この島の「新首相」がヴェトナムを訪問したというニュースは流されていました。鯉だか何だかに餌を与えている写真は見られましたが、肝心の「台風被害」に関して、ぼくの知る範囲では、報道は皆無でした。(彼の国に「見舞金」が贈られたという。「ABEのマスク」の二十分の一の金額だそうでした)

 ご当地の方々へ くれぐれもこの後も無事で過ごされますように、切に祈るばかりです。

 驚異的な雨量による浸水や土砂崩れによる被害は甚大で相当数の死者や負傷者が出たという記事も、ようやく探し当てて確認したところです。米国の新聞(ネット)はよく報道していたと思います。やがて十一月、ようやく今年は台風の直撃を免れたと安堵したのは事実ですが、アジアの国々に被害が及んでいるのを知って、まるで自分が被害に遭った気がします。この劣島は秋色濃厚で、各地で紅葉や黄葉が見ごろを迎えています。ぼくには不愉快な「Go To キャンペーン」が強引に展開されて、各地で「コロナの集団感染」「クラスター」なるものが指摘されています。コロナが勝つか、金塗れの自分本位政治が勝つか。実に愚かしい限りです。

 コロナにも自然災害にも、くれぐれも襲われないように備えたいし、襲われても最悪の被害を避けたいとひたすら祈るばかりです。ぼくには「備えあれば憂いなし」という安心立命はありません。「備えあっても憂いあり」という心境で生きているのです。ぼくはコロナ感染者の少なさにおいてヴェトナムと並びうる国はないという見方を(年の初めころは)していました。比肩しうるのは、かろうじて台湾ぐらいのものでした。感染者の少なさを勝ち誇ったかのように「日本モデル」などと舞い上がったPMもいましたが、ほとんど政治家は何もしていなかったこの島社会です。(10月29日午前十一時現在、ヴェトナムの感染者数は1173名。台湾は517名。日本は98877名)(Johns Hopkins Universityのデータによる)

__________________________________________

きめたきめた おまえとみちづれに

 京都市内で木々の紅葉が始まった。左京区の永観堂(禅林寺)ではモミジがちらほらと赤くなっている。見頃には人出が予想されるため、新型コロナウイルス感染予防の対策をする。/ 境内にある約3千本の大半はまだ青い葉だが、放生池周辺には園芸種も含めて色づいたモミジが見られる。参拝者は景色を眺めたり、写真を撮ったりして秋を楽しんでいた。/ 11月7日からは例年通り寺宝展とライトアップが始まる。すでに実施しているマスク着用や手指のアルコール消毒の呼び掛けに加え、新たに検温所を設ける。屋外の拝観順路を一方通行にして人と人の接触を減らすほか、19日からは人が集まりやすい多宝塔を立ち入り禁止にする。/永観堂は「三密にならないように気を付け、紅葉を見て心の安らぎを感じてほしい」としている。(2020/10/28 ©株式会社京都新聞社) 

++++++

 「なんでもランキング」の時代はいたるところで暴威を極めています。この「寺」が世間そのものであることは「マスク着用・消毒・避三蜜」が励行されていることからもわかります。そこがまた京都らしいとも言えます。何時でも、お寺さんは世間とともに、世間であることを誇りにしてきましたから。「千年の都」ですかね。

 この永観(えいかん)堂の紅葉が昨年度の見どころ、全国第一位だったそうです。「根拠」は何だったんですかね。「みな人を渡さんと思う心こそ 極楽にゆくしるべなりけり」と詠んだのは永観(ようかん)律師(1033-1111)。その名にちなんで寺号とされた。古いお寺で、幾多の変遷を経て今日に至っています。紅葉が知られるようになったのはいつのころからか。めったに行かないお寺です。理由は簡単、いつでも大勢の見物衆が屯しているからです。

