以下のとおり情報提供がありましたので…

 陸上自衛隊V-22オスプレイの場外飛行について(令和2年11月9日)

陸上自衛隊木更津駐屯地に到着した輸送機オスプレイ=10日、千葉県木更津市で(隈崎稔樹撮影)(東京新聞・2020年7月11日)

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 防衛省北関東防衛局より以下のとおり情報提供がありましたので、お知らせします。

陸上自衛隊V-22オスプレイの場外飛行については、11月10日(火曜)12時頃を予定しておりますのでお知らせいたします。なお、飛行日程については、天候等により変更となる可能性があります。変更があった場合には、改めてお知らせいたします。(https://www.city.kisarazu.lg.jp/shisei/1003952/1004568/1007529.html)

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 木更津市のHPに、上記の「お知らせ」が掲載されていました。対象は木更津市民でしょうが、もちろん、周辺地域住民への影響も免れません。この「お知らせ」の意図はなんでしょうか。奇体な飛行物体が市の上空を飛行するので、市民の皆さんは挙って見物に参加してほしいということなのか、それとも、いつ落下するか、どこに落ちるかわかりませんので、避難できる態勢を整えてほしいというお触れか。あるいは慌てて撃ち落そうとしないようにというおねがいなのか。いかにも奇怪な「広報」でもありますし、市としてもどうしていいかわからないのが本音でしょう。「暫定配備」だから、交付金付きでもあるなら、受け入れましょうとなった経緯は想定できますが、こんなものいらないという、姿勢(市政)は微塵もないのは仕方がないことなのでしょうか。(左下の写真は「木更津分屯基地」HPからのものです)

 拙宅から「航空自衛隊木更津分屯基地」まで車で約四十分、直線距離で約三十キロです。飛行時間はどれほどでしょうか。もちろん、本日は訓練飛行を拙宅近くからは確認できませんでしたが、この数日は何かと理由をつけて飛行(訓練)をしております。北海道の寿都町が「核のゴミ」の最終処分場の「文献調査」に応募するとかしたとかいう話がニュースになっています。応募するだけでも二十億円の金が入るという。金で釣る、金で横面を叩く。あさましい限りです。いったい何のため、誰のためなんでしょうか。木更津市にはどれほど受け入れ交付金がはいったのか、「核のゴミ」と比べれば「雀の涙」だったかもしれませんが、木更津市区域内だけに飛行も爆音も墜落の危険性も限定されるなら、どうぞ、みなさんで決めて下され、と言えますが、どうもそういうわけにはいきません。事情は寿都町と同様です。影響甚大。

 防衛省は、最初は佐賀県内に予定していたのに断られ、曲折があって、木更津への「暫定配備」になったといいます。米国では型も性能も古いし、事故も多くて厄介者だったのを、この島の軍備当局は何十基だったか、購入を強いられたとも言われます、買う約束をしたのは、人民の前から逃げ出した前のPMでした。「防衛整備計画」と一端(いっぱし)の名称をつけていますが、要はアメリカの「お古」を言い値で買わされてきたし、これからもそうだということ。大統領が変わっても状況の変化はなさそうです。

 我が家の上空を万が一にも飛ぶことがあれば、それなりの対応をしなければと、「専守防衛体制」を考えているところです。何やかやと武器や戦車や戦闘機、迎撃ミサイルとかいう役立たずを新規に洋上用に入れ替えるとか。まるでアメリカのATMですな。いったい、どこと一戦を交えるつもりか。まさか、中●、北✖✖を想定しているのではと、勘ぐりたくなるが、今どき流行らないですよ、戦争は。加えて、アメリカにはまずこの島を護ろうという気はありません、自らの利害が絡まない限りは。

 房総半島のあちこちで「オスプレイいらない運動」が始まっています。それではどこが引き受けるのか、それをも含めて「いらない運動」をと、ぼく自身も考えています。沖縄問題の中で、このことをしっかりと判断したいですね。「日本の空」だけではなく、「世界の空」には不要で、危険な物体です。

(オスプレイの試験飛行を受け、抗議活動を行う人たち=木更津市で)(東京新聞・2020年11月7日 )

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オスプレイ、木更津に暫定配備 21年度までに計17機 

 陸上自衛隊木更津駐屯地に到着した輸送機オスプレイ=10日、千葉県木更津市で(隈崎稔樹撮影) 防衛省が導入した垂直離着陸輸送機オスプレイ1機が10日午後、陸上自衛隊木更津駐屯地(千葉県木更津市)に暫定配備された。2021年度末までに17機が配備される予定。同駐屯地への配備は5年以内の方針で、防衛省は最終的に佐賀空港(佐賀市)に正式配備する計画だが、地権者との交渉は難航し、先行きは不透明だ。 (山田雄一郎)

 5月に米軍岩国基地(山口県岩国市)に陸揚げされた2機のうちの1機目が10日午後2時すぎに同基地を離陸し、午後4時5分ごろ、木更津駐屯地に到着した。1機目は6日配備の予定だったが、天候不良のため2度延期された。2機目の到着日は未定。 1機目の配備後、木更津市の渡辺芳邦市長は「市民の安全・安心を第一に考え、基地対策に全力で取り組む」と語った。 防衛省によると、当面は飛行範囲を駐屯地内に限定し、その後段階的に広げる。早ければ8月から東京湾上空などで飛行を行う方針。駐屯地に17機がそろった場合、離着陸回数は1日15回、年4500回となる見通し。 防衛省は14年、佐賀県に佐賀空港への配備を要請した。18年に山口祥義知事が受け入れを表明したが駐機場などの用地取得交渉が難航。その後、米軍オスプレイの整備拠点となっている木更津駐屯地への暫定配備を決め、昨年12月に木更津市が受け入れを表明した。防衛省と市は「5年以内を目標」に暫定配備することで合意。配備期限は25年7月9日となる。 陸自オスプレイは、南西諸島の防衛強化のため、陸自相浦駐屯地(長崎県佐世保市)に発足した離島防衛の専門部隊「水陸機動団」の隊員輸送の役割を担う。運用するのは3月に木更津駐屯地に発足した「輸送航空隊」で、木更津から佐世保までは約1000キロの距離があり、即応性を疑問視する声も出ている。(東京新聞・2020年7月11日 06時00分)

