個性とは「個人または個体・個物に備わった、そのもの特有の性質。個人性。パーソナリティー」(デジタル大辞泉)とあります。 そのpersonalityとは「〔ある人の全体を表す〕人柄、人となり、性格、人格〔その人を目立たせている〕個性、魅力〔ある特質を具現化した〕人、人物 〔芸能界やスポーツ界の〕有名人、著名人 人としての条件、人たらしめているもの〔人に対する〕悪口、中傷◆通例、personalitie〔場や場所の〕雰囲気、特徴 変わり者、奇人」(英辞郎)と盛りだくさんです。個性の第一義は「個体・個物に備わった、そのもの特有の性質」でしょう。留意すべきは、「個性」という概念(concept・notion)(対象に向ける捉え方と、そこから生まれる内容・考え方)は、ともすれば人間にだけ適応されていますが、ぼくは、もはやそれだけでは足りないと考えています。今風に言うなら「猫派(族)」「犬派(族)」という分類が成り立つし、それぞれの犬族・猫族の中の個々の犬や猫にも「個性」は認められるのは当然ではないでしょうか。パーソナリティという語そのものが人間に限定されているのは、時代の流れからすれば、止む無しという嫌いは認めますが、この先はAという犬、Bという猫にも、過不足なく「個性」(「個別性」「固有性」)を認めたいものだと考えているのです。(下図を参照 Genequest「遺伝子解析の仕組み」・https://genequest.jp/about_gene/2/)

類人猿(猿・apes)と霊長類(人・primates)は、それぞれが「個性」であって、それは、他の類とは異なる「猿の固有性」、「人の固有性」を指して使われる言葉だった。それぞれが示す「猿という個性」「人という個性」、つまりは「類を異にする生物」全体に固有の属性を意味していたのです。やがて、この「個別性」「固有性」は「類全体の中の個々人」に焦点を当てた時に、今日多くの場合に用いられる「個性」という語が当てはめることになったと思われます。いうまでもなく「ヒトゲノム遺伝子」を有するから「ヒト」になるのであり、それは「サル」とはちがう「個性」だと言い換えればどうでしょう。サルと並べられれば、ヒトはその存在そのものが(サルとは異なる)「個性」「個別性」固有性」を示していると言える。今度は「ヒト」を「人」としてとらえ直すと、多くの人の集団(人種・人類)の中で、たった一人、他とは同じではない固有性・個別性を持っていると考えられるもの、それがいわゆる「個性」とされるものなのでしょう。ただこの「個性」はやたらに使われ過ぎてきました。濫用の弊が著しいと言いたくなります。

本日のコラム「春秋」は免疫学者だった多田富雄さんのことに触れています。いろいろな場面でよく知られた人で、その活躍の範囲も常軌を逸していたと、ぼくには思われるほど広い範囲で足跡を残されました。もちろん、彼のもっともすぐれた業績は「免疫学(immunology)」でしたから、その学問やそれに関係する事柄に早くから啓蒙の意味を込めた活動を展開されてきました。ぼくは多田さんの書かれた多くの書物で、いつでも「蒙を啓かれた」一人であると思っています。さいわいにも「生物学者」に友人が多くいたことも手伝って、いっそう多田さんの仕事に興味を持つに至ったともいえます。
【春秋】もう一人の免疫学者 人体ってうまくできているなぁとつくづく感じた今年のノーベル生理学・医学賞だった。受賞が決まった坂口志文(しもん)さんは制御性T細胞を発見した。異物が体内に入った時、免疫反応が過剰になるのを抑える細胞だ▼この分野の先駆者に多田富雄さんがいる。1970年代、免疫反応を抑える仕組みにT細胞が関係していると仮説を唱え、世界から注目された。しかしその後、否定的な研究結果が出て、この分野の研究は勢いが弱まっていく▼多田さんは生前、生命科学の深い世界から現代社会を鋭く見つめた随筆を数多く残した。その中に人の遺伝子に関する文章がある▼人にはヒトゲノムと呼ばれる遺伝子の総体があり、人からは犬や猫ではなく人が生まれる。そんな共通点がありながら、誰一人として同じ人がいないのは「ほんのわずかの違いを持った遺伝子が含まれている」という個別性があるからだ▼「ほんのわずかの違い」は肌の色や身体的な特徴として表れる。先天的な障害として表れることもあるが、そういう遺伝子の一つや二つは誰でも持っている。たまたま形として表れていないだけで「それで差別することは、自分自身を否定することになる」▼わずかな違いに過剰反応して他者を排除するのではなく、同じ人間という共通点を重視して違いを認め合う大切さを説いた。比類なき免疫学者には、世界全体が一つの生命体に見えていたのだろう。(西日本新聞・2025/10/21)