 このお寺の「売り」はライトアップでしょうが、無粋なことおびただしいというべきで、ぼくはこれが嫌いです。木々や鳥たちにも大迷惑なこと。高いビルや塔を建てては「ライトアップ」だと。もったいない、無駄というより、余計なことをと言いたくなります。高さ制限や南・北斜線など、建築基準法は何かとうるさいのに、この「明るさ(照度)制限」は野放しなんですか。鬱陶しい限りです。前回のこのページで「山暮れて紅葉の朱を奪ひけり」(蕪村)と引用したのも、この情緒や風情を台無しにしてしまうことを、ぼくは忌み嫌っているからでもあります。黄昏も夜陰も、すっかり失われてしまいました。不自然が自然を凌駕する、それが「文明」という名の破壊行為なんですね。(右上の明光煌々。「電光」に誘われる衆生あり、誘蛾灯)

 紅葉はどこのものでもいいのですが、京都の寺は掃除や手入れが行き届いているので、気持ちよくみられる。でも、あまり手が込んでいると興醒めします。この近くに「詩仙堂」があり、ぼくはここにもよく行きました。佇まいが静謐な感じが印象的です。先年遊んだ時、この寺の前に「石川」と表札がかかっている家をみて(それ以前からあったのでしょうが、気づかなかった)、もしやと庭に居られた家人に伺ったところ「石川丈山(じょうざん)」の家系だということでした。ただそれだけのこと。ここは雨の日が殊にいいですね。ちょっと「作られすぎ」は、京都の行き過ぎ文化のよろしくないところでもあります。

●漢詩人の石川丈山(1583年~1672年)が晩年を過ごした詩仙堂は、自然に囲まれた静かな場所であり、四季折々の風景を楽しむことができます。/ 春にはサツキや青もみじ、夏にはハナショウブやキョウガノコ、秋にはススキやシュウメイギク、冬には静寂の雪景色など、様々な風景をご覧いただけます。/ また、庭園全体に広がる秋の紅葉はより格別です。静寂の庭園に響く、丈山考案の鹿おどし(僧都)も、日本ならではの風情を演出してくれます。(http://www.kyoto-shisendo.com/)

+++++++++++++++++++++++++++

 昔から人混みは大嫌いでしたから、混雑しそうな場所にはまず行かないことにしていました。おそらく「人見知り」がひどいんですね。今もそうです。千葉の辺鄙な山中に住んでいて、ゆっくりと歩ける範囲に紅葉もあれば、新緑もあると自慢するのではありません。猪や雉やその他の動物たちと「共生(共棲)」しているという風情です。自然の中に入り込んでというわけにもいきませんが、都会よりはよほど気持ちが和みます。それぞれの好みがありますから、これが一番という主張はしません。標高百メートルほどの丘の上にへばりついていますので、すべてが中途半端で、それがまたいいんだね、と強がりみたいな物言いをしています。家の周囲三・五キロ以内には店屋はありません。

 今日は秋晴れ、ゆっくりと山歩き、あぜ道遊歩です。二日前の二十七日(火曜)に、かみさんは無事に「出所」しました。まだまだこれからの養生が思いやられますが、さっそく牧村三枝子さんですよ、「みちづれ」あるいは「夫婦きどり」か。

 何言うてますか、と呆れられたような声が聞こえてきそうです。この道は初めて来た道、二人して、やがて四十八年目の春を迎えます。まあ、仲がいいのか悪いのか、当人たちにも判然としない、まるで「夫婦きどり」ですな。

___________________________________________________

唯一の被爆国、「核の傘」に隠れる

 ムーミン谷の願い 原子爆弾が投下された夏、フィンランドの作家トーベ・ヤンソンはちょうど「ムーミン谷の彗星(すいせい)」を執筆していた。自身の戦争体験をモチーフに考えていたが、スイッチ一つで多くの人生が完全に破壊される怖さを物語に取り込んだ。児童書としては異例のことだ(「ムーミンの生みの親、トーベ・ヤンソン」河出書房新社)▼彗星の接近でムーミン谷の平和は一変する。山は揺れ、海は干上がり、大地が裂ける。爆音が響き、燃え上がる世界の様子は、原爆による破壊の脅威の表現にほかならない▼二度と悲劇を繰り返さない。非人道的兵器の廃絶を目指す核兵器禁止条約の批准国・地域が50に達した。来年1月22日に発効する。容易ではないが、核保有国に軍縮を迫り、使用を困難にする効果はあるだろう▼注目されるのが、唯一の戦争被爆国日本の対応である。安全保障を米国の「核の傘」に頼ることから、政府は不参加の立場を崩していない。保有国と非保有国の橋渡し役を担うというが、腰は重いようだ▼日本のテレビアニメ「ムーミン」だが、実は初期の作品は海外での配給を禁じられた。体罰などの描写が「ムーミン谷」の哲学に反したのが理由で、トーベ・ヤンソンが失望したからだ▼「空、太陽と山が残っている。そして海が」。彗星禍を生き延びたムーミンの言葉だ。かの谷の住人の目に、きょうの世界はどう映っているだろう。(北海道新聞「卓上四季」2020・10・28)

