歩き続けて果てに熄(や)む

 個性とは「個人または個体・個物に備わった、そのもの特有の性質。個人性。パーソナリティー」(デジタル大辞泉)とあります。 そのpersonalityとは「〔ある人の全体を表す〕人柄、人となり、性格、人格〔その人を目立たせている〕個性、魅力〔ある特質を具現化した〕人、人物 〔芸能界やスポーツ界の〕有名人、著名人 人としての条件、人たらしめているもの〔人に対する〕悪口、中傷◆通例、personalitie〔場や場所の〕雰囲気、特徴 変わり者、奇人」(英辞郎)と盛りだくさんです。個性の第一義は「個体・個物に備わった、そのもの特有の性質」でしょう。留意すべきは、「個性」という概念(concept・notion)(対象に向ける捉え方と、そこから生まれる内容・考え方)は、ともすれば人間にだけ適応されていますが、ぼくは、もはやそれだけでは足りないと考えています。今風に言うなら「猫派(族)」「犬派(族)」という分類が成り立つし、それぞれの犬族・猫族の中の個々の犬や猫にも「個性」は認められるのは当然ではないでしょうか。パーソナリティという語そのものが人間に限定されているのは、時代の流れからすれば、止む無しという嫌いは認めますが、この先はAという犬、Bという猫にも、過不足なく「個性」(「個別性」「固有性」)を認めたいものだと考えているのです。(下図を参照 Genequest「遺伝子解析の仕組み」・https://genequest.jp/about_gene/2/

 類人猿(猿・apes)と霊長類(人・primates)は、それぞれが「個性」であって、それは、他の類とは異なる「猿の固有性」、「人の固有性」を指して使われる言葉だった。それぞれが示す「猿という個性」「人という個性」、つまりは「類を異にする生物」全体に固有の属性を意味していたのです。やがて、この「個別性」「固有性」は「類全体の中の個々人」に焦点を当てた時に、今日多くの場合に用いられる「個性」という語が当てはめることになったと思われます。いうまでもなく「ヒトゲノム遺伝子」を有するから「ヒト」になるのであり、それは「サル」とはちがう「個性」だと言い換えればどうでしょう。サルと並べられれば、ヒトはその存在そのものが(サルとは異なる)「個性」「個別性」固有性」を示していると言える。今度は「ヒト」を「人」としてとらえ直すと、多くの人の集団(人種・人類)の中で、たった一人、他とは同じではない固有性・個別性を持っていると考えられるもの、それがいわゆる「個性」とされるものなのでしょう。ただこの「個性」はやたらに使われ過ぎてきました。濫用の弊が著しいと言いたくなります。

 本日のコラム「春秋」は免疫学者だった多田富雄さんのことに触れています。いろいろな場面でよく知られた人で、その活躍の範囲も常軌を逸していたと、ぼくには思われるほど広い範囲で足跡を残されました。もちろん、彼のもっともすぐれた業績は「免疫学(immunology)」でしたから、その学問やそれに関係する事柄に早くから啓蒙の意味を込めた活動を展開されてきました。ぼくは多田さんの書かれた多くの書物で、いつでも「蒙を啓かれた」一人であると思っています。さいわいにも「生物学者」に友人が多くいたことも手伝って、いっそう多田さんの仕事に興味を持つに至ったともいえます。

【春秋】もう一人の免疫学者 人体ってうまくできているなぁとつくづく感じた今年のノーベル生理学・医学賞だった。受賞が決まった坂口志文(しもん)さんは制御性T細胞を発見した。異物が体内に入った時、免疫反応が過剰になるのを抑える細胞だ▼この分野の先駆者に多田富雄さんがいる。1970年代、免疫反応を抑える仕組みにT細胞が関係していると仮説を唱え、世界から注目された。しかしその後、否定的な研究結果が出て、この分野の研究は勢いが弱まっていく▼多田さんは生前、生命科学の深い世界から現代社会を鋭く見つめた随筆を数多く残した。その中に人の遺伝子に関する文章がある▼人にはヒトゲノムと呼ばれる遺伝子の総体があり、人からは犬や猫ではなく人が生まれる。そんな共通点がありながら、誰一人として同じ人がいないのは「ほんのわずかの違いを持った遺伝子が含まれている」という個別性があるからだ▼「ほんのわずかの違い」は肌の色や身体的な特徴として表れる。先天的な障害として表れることもあるが、そういう遺伝子の一つや二つは誰でも持っている。たまたま形として表れていないだけで「それで差別することは、自分自身を否定することになる」▼わずかな違いに過剰反応して他者を排除するのではなく、同じ人間という共通点を重視して違いを認め合う大切さを説いた。比類なき免疫学者には、世界全体が一つの生命体に見えていたのだろう。(西日本新聞・2025/10/21)

 *「あの人に会いたい」                                 「世界的な免疫学者・多田富雄さん。アレルギーなどの研究に新しい道を開くと同時に、免疫の仕組みを通して、人間や社会を考える独自の視点で、命とは何かを語りかけた。2001年に脳こうそくで右半身の自由とことばを失ってからは、自身の身体と心の変容を科学者として客観的に見つめ、言語装置を使いながら発表の場に立ち、鋭い視点の著作を数多く遺した。『科学者はシェイクスピアを、文学者は相対性理論を読まなければならない』『半身が動かなくても、言葉が喋れなくても、私の中で日々行われている生命活動は創造的である』『歩き続けて果てに熄(や)む』…亡くなる直前まで多田が語り続けた思い、そして『寛容』に代表される生命や文明の行く末に希望を託した数々の『ことば』が今甦る」

(NHKアーカイブス」:https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009250312_00000

多田富雄(ただとみお)[生]1934.3.31. 茨城,結城 [没]2010.4.21. 東京,文京 免疫学者。1959年千葉大学医学部を卒業,1964年同大学大学院で博士号を取得後,アメリカ合衆国に留学して石坂公成らに学ぶ。1974~77年千葉大学教授,1977~95年東京大学教授,1995~99年東京理科大学生命科学研究所所長を務めた。1971年に免疫反応を抑える抑制T細胞(サプレッサーT細胞。→T細胞)の存在を提唱,免疫寛容を引き起こすメカニズムを説明した(→免疫寛容性)。抑制T細胞の概念は,その後京都大学の坂口志文らが発見した制御性T細胞の研究に引き継がれた。『免疫の意味論』(1993,大佛次郎賞),『寡黙なる巨人』(2007,小林秀雄賞)などのエッセーを執筆する一方,若いときから能と大倉流小鼓に親しみ,脳死と臓器移植を扱った『無明の井』,原子爆弾を扱った『原爆忌』などの新作能を発表した。2001年脳梗塞で倒れ,重い後遺症を抱えたがリハビリテーションに励み,活発な創作活動を続けた。1980年エミール・フォン・ベーリング賞,1981年度朝日賞など受賞多数。1984年文化功労者に選ばれ,2009年瑞宝重光章を受章した。(ブリタニカ国際大百科事典)