*「あの人に会いたい」 「世界的な免疫学者・多田富雄さん。アレルギーなどの研究に新しい道を開くと同時に、免疫の仕組みを通して、人間や社会を考える独自の視点で、命とは何かを語りかけた。2001年に脳こうそくで右半身の自由とことばを失ってからは、自身の身体と心の変容を科学者として客観的に見つめ、言語装置を使いながら発表の場に立ち、鋭い視点の著作を数多く遺した。『科学者はシェイクスピアを、文学者は相対性理論を読まなければならない』『半身が動かなくても、言葉が喋れなくても、私の中で日々行われている生命活動は創造的である』『歩き続けて果てに熄(や)む』…亡くなる直前まで多田が語り続けた思い、そして『寛容』に代表される生命や文明の行く末に希望を託した数々の『ことば』が今甦る」
(NHKアーカイブス」:https://www2.nhk.or.jp/archives/articles/?id=D0009250312_00000)
◎ 多田富雄(ただとみお)[生]1934.3.31. 茨城,結城 [没]2010.4.21. 東京,文京 免疫学者。1959年千葉大学医学部を卒業,1964年同大学大学院で博士号を取得後,アメリカ合衆国に留学して石坂公成らに学ぶ。1974~77年千葉大学教授,1977~95年東京大学教授,1995~99年東京理科大学生命科学研究所所長を務めた。1971年に免疫反応を抑える抑制T細胞(サプレッサーT細胞。→T細胞)の存在を提唱,免疫寛容を引き起こすメカニズムを説明した(→免疫寛容性)。抑制T細胞の概念は,その後京都大学の坂口志文らが発見した制御性T細胞の研究に引き継がれた。『免疫の意味論』(1993,大佛次郎賞),『寡黙なる巨人』(2007,小林秀雄賞)などのエッセーを執筆する一方,若いときから能と大倉流小鼓に親しみ,脳死と臓器移植を扱った『無明の井』,原子爆弾を扱った『原爆忌』などの新作能を発表した。2001年脳梗塞で倒れ,重い後遺症を抱えたがリハビリテーションに励み,活発な創作活動を続けた。1980年エミール・フォン・ベーリング賞,1981年度朝日賞など受賞多数。1984年文化功労者に選ばれ,2009年瑞宝重光章を受章した。(ブリタニカ国際大百科事典)

