自分を高くする者は皆低くされ、…

 なお、自分は信心深いとうぬぼれて人を軽蔑している者たちにも、この譬(たとえ)を話された。「二人の人が祈りのために宮に上った。一人はパリサイ人、他の一人は税金取りであった。パリサイ人はひとり進み出て、こう祈った。「神様、わたしはほかの人たちのように泥棒、詐欺師(さぎし)、姦淫(かんいん)する者でなく、また、この税金取りでもないことに感謝します。わたしは一週間に二度も断食(だんじき)し、一切の収入の一割税を納めております」しかし税金取りは、遠くの方に立ったまま、目を天に向けようともせず、ただ胸をうって、「神様、どうぞこの罪人のわたしをお赦(ゆる)しください」と言った。わたしは言う、あの人でなく、この人の方が信心深いとされて、家にかえっていった。自分を高くする者は皆低くされるが、自分を低くする者は高くされるのである。(ルカ福音書一八章9-14節)

 聖書の譬話(たとえばなし)はいったい何をなににたとえているのか。譬話として「信心深いとうぬぼれている人」「人を軽蔑する人」を教え戒めていることはまちがいない。でもさらによく読んでいけば、あなたは「パリサイ人」なのか、それとも「税金取り」なのか、どちらなんですか、とじかに問われていることに気づくはずです。パリサイ人は仲間から高く評価されている。法律を守り、善行を重ねる模範的な人間として描かれていますから。それに対して税金取りは、当時の社会にあっては容赦なく税金を取るばかりでなく、ローマの官憲とも通じているとされ、多くの人々から嫌われ、疎んじられていた。二人のうち、はたしてどちらが「わたし」なのか?

 同じルカ福音書(十章25~37)に次のような話がでています。一人の律法学者がイエスを試して、次のような質問をしました。「永遠の命を継ぐにはどうしたらいいのか」「律法にはどう書いてあるか」「『心をつくし、力をつくし、思いをつくし、主なる神を愛せよ。また、隣びとを自分のように愛せよ』と書いてあります」そしてさらに彼は訊ねました。「では、わが隣びとは誰か」と。そこで次の話がされたのです。サマリア人はユダヤ人とは折り合いが悪く、彼らはいたく嫌われていました。

 《ある人がエルサレムからエリコへ下って行くとき、強盗にやられた。彼等ははぎとり、なぐり、半殺しにして逃げた。たまたまある祭司がその道を下ってきたが、その人を見ながら、向こう側を通って行った。同じようにレビ人もそのところに来たが、見ながら向こう側を通って行った。/ しかし旅するあるサマリア人はその人のところに来ると、見てあわれに思い、近よって傷にオリブ油とぶどう酒を注いで包帯し、自分のろばに乗せて宿屋に連れて行って手当した。そしてあくる日宿屋の主人に二デナリ渡していった。『この人の手当をしてください。もっと金がかかったら、わたしが帰りに払いましょう』と。この三人のうち、だれが強盗にあった人の隣びとであったとあなたは思うか」と。彼はいった、「その人に親切にした人です」と。イエスはいわれた、「行って、あなたも同じようにしなさい」と》

 ここでも、祭司やレビ人(レビ族で宮仕えする人)といった、それぞれの階層において大きな尊敬を集めていた人ではなく、疎まれ軽んじられている人が尊いとされています。これらの話はキリスト教の世界に固有のものではないと考えられます。人間のなかにはさまざまな思いや感情・情念が潜んでいる。ときとしてそれらが表に現れ、その人がどのような人間であるかが明らかにされるのです。

 ブルトマンという神学者の書いたものを若いころからぼくは読んできました。信仰を得るためでも、博識を誇るためでもなく、躓きの石に遭遇した時に、それを回避するか躓かないような歩き方が学べると考えてのことでした。いずれにしても邪念があったことを隠したくありません。彼からも、ぼくは多くの事柄を学んだと思いますし、それは今でも「生き方のバックボーン」になっているような気がするのです。最初に掲げた「パリサイ人と税金取り」について、ブルトマンは言います。

 《一般に尊敬されている身分を代表し、いささかも非難することができないような模範的なパリサイ人に対して、彼をはるかにしのぐ例として、取税人が、この軽蔑され避けられ、まともな人間なら好んで交際しようとしない者が対立させられる、ということは、(その昔イエスの話の)聴衆にとって挑発であり、侮辱であった。これは、次のような場合にわたしたちは何と言うだろうか、と考えてみればよいであろう。

 つまり、たとえわたしたちが自分をわたしたちの身分の特に優れた見本とはたぶん思わないにしても、尊敬されている身分に属し、その身分自身の誉れとなり、良い評判を得ていることを、やはり誇りに思っているとき―そういうわたしたちに対して、劣等な者、避けられる者に属していて、もともと低級で卑俗なことしか期待されないような人間が、わたしたちをはるかにしのぐ例として突きつけられたとしたら、わたしたちは何と言うであろうか。

 いずれにせよ、もしこの物語が、初めて聞いた人たちの場合のように、わたしたちにも奇怪でけしからぬのでなかったら、そしてパリサイ人とはことによるとわたしたち自身のことではないかという気がしないならば、わたしたちはこの物語を正しく聞かなかったのではないかと恐れねばならない》(ブルトマン「マールブルグ説教集」より)

 他人の評価を求めることは非難されるべき事柄ではないでしょう。自分の行いがそれにふさわしい評価を得たとき、わたしたちは満足を覚えます。だから、満足を覚えるために「正しい行いをするのか」ということが問題とされているのではないか、ぼくはそのように考えます。