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 着々と「既成事実化」は進められています。その内、反対運動も立ち消える、政府防衛省のだまし作戦は古いし、セコイもの。仮想敵国はどこですか、と訊いても答えられない。「ないのだから」とは言えないし、あるいはあそこだとも言えない。交流関係を結ぼうとするのに、仮想敵国かよとなりますから。いろいろと勇ましいことをいう人々がいますが、どれだけリアライズされているのか、ぼくはまことに疑わしいことだとみている。戦争をする準備ではなく、そうならないための政治こそが、今の時代のぼくたちの国に、もっとも欠けているんじゃありませんか。仲良くすることの方がケンカするよりよほど難しい、それは個人同士の場合でも同じです。近代の歴史、ついさいきんの過去をじゅうぶんに掘り起こしてみれば、ぼくたちが何をしなければならないか、はっきりと見えるし、それを見ようとしない政治家や人民は「白昼夢」の最中にあるといいたいですね。(左上は木更津へ初飛行したとき)(毎日新聞2016年10月24日)

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新聞はスウィングしないんですか

 「米国人の重大な特長は他の諸国民よりも文化的に啓蒙(けいもう)されているだけではなく、欠点を自ら矯正(きょうせい)する能力をもっていることにある」。19世紀初めに米国の民主主義政治を観察した仏思想家トクビルの言葉である▲その「欠点を矯正する能力」を誰の目にも明らかに示すのが、選挙における民意の振り子運動と、それによる共和・民主の2大政党間の政権交代の繰り返しだった。民意のスイングごとに新しいページを開いてきた米国の歴史である▲その米国政治の振り子時計がとうとう壊れてしまったのか。そう世界を心配させたトランプ政権の4年を経ての米大統領選の開票作業の難航と、支持者間の激しい対立だった。投票日から4日、ようやくバイデン氏の勝利宣言が出た▲「これは国民にとっての勝利だ。私は分断ではなく結束をめざす大統領になる」。バイデン氏の演説は、敵と味方を分断して支持者を固めるトランプ政治への否定である。と同時に、それは米国の政治の正統への復帰宣言でもあろう▲「すべての小さな女の子はこの国が可能性の国であることを知る」。初の女性、かつ黒人・アジア系副大統領となるハリス氏の演説も、多様性とその権利のための闘いが米国の力の源泉なのを訴え、政権交代の振れ幅を示してみせた▲訴訟連発で抗戦しているトランプ氏も早晩、選挙結果受け入れを避けられまい。辛(かろ)うじて米国政治の振り子はスイングを再開した。次の4年間、未来へ向かう時を着実に刻み直すのを願うばかりである。(毎日新聞2020年11月10日 東京朝刊)

 あまり芸のある話ではありませんが、立て続けにいくつかの新聞の「コラム」を通して、米大統領選にみる「アメリカ民主主義」像を一瞥しようとしています。無駄だったかもしれない。「紋切り型」と言えばぴったりという風に、ぼくには見えました。デモクラシーのお手本だったのに、選挙運動や選挙の結果、それがびっくりするほどお粗末であったというのでしょう。アメリカの選挙民の民度も低いし、と。それがどうしたと、ぼくはいう。そんな上辺を撫でただけの見方しかできないことを百も承知で、それでもいう、なんと「陳腐、月並み、平凡、通り一遍」なと、ぼくは改めてこの島の「新聞紙の現在」を嫌でも確認させられているのです。「新聞」とは偽りの名、その正体は、伝統に輝く「旧聞」ですな。各紙一斉に同文記事さ。

 今回の「選挙で選ばれた」正副コンビについて、ぼくはまったく知るところがありません。これからの言動(政治活動)を通じてしか評価はできないと、明言せざるを得ないのです。人を「見た目」で判断してはいけないという法律はないでしょうが、それは「判断」ではなく、単なる印象、あるいは好き嫌いに過ぎません。「印象」も「好き嫌い」も持続することは稀です。でもぼくの知る限りで、島の新聞各紙は「見た目」「印象」「風評」「噂」「逸話」などでしか記事を書けないとしたら、それは「噂の真相」でしかありませんね。(かなり前にぼくはこの雑誌に(噂を)書かれたことがあります。今は廃刊になったし、発行者は亡くなられました)

 この島でバカの一つ覚えのように報道される「偽支持率調査」報道、ぼくはこれを「支持率操作」ということにしています。「世論調査」は「世論操作」です。現内閣のどこを支持しますか?「人柄が信頼できるから」という。ホントかよ。おそらく調査対象者は親戚か関係者でしょう。ぼくはこの人物が信頼できるかどうか、つきあっていないので答えようがないけど。どうしてこんないい加減な「調査だか操作だか」を報道するのか、これは頽廃のきわみというほかありません。悪い意図に基づいているね。「権力への迎合」もまた、「世論操作」の大事な機能なんだ。「芸当・迎合」が過ぎると、「仲間」になった気がするんですよ、きっと。だが、それが島の中だけに留まっているならいいけど、太平洋の彼方の国の「操作(調査)」までするのだから、呆れます。他人のことが言えた義理か?これも忖度でしょうが、誰に対して? 社の上司に対してとなれば始末に負えない、お手上げです。悲しいかな、上げた手をおろす場がないね。

 Bさんの演説は「米国の政治の正統への復帰宣言」であり、Kさんの「多様性とその権利のための闘いが米国の力の源泉なのを訴え、政権交代の振れ幅を示してみせた」と。そうかね、それを自分の感覚や頭で考えて書いたのか。「口ではナントでも言える」し、筆はどこまでも走ります。「筆の暴走」はいつでも見られます。記者の良心、そんなもの、とっくに忘れたさ、と言いたげです。お願いします、止めてくれませんか、こんな誠意のない記事を書くのは。

