冷たく、つるつるした道をまっさかさまに…

 一九五〇年代は米国ジャズの黄金期だろうが、当時のミュージシャンの伝記などを読んでいると胸が痛くなる場面がある。麻薬問題である。才能ある多くのミュージシャンたちが麻薬におぼれた▼スタン・ゲッツは薬欲しさに薬局に押し入って逮捕されている。マイルス・デイビスの麻薬使用がひどくなったのはジュリエット・グレコとの別れが原因だったそうだが、麻薬を買うため、一時期は自分のトランペットまで質草にした▼その麻薬がさらに危険な麻薬への入り口になりかねないことを強く認識すべきだろう。大麻である。所持などの大麻事犯の摘発者数は年々増加しており昨年は過去最多。最近も東海大学野球部員が大麻を使ったとして無期限活動停止となった▼摘発者の約六割が二十代以下の若者という。人一倍、身体に気をつけるはずの大学運動部の学生まで使っていたと聞けば、若者の間に急速に広がっていないか心配である▼合法な国もあるし、害は少ないのではと、甘く考えてしまうらしい。が、その入り口をくぐればさらなる刺激を求め、覚醒剤など薬物の深みへとはまる危険が高い▼より強い麻薬へと向かう道は「つるつる」しているらしい。マイルスが書いていた。「ひどい麻薬常習癖への長くて暗くて、冷たく、つるつるした道をまっさかさまに滑り落ちつづけていた」。入り口に近づいてはならない。(東京新聞・「筆洗」2020年11月4日)

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 中学生のころから、ぼくはジャズを聴き齧っていました。七歳上の兄貴がたくさんのレコードを持っていたこともあり、「耳年寄り(マセテイタノダ)」という具合だった。その良さがどこにあるのか、演奏家による違いがどうなのか、いわば音楽の本質にまったく無知な「ガキ」の遊びに等しいものだった。後年、それなりに年齢を加え、クラシックやその他の音楽を聴き重ねるうちに、ジャズの持っている独特の雰囲気やその由来からくる音楽性のジャジ―な雰囲気などに少しづつ耳が馴れていったようです。もっとも、いつでも熱心に聴いたというのではなく、季節や心境の変わり目に、好都合な「刺激剤」「気分転換」をもたらしてくれるかもしれないからという、そんないい加減なジャズとの向き合い方でした。(これはずっと治らないままでした)

 そのようなジャズ鑑賞もどきをくりかえしているうちに、ジャケットのノートなどに演奏者の経歴や音楽性が書かれているのは当然として、ほとんどの場合、そこに「薬歴」というか「麻薬」との付き合いが必ずと言っていいほど書かれていました。これはクラシックの奏者には見られないことだったように思える。あるいはぼくの知らないところで多くの古典音楽奏者たちも麻薬に溺れていたのかもしれない。ここで、薬に足を掬われ生涯を破滅させるような痛手を負った個々の名前を出すことはしません。心が痛むというのと、あまりにも数が多すぎるという、単純な理由からです。

 ジャズに特有のということは、そのほとんどがデキシーランドの流れであったことから言えば、ジャズ的な音楽と薬は赤い糸で結ばれていたのかと疑いたくなるのです。それにしても「凄惨」を極めた薬物中毒と、その悪影響に由ってであったとみられる事故や自死、そのようなさまざまな背景をもって、無数の才能が刈り取られて逝ったのでした。あまりにも惜しい、悲しすぎる歴史を持ってきたのがジャズだった(もちろん、それはジャズ奏者などにかぎらないのは、この島でも、間をおかずに薬物問題が扱われいることを思えば理解できます。「魔の薬」はいまもなお世界いたるところで、敵なしの勢いで席巻しています) 

 ぼくはジャズを聴くと、あるいはジャズボーカルを耳にすると、いいしれない寂しさも、リズムやテンポの快活さと並行して感じてしまうのです。ときにはドライブにCDを持って出るのですが、ジャズを流していると、知らず知らずに涙が流れてくることがあります。いかにも不思議な音楽だと思う。(この世に「麻薬」「魔薬」は有り余っています)