 軽蔑されのけ物にされているサマリア人や税金取りが他から尊敬され評価されている人たちよりも優れているとされるのは、それゆえに合点のいかないことだと思ったとしても不思議じゃない。だれがみても納得できないということは、しばしば生じることですね。ここで問われているのは、一人の人間が表面的な評価を勝ち得ている、その深部においてこそ、その人の姿が隠されているということ、その隠された姿は時として面に現れるものだということ、そして、それはどのような時かということです。人間が正しいのは、その人の固有の正しさ、内面における正しさによるのだということでもあるでしょう。それはいかなる意味なのか、考えていただきたいことですね。 ぼくは、むかし小さな本で次のようなことを述べたことがあります。今なお、この拙い考え方はぼくの中で生きているのです。

 《どんなに正しい行為であったとしても、私達が私達の内面において正しくなければ、それを正しく行うことはできないだろう。正直な人が、他人を恐れるが故に正直であるなら、どうして、それを正直だと言えるのだろうか》

 「内面における正しさ、あるいは正直」とは何を指して言うのでしょうか。

 これはすでにどこかでも書いたことですが、ぼくはキリスト教徒ではない。いわば、聖書の愛読者に過ぎないのです。でもこの読書から、おそらく教会に属している方々とは程遠い理解や解釈をしているのだろうという自覚(不安感)もあります。しかし、この読書から、ささやかだとはいえ、ぼくはかなりおおきな示唆を受けてきたことも本当ですので、あえて、ここに記した次第です。ご照覧くださいというほかありません。(このようなテーマをもう少し続けたいと願っています)

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●ブルトマン(Rudulf Karl Bultmann)1884.8.20 – 1976.7.30 ドイツのルター派神学者,新約聖書学者。
元・マールブルク大学教授。チュービンゲン大学で学び、1921〜54年マールブルク大学神学部新約学担当正教授。’51年同大名誉教授。教授就任直後、ハイデッガー親交を持ち、実存哲学の影響を受ける。又、弁証法神学者として新約学会に影響を与えた。’21年に出版された「福音書伝承の歴史」は様式史的研究の古典となる。他に「イエス」(’26年)、「ヨハネ福音書註解」(’41年)、「新約聖書神学」(2巻、’48〜53年)などの著書がある。後にマールブルク大学を中心に新しい聖書解釈法が生まれ、ブルトマン学派が形成された。(20世紀西洋人名事典の解説)

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ジェットコースターは見るもの、ぼくには

 ジェットコースター──三重県桑名市(日本) まるで雪山のようなナガシマスパーランドの白いジェットコースターを見上げると、『グランド・ブダペスト・ホテル』の雪中をソリで疾走するシーンを思い出す。木製コースターとして人気を集めた「ホワイトサイクロン」は2018年1月に営業を終了したが、翌年春に後継の「白鯨」(写真)が登場した。

Accidentally Wes Anderson『ウェス・アンダーソンの風景』 ワリー・コーバル 著(邦訳:DU BOOKS)監督本人の前書き付き。アンダーソン作品のイメージにぴったりの風景写真を集めた本書の日本語版は、12月に刊行予定。<2020年10月27日号掲載>

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ACCIDENTALLY WES ANDERSON, THE BOOK.

Join us to discover the most interesting and idiosyncratic places on Earth. Inspired by the unique vision of director Wes Anderson’s films, this book travels to every continent to tell the extraordinary and unexpected true stories behind more than two hundred stunning locations.(https://accidentallywesanderson.com/book/)

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●ジェット・コースター=地上高くにかけられた急勾配の線路を高速で上り,下り,急旋回してスリルを楽しむ乗り物遊具。旧来のものは,発車後に急な坂を一気に降下し,その勢いで走行する。今日の形式のジェットコースター以前のものとしては,15世紀にロシアで遊ばれていた,人工の氷の坂を木製のそりで滑降するものがあげられる。1784年にサンクトペテルブルグで営業を開始したものは,溝の中を上下しながら滑りおりるものだった。その後 1804年に車輪を装着した同種の遊具がパリでつくられ,1817年には改良されて,脱線防止の車輪を備え,環状のコースを走るものとなった。アメリカ合衆国では 19世紀初めに開発が始まり,1920年代に一大ブームが到来した。1959年ディズニーランドに鋼鉄管製のレールとナイロン製車輪を用いた最初のジェットコースターが登場すると設計の自由度が増し,1970年代には螺旋状に回りながら進む「コークスクリュー」や垂直に宙返りするものが開発された。また,いっそうのスリルを求めて,乗客が車両から宙吊りとなるものや車両に立ったまま走行するもの,前進と後進を行なうもの,垂直近い角度で降下するものなどが開発された。20世紀末にはリニアモータで加速する形式のものが現れ,最高速度も時速 150km以上に達した。日本では 1955年7月に開業した東京都文京区の後楽園遊園地が初めてジェットコースターの名で設置,以後,各地の遊園地が速度や動きの激しさなどを競っている・(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

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  いたるところに覇を競うかのように過激に、乗客の度肝を抜かんばかりに、上に伸び、勾配は限りなくきつく、速度はいや増しにはやく、世の遊園地はジェットコースターで棲息しているといっても過言ではないでしょう。というぼくは、まずこれが苦手なのだから、始末に負えません。他人にそそのかされてこれまでに乗ったのはたった一回だけ。二度と乗る気がしないのはどうしてなのか。というわけで、アンダーソンの背k氏に魅せられて、誌上トラベルとしゃれこんでみました。

(東京江戸川区葛西臨海公園内 高さ117m。)

 ぼくはまず、観覧車派です。ジェットコースター派は、乗り物でも人物でも御免被りたいですね。上がり下がりの激しい人にこれまでどれだけ出会い、どれだけ翻弄されてきたことか。いまではジェットコースターを呪うまでになってしまいました。心行くまでゆっくりと、ゆっくりした観覧車に乗ってみたい。これまた、これまでに一回か二回ばかり。白状すれば、「高所恐怖症」なんだ。

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タネは誰のもの?タネはどうなるの?

