食を撤せよ、民に信なくば立たず

 昭和五年十一月十四日、時の総理大臣浜口雄幸は東京駅内において、右翼団体佐郷谷留雄に狙撃された。直ちに入院し、(代理を置いたまま)首相職は続投した。しかし入院は長引き翌年三月までかかった。四月十三日に辞職。翌日、後任には若槻礼次郎が再登場した。閣僚全員留任の、いわば居抜き内閣であった。この時の蔵相井上準之助が議会において、予算問題に就いて、「食言」をした廉で、野党から追及を受けた。この時期は「金解禁」問題が焦眉の急となっていた。同時期には陸軍中央部は、橋本欣五郎らの「桜会」が軍事クーデターを画策し、「宇垣一成内閣」を企画した。いわゆる「三月事件」である。(昭和史の前半を色濃く染めた「政治と戦争」の季節の幕開けのような事件でした)

 この問題に遭遇し、湛山は「新報」誌上に論説を掲載、「近来の世相ただ事ならず」と政治責任を追及しました。

 井上蔵相(右写真)は「議会を愚弄」した、とは今や一般の定評だ。議会に於ける言明は議会を閉じれば直ちに弊履の如く之を棄て、顧みないならば、議会はあっても無きに等しい。議会に於ては、政府当局に都合の悪いことは、知っていても云わぬ、已を得ない場合には出鱈目をいう。議会が閉じれば、言明を裏切り、別人の如き行動を取る。此の如きは即ち議会愚弄、延いては憲法愚弄、更に国民愚弄と云うて差支ない。政府与党は愚弄者側にあるので、尚お及ぶところがあろう。だが、直接に愚弄せられた在野党の代議士に至ては、到底堪えられぬ侮辱を感ずるに極まっている。そこで、政友会領袖等は、今回の蔵相会見を力押しに作って、膝詰的議会愚弄の責任を問うたのだ。その方法の直接行動的なる点、善悪の批判は残るが、併し、議会を愚弄した政府の責任はもちろん遥かに重大だ。(「近来の世相ただ事ならず」「東洋経済新報」昭和六年四月十八日号「社説」)

 満州事変の開始時期と重なる重大局面でした。経緯の詳細は省きますが、議会での挙措、議会外での言動に政治家らしからぬ過ちがあれば、責任を問われるのは当然である。そのような認識が批判される側にも当たり前のようにあった時代です。政治責任、政治家の責任、これは絵に描いた餅でもなければ、空虚な絵空事でもなかった時代です。この時期、政治状況はけっして褒められたものではなかったと、ぼくは見ているのですが、政治家の「出処進退」には潔さが求められていたのです。浜口が凶弾に遭った時にも、湛山は、一刻も早く職辞すべきであると書いた。この「食言政局」に対して湛山は、さらに言う。

 「首相は職を曠(むなし)うし、政府の言に信なく、議会は愚弄せられ、国民を代表する代議士は暴力集団化する。以上を一言に括れば、殆んど乱世的事相とも評して差支あるまい。斯の如き事態を、実現せしめるに至ったのは、蓋し一朝一夕の故ではなく、久しき前から醞醸せられた結果であろうが、併し、兎も角も、斯の如き事態が、浜口内閣の下に於て、顕著に発現せることは争うべからざる事実である。而も記者の見る所に依れば、其の大部分は、以上に指摘せる如く、不幸にして浜口内閣の態度の反映であり、自ら蒔いたものである。これ記者が、この際、治乱興廃の岐るる政治的道義の回復の為に尚お敢て浜口内閣の罪跡を指摘し、厳正なる批判を望んでおく能わぬ所以である。

 若し已むことを得なければ食を撤せよ、民に信なくば立たず、と古聖は云われた。信義は死よりも重し、これを今日に翻訳すれば、言行一致し得ぬ場合には其職を去るべし、これがいわゆる食をすてるに当ると思う。苟くも斯の如くせざれば、何うして綱紀の支持が出来よう。何処に道義の堅守があろう。(同上)

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 今日、この島の政治状況をどう見ればいいのか。笑うべきか泣くべきか。およそ九十年前も同様で、残された記録で見る限り、惨憺たる政治状況であったことは事実でしょう。内閣は粗製乱造というでたらめぶり。「元老」などという歴史外の人物(妖怪)が政治に大きな影響力を持っていました。政治家の汚職も後を絶たなかった。そして、そのような筋の通らない政党政治にとてつもない破壊力を持って参画していたのが軍部とその取り巻き連でした。まさに「暗い時代」を一層暗くする暗転機のような狂言回しを果たしていたのです。「満州事変」はすでに準備されていた時代でした。爾来、この九十年、島の政治状況は、ただの一歩も先に進んだとは思えないのはどうしたことか。腐敗と堕落、虚勢と虚偽の鬩(せめ)ぎあいで、人民は塗炭の苦しみを舐めさせられているのです。

 たった一人の「嘘つき」が政治を牛耳っていたと、ぼくには思えないのです。一つの「嘘」が成り立ち、それが「嘘」でなくなるためには、たくさんの「嘘」を必要とするはずです。つまり、右も左も「嘘つき」のたまり場となっていたのが「政界」であり「国会」であり、「霞が関」だった、そういわなければならないようです。その周りには公私を隔てることなく有象無象が「サクラ」となり、「囮」となっているうちに、長い間の「虚政」が持続してきたのではなかったか。この退廃・頽落は、それこそ回復不能な事態であったと、残念ながらぼくには思われてならないのです。

