【いばらき春秋】 危うく異界に引きずり込まれるところだった。利根町の長兄宅で13歳から約3年間暮らした民俗学者・柳田国男だ▼ある日、柳田少年は小さな祠(ほこら)の戸をこっそり開き、中にあった美しい石の球を眺めていた。すると妙な気分に襲われ、真っ昼間の青空に数十の星が見えた。その後ヒヨドリの鳴き声で正気に戻ったが、「もし、あの時ヒヨドリが鳴かなかったら…」と後に利根町時代の神秘体験を振り返っている▼そんな異界への扉は至る所にあり、特に夕暮れ時は「逢魔(おうま)が時」とも呼ばれ魔物と出くわす時間帯と恐れられた。柳田の調査では、多くの村でかつては夕闇に見知らぬ人と出くわすと相手が魔物でないか確認の声がけをするのが習い。黄昏(たそがれ)という言葉も元々「誰(た)そ彼」から来ているという▼〈黄昏に途(みち)を行く者が互いに声を掛けるのは…自分が化け物でないことを証明する鑑札も同然〉と、柳田は著書「妖怪談義」に書いている▼黄昏が魔の時間帯なのは現代も変わらない。警察庁の統計分析では交通死亡事故は一日のうちでも日没の前後1時間に多発。そうした薄暮の事故は特に10~12月に増えるという▼初冬の逢魔が時、ドライバーは〝路上の魔物〟と化さないためにも早めのライト点灯を心がけたい。(敏)(茨城新聞・2025/11/09)
もう三十年の昔になるでしょうか、ぼくは柳田國男さんについて、一冊の本を書きました。「柳田國男の明治時代」というタイトルだったと思う。間違っているかもしれません。ぼくは三十代のはじめから柳田さんに魅了されました。それ以来、三十年に及んで柳田さんを読んできました。当初の予定では「柳田國男の大正時代」「柳田国男の昭和時代」といったシリーズものを書く予定でしたが、忙しさにかまけたことと他に関心が移ったことで、とうとう書かずじまいになりました。茨城新聞の【いばらき春秋】に柳田さんの「ある神秘な暗示」の出来事が書かれていました。とても懐かしくなって、立ち止まったという次第です。この「暗示」がよく読まれるようになったのは「故郷七十年」という神戸新聞連載記事(1958年1月9日~9月14日)が、同新聞社の「のじぎく文庫」の一冊になって刊行されたからでした。
ある神秘な暗示
布川にいた二カ年間の話は、馬鹿馬鹿しいということさえかまわなければいくらでもある。何かにちょっと書いたが 、こんな出来事もあった。小川家のいちばん奥の方に少し綺麗な土蔵が建てられており、その前に二十坪ばかりの平地があって、二、三本の木があり、その下に小さな石の祠(ほこら)の新しいのがあった。聞いてみると、小川という家はそのころ三代目で、初代のお爺さんは茨城の水戸の方から移住して来た偉いお医者さんであった。その人のお母さんになる老媼を祀ったのがこの石の祠だという話で、つまりお祖母さんを屋敷の神様として祀ってあった。
この祠の中がどうなっているのか、いたずらだった十四歳の私は、一度石の扉をあけてみたいと思っていた。たしか春の日だったと思う。人に見つかれば叱られるので、誰もいない時、恐る恐るそれをあけてみた。そしたら一握りくらいの大きさの、じつに綺麗な蝋石の珠が一つおさまっていた。その珠をことんとはめ込むように石が彫ってあった。後で聞いて判ったのだが、そのおばあさんが、どういうわけか、中風で寝てからその珠をしょっちゅう撫でまわしておったそうだ。それで後に、このおばあさんを記念するのには、この珠がいちばんいいといって、孫に当る人がその祠の中に収めたのだとか。そのころとしてはずいぶん新しい考え方であった。
その美しい珠をそうっと覗いたとき、フーッと興奮してしまって、何ともいえない妙な気持になって、どうしてそうしたのか今でもわからないが、私はしゃがんだまま、よく晴れた青い空を見上げたのだった。するとお星様が見えるのだ。今も鮮やかに覚えているが、じつに澄み切った青い空で、そこにたしかに数十の星を見たのである。昼間見えないはずだがと思って、子供心にいろいろ考えてみた。そのころ少しばかり天文のことを知っていたので、今ごろ見えるとしたら自分らの知っている星じゃないんだから、別にさがしまわる必要はないという心持を取り戻した。