ヒトゲノム(human genome)= 人体の全染色体を構成する約 30億塩基対のデオキシリボ核酸 DNA。ヒトゲノムには,全遺伝子約 2万5000の情報を記録するコード領域と,遺伝情報を伝えない非コード領域がある。2003年にすべての DNA配列が解読された(→ヒトゲノム解析計画)。ほかのすべての生物のゲノムと同様,ヒトゲノムは長い DNAポリマーの集合体である。DNAポリマーは,ヒトの全細胞中の染色体上に対になって存在し,DNAを構成する四つの塩基(グアニン G,アデニン A,チミン T,シトシン C)の配列により,生命体の分子的,身体的特徴に関する情報を暗号化している。この DNAポリマーの配列や構造,DNAが受ける化学修飾によって,ゲノム内の遺伝情報発現に必要な機構が生じるだけでなく,DNAの複製,修復,パッケージング,自己保存などの機能も提供される。加えてゲノムにはさまざまな種類の細胞再生に必要な基本情報が保存されており,ゲノムなしではどの細胞,組織も短期間しか生きられない。一卵性双生児を除き,ゲノム配列がまったく同じ人間はいない。またゲノムには高い頻度で変異が起こる。変異の一部は無害であるか,有益なことさえあり,こうした形質は親から子へと受け継がれ,集団内に広がっていく。他方,生存率や繁殖力の低下を招く有害な変異が生じることもあるが,集団ではまれである。ヒトゲノムの解明を通じ,ヒトという種の起源や集団相互の関係,個人の健康状態と疾患リスクなどを知ることができる。ヒトゲノムから引き出せる情報量は膨大であり,その情報の応用範囲は驚くほど広がっている。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 「個性って何ですか」、と問われると、ぼくは非常に困ってしまう。特に学校教育では「個性の尊重」などと誰もが口にします。しかし、本当に「個性」がわかり、「個性を尊重する」ということがわかる人はほとんどいないのが実情です。「個性」とは「その存在の唯一性」を言い当てるもので、だれが、それを見抜いているでしょうか。その「存在の掛け替えのなさ」であって、それ以外に個性というものが表す対象はないとぼくは考えている。それ(個性を尊重すること)は、だからとても困難なことなんですよ。その証拠に、「個性を尊重する」と言いながら、それを侵害・抑圧していることがどこにでも見られるからです。誰もが使う「個性」という言葉はとても怪しいと、解剖学者の養老孟司氏はいつだって文句を言っておられる。

 そしてその都度「スマップの『世界に一つだけの花』」を槍玉にあげるのです。「いろんな花を見ていた どれもみんなきれいだね」「それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?」と謳うけれど、どんな花も「世界に一つだけの花」であって、同じものは何処にもないのが当たり前。人間だって、そうでしょ、個性、個性っていうけれど、花の個性ってなぜ言わないのか。花だって「たった一つ」の花だけれど、その仲間は「コスモス」だって「菊」だって、無数にある。けれども、どの花も、同じ「花」は二つとない、それをあえて「個性」と言わないのは、みんなは分かっているからでしょう、だのに、なぜ「(人間の)個性」ばかりを強調するんですか」とね。「ヒトゲノム」の働きで、人間はサルにも花にもならないし、ヒトにはなっても、まったく無類の「ヒト(人)」にしかならないのですよ。それを分かって「個性」という言葉を使う、それは構わないですよ。個性は「個別性」です、誰とも違う「固有性」の持ち主と言う意味。個性は伸ばすものではなく、尊重するものです。

 「誰一人として同じ人がいないのは『ほんのわずかの違いを持った遺伝子が含まれている』という個別性があるからだ」ということを、更にぼくたちは深く受け止める必要があります。「わずかな違いに過剰反応して他者を排除するのではなく、同じ人間という共通点を重視して違いを認め合う大切さを説いた」という免疫学の泰斗としての多田さんの思想は、意外に思われるかもしれませんが、とても受け止めることは難しいでしょう。あの人にもこの人にも、誰にも彼にも「わずかばかりのヒトゲノム」が内在し、それがサルとは違う「人」にもすれば、他者とは異なる「自分」にもしているのです。いろいろな花があっても、それぞれは「世界に一つだけの花」だと分かれば、「ヒトは人」であるし、「人は、一人一人である」「世界でたった一人の人」ということも肯けるんじゃないですか。

 (右は遠山啓著「かけがえのない この自分」数学者だった遠山さんは、吉本隆明さんの大学時代の恩師だった。この駄文集録でも触れていますが、その時の「出会い」を吉本さんは後年、「彼は教えた、だから私は学ばなかった。彼は教えなかった、だから私は学んだ」という逆説の真理で語っています。同著は太郎次郎社、1995年刊)

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成長とともに老化は始まっている

⦿「徒然に日乗」考 ~ はじめに、失敗談をひとくさり(一齣/一闋)。先週土曜日(18日)の午後だったか、パソコンをいじっていたら、「Cドライブの残量が少なくなりました」という表示が出て、容量を確保しなければいろいろと支障が出るという含みでした。慌てはしませんでしたが、「なぜだろう、そんなはずはないのに」と、一種の困惑が生じたのは事実。現在使用中の「ハード」は八年ほど前、新規に作ったもの(卒業生で、現在大阪市内の私立大学教員。ハードに関わるパソコンの面倒をすべて任せている人がいます。ぼくの師匠)で、容量はそれ以前とはけた違い、比べ物にならない大容量にしてもらったので、「容量不足」など考えたこともなかったし、ごくたまに使用量(残量)を見ることはあっても、半分も使っていないという状態で、ここまできていました。

 いろいろと調べているうちに、持ち主の関知しないところで、パソコン製造企業がさまざまなソフトを入れているのが原因らしいということが考えられました。どのソフトやアプリが必要で、どれは必ずしも必要なものではないなどとは、なかなか素人には判断が付きません。手当たり次第に、操作上には関係なさそうなもの(AI関連やTikTok、さらにはスマホ関係のハードソフト、そしてアプリなどを軒並み除去しました)を「削除」していたら、いろいろと不具合が出てきたり、保存していたファイルが消えていたり。その中でも、かなりの分量の文書を保存しておいたものが、なくなっていました(行方不明)。一例が「徒然に日乗」(日記みたいなメモ書き)でした。一週間分ごとにアップするつもりのものでしたが、それが、これまでの分を含めてすべて消えて、所在はなお行方不明。迂闊にも、このことに気が付いたのが、一昨晩、就寝前でした。ええままよ、なるようになるし、ならないことはならないと、いつも通りに床にはいりました。

 というわけで、今週の「徒然に日乗」(886~892)は月(13日)から土(18日)までの分は消失状態なので、「日曜日(19日)」分だけになるという変則記載です。それでどうなるものでもないというほどに、ぼくは毎日、ほとんど無為と徒食で過ごしている、いかにも代わり映えのしない日々の明け暮れという日常が、図らずも判明したという次第です。もちろん、そんなことは先刻承知で、一生涯で「驚天動地」の出来事(アクシデント)に遭遇することはまずありえないと思いながら生きている人間です。「生まれれば、いつかは死ぬ」「生老病死」という約束事の中に閉じ込められているのですから、いわば、それにふさわしい生き方を求めれば、いつだって「旧態依然」「急患墨守」であり、「誕生から老化は始まっている」という生命に不可避の宿命に縛られているともいえるでしょう。

 ほとんどの人は、ある年齢を過ぎてから「老化(aging phenomenon)」が始まると思っている、思いたいようですが、なんのことはない、「成長と老化」は二人三脚、背中合わせで走っているようなものなんですね。それが自然、あるいは自然状態。老化を防ぐためにさまざまなアプリならぬサプリを摂取する人が多くいます。無駄な努力などとはいいません。でも、ぼくたちは意味もなく「若さ」「若者」を強調しすぎるきらいがあるように思われます。「おいくつですか?」「85歳ですよ」「えっ、お若く見えますね」などという意味不明の会話が横行しすぎています。「分相応」というのと同じように「年相応」という「流儀」をぼくは好みますし、大事にしたい。人生とは、などとぼくに語る何物もありません。アリやミミズのように、まだ何の意識もないうちに生まれてきてしまったのですから、何になりたいなどとは微塵も考えないで、分相応、年相応に生きようとすると、昨日も今日も明日も明後日も、来る日も来る日も「凸凹」がないような、平板で平凡な生活に沈潜するんじゃないですか。本当は、いささかの「凸凹」があるのでしょうが、それも時間の経過とともに、平坦な風景(景色)に変じて行って、何の違和感も覚えなくなるような気もしています。「偶然が必然に化す」と思うように、振り返れば、そうなるように生きて来たんだなあ、と感慨を深くする。

 というわけで、本日の「徒然に日乗」は、一日だけの「記録」ですが、それもまた、過ぎてしまえば、何ということもなし、ぼくの生活の常に変わらぬ「断面図」のようなものですよ。そんな風にぼくは捉えています。使用中のパソコンだって、持ち主同様に、かなり老化・劣化が進んでいるわけで、これまた使用者と同様、いつ何時寿命が尽きるかもわかりません。そこはそれ、下手に抵抗してもどうなるものでもないでしょうに。

