やがて死ぬけしきは見えず蝉の声

 【筆洗】伝説的な誤植の一つだろう。禅の研究で有名だった鈴木大拙は、「褌(ふんどし)の研究家」と書かれたことがあるという。長谷川鉱平著『本と校正』に教わった。笑えて、文章を書くことに携わる身にはやがてちょっと背筋が寒くなる話だ。印象ががらりと変わる一文字違いは恐ろしい▼米国議会でその昔、課税しない「果樹」を意味する「fruit−plants」の「−」を「,」と事務官が書いたそうだ。「果物、野菜」をさす意味になって、非課税の対象が広がり、次の議会までに大きな損失が出たと織田正吉著『ことば遊びコレクション』にあった。一文字ならぬ一つの符号であっても損害は出る▼「LAGER(ラガー)」なのに、「LAGAR」と誤ったスペルが一部にあるサッポロビールの缶ビールが、つづりはそのままで近く発売されるという

▼一文字ながら、醸造にかかわる言葉だ。たいへんな違いのようで、間違いが見つかった際に発売がいったん中止になっていた▼「もったいない」と販売を望む声や捨てられるのを心配する声がネットで寄せられたのを受けて一転、発売することになったそうだ▼食べ物の廃棄が心配されている時代である。世の中の意識が、変化していることを誤表記のままの文字が象徴しているのだと思えば、ミスの印象もがらりと変わろうか。ちょっと温かくも感じる一文字違いかもしれない。(東京新聞・2021年1月29日)

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 鈴木大拙さんに関しては、もう一つ有名な逸話がある。大拙さんが亡くなった時、N✖Kニュースの記事を読んだアナウンサーが「禅の研究で有名な…」と読むところを「蝉の研究で」と読んだと、話題になりました。記憶が間違いでなければ、このアナウンサーは職場を変えられたそうです。他人の書いた原稿を読むというのは、いつでも、だれにとっても簡単ではないのでしょうね。褌と言い蝉という、事程左様に「禅」は難しいということでしょう。彼は金沢の出身で同級に西田幾多郎さんがいました。二人の交友にはいろいろと教えられたところもあり、また両者の思想や哲学には、若い時から随分と時間をかけて学ぼうとしてきました。学んだところは、しかし、きわめて少なかったと考えている。

 原稿の校正の誤りにはたくさんの逸話が残されています。今は、殆んどがワープロ原稿をもとにしますから、校正の間違いはなくなりはしませんが、ドキッとさせられたり、ドキッとしたりというのはかなり減ったのではないでしょうか。ぼく自身にもいくつかありますが、それは書きません。「トルコについて」と書いたのに出来上がった新聞だったかに、「トルコにてつい」とあって、仰天したと当の作者が書いていました。今では名称が変えられましたが「トルコ」とは、なぜだか、「風俗業の風呂」を指していた時代が相当に長く続いていたのです。トルコ大使館からだったか、抗議を受けて業界が名称を変えたということだったようです。「校正畏るべし」と、しばしばいわれたことでした。

 原稿の書き損じなど、ぼくはいつでも相当にあります。これはこの雑文の中でも容易に発見できます。言い訳はしませんが、ようするに、ぼくは常に書下ろしで、点検しないままで発表してしまうからです。ネット上の記述だったら、気が付いたら、その時点で直せばいいやと、簡単に考えているところがあります。印刷(発表のための活字)にするときには、ぼくは自分でも嫌になるほど直しを入れました。いくら直しても値打ちが上がるわけでもないし、内容がよくなるものでもなかろうに、編集者に嫌がられながら、だらだらと訂正原稿を書いていたことを覚えています。校正というか現行の推敲というのは、どこまで行ってもきりが付きません。だから、どこかで決断する必要があるのです。

 文章を書くには技術があるのでしょうが、ぼくはそんな技術習得を一度も経験しませんでした。原稿書きのイロハをまったく知りもしないで、本や論文を書こうかという出鱈目をしてきたのです。原稿の話にはあれこれと話題になりそうなのがいくらでもありますが、肝心要は内容ですから、書き間違いや読み間違いについての与太話ははこの辺で。

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●鈴木大拙(1870-1966)=明治-昭和時代の仏教学者。明治3年10月18日生まれ。帝国大学にまなび,鎌倉円覚寺の今北洪川(こうせん),釈宗演(しゃく-そうえん)に師事。明治30年アメリカにわたり,「大乗起信論」の英訳,「大乗仏教概論」の英文出版をおこなう。42年帰国後学習院教授,大谷大教授。英文雑誌「イースタン-ブディスト」を創刊,アメリカの大学でおしえ,仏教や禅思想をひろく世界に紹介した。昭和24年文化勲章。昭和41年7月12日死去。95歳。加賀(石川県)出身。本名は貞太郎。著作に「禅と日本文化」など。【格言など】絶対の威力に生きて責任をもたぬものあり,名を国家と云う(昭和17年西田幾多郎への手紙)(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

●西田幾多郎(1870-1945)=明治-昭和時代前期の哲学者。明治3年5月19日生まれ。山口高,四高などの教授をへて,大正2年京都帝大教授となる。明治44年主客未分の純粋経験をキーワードにした「善の研究」を刊行。場所の論理,行為的直観,絶対矛盾的自己同一などの概念によって西田哲学といわれる独自の体系をきずく。昭和3年退官後も思索をふかめ,死を間近にして「場所的論理と宗教的世界観」を完成させた。15年文化勲章。昭和20年6月7日死去。76歳。加賀(石川県)出身。帝国大学卒。号は寸心。著作はほかに「働くものから見るものへ」「自覚に於(お)ける直観と反省」「哲学の根本問題」など。【格言など】ただ一つの思想を知るということは,思想というものを知らないというに同じい(「続思索と体験・「続思索と体験」以後」)(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

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 大拙と幾多郎、この二人について書かれた書物や論文は無数にあるでしょう。ぼくも人並みにお二人の全集を持っています。持っているだけで、完読したという記憶(意識)がありません。何度も挑戦しながら「登攀」には失敗ばかりだったという意味です。今でも時々西田さんのものを読もうとするのですが、やはりだめですね。若いころの粘りがなくなりましたから、山裾に足を踏み入れただけで退散してしまいます。まず書かれていることがまったく理解を超えています。日本語だし、漢字も読めるんですが、分かりそうなんですが、さっぱり話に脈絡が付かないので、途中で投げ出してしまう。日本語であるのはわかるが、何を言おうとしているのかちんぷんかんぷんなんですね。こんな日本語を書いて「西田哲学」というのが成り立っている、なんとも壮観だというほかありません。似たような経験は翻訳物にあります。使用言語は日本語だけれど、内容がさっぱり理解できない。読めるとわかるは、まったく違う作業なんですね。西田さんは学問の面でも生活の面でも大変に苦労された人だったように、ぼくには見えました。晩年の辛さはいかばかりだったか。

