the axiom that learning is the result of teaching

 <金口木舌>学校の「当たり前」を見直してみる

 来春に向け、大型スーパーの陳列台でランドセルを見掛ける季節になった。赤と黒に加えうす紫、こはく色、空色など多彩な色が目を引く。一昔前、色の種類は少なく、男子は「黒色」、女子は「赤色」という暗黙のルールもあった▼性別にとらわれず好きな色を選べるようになったのはいい。通学路でカラフルなランドセルを背負う小学生を見掛けると実感する▼県内の中学校では性別に関係なく自由に制服を選べる「制服選択制」が広がっている。県教育庁の調査と琉球新報のまとめでは今年4月時点で、2020年度から選択制を導入予定の公立中学校は36校に上り、制服のある144校の4分の1を占めた▼選択制の広がりは、心と体の性が一致しない性同一性障害の当事者の服装に関する悩みを和らげるだろう。性の多様性を伝えるメッセージになる▼県による男女共同参画社会づくりに関する県民意識調査で、自分の体の性や心の性、性的指向に悩んだことがあるとの回答は全体で4・6%。若年層ほど多く20代で8・5%、30代は10・4%に上り、一定割合いた▼調査では性に基づく差別や偏見を解消するために必要なこととして、56%が「幼少期からの教育」と答えた。子どもたちが「男らしさ」「女らしさ」をすり込まれ生きづらさを抱えないために、学校の中にある「当たり前」を見直してみる。それが第一歩になる。(琉球新報・2020年11月14日)

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Phenomenology of Public School

◇I shall define ‘school’ as the age-specific, teacher-related process requiring full-time attendance at an obligatory curriculum. ◇School groups people according to age. This grouping rests on three unquestioned premises. Children belong in school. Children learn in school. Children can be taught only in school. I think these unexamined premises deserve serious questioning.

◇We have grown accustomed to children. We have decided that they should go to school, do as they are told, and have neither income nor families of their own. We expect them to know their place and behave like children. We remember, whether nostalgically or bitterly, a time when we are children, too. ◇We are expected to tolerate the childish behavior of children. Mankind, for us, is a species both afflicted and blessed with the task of caring for children. We forget, however, that our present concept of ‘childhood’ developed only recently in Western Europe and more recently still in the Americas.

◇Childhood as distinct from infancy, adolescence or youth was unknown to most historical periods. Some Christian centuries did not even have an eye for its bodily proportions. Artists depicted the infant as a miniature adult seated on his mother’s arm. Children appeared in Europe along with the pocket watch and the Christian moneylenders of the Renaissance. ◇By definition, children are pupils. The demands for the milieu of childhood creates an unlimited market for accredited teachers.

School is an institution built on the axiom that learning is the result of teaching. And institutional wisdom continues to accept this axiom, despite overwhelming evidence to the contrary. ◇We have all learned most of what we know outside school. Pupils do most of their learning without, and often despite, their teachers. Most tragically, the majority of men are taught their lesson by school, even though they never go to school.

◇Everyone learns how to live outside school. We learn to speak, to think, to love , to feel, to play, to curse, to politick, and to work without interference from a teacher. Even children who are under a teacher’s care day and night are no exception to the rule.

◇Half of the people in our world never set foot in school. They have no contact with teachers, and they are deprived of the privilege of becoming dropouts. Yet they learn quite effectively the message which school teaches: that they should have school, and more and more of it. ◇School instructs them in their own inferiority through the tax collector who makes them pay for it, or through the demagogue who raises their expectations of it, or through their children once the latter are hooked on it.[I. Illich DeschoolingSociety] (http://reactor-core.org/deschooling.html)