 北斗星(10月31日付)

 一雨ごとに寒くなるようだ。夜に一降りした翌朝は特に肌寒く感じる。街を歩くと色づき始めた街路樹が風に揺れる。枯れ葉がカサカサと歩道を鳴らす。秋の終わりも近いと感じる時だ▼農業の祭典県種苗交換会は毎年、そんな時期に開かれる。今年は横手市で昨日開幕、日程を短くし農産物展示は出品数を減らした。会場入り口では検温を実施。全て新型コロナウイルス対策のためだ。「歴史の火を絶やすことなくつなげたい」。関係者の強い思いで143回目が実現した▼開始間もない明治の中頃は中断の危機があった。主催者だった県が隔年開催を決めたからだ。だが創設に力を注いだ石川理紀之助らが私費を投じ乗り切った。1回休めばその分、農業の発展が遅れる。そう受け止めるほど農家の意欲は盛んだった▼もう一人忘れてならないのが秋田市出身の聖農、森川源三郎だ。理紀之助と同い年でお互いを「先生」と呼んだ。協力関係は「混然一体」と評された。源三郎には「三心」の語がある。発心、決心、相続心(継続心)を指す▼発心と決心は誰でもするが、相続心がないと事業は完成しない。そう言って自らの戒めとした。143回を迎えた交換会はこの心あっての歩みだ▼最後に理紀之助の言葉を紹介したい。「樹木は祖先より借りて子孫に返すものと知れ」。樹木を田畑に置き換えれば、世話をして後世に伝えるのが食を支える農の営みだろう。コロナ時代の交換会に「子孫に返す」大切さを思う。(秋田魁新聞・2020年10月31日 9時51分 掲載)

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 久しぶりに秋田魁(さきがけ)新聞の「コラム」に出会いました。その意味は、毎日のようにぼくは「47コラム」で各地の新聞記事や、とりわけ「コラム」に目を通して、その直々の話題や問題を確認しようとしているのです。秋田魁新聞も、もちろん毎日のように目を向けていますが、食指が動かなったというのが正直なところです。なぜ今日のコラムに触れたか。まだ十分に確認していないので(これから調べます)、確かなことは言えないのです。でもこのコラムでは秋田の農業に甚大な貢献をした二人の先人の遺徳をしのんで「種苗交換会」の「相続心」を絶やすなと、書かれているのにもかかわらず、「種苗法」「種子法」問題には一言半句も触れられていないので、これは異なことと扱う気になったのです。

 言うまでもないことで秋田で農業にかかわる方々は、上記法律がどのように変えられ、どのように農業の現場が変わらざるを得ないのか、篤とご存じなのでしょう。(この法律などの変更に関しては農水省HPを参照してください。これをたちどころに理解できる方は並の知能の持ち主ではありません)(https://www.maff.go.jp/j/shokusan/shubyoho.html)

種苗法改正案、成立断念 2020/6/12 10:17(共同通信)

 種苗法改正案のポイント

 政府、与党が、国内で開発されたブランド果実などの海外への不正な持ち出しを禁じる種苗法改正案について、今国会での成立を断念したことが11日分かった。一部の品種に限って農家が収穫物から種を取って次の作付けに利用する行為に許諾料の支払いを迫られることで、負担が高まるとの声がインターネット上で広がり、懸念を払拭(ふっしょく)しきれない中では困難と判断した。秋に想定される臨時国会での成立を目指す。/ 自民党の森山裕国対委員長は11日、「国内の種苗を国際的にどう守っていくかを考える大切な法案だ」と強調。内容について誤解があるとして説明を尽くすと訴えた。
 種苗法改正は、新品種の開発者の権利保護を強化するために農林水産省が検討を進め、3月に閣議決定されて国会に提出された。ブドウ「シャインマスカット」など日本で開発された品種が海外に流出する事例が相次ぎ、国内の農業関係者や政府が力を入れる輸出戦略への悪影響を無視できなくなったことが背景にある。/ 改正案は、開発者が栽培地域を指定できるようにすることで海外への不正な持ち出しを防ぐことが柱。違反した場合の罰則も用意し、流出に歯止めをかける狙いだった。/ 一方、農家が収穫物から種や苗木を採取し、翌年の栽培に使う「自家増殖」について、これまで原則自由だったものを種苗法上の登録品種については許諾を必要とするよう見直す点に懸念の声が出た。農水省は、農産物の大半を占める一般品種には規制が及ばず、影響は限定的だと説明しているが、負担増加につながるとの慎重論に押され、今国会では審議入りできなかった。【共同】

 種子法廃止と種苗法改正如何の問題点についてはいろいろな資料や文献がありますが、差し当たっては以下のURLを参照してほしい。(https://bigissue-online.jp/archives/1070466468.html)さらには農業協同組合新聞の、以下の記事を見てください。

わかりやすい種苗法改定Q&A【鈴木宣弘・食料・農業問題 本質と裏側】2020年6月4日【鈴木宣弘・東京大学教授】
Q 種苗法改正案は、種子のいわば著作権を守るためのものだといいますが、どんなものなのでしょうか?
A:種苗法は、植物の新品種を開発した人が、それを利用する権利を独占できると定める法律。ただし、農家が利用するのはOK、自由に自家採種してよいと認めてきた(21条2項)。今回の改定は、その条項を削除して、農家であっても登録品種を無断で使ってはいけないことにした。