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味を見て塩を振る。パセリを散らし…

キノコとソーセージのパスタ(京都新聞・2020年11月3日 6:00)
 
<日曜日のごちそう 森下美津子>

【材料】(2人分)*好みのパスタ    乾麺150g

*キノコのペースト    大さじ2~3 *:パセリ    1~2本(みじん切り)

*レモン    1/4個 *ソーセージ    2~4本

**塩    適量 *オリーブオイル    適量

【作り方】(1)パスタを塩ゆでする。(2)フライパンにオリーブオイルを温めソーセージを焼く。別皿に取る。キノコのペースト、パスタのゆで汁おたま2杯を温め、パスタを絡める。味を見て塩を振る。パセリを散らし全体に絡めて器に盛る。ソーセージとレモンを添える。

【ワンポイント】パセリの代わりに好みのハーブを使ってもよいでしょう。

◆森下美津子 もりした・みつこ 静岡県浜松市生まれ。インテリアデザインの仕事を経て料理家に転身。2003年から京都市内で、パンや料理の教室「日曜日のごちそう」を主宰、ジャムや焼き菓子制作も手掛ける。右京区在住。http://dimanche.cocotte.jp

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 料理(というほどのものではありませんけど)、自分でつくることがあります。好きというほどでもないが、面倒を厭わないでよく包丁を持つ方でしょう。食事後の洗い物などは一手に引き受けていますよ。これは大好きで、気分転換には最良の作業だ。相当に長い間、ある職業についていたんですが、定年(停年・諦念)の少し前に辞めました。一つ所に長居しすぎたという感じを強くいだいていたのです。毎日のように満員の地下鉄に一時間、途中下車もあまりしないで、うんざりするほど通勤しましたし、仕事はたくさんの人の前で話すことがほとんどでしたから、人見知りする人間としては適職じゃなかったという思いも強くありました。(通勤時間は往路は一時間余でしたが、帰りはまちまち、翌朝になることもしばしばでした)

 とにかく人混みを避けたいと、離職する前からひそかに「出家」というか「家出」を思い描いて、宿探しをしていたのです。当然に、かみさんはついてこないなという直感はありましたから、さっさとぼくは一人で転居し、今の陋屋に住み着いたというわけです。「房総半島のど真ん中」という触れ込みで町の宣伝をしている地域でした。「住めば都」ではありません。住んでも田舎、それがちょっとした山の中の生活です。この付近を明治二十四年だったか、正岡子規が歩いたという記録が子規の文章で記録されています。菜の花畑で「用を足した」という程度です。何句だったか詠まれています。周囲十キロにはコンビニが一軒だけ。ばくはコンビニ嫌いですから、それなりに生活用品の調達は不便。 

 一人住まいが五年以上続き、昨年三月にかみさんがやってきました。たがいに歳も取り、かみさんの病院通いも続いていたので、田舎は嫌だと寝言を言っていましたが、同居するようになった次第です。それまでの五年間、ぼくは自炊です。洗濯掃除を含めて、「自分のことは自分で」主義でしたから、まあ、苦労もなく淡々と(「粛々と」ではなく、ぼくはこの語を使う人間を嫌います。理由はいずれ)、明け暮れにいそしんでいたということもできます。炊事洗濯庭掃除、これらは実に健康、それも精神の健康には格好の常備薬です。いつでも「集中」できて、「世迷いごとからの解放」ができ、心身をすっきりとさせてくれるのです。まあ「救心」「休心」のようでもありますね。この快感を他人に奪われたくないと、いつも考えていました。

 辺鄙なところに来た理由は、頼まれた本を出版するための原稿書きがあったからです。三冊ほどが予定されていましたが、住みだし始めて、こんなところに来てまで「原稿書き(原稿打ち)かよ」と、出版社との約束を反故にして、人海からの逃避を完成しようとしたのです。「不義理よ 今夜もありがとう」などというふざけたことを言いながら、ここで暮らして七年目間近です。