++++++++++++++++++++

 1939年、戦争の冬のことです。仕事はぱたりといきづまり、絵をかこうとしてもしかたがないと感じていました。
『むかしむかし、あるところに』という出だしではじまる物語を書こうと思ったのも、むりのないことかもしれません。でも、王子さまや、王女さまや、小さな子どもたちを登場させることはやめて、そのかわりに、風刺まんがをかくときサインがわりにつかっていた、怒った顔をしたいきものを主人公にして、ムーミントロールという名前をつけました。
 とちゅうまで書いた物語は、1945年になるまで、そのままほったらかしになっていました。ところが、ある友だちがこう言ったのです。これは子どもの本になるかもしれない。書きあげて、さし絵をつければ、出版できるかもしれないよ、と。
 頭をひねったあげく、本のタイトルは、「パパをさがすムーミントロール」――――――「キャプテン・グラント」の探求物語がモデル――――――のようなものにしたかったのですが、出版社は「小さなトロール」を入れたほうがいいと言いました。そのほうが読者にわかりやすいというのです。
 この物語は、わたしが読んで好きだった、子どもの本の影響をうけています。たとえばジュール・ヴェルヌやコローディ(青い髪の少女)などが、ちょっぴりずつ入っています。でも、それがいけないということはありませんよね?
 とにかく、これはわたしがはじめて書いた、ハッピーエンドのお話なのです!

=====================================
トーベ・ヤンソン  冨原眞弓訳(講談社ムーミン童話全集『小さなトロールと大きな洪水』 作者序文より)(https://www.moomin.co.jp/tove)

+++++++++++++++++++++++

 大学生になってからも、ぼくは「ムーミン」に魅かれ続けました。主にアニメでしたが、絵本もたくさん読んだ記憶があります。子どもたちといっしょに読んだと思う。トーベ・ヤンソンという人は何人分もの仕事を成し遂げた芸術家だった。「ムーミン」物語誕生の由来、さまざまな経過を経て晩年に至るまで、彼女はみずからの戦争体験を生の根底に据えていたように思われます。静かなたたずまいの中に、遠くを見つめるよう眼差しをいつも、ぼくは感じたものでした。

 来年一月に「核兵器禁止条約」が発効する段階に来ました。「唯一の被爆国」という看板をいつも政治的に利用してきた政治が、今回も前例にたがわず、「アメリカの意向」を受けて批准しない理由を騙らない。腐敗しているというほかありません。やがて「懇願して仲間に」という進み具合になるはずです。政治権力者はアメリカと心中するつもりでしょうが、一人の大衆、一人の国民として、ぼくは断じて認められない。恥ずかしい限りです。何度も言いますが、あまりかがこの島を守るということはあり得ないこと、自らの利益にならないなら、即座に寝返ります。悪しき前例の枚挙にいとまなし、です。自己利益になるなら、どんな犠牲も払う、でもいつでも理屈をつけて投げ出す「勇気」だけもっている。

 「唯一の被爆国」と「核の傘」、なんという取り合わせか。原爆を投下され、数知れぬ無辜の民のいのちが奪われた、その当事国が差し出す「傘」に身を寄せるのですが、それには「黒い雨」も「核の灰」も降り注ぐはず。借り傘を求めたところで、被爆は免れないことを忘れているのか、忘れた振りをしているのか。2050年にはCO2排出ゼロ、原発はさらに継続利用という、不謹慎かつ荒唐無稽でありつつ、放射能汚染水を海洋投棄というでたらめ。恥ずかしいという以上に、この国にいること自体が犯罪だと、ぼくには思われてくるのです。「永遠の旅人」スナフキンを、ぼくはこよなく愛しています。