Q 「日本の貴重な品種が海外に流出するのを防ぐ」と評価する声がある一方、「海外の大手企業に種子を支配される」という懸念の声もあります。真逆の評価が起きている状況をどう考えますか?
A:種苗法には賛否両論があるが、双方とも「日本の種を海外に取られてはいけない」という想いは共通している。賛成派は日本の新品種の種が海外で勝手に使われているのを止める改定なのに、なぜ反対するのか、と指摘する。
一方、懸念する側は、種苗法で自家採種に制限をかけるだけでは海外流出の歯止めには不十分。むしろ、「種は買う」ものとなって、日本の農家がグローバル種子企業に譲渡されたコメなどの種を買わざるを得ない状況を促進して、日本の種を海外企業に取られて、それに支配されてしまいかねない。結果的に、「流出阻止」のはずが「流出促進」にならないか、と心配する。
確かに、平昌五輪でイチゴの種苗が無断で流出していたと騒いだのに、グローバル種子企業へ米麦の種を「流出」せよと法で義務付け、それを買わざるを得ない流れを促進するのは矛盾している。(中略)
Q 2018年に種子法の廃止がありました。これも日本の農業に大きな影響があったようです。どのような法律だったのでしょうか?
A:命の要である主要食料の、その源である種は、良いものを安く提供するには、民間に任せるのでなく、国が責任を持つ必要があるとして、国がお金を出して、都道府県がいい種を開発して農家に安く提供する法律だった。

Q 種子法を廃止し、種苗法を改正する、日本はどのような農業を目指してそのようなことをしているのでしょうか?
A:種子法が突如廃止されて、さらに、それとセットで、これまで国と県が開発した種は民間企業に譲渡せよ、という法律ができた。これと、今回の種苗法改定での無断自家採種の禁止とつなげると、公共の種をやめてもらって、それを自分のものにして、それを買わないと生産・消費ができなくなる、という形で、民間企業がもうけやすい構造をつくろうとしているように見える。(以下略)

 いきなり種の話とは、どういう風の吹き回しかと、大いに訝られると思います。ぼくは農業をしていないし、始めようとも考えていないのに、なぜと問われると思う。うまく答えられないのは当たり前のようですが、実はこの問題は農業や食料にだけかかわってくるのではなく、あらゆる事柄が関係してくるというか、否応なく、日本の既成の制度や経済産業も含めて、あらゆる分野の事物が、グローバルスタンダードという「美名」(?)のもとに、国境を越えた多国籍企業群(農業の場合はモンサント)の餌食にされてしまう事態が着々と進行しているという、ぼくたちの現在と将来にとっては深刻な問題なのだと認識しているのです。かなり面倒な問題なので、分かりやすく、あるいは簡単に要約することはできません、ぼくの能力では。最近、以下のような映画が完成し、上映が始まっています。ぼくも鑑賞する予定です。

「日本の農業生産者にとって、深刻な影響を与える可能性のある法案がひそかに国会で通過しようとしている――。今年6月に継続審議となって国会成立が見送られ、11月上旬にも再び国会審議入りが予想されている種苗法改定案に警鐘を鳴らすドキュメンタリー映画『タネは誰のもの』が完成した。製作陣は農業者や地域で開く自主上映会の主催者を募っている。/ 種苗法改正案を巡っては、同法が成立するとグローバル企業が独占する種や苗を購入しなければならなくなる可能性がある自家採種・自家増殖農家と、知的財産権の保護を求める種苗開発農家との間で賛否が分かれている。同映画のプロデューサーを務めた元農林水産大臣で弁護士の山田正彦氏は「同法案の何が問題なのか。法案が成立すると生産者にどのような影響ができるのか。メディアはほとんど報じていない。拙速な法案成立は日本の農業を取り返しのつかない禍根を残す可能性がある」と呼びかけている。(https://biz-journal.jp/2020/10/post_188142.html)

 この島のかけがえのない「財産」「文化」「歴史」つまるところは「生活といのち」を、アメリカではなく、それをも睥睨する強大な「モンサント」「バイエル」という怪異な企業に売り渡すような事態が深く静かに進行しています。この島は得体のしれない「多国籍企業」の軍門に下ろうとしているのです。「モンサント」は二年前にバイエルに買収されて、その傘下に入りました。「モンサタン(悪魔のモンサント)」、「ミュータント(突然変異)」という異名を持って、恐るべき歴史を刻んできたこの会社は、それを上回る恐怖の企業史に塗りこめられてきた「バイエル」と合体して、ともに世界制覇の無軌道を暴走しているのです。(https://www.afpbb.com/articles/-/3186001)

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生みの親より育ての親、いのちを育む心

 コラム凡語:蓮田さんの問い

先日亡くなった熊本市の慈恵病院理事長、蓮田太二さんが「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト)を始めた当時のことを自著「ゆりかごにそっと」に書いている▼さまざまな理由で親が育てられない乳幼児を匿名でも受け入れる。そんな構想を公表すると激しい非難を浴び、「子捨てを助長する」「母親は苦しくても育てるのが当たり前」といった電話が鳴りやまなかったそうだ▼運用開始から今年3月末までの約13年間に預けられた赤ちゃんは155人。今も賛否は分かれるが、予期せぬ妊娠をした女性が孤立出産し、赤ちゃんを遺棄する例が後を絶たない社会の現実がある。無責任と非難するだけでは命を救えないのも確かだろう▼慈恵病院は、妊婦が病院の担当者以外に身元を明かさずに出産できる「内密出産制度」も始めた。自宅などでの危険な孤立出産を防ぐためだ。子どもは特別養子縁組などに託され、成長後に出自を知ることができる▼だがドイツなどに比べると取り組みを支える法整備が進んでいない。全都道府県に1カ所は必要と蓮田さんが言ったゆりかごも、追随施設がないままだ▼全国からの電話相談は年間6千件を超える。捨てられる命をどう救い、社会で育てる仕組みを作るか。実践を通じて、大きな問いかけを続けた人だった。(京都新聞・2020/10/30 16:00 )