 料理と言えなくもないのですが、何かといろいろと作ります。かみさんが来てからは、彼女にほとんど夕食の準備は任せております。その方が何かと好都合ですからね。今のところ、食材は毎日買い出しに行きます。十キロも離れた商店街(スーパ―)まで。と、こんなことを書いていても仕方がないのでこれで終わり。あまりいいニュースもうわさもありそうにないので、趣向を変えて「レシピ」です。ぼくは原稿を書く時と同じように、あまりレシピ(文献)などに頼らない。適当、いい加減に「勘を頼りに」物事を進める方です。 本日は「日曜日」ではありませんけれど、その気分で、森下さんのお世話になろうという仕掛けです。うまくいくかどうか。(その前に、朝食の用意です。山の神は爆睡中。ただ今、7:00AM)

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福島がいかに復興したか知ってほしい

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原子力災害、記憶つなぐ 福島・双葉伝承館開館

 東京電力福島第1原発事故を後世に伝えるため福島県が双葉町に整備した東日本大震災・原子力災害伝承館が20日、開館した。収集した資料約24万点から約170点を展示し、原発事故が地域にもたらした影響と復興の歩みを紹介する。
 伝承館は津波被災地区に総工費53億円で建設。事故の経過を振り返るシアターに続き、発生から復興までの取り組みを5コーナーで解説する。当初の7月の開館予定が新型コロナウイルスの影響で2カ月遅れた。
 20日は開館に先立ち高村昇館長(長崎大原爆後障害医療研究所教授)が「福島が未曽有の災害からどのように復興したか知ってほしい」とあいさつ。初日は1051人が来館した。
 伝承館の展示内容には原発がはらむ危険性や県が誘致した経緯への言及が少ないとの指摘もある。高村氏は取材に「(原発の危険性に)触れるかどうかは来館者の声などを聞いて検討する」と述べた。20日は内堀雅雄知事と2人の副知事は現地に来なかった。
 開館時間は午前9時~午後5時。火曜休館。入館料は大人600円、小中高生300円。(河北新報・2020年09月21日月曜日)

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 だれがこんな無謀・無残なことをするのでしょうか。人の住めない町(消された街)にどこかの神殿のような空漠たる建物が完成しました。名づけて「東日本大震災・原子力災害伝承館」という。まるで巨悪の象徴にして、中味は空虚。伝承すべき内容も空無なら、事故の原因や復興の道筋も稀薄な気配が濃厚に漂っている「伝承館」、ぼくはきっと行かないと思う。果たして「原発事故から、如何にすれば復興したことになるのか」という最大の核心部分が抜けています。建設段階から開館までと、それ以後の各方面の報道や当館の展示やその他に目を通してきたつもりですが、よく見えないことおびただしいのです。いったい、何を隠したかが実によく伝わってくる「伝承館」です。あるものがない、ないものがある、「不思議の国の伝承館」、「見えないものが展示されている伝承館」です。ふんだんに税金だけは投入され続けるのです。

 福島復興のための五輪開催を謳って誘致したのは七年前。今ではそれ(開催)すら風前の灯火。加えて日々増加するトリチウム汚染水の最終処理問題。「海洋放流」を当局は目論んでいるが、抵抗を避けて時間をやり過ごしているのです。じつに薄汚い真似をするものか。いたるところで人命の無視、人権の蹂躙、棄民政治の暴力が、東西南北、しのぎを削っているとしか言えません。「地図から消される街に新築の廃墟」、人はそれを正視するに堪えないでしょう。

(右記事中の女性記者Aさんは『地図から消される街』(講談社現代新書)の著者青木美希さんです)(青木さんの件についての新聞記事は「日刊ゲンダイ」で読めます。<https://www.nikkan-gendai.com/articles/view/news/270283>)