(核兵器禁止条約の批准50カ国・地域到達を祝う集会に集まった人たち。後方は原爆ドーム=25日午後、広島市で)(同下)

 【ニューヨーク=杉藤貴浩】国連は24日(日本時間25日)、核兵器の保有や使用を全面的に禁じる核兵器禁止条約が、発効に必要な50カ国・地域の批准に達したと発表した。90日後の来年1月22日、史上初めて核兵器を非人道的で違法とする国際条約が発効する。不参加の日本は唯一の戦争被爆国として核廃絶に向けた姿勢を厳しく問われそうだ。 24日に批准したのは中央アメリカのホンジュラス。国連は「批准した国を称賛し、交渉の促進に尽力してきた市民の活動に敬意を表する。条約発効は核爆発と核実験の生存者への賛辞となる」とするグテレス事務総長の談話を出した。(東京新聞・2020年10月25日)

 「加藤官房長官は、核廃絶というゴールは共有しているとしたうえで、安全保障上の脅威に適切に対処しながら、核軍縮を前進させる日本のアプローチとは異なるとして、署名は行わない考えを改めて示しました。」(N+K・2020年10月26日 18時20分) 「笑止千万」であり、「盗人に三分の理」にもならない、不真面目専一の虚妄です。米国はこの島を守備する気はさらさらありません。過去の数多の事例が証明済み。

_____________________________________________

人生は無意味である、と仏教は見た

 人生に意味があるかないか、そんなことは問うまでもないことで、「あるに決まっている」という人が大半でしょう。でもほんとにあるか、とさらに問われると、だんだん怪しくなるのも事実です。例えば「この品は千円(の値打ちがある)」と値札が貼られていれば、多くの人は「千円で買う」でしょう。「そんなの、何の値打ちもないよ」といっても構わないが、それを買うことはできないだけです。世の中はすべて、売る人買う人の絶妙の価値(貨幣)感覚によって売り買いが成り立っているのです。価値があるといわれればそうだ、と納得すす。価値(値打ち)は経験や計算によって売る人が買う人の懐具合を詮索して決めるのです。「人が決める」というところが肝ですね。

 それでは「人生に意味があるか」と訊かれれば、どう答えますか。また「お前の人生なんか、無意味だ」と言われることもあるでしょう。ぼく自身も「これまでの人生って、あんまり価値がないな」、と自己評価をしているきらいがあります。あの人より、この点で優れているから「価値がある」というなら、「あの人」を基準に計っているだけであって、別の人が横に来れば、価値や意味がなくなってしまうのではないですか。

 そもそも「人生に意味がある」「人生に価値なんてない」という問い自体が成り立つのかどうか、疑ってみるといい。根拠らしいものは「膏薬」みたいなもので、なんとでもいえるし、どこにでも貼れるような代物です。少しばかり考えかけたところで、面倒くさいなあ、という気になるのが落ちですね。あるともないとも、言えないといっておく方がまだすっきりしますが、それで安心していられるかというと、そうはいかないのも人生の厄介なところです。若い時からの読書の友ともいえる司馬遼太郎さんは短い文章で次のように言われています。 

 「人間の厄介なことは、人生とは本来無意味なものだということを、うすうす気づいていることである。古来、気づいてきて、いまも気づいている。仏教にしてもそうである。人間は王侯であれ乞食であれ、すべて平等に流転する自然生態のなかの一自然物にすぎない。人生は自然界において特別なものではく、本来、無意味である、と仏教は見た。これが真理なら、たとえば釈迦なら釈迦がそう言いっ放して去ってゆけばいいのだが、しかし釈迦は人間の仲間の一人としてそれでは淋しすぎると思ったに違いない。

 このため、釈迦は入念なことに、人間どもに対し、自分が自然物にすぎず、人生は本来無意味だということを積極的に、行為として悟れ、と言った。悟るという行為で、人生に唯一の意味を見いだした。本来無意味の人生においてこれ以外に意味を見いだせないというのが、仏教のように思える。 

 しかし、われわれ現代に生きている者としては、その程度のことをわざわざ悟るなどという面倒なことを、ほとんどのものがしたくないと思っている。(「富士と客僧」『司馬遼太郎が考えたこと』⑦所収、新潮文庫)

