しら梅に明る夜ばかりとなりにけり

【余録】「寒(かん)の内に雪がたくさん降ると、その年は豊年」「寒に霜の多い年は夏日照りがある」――昔のことわざだ。寒の内、寒中は小寒の初めから大寒の終わりまでの約30日間、1年で最も寒いとされる時季である▲ことわざによれば、昔の人は寒の内の天気にその1年の気候が表れると考えていたらしい。この考え方にもとづいて、東北地方では寒中の天候の推移から、1年の気候の変遷を読み取る「寒試し」と呼ばれる天気予測も行われた▲夏の冷害が飢饉(ききん)に直結した昔、冬ごもりの暮らしの中でその年の天候を占う人々の気持ちの切実さには胸を打たれる。そして今、寒中とも重なり合う約1カ月間のステイホームの暮らしが今年1年間を左右するコロナ禍の冬となった▲おりしも今冬3波目の強烈な寒波に襲われた「寒中」の列島である。宮城県の古川など全国20地点で観測史上1位の冷え込みを記録し、日本海側の降雪も続いて富山市では35年ぶりの大雪となった。雪にはきょうも警戒が必要という▲寒の内は春からの1年の仕込みの期間という考え方は、人の成長や進境についてもあった。武道や芸事に寒稽古(かんげいこ)、寒(かん)復習(ざらい)があるのも、寒中の試練こそが春の飛躍をもたらすという発想ゆえだろう。今なら受験生の心境に近いだろう▲人のあらゆる営みをのみ込むコロナ禍が、感染拡大の続く各地で人々に強いる冬ごもりである。やってくる春に私たちは新たな暮らしのサイクルを起動できるのか。その答えが仕込まれる寒中の試練の日々だ。(毎日新聞2021年1月10日 東京朝刊)

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 (旧暦と新暦などについて、いずれ愚考の幾分かを記すつもりです。この島社会で新暦(太陽暦)が採用されたのは明治(太陰暦・旧暦の)5年12月3日で、その日が新暦では明治6年1月1日とされました。二つの暦の間には時間差が生じており、それが徐々に大きくなるという不都合があるために、いくつかの工夫を凝らしてきました。(月が地球を一巡するのは29.53日、12か月で354日、地球が太陽の周りを回るのに365日を要する。「旧暦」は「新暦」より11日短くなる計算です)まあ、暦におけるコペルニクス的転換(欧化政策)を認めに結果、旧慣・旧習が時とともに季節外れになるという(悲喜交々の)事態が生じてきたのです。例えば、本年一月二十日は「大寒」ですが、旧暦では十二月八日でした。その後に次ぐ「立春」も新暦では二月三(四)日ですが、旧暦では十二月二十二日となる。暮れのうちに「立春」というのも奇妙ですが、これは潤月を加えて一年を十三か月として調節などをしたのです。細かいところはさて置いて、旧歷と新暦の時間差を考慮しないと、明治(新暦採用)以前の文芸作品・食に伴う味覚や年間行事(には限りません)などの季節感を味わうことは難しくなる。「冬のうちに春は来にけり」その一例になるかどうか、いくつかの俳句を例題にして考えてみるのも一興ではないでしょうか。

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 本日は、一月(睦月)十七日、ことのほか寒々しい年明けのつづきのような寒気が漂っています。まるで春の柔らかな日差しを思わせる好天気もありますが、気鬱のせいか、それさえもまた、歓迎したくない寒さの前触れとも取れなくはないのです。新春は五日が「小寒」でした。「寒の入り」ともいいます。やがて二十日には「大寒」となり、如月の四日が立春、つまりは「寒の開け」です。この一か月ほどが「寒の内」で、年のうちでも最も寒い季節というのが相場でした。旧暦では「小寒」は十一月二十二日、「大寒」は十二月八日となります。「立春」は十二月二十三日。つまり、文字通り、「立春」が来て、ようやく春を迎えるという感覚でした。今とはずいぶんと季節感が異なってしまったのも致し方ないとも言えますが、先人の俳句などを見ると、この感覚の溝はどうしようもないくらいに大きくなっていることが分かります。(どうでもいいことですが、ぼくはかなり昔から、旧暦愛好者でした。それとは無関係に「旧漢字」の利用者でもありました。理由は単純、古い文書や文章を読む機会が多かったからです。しかし、その煩雑・煩瑣なことは言を俟ちませんでした)

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 しら梅に明る夜ばかりとなりにけり   与謝蕪村

 《 天明三年(1783)十二月二十五日未明、蕪村臨終吟三句のうち最後の作。枕頭で門人の松村月渓が書きとめた。享年六十八歳。毎年梅の季節になると、新聞のコラムが有名な句として紹介するが、そんなに有名なのだろうか。しかも不思議なのは、句の解釈を試みるコラム子が皆無に近いことだ。「有名」だから「自明」という論法である。だが、本当はこの句は難しいと思う。単純に字面を追えば「今日よりは白梅に明ける早春の日々となった」(暉峻康隆・岩波日本古典文學大系)と取れるが、安直に過ぎる。いかに芸達者な蕪村とはいえ、死に瀕した瀬戸際で、そんなに呑気なことを思うはずはない。暉峻解釈は「ばかり」を誤読している。「ばかり」を「……だけ」ないしは「……のみ」と読むからであって、この場合は「明る(夜)ばかり」と「夜」を抜く気分で読むべきだろう。すなわち「間もなく白梅の美しい夜明けなのに……」という口惜しい感慨こそが、句の命なのだ。事実、月渓は後に追悼句の前書に「白梅の一章を吟じ終へて、両眼を閉、今ぞ世を辞すべき時なり夜はまだし深きや」と記している。月渓のその追悼句。「明六つと吼えて氷るや鐘の声」。悲嘆かぎりなし。》(清水哲男)

 この解釈については多言を要しないと思います。身罷る直前の「白梅に託した命のかぎり」、そこに蕪村の無念を読み取る業は、そばにいた人にしかつかみ得ないものだった。ぼくは蕪村のファンでもありましたから、たくさんの作を知っていますが、はたして月渓のような理解というか、核心をつかまえていたかどうか、まことに怪しいものです。

  

一輪を五つにわけて梅ちりぬ   鶯の声遠き日も暮にけり   鶯や茨くぐりて高う飛ぶ  
水にちりて花なくなりぬ岸の梅   うぐひすの啼やちいさき口明て

  思い付きで選んだ蕪村の五句。「しら梅に…」とどこがどう違うのか。句の余韻が伝わるまで読むこと、それにつきますね。くっきりと記された印影が、これらの五句ではすっかり消えているというふうにも、読めば読めますね。ここまでくると、わが想像力の貧困が恨めしくなるのですが、だからこそ、松村月渓のような人がいるという有難さをしみじみと感じるのです

 「明六つと吼えて氷るや鐘の声」。悲嘆かぎりなし。(「明六つ」は今の午前六時か。)