 学校とは何だろう?この問にまっすぐに答えたのがこの文章でした。著者はイリイチという人で、これまでにも何度か彼を紹介してきました。。学校というテーマを制度として、歴史として、機能として、そして文化としてとらえようとすれば、さまざまな特質や特異性というものが発見されるはずです。ぼくたちは<学校>という得体の影か表層しか見ていないようです。学校の社会的な役割を端的に言えば、社会集団の維持に必要とされる「人材」の育成(それはスクリーニングといわれ、選抜・選別・分類・序列化を意味します)にあるとみられます。この機能を効率的に遂行するために、そこにはいくつかの特徴的なメカニズムが働いています。具体的には、制度化がすすむと、そこから「規範」が生まれ、それをめぐって「同化」や「異化」、さらには「逸脱」(非行)や「排除」(いじめ)といったさまざまな行動類型が作られます。

 上に引用した「金口木舌」氏の指摘は、これまでにはほとんど無視されてきた(問題視されてこなかった、封殺されてきた)事柄です。問題を抱えている子どもがいても、それは園子自身の欠陥や傾向であって、全体には及ばないという姿勢を一貫してきのです。また、学校が存立している社会(世間)で生じている課題や問題はかならず学校においても生じている。それは疑いもなく、学校が(小さな)世間だからですが、世間以上に権力や権威というものが幅を利かせていて、支配と被支配の関係は一方にかとよりすぎているので、多くの問題は抑圧(無視)される傾向にあったと言えるのです。それがこれまで通りに蓋をしきれない状態にまで進んでしまったのが現状なのでしょう。

 従来、学校の機能や制度面ばかりが強調されてきたきらいがぬぐえませんが、それだけ注目されるべき事柄が等閑視されていたことでもあります。学校に関するイリイチの率直な指摘は(これまでにも、この駄文集で触れてきましたが)、もっと深いところで、学校が蓋をしていて見えてこなかった問題を掘り下げる段階に来ていることを示唆しているように思えてきます。「現象学」から「存在それ自体」へ、ぼくたちはまっすぐに視点を注がなければならないようです。なんどでも疑ってみる、自問自答してみるのです。なんで学校は、いまあるような「形や姿」になったのか。それを成立させてきた根拠はなにか、と問うなら、世間の問題はそのまま学校の問題になっているのが、明らかになるはずです。(つづく)

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つち澄みうるほひ 石蕗の花咲き

 冬の訪れ、ツワブキ鮮やか 南さつま・坊津

 初冬の季語であるツワブキの花が鹿児島県内で咲き始めている。南さつま市坊津町久志の平尾集落では12日、アコウの巨木の根元に、鮮やかな黄色い花がひっそりと咲き、道行く人の目を楽しませている。/ 近くに住む尾辻孝一さん(81)は「緑の葉の中に黄色の花が際立っていてきれい。冬の訪れを感じる」と笑顔。つぼみも多く、今月いっぱいは楽しめそう。/ 鹿児島地方気象台によると、大陸にある高気圧の影響で県本土は14日までおおむね晴れる。週明けからは雲りがちとなり、南から暖かく湿った空気が流れ込み、気温は平年より高くなる見込み。(南日本新聞・2020/11/13 06:30)

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 この植物をとても好んでいます。拙宅の裏庭にもたくさん花を咲かせてくれています。寒ければそれだけ鮮やかな濃緑色で厚手の葉を茂らせる。厳寒にも怯まないで、すっくと立っている姿が健やかに感じられてきます。小さな庭にも座りがいいし、野原や山中でも、似合う。このツワブキ(石蕗)を見ると、きっと口をついて出るのが室生犀星の詩です。もう何十年来の習慣になりました。まるでぼくの季語のようでもあります。これもまたじつに鮮やかなのもので、失礼ながら、まさかあの犀星が詠んだものかと疑わしくなるくらいにみごとなものです。「鮮やかなお点前」と降参します。

つち澄みうるほひ
石蕗の花咲き
あはれ知るわが育ちに
鐘の鳴る寺の庭 (「抒情小曲集」

●室生犀星(1889~1962)=詩人,小説家。本名照道。私生児として石川県金沢に生まれ,僧室生真乗養子となった。給仕,新聞記者を転々としながら詩を作り,萩原朔太郎を知ってともに1916年詩誌《感情》を創刊。1918年《愛の詩集》《抒情小曲集》を出し,新進詩人として認められた。翌年,独特の感覚的表現を用いた自伝風の小説《幼年時代》《性に眼覚める頃》で散文の世界に入り,《あにいもうと》《女の図》などを書いた。第2次大戦後に《杏っ子(あんずっこ)》や,王朝ものの《かげろふ日記遺文》,評伝《我が愛する詩人の伝記》など。(百科事典マイペディア)