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 慈恵病院院長・蓮田太二氏死去 「こうのとりのゆりかご」創設

 親が育てられない赤ちゃんを匿名で預かる国内唯一の施設「こうのとりのゆりかご」(赤ちゃんポスト)を創設した慈恵病院(熊本市)の理事長兼院長、産婦人科医の蓮田太二(はすだ・たいじ)氏が25日午前11時37分、急性心筋梗塞のため熊本市の病院で死去した。84歳。台湾生まれ。自宅は熊本市西区。葬儀・告別式は近親者で行う。

 熊本大医学部を卒業後、慈恵病院の前身である琵琶崎聖母慈恵病院に着任。1978年に慈恵病院を設立して理事長に就任し、2011年から院長を兼務していた。熊本県内で新生児の遺棄事件が相次いだことなどから、07年5月に「ゆりかご」を全国で初めて開設。20年3月末までに155人が預けられた。/ 父は、同人誌「文藝(ぶんげい)文化」で発行兼編集人を務め、三島由紀夫の作品を世に送り出した国文学者の蓮田善明。(西日本新聞2020/10/26)

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 熊本出身の若い学生が「こうのとりのゆりかご」について、熱心に語ってくれたことがあります。今から十年近く前になるでしょうか。その後、彼女は蓮田病院に赴き、蓮田院長や田尻看護部長から詳細に「赤ちゃんポスト」の創設意図や現状、さらにはこの先の課題などを聞き取り、それを浩瀚な論文にまとめた。ぼくは、それを読みながら、なぜこの問題が大きな課題を抱えているのか、行政の介入(施策の実施)がはかばかしくいかないのはなぜかなどさまざまな視野から考えても足りない、容易ならざる社会問題であることを再認識したのでした。また若い女性が大きな関心を持っていたことに喜びを感じたのも事実でした。

 それまでにも児童養護施設や養護施設出身者への援助、児童虐待への取り組みなど、ささやかすぎるけれどもその志を果たしたいと念じてきたのでした。いまも微力ながらの「貧者の一灯」はかすかな炎をぼくの胸中ではともしつづけています。「捨て子」「子殺し」「間引き」など、この島における幼児や児童の悲しすぎる運命についてはたくさんの資料文献が残されています。それなりにぼくは読んできました。悲惨で悲運な幼児や児童を皆無にすることは不可能に思えてきますが、だからこそ、蓮田院長のような具体的な取り組みが何よりも尊重される必要があるのでしょう。犠牲の心を持たなければならない、それを必要とする奉仕でしょう。

 「あかちゃんポスト」については、創設以来、延々と批判や非難が続いていると伺っています。でも、非難や中傷から赤ちゃんの「いのち」はただの一人も救われないのは明らかです。この問題は、政治の真ん中に据えられることはまずないのであって、善意の志によって細々と手が差し伸べてられるばかりであり、その手からいまもなお、零れ落ちる「いのち」があるのです。二十世紀は「児童の世紀」と言ったのはエレン・ケイ(左写真)でしたが、二十一世紀もまた「子どもの世紀」であり続けなければならない。

●エレン・ケイ(Ellen Karolina Sofia Key)1849 – 1926 スウェーデンの思想家,教育家。スモーランド州生まれ。名門の生まれで、開明的な政治家である父の影響を受けて育つ。スウェーデンの経済構造の急激な変化のなかで、婦人と子供の生活に関心を持ち、教育論、結婚論、婦人運動論を展開。主著児童世紀」(1900年)は各国語に翻訳され、児童中心主義思想や新教育運動のバイブル的存在となる。母性を重視した「恋愛と結婚」(’03年)は日本の女性運動家、平塚らいてう等に大きな影響を与える。(20世紀西洋人名事典

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 「赤ちゃんポスト」という言葉が先行していますが、私どものネーミングは初めから「こうのとりのゆりかご」でした。そして将来は「ゆりかご」の要らない社会を目指しています。
 今はただ「ゆりかご」を縁にして巣立っていく子供達が幸せであるようにと願ってやみません。そして、沢山の人々の善意と希望を集めて巣立っていく子供たちが、きっと日本の未来を支える力強くたくましい人材に育ってくれることを信じています。
 皆さん、この子供達を私たちの社会の子としてあたたかく受け入れ、育てていこうではありませんか。(「“こうのとりゆりかご”をつくった慈恵病院 蓮田 太二 院長のインタビュー」 2007年12月13日)(http://spdy.jp/news/s7451/)

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(今回は別のテーマを用意していたのですが、気になり続けていたこの問題に触れました。霜月の朔日、ますます寒くなる朝に、子どもたちの「元気と勇気」を奮い立たせるような贈り物(天恵にも似たプレゼントがあったらなあ)があることを祈るばかりですし、親しくつきあっていた何人もの若い人たちが「福祉の現場」で懸命に尽力されている姿を、老いぼれ応援団員として支えられるかどうか、自らを危ぶみながら、わずかばかりの心を届けたいと、朝に祈る)

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ねえ母さんよ僕だって 必ずお国を護ります

(斎藤信夫さんの故郷、千葉県山武市の成東城跡公園内)
  里の秋(斎藤信夫作詞・海沼実作曲、昭和二十年)

 静かな静かな 里の秋
 お背戸に木の実の 落ちる夜は
 ああ 母さんとただ二人
 栗の実 煮てます いろりばた
  
 明るい明るい 星の空
 鳴き鳴き夜鴨(よがも)の 渡る夜は
 ああ 父さんのあの笑顔
 栗の実 食べては 思い出す
  
 さよならさよなら 椰子(やし)の島
 お舟にゆられて 帰られる
 ああ(注) 父さんよ御無事(ごぶじ)でと
 今夜も 母さんと 祈ります 

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 季節は秋たけなわです。この季節になると、ぼくはいくつもの歌を思い出します。どの季節にも、いわば「季節の持ち歌」というものがある。その大半は「小学校唱歌」ですが、中には流行歌(歌謡曲)も混じっています。なぜ唱歌かというと、それは学校で学んだからというのではない、じつは、学校で学んだものは、ぼくにはほとんどないのです。すべて「学校外」で自学自習したものがぼくの根っ子・背骨になっているといいたいほどです。だから、この人間は偏り歪(いびつ)な育ち方をしてしまったのでしょう。