 以下、「中日新聞」(「東京新聞」は、同社の東京本社らしいので、「コラム」は同じです)の「社説」でしょうか、「週のはじめに考える」を引用しました。「本屋が消える、どうすればいいか」という、まるで「高いところから流れる水」を逆流させるような難題に挑む風情です。その理由は何かというなら、10月27日から「読書週間」が始まるからだそうです。紙の本が消えるのは、紙の新聞が消えるのと同根、同因でしょう。これもまた、それぞれの「栄枯盛衰( rise and falls・「ups and downs)」のありのままの姿です。そして寿命は尽きる、それが自然でしょうか。

 以下の「社説」をご一読ください。ここにも「成長と老化」にまつわる問題があると思われないでしょうか。商売繁盛とばかりに、成長一点張りだと願いたいのですけれど、実はその裏か横か、きっと「老化」がぴたりと並走しているのですね。人生もまた、それに同じ。「成長の中に老化がある」「老化の中にも成長がある」、それは自然現象です。年齢を止めることはできないし、年齢は遡(さかのぼ)る(逆走する)こともできない。「自然現象」には逆らえないのが生命の宿命ですね。「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中にある人とすみかと、またかくのごとし」(「方丈記」)これは何かを諦めるのでもなければ、道義的な頽落でもありません。

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【社説」週のはじめに考える まちの本屋を守るには
 ご記憶の方がいるでしょうか。この欄では2019年9月29日に「さあ、本屋に行こう」と題し、この国で書店が次第に減っていく厳しい現状を訴えました。/しかし、残念ながら書店は今も苦境にあります。一般社団法人・日本出版インフラセンターの調査では、今年3月末の全国の書店は1万417店で、この10年の間に4千店以上も減りました。/とりわけ厳しいのが、いわゆる「まちの本屋」です。その一つが東京・自由が丘にあった「不二屋(ふじや)書店」=写真、今年2月撮影。/創業者の「本が街の子どもたちを育てる」という理念を継いで、孫で3代目社長の門坂直美さんが経営してきましたが、2月20日、惜しまれながら102年の歴史に幕を下ろしました。/40歳だった35年前に社長に就任した門坂さん。毎日の売上高は、最盛期には約120万円でしたが近年は35万~40万円にまで減少。「地代や人件費も上がっており、これではやっていけません」

 そもそも書店とは何か
 こうした書店が消える要因に、流通の仕組みをはじめさまざまな問題が指摘されますが、そもそも書店とは何でしょうか。ここではひとまず「幅の広い教養や、文芸作品などを印刷した紙の本を売る店」だと定義します。/そこで考えてみたいのは、この国で今、教養や文芸が重視されているか、という点です。/答えは「いいえ」。それは国の基盤である教育に表れています。/かつては多くの国立大に広範な知識を学ぶ「教養部」が置かれていました。しかし1990年代に次々に廃止されます。それは国が幅広い教養などより、社会ですぐ役に立つ専門知識を持った人材の育成を目指したからでした。/では、文芸はどうでしょうか。冒頭でお伝えした19年の本欄でも指摘した点ですが、文部科学省は22年度から、高校の国語では文芸作品の扱いを減らす方向で、学習指導要領を改定しました。/これもまた「社会ですぐ使える実用的な文章の読解能力を高める狙い」と言われています。/要は、国が「教養や文芸は役に立たない、いらない」と宣言したのにも等しい。それは書店の不振とも無縁ではないでしょう。


 次に「紙の本」について。/明治以来の日本の教育に近年、大変革がありました。これまでの教科書はすべて紙の本でしたが、デジタル教科書が登場しました。保険証をはじめさまざまな分野で「紙からデジタル」の切り替えを進める国策の一環です。
 もちろん、デジタル教科書にも利点があるでしょう。けれども、教科書のデジタル化が進んだら、紙の教科書を売ってきた書店では収益の柱を失います。電子書籍の台頭で痛手を受けた書店にとって「ダブルパンチ」です。/最後に、書店が本を「売る店」だという点を考えます。先に紹介した門坂さんも言う通り、本屋で本が売れなくなりました。無論、ネット通販や電子書籍などの影響ですが、他の理由もあります。/この国のエンゲル係数、つまり「家計の消費支出に占める食費の割合」を示す指標は24年度、28・3%と、43年ぶりの高さでした。一握りの富裕層が豪勢な暮らしを楽しむ一方、多くの人たちは日々食べることに精いっぱいで、本を買えるような余裕はない。そんな窮状がにじむデータです。/「不二屋書店」では閉店の前、多くの人が訪れて「残念です」と言い、本をまとめ買いしました。それを見た門坂さんは思ったそうです。「みなさん、本がいらないわけではなかった。買いたいのに我慢していたんだ」と。/最近は、在庫管理の電子化など書店の経営改善に向け国が支援に乗り出したことが、大きな希望のように報道されています。でも、なまじっかの支援で書店が守れるとは思えません。「国が発表した対策では、書店は救われない」と言う書店関係者さえいます。


 国家にできる支援とは
 では、どんな対策があるか。/英BBC放送が8月に報道したところによると、デンマークでは国民の読書離れ対策として、本の売上税(消費税)を今の25%から英国やノルウェーと同じくゼロにする方針だそうです。/日本でもこれぐらい大胆な策がほしいですが、無理でしょうね。国民の本離れ・活字離れを憂う国とは違って、その方が国民を統治しやすくなる、と為政者が考えているふしがありますから。/以上、27日からの第79回「読書週間」を前に考えたことです。(中日新聞・東京新聞・2025/10/19)

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「徒然に日乗」(892)(番外編)

〇2025/10/19(日)連日のようにすっきりしない天気が続く。終日自宅にとどまる。お昼過ぎに少し溜まっている燃やせるごみを焼却。猫の缶詰を購入する際に、つねに店内に備え付けの段ボール箱を調達するので、その数はかなりなもの。できるだけ保管しておいて使うのだが、その何倍もが溜まる一方。それを燃やした。相当の分量があった。▶気が付かないままで毎日パソコンをいじっていたが、なんと容量がほとんど尽きようとする、そんな警告が出た(昨日から)。いろいろとファイルを除去(削除・delete)したりしながら残量を増やす作業にかかりきり。あれこれ削除する間に、必要なファイルやドキュメントまで失くしてしまっている始末。長く使わなくなっていたHDD(500GB)のほこりを払い、なんとかPCに接続し、容量確保作業を夕方から続けているが、埒が明かない。明日も続きそう。▶ただ今午後9時。室温22.2℃、湿度66%。明日も雨天の予報が出ている。(892)

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Dual wield・Two-way player・「鬼滅の刃」

◎ 週の初めに愚考する(九拾壱)~ 普段はほとんどテレビを見ないし、まして「日本のプロ野球」など一切見ないで生活しています。毎朝、朝夕の食事はかみさんと摂るが、その時には、時計代わりにニュース番組を習慣的に見る。このところ毎朝毎晩のようにMLBの大谷翔平選手の活躍ぶりが報じられる。昨日は、たまたま時間があったので、午後のひと時、ナ・リーグの優勝決定戦(ワールドリーグ出場の)を観ていた。先発したのは大谷選手。一番バッター(DH)との二刀流(Two-way player)。この試合を観ていて、いろいろな感想が湧いてきましたが、大谷選手はすでに「野球」という既存の世界を突き抜けてしまったように思えました。彼は「ユニコーン」だという野球専門家もいる始末。なぜ「ユニコーン」なのか、おそらく「大谷は人間ではない」ということからの発想による命名でしょうが、それにしても、度肝を抜かれるだけでなく、その「ユニコーン」ぶりを発揮するために使われる、彼の生活すべてが「野球へ」「野球から」という、徹底した「生の哲学」にぼくは言葉を失う。

ユニコーン(英語: Unicorn, ギリシア語: Μονόκερως, ラテン語: Ūnicornuus)は、一角獣(いっかくじゅう)とも呼ばれ、額の中央に一本の角が生えた馬に似た伝説の生き物である。語源はラテン語の ūnus 「一つ」と cornū 「角」を合成した形容詞 ūnicornis (一角の)で、ギリシア語の「モノケロース」(モノセロス)から来ている。非常に獰猛であるが人間の力で殺すことが可能な生物で、処女の懐に抱かれておとなしくなるという。角には蛇などの毒で汚された水を清める力があるという。海の生物であるイッカクの角はユニコーンの角として乱獲されたとも言われる。(Wikipedia)