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 「芥川龍之介なら百発百中、作に当たり外れはないものだが、犀星の場合はそうはいかない。おそらく百発一中といったところであるが、この「寺の庭」がまさに、「一中」だ」というような(意味の)、ひどい、しかし過大な評価を三好達治さんが下しておられていたのをぼくは若い頃に読んで、ぼくのとらえ方はやっぱり間違っていなかったんだと、ただちに、この詩が好きになった。単純そのものでしたが、歳をとるとともに、この詩の含んでいる凛とした厳しさや悲しさや、あるいは美しさまでが感じられるようになりました。犀星が養子に出されたのは金沢の雨宝院というお寺でした。「あはれ知るわが育ち」という、犀星の第一歩、生の元始が記されたお寺でした。

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引き続き、感染リスクが高い行動を…

10月29日、新型コロナウイルス感染症に関する現在の状況とこれまでに得られた科学的知見について、新たに10の知識としてとりまとめました。
新型コロナウイルス感染症の発生をさらに抑えるためには、1人ひとりが最新の知識を身につけて正しく対策を行っていただくことが何よりも重要です。
ぜひご覧下さい。
感染リスクが高まる「5つの場面」
これまでの感染拡大の経験から、感染リスクが高い行動や場面が明らかになってきました。
一方で、屋外で歩いたり、十分に換気がされている公共交通機関での感染は限定的と考えられます。
新型コロナウイルス感染症の伝播は、主に「クラスター」を介して拡大することが分かっています。
これまでのクラスター分析で得られた知見から、
・感染リスクが高まる「5つの場面」
・感染リスクを下げながら会食を楽しむ工夫
が新型コロナウイルス感染症対策分科会により提言としてまとめられました。
国民のみなさまには、引き続き、感染リスクが高い行動を避けていただき、クラスター連鎖を抑えて、
感染拡大防止にご協力をお願いします。(https://corona.go.jp/proposal/)

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 国家が威信をかけて対策を練って、ようやくにして提示したのが、以上の愚策です。これはまともな感受性を持った並の大人でも、恐縮するほどの、じつに恥いる提言です。無意味な冗談をいわないでくれ、とぼくはいまさらのように切り捨てたいね。「三人寄れば文殊の知恵」というのに、それ以上集まれば、「衆愚の悪知恵」となるのはなぜでしょうか。

 「一人一人が最新の知識を身につけて正しく対策をおこなっていただくことが何よりも重要です」という。これこそが「自助」というものですか。「自助」一本やり「政治」は何もしないという意味です。命を失おうと、自助の行きつく先のことだから、なんとも打つ手がありませんと、「見放し宣言」しているのです。愚人が何人集まっても「愚人の衆」でしかないのですが、なんという情けない状況が内閣府の核心部で生じているのでしょうか。税金をたらふく使って「感染者」を急増させているし、いったい誰を救済するために愚策の山を築いてきたのでしょうか。ぼくは「日本人をやめたい」とつくづく感じ入っているのです。

 コロナ禍に目を奪われている間に、じつは眼をそちらに向けさせられている間にと言った方が正確ですが、別の方面でとんでもない事態がかなりな程度に進んでいるのです。この雑文では書きませんが、きっと、気が付いたら、この島は「別国の持ち物」になってしまうのです。いたるところで「売国行為 (treason)」が充満しており、主役(痴事や市腸や宦僚)たちは暗躍ならぬ明躍をしているのです。「大阪都構想」はいったい何だったか、いまなおそれは終わっていないどころか、さらに新たな展開が目論まれています。だれが大阪を壊し、外国に魂を売ろうとしてきたのか、売ろうとしているのか。IR構想も、なかなか死んではいないのです。この「内幕」はきっと東京でも開かれています。やがて見ることになりそうですが、そのときは幕となっているのに違いない。