今考えてみても、あれはたしかに、異常心理だったと思う。だれもいない所で、御幣か鏡が入っているんだろうと思ってあけたところ、そんなきれいな珠があったので、非常に強く感動したものらしい。そんなぼんやりした気分になっているその時に、突然高い空で鵯(ひよどり)がピーッと鳴いて通った。そうしたらその拍子に身がギュッと引きしまって、初めて人心地がついたのだった。あの時に鵯が鳴かなかったら、私はあのまま気が変になっていたんじゃないかと思うのである。
両親が郷里から布川へ来るまでは、子供の癖に一際違った境遇におかれていたが、あんな風で長くいてはいけなかったかも知れない。幸いにして私はその後実際生活の苦労をしたので救われた。
それから両親、長兄夫婦と、家が複雑になったので面倒になり、私だけ先に東京に出た。明治二十四年かと思うが、二番目の兄が大学の助手兼開業医になっていたので、それを頼って上京した。そしてまた違った境遇を経たので、布川で経験した異常心理を忘れることができた。
年をとってから振り返ってみると、郷里の親に手紙を書いていなければならなかったような二カ年間が危かったような気がする。(「故郷七十年」のじぎく文庫・1959(昭和34)年11月20日)
茨城県布川(ふかわ)時代、十四歳の柳田少年に生じたこの「事件」について、ぼくはある時期、小さな原稿を書き、そこで「柳田さん、それはちがいませんか」という趣旨の異論を提示したことがあります。柳田さんは、この「神秘体験」を早い段階で著述されていました(「何かにちょっと書いたが…」)。そこにはほぼ同じような成り行きが書かれています。しかし、「私はしゃがんだまま、よく晴れた青い空を見上げ」なかったし、だから「昼間みえないはずの数十の星」は、もちろん出ていなかったし、「突然高い空で鵯(ひよどり)がピーッと鳴いて」通らなかったと書いてありました。恐らく、この社会では柳田研究者や柳田民俗学ファンは無数にいるでしょうが、この「布川の神秘体験」が、あるいは「文学(肝心な部分は虚構)」だったかもしれないと書いた(指摘した)のはぼくだけだったかもしれません。自慢するのでも、研究者にいちゃもんをつけるのでもなく、言ってみれば「柳田民俗学」は文学作品的傾斜が含まれているのではありませんかという気分だった。若い頃の柳田さんは「新体詩」の注目の星でした。田山花袋や島崎藤村らと熱心に交流し、「惚れた腫れたの恋物語」を詩情豊かに謳(詠)われていた。いわゆる「本邦自然主義文学の開化期」に当たっていたでしょうか。(後年の「全集」ではその若気の至りに舞い上がっていた「恋愛詩」は、著者その人によって退けられた)
ここで何かを言いたいのではありません。「事実は小説より奇なり」ということが一面の真理を含むものなら、柳田少年の兵庫県辻川時代、故郷出奔(布川)時代、東京(定住)時代の遺された、貴重な記録の幾分かにも「フィクション」があるだろうという思いが萌して、ぼくは柳田民俗学から離れました。つまり、世間で下される柳田評価に異議を見出したということだったかもしれない。もちろん、ぼくの単なる個人的好みの問題でしかありません。それだけのことで、柳田さんの業績に何かを仕掛ける意図はサラサラなかった。彼の仕事は、今なお「燦然と輝いている」ことに変わりはないのです。「いささか文句が言いたいなあ」というほどの気分でしたね。ある時期の同行者だった折口信夫(おりぐちしのぶ)さんは、若い頃、柳田さん主宰の雑誌に論考を送った。当初、柳田さんは「折口」と言う筆者が、実は世に隠れた「泰斗(たいと)(ある分野の最高の権威者)」だと思ったらしい。珍しい名前(ペンネーム?)といい、書かれている鋭い内容といい、すっかり柳田さんは勘違いされた。その後、直接会って、そのあまりの若さに驚くが、その後、民間伝承の捉え方や解釈(理解)の違いも生じて、なぜだか折口さんは柳田さん(一門)から心ない仕打ちを受けたと、折口さん自身で語られたことがありました。