 いいですか、いまもなお負けを認めない(振りをしている)D氏だって「国民すべてのために働く」と当選後初の演説で言っていたんだぞ。それすら確認しないで、この大統領には「大いに期待する」だって、か。記者も、不勉強だし、不真面目だな。日本のPMにいたってはさらに酷い、自分の言葉を持たない総理って、なんだ。それすらも指摘できない新聞は何なんだ。

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「今こそアメリカは分断の傷を癒やしていかなければなりません。団結しなければなりません。全国のすべての共和党員、民主党員、無党派の人々に言います。今こそ私たちは、国民として一致団結するべきです。(拍手)その時がやってきました。全国のすべての国民に誓います。私はすべてのアメリカ国民の大統領になります。これは私にとって非常に重要なことです」「これまで私を支持していなかった人々に言います――そんな人も、少しはいました――私は皆さんの助言と支援を求めます。国として団結できるよう、ともに努力しましょう」(2016年11月16日)(註 この<Fake>を見抜けないでどうします)

 (註 暇な方は歴代「大統領」の「勝利宣言」を並べて読んでください。回し読みしているんじゃないかと思われるくらいにそっくりさ)

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 いかにも表面的ですね。彼女に対しても、各紙は一様に「初の女性、かつ黒人・アジア系副大統領」という。それは事実であっても、それをまたいうか、とぼくは訝るのです。同じ筆法で「BTLGQ」の時代到来などと、洒落た口をきくんですからね。呆れてもしまうのです。こんな記事を何百回書いたところで、紙価は高まらない。それどころか、大手紙は軒並みに「部数減」に喘いでいるじゃないですか。(ぼくには無関係だけど)すべてとは言わないが、どでかい本社ビルを「格安払下げ国有地」に、威容を誇るかの如くに建てていらっしゃる。「木鐸の巨塔(虚塔)」といいますか。まずこれから壊すべきです。コロナ禍の「五輪」にこぞってスポンサーだって。ふざけすぎだと思います。

 「次の✖年間、未来へ向かう時を着実に刻み直すのを願うばかりである」と、他人ごとではなく、わが政府、我が政治に直言するべきだといっても始まらないね。人民を愚弄するのは政治家だけではない、かかる惨状を新聞各紙ははっきりと認めるべきだ。「われわれも人民を愚か者と認定しているのです」と。「私たちは第四の権力です(権力の列に位置している)」と。この島にも<FAKE>を叫び、「陰謀論」を騙る固まりができているのです。対岸の火事視か、他山の石か。「多様な新聞」はやがて(いまは)「単一の新聞」になる運命にあります。

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分け入っても分け入っても朱い山

全山燃ゆ 祖谷川上流では淡い光を浴びて錦に染まる山々が映える=三好市東祖谷(徳島新聞・20/11/09)

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 日本三大秘境の一つとされる「祖谷(いや)」、こんなに観光化されても「秘境」なんだと、驚きます。それって「卑怯」じゃないかとは言わない。ちなみに、残りは「岐阜白川郷」、「宮崎椎葉村」らしいが、いずれも「三大秘境観光地」に変貌しています。これをご同慶の至りと言っていいのでしょうか。

 「秘境」の秋景色。正確を期すと、「元秘境」ですね。この秋の景観やスポットなどについては、いろいろな角度からのいくつもの紹介がありますので、そちらを参照されますように。ぼくは徳島新聞の一枚の写真で見るばかりですが、それでじゅうぶんに堪能します。秋の夕日に照る山もみじ。よく見ると写真には「舗装された道路に車」「送電線はどこにつづくのか」と、「文明」の印影が映り込んでいます。良いことではありませんか。この近辺には大歩危(おおぼけ)小歩危(こぼけ)などという「地名」もあり、実際に歩行困難な急峻な岩場がつづいていました。いまでも、恐る恐る歩くには格好のコースかもしれません。あるいは「文明化されて」舗装されているかも。

 白川も椎葉(今夏の豪雨被害を受けました)も「ライトアップ」されても、何の不思議もないくらいに有名なスポットになりました。どちらも、ぼくにはなじみの場所ですが、この「三大(元秘境)観光地」の知り初めは柳田国男さんでした。彼は明治の末頃から、島の各地(沖縄も含めて)を徒歩で走破されています。その足跡をペンで色づけると、この島全体が赤くなるとも言われたほどに歩いた人でした。そこから生み出された記録は後に「日本民俗学」と命名された。柳田さん以上に歩き続けた人が宮本常一さんでした。一年の三分の二を旅の明け暮れで過ごしたとも言われた。「歩く」とは「考える」ことだと喝破した文人がいました(幸田文さん)。だから「徒歩」が移動の手段だった時代の人々はとてもよく「考える人」(昔もロダンはいた)でした。いまは便利になり過ぎて、観光気分(歩かない)で「秘境」に出かけられます。「歩かない」は「考えない」と同義です、ぼくの辞書では。半世紀前くらいまでは、各地にほとんど他所者の出入りのない村や町があったし、ぼくは京都で、そのような場所に出かけたことがあります。(もちろんぼくの小さく狭い「生活世界」の外のことだったから、それはどこにでももありましたが)

後狩詞記この本は現在むやみに景気がいいが、実は又私の著書では無く、日向の椎葉村の村長の口授を書写、それに或旧家の猟の伝書を添えて、やや長い序文だけを私が書いたもの、出したのは明治四十一年の冬だが、当の作者がまだ高齢で彼地に生きて居る。ただ此書を珍本にした技術に至っては、或は私のものということが出来るかも知れぬ。この年の五月の末に、私は東京を発して九州の南半を一巡し、広島まで還って来てから電命で又土佐へ渡り、百余日をかさねてへとへとに疲れて戻って来た。そうして病床に就いて退屈な日を送って居た際、気がついて見ると旅費が二十何円があまって居る。是であれを本にしてやれと思って、積らせて見たところが丁度五十部だけ出来るという。本に番号を打つということはあの頃としては大きな気取であった。終りの数冊だけはつまらなく散らしたが、其他は悉く行先を控えて著者関係者、及び其当時自分の尊奉する限りの先輩へ、多くは手紙まで添えて拝呈したのであった。あんな百二十頁のちっぽけな本に、徳冨山路等の一流文士の批評が出て、其時から既に好事家に狙われて居たのである。中に書いてある事実が当時としては皆耳新らしく、其上に序文と頭註で、是は将来研究しなければならぬ問題だといい、実際又少しずつ、我々の学問も之を明かにする方へ向いて行ったので、次第に客観的にも重要になって来たのである。岩波といったような大出版者には経験の無いことだろうが、自分にはこの発行総数の半分までは所在が判って居る。中には二度三度主を替えて、まだ系統の辿られるものさえあるのである。しかも滑稽なことにはこの書の題名を、正しく読んでくれる人も半分しか居ない。私は実は多賀豊後守の狩詞記を読んで居て、斯ういう名の本が出して見たくなったのである。この興味が無かったなら、或は出版はまだ延期せられたかも知れない。(柳田国男『予が出版事業』所収1939年刊)(タイトルは「ノチノカリコトバノキ」という)

