(Thievesの)連帯と結束力を表すシンボルにする

 【越山若水】米国の政治学者ジェラルド・カーティスさんは、日本の政治を長らく研究してきた人である。自著「ジャパン・ストーリー」(日経BP)では、二つの東京五輪について考察している▼文章題は「楽観の64年、悲観の2020年」。1964年の五輪は、第2次大戦で荒廃した日本の経済復興と技術力を世界に知らしめる機会だった。池田勇人首相が掲げた「所得倍増計画」も短期で達成するなど高度成長期の真っただ中。人々は未来に楽観的だった▼一方、20年五輪を取り巻く状況は全く異なる。90年代のバブル崩壊でデフレの罠(わな)に陥り、政府のてこ入れも効果なし。将来の期待感は希薄で、悲観的な空気が漂う。ただ経済的な指標はともかく、助け合い精神や清潔さ、暴力犯罪の少なさなどは世界が認めるところ▼だから今回の五輪は、日本がもっと多様で開放的、真の共生社会を目指す契機にしてほしいと応援する。なるほどと首肯はしても、この文章は新型コロナウイルスで延期が決定する前のもの。コロナ第3波の脅威が高まる中、国内では開催そのものへの不安が根強い▼国際オリンピック委員会(IOC)のバッハ会長が来日し菅義偉首相と会談した。来夏の東京五輪は「人類の連帯と結束力を表すシンボルにする」と意気込むが、国民としては大仰なスローガンよりも、安全・安心を確保する具体策こそ知りたい。「福井新聞「越山若水」・2020年11月17日 )

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 IOCのい会長が来日して、延期された五輪開催について何かと言っているような言っていないような、曖昧なパフォーマンスを繰り広げています。半世紀以上をまたいで、二度目の開催が決まった五輪でしたが、余計なことを、という感情をぼくはずっと持ち続けています。コロナ禍に襲われる前から、五輪は特定の人間や企業などの売名・買収の巣窟であり、「集(たか)りの山」でしかないと考えていたからです。その考えは今も変わりません。前回の五輪の時期は、ぼくが上京したのに重なっていました。河川が掘り起こされ、埋め立てられ、地下鉄工事が道路を占拠しつつ、その他の道路工事も至るところで大騒ぎで、わが日常生活を阻害していた。細かいところは省きますが、都内はいずこも「ただ今普請中」の看板を掲げたような顛末でしたが、その実、ぼく個人の感覚では「ただ今不信中」だった。

 もちろん、五輪開催に躍起になっていたのは「政治の季節(日米安保問題という政治闘争)」に恐懼した政治・経済の一味軍団が、それを中和するためにか、あるいは癒すためにか、それとも庶民の目を誤魔化すためにだったか、そのような幾多の狙いを以て待望されたのだったでしょう。今回はどうか。原発事故の後始末もそっちのけで、魑魅魍魎もどきの有象無象が暗躍・明躍した結果、賄賂まで使って招致した手前、なんとか開催にこぎつけたというのが実態だったと思う。さてすったもんだの挙句に「コロナ」が舞い降りたのでした。それでもなお、「一億総力戦」かどうか知りませんが、官民(特定の政治家・官僚軍と特定の民間企業群)挙げて「開催」をごり押ししようとしているのです。たとえ何万死のうとも、辞められません、勝つまではというわけです。民草は、「泣く子と地頭」には勝てないというひそみにならっていえば、「貪る政治家と食い潰す企業家」には負けるしかないやん、とお手上げ状態なんです。

(この「熱狂人だけで開催」はどうです?)
(この「万博連」も合流五輪で?)

 「人類の連帯と結束力を表すシンボルにする」、「コロナに勝った証」などと、屁理屈や御託を並べていますが、そのどちらも世界の現実からはまことに遊離、離反していることなどお構いなしです。感染者数六千万人目前、死者数百三十万人超。とにかく開催さえできれば、それで本望という無残な醜態をさらし続けているばかりです。観客を減らし、参加国を減らし、実施種目を減らし、開催日程を減らし、三蜜を避け、検疫を完璧に実施する上でなら、なんとか「開催」できるかもしれない。(もちろん、関係者以外は外出禁止は当然です)例えば、参加国は「コロナ化を免れた国のみ(とすれば、日本は除外)(数か国あるか)」、参加人数も「百人程度」で、日程も、せいぜいが三日かぎり、しかも「無観客」で。それでも「人類の連帯と結束力を表すシンボルにする」という所期の目的は達成される(はずがない)。