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 圧巻の大谷、投打で伝説作る ドジャースが4連勝で再びワールドシリーズ進出(CNN) 米大リーグ(MLB)のワールドシリーズは、今年も「SHO―TIME」だ。/ロサンゼルス・ドジャースは17日、ミルウォーキー・ブルワーズとのナショナル・リーグ優勝決定シリーズ(NLCS)第4戦に5―1で勝利し、4連勝を飾ってワールドシリーズ連覇に挑むことが決まった。ドジャースを率いる異次元のスター、大谷翔平はこの試合で3本塁打、10奪三振の大活躍。チームを勝利に導いた。/それは野球の歴史上、最高のパフォーマンスの一つだった。これだけの大舞台であればなおさらだ。MLB入りして以来、常に限界に挑戦してきた日本人の二刀流のスター、大谷は、6回無失点の好投を見せた。(以下略)(CNN・2025/10/18)(*【衝撃の“場外弾”大谷翔平 先発投手が飛距離143mの離れ業!仲間も頭を抱える驚愕の超特大弾!】ブリュワーズvsドジャース MLB 2025 リーグチャンピオンシップシリーズ第4戦 10.18)(https://www.youtube.com/watch?v=0UFegyqxxFY)(左写真は、以下に引用したロイター記事より。ヘッダー写真も)

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 今月初めに、全米プロ野球選手の中から、今年(25年)の最優秀選手(MVP)が選ばれたというニュースがありました。NYのアーロン・ジャッジ選手(右写真)。この選出に米国野球界の何人ものレジェンドたちが「異論」を唱えている番組を観ました。ジャッジ選手はいろいろな角度からみて、実に優秀な選手であることは認めたうえで、なぜMVPは大谷選手ではないのかという異論を滔々と述べているのです。それを眺めながら、わが意を得たりという思いを深くした次第。何の賞にしろ、そこに介在するのは選ぶ側の「価値観」(野球観)であり、それは確かに歴史的に形成されてきたものを外れることはまずないものですが、大谷選手のようにあらゆる面で「桁外れ(extraordinary)」「規格外(nonstandard)」の選手を前にして、おそらく、その力量を測る尺度が、審査・選考する側にはなかったことがあるという、何よりの証明で、その事実が今回の<MVP>選出に顕現したのだと、レジェンドたちは断言しています。これまでの<MVP>の基準・規格から大きく外れているということ、その問題は、選ぶ側にはとても困ったことだったと思う。あまりにも並外れていると、「並み」を定規にしている者には手も足も出ないのですね。「彼は人間ではないのだ」とでも言っておくほかないのでしょう。

MLB=ベースボール・アメリカ誌のMVP、ジャッジが受賞 [6日 ロイター] - 野球専門誌ベースボール・アメリカは6日、米大リーグ(MLB)の年間最優秀選手を発表し、ヤンキースのアーロン・ジャッジ外野手が選出された。ドジャースの大谷翔平選手は受賞を逃した。/今季のジャッジは打率3割3分1厘でア・リーグ首位打者に輝き、53本塁打、114打点、出塁率4割5分7厘、長打率6割8分8厘、OPS1.144と驚異的な成績を残した。/打率、出塁率、長打率はいずれも両リーグトップで、同誌によると第二次世界大戦以降のストライキによる短縮がないシーズンでは史上6人目の快挙。また、史上最多タイとなる4度目の50本塁打到達だった。/一方、大谷は自己最多にしてドジャースのシーズン最多記録となる55本塁打を放ち、MLBで23年ぶりとなる2年連続の50本塁打以上を達成。さらに20盗塁を決めたほか、OPS(出塁率+長打率)1.014はリーグ最高だった。そしてこれらを2年ぶりに先発投手として復帰する中で達成した。選ばれれば2021年、23年に続く3回目の選出だった。(ロイター・2025/10/06)

 (上の新聞は「SHO THE WAY TO THE WORLD SERIES」Los Angeles Times・2025/10/18)

 話は飛躍しますが、現在ポーランドのワルシャワでショパンコンクールが開かれており、日本から出場している何人かのピアニストが予選会を越えて二回・三回戦(決勝)に進んだことが報道されました。(余談ですが、ショパンのピアノ演奏を旨とするのに、「一回戦」「決勝戦」などと言うのは、いかにもそぐわないように思荒れます)その中には、ぼくもよく知っている一人の女性ピアニストも入っていました。その演奏はなかなか素晴らしく、すでに立派な演奏家だとぼくは見ましたが、彼女が(に限らず)コンクールで優勝でもしようものなら、その評価はさらに高騰するのでしょう。でも、仮に本選で優勝できなかったらどうなるか。その人自身の演奏は変わらないのに、優勝するかしないかで「評価」(他者のする評価)が異なることはいつでも起こっています。だから、多くの人は他者の評価を求めて「コンクール」に殺到するのでしょう。聴き手(観衆)は、「優勝」という評価に「演奏の折り紙付き」を認めているのですよ。審査員の「音楽観」や「音楽の模範」を越えて、測りがたい演奏家が出てきたらどうなるか。「審査不能」でしょうね。

 野球とピアノを比較したり、演奏家と選手を比べるのではありません。「MVP」なり「一位(優勝)」を選ぶのは審査員(選考者)だというところに、ぼくはある種のトリックと言うか、マヤカシがあると思うのです。「限界」と言ってもいい。審査員の人選が異なれば、選ばれる人は別の人になることは大いにあるとするなら、「演奏」「プレイ」の他人による評価には絶対性はないということになりませんか。受賞したから「評価」され、そうでなかったので、評価されないという時、「評価」の根拠は何処にあるかということです。「受賞歴」は肩書として意味を持つのですが、それにはいくつかの問題があるでしょう。アメリカの野球雑誌社が主催する「MLBのMVP」という栄誉も、そんな賞とは無関係に、抜群の力があると万人が認めた時(そんなことがありうるとして)、「MVP」自体が霞んで見えるということはあるでしょう。

 突飛な指摘に思われるかもしれません。少年時代に、草野球みたいなものに夢中になっていました。時には他所のチームと試合をすることもあった。そのような際に、ピッチャーで四番バッター、つまり「走・攻・守」に群を抜いて目立つ選手がいたことを覚えています。これは「草野球」だから起こりえる現象かと考えていました。野球センスが人一倍優れていれば、四番を打ってエースとして投げる、そんな選手は高校野球にはいくらもいました。しかし大学野球にもプロ野球にもほとんど見当たらないのは、それぞれの持ち場で「一流」になることは至難の業であり、だからそれを目指すのが当たり前のこととされていたからでしょう。(右は「二刀流」の本元、宮本武蔵像)

 大谷選手が大リーグに移り、「MLBでも二刀流を貫く」と報じられた時、日本野球界のレジェンドたちはさまざまな反応を示しました。「二刀流なんてできるはずもない、あの子は野球を舐めている」と激しく、大谷選手のパフォ―マンスを否定したのは張本勲氏でした。彼はしばらくその評価を変えなかったが、今では応援する側に回っているようです。彼の「二刀流拒否」の根拠は、野球というものはそんなに甘いものでないというものでした。彼は「打撃王」だった。また、日本ではともかく、メジャーで「大谷は本当にやって行けるのだろうか」と、疑問をもっていたのが野村克也さんでした。選手としても監督としても類まれな成績を残した野村さんにも、大谷選手の「未知の才能」が理解できなかったのでしょう。野村さんは、今の大谷さんの超人的活躍を知らないで亡くなられた。「本人がやりたいというのだから、やらせればいいでしょ。どうぞおやんなさい」と、積極的に「二刀流」を勧めていたのが落合博満さんだった。十年程前の、それぞれの「大谷評価」であり「野球観」でしたが、今日ただいま、誰の「予言」「予想」が当たっていたかと問うのではなく、人間の才能というものは既存の尺度(理解)では測りきれないということの証明であったと思う。