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 この一週間は、太平洋の彼方の「大国」の大将を選ぶ選挙に、ぼくまでもふりまわされた感があり、まあ、いつものように時間を浪費してしまいました。大であれ小であれ、国の政治は「権力争い」とみれば、ぼくなどの干渉するいわれはないもの、でも多少とも「税金」を取られる身とすれば、一言あってしかるべし、それがぼくの身の置き方です。(税金を「納める」とぼくは言わない、税金を「取られる」と)権力争いは「陣地争い」であり「名誉戦争」であり、「所有地争い」でもあると思えば、つまるところは「椅子取りゲーム」ですよ。それなら、どこにでも(犬や猫の世界にも)、常に生じているのであって、人間に特有の現象ではないんですね。得心が行けば、騒ぐばかりが能じゃないというところに落ち着きます。

 それにしても、一万メートル競走で、はじめの千メートルで勝っていたんだから、これで競争を打ち切れという発想はただものではないね、誰もが言えるセリフじゃない。でも競争は参加者には同じ条件が不可欠だから、そんな文句はレースを降りることしか意味しない。でも、裁判だろうが何だろうが、とことんやってみなはれ、金も時間もかかるし、勝ち目がないとされるなら、それだけの理由(根拠)があるからではないですか。敗北の弁にも理屈(面子・face)がいるとは、厄介なこと。「最後まで戦う」、そして一人になった。そこで初めて気が付くこともあります、Tさん。

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 だから、この一枚の写真(秋景色)は、ぼくにとっては「口直し」というか、「迎え酒」というか。あるいは「精進落とし」とでも言っておきましょうか。特段の潔斎をしたわけでもありませんが、「やったつもり」であって、お祭りは終わったということです。「対岸の祭り」も終わりました。いずこも「再起動」ですね。

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 祖谷の奥山は紅葉の盛り、猪も愛でていることでしょう。ぼくは、いつもこんな句を思い出します。

 分け入っても分け入っても青い山 ー 山頭火会心の作だったかどうか(ぼくには疑わしい)。「青い山」とは墓地のことです。(東京にもありますね、「青山墓地」)という意味は、この島のどんなところにもお墓がある、人の生活があるというのでしょう。(人間至るところ青山あり・ジンカンイタルトコロセイザンアリ)山頭火はそのように詠んだ。山深く、どんなに行っても行っても、人が住んでいる、生活があるという実感なんです。「人跡未踏の地」なんかあるものですか。これは柳田さんも指摘されていることです。祖谷もそうでした。秘境といったのは「都会人」であって、「不便を嫌い」「遅れた生活を厭う」偏った人間の好悪が使った蔑称だったかも。アメリカの「レッド地帯」のどんな辺鄙なところにも「人間の大地」「人の生業」があるのですね。アパラチアの山中にも、もちろん人々の生活があります。ぼくはよく知っています。

 辺鄙(へんぴ)の「鄙(ひ)(ひな)」=「都会から離れた」、都会の周辺地つまりは「田舎」という、これも「都人」が使った蔑称だと思う。「ひなびた」とはなんという美しい言葉でしょうか、とぼくは好んでいるのですが。辺地、辺境、周辺、辺地、僻地(僻陬)、その他無数と言っていいほどに都会人の発明した「蔑称」(いまでいう差別語)がありますが、その意味(理由)は何ですか?石田梅岩だったかに「都鄙問答」という本があった。読んだ記憶はあるが、その内容は記憶の彼方です。(「センター」争いはAKBばかりではない。それを言わないで「マージナル」だとかいう嫌な語を使いたがるのは、「都会人」という寂しい人たちなんだ)

 今では「辺鄙なところにいらっしゃい」と官民挙げて、「周辺回帰運動」真っ盛り。「田舎に住もう!お金をあげるから」という役所もある始末。ぼく流に言えば、「田舎暗し」がいいんですね。ネオンなんか一つもない。変われば変わる世の習い、です。その昔、江戸時代以前は「東京・関東」は「京都陣地(五畿内)から見れば「僻陬の地」で、譬えて言えば、「蝦夷地」のようでしたね。中華以外の地は「蛮地」で、人間以外の生き物(蛮族)が住んでいたとされる偏見は、時代を越えて拡張していったのです。ローマ以外も蛮地、すべては「ローマに通じる」という表現は「都人の奢り」の証拠でもあるのです。「四大文明」は歴史の彼方に消えたし、「地層」に埋もれましたが、なに、蛮地だけはいまもなお残っています。 

 都会と田舎 これは対立語でもなければ先進地・後進地のことでもありません。どちらも独自の「文化」なんだ。「文化」は比較されることを拒絶します。そこが「文明」と違うんだね。自動車は文明の利器ですから、年代や型式が文句を言うのです。「時代遅れ」は文明圏の話だ。(これ(文化と文明)については、次回にでも書いてみます。断るまでもなく、ぼくはちょっとばかり「文化」派、そう「文化」人なんです、それを都会文明人は「野蛮」と言いたがる) 

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If Winter comes, can Spring be far behind?

7日(土)は二十四節気「立冬(りっとう)」。暦の上では冬の始まりとなりますが、実際には若干のズレがあるようです。

11月上旬なのに冬の始まり?