 大拙さんにはわりと親しんだといえるかもしれませんが、彼の核心部分をつかんだとはとても言えません。しかし、そうであっても、彼は偉大な人物であったということはわかりそうです。いずれ機会を見つけて、大拙さんに触れてみたいですね。カセットテープで彼の講演を聴いたことがあります。講演は夏のさなかで、外で鳴く蝉の声がうるさいくらいでした。話している大拙さんは、淡々と、ご自身のペースでゆったりと話されていました。間も十分に取られていました。少し長い沈黙がつづいたりしましたが、ぼくは眠りに誘われました。やがて大拙さんも寝入ってしまわないか、ぼくは心配になったほどでした。ああ、これが「禅」なんだ、というのではなかったでしょうが。

 (無常迅速と前書きして)  やがて死ぬけしきは見えず蝉の声(芭蕉)

 生死事大 光陰可惜 無常迅速 時不待人

 (まことに「無常迅速」と芭蕉が言うが如くですね。連れ合いの姉上が先日亡くなりました。八十五歳でした。すでに五十年来の「糖尿病」者で、後半生はほとんど医者とは縁も切れず、年中行事のように「入退院」を繰り返していました。いつもの(ルーティン)「人工透析」中に脳梗塞(脳卒中)だったかに襲われたとか。いつでも死は突然来ます。「卒中」の「卒」にはいろいろな意味がつけられていますが、ここでは「にわかに」「突然」、あるいは「終わる(卒業)」などと解されます。「中」は当たる、「命中」「的中」です。突然、にわかに亡くなる、卒然として。どんな時でも、死に対してぼくはこの語を使いたい気がしています。珍しく、数年ぶりの東京で「お別れ」をしてきます。大往生とはなかなか言えませんね。やはり「無常迅速」「時不待人」です。いよいよ、心に、しんみりと響きます)

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胎内の動きを知るころ骨がつき

 コロナ禍の「サラ川」

【水や空】勤め人ならば、時に同僚や仕事相手とぶつかることもある。おうおう、上等じゃないの…とは、今では聞かれない口上だが、苦笑いを誘うこんな一首がある。〈おお、おお上等じやないのと言ひかへし机たたけば机は硬い〉島田修三▲言い返した後、たたきつけたこぶしはジンとしびれたに違いない。大見えとは相手を前にして切るものだが、近頃はそんな場面もまず見られないだろう。仕事での非対面のやりとりが浸透している▲自宅など、職場から離れた所で仕事をする「テレワーク」が勧められ、働く人に新たな悲喜劇が加わった。〈会社へは 来るなと上司 行けと妻〉。板挟みらしい。

「暁を抱いて闇にゐる蕾」

 きのう発表された「サラリーマン川柳」の上位100句は、働き方や生活の変化を詠んだ作品が多い▲〈コロナ禍が 程よく上司を ディスタンス〉。部下にとっては「上」との今の距離感がいい感じなのだろう▲上司といえば敬遠され、新人といえば「今どきの若者」としてぼやきの的にされる。サラ川(せん)の定番だが、今回は職場の上下関係を詠んだ作品が少なかったという。距離感の表れだろうか▲昔の優秀作に〈ただでさえ無礼な部下の無礼講〉というのがあった。職場であれどこであれ、距離を置くことが重んじられるいま、一句の風景はほほ笑ましくも、どこかほろ苦い。(徹)(長崎新聞・2021/1/28)(左は鶴彬記念の百日紅植樹)

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 もう今年で35回目だそうです。ある「生保」主宰の「サラリーマン川柳」。時代の波や風潮、あるいは時節や世相を色濃く詠みこんで、いたく人気者になってきました。ぼくもときには、抱腹絶倒というか、お腹がよじれるほどに笑い転げたものですが、それも近年は稀になりました。なぜだろうかと考えると、それだけ時代や人情が世知辛くなってきたということの証明にもなるのでしょう。だからこそ、よけいに笑い転げたいのですね。そんな暢気なことをやっていられるかと怒られそうですが、やはり、余裕ですね、しんどい時こそ、深呼吸です。その一呼吸が「川柳」になるのではないですか。

 昨年の優秀句100句のなかの10句のみを出しました。なんとも真面目というか、実直というか、破天荒の面白みがないのは、いいことかよくないことか。ぼくにはにわかに判断はできません。それがサラリーマンのたしなみであり、川柳の「サラ性」なのでしょう。激しく会社を呪い、上司を忌み嫌うのは、まったくやり切れないし、「会社あっての自分」なんだというところから川柳は生まれているのです。だからかどうか、読み方によっては、愛社精神が横溢している句が多いようにも思えてきます。余り会社に「自分をあずけない」「濃厚接触」は避けるがいいのかもしれませんが。

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 優秀100句はこちら(2020/9/17~10/30までの分、百首のなかから「10句」を)

1、リモートで 便利な言葉 “聞こえません!” (リモートの達人)

2、「出社日は 次はいつなの?」 妻の圧 (在宅ワークマン)

3、テレワーク いつもと違う 父を知る (秋乃アキ)

4、倍返し 言えぬ上司に 「はい」返し (ギレン総帥)

5、激論も パジャマ姿の 下半身 (王様の耳)

6、十万円 見る事もなく 妻のもの (はかなき夢)

7、密ですと ますます部下は 近よらぬ (急いで待て)

8、抱き上げた 孫が一言 密ですよ (白いカラス)

9、コロナ禍が 程よく上司を ディスタンス (大舞剛人)

10、YOASOBIが 大好きと言い 父あせる (テンビ)

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 「サラ川」で、ことさら不満があるわけではありません。それで結構、世は人情の様変わりに遭遇して、また一回転するものでしょう。このままの「さわやかで」「のどかで」「緩やかで」「癒し系で」、この先も一貫するとは限らないし、反転、激しく時代を打つ撥が、あるいは深い怒りや悲しみに掴み取られて、ぼくたちの心をえぐらないとも限りません。そんな川柳に身命をかけた青年がいました。鶴彬さん。啄木に憧れを抱いたというほどですから、その性向はいかなるものであったかがわかりそうです。早くに川柳に魅かれ、徐々に激しい社会批判の勢いを増していきます。やがて治安維持法で検挙、獄中に拘束されて、若くして病死しました。

● 鶴彬(読み)つる あきら(1909-1938)=昭和時代前期の川柳作家。明治42年1月1日生まれ。プロレタリア川柳の影響をうけ,昭和3年全日本無産者芸術連盟にくわわる。12年「川柳人」に発表した作品が治安維持法違反にとわれて留置され,13年9月14日獄中で病死。30歳。石川県出身。本名は喜多一二(かつじ)。【格言など】手と足をもいだ丸太にしてかへし(「川柳人」)(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