 メジャーリーグで「一人三役、四役」をこなしている大谷選手を見ると、彼は人間ではない、ユニコーンだと言いたくなるでしょうし、もはや彼は人間を超えたという人も出てくるのも当然という気もします。現実には、大谷翔平はユニコーンでもなければ非人間でもありませんから、あの驚嘆すべき記録は「才能」のしからしむるところでしょう。もちろん、その「才能」の裡には「努力し得る才」が含まれているのは言うまでもありません。誰よりも苦しみ、誰よりも真摯に野球(baseball)に打ち込みつつ、他の追随を許さぬ成績を残している、それが「天才」とされるゆえんなのではないでしょうか。

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「杖莫如信」(杖るは信に如くは莫し)

 その昔、日本社会党という政党がありました。しばしば言われる「五十五年体制」の一方の主役だったともいえます。他方は自民党であるのは言うまでもない。1955年10月、それまでは左右両派に分かれていた社会党が統一、その直後の11月、自由党と民主党が、いわば「保守合同」を果たして「自由民主党」に。以来、保革二大政党時代が続きました。詳細は省きますが、その二大政党が連立内閣を組み(「新党さきがけ」も加わる「自社さ連立政権」)、首班に指名されたのが村山富市さんでした。青天の霹靂とはこのことで、かかる「野合」の筋書きを描いた黒幕がいました。今はそれには触れません。村山内閣の「業績」というものについてたくさんの「(高低両様の)評価」があります。是非善悪を言えば切りがありませんけれど、右方向を目指し、左側を貫くのが「己の道」と信じていた者同士がそれぞれの思惑を抱えたままで「権力」を掌握(共有)するのですから、政治の常道からすれば、「同床異夢」「呉越同舟」であって、それは邪道。ロクなことにならないのは言うまでもありません。

 村山さんが首相になって何をしたか、多くの人が語っているので、ぼくは触れることはしません。その第一として、「村山談話」の発出が大きく評価されていますが、果たしてそうでしょうか。「50年談話」は、その後の「60年談話」を通り、「70年談話」で換骨奪胎の憂き目にあったのではなかったでしょうか。つまり、無謀な戦争をはじめ、終わってみれば自国は言うまでもなく、アジア諸国を含めて2千万人に及びぶ犠牲者を出した、そのことによる「謝罪」と「償い」を十分に果たさないままで、この国は、かつての敵国だった米国とくっつき、ここでもまた「脱亜入欧米」の歴史を繰り返したのでした。村山さんの人柄はそれとして、いかなる理由があるにせよ、身を売るような政治行動はとるべきではなかったと、今でもぼくは考えている。村山さんの「変節」「転向」は国家・国民のためと言って筋が通るものかどうか、ぼくには判断できませんが、個人として「義を見てせざるは勇無きなり(「見義不為無勇」『論語 為政』)」だったのかという疑問は今も続いているのです。

 不倶戴天の敵と認めていた「政敵」に与(くみ)することで、利を得たのはどちらだったか。今から見ても、いかにも利敵行為だったということもできます。その後の社会党の運命を見れば一目瞭然、後身はほぼ消滅したではありませんか。なんでも永続するのがいいとは限りませんけれど、禍根を残したままで、消えてゆくのは、いかにも潔くないという思いがぼくには強くあるのです。村山さんが百歳を超えて存(ながら)えられたのは慶賀の至りで、その感情をぼくはここで鮮明にしておきます。(合掌)

(その上で、政治家の判断や、その行動には、国家・国民の多くが影響されることを肝に銘じておくべきではないかと、蛇足ながら付言しておきたい)(「前車の轍を踏む」と言います。時には喜々として踏む輩がいます。村山さんたちが犯した「過ち」を、三十年後の「後生」が、俄かに、しかも喜んで模倣しているのが今現在の永田町です。国家・国民の不幸の止むときはない。「後生恐るべし」と言います)

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【春秋】巡り合わせの総理大臣 総理大臣でなければ味わえないと思ったことは何でしたかと問われ、自分の後任を決める首相指名選挙の場面を振り返った。議場に入る時は秘書官や警備ら何十人にも囲まれたが、出る時は潮が引いたように誰もいなかった。「ああ、やっと一人ぼっちになった。そのほっとした気分は総理を経験しないと味わえません」(対談本「そうじゃのう…」)▼村山富市さんならではの答えだろう。大臣経験もなければ、総理官邸に足を運んだことすらなかった。政界再編の混乱が続く1994年、自社さ連立政権の力学に押し上げられ、第81代首相に就任した▼総理になるなんて論外だと断り続けたが、巡り合わせを受け入れた。「戦後50年の節目にけじめをつけるのが使命だ」と腹を決めたと後に語っている▼そのけじめたる「村山談話」で植民地支配と侵略を認めて深い反省とおわびを表明。その言葉は国際社会との信頼をつなぎ、アジア外交の礎となってきた▼談話を締めくくった中国の成句「杖(よ)るは信に如(し)くは莫(な)し」は、よりどころとして信義に勝るものはないとの意味である▼「日本がどこまでも平和な国であり続けることを願っている」と昨年メッセージを発表した村山さんの訃報が届いた。101歳だった。新首相は誰か、連立の行方はと、混迷を深め虚々実々を繰り広げる政局。自身の巡り合わせを思い、トンちゃんはあの眉をひそめていただろうか。(西日本新聞・2025/10/18)

 村山富市元首相が死去 101歳、大分県内初の総理大臣 自社さ連立政権、戦後50年「村山談話」 元首相の村山富市(むらやま・とみいち)氏が17日午前11時28分、老衰のため大分市内の病院で死去した。101歳。同市浜町出身。旧社会党委員長だった1994年6月、自民、社会、新党さきがけの連立政権で、大分県内から初めての首相に就いた。戦後50年の95年には、日本の植民地支配と侵略を認めた「村山談話」を発表するなど憲政史に名を残した。/明治大専門部政治経済科を卒業。大分県職員労働組合書記局に入った。大分市議、県議を経て、72年に衆院旧大分1区で初当選した。通算当選8回。旧社会党委員長の首相就任は47年ぶりだった。
 在任中は戦後処理問題の解決に積極的に取り組んだ。95年8月15日の終戦の日に「国策を誤り、植民地支配と侵略によってアジア諸国の人々に多大の損害と苦痛を与えた」などと、反省やおわびを明記した談話を発表。対アジア外交の基盤として引き継がれた。/連立政権の枠組みの中で日米安保の維持、自衛隊合憲など社会党の基本政策を現実路線に転換した。被爆者援護法の制定、水俣病未認定患者の救済など戦後に積み残されてきた問題の解決にも尽力した。/96年1月に退陣を表明。首相在任期間は561日だった。退任後は党名変更した社民党の初代党首となった。2000年の衆院選に出馬せず、政界を引退した。
 2006年春の叙勲で桐花大綬章を受章。大分合同新聞文化賞の特別賞を1997年に受賞している。/首相経験者では102歳まで生きた東久邇宮稔彦(ひがしくにのみや・なるひこ)氏に次ぐ長寿だった。(以下略)(大分合同新聞・2025/10/17)(ヘッダー写真も)

     1995年の村山富市首相の戦後50年談話〈全文〉 
「植民地支配と侵略に対し痛切な反省、心からのお詫びを表明」
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「戦後50周年の終戦記念日にあたって」
 先の大戦が終わりを告げてから、50年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳(は)せるとき、万感胸に迫るものがあります。
 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様一人一人の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。
 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難(ありがた)さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを二度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この2つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。/いま、戦後50周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。(⇙)


(⇗)わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧(ささ)げます。/敗戦の日から50周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊(みたま)を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。/「杖るは信に如くは莫し(よるはしんにしくはなし)」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。(掲載・東京新聞:2025年10月10日)