 「悪い奴ほどよく眠る」という映画がありました。(黒澤明監督、三船敏郎主演。1960年)巨悪は熟睡するというか爆睡するのです。その陰で、いじめら(抑圧さ)れている小人(人民)は「不眠症」「うつ病」に極度に悩ませられているのです。「自助」「自己責任」を強弁し、権力を恣にして、島の中枢から腐敗させてきたのです。政治家の役割とはという垂訓を駄弁る場合ではなさそうです。暴力を振りかざそうとするのではありません。ぼくたちに認められている「権利」を十二分に発揮することから、薄汚い輩によって、汚染された政治から、自らの誠意を救い出し、我が意を貫徹したいと熱望するのです。(上に書きかけた事情については、近い時期に述べてみたいと考えています)

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ちはじめてこおる きんせんかさく

 余録 立冬から10日もたつと「雉(きじ)が海に入って大(おお)蛤(はまぐり)になる」そうである。1年を72に区切って季節の移り変わりを表す「七十二候」の話である。そんなバカなと思われるのも当然だが、古代中国の書物にそうあるのだ▲春には「獺(かわうそ)が魚を祭る」ころもあって、「獺祭(だっさい)」という言葉を残している。「鷹(たか)が鳩(はと)に姿を変える」「田鼠(でんそ)(モグラ)が鶉(うずら)になる」ころも春である。秋の「雀(すずめ)が海に入って蛤となる」ころは、「雉から大蛤」の変身の小型版であろう▲唐代中国版の七十二候が記すこれらの奇想だが、近世にできた日本版は腐った草がホタルになるというもの以外は実際の自然の変化を記している。雀や鷹の変身や獺の祭りが今に伝わるのは、俳人らが季題として喜んで用いたからだ▲気象庁は季節の移り変わりを示す動植物の変化を調べる「生物季節観測」を来年から大幅に縮小する。ウグイスの初鳴きやツバメの初見など23種24現象の動物観測はすべて廃止され、植物観測も桜の開花など6種9現象に減らされる▲七十二候の昔から季節の移ろいを教えてくれた鳥や虫たちからの便りは切り捨てられてしまうのか。気象庁は都市化で気象台周辺での観測ができなくなっていると釈明する。ちなみに生物季節観測が始まったのは1953年のことだ▲思えばわずかな間に季節を告げる小さな自然を身の回りから失ってしまった日本人である。気象庁がそれを見る目、聞く耳をもたないというのなら、市民のネットワークで新たな七十二候を記すしかない。(毎日新聞2020年11月12日 東京朝刊)

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 もう三、四年前になるか。一年かけて「七十二候のピアノ演奏」なる暴挙(いや快挙か)を「ラジオ深夜便」がやったことがあります。真夜中の何時ころだったか。作曲と演奏は川上ミネさん。彼女は清水寺や興福寺だったかでも果敢な演奏活動をされています。たしかボリビア在住だと伺った。難という洒落た、と言いたかったが、ぼくにはよくわからなかった。七十二候のすべてを「ピアノに語らせる」という、文字通りの「弾き語り」でしたが、節季の違いは現実の違いもあいまいでしたが、それ以上に候と候の違いは不鮮明でした。当たり前の話で、例えば、という無駄話です。

 2020/11/07:立冬(りっとう),旧暦=10月 節(註 本年の立冬のひ。「はじめて冬の気配があらわれてくる頃。銀杏の葉が黄色く色づき始め、紅葉(もみじ)が見ごろとなる」その「節」には、以下の三つの「候」が含まれています。

2020/11/07:初候 山茶始開(つばき はじめて ひらく)
2020/11/12:次候 地始凍(ち はじめて こおる)
2020/11/17:末候 金盞香(きんせんか さく)