  高梁の実りへ戦車と靴の鋲
  屍のゐないニュース映画で勇ましい
  出征の門標があってがらんどうの小店
  万歳とあげて行った手を大陸において来た
  手と足をもいだ丸太にしてかへし
  胎内の動きを知るころ骨(コツ)がつき 
  フジヤマとサクラの国の餓死ニュース
  エノケンの笑ひにつづく暗い明日
  税金のあがっただけを酒の水 (以上は鶴彬作)

 「鶴彬川柳」と「サラリーマン川柳」を比べて、何かを言いたいのではありません。どちらの側にも作句の理由や動機があり、それぞれに、その土壌を認めれば、余計なことは言う必要もないのです。あえて、ここに鶴彬さんを持ってきたのは、他でもない、時代は変転し反転して、流転、転変の尽きないのが世情です。幸せの絶頂から急展開で落下しないとも限りません。それだけの条件が揃っているともいえる時代をぼくたちは生きているのです。あえていえば、ぼくは「サラ川」に流れている、そこはかとない弱々しさに(愛社精神か、それはきっと愛国心にもつながるのです)、一抹の危惧の念を否定できないのを認めるものです。そこに鶴さんの存在する理由があるということもできるでしょう。

 「フジヤマとサクラの国の餓死ニュース」「エノケンの笑ひにつづく暗い明日」 これはぼくたちの日常生活ではありませんか。餓死があるから、それを消すためにも、いっそう「グルメだ」「飽食だ」というのではないか。エノケンは戦前戦後の喜劇役者。いまでいえば「お笑い」の人です。そんなお笑いに明け暮れているとばかり思っていたのに、実はその真横に「暗い明日」が控えている。ぼくはこの島社会は3等国か4等国、つまりは先進国争いに加わらない、国力競争から「脱落」「脱退」した社会だと考えています。ようやく、世界の何番目などと気にしないで、人民がそれぞれの生活に喜怒哀楽の源泉を求められる条件がそろってきそうだという期待を抱いています。

 もちろん、政治や経済の方面を見れば、時代錯誤の意識が氾濫しているのは事実ですが、それはごく限られた範囲に見られる狂気の世界でしょう。五輪も万博も、ごく一部の人間たち、それもいろいろな点において「強欲な」輩たちの錦の御旗です。それに税金(血税)を湯水のごとくに使うのは許せないと、ぼくも思います。いずれ、それさえも「沙汰止み」にならざるを得ない状況が来ます。もう来ているのかもしれない。

 修身にない孝行で淫売婦
 凶作を救へぬ仏を売り残し
 みな肺で死ぬる女工の募集札  
 待合いで徹夜議会で眠るなり
 ざん壕で読む妹を売る手紙
 召集兵土産待つ子を夢に見る (以上は鶴彬作)

 サラリーマンが安閑としていられない状況に追い込まれているとき、「コロナ禍が 程よく上司を ディスタンス」と仲間内でじゃれてていいんですか、と言いたくなりそう。この上ない拙作をいくつか。「よしもとのお笑いの顔に闇の皺」「ワイドショー何を見せなくする手柄」「本日は重症者何人死に移り」テレビも新聞も「終わりの中ほど」を過ぎたようです。だから「権力に靡く姿の厭らしさ」が消えないんですね。五輪はご臨終です。川柳の粋とはなにか。ぼくには十分にとらえきれなさそうですが、可笑しみと諧謔と反権力が混然一体となることがあれば言うことはなさそうです。「修身にない孝行で淫売婦」、これをどのように受け止めればいいのか。「待合で徹夜議会で眠るなり」、彬さんがこの現在に呼吸をしているが如くに、現実を活写していませんか。これは鶴彬の凄さなのか、現実政治の堕落の普遍性を指しているのか。

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年老いたる人の、一事優れたる才の有…   

 一道に携る人、あらぬ道の筵(むしろ)に臨みて、「あはれ、我が道ならましかば、かく、余所に見侍らじものを」と言ひ、心にも思へる事、常の事なれど、よに悪く覚ゆるなり。知らぬ道の羨ましく覚えば、「あな羨まし。などか習はざりけん」と言ひて有りなん。我が智を取り出でて、人に争ふは、角有る物の、角を傾け、牙有る物の、牙を噛み出だす類ひなり。

 人としては、善に誇らず、物と争はざるを、徳とす。他に勝る事のあるは、大きなる失なり。品の高さにても、才芸勝れたるにても、先祖の誉にても、人に勝れりと思へる人は、たとひ言葉に出でてこそ言はねども、内心に、若干(そこばく)の咎有り。慎みて、これを忘るべし。烏滸(おこ)にも見え、人にも言ひ消(け)たれ、禍をも招くは、ただ、この慢心なり。

 一道にも、真に長じぬる人は、自ら、明らかに、その非を知る故に、志、常に満たずして、終に物に誇る事なし。(「徒然草」第百六十七段)(島内編・既出)

 続いて、「汝自身を知れ」を別の角度から見ると。

 年老いたる人の、一事勝れたる才の有りて、「この人の後には、にか問はん」など言はるるは、方人にて、生けるも徒らならず。然は有れど、それも廃れたる所の無きは、「一生、この事にて暮れにけり」と、拙く見ゆ。「今は忘れにけり」と言ひて有りなん。

 大方は知りたりとも、漫に言ひ散らすは、「然ばかりのには有らぬにや」と聞こえ、自づからりも有りぬべし。「定かにも弁へ知らず」など言ひたるは、猶、真に、道のとも覚えぬべし。まして、知らぬ事、したり顔に、大人しく、もどきぬべくもあらぬ人の言ひ聞かするを、「然も有らず」と思ひながら聞き居たる、いと侘びし。(「徒然草」百六十八段)(島内編・既出)

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 「我が智を取り出でて、人に争ふは、角有る物の、角を傾け、牙有る物の、牙を噛み出だす類ひなり」

 本当に一道に長ずる人は、はっきりと自分の足りないところ(非とする点)を知っているがゆえに、自分はまだ足りない、欠けたところがあると、どこまで行っても自慢するなどということはしないのである。繰りかえし、この文章を読んでいけば、きっと兼好さんがどんなことを言いたかったのかが手に取るようにわかってくるに違いない。反対に、時代を越えて、人は自分を誇らしく見せたいという欲望にいつでも突き動かされていることがわかるのです。必要以上に「自分を大きく見せたい」ですね。その反対の側に立つ人がいるのでしょうか。ごく少数ですが、ぼくはそんな貴重な(大人)を知っています。