立春・立夏・立秋と今回のテーマでもある立冬をあわせて「四立(しりゅう)」といいます。/ “立”には新しい季節になるという意味があり、それぞれの季節の節目を表しています。/ 暦の上では新しい季節になるわけですが、まだ冬には早いような…?/ ではなぜ、こんなにも実際の季節と暦上の季節は違うのでしょうか。

季節的変化に若干のズレ

(情報元:気象庁)

実は、二十四節気は中国が発祥の地。中国の中でも黄河中流域付近の気候を基準としているようです。/ 試しに黄河中・下流域に位置する鄭州と都市化の影響が少ない茨城県水戸市の気温を比べてみます。/ 鄭州の場合、最も寒いのが1月、最も暑いのが7月となっています。一方、水戸市は1月~2月が寒く、8月が最も暑くなっています。

(出典:気象談話室 二十四節気は本当に日本の季節変化とずれている?)

約1節気分のズレが生じる

さらに、水戸と安陽(黄河の中・下流域に位置し、水戸と同緯度にある都市)の各節気の節入の日における日平均気温を比較してみます。/ 安陽では大寒に最も気温が低く、大暑に最も高くなっています。/ しかし、水戸では大寒~立春にかけてが最も低く、立秋に最も気温が高くなっていました。/ こう見ると、黄河と日本では約1節気ズレていることがわかります。そのため、黄河の気候を基準とした二十四節気では、日本の季節と異なってしまうというわけです。

立冬は来る冬に備える時期

中国のことわざで「立冬補冬、補嘴空」というものがあります。立冬はその時期に収穫されたものを食べて栄養を補給しよう!という意味のようです。/ 立冬を冬の始まりと考えると、日本ではいまいちピンときませんが、寒い冬を乗り切るための冬支度の時期と捉えると良いかもしれません。/ 中国のことわざに倣い、旬なもので栄養を補給し、来る冬に備えてみてはいかがでしょうか(https://weathernews.jp/s/topics/202011/060075/)

(註 ぼくは昔から気候や気温に敏感でした。自分なりの天気予報を常にしていたといってもいいほどです。長じてもその癖は変わらず、今に続いているのです。もちろん、季節の微妙な変化も気になります。ということは、春夏秋冬、エアコンなしの暮らしをしてきたせいでもあるし、結婚してもそれを変えたくはなかったが、かみさんがじつに光熱費のかかる人でしたから、狭い家では波長が合わないことが多かった。

 年齢とともに寒暖の差に弱くなったのは仕方がないともいえるし、一面では、堕落ともみられます。寒ければ寒いほど、暑ければ暑いほどいいんだ、と強がりを通してきましたが、今では無念、これが通じない、「年寄りの冷や水(indiscretion)」ですね。山の生活に移って以来、ぼくは毎日このサイトの世話になっています。年中無休、二十四時間営業のブラックサイトです。本社は千葉幕張。写真上はスタッフさん)

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 暦通りなら、昨日触れておくべき事柄でした。一日遅れの「立冬」考です。いまこれをアメリカNBCのライブを見ながら(聞きながら)書いています。大統領選挙の速報が出て、B候補が選ばれたという。一方のTPresident 側の動向は見られません。ワシントンの公園からの中継ですが、気温は何度なのか、半そで姿がやけに目立ちます。ひたすら立っているだけの「群衆」なのかしら。大統領選挙は四年に一度のお祭りのようですが、お祭り気分にすっかり「水をかけられた」サイドはどういう行動に出るのでしょうか。(左上はNBC NEWS (2020/11/08朝)(日本時間)

 「冬の始まり」だそうで、昨日家の周囲の雑木林や竹林の中に入ったところ、いたるところで「猪」の労働(ハードワーク)の痕跡が見られました。方々に大小の穴を掘ってあったのです。おそらく越冬のために地中の「新芽(根)」を掘り起こして食べたのでしょう。見たところ、本当に精力的な掘削作業だったようです。これまでに何度も遭遇したのではありませんが、家の敷地内にまで入ってきたこともあります。竹の根(芽)はことのほか好物であると見えて、新年になるとさらに穴が深くなるのです。

 冬支度の初めが「立冬」だとすると、ぼくなんかよりはるかに敏感に、猪は季節を感じているに違いないようです。少し前には運転中の車に衝突しそうになるほど接近してきました。この近隣では「猟友会」なる恐ろしい徒党があって、猪を「駆除」するのですが、時には誤って(だと思う)人間を「駆除」することもあるのです。林の中では「人家あり、発砲(八方)に注意」と恐ろしい立札がたっています。

 「冬来たりなば春遠からじ」Shelly ; Ode to the West Wind. (If Winter comes, can Spring be far behind?)わかったような分かりがたいような漢文調日本訳文ですね。「冬が来たなら、春も近いよね」というのでしょうか。春が来るには寒い冬を越さなければならないのか、という方が筋が通るように思いますが。これは、なにもアメリカや日本だけではなく、コロナ禍に塗(まみ)れている世界中の人民の偽らない不安だといえるでしょう。春につづかない冬はないという。もちろん季節は巡るのですが、冬がことのほか寒いと感じてしまうこともあるのです。今冬はどうか。シェリーのこの詩をある大和の碩学は次のように訳しました「冬が来るなら、春が遥かに在り得ようか?」(大和資雄)冬が来るとするなら、春だって遠くにあるんじゃないでしょう?そんなこと言えば、冬が来るなら、夏だって…、となると言えば、詩になりませんね。

 ワシントンの「ライブ」はまだ続いています。ただ集まって、体を動かしているだけの映像です。ぼくにはそのようにしか見えないのですが、じつはこれは「自分たちの国の、自分たちの大統領」が決まった、それも「自分たちが選んだんだ」という、選挙した人の責任と祝意の表れなんでしょう。じっとしていられない、家なんかにおれるものかと、三々五々、集まったということなのでしょうね。でも、やはりみんな寂しいのでしょうか。それとも家におれない事情があるのでしょうか。当節の人情、かくの如し。人さまざまですが、新たな区切りがついたのだし、自分も再出発しようという意気込みかな。いずれにしても、どこか不条理に思われます)