●与謝蕪村=江戸中期の俳人,文人,画家。摂津国の生れ。本姓は谷口,のち与謝と改める。俳号,宰鳥,落日庵,夜半亭など,画号,子漢,春星,謝寅など。江戸で早野巴人(夜半亭宋阿)に俳諧(はいかい)を学ぶ一方,文人画に精進し,巴人死後,北関東,奥州方面に10余年の流寓の生活を送った。1751年に上洛したころには,俳諧より画業に心を寄せており,以後晩年にいたるまで絵画修行に努めた。その後一時丹後与謝に住み,画業に専念。季節感の把握にすぐれた南画や俳画,気迫に富んだ水墨画を描き,池大雅とともに日本文人画の大成者とされる。大雅との合作《十便十宜》ほか多数の作品がある。俳諧には1766年ころから再び情熱を傾け,太祇,召波らと句会を続け,1770年2世夜半亭として巴人を継承して宗匠の列に加わる。芭蕉を崇敬し,蕉風の復興に努め,天明俳諧を確立。門弟几董(きとう)の編になる《あけ烏》は蕉風復興の宣言であったが,以後蕪村とその門は活躍を続け,〈蕪村七部集〉に結実した。蕪村にはまた《春風馬堤曲》《澱河歌》などのすぐれた自由詩的作品もあり,《夜半楽》に収める。他に句日記《新花摘》など。(百科事典マイペディアの解説)(註 この「解説」には触れられていませんが、蕪村の母堂は京都丹波の国・与謝郡の出と言われています)

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 太陰暦も太陽暦も、人間が考案した「自然との交際法」でした。今でいえば、明治の砌(みぎり)、世界標準(global standard)に迫られて暦法を変更したのも「文明開化」という外圧をしのぐ便法だったとも言えます。だが、カレンダー(表紙)は変えられたが、それまでのカレンダーをなり立たせていた「文化(農事)」(中味)は置き去りにされました。その結果、暦と季節との間に大きな齟齬が生じて今に至るというわけです。そうなると、どういう事態になるのか。「春は名のみの 風の寒さや」と、カレンダーを詰(なじ)るのか、実際の季節を恨めしく思うのか。どちらにしても、不定愁訴が募るばかりという状況に見舞われるのでしょう。見ると聞く(読む)とは大違いと、何かに文句を言いたくなるのですね。

 加えて、近年は「地球温暖化」の悪影響とされている高温・暴風・豪雨化の波状攻撃が例年この島を急襲します。年々、この攻撃は激化の一途をたどっている。迎える陣地は手もなく降参ばかりしています。これまでは。この島の気候は「温帯」などと言われていたが、今や「亜熱帯」か、盛夏には「熱帯」と見まがう異常気象がつづいています。島の北方の地にもバナナや椰子の実が育つという。柳田国男さんや島崎藤村さんは、この事態に遭遇して、はていかなる「椰子の実」を作ろうとするだろうか。これもまた、この島だけの問題でもなく、地球規模の眼前の難題であるというほかないでしょう。さらに加えて、COVID-19の異様な猛威に逼塞を余儀なくされている「地球市民」です。

 このどさくさにまぎれて、あちこちであらぬ画策を弄している輩が後を断ちません。暦通りの季節から、さらに外れに外れて、ぼくたちはどこに行こうとしているのか。ガソリン車を電気車に変えても、もう手には負えないところにまで来てしまったようです。地球の南北が反転する・した、のでしょうか。

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河豚は食いたし命は惜しし

【河北春秋】若い時は質より量が優先だ。日本料理の辻義一さんが「味をそれほど楽しまんのですわ」と語ったのを、作家の山田和さんが著書に書きとめている。「ほんまに味を楽しむとなると、やっぱり50を過ぎてからですわな」▼味覚が鋭敏な若い頃よりも料理を楽しめるらしい。年齢的にはこの人たちは申し分がない。心行くまで料理を楽しみながら、政局の話でさぞ盛り上がったろう。自民党の石破茂元幹事長らが総勢9人で、ふぐ料理店で飲み会を開いたという▼石破さんは63歳、同席した元自民党副総裁の山崎拓さんは84歳。新型コロナウイルス感染症にもっと注意深く、いや、戦々恐々としていてしかるべき年齢だ。実に勇気がある。しかも、国民生活のさまざまな面で自粛が必要な中で▼「ふぐ食う無分別、ふぐ食わぬ無分別」という慣用句がある。毒を恐れてふぐを食べないのも、むやみに食べるのも、どちらも思慮のない行為という意味。石破さんは「断るのは礼を失すると思った」と釈明しているが、無分別そのもの▼冒頭の辻さんは「味覚神経は20代前半がピークで、それからだんだん落ちていく」と語っている。首相のステーキ会食、そして、ふぐ会食。政治家が年齢を重ねると、だんだんと落ちていくのは自覚と常識なのかもしれない。(河北新報・2021・1・15)

 石破、お前もか、と言いたいのではありません。政治家になろうというほどの人間はかなりの厚かましさと極めて高い自己評価(自負心)と分厚い面の皮を兼備されています。庶民にはあれこれ言って「禁止」しても、俺たちにはそれは無関係。その証拠に、汚職をしても捕まらないし、悪政三昧、したい放題をしても落選もしないんですから、選挙民を含めて政治に関心が旺盛な人間たちの魂胆や根性はぼくには理解不能です。「断るのは礼を失すると思った」と、先輩には礼を尽くす。だが、国民には無礼を貫く。石破氏はさかんに「自らの不明を恥じる」と弁解に努めているが。この弁解というのが曲者、本当に心底間違っていたと自覚するなら、弁解・弁明(いいわけ)などは一切しない、清々しいほどの潔さがあるもの。悪あがきの格好の例として「前総理」がいる。全身これ、言い訳弁解言い逃れ、つまりウソの塊です。石破君も前総理並みということか。嘘の皮というのは、政治家の面の皮のことです。

 「フグ(河豚)」と聞くと、第一に思い出すのは、八代目坂東三津五郎さんの事故(昭和五十年一月)でした。詳細は下記の引用に譲りますが、いまだに強烈な印象を持っています。当時ぼくは、すでに東京にいましたが、八世が京都の南座で公演していた折、祇園だったかの料亭で好物のフグを食して急死したという事件がありました。救急車で搬送された病院がおふくろの家の近くだったせいもあって、事件の顛末を新聞でよく読んでいた。同時に、「食通」というものの漂わせる、どうにも止まらない冒険心というか、やせ我慢みたいなものに恐怖を覚えたのかもしれなかった。死ぬかもしれないが、それを食いたいというのは「食い意地」なんじゃないですか。「痺れるところ」がいいとか、いってさ。(政治家は、先ず河豚などには中(あた)らないと思うね。河豚よりも強い毒を持っているからさ。かえって、河豚がやられちゃうよ)