 「汝自身を知れ」という意味は、いつの場合にも、自分は欠けたところ、足りないところがあるという、己の弱点や欠点を自他に隠さないということを徹底して知ろうとする姿勢のようです。それだけ自分で自分を欺いている、欺かかれている、それが人間なんだなあ、というのかもしれませんね。

 一事に勝れる人とは、どんな人を言うのでしょうか。年を取るということと同じように、なかなか簡単ではないというのが、ぼくの実感です。自分がよく知っていることを、いかにもその道の専門家だと言い募るなどというのはけっして「真に、道の主とも覚えぬべし」といいたいのです。知らないことを、知っているように得意げに話すのを聞いているのは「そうじゃないだろうに」といいたくなるのですから、なんとも「侘し」、たまりませんなあ、いやになりますなあ、と。(註 少し、雑用に従事しますので、ここで中断します。後半は、帰宅してからですが、余計なことは言わないで、黙ってこの文をくりかえし読めば、なんと勝れた人というものが貴重であるか、逆に、世の中には自分は勝れていると思われたい・思いたい人がどんなに雲霞のように蔓延っているかが分かろうというのもです)(つづく)

 (承前)ぼくは学校教育に長く関心を持ち、またその中ですこしばかり若い人たちと交わりながら、いわば、よりよく生きるための方法、あるいは一人の人間の生きる道筋などについて、いっしょに考えようとしてきました。ぼくになにがしかの知識や知恵があったのではありません。まるで泥濘を歩くような、なだらかでない進退をくりかえして生きてきた。その間に、たくさんの「優れたる人」を見てきました。世間がそのように言いもし、自分もまたそうだと自認している、そんな人をホントにたくさん見てきました。ぼくのごく近くにもいくらもいました。でも、ぼくは、自分もあのような人になりたい、あのように世間から評価されたいと一度も考えたことはなかった。なぜだったか、自分にも不思議なことでした。「世間の評価」から、ぼくは一歩でも遠くまで解放されていた糸、まるで祈るような気にさえなって来たのでした。

 それはぼくの大きな欠陥であるのかもしれませんが、どうしてもそのような方向に足が向かなかったのだから致し方ありません。そのためにいろいろと非難されたことも事実でした。それに対してぼくは弁解する必要をまったく感じなかった。要するに、自分自身を知るという一点に、ぼくは集中してきたといいたいのです。世に誇れるような、何事もなさなかったのは事実であるし、それを悔いるということもなかったのも本当です。それではあっても、世間に安易に妥協したくない、世間から嫌われるほうが好都合だ、それくらいの鼻持ちならない気分をも育てていたのでした。

 いかにも安直に「汝自身を知れ」を実践したように聞こえたのなら、それはぼくの言葉が足りないからです。自分の、いったい何を知るのか、それがまず問われていたのです。何処まで行っても自分には欠けたところ、足りないところがあるということを自分自身に隠さない、誤魔化さない。それを徹底しようという気持ちを維持してきたといえるでしょう。めったにないことでしたが、「君はいい原稿を書いたね」と誰かに言われたこともありましたが、それはぼくを驚嘆させるにじゅうぶんな評価でした。あるいは、ぼくの若気を壊すような暴力でもありました。(お前さんに分かるかね)(あなたに褒められる)そのことは、どんなにぼくの勇気を挫いたことだろうか。そのままの感想を、当人に向かって口外したこともあります。どえらい無礼者と、囂々たる非難や中傷を受けたこともありました。

 ここで、ぼくは自慢話をしているのではありません。自分に起ったこと、自分が想ったことを、ありのままに語ろうとするばかりです。もちろんそこには虚飾がまったくはいらないことはないだろうという気がぼくにもありますが、可能な限りで自分の心身の経験を語ろうとしているのです。どんなに勝れたとみなされる人でも、その中には、きっと競争心や優越感を膨らませていたにちがいありません。それがなければ進歩も成長もないとさえいえるのでしょう。確かにそういわれたこともあります。教育は点取り競争ではないと、ぼくは常々主張したし、それは今でも同じです。そのとき、きっと「競争がなければ、人間は怠けるじゃないか」という紋切り型の口上がぶつけられました。へえ、そうなのかと、ぼくは訝るばかりでした。

 競争には勝者と敗者が必然的に生まれます。仮に、教育というのは、「自分が賢くなるための練習」であるととらえたとき、果してそんな教育が競争になじむでしょうか。ぼくは競争、しかもそれが点取り競争であるならなおさら、そんな競走場から撤退したい、そんな場所に自分を置きたくないと高校時代に想ったし、それ以降はもっとはっきりとそのように自分を律してきました。批判や非難は承知のうえで、それでもなお、ぼくは勝ち負けという視点から教育をとらえることに断じて納得することがなかったのです。

 この雑文には、例によって結論はありません。兼好の「人生論」のツボになるような文章を読んでいて、「大方は知りたりとも、漫に言ひ散らすは、『然ばかりのには有らぬにや』と聞こえ、自づからりも有りぬべし」、自分は物知りだと言い触らす人ほど、実はそうではないという、兼好の慧眼に竦められる思いがするのです。「一道にも、真に長じぬる人は、自ら、明らかに、その非を知る故に、志、常に満たずして、終に物に誇る事なし」という賢者に関する、兼好の着眼はけっして古くなるどころか、時代を越えて、人間が生きている限り、その心の深いところにまで到達する「人間観」だと感じ入ったあまり、自らの卑小な経験を、さもそれらしく語ってしまったのです。恥ずかしいことでした。

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いきはよいよい かえりはこわい

 【新生面】きょうは左遷の日。何やら物騒な記念日だけど、菅原道真が大宰府に左遷された日と聞けば納得がいく。901年というから千年以上も前の話。サラリーマンに転勤は付き物で、悲哀も世の常ということか▼ここ数年、友人からの年賀状に「定年」と書き添えてあるのが交じるようになった。その度に、お互いそんな年代になったのだと感じ入る次第。勤め人の宿命から解放される記念日に違いないが、一抹の寂しさを共有する瞬間でもある▼「5万回斬られた男」の異名を取る俳優福本清三さんの追悼記事が14日付朝刊に載った。15歳で東映京都撮影所に入り、77歳で亡くなる直前まで斬られ役一筋。名は知らずとも顔に見覚えのある人は多いはず。60歳の定年を前に出した自伝でこう語る。「たった一人でいいから『あいつ斬られ方うまいやないか』と思ってくれたら、それでええ」▼本は『どこかで誰かが見ていてくれる』創美社。だが、聞き書きをしたライターは後書きで、「福本さんは誰も見てくれてはいないことを知った上で、ここまで努力してきたのではないか」と締めくくる。「代表作なし」と添えて▼しかし、実際は違った。定年後も一斬られ役を続け、71歳の時に映画『太秦[うずまさ]ライムライト』で人生初の主演。現実と重なる哀愁を帯びた大部屋俳優を演じた。集大成といえる、えび反りで倒れる場面が印象深い▼カナダの国際映画祭で最優秀男優賞を受賞。主役抜てきも男優賞も、誰かが見ていたことの証しである。定年は通過点だった。(熊本日日新聞・01月25日 )(右上・太宰府天満宮)