(柳田氏には、優等(貴族)趣味(主義)というか、抑圧的姿勢がしばしば見られました。ぼくが印象深く記憶している一件があります。やはり民俗学徒だった岡茂雄さん。彼は「岡書店」という出版社も経営して、この領域の文化を高からしめようとしていた。岡さんと柳田さんは旧知の間柄だったが、その関係はやや込み入っていた時期もあった。それを知っていた海洋関係の民俗学の研究者でもあり後援者でもあった渋沢栄三さんは一計を案じて、自宅の食事会に両者を招いて、修復を測ったらしい。柳田さんは、食事会の終わった後だったかに「なぜこの場に、『本屋風情』などを招いたのか」と怒り・不満を隠さなかった。後年、岡さんが一著を公刊した時に、題名に「本屋風情」と、なかなかしたたかなところを示したのでした。これは、ぼくの愛読書でもあります。
「本屋風情とはいかにも柳田先生持ち前の姿勢そのままの表現であり、いうまでもなく、蔑辞として口走られたのであるが、…。私はこの四文字に愛着さえ持つようになって、…。いわば柳田先生から拝領した記念すべき表題ということになろうか」と認めています。岡さんについても、稿を改めて書きたいことがありますね。南方熊楠の存在を世間に知らしめたのは岡さんの慧眼があったからこそ。「ソシュールの一般言語学講義」(小林英夫訳)を最初に出したのも岡書店。弟も民俗学者だった岡正雄さん。ぼくにとっても、とても懐かしい人たちです。
ぼくが「山の人生」に出会ったのは大学2年生だったか。岩波文庫(「遠野物語」と合冊)でした。午後の授業に出かけたら、授業は休講だった。だだっ広い階段教室の後方に座って、文庫本を取り出し、「山の人生」を読みだした。かなり時間が過ぎていたのでしょう、ふと教室の外を見たら、もう暗くなりかけていました。面倒を厭わずに少し引用しておきます。若いぼくは、この部分にある種の恐怖(畏れ)を感じたからでした。柳田さん流に言うなら、文中の置かれた「山に埋もれたる人生あること」を読んだことは、ぼく自身の「神秘の暗示」だったかもしれませんでした。以下に書かれている「記録」と瓜二つ(かどうか、やや疑問です)の記録が別のところに起った事件として残されているのです。柳田さんは法務官僚として、特赦・恩赦に関する記録を読み、それを許認可(上申)することを業務とされていたことがありました。二つの記録を並べれば一目瞭然、柳田版は、かなり脚色された嫌いがありました。
山に埋もれたる人生あること
今では記憶している者が、私の外には一人もあるまい。三十年あまり前、世間のひどく不景気であった年に、西美濃(みの)の山の中で炭を焼く五十ばかりの男が、子供を二人まで、鉞(まさかり)で斫(き)り殺したことがあった。
女房はとくに死んで、あとには十三になる男の子が一人あった。そこへどうした事情であったか、同じ歳くらいの小娘を貰(もら)ってきて、山の炭焼小屋で一緒に育てていた。その子たちの名前はもう私も忘れてしまった。何としても炭は売れず、何度里(さと)へ降りても、いつも一合の米も手に入らなかった。最後の日にも空手(からて)で戻ってきて、飢えきっている小さい者の顔を見るのがつらさに、すっと小屋の奥へ入って昼寝をしてしまった。
眼がさめて見ると、小屋の口一ぱいに夕日がさしていた。秋の末の事であったという。二人の子供がその日当りのところにしゃがんで、頻しきりに何かしているので、傍へ行って見たら一生懸命に仕事に使う大きな斧(おの)を磨(と)いでいた。阿爺(おとう)、これでわしたちを殺してくれといったそうである。そうして入口の材木を枕にして、二人ながら仰向(あおむけ)に寝たそうである。それを見るとくらくらとして、前後の考えもなく二人の首を打ち落してしまった。それで自分は死ぬことができなくて、やがて捕えられて牢(ろう)に入れられた。