 定家の「明月記」を眺め、長明の「方丈記」や兼好の「徒然草」を拾い読みし、日蓮や親鸞など、その時代を肯定し得なかった人たちの手蹟を傍に置いて、気が向くままに眺めていると、人間の集団には止めようのない堕落があり、人を貶める陥穽があらゆるところに待ち受けているさまが手に取るように見えてきます。わが身の生まれ出た時代の、言い難い巡りあわせだったのでしょうか。これこそ、人の世の定めなのです。「静かなる暁、このことわりを思ひつづけて、みづから、心に問ひていはく、世をのがれて、山林にまじはるは、心を修めて、道を行はむとなり。しかるを、汝、姿は聖人(ひじり)にて、心は濁りに染めり。住みかはすなはち、浄名居士のあおとをけがせりといへども、たもつところは、わずかに周梨槃特(しゅりはんどく)が行にだにおよばず。もし、これ貧賤の報のみづからなやますか。はたまた、妄心のいたりて狂せるか。その時、心、さらにこたふる事なし。ただ、かたはらに舌根をやとひて、不請阿弥陀仏、両三遍もうしてやみぬ。干時(ときに)、建暦二年、弥生のつごもりころ、桑門の蓮胤、外山の庵にして、これをしるす」(「方丈記」)(*建暦二年は千二百十二年、蓮胤は長明の「法名」)

 嘘つきがまた無能であるという、たとえようもない不幸にぼくたちは遭遇しています。この難局を無事に超えることはまず不可能であると、残念だけれど、ぼくには言うほかないのです。国が亡びるばかりか、無辜の民が政治の不甲斐なさのゆえに、なくすべきでないいのちを失っているのです。だからと、ぼくは「憂国の士」「救国の士」を待望するのではない。それぞれが持ち場で果たすべき仕事を為せば、おのずから道は開けてくるのだと、ぼくは祈るように書いている。新しい年が明けたけれど、まさに事態も人情も「旧態依然」です。

 政治の世界にも言論の世界にも、たった一人の「湛山」、たった一人の「悠々」がいないのでしょうか。そういうことがあるとは、ぼくには思えないのです。時宜にかなう政治家・言論人が、この島のどこにも、ただ一人もいないとは、なんという不義不正の時代に、ぼくたちは生き永らえていることか。(左は「方丈記」の一部)

 それを思うにつけ、ぼくは学校教育の手の施しようのない「作為」を言わなければならないと痛感するのです。他人に優れていたい、誰よりも評価されたいという、幼気(いたいけ)な「自尊心」を虜にしてしまい、まるでそれを嬲(なぶり)りものにするかのように許しがたい姦計を弄しつくしているのが、否定しようのない現実だからです。少なくとも、この時代、誰しもが学校教育という「選別機」の洗礼を受けざるを得ないからです。みかんやリンゴなど、等級を自動的に判別させる、あの機械、それこそが学校なのです。学校という選別機でなめされているうちに、ついに「物言わぬ」「物言えぬ」存在と化されてしまう。言いたいこと、言わなければならぬこと、すべては関心の外、自分一個の利害にのみ最大の関心を寄せる、それだけでは足りないでしょうに。

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我が生、既に蹉駝たり。

 明日は遠き国へ赴くべしと聞かん人に、心静かに成すべからん業をば、人、言ひ懸けてんや。俄かの大事をも営み、切に嘆く事も有る人は、他の事を聞き入れず、人の愁へ・喜びをも、問わず。問はずとて、「などや」と恨むる人も無し。然れば、年も漸う長け、病にも纏はれ、況や世をも遁れたらん人、また これに同じかるべし。

 人間の儀式、いづれの事か、去り難からぬ。世俗の黙し難きに従ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇も無く、一生は雑事の小節に障へられて、空しく暮れなん。日、暮れ、道遠し。我が生、既に蹉駝たり。諸縁を放下すべき時なり。信をも、守らじ。礼儀をも思はじ。この心をも得ざらん人は、物狂ひとも言へ、現無し、情け無しとも思へ。謗るとも、苦しまじ。誉むとも、聞き入れじ。(「徒然草」百十ニ段)

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 本日、直前のブログで「日は暮れたが、道はなお遠い」という駄文を綴りました。そこで、「ああ、兼好さんにも同じのがあったなあ」と思い出したので、それをダシにまた道草です。というように、ぼくは道草の愛好家、いや今ではそれは堅固な悪癖になっています。道草をいっぱい食ううちに、何をしようとしているのかがすっかり忘却の彼方に雲散霧消してしまう。このところ、アメリカという対岸の「暴力政治家」の始末に負えない自己執着に辟易としていました。己の名誉だか、自己評価を高からしめるためにはアメリカという国もろとも、ぶち壊してしまえと言わぬばかりに、「大統領」の椅子に座って、国を乗っ取っていた(ハイジャック)のでした。

 こんなに油っ気の多い見せ物に辟易して、どうしても淡白というか、脂身の少ない魚の刺身に食指が動くのです。心身ともに世情に翻弄され、反吐を吐きそうな気分に襲われると、きまって兼好さんです。いわば、ぼくの胃腸鎮静の常備薬です。新薬ではないから、すぐには効き目はないけれど、じんわりと、ゆっくりと、身中に効き目が表れてくることがある。もっといいのは、副作用がない点ですね。(左図・重要文化財 牡丹麝香猫図 南禅寺本坊大方丈障壁画)

 この度は、どうか。推測ではありますが、これを兼好さんは五十ぐらいで書いたとされます。いわば「五十而知天命」です。「論語」が好きで若い頃から読んできました。文字通りに「論語読みの論語知らず」、それで一向にかまわないという主義で通してきました。この「知天命」はいろいろな含みのある部分ですが、まあ孔子の履歴書(自伝とも)とされてきました。