 「河豚は食いたし、命は惜しし」という俗言があります。「美味な河豚は食いたいが、毒にあたるのが恐ろしい。転じて、快楽を得たいのは山々だが、後のたたりを思うと手が出ない意。※洒落本・仕懸文庫(1791)跋「不如(しかず)美味を知り毒をしって恐慎(をそれつつしまん)には河豚(フグ)はくひたし命(イノチ)は惜(ヲシ)しとは、豈此境を悟したる、君子の言といはんや」(精選版日本国語大辞典の解説)これを地で行くのが「通」というのかもしれません。「通」になるのも、命がけですね。

 「役者はどの店に行けば、どんな美味いものがあるかということも知っていなくちゃいけない」と生前、いつも後輩に語っていた。 が、その食通ぶりが仇となり、京都の割烹でトラフグの肝を四人分も食べて、フグ中毒で急死した。享年68歳。 このフグ中毒死事件で、業務上過失致死罪に問われた京都市の割烹「政」の調理師は、一審で禁固八月、執行猶予二年。 ’79大阪高裁の控訴審では禁固四月、執行猶予二年の判決を受けた。 瓦谷末雄裁判長は減刑の理由について、毒性が強いトラフグの肝を禁止されているにも関わらず客に出した責任は重いが、一審判決は被害者の名声ゆえに厳しすぎるとし、肝は美味で被害者も好んで食べたことや、公演後の疲労による身体的不調も考えられることも考慮すべき点もあると述べている。(http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/H/bandou_m.html)

 ぼくも食中毒になった経験があります。小学校の頃、夏だったかに、河豚とは比べ物にならない、安価な「鯖寿司」を食べて、体中に蕁麻疹が出て往生したことでした。それ以外にも何回かありますが、「✖✖は食いたし」というものではなく、至って平凡な「中毒」でした。河豚も何度か食したことがありますが、「通」じゃない仕合わせで、これより安くて旨いものがいくらもある、という程度の食通以下の嗜みで終わっています。

 「政治家が年齢を重ねると、だんだんと落ちていくのは自覚と常識なのかもしれない」とコラム氏は書く。困りましたね。悪い冗談はよしてください。ホントは先刻ご存じなんでしょうに。「自覚と常識」というのは「世間並み」のというレベルの話ですか。それなら、端からそんなものは備わっていない、というより、そんな余計なものがあれば「政治家」としては大成できないのです。それでは「年齢とともに」落ちていく(なくなる)のは、なにか。「恥も外聞も」と言いたいけど、もちろんそんな上等なものももち合わせていない。走る速さ、筋力(金力?)、ようするに「体力」でしょ、これは彼・彼女もやっぱ、人間であるという証です。それをカバーするために必要なのが「弁明力」「ごまかし術」なのですね。これを洋服で包み隠すんですよ。

 これまでの経験で、ぼくは「政治家」と称されるどんな人間にも近づいたことはない。ごくまれでしたが、永田町住まいの政治家から声をかけてきたことがあります。(一人は総理大臣までやった、悪評の男、もう一人は官房長官とか言っていました)もちろん、ぼくは無視した。付き合っても何の得るところもないと判断したからであり、それで間違ってはいなかったと考えています。その政治家の名前を挙げれば、多くの方は「えっ、あの政治家が」というかもわかりません。でも、彼・彼女等とは類を異にするんです、住んでいる場所が違う。いい悪い(上下・優劣)という話ではありません。当方にも付き合いの自由はあるわけです。

 時には、濃厚接触したこともある、なに、小さな呑み屋で同席しただけのこと。今はどこか、都内の「区長」をしているようです。市長とやらの二、三人とも知遇を得ましたが、一瞬の交差(アクロス)で終わっています。「職業政治家」は、大小上等下等を問わず、まず信用できない質の人間だという自覚がぼくにはまだ働いています。昔、余儀なく勤めていた職場にも「立派な政治家」が沢山いた。ここはどこ、と一瞬は疑うばかりでした。本来、人間というものは政治的な生き物なんですね。

 「おめえ、河豚なんぞ勝手にさばいて、中(あた)ったらどうする」「なあに、こっちの方が中ててやるよ」といって、自分で河豚を料理し、それを肴に呑んで、死んだのが、ならず者の「らくだ」。志ん生の「らくだ」を聴かれることをお勧めします。政治家と「らくだ(駱駝)」が二重写しになります。(羽織破落戸・ハオリゴロという言い方があります。羽織を着ていない単なる「ごろ」は「ゴロツキ」で、無頼漢を指す。乱暴狼藉を働き、いささかの義務も果たそうとしない、だから「ならず者」などともいわれる。そんな政治家がこの島を乗っ取ってしまったんじゃないかという、先(光)の見えない暗澹たる気になっています。「いつでも夢を」と謳ったのは誰だったか)

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医療崩壊を絶対に防ぎ、必ず事態を改善させる

 【筆洗】さだまさしさんが歌う「関白宣言」が、大ヒットしていたころ、レコード店には「亭主関白の歌をくれ」などと、曲名を勘違いしている客が来たという。「関白音頭」を求める人もいた▼「いくらなんでも音頭って」と昔、さださんがコンサート会場で語って、笑いを誘っていた。たしかに「音頭」では、別のコミカルな曲に思えておかしい。うろ覚えで使う言葉や言い間違いは、時に笑いの源でもあろう▼こちらの宣言をめぐる言い間違いはどうも笑えない。菅首相が一昨日、新型コロナウイルス感染症対策本部会合で緊急事態宣言の対象地域を言う際、「福岡」と言うべきところを「静岡」と言った▼だれにも言い間違いはある。よく間違う一人として、漢字一文字の揚げ足をとるつもりはないが、どこが新たな対象なのかは、この日の大切なポイントであった。「いくらなんでもそこを」であろう。間違いに気付いたようでもなかった。驚いた方もいるのではないだろうか。首相は本当にお疲れなのではないかと思わずにいられない▼コロナ対策については、紙を読みながらの首相の言葉が、響いてこないという声を聞く。多人数の会食へ参加してしまった問題でも発信する言葉の説得力が損なわれたようである。言葉でまたしてもの感があろう▼現在のコロナ禍の中で音頭を取るべき人の言葉の重さを考えて、やはり笑えない。(東京新聞・2021/01/15)

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 「緊急事態宣言」などではなく、「緊急事態音頭」と言い換えるべきじゃないですか。「宣言」という言葉は歴史の経緯から見れば、徒や疎かには使えない類の言葉だった。「のり‐ごと【告言・宣言・詔】おおせ。みことのり。応神紀「有司(つかさ)に令(のりごと)して」(広辞苑)主語は明らかに「畏きところ」でした。欧米に見られる「人権宣言」の類は、殆んどが「神」が宣下したのです。(宣下=(スル)天皇が宣旨(せんじ)を下すこと。また、宣旨が下ること。(コトバンク)