 アスリートはもちろん、参加自由にして、どうしても開催したい参加したいという政治家や関係者、経済人や中間中抜き業者の「酷暑の祭典」とする案はどうでしょう。「綱引き」「パン食い競争」「椅子取りゲーム」「(凧あげならぬ)カツアゲ」「中抜き競争」「飛び入り」などなど、実施種目は数知らず、この祭典終了後、政治家も官僚もあるいは企業などのブリゲートは「永久追放」と行きたいね。理由はドーピングならぬ、五輪憲章に違反するたくさんのルール無視の廉で、です。

 五輪開催なんか、ぼくにはまったく関心も何もありません。ひたすら、「日々是好日」を冀うばかりです。政治家は吐いて捨てるほどいますし、五右衛門の辞世の句じゃないですが、「政治家の種は尽きない」というのが相場です。それほど「家業」「お家芸」にしたいような職業なんですな、政治「家」は。でも生物遺伝子の原理には勝てないわけもあって、歴世の代はより劣勢になるのが避けられない。好みでいえば、(正当な判断を歪めるけれども)時代が降るにつれて「小物」「劣悪」「下劣」「不熟」「醜悪」になるのはどうしてですか。「起業」する努力も才能も金子も看板も後援会もいらないのですから、そこにいるだけで当選が保障される。だからさ、ひたすら衰えるばかりです。ならば、当人に責任があるというのも、あるい酷かね。冗談言うな、人民の辛酸をこそ慮るべしだよ。(五輪開催に係る税金は十兆円を越えるか)

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生きているうちが花なら、命あっての物種なら…

 「わたしたちの心のすべてを引きつけて、それ以外に窮極のものはないと思わせるもの、それがこの世の持つ恐るべき力なのです。この世の意図が持つ恐ろしさは、わたしたちを満足せしめうるものはこの世の与えてくれるものをおいてほかにはない、わたしたちが関心を寄せうるものはこの世の務め以外にはないと錯覚せしめるところにあります。この迷妄に陥るとき、この世自体が神となり、自己完結的なもの、自足的なものになってしまいます」

 この文章は、すこし前に引用したブルトマンが行った演説の一節です。彼は神学者であり哲学研究者でもあります。「パリサイ人と税金取り」という聖書の譬え話も引用しておきましたが、それを受けて、彼が言ったことです。「この世」とは社会であり、世間です。現にぼくたちが生きている、その社会のことを意味しているでしょう。大小さまざまな集団(社会)において、ぼくたちは他者から受け入れられたいと願うし、可能ならば、より大きい賞賛や評価を得たいと願っている。「わたしたちを満足せしめうるものはこの世の与えてくれるものをおいてほかにない」とはどういうことなのでしょうか。「他者の是認を期待して、生きているのですか」と、問われているのです。

 「生きているうちが花」とか「命あっての物種」と言いますが、それはまず生きていなければ、話にならないとも、命が何よりも大事であって、そこからしか何かが生まれる気づかいはない、まあ簡単に言えば、そういうことでしょう。でも「生きているだけ」では足りない、社会やこの世からの高い評価を得たいと齷齪するのもまた、ぼくたちの生活の条件になっています。「こんなにぼくは偉いんだ」「わたしはこんな評価を受けてきた」という具合に、社会はだれが優れていて、誰が劣っているか、あからさまな優劣をつけているし、それが人生の意味や価値に直結しているとも言えます。誰も自分を認めてくれない、こんな感情を持つ人は後を絶ちません。存在の根拠とは?

 ここで質問したい。「道徳」とはなにか、と。

 ある人が世間からほめられたいがために「よい行い」をしたとして、はたして彼や彼女を「道徳心のある人」といえるでしょうか。世間の目をあまりにも気にかけすぎるがゆえに、したいことを我慢する人を「謙虚な人」ということができるでしょうか。他人の監視の下で「正義」や「幸徳」、「勇気」や「奉仕」が生まれるのですか。

 ぼくたちは評価を求めることをよしとする。しかし、それが度をこえると「生きる意味」をとりちがえてしまうのです。生きる意味とか人生の価値というのは、何かができたり何かを獲得することで達成されたり実現されたりするのではなさそうです。ぼくは、そのように考えています。どうでしょうか。