子曰、
吾十有五而志乎學、
三十而立、  
四十而不惑、
五十而知天命、
六十而耳順、
七十而従心所欲、不踰矩(「為政」編)

 早い時期に学問(道の学問=政治)を志し、三十ほどで自立し、四十になると、迷わなくなる(よそ見をしない)。そして五十になって「天命を知るに至る」、六十になると、耳に従う、つまりは耳に入る事柄は容易に理解でき、ちっとも差しさわりが生じなくなり、そして七十にもなると、己の欲するとところに従って、けっして規(規矩)を逸れることがない。こんな人生が生きられたらなあ、というのが孔子の実感だったんじゃないですか。事実としては、これは「絵に描いた餅」だったのは確からしい。孔子はまっすぐに政治家になろうとしたのではなかった。紆余曲折を経ながらも政治の道を歩き続けようとしたが、時宜を得ず、その道は歩行困難を極めたのです。泥濘(ぬかるみ)を歩いたかのようでした。「子罕」にそれを裏書きするような話が出てきます。(「知天命」については、いつか、どこかで触れてみたい)

子貢曰、 
有美玉於斯、
韜匱而藏諸、
求善賈而沽諸、
子曰、
沽之哉、沽之哉、
我待賈者也。(子罕第九) 

 ぼくも「従心所欲、不踰矩」の関所をはるかに超えたんですが、いよいよ「惑い」が湧き出る如くに噴出するんですから、きっとまだ四十なんでしょうね。「七十而惑亦惑」というほかありません。兼好さんはどう言っているのでしょう。歳をとり、もうなにやかやと不如意になると、どうなるか。

 「人間の儀式、いづれの事か、去り難からぬ。世俗の黙し難きに従ひて、これを必ずとせば、願ひも多く、身も苦しく、心の暇も無く、一生は雑事の小節に障へられて、空しく暮れなん」世の中に自分の歩調を合わせていると、一生、煩わしい些事に遮られてただ空しく、もう後がないところまで来てしまう。

「日、暮れ、道遠し。我が生、既に蹉駝たり。諸縁を放下すべき時なり。信をも、守らじ。礼儀をも思はじ」世の約束事を破り捨てて生きるほかないところに、自分は来てしまった。そうであるならば、信義も忘れ、礼儀も無視する。それでなにか文句があるか、とまるで開き直った風情があります。ここのところに兼好さんの面目があったのかもしれない。

 こんな世捨て人のような心持がわからない人は、「君は狂気だ」「不人情だ」と思ってくれて結構。世間の評判を気にしていたら、いつまでも俗世から足が洗えない。自分の人生じゃないか。謗られようが褒められようが、まったく耳順なんかではないんだから。世を捨てるにも、なかなかの決意や覚悟がいるということかもしれない。そんなことなら、世の中にいて、世捨て人になったらいいじゃないかと、ぼくなどはへらず口をたたきたくなる。つまり「隠居」ですな。

 今の時世に、出家も家出も、とてもできない相談で、どこまでも「世のなか」がついて回るのですね。だから「世にいて、いない」、そんな生き方を求めたくなるのです。すでにたくさんの先輩がおられますよ。これもまた「世捨て人」だと、ぼくは認めているのですが。誤解されそうですが、「ホームレス」とは「ファミリーレス」なんですよ、家族や家庭から切れても生きていこうとする人(homeless・familyless)を指しているつもりです。「独りで生まれ、一人で死する」という定めに逆らわない「生き死に」を、それがまっとうな(足りないところのない)、一つの生涯なのかもしれません。「苦しまじ」「聞き入れじ」をこそ、我が信条(心情)に。

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日は暮れたが、道はなお遠い

【水と空】米国の劣化 みんなの投票用紙を集めて数えた結果がもし自分の考えと違っていても文句は言わない、それが「みんなで選ぶ」ということだから。クラス委員選びで初めて「選挙」と出合う低学年の子。漢字では書けなくたって、それが「みんしゅしゅぎ」と知っている▲意に沿わない結果を腕ずくで否定することや、そう試みることは、どんな理由があっても肯定されない。それがルールだ。大統領選挙後の混乱が続く米国で「まさか」の出来事が起きた▲投票は盗まれた、俺は負けていない、メインストリートを進め。端から見れば、負け惜しみのお手本としか思えぬ発言に扇動されたトランプ支持派の市民が議会に乱入、当局との衝突で4人が命を落とした▲初めて選挙を経験する“1年生”の国ではない。民主主義の旗手を長く自任してきた国だ。格差、分断、群集心理…どんな単語を並べても説明はつくまい▲「家に帰ろう。法と秩序が必要だ」。間もなく「前」大統領になる彼は支持者たちをいさめた。ただし、自分が間違っていた-とは最後まで言わずに。彼がこの4年間で米国社会を決定的な劣化に導いたのか、彼の登場自体が劣化の産物だったか▲新大統領は20日、就任式に臨む。どんな言葉で、どんな方法で米国の劣化を止めるか-難事業が待ち受けている。(智)(長崎新聞・2021/1/9)

 また書くのか、この駄文を書こうとしているぼく自身がそう思う。ホントに嫌になる。下品な表現を使えば、「反吐を吐きそうだ」といいたいほど。がっかりを通り越して、落胆の勢い、留まるところを知らずという具合です。なんでそんなにがっくり来ているのか。理由は単純であり、複雑でもある。四年前にこの男が大統領に選出された時、ぼくの友人の政治学者は「トランプが選ばれるなどと、予想した政治学者は一人もいなかった」といった。彼自身もアメリカ政治の研究者だし、何よりも「アメリカのデモクラシー」を翻訳(岩波文庫)した人でもありました。どうせ、学者研究者は現実離れした、机上の空論とまではいわないが、世の中を動かすことにはならない物事をいじっているのが大半だから、ぼくはこの意見にも反対しなかった。学者は、その多くが見学・傍観する人ですね。