 (一昨日だったか)国会中継を見ていて、我知らずに涙が出てきました。PMの無知無能は正真正銘のものだと見えたからです。天文学のレベルで悲惨です。それでも「権力欲」ばかりは人並みに持っているから、手に負えないと考えたら、また涙です。対象者が何ものであるかも知らないで、「任命拒否」をしたのはいいが、権力に楯突いたから、拒否したといえばいいのに。それが言えないから、気の毒を通り越して、辞めたらどうか、と言いたくなりました。「(ある人の)罪を裁くのではなく、思想(考え)を裁いた」というのでしょう。「治安維持法」の時代ですね。無知ほど怖いものはない。この人はすべてをメモ(秘書官か誰かに書いてもらう、その場で)を見てしか話せない。驚異的です。「おはよう」という挨拶も「メモ読み」に違いないな、と暢気に言ってばかりもおれません。こんなPMを、ぼくは選んだつもりはない、横浜市民が選んだんですね。「自分の言葉で答弁を」、これを仮に自助だとするなら、このPMは「自助力ゼロ」です。生意気に「(国民はまず)自助から」などと言ってほしくないね。「お前の、その考えが気に食わないから、任命しないんだ」というだけの「勇気」もないのなら、国会から出るほかないじゃないですか。「勇気」があったら、どうなるか。人権蹂躙です。

 人間の活動はすべからく政治(的)であります。先ず政治を定義しなければなりませんが、「外的な力で他者に支配の力を及ぼす」とでもいえばどうでしょう。夕食は何を食べるか、他人の分も考えるなら、そこには小さな政治的支配が生まれるでしょう。教師が生徒たちに何を教えるか、そこにも政治力が働いています。詳細はともかく、その政治支配を「商売にするのが政治家」なら、なんでこんなに不出来な連中ばかりが生まれてくるのですかね、議会の場では。議会がそういうふうに政治家を作り変えるのかしら。さすれば、「議会」と言わず「奇怪」と名付けようじゃありませんか。

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トホホに見えたデモクラシー、と言えた義理かね

 ここ数日は折りを見て、アメリカの選挙報道を見ています。NBCやABC、CNNなどのライブ盤です。いつものことながら、あまりにも早口でわからないところが多くありますが、数字やクリップがあるので何とか状況はつかめます。中継の合間にDの記者会見などもはさまれており、普段は見慣れない光景にいろいろと感想がわきます。それはともかく、これを書いている段階(11月7日6時過ぎ)で、まだ決着はついていない、というより最終票の確定がされていないので、当選がペンディングになっているのです。「待てば海路の日和あり」とはだれにとってか。

 この間にもDは「選挙が盗まれた」「組織的な不正があった」「郵便投票は不正の温床」とか言って、あろうことか選挙制度までも非難し、テレビ各社の会見中継が消されてしまったなど、予期しない場面に遭遇しています。それでも開票は淡々と進み、当選が決定されるでしょうし、一方で郵便投票に不服な側は裁判闘争に持ち込んでいます。さらに裁判への訴えが追加されそうです。法律がある以上、法廷闘争は権利として認められていますから、「おやりになるなら、ぜひどうぞ」ということです。仮に投票結果が逆転(反転)したしても、それは「裁判」の結果です。それをとやかく言わない、いや言えないですね、ぼくには。

 ぼくが寒心(感心も)するのは、自分が有利であるなら開票を進めろ、不利になった途端に開票は止めろというD(に煽られた支持者たち)の卑しい根性(low guts)です。闘争本能を掻き立て、勝つためなら手段を択ばない御仁だと、ずっと見ていましたから、いまさらぼくは驚かない。Dという人は権力掌握にしか情熱を示さない人間であり、一番だといわれることにしか興味がない、「お山の大将(the top dog)」に他ならない。ぼくが関心を持っているのは、その「お山の大将」を、およそ半数近くの選挙民が(多分)熱狂的に支持している事態です。おそらく、D氏が大写しになるのに同調している自分も「ヒーロー」「ヒロイン」だと感じるのでしょう。そのような人々を、ぼくは詰りはしない。さもありなん。これはいずこの選挙でも同じです。町内会会長を選ぶ選挙(もしあるなら)でも、ヒーローやヒロインは(一瞬であれ)生まれます。(Dの側に列する人々は、自分たちの足元を掘り崩しているという愚行に気がつかないのは、なぜだろうか。この先は暴力しかないと思い定めているのかもしれない。それを実行するとは思われませんが)

 この「お山の大将」を四年前に選んだアメリカという国の、一面では健全な、他面では不健全は姿を見せられただけでも、ぼくはよかったと思っているし、今回も同様です。どちらが勝利するか、それは時の定め(選挙民の選択)です。スウィングするのは「選挙区」ばかりではない。全土が右に左に、上を下への「揺れに揺れ」をくりかえしているのです。これこそがアメリカの正真正銘の「歴史の現在」です。結果に不満があるから裁判へ、それが筋だし、そのための法律でしょう。誰が見ても明らかな結果に文句をつけるとは、なんと往生際が悪い奴らかと大方は非難するが、同じ立場に立てば攻守所を変えるはずです。「天に向かって唾を吐く」ことはしたくありません。