この親爺(おやじ)がもう六十近くなってから、特赦を受けて世の中へ出てきたのである。そうしてそれからどうなったか、すぐにまた分らなくなってしまった。私は仔細(しさい)あってただ一度、この一件書類を読んで見たことがあるが、今はすでにあの偉大なる人間苦の記録も、どこかの長持(ながもち)の底で蝕(むしば)み朽ちつつあるであろう。(「遠野物語 山の人生」岩波文庫)
つまらぬこととを書き連ねていますが、もう一つだけ。「遠野物語」は、柳田さんの住まい近く(新宿区神楽坂)に住んでいた佐々木喜善(当時、東京専門学校に通っていたのだったか、この辺りのぼくの記憶は曖昧朦朧としている)と言う青年が出身地の岩手県遠野に遺された、たくさんの「民間伝承」を柳田さんに語ったことが、柳田さんの手で記録され、出版されたものでした。以下の「序文」に当たる部分も、なかなかの「圧巻」を予想させるものです。「これを語りて平地人を戦慄せしめよ」「この書のごときは陳勝呉広のみ 」と、いわば「民俗学」事始めの、世に対する戦闘開始の狼煙のような勢いがありました。この「書き出し」で、よく問題にされる・されるべきところは「鏡石君は話上手にはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり 」で、なんとも不思議な書きぶりだと、ぼくは不審に思ったことでした。「一字一句をも加減せず感じたるままを書きたり」とあります。ここにも柳田さんの「虚構・文学」的要素が入っていないでしょうか。そう思って再読すると、「山の人生」にも異論・異本が出てきそうな気がしたのは事実です。この本の冒頭に「この書を外国に在る人々に呈す」とあります。文字通りに「外国の人」と取るのか、「外国にいる邦人」と取るのか、いずれにしても十分なる成果を確信した柳田さんの「民俗学創造宣言」だったと、ぼくには受け取られました。柳田さんはまだ四十前の、記念詞(書)でした。
この話はすべて遠野(とおの)の人佐々木鏡石君より聞きたり。昨(さく)明治四十二年の二月ごろより始めて夜分おりおり訪たずね来(きた)りこの話をせられしを筆記せしなり。鏡石君は話上手(はなしじょうず)にはあらざれども誠実なる人なり。自分もまた一字一句をも加減(かげん)せず感じたるままを書きたり。思うに遠野郷(ごう)にはこの類の物語なお数百件あるならん。我々はより多くを聞かんことを切望す。国内の山村にして遠野よりさらに物深き所にはまた無数の山神山人の伝説あるべし。願わくはこれを語りて平地人を戦慄せしめよ 。この書のごときは陳勝呉広(ちんしょうごこう)のみ。(「遠野物語・山の人生」岩波文庫)
(註 「《陳勝・呉広はともに、秦に対する反乱の兵を最初に起こした人であるところから》物事のさきがけをすること。また、その人。首唱者。陳呉。)(デジタル大辞泉)
(ヘッダー写真:「柳田國男記念公苑は、國男が少年時代を過ごした旧小川家の母屋、土蔵(資料館)で構成されており、著作物や文書等を展示しています」観光いばらき :https://www.ibarakiguide.jp/spot.php?mode=detail&code=1144 )
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寒い朝、久しぶりに柳田さんにお会いした気がしました。民俗学(folklore)は、今では「文化人類学(cultural anthropology)」と名称を新たにして、人類史の多彩多様な歩みを記録し出しています。若いころには無鉄砲にさまざまな文献を渉猟しましたが、中でも柳田さんからは抜きがたい影響のようなものを受けたことを白状します。柳田さんの見通しでは、先ず各国(個別)文化人類学から始めて、やがては「世界文化人類学(歴史)」に至る(至りたい)、そのような壮図・壮途を描かれていたと思います。書けばきりがありませんが、まあ、人類史の再編、それがあらゆる場面で生じているということでしょうか。機会と気力があれば、外国の人も含めて、人類史の到達点というようなことを考えてみたいですね。(左写真は「野性の思考」のクロード・レヴィ=ストロース)