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 なにかと気ぜわしい睦月の下旬です。いろいろなことが、一年のクギリもケジメもなく、だらだらと続いています。コロナ渦はいうまでもなく、政治家の嘘もさらに進行中です。言い訳や弁解は、先ず嘘であると、ぼくは自分の経験から熟知しています。誰もが知っている「嘘=弁解」を聞き逃すという美風、いや醜風も相変わらずです。コラム氏が指摘されるように、本日は「左遷の日」だとか。いつから始まったのか、どこのだれが決めたのか、いずれもぼくは知りませんが、菅原道真の無念・怨念を祓うのと無関係ではなさそうです。左遷はあるが右遷がないのは公平を欠くといいたいのですが、これも「歴史の嘘」に類するのでしょうか。道真は延喜元年(901)に醍醐天皇の命により、九州太宰府に流された「才能あふれた貴人」されています。二年後に(栄達を邪魔されたという)「怨み」を抱いて、その地で亡くなった。「怨み骨髄に達する」というのは、どんな状態だか、ぼくにははかり知れませんが。「左遷」は、藤原時平の虚言によるとされていますから、今を去る千百年前から権力(出世)争いは延々と続いているんですね。(「出世」よりも「出家」、「出家」よりも「家出」を、ぼくは好む)(左上・湯島天神)

 学問の神様が、胸中いっぱいの「怨念」を宿して神になり、その神の代名詞である「怨念の束」を、はるか後世の「学問不知の公達(君達)」が日参して手を合わせ、大枚のお賽銭を投げ込み、縁起物の絵馬やお札と購うという、これもまた、いかにも麗しい「苦しい時の神頼み」という、万世に続く「嘘の歴」史じゃないですかね。この島の神社には「鷽替え神事」という風俗・風習もあります。(これについては、どこかで触れています)

 京都にいたころ、しばしば「北野天神さん」で遊びました。家から徒歩圏内でしたから、学校帰りに出かけた。当時は天神さんの由来も故事も一切知らなかったが、境内の白梅だけはよく覚えている。嵐電の終点は北野白梅町でした。また上京してからは、本郷に住んだので、湯島天神が徒歩数分の近さでした。「湯島の白梅」という歌謡曲を幼い口廻して謳っていましたから、ぼくにはなじみの地という感覚がありました。「湯島通れば 思い出し」のは、ぼくも同じでした。あの鏡花がこんな小説を書いたというので、仰天したことを覚えています。(上・北野天満宮)

 天満宮には「学問の神様」が祭られているという履歴には無頓着で、ひたすらお蔦・主税(ちから)の心意気を想像していたのでした。「(主税)月は晴れても心は暗闇だ。」…………「(お蔦)切れるの別れるのって、そんな事は芸者の時に云うものよ。……私にゃ死ねと云って下さい。」(「ああっ!」というのは大学一年生だったぼくです)(昭和十七年七月、戦争の最中でしたが、東宝映画『続婦系図』(マキノ雅弘監督)の主題歌として作られた。原作は泉鏡花なんですね。戦後の五十五年にも映画化されています。山本富士子・鶴田浩二主演・右下)

 (語るに落ちた話です。京都にいたころ、近所に撮影所関係の人が沢山住んでいました。学校帰りのぼくたちは、いつもその人たちに、自転車に載せられて撮影所に連れていかれ(主に大映と東映でした)、いきなりカツラをかぶらされ、着物を着せられて、撮影現場に連れられていきました。いわゆるエキストラという、その他大勢の役を与えられ、かなりの数の映画に駆り出されたことがありました。そんな関係もあって、映画館にはフリーパスで入れましたので、ぼくは大映と東映の映画ばかり見ていた。その他の映画を見る機会を失い、大きくなっても他の映画を見る機会を持たなかったのは、返す返すも残念だという想いを強く持っています。中学・高校の同級生や同窓生にも有名な映画俳優の親がいました。まったく記憶にはありませんが、どこかで福本清三さんにも出会っていたかもしれません。なにしろ、いつでも「大部屋」というところで詰めていたのですから。撮影が終わると(要するに、カットをいくつか撮り終えると)、お駄賃に飴玉かなんかをもらっていました)

作詞:佐伯孝夫、作曲:清水保雄、唄:藤原亮子・小畑 実

1(女)
  湯島通れば 想い出す
  お蔦(つた)主税(ちから)の 心意気
  知るや白梅 玉垣(たまがき)に
  残る二人の 影法師
2(男)
  忘れられよか 筒井筒(つついづつ)
  岸の柳の 縁むすび
  かたい契りを 義理ゆえに
  水に流すも 江戸育ち
3(男女)
  青い瓦斯燈(がすとう) 境内を
  出れば本郷 切通(きりどお)し
  あかぬ別れの 中空(なかぞら)に
  鐘は墨絵の 上野山

 天神さん続きですから、当然のこと、「とおりゃんせ」に触れなければいけません。「ここはどこの細道じゃ」「行きはよいよい 帰りはこわい」と。この童べ歌には、さまざまな意味づけが行われてきました。そして、いまだに明らかにされていない部分がたくさん残されているのです。それをここで、ぼくがとやかくいうのはできない相談で、もう少し調べが行きわたった段階で、私見を述べようかと考えています。それにしても、各地に、この童べ歌「発祥の地」という碑が建てられています。本家争いが起きていそうです。「やがて、この島は「石碑」(お墓)で埋まってしまうでしょう。

 左遷の日、それは何でもない話のタネのようであっても、すこし立ち止まって考えようとすると、いろいろな「石」に躓くみたいに、ぼくたちはいまもなお「歴史の石臼」に挽かれるという感覚を持ちます。一人の「貴人」に生じた政争の沙汰が千年を越えて生き永らえているというのも、奇怪であり不可思議でもあります。やがて宇宙に行って住もうかというご時世に、鈴を鳴らして祈願するという「風俗」は、ぼくたちの生存には可決の栄養素をなしているのですね。(蛇足 神社にお参りするという心がけはぼくにはありません。行くなら建物や植木の見物のためです)

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氷を解すべき温気胸中になくして、…

 長野・木曽 氷のカーテン 厳冬アート

 長野県御嶽山の麓、木曽町三岳の西野川沿いに、巨大なつららが無数に連なる「白川氷柱群」が現れている。崖からしみ出した伏流水が凍った冬の風物詩で、多い日には百人ほどの観光客が訪れている。