「村山談話」を書いた元官僚・その誕生秘話と意義を明かす(週刊ダイアモンド編集部)(https://diamond.jp/articles/-/76616

村山富市内閣(むらやまとみいちないかく)(1994.6.30~1996.1.11 平成6~8)= 自由民主党、日本社会党、新党さきがけの3党が推す社会党委員長の村山富市を首班として発足した連立政権。社会党の首相は2人目で、1947年(昭和22)の片山哲以来。「人にやさしい政治」を掲げたが、指導力の欠如と、自民、社会の連立への疑問などから、内閣支持率は終始、低迷を続けた。ただ、社会党出身で懸念された自衛隊、安保政策では、1994年(平成6)7月の臨時国会で、村山首相は自衛隊違憲から合憲への政策転換を表明、日米安保堅持も明確にした。原爆被爆者援護法の成立、水俣病問題の解決など戦後処理や弱者救済に力を入れ、社会党カラーを見せた。/しかし、1995年1月に起きた阪神・淡路(あわじ)大震災では初動態勢の遅れから、政府の危機管理が問われた。また同年3月の地下鉄サリン事件では、オウム真理教関連事件に対する破壊活動防止法の団体規制適用で慎重姿勢を取り続けた。同年7月の参議院選挙で、社会党は16議席と大敗した。与党は改選総数の過半数を辛うじて確保したため、8月8日に改造内閣を発足させた。/しかし、9月に沖縄県で米兵による小学生女児暴行事件が発生したことで、県知事の米軍用地強制使用手続きの代理署名拒否に発展、最終的に首相自ら署名するにいたったが、指導力の不足が混乱を招いた。さらに、住宅金融専門会社の不良債権処理策で、財政資金投入により損失を穴埋めする方針を決めたものの、世論の批判の高まりのなかで、1996年1月、予算案審議を前に突然、総辞職した。(日本大百科全書ニッポニカ)

◉ 日本社会党(にほんしゃかいとう)= 日本の政党。1945年11月2日,第2次世界大戦前の無産政党各派を糾合して結成された。1947年の衆議院議員総選挙で第1党となり,民主党,国民協同党と連立して片山哲内閣を組織し,続く民主党主導の芦田均内閣にも協力,党員を入閣させた。しかし,公約の社会主義的政策を実現することができず,1949年の総選挙では議員数を激減させた。1951年に対日講和条約の賛否をめぐって左派と右派に分裂,1955年の統一回復までの時期に左派社会党は日本労働組合総評議会(総評)との結合を緊密化し,勢力を伸長した。1960年1月西尾末広派を中心とした右派の一部が脱党して民主社会党を結成。綱領には平和的,民主的方法による社会主義の実現,議会主義平和革命がうたわれているが,党内労農派マルクス主義者から右派構造改革論者(→江田三郎)までの幅広い人的構成となっている。内政では護憲,外交では反日米安全保障条約,非武装中立論が政策の基調だった。1986年9月,土井たか子が委員長に就任。日本憲政史上初の女性党首として人気を呼び,1988年の参議院議員通常選挙では与野党逆転を果たし,1990年2月の総選挙では 136議席を獲得した。しかし 1993年7月の総選挙ではわずか 70議席しか獲得できず,結党以来の惨敗となり山花貞夫委員長が引責辞任,新生党などと細川護煕連立内閣を形成した。1994年4月細川内閣総辞職後の統一会派結成の是非をめぐり連立政権から離脱,自由民主党,新党さきがけと組み,村山富市が片山哲以来 47年ぶりの社会党首相となった。同時に政権政党として党の路線を民主・リベラルに転換した。1996年1月5日村山首相は辞意を表明,橋本龍太郎自民党総裁に首相の座を譲った。同 1月19日の社会党第64回定期大会で党名を社会民主党(略称社民党)に変更,これにより日本社会党の名称は消滅した。(ブリタニカ国際大百科事典)

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「食い物を粗末にするな」という思想

 昨16日は「世界食料デー」だったそうです。「国の6月の発表では23年度の食品ロスは推定464万トン。半分は家庭からだった」という。食料自給率が3割だ4割だと喧しいことですが、なんのことはないんですよ、食べ(残し)物の相当部分は捨てられている。「食品ロスとは、まだ食べられるのに廃棄される食品のことです。日本では、まだ食べられるのに廃棄される食品、いわゆる『食品ロス』は464万トン。これは、世界中で飢餓に苦しむ人々に向けた世界の食料支援量(2023年で年間370万トン)の約1.3倍に相当します。また、食品ロスを国民一人当たりに換算すると”おにぎり1個分(約102g)の食べもの”が毎日捨てられていることになるのです。『もったいない』と思いませんか?」(消費者庁・https://www.caa.go.jp/policies/policy/consumer_policy/information/food_loss/education/

 先般、「ユニセフ(日本ユニセフ協会)」から小生のところに「感謝状」が届きました。そんなものを貰うほど悪いことはしていないと思いつつ、紙袋を開けてみると、ユニセフ寄付(募金)が20年超も継続したとかいう区切りのお礼状でした。「貧者の一灯」とぶつぶつ言いながら、火を消さないできただけ。ぼくはユニセフの活動とは無関係で生きてきましたが、その「名称」には忘れられない想い出が結びついています。その第一番は「脱脂粉乳」の給食(70年前)だったかもしれません。もちろん小学校時代の話です。「貧者の一灯」もその記憶のしからしむるところですかな。

 本日の共同通信のコラム<あのころ>に、「1949(昭和24)年10月17日、小学校の給食用に初めて脱脂粉乳のミルクが配られた」とあります。(ヘッダー写真参照)

<あのころ>ユニセフが粉ミルクを援助 日本は被援助国だった  1949(昭和24)年10月17日、小学校の給食用に初めて脱脂粉乳のミルクが配られた。深刻な栄養不足に陥った日本の子供にユニセフが援助したもので、段ボール製の大きな缶が米国から届くと大鍋で溶かしバケツで教室まで運んだ。医薬品などとともに64年まで15年間援助が続いた。(ヘッダー写真も)(共同通信・2012/10/17)

 当時、ぼくは四歳でしたから、まだ入学前でした。「脱脂粉乳」付きの給食の記憶は、いきなり京都の小学校時代に移ります。それ以前にも口にしていたのかもしれませんが、記憶が消えています。誰もが言うことですが、脱脂粉乳の得も言われぬ不味(まず)さはなかった。今でもその不味さは覚えています。お腹を空かせていたのですから、何だって口に入るものには、常に飢餓感が強くあったから、好き嫌いを言わないものでしょうが、「脱脂粉乳」だけはだめでした。まず、喉を通らなかった。臭いもきつかった。左写真は、その当時の典型的な給食のメニュー。パンは「コッペパン」(フランス語の<coupée>( 「切った」からか)、それにも脱脂粉乳が入っており、砂糖の甘さはまったく感じられなかったほどに味気のないものでした。そして「脱脂粉乳」。今ではこれはスキムミルクなどと洒落た名前で呼ばれて、いろいろな食品の中に入っていますが、その内容(中身)は変わらないでしょう。思い切り脂肪分と糖分を抜いた粉乳、それを水分で溶かした飲み物で、ぼくの喉はまったく受け付けなかった。いつも空腹だったぼくは、ほぼ毎回残していたと思う。(小麦粉や米糠を湯水で溶かしたものを、美味しいと思って飲めますか)

【夕歩道】落語家の立川談志さん(2011年に75歳で死去)は戦時中に育ち、故に食べ物を非常に大事にした。家元と懇意だった先輩記者が感心していた。「酒場で余した酒肴(しゅこう)を弟子に持ち帰らせた」と。
 初めて知ったが「食い物を粗末にするな」という著書まである。第1章は「“捨てる”“残す”に腹が立つ」だ。国の6月の発表では23年度の食品ロスは推定464万トン。半分は家庭からだった。
 80年前の終戦時、食糧難は深刻で「1千万人餓死説」まで出た。談志さんは当時9歳、育ち盛りだった。本日16日は世界食料デー。世界人口の約8%、6億人以上が昨年、飢餓に直面したという。(中日新聞・2025・10/16)

 中学生になってからは給食はなかったから、小学校時代に作られたぼくの心・身は「コッペパン」と「脱脂粉乳」がほとんどだった。つまりは「内容空疎」だったから、今なお、心身ともに、ぼくの「飢餓状態」は続いているのかもしれません。「飲めたものじゃない」「食えたものではない」という状態で、ぼくは年齢を重ねてきましたから、何時だって粗食で小食。その一例。今年に入ってから二月の半ばにお米(5㌔)を買いましたが、それを食べ終えたのは、九月になってから。何と半年以上もかかって、二人(高齢者夫婦)でやっと5㌔。米の飯はほとんど口にしないで、もっぱら蕎麦(乾麺)です。だから米価暴騰も何ら影響しない、そんな貧乏所帯でしたね。(計算はしていませんが、ぼくの家では猫の食餌代は人間のものよりも高価額であることは間違いなさそう)