  と、ここまできて「凡語」の登場です。何も言わないで、まずは、読むことを期待します。

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 コラム凡語:トホホの米大統領選

 米国の旅でデモクラシーの姿を見た19世紀フランスの思想家トクビルが、こんな言葉を残している。社会に優れた人はいくらでもいるのに、「為政者の側にはそれがどれほど少ないかに驚いた」▼なるほど、トクビルはよく観察している。21世紀の今回大統領選を見れば、その通りだ。討論会で現職トランプ氏と民主党バイデン氏が口汚くののしり合った。郵便投票でバイデン氏が勢いを増せば、トランプ氏は「大いなるペテン」と不正を言い募る▼投票集計の停止を求めるなど、法廷闘争に打って出るらしい。メディアがバイデン氏勝利と報じたとしても、トランプ氏に敗北を認める気はなさそうだ。そうなると、次の大統領はいつ決まるのやら▼トランプ氏がもたらす分断で、両支持者は過激化し、さらに暴力沙汰が広がらないか心配になる。トランプ氏に言動に気をつけて、と言っても無駄だろうが▼トクビルは米国で会見したジャクソン第7代大統領を評し、統治の資質に欠けると冷たい。議場の政治家は凡庸に映る。それでもデモクラシーが安定しているのはなぜかと考え、地域自治や陪審裁判への住民参加など草の根の力に目を向けている▼現代の米国はより多様化し格差が拡大している。大統領選でトホホに見えたデモクラシーの行方が気にかかる。(京都新聞・2020/11/6 )

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 トクビル(アレクシ=シャルル=アンリ・クレレル・ド・トクヴィル・Alexis-Charles-Henri Clérel de Tocqueville、1805年7月29日 – 1859年4月16日)はフランスの思想家、政治家でもあった人。この人の研究では多くの業績を上げた友人がいます。文庫で「アメリカンデモクラシー」を翻訳もされています。彼からいろいろなことを聞いたのですが、政治家に優れた人材がいないとの指摘はトクビルにかぎらないし、十八世紀のアメリカにかぎらないでしょう。いつでもどこでも、「優れた政治家」(ひょっとしたら、これは言語矛盾・矛盾言語じゃないかと、ぼくは考えています)、はどこにもいない。優れた政治家であり続けた人はさらにいない。大小を問わず、「権力は腐敗する」のを、ぼくたちは目前(ライブ)で見せられてきたし、現在進行形で、まさに腐敗してゆくさまをまじまじと見ていないでしょうか。クズやごみのような政治家連中(という意味は、「掃いて捨てるほど」ということ)、彼らや彼女たちの最大の関心事は「政治家」であることです。よく言うように「政治家も選挙に落ちたら、ただの人」ですって。こんなふうに「ただの人」を貶めるような輩が、気まぐれにでも「ただの人」のために政治を行うとしたら、それは勿怪の幸い、望外の喜びです。もちろん「ただの人」のぼくは、勿怪や望外の「幸い・喜び」を心から願っているのです。まるで八百屋で魚を求めるような愚かさですが。

 「トホホに見えた」とアメリカのデモクラシーを憐れむのか嘆くのか、「凡語」氏の記事は、ぼくは寒心も感心もしない。 <Put yourself on the shelf>なら、誰だって立派なことやきれいごとを言えるのです。新聞の嫌なところ、好かぬ側面は「月光仮面」でありすぎるところです。「正義の味方はだれでしょう」、それは「新聞でした」じゃ、いかにも情けないじゃないか。「トホホに見える眼」を持っていること自体、自分を忘れているということだし、「おのれの現実」に目を瞑っていることになるのじゃないですか。「凡語」とか「凡人」といって「凡」を舐めていると、竹箆(しっぺ)返しを食うね。騙されたと思って「凡」に徹してみてください。きっとそれは「非凡」になります。(「非凡」を勧めるんじゃありません。何事も徹底すると、その先を行くんですね。愚の先は大愚、拙の先は大拙、凡の先は大凡という具合で、一筋の道が延々と続いているのですが、どこまで行くと行き止まりになるのか、要するに際限なしなんですね。それが「熟」するということ。段々と、です。一気に熟すということはなさそうです。「熟練」「習熟」「成熟」などと言います、その反対は「未熟」「腐熟」「不熟」なんだ。「トホホ」などという言葉(じゃないね)を見たくも聞きたくもなかった。

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ぼくたちには銃より大事な武器がある

 米大統領選の開票が始まった。その速報を見ながら書いている。歴史に残りそうな高い投票率、世界の熱いまなざし。かつてない大統領選になった◆それにしても、と思う。これが民主主義のお手本になるべき国の選挙だろうか。敬意のかけらもないののしり、銃を手にしての威嚇。選挙後の混乱を恐れた店はショーウインドーに板を張りつけている◆12年前、オバマ氏が大統領になった選挙戦を思い出す。取材した民主党大会は華やかなショーのようだった。銃を手にする警官の姿は会場内にあったものの、一歩外へ出ると険しい気配はない。それが幻のような◆作家石川好(よしみ)さんは若いころ、米国のイチゴ農場で働いた。そこで聞いた老牧師の言葉を著書に書きとめる。この国は「世界で一番自由な国」ではなく、「一番自由な国であらねばならないのです」。あらねばならない。誇りと気概が言葉からあふれる◆残念ながら、選挙戦で私たちが見てしまったのは、老牧師の思いとかけ離れた大国の姿である。人種、貧富、思想。走る亀裂のなんと深いことだろう。異なった価値観や考えが受け止められる社会を実現できないようなら、民主主義のお手本とは言えない◆老牧師の弁に加えたい。「一番寛容な国であらねばならない」と。(神戸新聞・2020/11/05)

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 今は十一月六日の午前六時です。さきほど猫に食事をやり終えて、ネットでニュースを覗き見しているところです。そこで「正平調」に辿りいたわけ。石川好(よしみ)さんの名前が出てきました。彼はしばしばテレビに登場し、切れ味の鋭いコメントを発していたと記憶しています。最近、動静を聞かないので、健在かどうか心配です。たしか「イチゴ白書をもう一度」ではなかった(ユーミンでした)、『イチゴロード』を書いた人でした。アメリカに滞在し、何冊かの著書を出されています。(検索したところ、お元気で活動をされているそうです。ぼくがよく知らなかっただけでした。なんか、人(思想・態度)が変わってしまったようにお見受けしましたが)

 「一番自由な国であらねばならない」というのは努力目標なのか、お題目なのか。どちらにしても「アメリカファースト」はいまもなおバリバリの現役です。この「国は一番」でなければならないという主張はまるで「国是」のように、いつでもそびえたっているんではないですか。「一番ならいいなあ」という寝言ではなく、国力を誇示して、「俺は男だ」と絶叫していた森田健作千葉県痴事のように、あたりかまわず国家の威信をかけて、暴力を振りかざしてきた国でした。右手に銃を、左手にデモクラシー(の自由)を、それがアメリカでしたし、それはなお健在ですね。「二つのじゆう」を腰のガンベルトに装着して、ね。