 高さ五十㍍、幅二百五十㍍の絶壁を氷柱が覆う姿は、まるで「氷のカーテン」。冷え込みが厳しい今冬は、例年より二週間ほど早い昨年十二月の下旬から少しずつ大きくなり始めた。(東京新聞・2021年1月25日 23時24分)

●氷柱(つらら)=垂氷とも書く。屋根に積もった雪がとけてしたたり落ちるとき,氷点下の気温のために軒下にできる氷の柱のこと。とけた水の量と気温によって,長さ数cm以下の小さなものから,地面にとどく大きなものまである。屋根の上でとけた雪は軒先からしずくとなって落ちるが,気温が低いと落ちる瞬間に凍ってしまう。次にやってきたしずくも同じ過程を繰り返し,しだいに太く,長いつららになる。とける量が多いと石筍のように下からも氷が盛り上がってきて,屋根から地面までつながることもある。(世界大百科事典 第2版の解説)

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 このところの低温で、庭一面に「霜柱」が立っています。小さいころに、通学の折、霜柱のできた道(舗装されてはいなかった)を踏みしめながら歩いたことを体が記憶しています。今朝も「ゴミ出し」(六時半)に行ったとき、近くの木々に霜が吹きつけられていて、あるいはこれが「樹氷」になるんじゃないかと愚かなことを想像していました。三十年ほど前です。山形の蔵王にスキーに出かけたことがあります。二月半ば過ぎだったか。ゲレンデの頂上から、「樹氷」の間を滑り降りた時の爽快な気分も、今は懐かしい思い出となりました。決して上手な滑り方ではありませんで、先ずは直滑降一本やりの乱暴なスキーぶりでした。(左上・霜柱)

 この「氷柱」という言葉を見たり聞いたりすると、ぼくは尊徳さんを連想します。金次郎としてあがめられて、劣島の学校の玄関前で銅像にされてしまった人です。ぼくの通った小学校にもありました。薪を背負って、本を読んでといういで立ちでした。その尊徳さんの語るところを、弟子の福住正兄が書きとめた「二宮翁夜話」を熱心に読んだことがあり、そこに「氷」だの「氷柱」などが出てきました。第二話の初めの部分を引いておきます。

六二 翁曰、大道は譬(タトヘ)ば水の如し、善く世の中を潤沢(ジユンタク)して滞(トヾコホ)らざる物なり、然る尊き大道も、書(シヨ)に筆(ヒツ)して書物と為す時は、世の中を潤沢(ジユンタク)する事なく、世の中の用に立つ事なし、譬(タトヘ)ば水の氷りたるが如し、元水には相違なしといへども、少しも潤沢せず、水の用はなさぬなり、而て書物の注釈(チウシヤク)と云物は又氷に氷柱(ツラヽ)の下りたるが如く、氷の解(トケ)て又氷柱(ツラヽ)と成しに同じ、世の中を潤沢せず、水の用を為さぬは、矢張(ヤハリ)同様なり、扨此氷となりたる経書を、世上の用に立んには胸(キヨウ)中の温気を以て、能解(トカ)して、元の水として用ひざれば、世の潤沢(ジユンタク)にはならず、実に無益の物なり、

 氷を解(トカ)すべき温気(ウンキ)胸(キヨウ)中になくして、氷の儘(マヽ)にて用ひて水の用をなすと思ふは愚の至なり、世の中神儒仏の学者有て世の中の用に立(たタ)ぬは是が為なり、能思ふべし、故に我(わガ)教は実行を尊む、夫経文と云ひ経書と云、其経と云は元機(ハタ)の竪糸の事なり、されば、竪(タテ)糸ばかりにては用をなさず、横(ヨコ)に日々実行を織(オリ)込て、初て用をなす物なり、横に実行を織(オ)らず、只竪糸のみにては益(エキ)なき事、弁(ベン)を待たずして明か也 (巻二 六十二)

 読んで文の如し。余計な注釈はいらない。そんな仕業こそが「氷柱」だと尊徳は言うのです。この指摘は気に入りました。ぼくは、何でも世の信奉者がするように、彼を崇め奉ることはできませんでした。彼の言うところを素直に取り入れ、つたない歩行の支えになるかもと、我流で読みこんできただけでした。「氷を解(トカ)すべき温気(ウンキ)胸(キヨウ)中になくして」という表現に、若く無知だったぼくは、引き付けられてしまったといっておきます。そんなに情熱家でもありませんし、尊徳教の信者でもありませんでしたから、まあ、いずれの時代にも自分の頭で考え、自分の脚で歩いた人、またそうしようとした人々がいたという実感がぼくに生まれれば、それで十分でした。これまでに何回か、「夜話」を読んできました。

●二宮尊徳(1787-1856)=江戸時代後期の農政家。天明7年7月23日生まれ。勤倹努力して没落した家を再興。小田原藩家老服部家,藩主の分家宇津家の下野(しもつけ)(栃木県)桜町領,陸奥(むつ)中村藩(福島県)などの再建に尽力。のち幕臣となり,日光領の復興にあたる。門下はその教えをうけて報徳社運動を展開した。「二宮尊徳全集」がある。安政3年10月20日死去。70歳。相模(さがみ)(神奈川県)出身。通称は金次郎。名は「たかのり」ともよむ。【格言など】大事をなさんと思わば小なることを怠らず勤むべし,小積りて大となればなり(デジタル版日本人名辞典)

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 当たり前のように、各地の小学校に置かれた二宮金次郎像。軍国主義の燃え盛る時代状況に「至誠報徳」「報恩」教の教祖に祭り上げられた尊徳の教えが合致させられたのです。時代の「皇民化教育」にさかんに利用され、修身のお手本とされた。薪を背負い、本を読む、なんと物騒な姿だったか。学校に「金次郎像」を設置した経緯もありますが、機会があれば、それはどこかで。