 ある人の本を読んでいたら、「内臓の記憶」という言葉が出ていました。痛いとか、辛いとかいった経験はどんな人にもあります。それを忘れてはいけないというのではなく、いつでもその「傷口」のうずきや、かろうじてかぶさりかけた「かさぶた」をめくる時の痛覚からものごとを始めることが大切じゃないですか、おそらくそういうことでしょう。「反省しなさい」と言われて、「涙を流して、もうしません」と悔い改め、相手もそれを許してくれた時、ぼくたちは一種の「カタルシス(浄化)」を得たと勘ちがいします。間違ったことが記憶から「消される瞬間」です。「二度としません、過ちは」と肝に銘じたつもりで、安心して忘れるのです。そこで晴れ晴れとした気分を経験するのでしょう。これは、個人であれ集団(大は国家まで)においてであれ、同じこととして認められます。

 敗戦時、「一億総懺悔」といった総理大臣がいたし、当時の人民の多くも「懺悔した」気になった。そんなことは「荒唐無稽」「ありうべからざる現象」だったのですが、一瞬の迷妄に陥っていたのです。以来七十余年、「あの国は怪しからん」「先制攻撃」能力(武力)を持たねばならぬと、怪しげな大ぼらを吹くトップが出る始末です。それほど、「内臓の記憶」を癒し、すっかり直す特効薬が作られてきたというのでしょう。すっからかんと過去の悪事も忘れ、他国を踏みにじったことも忘却の彼方に捨ててしまったのです。個人の場合も同じです。

 ぼくにも忘れてしまいたい出来事(記憶)がいくつもあります。それを忘れればどんなに気が楽になるかという思い(誘惑)に駆られることがしばしばでした。でも、それを忘れた途端に、安心して、ぼくは新たな間違いを犯すはずです。それを間違いだとする「内臓の記憶」がなければ、なんどでもおなじ間違いを犯し、それに対してなんの痛痒も感じなくなるのは道理です。どんなに忘れ去りたい過誤であっても「内臓の記憶」になるかぎりで、人は道徳の問題に向きあうことになります。そこから、道徳の問題が生まれるのです。そこにしか生じません。

 間違いを犯した〈している〉という自覚を失えば、人はどこまでも厚かましく、無礼に振る舞い、厚顔無恥になりきります。世の中にはそんな御仁がうじゃうじゃしています。いかにも紳士淑女ぶって、生きています。ちがうでしょうか。「生きているうちが花」だといい、「命あっての物種」というのは、その通りですが、その「生きている」「「命あって」をいかに受け止めるか、そこからは大きな生き方の差が生まれてくるのです。

 ブルトマンはさらに続けます。

《事実、是認を求める欲求は、人間にとって自然的なものである。わたしたちが自由に生き、呼吸しうるのは、わたしたちを是認してくれる仲間の範囲においてのみである。…》《だがここできわめて大切なことは次のこと、すなわち、わたしたちがみな必要としているこの是認を、わたしたちの行為の本来の目的とすることはできない、ということを洞察することである。…是認は、努力や苦労して追求して手に入れられうるものではなく、贈り物として与えられるにすぎないのである》


 努力と才能さえあれば自らの人生を切り開いていける、だから頑張れというのは学校教育の常です。そのことによって己の価値づけは高まり、自己充足を得られるのだから、と。
 再び言う。ほんとうのところ、ぼく(たち)は二人(パリサイ人と税金取り)のうちのどちらに似ているのでしょうか。あるいは、どちらにも似ていないのでしょうか。

 そして学校教育でまことしやかに語られる「道徳教育」は、どちらの人間を「作ってきた」のですか?作ろうとしているのですか?

 人間をつくる、そんな倨傲な態度から解放されない限り、学校教育は再生不可能です。「是認は、努力や苦労して追求して手に入れられうるものではなく、贈り物として与えられるにすぎないのである」、ぼくはささやかな人生を送って来たにすぎませんが、この言葉をすこしでも自分のものにしたいと念じながら生きてきたのです。採るに足りない虫のような人間にも、贈り物があるかもしれないという「期待(自分に対する注意深い心がけ)」を、ひそかに願ってきたのです。

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いづこもおなじ秋の夕暮れ

 仏南部トゥールーズで、新型コロナウイルスの感染防止のために再導入されたロックダウン(都市封鎖)措置の一つの「必須ではない」業務の閉鎖に対し、抗議するさまざまな職業の人々(2020年11月6日撮影)。(c)Lionel BONAVENTURE / AFP)2020年11月16日 12:15 発信地:トゥールーズ/フランス [ フランス ヨーロッパ ]