 唱歌がぼくの季節の印(いってみれば「季語」です)になったのは、幼いころに一人で口ずさんでいたせいだとぼくは考えたりしています。誰に強いられたのでもなく、周りから褒められたいからでもなく、自分一個の好みとして「その歌」を自由に歌いたいという感情の発露だった言えます。この「里の秋」について、すでに早い段階でこの雑文・駄文集で触れています。あえて重複を厭わないでまた雑文にしたのは、それだけ「里の秋」が身に染みるからだというばかりです。海の傍に住んでいると、こんな感じ方はしないでしょう。里山といってもいいような土地に住んでいるからこそ、秋、それも「都会の秋」なんかではない、一種の感傷とも想い出ともつかない、懐かしさをいだいてしまうのでしょうか。寄る年波も加担しています。

 この童謡を最初に歌ったのは川田正子さん。この人の歌を聴いてぼくは育ったといっても間違ってはいません。それほど、戦後の島社会の人口に膾炙した人(童謡歌手)でした。もう十五年も前、例によって「ラジオ深夜便」を聴くともなく寝るともなく、うとうとしていた時に、突然「川田正子さんが先ほど亡くなられた」という声が耳に入りました。驚いたなどというものではありませんでした。仕事から帰宅し、お風呂に入っているときに倒れられたということでした。

 川田正子さん(童謡歌手)が虚血性心不全のため死去
  「みかんの花咲く丘」など戦前戦後を通じ、長く童謡歌手として活躍した川田正子さん(かわだ・まさこ、本名・渡辺正子=わたなべ・まさこ)が06年1月22日午後8時31分、虚血性心不全のため都内の病院で亡くなったことが23日、分かった。72歳。東京都出身。親族の意向で、通夜・葬儀は密葬で行い、音楽葬を2月5日午後1時から東京都港区芝公園4の7の35、増上寺光摂殿で。
  川田さんは42年に少女歌手となって翌年に「兵隊さんの汽車」を歌い、関東児童唱歌研究会児童コンクールで優勝。46年に戦後初めて「赤ちゃんのお耳」をレコーディング。翌年にはNHK連続ラジオ放送「鐘の鳴る丘」の主題歌「とんがり帽子」が大ヒットした。他の代表作に「里の秋」「あの子はだあれ」など。今年は歌手生活65周年の記念イヤーだった。(日刊スポーツ・06/01/23) 

 床から出てお線香をあげたことを思い出しました。後年、主宰されていた「音羽ゆりかご会」にも顔を出したこともあります。都内文京区大塚の護国寺(真言宗豊山派)にありましたから、時々散歩がてらに覗いた程度でしたが。戦後も川田さんは歌手として活動されていました。でも、ぼくには少女になるまでの彼女の「喉が詰まった」ような歌声が強烈に印象付けられていました。すべては、師の海沼実さんの(間違った)指導でした。海沼さんと川田さんの母親は後年結婚したこともあり、なにかと家族間で問題があったように聞いたこともあります。(その因縁についても以前、触れた気がします)

「里の秋」に戻ります。

 終戦から4ヶ月経った年の暮れ、NHKでは海外から復員してくる将兵のための特別番組「外地引揚同胞激励の午后」を企画していました。放送は十二月二十四日の午後一時四十五分から。この番組のために海沼先生が作曲したのが「里の秋」です。/「復員する兵隊さんたちが、船で浦賀港(神奈川・横須賀)に帰ってくる。その人たちを迎えるために、ラジオで歌うんだよ。/ と海沼先生が教えてくれました。練習はいつもと同じ口移しでした。先生が私の音域に合わせて作ってくれた曲だったので、とても歌いやすかったのを覚えています。(川田正子『童謡はこころのふるさと』東京新聞出版局、2001年)  

 この曲の作詞は斎藤信夫さん。実はこの詞は戦前というより、太平洋戦争が始まったその日に手が付けられたのです。斎藤さんは「開戦」の報道に大興奮して、興国の一戦に欣喜したといいます。さらに日を次いで作り続けた結果、その年の末に完成しました。曲名は「星月夜」だった。いまは三番、四番が書き換えられました(番組に間に合わせて作られた際に改作)。その元の歌詞は以下のようでありました。「戦意高揚」といものでしょうか。子ども版「露営の歌」だったかもしれません。なお、斎藤さんは当時は船橋市の小学校教員でした。戦後が自らの戦争責任を感じた故に、教職からから退かれた。戦前から斎藤さんは海沼さんと誼を通じておられました。(蛇足 「露営の歌」は古関裕而氏の作曲でした。それを聞くとやはり想像というか、空想がたくましくなり、やがてそれは、「栄冠は君に輝く」に重なり、「鐘の鳴る丘」、「オリンピックマーチ」につながってしまうのです)