 伝承館館長の「あいさつ」を読んで、えっと声が出ました。しばらくして、気が付いたのです。迂闊だったかもしれません。福島には二通りの地域があるということです。一つは「すでに復興した地域」、他は「まだ復興していない区域」です。それは「決して復興することのない区域」の別名なんですね。ぼくはもう一度、福島行脚に出かける必要に駆られています。

余話ながら  『地図から消される街』の著者、青木美希さん(右下写真)は朝日新聞記者です。青木さんについては、北海道新聞時代の「道警裏金問題」の報道(この件でも多くの新聞記者の犠牲が出ました)で、その仕事ぶりをぼくは知っていました。この問題の発端は原田宏二さん(故人)(元道警の№2)(左写真)の告発から始まります。一時期、原田さんとは何度もあっていろいろな話を伺うことができ、また未解決の冤罪事件などに関する研究会などを開いたこともありました。

 その青木さんが移籍してきた朝日で「猛烈ないじめ」に遭遇します。青木さんの福島原発事故の取材と報道の時期、この島では五輪招致が決まり、朝日を始め各新聞がこぞってスポンサーになった時期と重なります。(政府に提灯を持ったのですが、同時に社運は陥穽にハマりこんでいったのです)

 新聞社の本体が腐っているのは性悪な政治家連中と「仲良くする(腐敗が感染する)」ことの当然の帰結でしたが、その余波が誠実に報道の真ん中を歩いている「現場記者」を汚い仕打ちで虐めるという醜態に顕現するのですから、ブンヤの風上にも置けない連中で、こいつらの大半は男だと、ぼくは同性の誼(よしみ)、いや怨み骨髄という怒りで、見もしないで断定します。この会社の幹部連の質の悪さは犯罪級です。五輪中止は既定の路線ですが、さらにIOC解体まで進んでほしいね。青木美希さんのご健闘を祈るとともに、闘いの戦列につながりたいと願っています)

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(追記 この駄文は今から3年半前に書いたものでした。カテゴリーの再編中に当方の単純ミスで混乱し、復旧に手間取った挙げ句、その駄文の多くはゴミ箱へ放棄。そのままにしている駄文のいくつかを「当時のまま」に再掲しているのですが、これもその一つ。福島「復興」の、さらにその後や、青木美木さんのその後の活動を含めたいろいろを、近いうちに書いてみたいと考えています。この古い駄文のテーマにもなっている「既存マスコミ(大手新聞社やテレビ局)」の腐敗ぶりは行き着くところまで進んでいるようで、いまや回復(原点回帰はいうまでもなく)は遠い夢の夢。

 マスコミ・メディアの権力批判という生命線を自ら否定しながら、権力の端っこに席を求めて汲々としている、だからこそ、身の程が定まらずに「のたうち回っている」状態ですが、しかし、当事者・当局者たちは「わが(自分一個)世の春」を決め込んでいるかもしれない。こんな時代に生きているのも運命のなせるところ。まさに地球船「日本丸」ですね。言うまでもなく、ぼくもその乗員・乗客の一人。

 これを「一蓮托生」と言う。この語の本義は「仏語。死後、極楽の同じ蓮華の上に生まれること」(デジタル大辞泉)そこから派生して「 結果はどうなろうと、行動や運命をともにすること」(同前)です。ぼくの先輩で、かなり前に「核シェルター」を買うとか作ると真面目に喋っていた人がいます。ぼくには、自分だけを守ろう、自分だけが助かろうという気はない。文字通り、死なば諸共(もろとも)、「死ぬも生きるも、ねえお前」とかいう「枯れ薄(すすき)」の心境でいる。けれども、痩せても枯れても、人間一匹です、「できるだけの抵抗はする、権力の暴力には「一矢は報いたい」からね。(2024/06/20)

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混沌から何が生み出されるのだろうか

 米大統領選を闘う共和党のドナルド・トランプ現大統領と民主党のジョー・バイデン前副大統領の人生の転機をまとめた(2020年8月16日作成)。(c)KUN TIAN, GAL ROMA / AFP
【11月3日 AFP】11月の米大統領選挙を闘う共和党のドナルド・トランプ(Donald Trump)現大統領と民主党のジョー・バイデン(Joe Biden)前副大統領について、両候補の人生の分岐点をまとめた。(c)AFP(https://www.afpbb.com/articles/-/3303423?cx_part=top_category&cx_position=1)