 「宣言」という言葉を耳にするたびに、ぼくは「宣旨」を想定するのです。たとえば「東京五輪開会宣言」(1964年10月)をしたのは、だれでした? けっして時の総理やバカ大臣ではなかった。今でも「宣言」という言葉をぼくはそのようなものとして受け取るし、むやみに「宣言」してほしくないのです。「宣戦布告」などもその類でした。「宣」とは「勅旨をのべ伝えること。また、それを書き記した文書。宣旨(せんじ)」(デジタル大辞泉)です。単なる紙切れを言うのでもなく、虚名総理が適当に述べるようなものを指してはいなかった。

 今は時代が変わったから、「宣」だの「宣言」だのも、今風に理解すればいいじゃないかという向きもあるでしょうが、どっこい、「宣言」という言葉を使う人間は、その昔の「宣言の主」になった気でいるから困るし、迷惑するんです。「宣言」を守らないやつは「罰する」という。(厚労省「感染症法改正」専門部会の原案)感染が疑わしいから「検査しろ」と言われても、言うこと聞かなければ罰金百万円だとか、感染しているからと、入院「勧告」を拒否すれば逮捕だとか、屑どもが法改正を急いでいます。そういう問題じゃないのに。「らい予防法」の顛末をまったく学んでいないですね。(「違反者」というレッテル張りの範囲を勝手に決めて、文句を言う人間は現行犯逮捕だと?お巡りさんが防護服を着てか?)今もなお「宣言」の「精神」は古びていない、古代か中世気取りという輩が政治家であるという荒唐無稽がまかり通っているのです。

*宣言・告言・詔・令(読み)のりごと=〘名〙 天皇のおおせ。みことのり。のりごち。※書紀(720)垂仁二七年八月(熱田本訓)「祠官(かんつかさ)に令(ノリコト)して兵器を卜はしむるに神の幣(まい)と為て吉し」(精選版日本国語大辞典の解説)

 だから、「緊急事態音頭」と改称したらどうですか。BGM付きで記者会見に及べば、今よりはもう少し真面目に、楽しく聞こうという気になるか。「福岡」を「静岡」と言い間違えたとか。いかにもご愛敬ですが、ぼくはもっと意地悪く受け取りたい。原稿を書いた官僚が、わざと「静岡」と書いておいた(静岡知事は生意気だから)。それを平気な顔をして読んだだけ、そのまま読んだ総理が悪いのではなく(単なる馬鹿素直だっただけ)、責めは原稿を書いた官僚にあるというのが真相(だったら面白いのにね)。こんな不真面目・不誠実に「宣言」などされてたまりますか。会見終了後に、「静岡→福岡に訂正」の文書が配布されたというから、元の原稿が(わざと)間違っていたと、ぼくは判断したいね。「下僕(げぼく)官僚」の叛乱、つまりは「下克上」の只中かもしれない、官邸では。

 序に、無駄話です。暇つぶしに、「宣」を集めると、「宣下(センゲ)宣言(センゲン)宣告(センコク)宣旨(センジ)宣誓(センセイ)宣戦(センセン)宣託(センタク)宣伝(センデン)宣撫(センブ)宣布(センプ)宣命(センミョウ)宣揚(センヨウ)」(漢字ペディア)と枚挙に遑なしです。努々(ゆめゆめ)、こんな「畏れ多い」言葉を使いたくないし、使ってほしくない、もっと言えば、耳にしたくない。殿上人が空中に彷徨っている、そんなあられもない錯覚を抱きます。

 首相会見「次の日程ある」から41分で打ち切り 本紙6回連続で指名されず

(質問を求める記者の手が上がる中、打ち切られた菅首相の記者会見。右は新型コロナウイルス感染症対策分科会の尾身茂会長)(註 この総理は一人では会見(宣言)ができないらしい。ひたすら原稿読みに徹して、読み切るのを願うばかりというテイタラクです。人民の生命尊重などは、まったく眼中にない。あるのはこのあとの「会食」のみ。右の御仁は行政官です、医療の専門家じゃありません。医系厚生官僚です)

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 新型コロナウイルスの感染拡大に歯止めがかからない中、菅義偉首相は13日、首相官邸で記者会見し、緊急事態宣言の対象地域を拡大した理由などを説明した。質問を希望する記者の手がまだあがっていたが、「次の日程がある」ことを理由に会見は41分で打ち切られた。/ 首相の会見は就任後6回目。本紙記者も挙手したが、指名されなかった。会見は首相が冒頭に発言し、幹事社が代表質問した後、各社の質疑応答になった。(東京新聞・2021年1月13日 21時02分)

 菅首相の一日 1月13日(水)【午前】7時41分、官邸。官邸の敷地内を散歩。11時、鈴木宗男日本維新の会参院議員。【午後】0時、森田健作千葉県知事と会食。1時52分、小泉進次郎環境相。6時17分、新型コロナウイルス感染症の政府対策本部。7時1分、記者会見。42分、藤井健志官房副長官補、吉田学新型コロナウイルス感染症対策推進室長、厚生労働省の樽見英樹事務次官、福島靖正医務技監。8時35分、東京・赤坂の衆院議員宿舎。(東京新聞・2021年1月13日 22時21分)

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 重要(だと思ってもいない)会見を切り上げて、総理は次の日程をこなした。それは「(下僕)官僚との会食」だった。国民に対する誠意が微塵もない日々を続けているのですね、総理は。ぼくは、東京新聞記者氏にひとこと言いたい。「6回も当てられなかった」というのは、確かに「6回挙手した」という証拠ですが、それを読まされる読者は「偉いね」「真面目ね」「もう少しの辛抱だ」というのかどうか。挙手しても指名されなかったのは、「御社は、東京五輪のスポンサーになっていないから」、総理の開いた「パンケーキ会食」に行かなかったからであって、はっきりした理由はあるんですよ。だから「そんなことで差別するのか」と開き直って、机上に飛び上がってでも指名を強く求めたらどうだったんですか。そうしなかったから、指名拒否はまだ続く。仮に「指名された」なら、スポンサーに加わり、会食に参加したのだとバレてしまいますが、「真実の報道」のためですから、些事にはこだわりませんね、心ある読者は。

 まあ、一日でも一時間でも早く、この内閣にも退場(総辞職、議員辞職も同時だ)を願うばかりです。その後は、「よりましな面々」を国会や民間から集め、時限を切っての「救国内閣」「災厄克服内閣」(目前の課題を丁寧に片付ける内閣こそが求められるのではないですか)をつくる事だと思う。新聞社もそれに加わることを切に願いますね。無能で悪質な内閣の感染力は見捨ててはおけないのです。前内閣から感染した連中は、さらに増殖・変異中ですぞ。