 プロの学者が予想だにしなかった男が大統領になった。その結果に、選挙に関心をいだいていた人々は驚いた。ぼくは専門家でもないし、アメリカの大統領選挙に取り立てて関心を持っていたわけではなかったが、どうして「(評判の悪い)不動産王」が選ばれたんだ、そんな疑問をいだいたけれど、ただちに「エスタブリッシュメント」の政治に半数以上の国民が嫌気がさしていたし、また同じような階級の人間(ヒラリー・クリントン)を選びたくなかった、その結果が、予想外の選挙結果をもたらしたと考えた。しかし、就任の最初から、とんでもない奴だとみていたし、そう書いたりもした。まず差別をけっして嫌っていない男、性を金で買う男、国税をまともに納めない男、いかさま(cheat)などさまざまな悪評と、その内容が著しい欠陥を持っている人間を証明していると確信していた。それはどうでもいい、当たるも八卦、当たらぬも八卦の「素人占い」だったから。

(2016年の大統領選挙結果)

 何よりも驚愕したのは、今回の選挙で彼が獲得した票数が「七千四百万票超」だったということです。得票率は四十七パーセント。四年間の実績がどうであれ(良い悪いを含めて)、これだけの人間が投票したということは、ぼくの度肝を抜いた。それだけの背景があったからであるのはわかるが、それにしても、アメリカがここまで追い込まれていたのかという驚愕は今もぼくの中で続いています。アメリカ全土の選挙地図の色分けを見て、どんなに深刻な事態が進行していたかが分かりそうです。ときどき、最近のアメリカ大統領選挙の結果地図とでもいうものをぼくは、眺めることがある。青と赤、これが選挙でしのぎを削って来たが、はたして党派性がどのような意味を持っているのか、「アメリカは偉大」だという旗印においては、青も赤もないのではないかと、ぼくは考えているし、実際は、そうであろうと。もちろん細かいところでは「民主党」「共和党」の差異は越えがたいものがある、それを認めたうえで、今回の選挙後の事態の推移は、これまでとはまったく異なった地殻変動のようなものが生じていたにちがいない。

 これもどこかで触れておきましたが、彼がまだ三十歳ころから、ぼくはトランプという若者を(テレビなどを通じて)知っていた。ニューヨークの「トランプアリーナ」で様々な大規模エベントが行われていたが、特に「ヘビー級ボクシング」の試合が有名だった。ゴングが鳴る前に、彼は当時の錚々たる高名な人々に交じってリンクに上がっていたのだ。(今でも閲覧できるはずです)彼がニューヨークの不動産でいろいろなことを成し遂げた人物として有名だったし、その後には自らのテレビ番組を持ち、相当な評判を得ていた。したがって、彼は早い段階から「大統領」への階段を上ろうとしていたとみても間違いない。しかし、いつでも彼には「泡沫候補」というレッテルが張り付いていた。だから、「今に見ておれ!」という復讐心に似た感情をたぎらせて、雌伏何十年を送っていたことになります。その間、右(レッド)に左(ブルー)にと、彼は極端にスウィングしていた。その都度、青側も赤側も、彼を受け入れていたのです。なぜか?

(ロイター/イプソスが実施した世論調査で、トランプ大統領の支持者が連邦議会議事堂に乱入した事件を受け、米国民の57%がトランプ氏の即時罷免を望んでいることが分かった。写真は7日、ニューヨーク市で撮影)(2021年 ロイター/Jeenah Moon)

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 今回の暴力行使は、確かにアメリカ社会の混沌の始まりであろうと思います。これまで潜在していた矛盾や積年の課題が、一気に噴き出したのではないでしょうか(それも、ほんの一部です)。その意味においてのみ、トランプという「小心翼々の悪」の功績が認められますが、その何百倍もの罪を放置してはアメリカ社会は立ち直れないでしょう。これは予想でもなければ、お節介でもない。何を隠そう、この島の政治状況もまた、対岸の事態にそっくりだとぼくには思えてならないからです。嘘つきが権力を長期間にわたって独占し、彼の周りに「物言わぬ鼠たち」が集結し、人民のなけなしの財産を齧りとおしていたのですが、それがいくつかの理由が重なって「嘘つき総理」が政権を放り出して逃亡を図ろうとしたことで、この社会のとんでもない「負債」「惨状」が発覚したのです。この意味では、彼にもいささかの功績があったけれども、その数百倍の罪状は免責されない。日米両国の政治的状況は、けっしてこの両国だけでは終わらない事態が各地域で進行している証拠でもあると考えれば、事態の推移を看過してはならないと思う。

 日暮れて途遠し、といわれてきました。民主主義という道(未知)にふさわしい表現ではないか。The sun goes down, but the road is still far away. ぼくたちの前にもいくつもの道があるように見えますが、できるなら、ぼくは一番遠いと思われる道、あるいはきれいに舗装などされていない、茨の道を選びたい。というより、道なき道を手探りで歩きたいのです。徒労かもしれないが、「徒労」だけは確実にぼくのものになるからです。その方が、途中の景色をハッキリと自分の目で確かめることができるし、歩いた後が道になるという経験が得られると考えるからです。少なくとも、ぼくの歩いた後に、ぼくだけしか歩かなかった道(に似たもの)が残るだろう。誰に知られなくとも言い、でもそれが思わぬところで、道の人が歩いた跡に出会うこともあるのだ。