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「徒然に日乗」(906~912)
〇2025/11/09(日) 午前中に買い物に、茂原まで。雨の日曜日だったが、スーパーはかなり混んでいた。あれこれ、必要なものを買って、帰宅。▶夜になって、久しぶりにT君に電話。いろいろな御苦労もあったかと思われる、この間だった。3月頃に一度電話をして以来だったが、元気そうだったので、一安心。学校現場には時とともに教育行為を阻害するさまざまな要件が重ねられてきたことを痛切に感じている。T君の職場は旧国立大学付属学校だが、そこにも例外にならないほどの、共通の面倒な課題が認められると思う。▶午前の早い段階で、兵庫県警がN党党首を逮捕(午前4時前)したという報道がなされた。故元兵庫県議会議員に対する名誉棄損の容疑だった。このような犯罪を犯す党首の「反社会的カルト集団」と連立を組むという、この国の政権担当政党や政治家は、確実に狂っている。(912)
〇2025/11/08(土) ただ今午後9時30分。室温16.2℃、湿度62%。かなり寒い陽気の日だった。関東地方全体にわたっても最高温度が20℃を下回る時節に映っている。この後しばらく天気は晴天が続くとの予報だが、20℃を超える日は極めてまれになりつつある。▶昼前に買い物。茂原まで。▶アメリカでは、ニューヨーク州の市長に移民のゾーラン・マンダニ(Zohran Mamdani)氏が選出された(11月6日)。ムスリム(イスラム教徒)で、年齢は34歳と飛び切り若い。物価高騰に苦しむ市民の期待を一身に集めた格好だし、トランプに対して堂々と立ち向かう姿勢(カウンター)が受け入れられたのだろうか。他に、2州では知事選が行われ、2州ともに民主党の知事が当選した。トランプの先行きに赤信号がともっている。(911)
〇2025/11/07(金 )一日晴天が続いた。外作業には都合のいい日和だった。かなり溜まっていた燃やせるごみを焼却した。刈払い機の調子がおかしく、部品交換に手間取っているので、今日は少しばかり草刈りをした。以前のように「鎌」を使っての作業だ。手間や暇は、比較を絶してかかるが、気分的には器械を使ってするよりも手ごたえを感じる。ここしばらくは気温の高さを気にしないで外作業が可能になるので、ゆっくりと、気長に手作業を進めたいと思っている。▶日本の株価の急騰と急降下が気になるところ。新内閣発足前後から急騰し、あっという間に5万円を超えたが、このところ一進一退を繰り返し、加えて「利上げ」を先送りし、「円安」を放置している経済・財政運営の工夫のなさが、かなり経済危機的な様相を迎えそう。数年前のイギリス・トラス首相登場の時とよく似ている(債務超過)と思う。(910)
〇2025/11/06(木) 雨が降るような降らないような、はっきりしない天気だった。気温はさほど上昇せず、時には寒さが感じられた。▶自分の使っている車を出して、先ずGSへ。どうも、長い間丁寧に乗らなかったものだから、タイヤの空気圧が低くなっているのが感じられたので、それを点検するため。案の定大いに空気が抜けていたようで、せっかく新品に交換したタイヤにも、車体の重さもあって、タイヤにひび割れが入っているのが見られた。来年の車検まで持つだろうかと気にはなるところ。▶その足で、何時ものアスモと言うSCへ行き、いつも通りの商品を購入。牛乳は、もっぱら猫の飲み物として、一日に一本(1リットル)超を飲む。つねに買い物の際には2本。さらに食パンも。というわけで、ほぼいつも同じような商品がかごに入ることになる。酒を飲まなくなってから、食べ物の趣向は大いに変わったと思う。まあ、簡単に少量を、ということ。▶ただ今午後10時。室温18.1℃、湿度69%。(909)