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 この島ではgo to トラベルが出発進行中で、合わせてコロナ感染も踵を接して、急増中であります。永田町や霞が関では「学術会議会員任命拒否」で「国会や総理の空虚さが暴露拡大中」で、窮地に陥ったと判断したかどうか、政権与党周辺は「一月選挙」の狼煙を上げて「無能総理」隠しに奔走する。一方の西欧はどうかと一瞥すれば、いずこも同じ「秋の夕暮れ」です。いったい、はどんな風の吹きまわしなんでしょうか。

 フランスはトゥールーズ発の、この写真です。いったん収まりかけた感染者数も、ここに来て急拡大とあれば、ロックダウンもやむなしという政府の施策に「断固反対」と立ち上がった、いな、座り込んだのです。あるいは寝ころんだ。効果があるかどうか、ぼくには判然とはしないが、「座して、死を俟つ」のは潔くない、可能な限りで抵抗したいと、「寝て、転んで、横になって」と、権力に対する抵抗のスタイルもさまざまです。「抵抗するは我にあり」というのが、切羽詰まった民衆のたった一つの生存権の行使です。この抵抗の先駆者として、フランスには赫々とした歴史があります。

 コロナに対して「一丸となって」と行かないのは、それだけ個人の権利が進化・拡大したからだといえますが、この先、いったいいかなる道が残されているのか、けっしてフランだけの問題ではないし、まさにぼくたちの現在に生じている難問でもあるのですが。肝心の問題の核心いから「目をそらされて」、まるで漂流する難破船のように、ぼくたちは右往左往(go to ですか)と漂うばかりです。

 心なき身にもあはれは知られけり 鴫立つ沢の秋の夕暮れ 西行

 寂しさに宿を立ち出でてながむれば いづこもおなじ秋の夕暮 良暹

 寒風吹きすさぶ秋の夕暮れは、いずこも同じかもしれないが、同じでないのは人情・浮世の義理でもあるのです。人それぞれに思いや寂しさは異なるでしょう。しかし、そこから抜け出す道もまた、人それぞれに求めるほかはないのでしょうか。思いを異にしつつ、権力に向かうための連帯の証はどこにあるのでしょうか。「義理が廃れば、この世は闇さ」

 五人での会食はダメで、四人までならいい。東京五輪は「コロナに打ち勝った証」として必ず開催すると、バカが遠吠えをしていますが、どこの世界に「コロナに打ち勝った国」があるのか。嘘もここまでくれば、もはや手遅れだし、いかなエクモも太刀打ちできないでしょう。感染するもしないも本人次第という。死ぬも生きるも、ねえ、お前と歌ったのは「船頭小唄」ですが、一端の船頭が無知で無恥、無能で虚妄ならば、そこに住まう住民はどうしたらいいのか。

己(おれ)は河原の 枯れ芒(すすき)
同じお前も かれ芒
どうせ二人は この世では
花の咲かない 枯れ芒

死ぬも生きるも ねえお前
水の流れに 何変(かわ)
ろ
己もお前も 利根川の
船の船頭で 暮らそうよ

枯れた真菰(まこも)
に 照らしてる
潮来(いたこ)
出島(でじま)
の お月さん
わたしゃこれから 利根川の
船の船頭で 暮らすのよ

なぜに冷たい 吹く風が
枯れた芒の 二人ゆえ
熱(あつ)
い涙の 出た時は
汲んでお呉れよ お月さん
( 1921年(大正10年)1月30日に民謡「枯れすすき」
として野口雨情が作詞、同年に中山晋平が作曲した)

 (余談として やがて福島発の「汚染水の海洋投棄」は世界中で非難の的になり、あらゆる責任を追及される事態にいたるのは必至です。この島の住人は深刻な海洋汚染、海産物汚染の桁外れの責任問題から免れられない。「日本政府標準」が、どんなにいい加減で、手前勝手な代物であるかが明瞭に暴露される時期が背後に迫っています)(この問題について、遠からずぼくは言及するつもりです)

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粛清 英雄 国葬 それを支持する世論(操作)

(2020年11月10日 日刊ゲンダイ1面」))