● (「史記‐伍子胥伝」の「吾日暮塗遠、吾故倒行而逆二施之一」による。日は暮れたのに、前途の道のりはまだまだ長いの意から) 年をとったのに目的はまだなかなか達せられないこと、また、期限は迫っているのに物事がまだまだできあがっていないことのたとえ。精選版 日本国語大辞典の解説)(註 この言葉の真意かと思うところをつかむのは、ぼくには容易ではありませんでした。また考え直します)

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 the consequences of this desecration are only…

The Post’s View Opinion

Trump must be punished for what he did this week — and checked from doing worse Opinion by Editorial Board Jan. 9, 2021 at 4:56 a.m. GMT+9

IT HAS been a handful of days since a violent mob stormed the Capitol on President Trump’s encouragement, and the consequences of this desecration are only beginning to emerge. The nation’s allies are distraught. Its enemies are cheering. Americans are shaken. And by all accounts, the president’s instability remains a threat to the security of the government and, indeed, to all citizens.

For the next two weeks, Washington has one overriding task: Making the transition to the inauguration of President-elect Joe Biden with as little further damage as possible. Mr. Trump must be held accountable for his inexcusable incitement, and prevented from further reckless ventures at home or abroad. The powers of the presidency are wide; unchecked, Mr. Trump could prompt more unrest, a war, a domestic crackdown or who knows what else.(https://www.washingtonpost.com/opinions/pence-must-protect-the-country-from-trump-between-now-and-jan-20/2021/01/08/18c76318-51de-11eb-83e3-322644d82356_story.html

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 今回の「暴動」で五人が亡くなったという。このようにして、亡くならなくてもいい命が、あっという間に失われてしまう。他国の問題だから、余計な詮索やお節介はしない方がいいに決まっているが、この真実の「小心者」は、昇りつめた頂上から落ちることが、いろいろな理由で怖かったから、その山頂の指定席にしがみつくために、数多の「支持者」を煽動し、唆し、挙句の果てには暴動を扇動までした。「支持者」はまた、それぞれが自らの存在をかけるだけの理由をみいだして、この「小心者」を取り巻いた。彼らは双方ともに、自らの、あるいはその力の威力に「幻想」を膨らませたのだ。「どんなことでもできる」と。それが不可能であると知らされると、狂乱するほかに手段は残されていなかった。この先、事態がどのように収束に向かうのか、ぼくにはわからないが、少なくとも「大統領罷免」が求められるし、それが不可能なら、「自ら辞任」する道を選ばされるだろう。

 議事堂襲撃が「鎮圧」されてから、「小心者」は事の重大さと、自らがなした「犯罪」に恐怖を感じている。彼には「アメリカ第一」という大言壮語は吐くことはできても、それを実現しようという政治手使命感などまったくなかった。ひたすら、「小心を偉大に」というささやかな、しかし現実の政治状況にはもっともふさわしくない「野心」を持っていただけだった。「Let’s make my heart great. Make the coward greater.」と。こんな政治信条を堂々と掲げて立ち上がった人物を「大統領」に仕立て上げた、選挙民の責任もまた、問われるのだ。このままで彼が「いい子」を決め込んで、何もなかったことにはできない。そうしたら、「支持者」はけっして黙ってはいないし、刺々しい牙は、まちがいなく「小心者」に向けられるから。それを悟るだけの嗅覚はあったのだ。

 「前門の虎、後門の狼」(Tiger at the front gate, wolf at the rear gate)という、いやな諺がある。あるいは、「前門に虎を防ぎ後門に狼を進む」ともいうらしい。「一難去って、また一難」とでもいおうか。彼は根っから「虎に威を借るキツネ」(A fox that borrows the power of a tiger)でしかなかった。虎の威とは、ここでは「大統領の椅子」にほかならなかったし、それをまんまと奪取できたから、自身が舞い上がってしまい、自らの間違いをますます大きくしてしまった。「小心」はどこまでいっても「小心」のままです。それを「大胆」と錯覚したところに、彼の過ちがあり、支持者の勘ちがいがあり、アメリカという国にも大きな間違いが生まれてしまった。この過誤の代償は、みんなで払わなければなるまし。「小心者」が小心でなくなる、たった一つの道は「小心者」であることを「自他に隠さない」ことだった。

 アメリカの一属国であるこの島にも似たような「小心者(屑)」が国権を占拠し、島の制度やシステムを破壊し、人心を踏みにじってきた。それを許してきたぼくたちの罪は、覆い隠すことはできない。そのツケをぼくたちはいやでも払わなければならない。けっして「対岸の火事」(Fire on the opposite bank)だと暢気に構えているわけにはいかない。「僚友」だか「両雄」だか、どちらも刑事罰を受けるのだろうと、ぼくは感じ取っている。(どうでもいいことだけど)(右写真は「大きな小心者」と「小さな小心者」、肝胆相照らしたんだね)

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愚かにして慎めるは、得の本なり

 兼好さんの時代(1283?-1352?)、鎌倉末期から南北朝にかけて、いったいどのような社会相だったか、今となっては皆目わからないというべきでしょう。源平の興亡から武家が起こり、やがて時代は大きく変転する、そのような時代相のうちに兼好さんは生きた。上位の貴族ではなかったが、それも「身分制」社会の貴族階級の末端に位置して、青年の志を持って、人並みに出世を願ったでしょう。思いがならず、儚くも遁世の身となったが、けっして世俗への帰属意識までは喪失しようとはしなかった。つまりは根っからの「世捨て人」にはなれなかった。かれの後半生の履歴がよくわからないのも、あるいは兼好自身の生き方の流儀によるものだったかもしれない。およそ三十歳で出家し、五十歳ころに『徒然草』を執筆、七十年を生きて、人生を終えた、まあ一口に言ってしまえば、彼はそんな生涯に身を宿したのでした。