〇2025/11/05(水) ただ今午後8時半。室温16.8℃、湿度66%。▶昼前に買い物で茂原まで。物価高騰は鎮静の兆しはまったく見えず。「インフレ増税」が留まる気配はないのだ。政治動向を含めて、この国のメディアの方向感覚喪失は目も当てられないほどの酷さ。この先が、どうなるのか見当もつかないようだが、政治の混沌・混乱が続くことだけは確か。さらに加えて、連立相手の維新の代表議員に「公金還流」疑惑が勃発。しんぶん赤旗のスクープ。赤旗は新聞にあらずと、還流疑惑議員は一刀両断の如しだが、真相を掴まれたからの「逆切れ」状態だと思う。「日本維新の会の藤田文武共同代表は5日の党会合で、自身の『公金還流』疑惑を報じた共産党機関紙『しんぶん赤旗日曜版』に関し、『報道機関ではない。共産党の主張だ』と指摘した。『われわれの返答も恣意(しい)的に書く。記事ではなく主張だから、対抗していきたい』と語った」(JIJI.com)「降参している」ような、鼬(いたち)の最後っ屁みたいな「悪態」ではないか。自民党の裏金問題はしんぶん赤旗の独占記事に寄ったもの、それを知っているから、こういう姿勢態度をとらざるを得なかったのだと思う。「初動発言」の大間違いを犯している。「連立政権」の先行が思い遣られるというべきか、先が思いやられるのではなく、先がまったくないとも感じられる。 国滅びて、さて何が残るのか。(908)
〇2025/11/04(火) 午前中8時過ぎに浄化槽の掃除作業。年に一度、専門業者が来て「浄化槽の掃除」をすることになっている。当地に移住してすぐに合併浄化槽を設置した。行政が、いわば住民にレンタルする仕組みで、毎月、使用料金(2千円程度)を払い、年に3~4回「点検・検査」を行うことになっている。本日は年一回の浄化槽内の掃除の日。もう10回はしただろうか。設置してあるのは「合併槽で、」生活排水とトイレ・風呂などが一緒に流れ込む方式。山の中で、このような浄化槽を設置している家は少ないそうだ。▶昼前に茂原まで買い物。相変わらず、それほどの買い物をしたわけでもないのに、7千円弱。驚異的な物価高騰状態が続いているのは、政治的意図が働いていると勘繰ってしまう。この物価騰貴が始まって3年程度だろうか。その間の「消費税の増税分」は数兆円にはなるのではないか。詳しく調べるのも腹が立つので、今のところはおおよその見当。この先も沈静化政策を採用しないのが政府の方針のようだから、まるで死活問題だ。あるニュースでニューヨーク市民の話が出ていた。「商品を3点ばかり買って、9千円」ということだった。物価高だけがニューヨーク並みになるなど、誰が嬉しがるのか。そのNYに新しい市長が誕生するか。(907)
〇2025/11/03(月 )お昼前に猫の缶詰購入のためにあすみが丘へ。いつもの商品はやはり品数がそろっていなかった。普段の半分ほどの種類しかなかったが、その理由がよく分からない。店の都合か、メーカーの都合か。先日行った別の店では「陳列棚の(場所確保の)問題」だと言っていたから、あまり売れない商品は置かないようにしているのかどうか。直接メーカーに尋ねようとしたが、本日は「文化の日」で(休日)休業だった。明日にでも問い合わせるつもり。終日曇天が続く。ただ今午後5時。室温19℃、湿度54%。11月に入ってから台風発生、今の段階では劣島への影響はなさそう。(906)
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