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 余録 不気味で奇怪な映像である。群衆が詰めかけた公開裁判。被告は皆、素直に罪を認める。死刑が宣告されると、傍聴者は歯をむき出して笑い、歓声を上げ手をたたき合う。しかし、事件はでっち上げだった▲旧ソ連の独裁者、スターリンが、大学教授や技師らを「資本主義の手先」として見せしめにした「産業党事件裁判」(1930年)。社会主義体制への転換を印象づけるため、自由と議会制を信奉するエリートたちが「国家転覆を企てた」というストーリーを仕立てた▲実録フィルムを編集したドキュメンタリー映画「粛清裁判」が公開中だ。真っ先に知識人が狙われた。大衆が独裁者のウソを支持したからだ。味をしめたスターリンは、やがて大粛清に乗りだし、民衆も膨大な数が処刑されるのに▲それでもスターリンは53年、権威の絶頂で亡くなった。広大な旧ソ連各地で数千万人が「偉大な指導者」の死を嘆く記録映画「国葬」も同時公開された。3年後に大虐殺者として告発された「英雄」を悼む人々の表情は、裁判と反対に沈んでいる▲スターリン時代の始まりと終わりを、熱狂と厳粛さで表象する2本の映画は、独裁体制を支えたのが他ならぬ群衆であった事実を映し出す。主役はスターリンではない。名もなき無数の人々の顔である▲日本学術会議問題で、菅義偉首相の説明に多くの人が納得していない。だが、世論調査で任命拒否を問題視する意見は少数派だ。縁遠いはずの異国の古い映像が、妙に生々しく迫ってくる。(毎日新聞2020年11月16日 東京朝刊)

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  はたして「スターリン」がこの地上に亡霊としても存在しているのかどうか。権力を握った政治家は「きっとスターリンなんかになるまい」と言っては見るものの、「権力」を志向すること自体、すでにスターリンの体質をいくばくかは持っているといえるのかもしれない。スターリン的体質とはなにか。これも簡単に言うと、他人の意見を聞く耳を持たない、つまりは「唯我独尊」という性向を帯びているということでしょう。まさか、と非難もされようが、人を支配したいという感情はだれにでも備わっているが、それを実行する(できる・したくなる)かどうかはまた別次元の問題となります。

 政治とは「力によって、相手を支配する行為」とすれば、どんな人間にもその片鱗は伺われます。だが、向き不向きや欲望の多寡によって「政治的人間」となるかならないかが分かれるのです。「非政治的人間の政治的思想」もあれば「政治的人間の非政治的思想」もある。面倒なことは言うまい。おのれの言葉や命令に他人が従えば、気分はいいなあ、従わせられる力を持ちたいなあ、という人間は、まさしく政治的人間です。スターリンは極端だったというのではない。いったん権力を掌握すれば、行くところまで行きたいというのが本能だからです。途中で挫折するかどうか、それは運命のようなものが左右するのです。

 粛清と熱狂という二つの狂気は自他の内部に必ず宿っているものです。粛清は大なり小なり、程度の問題です。自分の考えに逆らう人間を懲らしめたいと望む、それに逆らうやつは消してしまいたい、それにも反対する奴は抹殺する。程度問題であればこそ、発端においては同じ性質を持っていることを否定できません。まさか、この時代にこの島で「スターリン的」なものがあるはずないじゃんというのが各種の「世論調査(操作)」の示す内容です。「そうは思わない」という曖昧なニセ・過誤判断が、やがて「熱狂)」生まれ変わるのはたやすいことです。熱狂を覚ますのは熱狂ではありません。自制心、あるいは注意力です。「俺は何をしているのか」「わたしはどういう行動をとっているのかしら」という反省や自省の働きが「自分を取りもどす力になるのです。

 「学術会議の会員」任命拒否は「まあいいじゃん」とか「それはまずいかも」とか煮え切らない結果がきっと出るように操作されます。ぼくに言わせれば、世論調査(操作)の結果は「半信半疑」という鵺(ぬえ)のような姿を示しています。二者択一ではないところが味噌だけど、よく見れば、必ず二者択一になるのです。「いいか、わるいか」「正か邪か」「善か悪か」となるように方向(求める答え)が見えてきます。

 任命拒否問題について、いろいろな観点から論じられているようですが、核心部分をついていると思われるものは極めて少数だといいたい。どこに核があるか、じつに単純明快です。法律違反を平気で犯している、その一点に尽きます。学術会議法をまったく無視しているのです。さらに言えば、口先三寸で法を融通無碍に扱うという、考えられない暴挙です。「俺が法律だ」「私がダメだと言っているのだから、それはだめなんだ」という「三百代言」が通用しているところにこそ、ぼくは問題の核があると思う。それがたまたま「学術会議」だったから、「学問の自由の侵害」ということになっているのです。法を左右する権力とは、それを暴力というしかないのです。その実例は、島の隣近所にいやになるほどあるじゃないですか。