++++++++++++++++++++++

 もうこの先を続ける必要もないと、ぼくは考えています。司馬さんの短い指摘でもうじゅうぶんに「人生の意味」問題に関しては終わっているといえるからです。犬や猫を、ここに持ちだすのも気が引けますが、果たして彼や彼女は「私の生きる意味」があるかないか、薄々でも気づいているでしょうか。当事者にはなれないからわからないというのが正直ですが、あえていえば、どうも考えたり感じたりしているとは思えません。その点では人間とちょぼちょぼだとも言えます。牛や馬に価値があるかどうか、と問うのは彼や彼女自身ではないでしょう。あくまでも馬や牛に関係している人間の側が「意味のありなし」を決めている風情ですね。競走馬や農耕牛に育てて、それで一儲けを企んでいるのですから、あくまでも価値を決めるのは人間の方です。こんなことはすでにギリシアの昔に考えられていました。価値というのは「アレテ―」とよび、卓越性などという意味を持たせていました。馬は早く走る、牛はよく耕すという具合です。

 人生に価値なんかないんだ、とぼくたちは気付いているのですが、それではあまりにも惨めであり、生まれてきた甲斐がないと思いたいのも「人情」です。その反対はどうでしょう。「価値がない」と決め込んで「人生という勝負を放棄しちゃえ」となるケースもあるでしょう。生きていても意味がない、生きる意味を見出せない、と思い詰める人がほとんどでしょうが、なかには衝動的に死に駆り立てられる場合もあるに違いありません。暗い話題ですが、じつはもっと大事なことを言いたいがために面倒なことを言い出したのです。つまらないから、人生を放棄する、楽しいからもう少し生きていたい。あくまでも「人生の主人公」はその「生の持ち主」なのかどうか。ここをもう少し丁寧に考えてみたいのです。

 数日前、大阪市内で悲惨な事故(事件)が発生しました。報道によると、以下のようです。

  高校男子がビル屋上から転落死、知人と歩く女子大生巻き添え…重体に

 23日午後5時50分頃、大阪市北区角田町の商業施設「HEPヘップ FIVEファイブ」(10階建て)の入り口前の路上で、通行人男性から「2人が倒れている」と119番があった。消防が駆けつけたところ、若い男女2人が倒れており、男性は搬送先の病院で死亡、女性は意識不明の重体。防犯カメラ映像などから、大阪府警は、男性が施設の屋上から飛び降り、路上にいた女性が巻き添えになったとみている。男女2人が倒れていた現場周辺を調べる捜査員ら(23日午後6時23分、大阪市北区で)=関口寛人撮影

 府警曽根崎署によると、死亡したのは大阪府内に住む府立高校の男子生徒(17)。重体になったのは兵庫県加古川市の女子大学生(19)。/ 施設を所有する阪急阪神不動産によると、直前に施設10階の従業員専用フロアの防犯カメラに、男子生徒とみられる人物がエレベーター前に立っている様子が映っていた。

 10階から屋上に出るドアは普段は施錠されているが、非常時に備えて誰でも壊して開けられるようになっている。開けると警備室のブザーが鳴る仕組みだが、警備員が屋上に駆けつけた時は、誰もいなかったという。/ 男子生徒は私服姿で、屋上には学生証が入ったかばんが残されていた。府警は男子生徒が自殺を図ったとみている。/ 女子大学生は施設の入り口前の路上を知人女性と歩いていたところ、背中付近に男子生徒が転落してきたという。(以下略)(読売新聞・2020/10/24 07:57)

**************************

 事故後に女性は亡くなられたという。事故の詳細がわかりませんから無責任な推理はしない方がいいと思う。しかしこのニュースを見て、ぼくは「人生の意味」「生きる価値」という、考えても埒のあかない問題に誘い込まれたのです。若いころから、こんな問題を執拗に追いかけてきたようにも思いますし、いくら考えても答えは出ないことも、実ははっきりと知っているのです。にもかかわらず、この問題は時に生活の只中で生まれて、一時の「思考の自由」を奪うのです。生きる・死ぬという問題はどこまで行っても埒は開かないのは分かりきっていますが、世の中の仕組みや都合によって「意味ある人生」「価値がない生き方」などと評価されている、それが現実なんですね。そこでは「世の中」が仏であり、神なんです。