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 ぼくは毎日聴きましたのである種の経験(傾聴)談として語れます。この三つの「候」も、もちろん聴いたのですが、つばき、凍結、金盞花のそれぞれが際立たないことおびただしい。これを全曲通して(といっても二、三分だったろう)弾かれると、まとまった曲として受け止められたと、今では考えられます。七十二候の全曲が終わるまでに何日かかったか、記憶にありませんが、これをレコード(CD)で聴こうとは思いもしませんでした。凄いことをする人もいると感心したり、呆れたりしながらの深夜演奏会の独演会だった。

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 CD発売の「内容紹介」(AMZON)の記事を以下に掲げておきます。

●内容紹介 来年(2018年)で30年目を迎える、NHKラジオの長寿番組『ラジオ深夜便』。この番組の中で今最も注目を集めているコーナー【七十二候】の音楽をすべてまとめたアルバムが発売!昔からある日本の暦で、1年を七十二に分けられた季節の一時一時を、また季節の彩をそのまま音で描いた作品で、まさに音で奏でる歳時記、新しい試みが放送で評判になりました。その音源をそのままCD化します。

●【七十二候について】 ◆七十二候とは……二十四節気(にじゅうしせっき)をさらに三つ(初候・次候・末候)に分け、季節の移ろいや変化を、気象や自然や動植物等の成長・行動などに託して具体的に表し、日常生活や農作業の目安としたものです。もともとは中国の暦に記載されていたもので、奈良時代に日本に取り入れられ、江戸時代に、日本の四季、動物、植物、読み方に合わせて改変されました。

●メディア掲載レビューほか 2018年で30年目を迎える、NHKラジオの長寿番組『ラジオ深夜便』。この番組の中で今最も注目を集めているコーナー【七十二候】の音楽をすべてまとめたアルバムが発売!昔からある日本の暦で、1年を七十二に分けられた季節の一時一時を、また季節の彩をそのまま音で描いた作品で、まさに音で奏でる歳時記、新しい試みが放送で評判になりました。その音源をそのままCD化。

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 夏の猛暑を経験したなら、この劣島は「温帯」なんかではなく「熱帯」そのものになったといいたくなります。気候変動(という表現も、なんだか変ですね)がいよいよ激しくなっているという人があれば、いいやそんなものはどうということもないと批判する方もいる。両論相争う中で、いよいよ動植物の感覚は鈍麻したのか鋭敏化したか、どこかでいのちの核心部分に狂いが生じている事態が、加速度的に進行中です。

 七十二候だとか二十四節季を愛でていた風流人は、つい最近までいたし、節季や候によって農作業が図られて収穫に至るという生業が定着していたわけでしたが、この気の遠くなるような季節の変転を、いった誰が、なにが狂わせたのか。南・北極の氷が溶けだして久しい。人心が惑乱し、いまや溶解しているのも日常化した事態にぼくたちは齷齪・慨嘆しています。我も人も「歴史の一部」、それもほんの一瞬であることを失念するところから、万事不手際が生まれているのです。

 「思えばわずかな間に季節を告げる小さな自然を身の回りから失ってしまった日本人である」というのは「余録」氏です。仰せの通りかもしれませんが、「日本人が失った」のではない。「奪われた」んですね。だれにか、それは言わなくともいいでしょう。でも、この狭い島にはまだまだ「失い」「奪われる」ことを断じて肯んじない人々も動植物きっと存在しているのです。季節のめぐりに感謝しながら、生きる喜びも悲しみも背負い込んで生きている方々がおられるといえるのです。動植物は言うまでもありません。

 「ウグイスの初鳴きやツバメの初見」どころではありません。拙宅の周りにも大小さまざまな動物植物が共生・共棲している。ぼくをその片隅に、ほんの一時の宿を借りている風情です。都会をcityといいますが、万事、都会化することが「文明化」だともてはやされてきました。civil(都会人)になることが「「文明化」civilizationなのだ、と。さすれば、「文明化」とは「野蛮化」の別名だったと気が付きます。自然の法則に逆らうことが文明化だというらしいからね。空飛ぶ自動車だ、自動運転だと…。ITやICがあふれている、それは<no man’s land>でしかないでしょう。ロボットが活躍する時代だってよ、ぼくは御免被ります。