 それにしてもユニセフです。小さな脳髄に「ユニセフ感謝の日」という「注入教育」が刷り込まれていたのでしょうか。(下の写真参照)中日新聞のコラム「夕歩道」に落語家の談志さん(1936~2011)の逸話が書かれていました。ぼくにはとても懐かしい師匠です。まだ「真打」になる前の寄席で一席伺ったが、落語の世界は彼には狭すぎたと感じたもので、そのまま自己流の生き方で落語を突き抜けた芸人として、好悪を越えてぼくは彼には学ぶところがありました。その談志さん、「食い物を粗末にするな」にも思い当たります。彼自身は、ある種の「ダダイズム(dadaïsme)」の申し子だったともいえます。「現代落語」に付着していた、既成の「価値」や「常識」を壊したのですから、「落語は落語でなくなった」ともいえる、そんな噺家だったと思う。

 今あるものを大事に守るというのではなく、その既成概念をぶち壊すところから生まれるもの、それが彼が求めた「落語」の神髄だったんですよ。「伝統を守る」ところからではなく、「伝統を壊す」ところに生まれ出るもの、それが談志さんの落語だったと思う。半端ではない難しさを求めていた人だった。しかし、その底には驚くほど古典を大事にする落語観があったことも事実でしたね。そんな彼が「食い物を粗末にするな」と言い続けていたんですから、真っ当だったことがわかります。「食い物を粗末にするな」という、その「態度」こそが、彼の「思想」だったんですね。もっとわかりやすく言うなら、「言っていること」が「やっていること」であるような人間の態度、それが思想というものです。理屈とか口先だけで終わるような綺麗ごとではないもの、それが思想というものなんですね。ぼくの見立てでは、多くの政治家には思想などはないですよ。「解党的出直し」など、まさに口からの出任せ以外の何物でもないでしょ。

だっし‐ふんにゅう【脱脂粉乳】= 脱脂乳を濃縮・乾燥して粉末状にしたもの。製菓・料理などに使う。スキムミルク。(デジタル大辞泉)〇 スキムミルク(すきむみるく)skim milk= 脱脂乳のこと。しかし日本では、脱脂粉乳、とくに溶けやすくした脱脂粉乳をいう。脱脂乳を粉乳にしただけでは、粉乳の粒が小さいうえに気泡を含み、溶かすときにまま子状態になりやすいので、その粉を顆粒(かりゅう)状に再加工し、重く大きい粒子にしたもの。1954年アメリカで開発され、3年後には日本でも生産され、その後著しく消費が伸びた。良質のたんぱく質、カルシウム、リン、ビタミンB1、B2に富み、成長期の子供、脂肪を避けたい壮年期に適し、美容食としても最適で、料理、菓子、飲料の材料として広く利用されている。(日本大百科全書ニッポニカ)

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【春秋】そのおにぎりが、遠くの子どものおなかも満たす おにぎりは「ONIGIRI」として今や世界で広く親しまれている。片手で食べられる手軽さとヘルシーな具が人気で、ニューヨークやパリの店では昼の行列は当たり前だ。「鬼滅(きめつ)の刃(やいば)」の主人公をはじめ、日本のマンガの登場人物が皆おいしそうにおにぎりを頬張る姿も、海外でのブームを後押ししているようだ▼きょうは国連の世界食料デー。飢餓に苦しむ人々が7億人いる一方で、世界で生産された食品のおよそ4割、年間25億トンが捨てられている現状がある▼おにぎりを通じた小さな行動で、子どもたちを支援する取り組みが成果を上げている。毎年この時期に、途上国を支援する日本のNPO法人が続けてきた「おにぎりアクション」だ▼必要なのは、おにぎりを撮った写真。SNSや専用サイトに、検索の目印となる文言「#OnigiriAction」を添えて投稿する。おにぎりは手作りでもコンビニのものでもイラストでもいい▼投稿された写真1枚につき100円を協賛企業が寄付し、アフリカのルワンダ、タンザニア、ケニア、そしてフィリピンで貧困にあえぐ子に食事を届ける。100円は現地で給食5食分に当たる。これまでの活動で累計1163万食超を提供してきた。学校やクラス単位の投稿も受け付けている▼おにぎりは、昔も今も小さな幸せの象徴だ。1枚のおにぎりの写真が、遠くの誰かのおなかと心を満たす力になる。(西日本新聞・2025/10/16)

私たちの食を通じて、
ちょっとだけ
世界を良くする

あの人に、あの子に、わたしに。
愛を込めてにぎる「おにぎり。」
その「誰かのため」の気持ちに、
世界の子どもたちへの想いも込めて
あなたがおにぎりを食べると、
世界の子どもたちに給食が届く

 「きょう(10月16日)は国連の世界食料デー。飢餓に苦しむ人々が7億人いる一方で、世界で生産された食品のおよそ4割、年間25億トンが捨てられている現状がある」という。いろいろなスタイルで相互に助け合う、そんな地球市民がいっぱいいます。「日本人ファースト」「アメリカ1番」などと言う、狭くてケチ臭い料簡などは言わないで、たとえば「おにぎりアクション」です。これもまた、まぎれもない「政治」行動ですね。ぼくたちにできるのは、この国あの国の政治家のように、大言壮語して「私腹を肥やす」ばかり、誠実で誠意をこめて口外しつつ「不倫に走る」、そんな政治家だけしかいないとは思わないけれど、人間は誰もが「自らの判断で」、なすべきことを選ぶことができ、行動することもできます。これこそが政治判断であり、政治行動です。自分の分に応じて(やれる範囲で)、やれればやってみる、そんなささやかな「政治」が今とても求められているんですね。(*https://onigiri-action.com/

 「おにぎりは、昔も今も小さな幸せの象徴だ。1枚のおにぎりの写真が、遠くの誰かのおなかと心を満たす力になる」と書くのは西日本新聞。今日、永田町政治の「ろうがい」「ロウガイ」「老害」と指弾されている、唇の歪んだ「大ボス」の選挙区です。大切にしたいのは大きな政治、大言壮語・虚言虚飾の政治ではなく、小さな政治、たとえば「おにぎりアクション」みたいな、そんな小さな政治行動に期待します、もちろんぼくも参加して。行き詰った感のある私たちの世界に活路を見出したいですね。

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あなたは自由を…、新聞はあなたを…

 中國新聞のコラム「朝凪(あさなぎ)(Morning Calm)」を読んで、いくつかのことを思い浮かべました。新聞記者が同僚ら聞いたという話。学生が「昨日の事が書かれた紙」と新聞を評したという。間違いなしに、これは「嘘」だとぼくは思う。記者自身が新聞の現状を自嘲した話として仲間に語ったか、学生はそういう意味の表現をしたろうが、それは学生が新聞を「揶揄」したか、「嘲笑」したかであろうし、そんなまた聞きを「今時の学生は、新聞をしらないなんて。何と思っているか」と、大げさに驚いてみせただけのこと。だとしたら、嫌な話ですね。いや、そんな学生がいないとも限らないということだったかもしれないが、だからどうなんだと思うだけ。無知や未開な人間は文明社会に、いくらでもいるのは不思議でも何でもありません。その反対の可です。言い直すと、文明社会の中にも野蛮状態や野蛮人がいるという現実を照射しているのですよ。ぼく自身も、下らぬことを喋り散らしているけれど、その実、「(実在するかどうかわからない)アンポンタン学生」と似たり寄ったりですから、その「幻影の学生」を笑うことはできません。