 「徒然草」の章段の多くに、これは遁世者流のものの見方、観察などとはとても見えないものが含まれているのは、兼好という人の実人生が活写された部分であるともいえるのです。ぼくは、素人なりに、その特権を使って、まことに勝手に読んでいますし、それで何自由もないのです。研究者に列しようとするなら、仕方なく殺さなければならない「奔放さ」や「牽強付会」も、素人だからできるというものです。専門家は、そこへ行くと、窮屈至極であるのは致し方ないし、それはぼくの性に合わないというばかりです。

 というわけで、今回は、プロとアマ、「素人と玄人」に関する兼好さんの意見を聞くことにします。

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 「万(よろづ)の道の人、たとひ不堪(ふかん)なりと雖も、堪能(かんのう)の非家(ひか)の人に並ぶ時、必ず勝る事は、弛み無く慎みて軽々(かろがろ)しくせぬと、偏へに自由なるとの等しからぬなり。

 芸能・所作のみにあらず。大方の振る舞、心遣ひも、愚かにして慎めるは、得の本なり。巧みにして恣なるは、失の本なり」(「徒然草」第百八十七段)(既出)

””

● 堪能=(「 仏語。よくたえ忍ぶ能力。 深くその道に通じていること。また、そのような人や、そのさま。たんのう。」デジタル大辞泉)

 「どんな分野でも、かりに(技能が)十分ではなかったとしても、堪能(かんのう)の人に素人は勝てない、さすがに玄人だけの事はあるということになる。「必ず勝る事は、弛み無く慎みて軽々しくせぬ」、どんなときにも緊張感を失わないし、物事に軽はずみな態度を取らないのである。勝手気ままな人間とはそこが違う。どんなことでも振舞いやこころ遣いも、愚直で慎重なのだ。これが得る所のもととなる。上手だけれど、勝手気ままなのは「失う」もとになる。それが成功と失敗の分かれ目であるというのです。

 アマチュアとプロフェッショナル、これに関しては、いくつものことが指摘されそうです。素人の意見として、今日は、いよいよ「プロとアマの距離」は、限りなく近くなっていると感じさせられることがたくさんあります。スポーツでも芸術でも、どれがプロでどちらがアマか、見た目にはよくわからない場合が少なくないと、ぼくは感じています。もちろん、まったく比較を絶して、あからさまに巧拙が現れ出る分野もたくさんあります。だから、兼好さんの指摘はその通りと、先ずは認めたうえで、これでも玄人なのか、これで飯を食っているのか、と目も耳も疑いたくなるケースがやたらに目につくのです。

 これを言うと、差しさわりがありますが、遠慮なく言ってしまうと、政治家、官僚、教師などなど、枚挙に遑(いとま)がありません。余談ですが、まだ若いころ、ぼくは頼まれて雑誌に原稿を書いたことがありました。その際、編集者が勝手に、ぼくの肩書を「評論家」なんかにしていたのを友人が見咎めて、「それで生活している(食っている)」ならいいけど、「評論家は可笑しいぜ」と注意してくれました。その通りで、以後、そんな肩書を使わなくなりましたし、肩書が必要な仕事はしなくなりました。終生、人生の「素人」を以て任じていこうと決意したのです。

 玄人とかプロというのは、それで「飯を食う」という人を指して言うのでしょう。飯を食う、生活の糧を得るには「弛み無く慎みて軽々しくせぬ」ことが肝要というより、必須の条件となるでしょうし、「大方の振る舞、心遣ひも、愚かにして慎めるは、得の本なり」という兼好さんの指摘通りです。「得の本」とは「生活の糧をえる本」であるとも言えます。奥義を窮めるとも、いっていいでしょう。

 ぼくは幼児の頃から、職人さんといわれる人の仕事ぶりを見るのが、ことのほか好きでした。まずは「大工」さん。一日見ていて飽きませんでした。特に宮大工の仕事には、小さいながらにほとほと感心・感嘆したのを、今でも懐かしく思い出しています。たくさんの職人が、それぞれの作業の仕分けをうまくはかり、つまり段取りを按配し、次第に一軒の家や寺が姿をあらわす、それを眺めていて、「こんな仕事がしたいなあ」とつくづく考えたことでした。あるいは近所の「自転車修理屋」さんに、自分の自転車を持ち込んでは、それを手際よく修理する「親父さん」に敬意を抱いたものでした。少し大きく成ってからは、魚をさばく職人さんにも感心したことがあります。

 というように、あらゆる「職人」の仕事ぶりに感動すらしたのは、「とてもじゃないけど、逆立ちしたって、俺にはできない」という呆れかえるほかない技への賞賛だったと心づいたのです。大学生になってからは、落語や音楽に興味をいだき、わざわざ、今でいうところのライブを楽しみにでかけました。それぞれの「芸」「芸術」が高ければ、心から満足したし、えっ、こんなんで金取るの、というようなものに出会うと、大声で「金返せ」と叫びたくなることもありました。素人と玄人、この差がつとになくなって来たのが、現代じゃないかと、いくつかの職業を見ていて痛感するのです。