 なぜ高校生は飛び降りたのか、今となればだれにもわからない。書き置きがあるかもしれないが、真相はカスミの如しです。一方の、被害に遭われた女性は、まさか「ここで人生を閉じる事故に遭う」とはおそらく微塵も思わずに歩いておられたでしょう。じつに偶然の差配(非情)というべきか。ぼくには言葉がない。死のうとしておのれを放棄した人が他者を巻き添えにするという、二重三重の想像外の事故だったというほかないのです。二人の霊前に頭を垂れるばかりです。

 ここまできて、さて「人生の価値」云々とどうしていえるというのか、ぼくを立ち竦んでいるのです。どうにかして「人生の意味」を重いものにしたい、「人生には価値がある」とはっきりと肯定したいのは山々ですが、その根底に不安や危惧の念が蠢いているのですから、砂上の楼閣とは言わないまでも、びくともしない、しっかりした土台の上に「私の人生」は乗っかっているのではないことも疑えないのです。

 「釈迦は入念なことに、人間どもに対し、自分が自然物にすぎず、人生は本来無意味だということを積極的に、行為として悟れ、と言った。悟るという行為で、人生に唯一の意味を見いだした」というのは司馬さんです。「花は咲いたら、枯れて散る」そこに「意味」を見つけられるならどうぞ、だれがいてもいなくても「花は咲いて、枯れて散る」これを悠久の昔から無限に繰り返してきたのです。人間も同じじゃないか、というのが司馬さんなのか釈迦なのか、どちらでもいいんですが、無意味なところに、あえて意味を見出して「生きる手がかり」「人生の支え」を得ようとするのでしょう。それが仏教の持っている効用だとも言えます。

 それじゃ、キリスト教ならどうか。司馬さんいうところの釈迦のような「人生観」を、その教義は持っているのでしょうか。ぼくはキリスト教徒ではないので詳細は分かりませんが、釈迦よりもキリストはもっと人間の立場(弱い側)に立って、「生きる価値」や「人生の意味」を語っているようにもぼくには思えるんです。いくらでも引用できますが、今は止めておく。結論を言うようですが、人間の分際ということを忘れたくないといいたいのです。分をわきまえるというのは、人間の条件、置かれた状況を失念しないことを言うのではないでしょうか。(少し長くなりそうな危惧を感じますので、この「つづき」は次回に譲ります)

_____________________________________________

あらゆる状況を考えると、銃は必要だと思う

(射撃を練習するガーランドさん)(2020年 ロイター/Mike Segar)
 44歳のシングルマザー、アンドレヤ・ガーランドさんは、ミドルクラス中心の風情ある街・ニューヨーク州フィッシュキルで3人の娘とともに暮らしている。今年5月、彼女は護身用にショットガンを購入し、撃ち方を習うため、地元に新しくできた射撃クラブに加入した。クラブの規模は急速に拡大している。/  その後、ピストルの所持許可も申請し、ますます品薄になる弾薬類が入荷しないか常に気を配っている。地元のウォルマートに週3回は通うが「いつも品切れだ」と彼女は言う。/ 今年、米国の銃器産業は記録的な売上高を達成しているが、それを支えているのは、ガーランドさんのような初めて銃を購入する多数の顧客だ。彼女が銃器購入を決意した理由の一端は、気掛かりなニュースが重なっているためだ。新型コロナウイルスによるパンデミック、警察による黒人殺害をめぐる社会不安、そして多くの人が「選挙」の結果をめぐる紛糾が暴力事件につながることを心配している。/「周囲のあらゆる状況を考えると」とガーランドさんは言う。「銃は必要だと思う」──と。(中略) 
  ロイターが10数人の業界専門家、研究者、銃砲店オーナーに取材したところ、今年の市場拡大には、女性やマイノリティ、政治的にはリベラルで、これまでは銃所有など考えたこともなかった人々など、新たに殺到した初回購入者が含まれていたという。/「ふだんなら銃について考えもしない人々が、自分たちの領域以外のことを真剣に考えざるをえなくなっている」と語るのは、イリノイ州シカゴ郊外のデスプレーンズで銃砲店「マクソン・シューターズ・サプライズ・アンド・インドア・レンジ」を営むダン・エルドリッジ氏。/ 業界アナリスト、業界団体、さらには大手銃器メーカーであるスミス&ウェッソン・ブランズのマーク・ピーター・スミスCEOによれば、今年は初回購入者の数が急増しているという。/ スミスCEOは9月3日、投資家とのオンライン会議の中で、今年の売上高の約40%が初めて銃器を購入する顧客になるとの推定値を示した。同氏によれば、これでも控えめな予測で、過去数年の「全国平均の2倍」に相当するという。(以下略)(https://www.newsweekjapan.jp/stories/world/2020/10/post-94802_1.php