 きれいなきれいな椰子の島
 しっかり護って下さいと
 ああ父さんのご武運を
 今夜も一人で祈ります
  
 大きく大きくなったなら
 兵隊さんだようれしいな
 ねえ母さんよ僕だって
 必ずお国を護ります 

 どんなものにも「歴史」はあります。「火」の歴史について、ずいぶん考えたこともありました。その歴史を知っていると知らないとで、何ほどの違いがあるものかと言われるでしょう。その通りですが、性癖の仕業で、「どうして今ある状態になったのか」と、ぼくは知りたくなるのですね。「向学・向上心」などという洒落たものとは無関係です。それも誰かに教えられるのは好まない、とにかく自分で調べる(自分の脚で歩く、自分の頭で考える)ことにしています。単なる情報の域を出ないし、今の時代、ネットで調べられないものはないのですから、以前とは比べ物にならないほど、知りたいというぼくの欲求も生半可なものになってしまいました。しかし、それでも「こんなふうになって、ここまで来たんだ」と知って納得することがあるのです。ものの来た道筋を歩く、それこそが学問です。

 「里の秋」の前世は「星月夜」だったと知って、ぼくは異様な感覚に襲われました。小学校唱歌の歴史には「国体明徴」というのは大げさですが、国民総動員の一環として「小国民」養成の大きな役割を担わされてきたのです。ほとんどがこの歌のように「書き換え」です。「改竄」とは言わないでしょうが、ずいぶんたくさん「国策」にかなった歌詞やメロディに変えられました。敗戦後には元に戻されたけれども。(別の詞になったものもあります)(だから、ぼくは唱歌を歌うと、元の歌詞が透けて見えてくるので奇妙な気分に襲われたりします)

 この「里の秋」にはさまざまな記憶が伴奏・伴走しています。もっとも古いのは母親の母(祖母)が田舎で亡くなった時のものです。ぼくは五歳になっていたかどうか。季節はいつだったか忘れましたが、「お背戸に木の実の 落ちる夜」にお通夜をしていた気がします。つまり、今自分のことでした。その記憶はいつまでも鮮明に残っています。遺体の上に大きな包丁が据えられていました。呪(まじな)いだったかもしれない。次の日には火葬場まで棺を担いで葬列を組んでいった。かなり長い距離でした。小高い山の中ほどに火葬場があったし、その場所から「七尾湾」がみえたのも忘れていません。「骨上げ」したことも覚えています。(今は、時節柄、「オンライン葬儀」ですって。時代ですね)(左は斎藤信夫さん)

 という具合に、ぼくの「里の秋」はだんだんと深まるばかりです。栗の実でも似ますか、老奥さんとただふたり、で。

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 偽りにても誠らしく語るは…

 フィロソフィア(知を愛する=哲学)という言葉を定着させたソクラテスは、自らをアテナイという馬にまとわりつくアブにたとえた。それは彼が国教を否定し、青少年を堕落させると告発された裁判でのことだ▲アブが馬を刺し眠らせぬように、彼はアテナイの覚醒のために人々に問答を挑み、説得し、非難し続けるのだと弁明した。それが「賢者」らの無知を問答を通して暴き、自分は自分の無知を知る者だと宣明した哲学者の祖国愛だった▲だがアテナイ市民はうるさいアブをはたくようにソクラテスに死刑を判決し、彼は法に従い毒杯をあおる。「アテナイのアブ」は常識に安住する者への真理の探究者による批判や挑発のたとえとなるが、それを好まぬ者は今日もいる▲驚いたのは「多様性が大事なのを念頭に判断した」との菅義偉(すが・よしひで)首相の説明だった。日本学術会議が推薦した会員候補6人を任命しなかったことへの国会答弁である。出身や大学の偏りを指摘し、組織の見直しへ論議を導きたいらしい▲この問題の首相の説明はいつも面妖(めんよう)である。まず「総合的・俯瞰(ふかん)的」なる定型句、次は6人の除外前の候補者名簿を「見ていない」との弁明、そして「多様性」だ。いつ何を基準に6人を任命不適と判断したのか、ますます謎である▲さて今後の国会でも野党というアブに、つじつまの合わぬところを刺されよう。ソクラテスの末裔(まつえい)を自負する真理と知の探究者たちも、そう簡単にはこの人事をめぐる問答から首相を解放してくれまい。(毎日新聞2020年10月30日 東京朝刊)

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 「面妖」という単語が出てきました。ぼくには面白い言葉で、自分ではめったに使いませんが、文中に出てくると、ああやっぱりという気分になります。「名誉(めいよう)」の音変化と言われます。あるいは「めんよ」ともいう。一般的には「不思議なこと。あやしいこと。また、そのさま。」(デジタル大辞泉)また、副詞的に「〘副〙 どういうわけか。奇妙に。不思議に。」と使うらしい。「名誉」も、元来は、良いことにも悪いことにも両義アリです。このコラム氏はどういうつもりで使われたのか。ぼくはNPMには関心がないが、「嘘も方便」という生き方には寒心するのです。いや、寒心に堪えない。

 この問題を聞かれた最初の段階で、「私は(百五人の推薦)名簿を見ていない」と言った。「下から上がって来たもの(九十九人)を任命した」と。その直後に、官房長官は(推薦名簿は添付資料にあったので)よく見ていなかったという意味」で総理は言われたと釈明、追従。実に面妖。さらに糺されると、「総合的・俯瞰的」と(本にも)意味不明な言辞を(官僚の口移しのまま)壊れた蓄音機のごとくリピート。なんと面妖な。さらに突っ込まれると、「会員に偏り」がある、多様性の観点から「私が任命した」と本心をさらしかける。依然として意味不明ですが。さらに追及されると、内閣府(の側用人)と「考え方を共有して選んだ」と自分だけの責任ではないといい逃れる。面妖が逃げ出しようです。嘘が背広を着ているようだ。前任の「嘘つきぶり」を直近で見据えていたんだ。