 「日刊ゲンダイ」なんてという向きがあるようですが、ぼくは長年の愛読者です。発刊以来、です。それこそ「正も邪も」という類のタブロイドだし、「清濁併せ呑む」風の日刊紙ですが、今の時代、いいたい事より言わなければならない事をまったく言わない新聞報道が充満しているからこそ、ぼくは目を通したくなるのです。ある意味では、報道界の「ゲリラ」ですね。極めつけの少数派ですが、時には光るものがあると、ぼくには見えます。着るものや持ち物やで、人を判断したくないように、部数やページ数で判断し、肝心の内容を洞察しないのは、観光に出かけて、風景を見ないで写真を撮って行った気になるような、滑稽無粋が露出しているようなものです。(上掲の「見出し」で「小学生並み」と、総理を貶めているのでしょうが、これは戴けない。小学生が怒るよ、「あれほどじゃないぞ」と。比較するのも簡単じゃないですよ)

 こうしている間に、政治的暴力の潮目がいよいよ反転し、気が付けば、諸人の足元を浸しているという事態になりますね。「戸締り用心、火の用心」はまだいいとして、「マスクをせよ」「外出はするな」「飲屋に行くな」と、塵まがいの権力が背広を着て監視に奔走するようになる。「自粛警察」とやらもまた、塵塗れの一種類ですね。いよいよ我が島の未熟デモクラシーは「衆愚」を待望するし、衆愚をこよなく愛するのは「表面の正義派」です。報道が先導役をきっと務めます。それに乗っかっていくと、その先に、ファシズムに変身じゃない、権力が生来の正体を現すでしょう。この島も、小は小なりに、全体主義の一歩手前にあるようです。任命問題より学術会議自体に問題があるから、それを議論しようと助け船を出す輩はいつでもつるみたがるし、甘いものに集(たか)りたがるし、獲物のおこぼれにあずかりたがります。「大枚の税金を使ってるじゃないか」「潰してしまえ」と天に唾の愚挙のかぎりです。それは「死体に群がる」ハゲワシです。(「例」に持ち出された者が怒りますか、あるいは「質の悪い政治家のようだ」では同語反復だし)

● ゲリラ=不正規武装団体の行う変則的戦闘行為,遊撃戦,転じてその組織をもいう。小戦闘を意味するスペイン語の〈ゲリリャguerrilla〉が語源。19世紀初頭のナポレオン戦争でフランス軍を撃破したスペイン国民の抵抗戦に由来する。正規軍の戦闘を補完し,その勝利に多大な影響を与えた。20世紀に入り人民解放戦争の中では重要な戦術となった。(百科事典マイペディア

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馬鹿にしないでよ そっちのせいよ 

卓上四季】仮説のリスク チェルノブイリ原発で原子炉が爆発し、欧州中が混乱していたころ日常と変わらぬ暮らしを続けた国があった。フランスである。「放射能雲は、ドイツとの国境で止まる。心配無用だ」。だれもが政府発表を信じた▼「放射能の影響は全くない」。そう発言したのは、当時放射線防護中央局長を務めていたペルラン教授だった。各地で放射線を探知しても、影響はわずかだとして発表を見送り、政府もヨウ素剤配布などの措置を取らなかった▼科学的に正確なリスクの把握には、実験が不可欠だ。しかしながら、経験したことのない事態では一定の推論に頼らざるを得ない。そこで想定する仮説が異なれば、当然リスク評価も変わってくる▼新型コロナウイルスの感染状況が日々深刻さを増している。第3波の到来といって差し支えなかろう。国はクラスター対策を軸とするが、これだけ市中感染が広がると心もとない。冬の訪れを要因に挙げる専門家もいるが、夏場の第2波は何だったのか▼旅行需要を喚起する「GoToトラベル」事業は10月から東京都も対象に加わった。往来は確実に増加した。移動が感染リスクを高めるのは自明の理。要因はむしろ、そこにあるのではないか▼ペルラン教授は「人心を惑わした」などとして訴追された。免訴判決こそ出たものの、その名前は不名誉な形で歴史に刻まれた。自らの仮説に拘泥した末路である。 (北海道新聞・11/14 05:00)(ヘッダー写真はダイアモンドオンライン「日本のコロナ感染者数が少ないのは、検査不足のせいではないかという声もある。それは本当なのか(写真はイメージです) Photo:Barcroft Media/gettyimages」(2020.3.27 5:35)(https://diamond.jp/articles/-/232937