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 「岡目八目」(「傍目八目」)というかぎりでも、ぼくには他国の代表者選挙には興味はない。(岡目八目=《他人の囲碁をそばで見ていると、対局者よりも冷静に手が読める意から》第三者のほうが、物事の是非得失を当事者以上に判断できるということ。)(デジタル大辞泉)もちろん、「高みの見物」などという余裕もありません。太平洋の彼方に存在する国家がカオスになると、この島も呑み込まれるのは避けがたいからです。世界の行く末を左右するというのは隠しようもない事実で、誰が選ばれても知ったことではないと、眼を背けるようなことまではしないし、できないのです。上掲のような、簡単な両候補者の履歴を一瞥するだけで、あるいはその人となりが見えてきそうなのは確かでしょう。「一人の背後」に、独特の世界がある。その世界で彼は生きてきたのですから。

 今回の選挙運動期間中に、アメリカってこんな国だったのか、どえらい野蛮な状態にあるんだ、まだ「南北戦争」が続いているんだなどという、これまでは見通せなかった発見があったのはぼくには幸運なことでした。デモクラシーの家元、あるいは民主主義の学校だともてはやされ、自他ともに任にふさわしいと認めていたのは何とも滑稽というか悲惨だった。この島では秀吉以来、庶民は「刀狩られ」のままで五百年です。

 彼の国は、建国以来二百五十年、いまなお「銃撃戦の最中」にあるのも脅威であり、驚異を覚えるものでした。普段はお目にかかれない姿態、醜態があからさまな恰好をして現出するのですから、貴重な機会であったのは確かですが、こんなレベルで齷齪しているなんて、この「最強国」の先行きも思いやられるという危惧の念が強く働いたのです。このような混迷やカオスを生みだした張本人は誰だったか。目を覚まさせてはならない「亡霊(暴力)」を甦らせたのは誰だったか。あと数時間で、終幕が切って降ろされます。そこからどんなエイリアンが産み落とされるのでしょうか。混沌ばかりが待っている。そのさきに、どんな展望が開けるのか。あるいは「カタストロフィ(catastrophe)」がはじまるのでしょうか。

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秋深き隣は何をする人ぞ

 常寂光寺
 慶長年間(1596〜1614)に大本山本圀寺第16世究竟院日禛上人により開創。本堂は慶長年間に小早川秀秋公の助力を得て、伏見桃山城客殿を移築し造営する。 仁王門は、元和二年(1616)に大本山本圀寺客殿の南門(貞和年間の建立)を移築、仁王像は運慶作と伝えられる。什物に高倉天皇より小督局に下賜された車琴がある。 これは小早川秀秋公より当山に納付されたものである。(非公開)(https://www.jojakko-ji.or.jp/)

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 「文化の日」だそうです。その日に何をかんがえたりしたりするのが似合っているのか、ぼくには分かりません。朝からというより、深夜から雨は降り続いています。文字通り、秋冷の候と呼ぶにふさわしい時候でもあります。身も心も寒くなるとき、ぼくは「寒心」という言葉を使いたくなるのです。時局も不可解な、あるいは摩訶不思議な状況にさいなまれているように感じられて起案す。政局というが、見るも無残な、こんな連中が政治の要路にへばりついているのかとおもうと、反吐も出るわ草目も出るわで、悪い風邪を引いたような気分になるのです。

 ぼくには珍しい風が吹いているのか、どことなく、そぞろ郷愁に誘われたかのように、いろいろなことが想い起されてきます。まずいくつかの俳句です。なかでも芭蕉の一句。混ぜ是が人口に膾炙したのか。おそらく読み違えたのではないでしょうか。平凡ではあるが深い心持がそこはかとなく感じられてくるのです。だから、名句なのか、じつに哀れみに満ちた芭蕉句です。