 書きづらいのですが、教職・教師はどうですか。プロとアマなどと分けること自体に意味がないのかもしれない。しばしば「負うた子に教えられ」というでしょう。生力学ぶとか、教えられるなどと教師の多くが言いますね。ホントかな。いったし、それはどんな意味で使われるか。大体はわかりますが、なかなか簡単ではないようにも、ぼくには思えます。

 それをこんな風に使っている人がおられました「背負った子どもに浅瀬を教えてもらいながら川を渡る。自分より年少の未熟な者に教えられることのたとえ。[使用例] 子供の中にも、自分を甘やかしているのに気のつかない子供は多くある。最近著しいその実例を見せつけられて、ああ私自身もそれであったと、はじめて思うことが出来た。負うた子供に浅瀬を教えられたのである[羽仁もと子*教育三十年|1950][解説] 教える者と教わる者の立場が逆転することを言ったもので、教訓臭がなく、穏やかでほほえましい表現になっています。(ことわざを知る辞典の解説)

 羽仁さんの言わんとするところを「わかりました」と頷くのはいいんですが、そんなに簡単にわかってはいけないようにも思えてきます。このことを別の角度から考えてみます。「他山の石」とでもいったらどうでしょう。(「他山の石を以て玉を攻むべし」「詩経」小雅・鶴鳴から)

● 他山の石=よその山から出た、つまらない石。転じて、自分の修養の助けとなる他人の誤った言行。(デジタル大辞泉)

 教職という例を持ち出したのは、あるいはまちいだったかもしれません。教師のプロ、プロの教師といっても、ぼくには想像もつかないのですから。反対に、教師は素人でじゅうぶん、変にプロ意識を持たれると、迷惑する子どもが続出するかもしれないからです。素人に徹する、その点においてプロであれ、ということはできるかもしれませんね。人間的な要素を失わない教師、それがプロじゃないかといいたいんですね。教師らしい教師、教職に徹する教師、それはある意味では素人(人間味)から、遠く離れていく状態を指しているようにも思われるのです。

 「万の道の人」といいますが、相手が「人間(精神)」であるのと「物体」であるのとでは、大きな差がありますから、単純に「素人と玄人」などとは言えないということになりそうです。

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寒暖計と橙と地球儀と、これ我が病室の蓬莱なり

【越山若水】あら玉の年のはじめの七くさを籠(こ)に植ゑて来(こ)し病めるわがため―明治期の文学者、正岡子規が結核を患っていた晩年の歌だ。新年に七草の籠をもらった喜びと感謝の意を詠んでいる▼子規の随筆集「墨汁一滴」に収められる。新聞の「日本」に明治34(1901)年に連載され、この歌を含む随筆は1月17日付だった。病床の子規は七草籠の様子を細やかに描写することで感謝の気持ちを表したのだろう▼「病牀六尺」でも七草籠に触れており、「かかる気の利いた贈物(おくりもの)は江戸では昔からあつたものと見える」と記す。

 あすは七草。福井市出身の民俗学者で成城大名誉教授の田中宣一さんは、無病長寿を願ってあつものにした7種の菜を食べるのは古く中国にあって、日本では平安時代の初期のころからだという▼七草の種目は地域や時代で異なってはいるが、「春の七草」(有岡利幸著、法政大学出版局)によれば、江戸時代の「年中故事要言」が名前「せり なずな ごぎょう はこべら ほとけのざ すずな すずしろ」を羅列し最後に「これぞななくさ」と結び和歌風に整えた。このため覚えやすく順番も変更なく現代まで引き継がれることになったともいう▼七草は病身の子規に贈られたことでも分かるように栄養分が豊富で、七草がゆは栄養補給、薬膳食でもあろう。七草がゆを食して、コロナ禍の邪気も払いたい。(fukuishinbun on line・2021年1月6日 午前7時20分)

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 病める枕辺に巻紙状袋など入れたる箱あり、その上に寒暖計を置けり。その寒暖計に小き輪飾をくくりつけたるは病中いささか新年をことほぐの心ながら歯朶の枝の左右にひろごりたるさまもいとめでたし。その下に橙(だいだい)を置き橙に並びてそれと同じ大きさほどの地球儀を据すゑたり。この地球儀は二十世紀の年玉なりとて鼠骨の贈りくれたるなり。直径三寸の地球をつくづくと見てあればいささかながら日本の国も特別に赤くそめられてあり。台湾の下には新日本と記したり。朝鮮満洲吉林黒竜江などは紫色の内にあれど北京とも天津とも書きたる処なきは余りに心細き思ひせらる。二十世紀末の地球儀はこの赤き色と紫色との如何に変りてあらんか、そは二十世紀初はじめの地球儀の知る所に非ず。とにかくに状袋箱の上に並べられたる。

枕べの寒さ計に新年の年ほぎ縄を掛けてほぐかも (一月六日)

 一月七日の会に麓のもて来しつとこそいとやさしく興あるものなれ。長き手つけたる竹の籠の小く浅きに木の葉にやあらん敷きなして土を盛り七草をいささかばかりづつぞ植ゑたる。一草ごとに三、四寸ばかりの札を立て添へたり。正面に亀野座といふ札あるは菫の如き草なり。こは仏の座とあるべきを縁喜物なれば仏の字を忌みたる植木師のわざなるべし。その左に五行とあるは厚き細長き葉のやや白みを帯びたる、こは春になれば黄なる花の咲く草なり、これら皆寸にも足らず。その後に植ゑたるには田平子の札あり。はこべらの事か。真後に芹と薺とあり。薺は二寸ばかりも伸びてはや蕾のふふみたるもゆかし。右側に植ゑて鈴菜とあるは丈三寸ばかり小松菜のたぐひならん。真中に鈴白の札立てたるは葉五、六寸ばかりの赤蕪らにて紅の根を半ば土の上にあらはしたるさま殊にきはだちて目もさめなん心地する。『源語』『枕草子』などにもあるべき趣なりかし。