 炊事洗濯拭き掃除、留守中にロボットがすべてやってくれる、便利でいいねといっているうちに、ぼくたちは何かを深いところから薄なっていくんですね。「家政婦はみた」どころか、ロボットは何でも知ってるんだ。

 限度を超えるのが人間の悲しい性(さが)なんだ。いったい「そんなこんな」が「進歩」なのかしらね。ウィルスは有史以前から生物に棲みついてきました。さて、どこまでいっても人間は自然の中の生き物であることを拒否も否定もできないという運命を甘受しなくてもいい、でも、それを少しは考えることができたなら、都会はもっと謙虚なたたずまいを取り戻すんじゃないですか。go to ~ でなにを得ようとするのか、あるいは失おうとしているのか。なおコロナは狂暴化しながら襲来しつつあります。それでも「経済を回す」が大事なのかね。コロナはマスクで防げるという、それはまるで「竹槍」精神の復活ですね。あるいは「防空壕」よろしく、身を潜めますか。ぼくは、もっぱら専守防衛です。くれぐれもご注意を!

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友人の礼を以てす、且下問を羞ぢず

 教師の器量はどこではかれるのか 

 「教壇」に立たない教師、「教鞭」をとらない教師、ということを考えています。

 授業(あるいは教育)にはさまざまなスタイルがあっていいのですが、実際にはどこでも似たようなかたち(風景)が見られます。重ねて言うようですが、「先生が話し、生徒が聞く」が通り相場で、その逆はあまりないのはどうしてか? 生徒は話してはいけない、話すことが許されないのがお定まりです。教師は咄家(はなしか)のようです。それがぼくにはとても不可解。いったい、何をねらいにして、教師は授業をするのか。いかにも自明のように見なされます。だからこそ、改めて考えなおしてみる必要があるといいたいんですね。

 ぼくは自慢するのではありませんが、幼いころから、学校(あるいは教師)にすくなからず不信感をいだいてきた。学校に、あるいは教師にわが身をあずけることにためらいがあった。もっと言えば、従順でも素直でもなかったといえるでしょう。教師という職業柄、たいていは「素直」「従順」な生徒が大変好まれてきたといえます。教師の真似事をした経験が少しばかりあるぼくにも、その教師の偏狭さが分かりそうな気がします。もちろん、ぼくは「素直」は嫌いで、むしろ「正直」を愛でていました。いまでもそうです。

 今も昔も、多くの人は学校や学校のもたらす価値観にとらわれすぎている。学校がなくても教育はおこなわれてきたし、これからもそうだろう。学校は不要だとはいわないけれど、学校以外のところで大切なものは学ばれてきたし、学ばれているし、学ばれていくだろう。ろくでもないことばかりを後生大事に学校は守ってきた。学校には「教える」という点で限界(欠陥)があると知っておくのは大切です。「学校の役人としての教師」がそのことを肝に銘じておれば、あるいは、いくらかは学校(教育・授業)の変わる可能性があるというものです。

 今も使われているのかどうか、「教師の力量」とか「教師の資質」という、教育学に見られる常套語、陳腐千万ですね。先ずぼくは使わないようにしてきた。こんな好ましくない言葉(表現)が腐るほど学校にはあって、多くの教師はそれに毒されてきたのではないですか。「指導」などは、その典型です。ぼくはあえて、「教師の器量」という表現を使いたい。「 ある事をするのにふさわしい能力や人徳。」「指導者としての器量に乏しい」(デジタル大辞泉)教師は「器量人」であってほしいね。その器量こそがが「教育の質」をつくる。力量とか資質というのは、いかにも狭いし、偏った内容(技量とか技術など)を指しているように見えませんか。(右写真 野球好きだった子規)

 唐突ですが、長らく途絶えていた川柳を発掘し、復活させた人としてしられる阪井久良岐の言葉を紹介してみたくなりました。子規を評して、彼は以下のように言い当てています。ずばり、これですよ。この数後の中に切り取られた子規という人の「すがた」に、ぼくは教師の一典型を見てきました。