 「嘘が嘘を生み、やがてそれは誠になる」ということはあり得ない。ずいぶん昔「偽りにても誠らしく語るは偽りがましからず、又た誠にもあれ、世に希なる事を語れば、偽りがましく聞ゆるものなり」という家康の「箴言」(「家康教訓録」)なるものを読んだことがあります。詳細は忘れましたが、「誠らしく語る嘘は偽りのようには聞こえない」「本当であっても、珍しいことを話せば嘘のように聞こえる」と言ったとされる。これも「面妖」ですね。「狸」か。要約すれば、「誠(真)らしき嘘はつくとも、嘘らしき誠(真)を語るべからず」となるでしょう。この「嘘つきPM」の場合はどうでしょう。彼は「嘘でも本当らしく語れば嘘ではなくなる」という家康の教訓にかなっているかどうか。本当らしくみせかけようとするのでしょうが、はなから「嘘がばれている」のだから、「家康の教訓」には該当しません。「こっちが本当なんだ」と次々に「嘘らしき誠」をいくつも繰り出すのですから、際限のない「嘘の連鎖」が続くばかり。「嘘鎖」「巨詐」のようです。誠らしい嘘は誠、嘘らしい誠は嘘となるなら、万事休す、なのですが、彼を射止めるだけの「弾」が国会にはないのが惜しいというか、寒心に堪えないのです。

 ぼくはプラトンを読みたくて、一時期ギリシア語を学んだことがあります。もちろん、怠け者でしたからものにはならなかった。でもよく「プラントン」は読みました。たいていは田中美智太郎さんの訳でした。この「ソクラテスの弁明」は何度読んだか。ほとんど暗記しました。なかでも、アテナイの「法廷」の場面は圧巻です。当時は陪審員裁判でしたが、ソクラテスは陪審員を手玉に取るように、挑発するようにおのれの哲学を存分に語ります。「誠(真)らしき嘘はつくとも、嘘らしき誠(真)を語るべからず」ということだったか。陪審員には「嘘」に聞こえても、彼自身は「弁明=真実」だと言い切るのです。誠らしい嘘は、ソクラテスにとっては「本当=真実」だということになる。かれには「デーモン」がついていました。「閣下」ではありませんぞ。

 そもそも会員任命問題なんかに現総理が関心や興味を持っているとは思われない。下司(下衆・下種)の勘繰りですが、これは逃げ出した前総理の「遺言」(というのも変、まだ存命中ですから)みたいなもの、「俺の政治に反対した、この連中をぜひ切ってくれ」と懇願されたはず。だから「ときには理由を述べられないこともある」と半分だけ白状していたではありませんか。ものには道理があり、結果には理由(原因)があるのですよ。白々しいとはこの男、まことに面妖至極です。

 ぼくは、自身が下種(ゲス)であることを隠さない、開き直りもしないが、自分は下等な人間であると自覚しているのです。だから「下種の勘繰り」なんです。前総理は「劣等感の塊」だった。これはいろいろな方面の証言でぼくは納得している。こういう人間がどれだけの「恨みごころ」や「猜疑心」の持ち主だったか、わかるつもりです。必ず仕返ししてやるとばかりに「総理の椅子」にのぼりつめたのをさいわいに、次々と「世間に意趣返し」をした。そのために高い椅子に座る必要があった。思いもかけない失策で「ポスト」を投げ出したが、意趣の恨みは忘れていなかった。淡々と標的(任命排除の六人組)を狙っていたから、準備は怠りなかったが、思いがけない計算違いが生じた。だから、恥を忍んで現総理に後事を託したという顛末です。いわば、連携した「意趣返し」です。

 本当は前任者は総理の椅子を譲りたくなかったと思われます。「敵前逃亡」してみたものの、逃げるまでもなかったと今は臍をかんでいるに違いない。あわよくば、再々復活を狙っていると噂されています。現総理にも「劣等感」はあるでしょうが、遺恨を晴らすだけの理由というか、背景がない。二人の出身の違いからも理解できます。(それでも執念深いことは確か)どうしてか、「ときには理由を話せないこともある」ので。いずれにしても、意趣晴らしで政治をほしいままにされてはたまらないとしか、ぼくには言う気もない。適材適所という語はいろいろな場面で使われてきましたが、その意は、「適材は適所に」使うべし、使われるべしということです。使う方にも使われる方にも、「適」とい事柄の的を射た理解がなければそれぞれが不幸になり、その災いの及ぶ範囲はかぎりがなくなります。

 この(前・現)ライアー・コンビがどれだけ不誠実で不穏当な「権力行使」をしていたか。やがて明らかになるとぼくは考えています。「瓢箪から駒が出る」ことになるのか、「嘘から出た誠」となるのか、もはや黒白は明らかですが、この島には国会も検察も裁判も、すべて権力に直結していて、おのれの意のままにならず、本来の機能は端から不全なんですね。でも、悪運が尽きるということは起こるものです。「嘘つきは泥棒の始まり」だって。

 「女は平気でウソをつく」といった女性議員がいました。嘘つき競争を国会でやられてはたまらない。

●エピメニデス‐の‐パラドックス の解説 古代ギリシャ七賢人の一人、エピメニデスにまつわる論理的逆説クレタ島出身のエピメニデスが「クレタ人はみな嘘つきだ」と述べたという命題の真偽を問う際、クレタ人であるエピメニデスが真実を述べているとすると、クレタ人はみな嘘つきになり、嘘を述べていたとすると、クレタ人はみな正直になり、発話の主体であるエピメニデスが正直ものか嘘つきかであることと矛盾する、という説。自己言及のパラドックスまたは嘘つきのパラドックスとして広く知られる。クレタ人のパラドックス。(デジタル大辞泉)(It’s a sin to tell a lie.左上写真のジャケット)

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うそ寒き暗夜美人に逢着す 子規

うそ寒や親といふ字を知つてから 一茶

 この両句の「うそ」は「うす(薄)」だとされますから、寒いと思ったら暑かったとはなりません。ちょっとばかり寒いなあ、冷えるねえ、という塩梅(案配・按排・按配)ですかね。薄い嘘なら、許せますか。

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