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「医療崩壊を絶対に防ぎ、必要な方に必要な医療を提供いたします」(1月4日の総理年頭会見)「1か月後には必ず事態を改善させる。そのために総理大臣としてありとあらゆる対策を講じて参ります」(1月7日の総理記者会見)

「必要な時に適切な医療を提供できない、適切な医療を受けることができない、これが“医療崩壊”だ。医療自体を受けることができない“医療壊滅”の状態にならなければ医療崩壊ではないというのは誤解で、現実はすでに医療崩壊である」(中川俊男・日本医師会会長は1月6日の定例会見)

 官僚の手になる偽物の(霊験あらたかならざる)「宣言」の乱発は何を暗示し、あるいは明示しているのでしょうか。この悪例には事欠かないのです。政権末期のみならず、社会荒廃のきわみの印でもあったのです。「私は総理大臣であります」という自覚が、たぶん彼にはないと、ぼくはみなしています。(「権力さえあれば、満足」という不逞・無能の人)(「蕎麦屋の釜」大臣=ゆう(湯)だけの人)

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記憶が作り変えられるということ

 世の中にはさまざまな性格の人がおり、いろいろな逸話を持っている大人がいます。そんな人を直接知らない場合がほとんどですが、それでも、その人となりについていくらかは知りうる機会があります。そのもっとも典型例は、読書でしょう。本人の手になる文章ではなく、友達や知り合いの書いた文章で、ご当人のちょっとした逸話を読んでも、その記憶が長く残るという場合があります。ぼくは、若いころ、特に大学に入ってからの十数年間、三十過ぎまではそれなりにというか、自分ではよく本を読んだと思っています。もちろん、ごく普通の読書家だと称する人でも、ぼくが肝をつぶすほどの読書量を誇ったりしているのを見ると、気が遠くなるのですが。それ以前はまったく、本を読まなかった人間ですから、年に数十冊読んだだけでも、「俺は読書家だ」と自惚れていたような時代でした。若さは馬鹿さでもあった。

 何を書こうとしているのか。書き出しがなっていないから、どの方向に進んだらいいのか、不明になってしまいそうです。少々、時代の政治舞台に近づきすぎたせいで、食傷気味であるのは事実です。あくまでも観客として、元来が非政治的人間(実際政治から遠ざかっていたいという意味です)でしたから、世の中の政治がどうだこうだというのは、いっこうに気にしなかった。しかし、その政治が出鱈目だったり乱暴だったりした場合、ぼくにまで「火の粉」が飛んできます。暢気に無関心を決め込むわけにはいかなくなる時もごくまれにはある、まさに今が「ごくまれ」に当たるのでしょう。顔つきから、挙措動作、物の言い方まで気に入らぬ、ぼくが選んだわけではないが、アホ面した役者があまりにもひどすぎるので、いい加減に腹が立っていたのでした。まともに生きているのかよ、と、ヤクザな啖呵でも投げつけてもやりたくなるのです。それで気が収まらないから、腹が立つんですね。だから、この駄文でも、頓服薬か清涼剤のたしにはなるかと、ささやかなよしなしごとの感想を書こうとしたのです。

 少し前に、どこかで井伏鱒二(1898-1993)さんの短文(「三好達治」)を引いたので、もう一度井伏さんのものを読もうかと、何冊かを手許に取り出しては、見るでもなく読むでもなくページを繰っていた。そのとき、ふっと浮かんだのは、海音寺潮五郎(1901-1977)さんのことだった。その顔貌が浮かんできたのです。海音寺さんの作品もほとんど読んだという記憶があります。文字通り「断簡零墨」までというやつです。ぼくのたくさんある悪癖の一つに、誰かの本を買う・読むとなると、きっと「全集」を探します。今はそうではなくなりましたが、「全集」などは、作家が物故してからというのが相場だった時代の話です。ぼくが買った「全集」ものの作者は、すでに亡くなっていた人ばかりでした。いったいどれくらいの「全集」を買ったものか。その幾分かは、いまも埃に塗れて書庫に眠っている。(このブログとかいう「駄文集積」の材料にでもと、重い腰を上げては棚を覗いてみるのです。背表紙を見ると、買った時の景色が瞼に浮かんできます。古本であれ、新本であれ、どれも大なり小なり、ぼくの時間の一部となっているのです)

 井伏さんも海音寺さんも、まだ健在だったから、まとまったものとしては「著作集」か「作品集」の類でしたが、それを買って一気に読んだ。井伏さんは「短編」の名手であり、海音寺さんは「歴史小説」の大家として高名であった。この二人のつきあいのほどに関しては、ぼくは無知ですが、井伏さんの残された短文に、海音寺潮五郎さんの「人となり」が活写されているのを読んだ、その瞬間の驚きを今になっても忘れられないのです。(海音寺さんについては司馬遼太郎さんの文章がいくつも残されているし、二人の歴史対談とでも称する本も公刊されています。お二人についても、どこかで触れたい)

 今となれば、はるか昔の束の間の出来事のように見なされてきましが、はたしてどうか。新兵というものの、まるで野武士のような風貌を周囲に晒していた、一文士の四十歳ころの話です。

 昭和十六年の秋から一年間ほど、井伏さんと海音寺さんは陸軍の徴用同期だった。「そのころの軍隊用語で云へば戦友」ということです。その年の十一月中旬に、二人は大阪城の広場に集められ、陸軍中佐に引率されて入隊した。約百二十名ほどだった。それぞれが「目立たぬ服装で軍刀を持參せよ」と言われていた。井伏さんは釣り好きだったので、「釣師の服装をして細見の軍刀を入れた竿袋」を持って行った。「歷史小説家で日本史に詳しい海音寺潮五郎は、朱鞘の太刀を眞田紐で不斷着の背中へぶら下げてゐた」と書いている。まるで宮本武蔵だか佐々木小次郎だかのようだったとも。「海音寺自身は超然として長い刀を背負つてゐた」

 「徴員たちは兵舎に入ると宣誓式をさせられて、宣誓書に判を捺させられた。これでもう地方人ではなくて軍籍に身を置いたといふことになる」ので、それ以後は指揮官の命令のもとに入る。この指揮官がいけなかった。宣誓が終わると、壇上に出て居丈高に話した。

 「お前たちの生命は、今からこの俺が預かつた。ぐずぐず云ふものは、ぶつた斬るぞ…」

 すると徴員たちの誰かが一人、/「ぶつた斬つて見ろ」/ と大きな声で云つた。

 一同騒然となつた。(中略)「ぶつた斬つてみろ」と云つたのは海音寺潮五郎であつた。當時、軍人に向かつて、しかも自分の直屬指揮官に向かつて、そんな發言するのは容易な覺悟ではない。背中の日本刀がそれを發言させたわけでもあるまいが、常識では考へられぬ事である。/ 海音寺さんは戰地についてからもずつとそんな態度を崩さなかつた。朱鞘の太刀も相變らず背中にぶら下げてゐた。自分が納得が行かないと梃子でも動かない人に見えた」(「入隊當日のこと」『文士の風貌』所収)