 あら玉の年のはじめの七くさを籠に植ゑて来し病めるわがため(一月十七日)(「墨汁一滴」岩波文庫版)

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 七草がゆを食べなくなって、どれくらいたつだろう。小学生のころ、よく家の傍の原っぱなどで「春の七草」を摘む習慣があった。なんでもない生活の区切りのようないわれや慣習には、それなりにはっきりとした理由や背景があったのです。毎日、毎年の生活から消えていった「慣習」「習慣」「しきたり」にはどんなものがあったか。それを懐かしむ気持ちはまったくないが、日常がすっかり貧弱になってしまったという気分は残っている。いずれ封建遺制だといわれてしまえば、過去をすべて否定、あるいは放擲してしまわなければ、過去の「遺物」退治は止むことがないだろう。過去の否定は、自分の身のいくばくかの否定でもある。かくして、新しい習慣や慣習は、たちまちのうちに古くなり、埋め合わせの必要も感じなくなり、いつしか時代の波にさらわれて、世塵の藻屑と消えてゆく定めである。

(なずな)

 自分が今ある自分である、その相当な部分は「過去の自分」の重量によるのです。これを歴史というのでしょうが、この島にも遥かにかすむが如き、遠い過去から連綿として(と、今では思われますが、歴史の断絶だの、時代錯誤などどいわれて、過去とは異なった地平に見えることも時にはある)現在に至った時のつながりがあるのです。今ある者の姿には、それがどんなに些細なことであって、きっと理由は自浄がある筈で、それを訊ねるのが歴史(過去)の研究でしょう。その昔は民俗学とよばれたり、地方研究などと称されもしましたが、それらはすべて、今日では文化人類学とまとめられています。

(ごぎょう)

●七草がゆ=七種とも書く。春の七草と秋の七草とがある。春の七草は「芹 (セリ ) ,薺 (ナズナ ) ,御形 (おぎょう,ごぎょう。ハハコグサ ) ,はこべら (ハコベ ) ,仏座 (ほとけのざ。現在のコオニタビラコ ) ,菘 (すずな。カブ ) ,蘿葡 (すずしろ。ダイコン ) ,これぞ七草」と称し,この7種を早春 (正月7日) に摘んで刻み,餅とともにかゆ (七草粥) に炊いて食べると万病を防ぐといわれた。延喜年間 (10世紀頃) から朝廷で儀式化し,それが民間でも今日まで伝えられてきた。秋の七草は『万葉集』の山上憶良の歌(「秋の野に咲きたる花を指 (および) 折り,かき数ふれば七種 (ななくさ) の花」「萩 (ハギ ) の花,尾花 (ススキ ) ,葛花 (くずばな。クズ ) ,瞿麦 (なでしこ。カワラナデシコ ) の花,姫部志 (オミナエシ ) また藤袴 (フジバカマ ) ,朝がお (あさがお) の花 (現在のキキョウと考えられる) 」により伝承されている。古来初秋の草花として数え上げられたものということができる。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

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 よく見れば薺花咲く垣根かな 芭蕉     

 君知るや三味線草は薺なり 正岡子規

 「よく見れば」の句は、ぼくがもっとも愛でている芭蕉句です。よく見なければ、それを見分けることが難しいという、ぺんぺん草。この薺(なずな)は、一名ぺんぺん草、あるいは三味線草などともいう。「雑草」などと総称して、除草剤で一網打尽に仕留めようと、まるで親の仇のように嫌われている者も「七草」の中にはあります。「万病」に効くというのですから、仇や疎かに「雑草」などということは禁止しなければならないでしょう。「名のない草花」などという、いい加減な括り方のも、自分が知らないだけなんですね。名もないというものは、どこにもないんです。必ずなずけられています。命名するということは、そのことによって「世界」が広がることですから、草花に限らず、ぼくたちは、あらゆるものの名を覚えることで「身の周り」を拡張するんでしょう。特に「人名」などはその典型です。

 今日は久しぶりに「七草がゆ」などをと願っていたのですが、雑文の上だけに終わりました。米国の暴動の衝撃は、春の七草を賞味する機会を奪いました。暴力を教唆し、選挙の結果を覆そうとしたのが「現職大統領」だったという点では、極めて異常な出来事だった。当然のように「強制辞職=罷免」などという動きが出てきました。これで何事もなかったとするなら、その後遺症は測りがたいものになるはずです。(この島の元総理問題)に関しても同じことが言えます。犯罪を不問に付すならば、その反動はとてつもなく大きいものとなるでしょう。(いずれ彼のなした「政治)についても検証する必要があります、アベノミクスのでたらめのかぎりは、日銀を完膚なきまでに解体した、その罪は「万死に値する」ものです。無責任が島の財政金融を破壊したのですから、たいへんな事態でしたし、その落とし前は、遠からずつけなければならないでしょう。中央銀行が民間企業の主要な株主になるという破天荒なことが、白昼看過されてきたんですね。

 というわけで、今回は、七草に始まり、トランプとトランペットの二重奏が、如何にえげつない腐敗と堕落をもたらしたかという、後味の悪い駄文の成り行きとなりました。かくして、一月七日は暮れてゆきます。(右上写真 こういう亜流が跳梁跋扈しているのが「いま」です。なかなかの「役者」「政治家」ですな)

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