 「秋深き隣は何をする人ぞ」元禄7年9月28日作、芭蕉五十一歳の作。この一か月後に、大坂の知人宅にて死去。芭蕉最後の句とも言われています。いわば「白鳥の歌」といってもいいか。これについてもなんか言いたいのですが、止めておきます。静かに最期の床に就かんとする芭蕉の胸中に去来したものは何だったか。端倪術からすべからざる別離の避け得ない心境が籠められているのです。

 つぎもまた、病の篤い正岡子規の句です。陸羯南の「日本」から派遣されて大陸に想ういた彼は大吐血をして方法の態で記帳するのです。宿痾の憑依でした。その際の一句、「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」明治二十八年秋。子規は中国から病を得て神戸に帰国、やがて郷里に帰り、漱石と再会。上京の折に奈良行きを試み、この句の材を得たとされる。奈良法隆寺見物に際して漱石に「借金」したという逸話があります。誰だったか、後生の洒落人が、だったら、「柿くへば金がなくなり法隆寺」じゃないですかといったそうです。

 雨に誘われてまだまだバカ話、よしなしごとが出てきそうですが、ここで終わり。上掲の紅葉写真は京都右京区の小倉山在の常寂光寺(再掲)。この寺について、ぼくには麗しいというのか、仄かなというべきか、ちいさな秘密のようなものがあります。これはまだ誰にも話したことはありません。だから、これも内緒です。小倉山の彼女は、いまも健在だろうか。庭もよし、庭からの眺めは京都市内を一望下に。

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こういう人を選んじゃだめだよ

「お国のため」とはどういうことか

 季節柄(叙勲)のことが話題になります。11月3日は「文化の日」ということになっています。これは島全体がそうなっており、東北や四国は例外で除くというわけではありません。昔からそうだったといっても、敗戦後からです。それ以前は「明治節」「天長節」などと言われていました。その名称が示すとおり、明治天皇の誕生を祝った日です。

●文化の日=11月3日。「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことが趣旨の国民の祝日。1948年(昭和23)制定。46年のこの日公布された新憲法の精神に基づき、平和と文化が強調されているが、この日を祝日としたのは、47年まで四大節の一つの明治節(明治天皇の誕生日)だったためもある。皇居で文化勲章の授章式があり、芸術祭がこの日を中心に開催される。晴天の日が多い気象上の特異日としても有名。(日本大百科全書(ニッポニカ)

●文化勲章=科学や芸術など文化の発達に貢献した者に授与される勲章。1937年2月11日の文化勲章令(勅令)によって制定された。他の勲章のような等級はなく,称号とも結びつかず,年金もともなわない。しかし51年に文化功労者年金法ができてからは,文化勲章受章者は同時に文化功労者として文化功労年金を受けるのが例になっている。勲章は橘(たちばな)の花をかたどった清楚な様式である。受章者の選定は法令による規定はないが,文部省が委嘱した選考委員会が選んで閣議で決定している。(世界大百科事典 第2版

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註 おそらく選考委員会で「総合的、俯瞰(ふかん)的な活動を確保する観点から判断」されているのだろうと思われます。元文科次官は「この委員を外せ」と内閣府から強いられたと話されていました。

 「文部科学事務次官だった2016年、「文化功労者選考分科会」の名簿を官邸に持っていった。この分科会は文化審議会の下に置かれており、選考する文化功労者のなかから文化勲章受章者が選ばれることもあって、人事について閣議で了解をとる必要があった。/ 約1週間後、呼びだされて官邸に行くと、杉田和博官房副長官から、10人の委員のうち2人を差し替えるようにと指示された。「政権を批判する発言をメディアでしたことがあった」「こういう人を選んじゃだめだよ。ちゃんと調べてくるように」と言われた。」(朝日新聞・2020年10月18日)