 この逸話には奇妙な記憶がぼくにはある。海音寺さんが指揮官に向かって「ぶつた斬つて見ろ」と言い返したのが、実は大阪城前の兵舎などではなく、マレーへ輸送されていく船上の出来事だったと、ぼくは確かに記憶していた。「ぐずぐず云ふものは、ぶつた斬るぞ」、そして「海に投げ捨てるぞ」といったようにも記憶している。それを確かめるのが、今は面倒なので詳細は書かないが、実は船上のことは、井伏さんとは別の人が書いた文章で、海音寺さんは二度も「指揮官」に反抗したのだったかもしれない。これを書いていて、だんだんにそう思われてきた。戦地に赴いてもまったく上官の意に反する姿勢を彼は貫いたといわれる。約一年の徴用を終えて帰国。病を得て郷里(鹿児島)に戻り、療養に努める。「戦争の無意味」を参謀本部に直訴しかかるが、見かねた友人らの制止を受けて辞めたこともあるという。ともかく直言の人だった。なにしろ、彼は西郷党の「遺児」だったのである。

 海音寺さん自身がこのあたりの事情を書き残されているはずだと思うが、ぼくの記憶には何も残っていない。それほど、井伏さんの文章が強烈な海音寺像をぼくに植えつけたというほかない。いまはかなり怪しくなりましたが、昔から記憶力は心もとなかった。この場面についても、なに、お前の記憶力がいい加減なのさということでしょう。もしかして誰か別人が、別の時期の事として書いた、その文章をぼくはどこかで読んだのだという感覚も否定できないという、宙ぶらりんの気分なのです。どちらにしても、海音寺さんの「胆力」の強烈さがぼくに強く印象付けられた結果だったかもしれない。

 あいまいな記憶を見事に脚色する(作り変える)能力も、人間には備わっているのですから。「昔はよかった」というのは、この当たりの状況を示す言い草なのかもしれない。「戦争の悲惨」さへ、美しい思い出としてしまいこんでいる人がいるし、無残、「犬死」ともおぼしき戦死ですら、それを見事に作り変えて「英霊」として祭ろうというのです。そのような所為を否定はしませんが、それだけで終わっては大きな意味のはき違えになるといわなければならない。

 記憶の作り変えは、何も個人にだけ生じるのではなさそうです。国にあっても、歴史の修正、作り変え、改竄はいつでも行われようとしているのです。たった一人だけ、あるいは、一国に限定されて、歴史は存在しません。一国平和主義が非難されるように、一国史観もやはり、独りよがりの視野狭窄症にほかなりません。歴をに参加したものが共有(許容)できる「歴史」というものがありうるのかどうか。

 七十年前の、島が戦時体制に突入しようとしている一時期の、ほんの小さな一齣ですが、これを知ることで、若さだけしかもっていなかった無知な人間だったぼくは、抗(あらが)う、梃子でも動かない志というものの一端を教えられたように感じたのです。その想いは、いまもなお、そのままの驚きを伴って、ぼくを慄然とさせるのです。「慄然」などと、ここで使う言葉ではないことを承知していながら、やはり「抵抗する胆力」に恐れ戦(おのの)いたのでした。ぼくには、そんな力はない、と。

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身一つに耐へて凍鶴眠りけり

 【筆洗】雪の中のツルが長い首をすっぽりと羽の中にしまい込み、凍ったようにじっと動かないで、片足で立っている。そんな姿を写真などでごらんになったことがあるだろう。「凍鶴(いてづる)」という▼<身一つに耐へて凍鶴眠りけり>永井東門居。防寒の知恵なのだろう。ツルの体温は四〇度と高く、ああしているとそれなりに温かいのかもしれぬが、微動だにせず風雪に耐える孤独な姿を見れば、こちらが凍えてくる▼どうやら、われわれが再び「凍鶴」になる番がやって来た。新型コロナウイルスの「吹雪」が強まるなか、政府は東京など一都三県に二度目の緊急事態宣言を発令する。不要不急の外出は控えるよう求められている。気うつだが、あの瑞鳥を習い、なるべく動かず、耐えるしかあるまい▼二度目である。最初の緊急事態宣言下での教訓を生かしたい。あの時、気分の重かったのは流行語にもなった「自粛警察」か。無論、自粛は大切だが、それを守らぬ人や感染者を必要以上に非難し、攻撃するような振る舞いだけは控えたい。人には事情がある。吹雪の中、自分の心まで冷たくしてはなるまい▼期間は二月七日までという。延長もあり得るが、この期間の辛抱がやがて実を結び、感染拡大に歯止めがかかると信じ、落ち着いて、日々を過ごしたい▼<凍鶴が羽ひろげたるめでたさよ>阿波野青畝(あわのせいほ)。春。羽を広げる日は必ず来る。(東京新聞・2021年1月8日 )

  凍鶴の一歩を賭けて立ちつくす  山口青邨
  
  去年の鶴去年のところに凍てにけり  水原秋櫻子
  
  身一つに耐へて凍鶴眠りけり  永井龍男
   
  凍鶴に冬木の影の来ては去る  富安風生 

●凍鶴(いてづる)=〘名〙 寒気の中にじっとたたずんでいる鶴。霜の鶴。霜夜の鶴。《季・冬》※新春夏秋冬(1915)〈松根東洋城選〉冬「凍鶴や花紅ゐの室の外〈松浜〉」[補注]「をだまき綱目‐下」に、「凍鶴(トウクハク)こほりたるつる也」とある。(精選版 日本国語大辞典の解説)

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 このところ、まったく外に出歩かなくなりました。せいぜい、近所(といっても十キロほどの距離)のスーパーに買い物に行くくらいです。もちろん車で。寒さとコロナと老齢と、このように三拍子揃ったら、家にして、よしなしごと(猫の世話、駄文綴り、庭の掃除、洗濯三昧などなど)をなすより手はないという塩梅です。「凍鶴」は、近年はお目にかかりませんが、もう七十年も前に、京都にいたころ、家の近所だった広沢の池(右下写真)によく来ていました。もちろん、池は氷が張り、一面スケートリンクのような水平面だった。そこには冬鳥がやってきて、わずかばかりの隙間から池中に首を突っ込んでいたり、氷の上を滑っていたりと、それなりの風物だったように思います。小学生だったから、そんな風流心もなかったが、今から思えば、そんな気分になっていたかもしれないといいたいのです。

 今冬はことのほかに寒いという気がします。ぼくは意外と寒さには絶えられる方でしたが、如何せんこの年齢では、あまりな強がりを言わないことにしています。「年寄りの冷や水」などと言いますが、その多くは誤解によって、曲げられて使われています。老人のくせに、若者と張り合うなんて、「年寄りの冷や水」だなどというのは、意味不明ですね。「老人が冷水を浴びるような、高齢に不相応な危ない行為や差し出がましい振る舞いをするのを、警告したり冷やかしたりしていう言葉」(デジタル大辞泉)