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 立冬も過ぎて、霜降る頃。この時期を待望していたかのように、劣島では「コロナ感染」が急激に増加している。ことに北海道は著しい急増ぶりです。原因はさまざまでしょうが、その一つに「go to トラベル」が挙げられていますし、北海道の医師会も「北海道には来てほしくない」といわれています。しかし、都に鎮座する政府は「急増の原因ではない」と根拠なしでいうばかり。自治体で対処してほしいと、無策ぶりを政策の一番目に据えているのです。また、この機会に 「go to」 を使って旅行をするのは、「各人の判断」という方針なき方針を明言しています。「政府あって政治なし」とはこのざまを言うのでしょう。「コロナ対策用に十兆円の予備費」を意のままに使えるように組んだのはいいが、それがどこにどれだけ、どのような名目で執行されたのか、いっこうに判然としない。無策を目玉にして、この無残な政府は国民に背中を向けている始末です。

 無能だからしかできない無謀な「学術会議会員任命拒否」という芸当、これはこの島に「歴として記されている悪政の典型(人権の侵害)」である「滝川事件」や「天皇機関説事件」に肩を並べるものです。もっとえげつないのは、新聞記事や放送内容に、あるいは組織人事に介入する暴力行為をシンパを使って敢行しているという、でたらめのかぎりが尽くされているのです。世界に爆発しているコロナの猛威の最中に「五輪開催」を頑として主張するという破廉恥は世界に向けて小さな島の「大きな愚」を知らしめていると思う。赤字であろうがなかろうが、好きなだけの規模の予算を組む、株価を上げるためには手段は選ばない、と日銀の出番はますます兜町に向かっています。

 ぼくは金融や経済の素人ですが、現在の金融政策や経済対策がどんなにいい加減ででたらめなのか、その程度は分かろうというものです。株はまず下がらないという破天荒な(前代未聞の)珍現象が出来しているのです。株を買う人は大金持ちで、この島の株価がある範囲からは絶対に下がらないとわかっているのだから大量の株買いをします。値ごろ感が出た段階で売り逃げる、たんまり儲かる。また下がれば日銀が買う。株価は上がる。こんな打ち出の小槌がどこにあります。蟻地獄に入りこんだ状況で、どうにも抜けられない。

 どこの世界に「中央銀行」が民間企業の最大株主になる「資本主義を名乗る」ところがあるだろうか、と言ってみても始まらない。「毒を食らわば皿まで」というのは無能な政治家や役人にこそあてはめられるべきであって、人民を巻き込まないでほしいといっても、すでに手遅れです。打つ手はない、今ぼくたちが置かれている状態です。「バカは死ななきゃ治らない」といい、「バカに付ける薬はない」という段階です。「バカにしないでよ」と歌ったのは誰でしたか(「プレイバックpart2」1978年)。「坊や、いったい何を教わって来たの ♪」今こそぼくは言いたいですね。「バカさ加減」というのは、どういう加減なのか。この島の政府や役所の歴々を見ていれば、空恐ろしいまでに空虚だということ、それはまるで加減なしという無限空虚の破廉恥な人災が今も、ぼくたちに生じつづけてているのです。

 言っても無駄とわかっていながら、何かを言うことほど空しい沙汰はありませんね。だから、ぼくは無駄を承知でいうのです。(ブログ書きは「自主トレ」のメニューの大事な一要素です。そのつもりで書いてきましたし、これからも書く)春先からPCR検査数を(一日二十万件に)増やすとあいつもこいつも口をそろえていってきました。さて十か月たって、いったいどれほど増えたのか。これもまた「国民各位」の判断とか何とかいって、意図的に放置してきたのです。北欧のある国では「全員感染」を狙っていたが、大変な犠牲を払って、それは失敗に帰したとされています。イギリスもそうでした。国民総感染論の主唱者だった首相自身が感染して死の恐怖からようやくにして生還した。

 さすれば、この島でも要人は、人民が感染するに任せているのじゃないかと、ぼくはある時期から強い疑念を持ちました。当たるも外れるも、どっちだってかまわない。要は自分のいのちは自分で守る、これにすぎる予防策も生存確保の道もないのです。(「ばか【馬鹿/××迦】 の解説[名・形動]《(梵)mohaの音写。無知の意。「馬鹿」は当て字》デジタル大辞泉)