《先生毫も師長を以て居らず。門下来集の士に対するも、尚友人の礼を以てす。且下問を羞ぢず。是れ余が尤も先生の徳を大なりとする所以なり》(阪井久良岐・「明星」明治三五年十月号)

 詳細は省きますが、阪井は子規とは因縁がありました。陸羯南主宰の「日本」紙で同僚となり、さまざまな交流を重ねます。(まだ十分に調べていないのですが)両者の関係は「同化」型というよりは「異化」の傾向があったかと思われます。追従ではなく、かといって対峙するのでもありません。互いを認めながらの「異化」作用(反発)が働いていたというのが実際ではなかったかと、ぼくは推量しています。子規は長ずること二歳でした。いずれこの二人の関係についても書いてみたい。

●阪井久良岐(1869-1945)明治-昭和時代前期の川柳作家。明治2年1月24日生まれ。日本新聞社にはいり,明治36年「川柳梗概(こうがい)」を刊行。のち川柳久良岐社をおこし,38年川柳誌「五月鯉」を創刊。狂句を批判し,古川柳にかえることを主張した。昭和20年4月3日死去。77歳。武蔵(むさし)久良岐郡(神奈川県)出身。高等師範卒。本名は坂井弁(わかち)。別号に徒然坊。号は久良岐ともかく。著作はほかに「川柳久良岐点」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

●陸羯南(くがかつなん)(1857-1907) 明治時代の新聞記者。安政4年10月14日生まれ。内閣官報局勤務ののち,明治21年谷干城(たてき)らの援助をうけ,新聞「東京電報」を創刊。22年同紙を「日本」に改題,39年まで社長兼主筆をつとめ,一貫して国民主義の論陣をはった。明治40年9月2日死去。51歳。陸奥(むつ)弘前(ひろさき)(青森県)出身。司法省法学校中退。旧姓は中田。本名は実。著作に「近時政論考」「原政及国際論」など。【格言など】民の声は必ずしも音あるにあらず,音あるものまた必ずしも民の声にあらず(「無音の声」)(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

 その阪井の川柳をいくつか。

客が来てそれから急に買う団扇

油画の初手は林檎に取りかかる

一寸粋なミッスの通る薔薇垣根

トタン葺き春雨を聞く屋根でなし

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念のため、本日は場外飛行を取り止め、…

 陸自オスプレイで警告表示=駐屯地外の飛行中止―千葉・木更津

 陸上自衛隊木更津駐屯地(千葉県木更津市)に暫定配備された輸送機オスプレイをめぐり、防衛省の石川武報道官は10日の記者会見で、同日に予定していた駐屯地外への飛行を取りやめたことを明らかにした。石川氏は「警告表示がディスプレーに出たので、具体的に何が問題だったのかを改めて点検している」と述べた。

 暫定配備中の2機のうち1機が6日、駐屯地内でホバリングを行い、試験飛行を開始した。陸自によると、10日は同機が駐屯地内でホバリング中に警告灯が点灯。東京湾南部などでの飛行を中止し、点検作業を進めている。/ 陸自幹部は「安全性を含めて所要の機能、性能を発揮できるかを確認するのが試験飛行の目的の一つ。追加の点検項目が発生したら適切に対応する」と強調。駐屯地外への飛行時期は11日以降で調整している。(時事通信・2020/11/10 19:21) 

 陸自オスプレイで警告表示 初の敷地外飛行見送り

 防衛省は10日、陸上自衛隊木更津駐屯地(千葉県木更津市)に暫定配備されている輸送機V22オスプレイのホバリング中、警告が表示されたと明らかにした。陸自は同日、配備後初となる駐屯地外の飛行を予定していたが見送った。点検作業をして11日以降あらためて飛行する。/ 木更津には今年7月からオスプレイ2機が配備され、うち1機が6日、駐屯地内で約10分間ホバリングし初めて飛行した。今後は東京湾や相模湾を中心に飛行を重ね、各地の演習場での本格的な訓練への移行を目指す。/ 岸信夫防衛相は10日の閣議後記者会見で「安心、安全に万全を期していきたい」と述べた。(共同通信・2020/11/10 18:26)