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 文化勲章の話になると、ぼくは熊谷守一さんのことを思い浮かべます。おそらく大変な画家だったであろうし、それ以前に素晴らしい人間であったような気がします。もちろん叙勲を断ったのは彼だけではない。他国でもこういう具合なのかどうかわかりませんが、なんとも多くの賞がありますね。国からの叙勲にはじまって、勲章には有形無形の序列がありました。その代表格は金鵄勲章でした。大層な制度があったもので、戦後も一時期それに倣っていたようです。(以前の生存者叙勲制度)「位階勲等」などという表現がそれを表示しています。今でもそうなのかどうか。もらいたい人はどうぞ、というだけの話で大げさに勲章無用論をするのも大人げないし、貰いたくない人がいても一向に構わない。ぼくは不思議だと思うのは、文学畑でいったいどれだけの文学賞があるのか、小によって文学の価値が上下するものでもなかろうに。でも、欲しい人にとっては値打ちがあるのでしょうし、企業経営(出版)からすれば、ある種の商売道具なんでしょうね。

●金鵄勲章=日本の旧叙制度において〈武功抜群〉とされた軍人軍属に与えられた勲章。1890年の紀元節に制定され,名は,神武天皇東征故事にちなむ。明治政府の軍備拡張期に,軍人の戦意高揚を期待するものであった。功一級〜功七級まであり,いずれも終身年金(1940年以降は一時金)付きであった。1947年廃止。(百科事典マイペディア

 ぼくは、若気の至りで、二十歳過ぎ頃、小説を書いて飯を食おうと間違った考えをした時代がありました。もちろん、芥川賞などのことが頭になかったわけではない。今では大きな間違い(受賞)をしなくてよかったと思ったりしています。断念したのは、もちろん才能の欠如が第一ですが、書いているよりもっと多くの時間を読むべき本の読書に充てたいと思ったのかもしれません。何ほどの冊数も読めませんでしたけれども。

 「別にお国のためにしたことはないから」「これ以上、人が来てくれては困る」という断りの弁はすがすがしいといっていいかどうか。「お国のために」という言葉が出てきますが、どうなんでしょう。どんな人でも国や県などのために生きている」のではないように考えます。もちろんそれぞれですから、都のために県のために一命を捧げるという人がいてもおかしくないし、それをとやかく言う筋合いではないでしょう。あくまでもぼく個人として、少しでも人の役に立てれば望外の幸せだという、その程度の人生を生きたいと願ってきただけです。時とすると、「お国もために」が頭をもたげます。

 「絵などは自分を出して自分を生かすしかないのだと思います。自分にないものを、無理になんとかしようとしても、ロクなことにはなりません」こういうことばも、なかなか誰でも吐けないのではないでしょうか。熊谷流と言ったらいいか。あるいは才能を持った九十歳にして初めて口にする言葉だったか。ずいたくさん熊谷さんの絵を見たように記憶しています。何がよかったのか、よくわからなかったが、自然であり、素朴であり、透視画ような純粋さ、無駄のない線描など、陳腐な言葉をられるしても、なかなか肯綮に中らないとわかっています。つまりは言葉にならないから、絵なんですね。各地に熊谷さんゆかりの美術館があります。ぼくは何度か、豊島区にある美術館に通いました。

 断るまでもありませんが、「文化勲章」「文化功労章」についてとやかく言いたいのではありません。勲章を手にしたら、その人の評価が上がるというわけのものでもないでしょうし、その反対だからといって、評価は低下することもないでしょう、ぼくはそう見てきました。いい服を着ているからその人は偉いというのは可笑しいいでしょ。これは学校歴やその他、何位でもいえることです。「人を見る目」という錬ぞが曇らないために用心するのはなかなか大変ですね。ここでは、熊谷さんのような方が生きておられたことを知り得たという、ぼくの人生の幸福(喜び)の一端を書いてみたかっただけでした。彼の描く猫、「至福の表情」ですね。生きとし生きる存在が「こうあるといいなあ」と願うね。「なんでも表現というのは、その人が出るね」という哲学・思想を生きた人でしたね。

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