 いつもお手軽に愛用している「大辞泉」ですが、これはいただけない。「冷や水を浴びる」とはどういうことか。「冷水摩擦」ならわかりますが、「冷水を浴びる」というのは、いまなら寒中水泳とでもいうのでしょうか。寒風吹きすさぶなか、手が切れるような「冷水(本物の)」を浴びせられれば、凍え死んじゃいます。偽物(の冷水)でも、本物以上に鋭意な「冷水」(横やり・邪魔だて)を浴びせる時代でもあります。とにかく、気を付けたいね。

 こういう解説があるのですが、ぼくもこちらに与しますね。もちろん、もう少し調べるつもりですが。

● 年寄りの冷や水=老人が若者のように元気にふるまったり、年齢にふさわしくない無理をすることのたとえ。そんなことをすると後がたいへんと心配したり、冷やかしたりするときにいう。

[使用例] マ、楽にしておくんなさい。八十一にもなって、木取りだ、仕事の指図だなんて年寄りの冷や水さ。カゼをひいちゃってね、せがれのやつが心配してひるから寝床におしこまれて退屈してたとこなんです[斎藤隆介*職人衆昔ばなし|1967] [使用例] せっせと体力づくりにはげみ、というときこえはいいが、オナカの出ないように年よりのひや水ともいうべき鍛練にいそしんでいるのは、いやらしい心がけと申さねばならぬ[田辺聖子*女の長風呂|1973]

[解説] 「冷や水」を冷たい水を浴びることと解するのは誤解です。冷たい飲用水をさし、比喩的には年寄りにふさわしくない行為を象徴しています。
 江戸は神田上水や玉川上水が整備され、市中では水道の水を飲むことが多かったようですが、夏は水がなまぬるいので、江戸後期には甘味料などを加えた冷や水売りが盛んになりました。当時のいろはかるたの絵札には、この冷や水売りや冷や水を飲む老人の姿が描かれています。若者は流行の冷や水を好んで求めましたが、老人には湯冷ましがよいとされ、冷や水を飲むのは年齢にふさわしくないとひんしゅくをかったものでしょう。ことわざの用法としては、老人を気づかったり冷やかしたりするほか、みずから年齢相応の行為ではないことを認めて、自嘲ぎみに使う場合もあります。
 なお、このことわざの初出は江戸中期の「尾張俗諺」で、「けい通諺」(「京師」は都の意)とされていますから、元来は京都で使われていた表現のようです。(ことわざを知る辞典の解説)

 「水屋」という商売があったんですね。ぼくは出くわしたことはないが、落ぐにはよく出てきました。これも志ん生の「水屋の富」にはほとほと感心しましたね。話の筋は省略しますが、界隈で水を売っていた水屋。湯島天神で富を買ったら「千両」当たった。水屋の後釜が決まるのを待ちながら商いを続けていが、…。ぼくはとことん志ん生に学んだといっていい。庶民の喜怒哀楽を、自前の経験を根底に据えて、芸にまで昇華した、そんな噺家だったように思う。飲み水を売りに歩く、お得意が待っている、一日もさぼれない。千両が当たって、春には商売替えだ。もう一息で、というところで、隠していた「大枚」をヤクザなゴロツキにとられる。盗まれてがっくり来るかと思いきや、取られる心配で寝不足になり、やがて病気になった水屋さん、隠し場所からごっそり盗られたことがわかると、「ああ、これで苦労がなくなった」と安心するのです。ここに言いようのない「哀感」がにじんでいます。それを演じる志ん生の心もちがこもっているようでした。「果報は寝て待て」と言いますが、「稼ぐに追いつく貧乏なし」とも言います。ぼくはもちろん、後者の世界に住む人間です。

 永井龍男さんの句が冴えています。文学の領域でも「いぶし銀」のような存在だった。燻(いぶ)すというのは、曇りを付けるということでしょ。きらびやかでも華やかでもなく、しかしどこかにただならない才(ざえ)がある、そんな人でしたが、この一句はどうでしょう。「身一つに耐へて凍鶴眠りけり」

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 緊急事態宣言だと。聞いて呆れるさ。何度も言うようですが、政治家の言うことは「寝言」、あるいは永田町専用の「符丁」ですから、ぼくたちに伝わらないのは当然です。嘘と坊主は「結ったことがない」というようですが、政治家と書いて「ウソツキ」と読む。この総理は嘘つき大将だな。

 「東京で6割を占める経路不明の感染の原因の多くは飲食が原因であると指摘されています」「出勤者数7割減を是非お願いいたします」「これまで学校から地域に感染が広がった例はほとんどありませんでした」「コロナの感染拡大の中でも、我が国の失業率は直近で2.9パーセントです」「1か月後には必ず事態を改善させる。そのためにも私自身、内閣総理大臣として、感染拡大を防止するために全力を尽くし、ありとあらゆる方策を講じてまいります」「御協力賜りますことをお願いして、私からの挨拶とさせていただきます」(「新型コロナウイルス感染症に関する菅内閣総理大臣記者会見」令和3年1月7日【菅総理冒頭発言】)

 一月七日に行われた「総理大臣」の「挨拶」だとさ。まるで結婚式か新年パーティの発言みたいだね。これは誰に向けての言葉だろうか。会見の途中を少しばかりつまみ食いしただけですが、これは「全部ウソ」です。指定された記者が質問しました。一か月で効果がなかったら、延長するかと。「もしできなければ1か月ということでありましたけれども、仮定のことについては私からは答えは控えさせていただきたい」「挨拶」のなかで、「1か月後には必ず事態を改善させる」と言っている尻から、ですよ。一か月後は「仮定」でしょうという張り合いもない。記者は追及しない。木偶の坊どもめ。「日程が詰まっているから、これで終了」と打ち切って、彼は秘書官らと「会食」でした、と。「うまくいった」とほくそ笑んでいたかどうか。

 馴れあい、じゃれあいに終始している「嘘つき」どもに運命を委ねておいて、ぼくたちはこの災厄を生き抜けるのでしょうか。総理が嘘つきというのは、右代表ですから、なべて政治家は大小を問わず、根っからの嘘つき、これが相場でしょう。だから、すこし正直なのに出会うと、ぼくたちはきっと、ころっといかれるんです。でも、そんな殊勝な奴もしばらくすると、立派に一人前の政治家=嘘つきになる。「権力は腐敗する」んじゃなく、「腐敗するのが権力」というものなんです。トップに座っていても、腐敗しなければ、それは権力を行使しているのではないからです。