++++++++++++++++++++++++++++++++++++++++

 彼の国は長い間、「世界の警察官」と自他ともに任じていたといわれていました。だからあらゆる人が銃にアプローチするのは不思議ではないのでしょう。だが、見方を変えれば、銃がなければわが身さえ守れないということの証明でもあるのです。前回の選挙時にも銃購入者の急増が話題にされていました。民主党が勝てば、…。ぼくは狭い了見というか、管見のかぎりで、米国は「憲法にロイヤリティ」を示す国と聞かされていました。憲法が主人というか中心であり、その下に人民が集う、約束するという政治・社会の姿が深く印象付けられてきたのです。しかし、その反面で「世界の介入者・節介者」であるという姿も、これまでにいかんなく発揮してきたのは事実です。アメリカの権力に楯突く、気に入らない勢力が政権を握る、そうなれば必ずと言っていいほど、「軍事介入」して政権を転覆させてきた、使われる手段は様々ですが、自国の軍門に下らせてきたのです。その典型はこの島の「戦後の歴史」です。戦後は一貫して「軍門に下り放し」であるのは承知の事実です。

 国内にあっても、権力を握ったものの意向に沿わなければ、「引金を引く」という並外れた「規則」を持った社会であるようです。いまはあらゆるところで分断、断絶が叫ばれていますが、最後の手段は武器を携帯した(行使した)暴力でしょう。実に長い間、この国では「銃規制」が問題視されてきましたが、いっかなそれが実現する兆しは見えてきませんでしたし、いまでは銃の保持は市民の権利でさえあるという具合です。事柄や問題を「銃で解決」するのが、表向きはデモクラシーの先進国と称されるアメリカの「解決法」だというわけです。銃付き民主主義だった。(「ホおじさん」の写真を出したついでというのも変ですが、この半月間、ベトナムに台風が数次にわたって直撃し、フエをはじめとして各地で風水害が発生しています。多くの死者も出ています。被災に合われた方々のご無事を祈りつつ、さらにご注意されますように、島社会の一隅から祈っています)

 ぼくは秀吉が断行した「刀刈り」以来、戦後まで時の権力者は一貫して民衆の「武器所持」を規制してきたことに、一定の理解を持つものです。でも、武器は国家権力が独占するという現実にも問題ありと考えています。ここで詳細は述べませんが、この島の「銃刀法」ほど奇妙な規制法はないように思います。まるで笑いばなしにもならないようですが、ある大工さんが「検問(職務質問)」を受け、車内から大工道具が出てきたので逮捕されたという事件がありました。また工事関係者が一本のドライバーで拘束されるという事案もありました。何が武器なのか、権力が認定するという行き過ぎもあります。武器の一極集中です。 

 さて米国の「現実」に戻ります。まことしやかに、杞憂(内乱・第二の市民戦争などと)が語られています。「杞憂」で終わればいいのですが。そうでない恐怖、あるいは危険性が除去できないほどに、対岸の大国も病んでいるということでしょう。間違いなく、その病は此岸(この島)にも押し寄せてきます。すでにこの島でも罹患者は少なくないようです。さらに悪化するのか。これまた「杞憂」では終わらない恐怖があります。ここまで事態を放置していたのはだれなのか、なぜなのか、世界の知恵を出しても間に合わない状況かもしれません。「戦争は他の手段による政治の継続である」(クラゼヴィッツ)

____________________________________________