 中國新聞という企業の職場では「(こんな、化石のような学生がいるって)本当か」と驚きざわついたというから、お目出度いというか、何というナイーブは職場かと言いたくなります。「確かにスマートフォンでニュースを読める時代。新聞の発行部数が減り、紙で読めることすら知られなくなったのか」と、本当に記者氏がこの学生の存在を認めるのなら、もっとまじめに問題の核心を掴む必要があるんじゃないですか。新聞記者として、大変に深刻な問題ネタであるはずで、今どきの「学生」の生態・正体を明かすべく取材をされたらよかったのにと、ぼくは残念がっている。「一方で、どこか前向きにも捉えた。『すごい便利』と、新聞の良さを認識してくれている気がしたから」と、惚(とぼけ)けたこと、寝惚けたことを言っています。「山崎さん、あなた本当に記者ですか?」と問いただしたくなりますね。(この後で、実際に電話をかけるかもしれない)

【朝凪】昨日の事が書かれた紙 驚いた。ある同業者から聞いた話だ。「すごい便利なサービスがあって、昨日の出来事が書いてある紙が毎朝配られるんです」と最近、学生が言っていた―。新たなサブスクリプション(定額利用)かと一瞬思った。ん? それって、どう考えても新聞じゃないですか。◆当事者として悲しくなるこの話。同僚たちも「本当か」と驚き、職場はざわついた。確かにスマートフォンでニュースを読める時代。新聞の発行部数が減り、紙で読めることすら知られなくなったのか。◆一方で、どこか前向きにも捉えた。「すごい便利」と、新聞の良さを認識してくれている気がしたから。15~21日は新聞週間。知らない情報に触れ、身近な誰かと話題にしてもらう。少しでも暮らしに役立てば言うことはない。そんな紙でもありたい。(社会担当・山崎雄一)(中國新聞・2025/10/16)

 昨日から、「秋の新聞週間」が始まったと、いくつものコラムが触れ太鼓を叩いています。その始まりは1948年でしたから、もう七十七年続いてきたことになります。「十年一日」とはこんなのを言うのでしょね。「立派な標語」が毎年掲げられますが、意に反して新聞の評判・部数は右肩下がりです、それも急激に。その「新聞週間」創設当時の事情を東京新聞は以下のように書き残しています。「「あなたは自由を守れ、新聞はあなたを守る」(1948年)、「自由な新聞と独裁者は共存しない」(1949年)と、まさしく昔日の感を深くするばかりです。「今を知り 過去を学んで 明日を読む」(2023年)という新聞の果たすべき役割を常に自己検証しているのだと、東京都新聞は書きます。ぼくはこの新聞をずいぶん長く購読し、教えられもしました。何人かの知り合い(卒業生を含めて)も記者のなかにはいました。それもこれも、今は昔になりましたな。(右は東京新聞創刊号・1942(昭和17)年10月)

 <ぎろんの森>過去を学んで 明日を読む 「春の新聞週間」がきょうから始まりました。新聞社などが加盟する日本新聞協会の行事で、進学や就職の機会をとらえて新聞購読を呼びかけています。初日を4月6日としたのは「新聞をヨム日」の語呂合わせ。少し宣伝になりますがお知り合いに新聞購読の輪を広げていただければ、私たちの励みとなります。
 新聞週間は秋にもあり、秋は1948年、春は2003年に始まりました。秋は毎年、新聞の在り方を示す標語を皆さんから募集、発表しています。23年度の代表標語は「今を知り 過去を学んで 明日を読む」でした。
 東京新聞では春と秋の新聞週間を前に毎年2回「新聞報道のあり方委員会」を開き、識者の委員に本紙の報道について検証していただいています。詳しくはこの朝刊の8、9面をお読みいただきたいのですが、報道、論説に携わる私たちには自らを振り返る貴重な機会となっています。
 新聞週間が始まったのは戦後間もない時期でした。当時の代表標語には二度と戦争の惨禍を繰り返さない決意があふれています。例えば第1回の1948年度は「あなたは自由を守れ、新聞はあなたを守る」、同年10月1日の東京新聞1面、第2回の49年度は「自由な新聞と独裁者は共存しない」という具合。当時の紙面には戦中、真実を伝えず、戦争に協力したことへの痛切な反省を感じます。
 新聞協会の一員である東京新聞は今年9月、創刊140周年を迎えます。東京新聞は国民新聞と都新聞の戦時合併で戦中の42年に生まれましたが、140年の年月は前身の「今日新聞」以来、積み重ねてきた歴史でもあります。
 東京新聞の社説は戦後日本の平和国家としての歩みをとても大切に考え、少しでも戦争に近づく動きがあれば警鐘を鳴らし続けています。それは本紙を含む新聞が、かつて戦争に協力した歴史への痛切な反省にほかなりません。
 私たちの新聞が読者の皆さんにとって標語のように「今を知り 過去を学んで 明日を読む」指針たり得ているのか。深く考える1週間にしたいと思います。(と)(東京新聞・2024/04/06)(ヘッダー写真も)

 そして今年、「ネット社会 それでも頼る この一面」と赤面するばかりの標語が掲げられています。ぼくは毎年のように掲げられた標語(松明・たいまつ)と、新聞の実情(そのほとんどはネット版を通じて)をつぶさに見てきたたつもりです。松明(たいまつ)というのは、先年亡くなられたむのたけじさん(1915~2016)が、敗戦直後、朝日新聞を辞めて郷里の秋田に帰り、小さなタブロイド判の新聞を発行した、その時の紙名が「たいまつ」でした。むのさんについては何度もこの駄文集録で触れています。世の中が敗戦直後の暗い時代だから、ささやかでも「たいまつ」を掲げるのだと言われていました。

 今はどうでしょう。標語は明るく、新聞紙面は付和雷同、それでは困るのですが、この社会の新聞の多くは、特に大手と言われる新聞は権力の足下に平伏している惨状を目の当たりにしている。既視然とした感覚は、ぼくの中にはっきりとあります。大手も中小もないもので、すべからく新聞は「社是」というか、社訓というものをもって始められたはずですから、今一度、「初心」に戻るべし、と言いたいですね。ぼくはなんどでもこの愚論を訴えていきたいと考えているものです。戻るべき「初心」がわからなくなった、そもそも最初からなかったのなら、潔く廃業したらどうでしょうか。

 大学に入学して早々、学内の掲示板に「入学おめでとう」という大学総長名で、一枚の掲示が出ていました。その文中に、大学は「真理の殿堂」、「学問の府」であるという、驚くべき時代錯誤(anachronism)の「ことば」(表現)を見出し、ぼくは息が詰まりかけたというか、卒倒しそうになりました。とんでもない所に入ったもんだという、驚嘆の叫びをあげそうになった。その時までに何回か授業を経験していましたから、授業の飛び切りのお粗末さが本当なら、掲示板では嘘を書いていると思ったし、掲示で示された総長の「挨拶」が本当なら、実際の授業は「幻」だったかと、不覚にも自らの錯覚(不明)を恥ました。大学が「学問の府」であり「真理の殿堂」であったためしなど、東西古今、一度だってなかった。そうありたいと願った大学はあったでしょうが、ね。

 わざわざ京都から出てきて、大枚を払って何年もいるところではないと、ぼくは直感・直観したのだった。「真理の殿堂」「学問の府」と書かれているけれども、それは真っ赤な嘘、あるいはとんでもない冗談かと思ったほどに、若い(二十歳前)青年の心は傷つきました。もちろん、ぼく自身の「不明(物事を見抜く力がないこと)」や「無思慮」をこそ責めるべきだったでしょう。その段階で退学しているべきだったと思っている。

 今から六十年以上前に、大学に抱いたぼくの直観(直覚)は、今日の「新聞」をはじめとするメディアに対して、多くの人が抱いている感覚と同じようなものだったのではないでしょうか。六十数年後、はたして「大学」はなくなっていない、確かに建物も、教員も学生も変わらないままで存在していますが、「教育」はとっくにそんなところには見いだせなくなった。「教育不在」のその何割かの影響は、社会の今日の惨状、頽廃の遠因になっているように思われます。新聞はどうでしょうか。政治は相変わらず「椅子取りゲーム」、その実は「椅子盗らせゲーム」に興じて、国会は機能せず、経済は「我が世の春」と大企業ばかりが資本を蓄積し、他は塗炭の苦しみに喘いでいる始末です。新聞は何を報じようとしているのでしょうか。そんな我が世と我が身に、捨て鉢にならず、なお、できる範囲で、助け合う心持ちを失わないで、自然体そのままで生きて行こうと、心身共に貧しい老体は覚悟している。

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