 右も左も、世界は不毛の荒野です。大統領が暴力集団を唆す、煽る。テロを誘引するような狂気。その直後に、自己弁護という自己保身の連射、その直後にはまた居直り。ぼくたちは凍てつく寒さの中にありますが、身も心も凍てつくのは、寒気・寒波の襲来ばかりではないのです。

 「身一つに耐へて凍鶴眠りけり」まず身一つ、です。我が身一つで「耐へて、眠りけり」といきたい。いまは冬眠の時です。

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百聞は一見に如かず、かね

“時止まる”寒さ 高さ65m「扁妙の滝」凍結

寒波で凍った扁妙の滝。山中に冬限定の光景が現れた=神河町根宇野(→)

 今季一番の寒波が到来する中、兵庫県神河町根宇野(みよの)、笠形山(939メートル)中腹にある「扁妙の滝」が凍結した。高さ65メートルから流れ落ちる水が凍り付き、芸術作品のように輝きを放つ姿にハイカーらが見入っていた。(小林良多)(*「へんみょうのたき」)

 姫路・西播地域は7~10日にかけ、各地とも最低気温が氷点下5度前後まで下がる日が続いた。9日には上郡で氷点下10・3度と観測史上1位を記録した。

 笠形山の麓にある施設「グリーンエコー笠形」によると、滝は昨年末に氷結し始め、8日から一気に広がった。加東市の男性(44)は「時が止まったかのよう。自然の力に圧倒される」と感じ入っていた。(神戸新聞・2021/01/11)

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 名瀑と言われるものが各地にありますが、ぼくはほとんど行ったことがない。要するに、「観光地は、どうもいけません」という人間です。もちろん、観光地の見物が皆無であるというつもりはありませんが、たいていは誰かに連られ・誘われて行ったとか。何でも自分から望んでは行かなかったというのです。山に登っていて、突如、小さな滝に出会うという場面は数知れずありました。(それはまるで僥倖ですね。堪能するまで観ています)ぼくは写真機をもって出かける人間でもありませんから、「想い出の何枚」なんていうものもありません。もちろん、この笠形山の滝にも行ったことはありません。でもこんな写真程度で、ぼくはじゅうぶんに堪能するんですね。この滝の、冬季以外の名瀑ぶりがあります(左上)(これはジャランの案内から拝借しました)。

 もう何十年も前に茨城県の「袋田の滝」(左と右下の写真)を観に出かけてたことがあります、かみさんと。カメラを持たないで。冬ではなかったと記憶しています。「まあ、こんなものかな」という程度の感想がようやく生まれてきました。観光地化しているところは、宣伝効果が出過ぎているのか、金儲け主義が勝ちすぎているのか、聞くと見るでは大違いというところがありますね。ほとんどがそうじゃないのかな。あまり行かないから、確かなことは言えませんが。「百聞は一見に如かず(Seeing is believing.)」という俚諺は、これも、うまく誤解されていますよ。「聞く」より「見る」方が勝るんだというようですが、ぼくはそうは思わない。「一見」に値打ちがあるというのは、その前提になる「百聞」があるからなんだといいたい。「百聞」とは何か。「一見」が曇っていることはいつでもありますよ。その曇りを防ぐためには「百聞」が不可欠だということ。「目があるから見えると、言ってはいけない」というのがベルグソンのいつもの言でした。

 ところが今では、その一見ですら、カメラに代用させています。使ったことがないのでぼくにはわかりませんが、誰も彼もがスマホでやたらに写真を撮りますね、それはどうするためなんですか。何のために撮るんですかね。撮ったという手ごたえが大事なんでしょうか。それとも、単なる癖か。海外旅行に行った人から、土産話をよく聞かされることがありました。どこにいったんですかと聞くと、「ちょっと待って」とスマホや写真をとりだして「ここに行ったんだ」と。聞いていて、アホくさくなりました。演奏会へ行った人に「どうでした」とたずねると「いま、録音機を取り出すから」みたいなもので、自分の感覚(耳や目)をじっくり、ちゃんと、通していないんですね。だから、それは経験になっているかどうか、とても怪しい。

 インスタントな時代、なんでも即席・即座の手間暇抜きの時代が、想像を絶する速さで進行中です。なんでそんなに急ぐんですか、という問いを発する暇もないほどの猛烈ぶりです。当方はそれに抵抗する気はありませんけれど、その仲間になる気が毛頭ないんですね。SNSやツイッターなど、これがないと今風ではありませんという風潮ですが、どうぞお好きなように(As You Like.)、とお手軽があらゆる領域に侵入しています。アメリカの「小心大統領」は、搭乗の初めから「すべてが囁き」でしたが、度を越したと判定されて、アカウントは永久停止とか。この忙しい最中に、物議が醸されています。政治もお気軽、人間関係もお気軽、仕事もお気軽、…、世は挙げてお気軽です。お気軽でなければ、現代社会じゃないよという、時代の風波に抗っても仕方がありません。コンビニとインスタ(コンスタ)、これが人間の心情を害し、人間性に破綻をきたす病理だと思われるし、かかる病理現象がいたるところで、着々と進んでいるのでしょう。なに、構うものかと、「コンスタ人類」は意に介していないんですね。やがて「臍を噛む」時が来るね。いや、もう来ているか。(箱根の山で「干物」に「蒲鉾」を売る人がいるから、買う人がいるんだ。写真左上)

 観光地嫌いは京都にいたせいでしょう。高校生くらいまでは、嵐山に毎日のように出かけていましたが、ここが観光地だろうかと思うくらい、見学する人間はほとんどいなかった。同級生の家族が「土産物店」をやっていたが、どうして生活しているんだろうと不思議に思ったりした。今では実に手広く店を広げている知り合いもいます。半世紀以上も前のことでしたが、もちろん、当時でも他所からくる人が存在していたんでしょうが、まったく目立たなかった。自然の景観・風景や神社仏閣で「金儲け」が流行りだしてからが、堕落の始まりだったようです。荒れ野の一軒家に鉄道線路が敷かれたように、モノの値段は莫迦上がりし、人間の品性はバカ下がりしたのでした。

 もう何年前になりますか、京都で「観光税」を寺社に課そうと大騒動が持ち上がりました。金の亡者が考え出したのが「宗教行為」という嘘でした。広間に小さな机をいくつか並べ、それに墨と筆をおいて、詐欺を働き、脱税を謀ったんです。観光客に「写経」をさせる風を装ったところが続出した(右写真は知恩院)。ぼくは、それがきっかけで、すっかり京都嫌いになり、観光地嫌いになった。いずれ、近いうちに「渡月橋」を歩くのに、通行税をとるようになるでしょうね、地域の観光業者の集まり(団体)がさ。なにも、京都に限らないし、観光先進地では、とっくにやっているでしょうけど。観光地のコンビニ化が進行中で、ついには「統廃合」が起こるんじゃないでしょうか。そして、すべてはご破算になり、一から出直し。島全体がそのようになりそうです。

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