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行く秋や手を広げたる栗の毬

 芭蕉(ばしょう)に「病雁の夜寒(よさむ)に落ちて旅寝かな」がある。旅先で風邪にふせていた芭蕉が、湖に落ちる病んだガンの哀れに自らを重ねた句という。病雁は「びょうがん」か、「やむかり」か。読み方で興趣も違ってくる▲角川俳句大歳時記によると、「がん」も「かり」も鳴き声に由来する名という。その昔、ガンは春のウグイス、夏のホトトギスと同じように、秋の深まりを「声」で伝える鳥とされていた。「初雁(はつかり)」はその秋初めて聞くガンの声である▲芭蕉は病雁の落ちるのを見たのか、声を聞いて心に描いたのか。ともあれ今の季節、シベリアからやって来るマガンなどの渡り鳥の病気と聞けば、思わず身構える現代人である。人がウイルスにさんざん悩まされた今年はなおさらだ▲香川県の養鶏場で高病原性鳥インフルエンザが発生、飼育されていた約33万羽が殺処分される。すでに先月末には北海道で野鳥のふんから高病原性ウイルスが検出されていた。国内での発生は一昨年1月以来、2年10カ月ぶりという▲感染経路はまだ不明だが、環境省は養鶏場の半径10キロ圏内を野鳥監視重点区域に指定した。さらに野鳥への全国的な警戒レベルを最高の3に引き上げ、多数の野鳥の死骸を見たら素手で触らずに自治体に連絡するよう呼びかけている▲濃厚接触による人への感染例もある鳥インフルだが、人から人への感染は極めてまれである。鶏肉や鶏卵を食べての感染の心配はない。ともあれ病鳥の哀れがわが身にもしみ入るウイルス増長の秋冬である。(毎日新聞「余録」・2020年11月7日 東京朝刊)

 元禄3年9月。47歳の作。近江(滋賀県)堅田の本福寺にて病を得た。その際に句作の瞬間を逃さなかったのです。住職は弟子の千那。近江はぼくにも親しい土地でした。小学生のころから、水泳と言えば琵琶湖、近江舞子だったし、そこはまるで海のように広い湖だと聞かされていました。ぼくの好きな句に「行く春を近江の人と惜しみけり」がある。これは同じ元禄三年の春三月(弥生)のもので、秋には病雁の湖に落ちる音を聞いていた。芭蕉と言えば「不易と流行」だと思われていますが、なに、どなたもいつの時代にあっても生きてあるときに痛感するのが「不易と流行」だと思えばそれでいいのです。

 ぼくは詮索は好きではないし、「研究者」でもありませんので、適当におのれの嗜好を満たすために駄文を積み重ねているのです。この駄文は、目下「自主トレ」用のプログラムに過ぎず、時には生半可だったり、見落としがあったり、当てずっぽうであったりと、これ幸いに勝手な言い分をほしいままにしているだけなのです。読まれる方がいるとはにわかには信じられませんが、まるで事故に遭遇するかのように、お目にかけてくださった方々には感謝の気持ちを申し上げるほかありません。

 一転して「鳥インフル」の悲劇です。この島にはあらゆる方面から渡り鳥が飛来します。越冬するためですが、その際に、自由を奪われている養鶏場の「鶏」(「牛や豚」など)に感染するという事例が後を絶ちません。かかる「災厄」は不可避なのでしょう。とすれば、病気に感染しないのは望外の幸いということになります。おそらく、世界中で人間の「食用」にされるために飼育されいる生き物は相当な数になりますが、それが今回のような感染病が見つけられると、即座にすべては「殺処分」という手順になっています。これをなんといっていいのか。人間に食べられるために飼育されているのに、それをインフルエンザに感染したから、殺処分する、と。

 「ともあれ病鳥の哀れがわが身にもしみ入るウイルス増長の秋冬である」と余録氏は言われますが、もしぼくが「病鳥」だったとしたら、その感じ方はまったく異なるはずです。もちろん、感染した鳥は悪意を持って「人間」あるいは「鶏舎内の鶏」に近づいてくるのではないでしょうが、野鳥が飼育鳥に感染させたのは、いかにも許しがたいというか、営業妨害だという憤りが「全鳥処分」という行為になって表れているようにも見えます。

 今回の33万羽のなかには、とうぜん未感染の鳥もたくさんいたはずです。まるで養鶏場における「ホロコースト」のようにみえてきて、たまらない感情に苛まれてしまいます。(妄想ですが、感染したのが鳥ではなく「人間」であり、感染させられたのも「人間」であるとしたら)感染させない、感染しない工夫をこそ、人間の側で果たさなければならないでしょう。

 旅に病んだ芭蕉は、「病んだ雁」の湖に落下する音を耳にして、何を想ったでしょうか。「水にしみいる雁の音」とは詠まなかったことだけは確かです。

行く春や鳥啼き魚の目は泪    
行く春を近江の人と惜しみける
行く秋や手をひろげたる栗の毬(いが)  
蛤のふたみに別れ行く秋ぞ
旅に病んで 夢は枯野を かけ廻る

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