【余録】二宮金次郎(にのみや・きんじろう)像は、かつて小学校校庭の定番だった。まきを背負いながら本を読み歩くこのスタイル、一説によると1891(明治24)年に出版された「二宮尊徳翁」(幸田露伴(こうだ・ろはん)著)に載ったさし絵のイメージが起源だという▲いまの子どもたちも重荷を背負いつつ、勉強に励んでいるようだ。小学生の使うランドセルがここ数年、重くなっている。大手ランドセルメーカーの調査によると、1週間で最も重い日の総重量は6キロにも達する▲ランドセルが重くなっているのは「ゆとり教育」の見直しなどで教科書の分量が増し、大型化しているためだ。小学教科書のページ数は10年間で3割以上増えたとの別の調査結果もある。背中にずしりと重さを感じて通学し、児童の3割が首などに痛みを感じているという。身体への影響も軽視できない▲そんな状況を受けて文部科学省は先月、教材を学校に置いて帰ることを事実上認める通知を出した。「置き勉」と呼ばれる方法で、家庭学習の妨げになるとしてこれまで多くの教育現場で認めてこなかった▲国の通知を受けて「置き勉」を解禁する小学校は増えているようだ。肩の荷が減るのは子どもたちにとって、まずは朗報といえよう。それでも再来年から小学3年生以上で英語が必修化されるなど、教材が増える傾向は変わりそうもない▲全教科を合わせた教科書の総ページ数を増やさないような発想もそろそろ必要ではないか。教室に置かれたままの教材がふくらんでいく光景はいびつだ。(毎日新聞2018年10月21日)

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 わが連想はどこまで行くのか、行方知れずです。「氷柱」から「尊徳」に飛ぶのも何かの仕業です。ぼくも少年時代、「薪」を背負って、生活の足しにしていたことがありました。金次郎に似るべくもなかったのは幸いだったというべきか。本を読んで、薪を背負って、孝行に尽くす子どもは「国の宝」と賞賛された時代のたまものだったというべきでしょう。今日は「余録」にあるように、「薪」とは違った「重荷」を背負わされ登下校する子どもの姿が目につきます。

 ぼくは中学校時代、教科書などを持たないで登校し、時間ごとに隣のクラスの友達から教科書を借りたものです。(家で宿題はしない主義でした。つまり、学校の事は家に持ち込まなかったんですね)何もなしの「手ぶらで学校」を率先していた。それで何不自由もなかった。当然のように、教師に怒られたので、やがて止めてしまったが、きっとぼくは何十年も先取りしていたのだろうと思う。

 今や、ランドセル(カバン)は廃止され、登校も必要なくなってしまい、それに代わって、ズーム授業、オンライン教室の時代が来る。それでさえも一過性の移り行きで、遂には学校も授業もなくなる時代が到来し、仕舞には「学校」があったことすら忘れられれることになる。まるでドラえもんの世界であり、犬や猫(without scools)の世界ですね。「勉強、勉強」というけれど、大事なことは生きていく中で、自ずから学ぶのだという、当たり前の事実に気が付けば、ぼくたちはもっと楽に生きていけるでしょうに。

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 水晶に朝日かゝやぐ氷柱哉(正岡子規)

 隧道の口に大なる氷柱かな(夏目漱石)

 崖氷柱かすかな音に育ちゆく(阿部みどり女)

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 厳しい追及があってこその、深い反省です

 【正平調】方方さん。中国語では「ファンファン」と読む。武漢市に住む女性作家だ。1955年生まれ。そのブログ「武漢日記」を1億人が読んだという◆昨年のちょうど今ごろ、1千万人が暮らす大都市は殻を閉じた。新型コロナウイルスの感染拡大に伴う都市封鎖である。動きを止めた街で何を思ったのか。1月25日から書き始めた日記は、日本語版でも出版された。心に残ったくだりを紹介しよう◆食べ物をどうやって調達するか、市民はどう助け合ったか、病院の実情はどうか。普段の出来事をつぶさに書きながら、彼女の言葉は時に、やいばのようになる。切っ先が向くのは政府や官僚らの姿勢である◆たとえば、福祉施設で感染した高齢者が相次いで亡くなったと聞いて。「国の文明度を測る基準」は、ビルの高さ、車の速さ、爆買いや勇ましい軍隊などではなく、「弱者に対して国がどういう態度を取るかだ」◆感染がなぜこれほど広がったか、情報をもっと公開すべきだ。疑問点を市民で書きとめ、迅速な調査を政府に求めよう。なぜなら「反省と追及はセットである。厳しい追及がなければ、深い反省もない」から◆近くの国の過ぎ去った話ではない。緊急事態宣言下、私たちが日々向き合っていることだと、読みながら思う。(神戸新聞・2021・1・24)(蛇足 「読みながら思う」というよう他人行儀ではいけないんじゃないですか。書きながら、書きながら、わが島の「惨状に一人立つ」という、記者の気概がいりますね。一読者として、率直な愚想・愚念をを謝す)

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 いったい、目の前で何が起こっているのか。誰もが眼前の事実として経験している事柄です。それを書き留める役割を社会から委託されているのが新聞であるとするなら、果してこの社会の新聞報道はその役割を十分に果たしているか。それがこの何十年とは言わないが、すくなくとも十年にわたって問われ続けて来た。この隣国の一作家の記録にいち早く飛びついたのがほかならぬマスコミ、殊に新聞であったとなれば、なおさら自らの果たすべき職務に忸怩たるものがあるからだといいたいんです。言いたいことではなく、言わねばならぬことを、どれだけ言おうとしているか、誰もがそれを知っていて、その事実を隠す。明らかにしない理由は何か。一例として、この危機のさなかに「五輪」開催をうんぬんすること自体が不真面目であるし、当たり前に考えれば、直ちに「中止」を報道するべきではないか。ところが英米の新聞が書いたから、それを「外電」としてで伝えるだけ。(他人の✖✖で相撲を取るの類、自分でやれよ))その姿勢の裏を読めというのか、ちがうと思う。島の四大紙とか言われるものがことごとく五輪組織員会の「スポンサー」に納まっている一事を見れば、なにをか、いわんや。ただただ、呆れるばかり。

●●● 2020年東京大会 新聞4社がオフィシャルパートナーに決定

 東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会と新聞4社は1月22日、東京2020スポンサーシップ契約を締結し、読売新聞東京本社、朝日新聞社、日本経済新聞社、毎日新聞社がオフィシャルパートナーに決定した。契約カテゴリーは新聞。/ 同スポンサーシップは「一業種一社」を原則とするが、同カテゴリーについては国際オリンピック委員会と協議の結果、特例として複数の新聞社が共存することになった。(以下略)(「電通報」(2016/01/22)(https://dentsu-ho.com/articles/3620)(後日、北海道新聞が参加)

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 隣りの「大国」が人民民主主義の国ではない、独裁権力の国であることをぼくたちは知っている。これまでさまざまな暴力による人民への弾圧をくりかえしてきた。今また、同じことをしている。香港における弾圧は、なおつづいている。このようなさなかに、「コロナ感染」が爆発した。その少し前には一人の医師が「警戒・警告」を発したが、当局は治安を乱したという理由で拘束した。(その後、事態の真相のいくばくかが明らかにされると、一転して「英雄」視されるようにと、もちあげた。事程左様に、権力者はどんなものでも、自らの権力維持や拡大に有用であればしゃぶりつくす。反対に有害と判断すれば、全体重をかけて「一匹の蟻」でさえも踏みつぶそうとする。<「国の文明度を測る基準」は、ビルの高さ、車の速さ、爆買いや勇ましい軍隊などではなく、「弱者に対して国がどういう態度を取るかだ」>と、当たり前の人間尊重の価値を、方方さんは述べている。それが気に食わないのは、どこの権力者も「人間尊重」は「己の人権」のみ、人民の権利は「蹂躙すべし」とすり替えて、憚らないのです。どんなに小さな声でも、図星をつくとなると、それを沈黙させようと権力者はあらゆる手段を使う。それを放置すれば、堤防の決壊をまねくと、本能で知っているからです。