 陸上自衛隊V-22オスプレイの場外飛行について(令和2年11月10日)更新日 令和2年11月10日

 防衛省北関東防衛局より以下のとおり情報提供がありましたので、お知らせします。/ 本日午後、駐屯地内において場外飛行前の点検としてホバリングを実施していたところ、警告表示を確認したため、念のため、本日は場外飛行を取り止め、再度点検を行うこととしました。
 場外飛行の日程が決まり次第改めてお知らせいたします。(木更津市公報。同HPより)

試験飛行でホバリングするオスプレイ=2020年11月6日、千葉県木更津市の陸上自衛隊木更津駐屯地【時事通信社】
 陸上自衛隊は6日、木更津駐屯地(千葉県木更津市)に暫定配備している輸送機オスプレイの試験飛行を始め、7月に配備された2機のうち1機が、同駐屯地内でホバリングを行った。自衛隊が保有するオスプレイが国内で飛行するのは初めてで、10日以降は駐屯地外で飛行する。

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  昨日(十日)は外出の用事もあって、市内に出かけていましたので、時々「見上げてごらん、昼の星屑を」と、首を傾けていたのですが、いっかな「星屑」は出て(飛んで)いなかった。その代わりに通常のヘリが何機も行き来していました。夜になって、「警告表示」で訓練飛行は中止だと知りました。飛行中の「警告」でなくてよかった。というけれども、何のための配備なのか、訓練飛行なのか、市民への嫌がらせや危機体験(例の防災訓練のように)をさせようと自衛多や防衛相は目論んでいるとしか思えない愚行です。この怪物飛行物体は、ぼくに言わせれば、軍事廃棄物です。米国の廃棄物をこの島が廃棄処分場よろしく引き受け、大枚の税金をはたいて「購入させられた」代物でした。

 木更津市は「暫定配備」という期限付き(曖昧だな、いずれ「正式配備」になるか)で、受け入れを「購入した」んですね。戦争の道具だから、いくら廃棄物と言えども、物騒この上ないわけであり、かような軍産業廃棄物をこの先何十機も購って、どうするのでしょう。「整備技術」を向上させるためのものだったのかもしれない。「安心、安全に万全を期していきたい」と防衛大臣とかが寝言を言っていましたが、ますずおのれの脳細胞の「安全安心」を確認してほしいね。この島に来てから、何度も故障や落下物の事故があった飛行機です。素人ですが、見るからに「悍(おぞ)ましい」形状ですね。

(緊急着陸した米軍の輸送機MV22オスプレイ=2019年4月1日、伊丹空港【時事通信社】
 1日午後1時55分ごろ、大阪国際(伊丹)空港に、米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の海兵隊所属の輸送機MV22オスプレイ1機が緊急着陸した。空港を運営する関西エアポートによると、滑走路が約20分間閉鎖され、オスプレイは駐機場に移動。この影響で、同空港発着の計7便に最大19分の遅れが出た。
 防衛省によると、オスプレイは岩国基地(山口県)から厚木基地(神奈川県)に向かう途中、緊急事態を宣言して伊丹空港に着陸。理由は確認中で、機体に目立った損傷はないという。乗員3人にけがはなかった。)

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 一機いくらと、金の話はしたくない。廃車寸前の車や水没車を「偽って」販売業者が捕まったという報道が最近ありましたが、アメリカからの戦争武器のほとんどは「偽りの新車」「時代遅れの廃車」ではないでしょうか。最新鋭ならこの島に売り渡すはずがないからです。こんなものでは「戦争ごっこ」すらできない。いざ突撃という段に、「警告灯点灯」では、悪い冗談とも言えません。まるで「特攻隊」同然の悲惨で愚かしい事態ではあります。どこまで行ってもこの島は「竹槍」「銃剣」のレベルを越えられないのでしょう。

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