 「これが民主主義のお手本になるべき国の選挙だろうか。敬意のかけらもないののしり、銃を手にしての威嚇。選挙後の混乱を恐れた店はショーウインドーに板を張りつけている」とコラム氏は嘆いておられますが、なに、一皮むけば「男は狼」「人間は野蛮な野獣」だということで、どんなに上等の背広やスーツを着ていたところで、プラダやグッチを身に備えていたとしても、「一皮むけば」、裸の獣(トマス・モア)なんですね。もちろん、今回の「選挙」は異常でもびっくりするほど過激でもなく、獣性(銃声)と仏性の「アマルガム」であるという、人間の本性が素直に出ただけの話であると、ぼくは見ている。人(や人の集団)が進歩するというのは、徐々に「獣性」が消えることを意味しない。「獣性」に「仏性」が席を完全に譲らないだけ、情念(獣性)を抑えることができること、それが進歩です。「進歩した」と思ったとたんに、堕落や退廃が始まります。だから、進歩は永遠じゃないんです。進んだと思ったら退く、「三百六十五歩のマーチ」みたいなもんです。「一歩進んで、二歩さがる」ように。「獣と仏」はどこまで行っても、離れてくれない。「自省」と言い、「自律」ということが、ささやかながら、人間の尊厳を支えているんだ。失敗からしか、ぼくたちは学べないのです。失敗は成功のもとというけれど、ホントのところ、成功は失敗のもとなんですよ。下手に成功すると、ろくなことにならないんですよ。これも経験しました、ぼくは。

 さらに言えば、ある事柄や事象のどこを見るかという問題です。ありていに言うと、表(美)を見るか裏(醜)を眺めるかで、同じ物事は全く異なって見えます。表・裏(美・醜)を合わせて洞察することは、相当に困難な技です。熟練を要するんです。「ものを見る眼」というものは、なかなか得られるものではない。一面的というのは、どこにでも生じるし、数が多い方が勝ちというのは、民主主義の一要素でもあるのです。裏を見る方が多ければTサイド、表を見る側が優勢ならBサイド、みたいな傾向があります。政治もまた、この繰り返しではなかったか。これからもそうであるはずです。それを歴史と呼ぶのでしょう。

  翻って、この島の政治の実情を見るといい。ぼくは昨日、少し時間があったので「国会」とかいうへんてこな場所の「議論」などというものを見るとも聞くとも意識しないで、画面が動くに任せていました。ほんの数分です。これは何ですか、銃があるとかないとかいうけど、誤解を恐れずに言えば、「銃」以下じゃないか。日本語を話しているように思われるのですが、ほとんど意味不明。これは国会語なのか、それとも「方便」「放言」「方言」なのか。質問時間が過ぎるのを「只管(ひたすら)待つ」という、まるで「ノーマンズランド(不毛の地)」の雑音が耳に届いているだけでした。これもまた、ぼくたちの到達したデモクラシーの実態(最先端)です。ものを誤魔化す、人を尊ばない、口から出まかせ、これが永田町という辺鄙な場所の「当たり芸」だと思い知らされた気がして、じつに泣きたくなったのです。何をいまさら、今はこの程度ですんでいるが、これからはもっとひどくなるぞという確信(予感です)を以て、ぼくは自分を慰藉したほどです。「今は、まだまだましなんだ」と。 

 しかし、と考えたくなるのです。国会の中にデモクラシーがあるとすれば、あの程度。首領選びに狂奔すれば、米国の現場の如し。しかし、どんなに選挙や国会論戦が低質で惨めなものであっても、それとは直接関係ないところで、「わが生活」があります。もしデモクラシー(民主主義)というものを語るなら、ぼくはこちらの側においてとらえたくなります。どんなに屑や愚昧が総理大臣になろうと、それがぼくの生活を破壊しなければ、かまわない。でも、あるいは今、ぼくの日常が壊されかかっている、その危険性が生まれているのだとなれば、ぼくは迷わず立ち上がります。立ち上がって「銃を手に」する、それはない。銃を手には取らない(取れない)けれど、銃以上に強烈な「武器」を放つことにためらいはありません。銃以上に、いったいどんな武器があるというのか。それはいうまでもないでしょう。

 すべてが「銃によって片付けられて」きたなら、アメリカもこの島もとっくに滅亡していた。あるいは人類は消滅していたかもしれない。銃以上に力を持った「武器」を手にしたからこそ、銃(武力・暴力)によく対抗し得て、ここまで来たのではないでしょうか。大統領選挙に際して繰り広げられるアメリカの暴力や醜態、犯罪や犯罪すれすれの行為を、平気で国会の中に持ち込んで、いけシャーシャーと「嘘」を吐ききつづける島の政治家と、その政治家を(腹の中では軽蔑しきっているのに)あからさまにバカバカしいという感情を隠さないで「立てている(振りをしている)」官僚軍の跋扈、そんな連中の親しい仲間として、ともにゲームに励んでいる「野党」と言われる議員諸侯。これも一時の遊び時間みたいなもので、大切な問題はこの先にあります。

 繰り返し繰り返し、狂気と正気は入れ替わり立ち替わりしてきました。それが人間(あるいは人類)の歴史です。「過ちと回復」の歴史を、ぼくたちは、一人の人間の生涯にも、一国の軌跡にも認めることができます。正義は●✖ではない、ある種のグラデーションなんですね。「嘘か誠」かでもなく、「善か悪」かではない。(「男か女」かでもありません)二者択一は虚構。悪に近い善、嘘に近い誠、それをいかに見ぬけるかが、ぼくたちの「人間性」「誠実性」の試金石になっているのです。まあ、焦らないで「見抜く力」を育てたいね。地上一ミリの浮揚、これを果たすのに、いったいどれだけの時間を必要としてきたか。人類史の長さを忘れたくない。

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