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 1年後も続く「武漢日記」たたき 作家の方方さん、記録大切さ訴え

 【北京共同】新型コロナウイルス対応で封鎖された中国湖北省武漢市の生活を記録して国際的な反響を呼んだ地元作家、方方さん(65)は、中国の暗部も描いた「武漢日記」を発表したことで封鎖から1年が経過した今でも、愛国主義者らの攻撃が続いていると明らかにした。それでも記録を残す大切さを訴えた。/ 23日で封鎖1年を迎えるのに合わせ共同通信の書面取材に答えた。今月、世界保健機関(WHO)の国際調査団が武漢入りしてから攻撃が強まったという。当局から海外メディアの取材に応じないようくぎを刺されており「当面、取材を受けるのはこれで最後」とした。(東京新聞・2021年1月23日)(共同通信)(右上・「武漢日記」の作者、方方さん)

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 日記が明らかにした事態から一年が経過した段階で、作家が今どのような状況下に置かれているか、ほんの少しですが、伝わってきます。「余計なことをいうな」と、当局から釘を刺されているという。「真実の小さな鍵穴」を閉ざしてはならない、とぼくは真剣に考えている。権力を批判し非難するのは、ぼく(たち)の役目ではない。一人の市民という弱者の良くするところではないのです。それ故に、かかる仕事を人民から委託されている職域があるのです。病気を治療するのが社会的義務とされる医者が存在するように、託された義務が報道機関にもあるはずですし、それを当事者も知っていると思う。だが、それがじゅうぶんに果たされいないのは、自分たちもまた、「権力の一員」であるという、恥ずかしいほど呆れた錯覚があるからではないでしょうか。

 報道機関の「名詞」をかざせば、泣く子も黙ると勘ちがいしているのでしょう。情けないけれど、そのことを即座に否定できないのが、この島の報道機関そのもの。そこに属する個々のメンバーには誠意もあり義務感もあるけれども、企業や機関(組織体)としてそうなっていないところに大きな課題があるのです。組織の腐敗は個々の細胞の死に直結する。組織の腐敗はどこから生まれるか。その理由は何か。言わなくてもわかるはずです。「自己保身」「自己防衛」「自己肥大(増殖)」といった「自尊感情」がとめどもなく膨れ上がってきて、それが(権力側に)うまく出汁に使われて、牙だか批判精神だかを奪われてしまった。果たしてそのことに気が付いているのかいないのか。今、そのような堕落し頽廃した機関車(組織)から飛び降りる人々が五万と出てきたし、その人々がまた、初心に帰って新たな批判精神披歴・開陳の仕事を始めています。ぼくはその方々に深甚の応援を送りたい。無所属万歳、です。「ごまめの歯ぎしり」で結構さ。小は大を射ること、得意の戦法なんです。

 こんなことはこれまでにも繰り返し言ってきたことですから、これ以上の駄弁は止めておきます。この島の報道機関には、権力側に自分も位置したいというあからさまな一念で「頑張っている(我を張る)」ところがあります。それが憲法違反ではない限り一向にかまわない。事実を報道しているかどうかが判断の基準になるからです。それとは反対(権力のすることはすべてOKとはいない、ならない)の立場で、更に批判的な報道を貫こうとする機関があるとは、ぼくには見えないのが残念だし、じつに情けなく思う。ぼくは新聞やテレビをいつでも注視している人間ではありません。むしろ、それを敬遠している言った方がすっきりします。だから新聞やテレビがどんな記事や番組を垂れ流しても構わないというのではない。言うまでもないことで、それぞれが社会から課されている責任を忘れているとみるからこそ、言わなければならないことを言うだけなんだ。持ち場で手を抜くと、迷惑は思わぬ方面にも及ぶからです。

 権力の愚行についても、ぼくは同じ態度を維持したいと考えています。「ごまめの歯ぎしり」というのですか、「力量の足りない者がいたずらにいきりたつことのたとえ。石亀の地団駄。〔諺苑(1797)〕」(精選版日本国語大辞典)歯ぎしりしたいけど、今や義歯です。義歯でも可能なことが何か、ささやかな「日記」を書くことです。男もすなる日記を、我もしてみんとするなり。包み隠さず、言わねばならぬことを表白する。

 それで結構、なんと言われようと、(悲壮感などは微塵ももたないで)、おかしいことはおかしい、ダメなものはダメと、言い続ける、それがぼくの「自主トレ」のメニューになっているのです。ここにいう「ごまめ」とは「小型のカタクチイワシ、煮干し。御健在(ごまめ)の意にあてて縁起物として正月料理に用いられる。おもにあめ煮にするが,だしをとるのにも利用。田作(たづくり)とも呼ばれるがこれは昔イワシが肥料とされたためなどといわれる」(マイペディア)いま、これが拙宅に困るほどある、猫の大好物だからです。その残りを、ぼくら夫婦は時々いただく。

 例えば、コロナ感染者数の報道をみると、国民のいのちを守ろうとする気があるのか、それとも捨て置け、構うなという、棄民の姿勢をあからさまにしようとしているのか、ぼくは、この一年つくづく政府や政治家の汚さを見せつけられてきた。その汚い政治や政治家を「美装」してきたのが報道機関。美装を偽装する作業に社運をかけているのかしら。本日の感染者は何名、重症者や死者は何名などと、累計何名でしたと、何をもって(ごんなわけがあって)こんな愚を繰り返しているのか。それを知ってか知らずか、一向に改めない。さらに言うと、ある邪な意図をもった、明らかに数値のごまかしがあります。改竄ですね。どんなことがあっても「五輪」開催というのですから、それに合わせて状況を作り変える役割を報道機関は嬉々として果たしています。この時、「大本営」は誰であり、どこにあるのでしょうか。政府報道のいたるところに「大本営」はあるのです。官邸記者クラブや内閣記者会、各省庁記者会などといった「小本営」が。いわば分担して人民を苦役死させようと企んでいるのが目に見えます。人間を数値に閉じ込めて、(悪質という点において)恬淡としていられる恐ろしさ。如何にも、如何にも「コロナ死」や哀れ。

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