◉ ヒトゲノム(human genome)= 人体の全染色体を構成する約 30億塩基対のデオキシリボ核酸 DNA。ヒトゲノムには,全遺伝子約 2万5000の情報を記録するコード領域と,遺伝情報を伝えない非コード領域がある。2003年にすべての DNA配列が解読された(→ヒトゲノム解析計画)。ほかのすべての生物のゲノムと同様,ヒトゲノムは長い DNAポリマーの集合体である。DNAポリマーは,ヒトの全細胞中の染色体上に対になって存在し,DNAを構成する四つの塩基(グアニン G,アデニン A,チミン T,シトシン C)の配列により,生命体の分子的,身体的特徴に関する情報を暗号化している。この DNAポリマーの配列や構造,DNAが受ける化学修飾によって,ゲノム内の遺伝情報発現に必要な機構が生じるだけでなく,DNAの複製,修復,パッケージング,自己保存などの機能も提供される。加えてゲノムにはさまざまな種類の細胞再生に必要な基本情報が保存されており,ゲノムなしではどの細胞,組織も短期間しか生きられない。一卵性双生児を除き,ゲノム配列がまったく同じ人間はいない。またゲノムには高い頻度で変異が起こる。変異の一部は無害であるか,有益なことさえあり,こうした形質は親から子へと受け継がれ,集団内に広がっていく。他方,生存率や繁殖力の低下を招く有害な変異が生じることもあるが,集団ではまれである。ヒトゲノムの解明を通じ,ヒトという種の起源や集団相互の関係,個人の健康状態と疾患リスクなどを知ることができる。ヒトゲノムから引き出せる情報量は膨大であり,その情報の応用範囲は驚くほど広がっている。(ブリタニカ国際大百科事典)
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「個性って何ですか」、と問われると、ぼくは非常に困ってしまう。特に学校教育では「個性の尊重」などと誰もが口にします。しかし、本当に「個性」がわかり、「個性を尊重する」ということがわかる人はほとんどいないのが実情です。「個性」とは「その存在の唯一性」を言い当てるもので、だれが、それを見抜いているでしょうか。その「存在の掛け替えのなさ」であって、それ以外に個性というものが表す対象はないとぼくは考えている。それ(個性を尊重すること)は、だからとても困難なことなんですよ。その証拠に、「個性を尊重する」と言いながら、それを侵害・抑圧していることがどこにでも見られるからです。誰もが使う「個性」という言葉はとても怪しいと、解剖学者の養老孟司氏はいつだって文句を言っておられる。
そしてその都度「スマップの『世界に一つだけの花』」を槍玉にあげるのです。「いろんな花を見ていた どれもみんなきれいだね」「それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?」と謳うけれど、どんな花も「世界に一つだけの花」であって、同じものは何処にもないのが当たり前。人間だって、そうでしょ、個性、個性っていうけれど、花の個性ってなぜ言わないのか。花だって「たった一つ」の花だけれど、その仲間は「コスモス」だって「菊」だって、無数にある。けれども、どの花も、同じ「花」は二つとない、それをあえて「個性」と言わないのは、みんなは分かっているからでしょう、だのに、なぜ「(人間の)個性」ばかりを強調するんですか」とね。「ヒトゲノム」の働きで、人間はサルにも花にもならないし、ヒトにはなっても、まったく無類の「ヒト(人)」にしかならないのですよ。それを分かって「個性」という言葉を使う、それは構わないですよ。個性は「個別性」です、誰とも違う「固有性」の持ち主と言う意味。個性は伸ばすものではなく、尊重するものです。

「誰一人として同じ人がいないのは『ほんのわずかの違いを持った遺伝子が含まれている』という個別性があるからだ」ということを、更にぼくたちは深く受け止める必要があります。「わずかな違いに過剰反応して他者を排除するのではなく、同じ人間という共通点を重視して違いを認め合う大切さを説いた」という免疫学の泰斗としての多田さんの思想は、意外に思われるかもしれませんが、とても受け止めることは難しいでしょう。あの人にもこの人にも、誰にも彼にも「わずかばかりのヒトゲノム」が内在し、それがサルとは違う「人」にもすれば、他者とは異なる「自分」にもしているのです。いろいろな花があっても、それぞれは「世界に一つだけの花」だと分かれば、「ヒトは人」であるし、「人は、一人一人である」「世界でたった一人の人」ということも肯けるんじゃないですか。
(右は遠山啓著「かけがえのない この自分」数学者だった遠山さんは、吉本隆明さんの大学時代の恩師だった。この駄文集録でも触れていますが、その時の「出会い」を吉本さんは後年、「彼は教えた、だから私は学ばなかった。彼は教えなかった、だから私は学んだ」という逆説の真理で語っています。同著は太郎次郎社、1995年刊)
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