覇権主義であり、ならず者の蛮行だ

⁂「週のはじめに愚考する」(壱百壱)~ 民主主義の総本山であり、人権意識を広め高めた世界のリーダーと、自他ともに任じてきた、このかつての警察国家のなれの果てが、まさに覇権主義を地で行く蛮行の砦だったとは、ロシアや中国だって腰を抜かしているだろう。ロシアの「殺戮魔」は「これは侵略だ」と、自分を棚に上げて、「どうだ、侵略はいいもんだろう」と、米国野蛮商人に「大賛辞」を送っている。歴史は前後左右、上にも下にも、誠に融通無下に行き来するもので(実は人間どもが突き動かしているのだが)、一人の暴力支配派の権化のような人間が大統領になった途端に、国そのものまでもが「野蛮国」「覇権国家」になるという、世界の歴史に逆行する事態を生み出したのだ。これを「大逆事件」という。

 理屈と公約はどこにでもつく。何をどう言おうと、この暴力で出来上がっているマッチョは、とにかく「(人も物も)支配したがる」のだが、ここにきて、中国にもロシアにも挑戦するのは得策ではないと、ひたすら南北アメリカに視点を据えて、「帝国」建設に乗り出したのだ。理屈は何とでもいえる。我に歯向かうやつは許しておかぬといわぬばかりの、暴力体質をむき出しにして、まず「ベネズエラ」大統領を拘束したのだから、なんとブッシュ元大統領の蛮行であった「フセイン殺害(2016/12)」に瓜二つの愚挙に出たのだ。その究極の狙いは、世界最大とされる、ベネズエラの石油埋蔵量に目がくらんだのだが、表向きにはそうは言えないから「麻薬の米への持ち込み」とハードルを下げた結果が、今回の蛮行の決行であり、時代に逆行し、天に唾する「バーバリズム」の挙行だった。

 それにしても、この瘋癲老人大統領の愚かさ加減に「一言もない、従順な取り巻き連」というのだから、アメリカの精神も腐ったものだと思う。ぼくのところに来た、日本在住の米国詩人は、大のT大統領ファンだったが、その理由の第一が、「戦争を仕掛けたことがない(平和主義者ということか)」というご託宣だった。この程度なんですか、あなたは、と言いたかったがぼくはそこまでは言わなかった。現大統領の商売道徳は「強請(ゆすり)」と「集(たか)り」の二馬力で、ニューヨークの「悪徳不動産王」にのし上がったのだ。「不戦論者」というのは戯(たわ)けた妄想ではなかったか。

 世界の首脳たちは、ロシアの愚行に目も口も塞いで、はや四年になろうかという。今回もまた、遠巻きにしながら「X」でささやきつぶやいているのだろう。だらしないし、情けない。ぼくにすれば、目も当てられない「蛮人賛同主義者たち」だ。もちろん、ベネズエラ大統領は独裁者であり、暴力主義者だ、だから、それを暴力で封じようというのは、どういう理屈か。「目には目を 歯には歯を(lex talionis (レクス・タリオニス) )」というのはどういうときに「正当化」できるのだろうか。それぞれが勝手に自己正当化を図るための暴力行使、これぞまさしく「覇権主義」というべきだろう。こんな野蛮国家の尻馬に乗っていては、いずれ「蛮行は我に及ぶ」と知るべし。有史以来、初めてガラスの天井を破ったと、可哀そうにも有頂天になって狂ってしまった「奈良の女」は、このマッチョになんというか。身も心も預けるのか。それでは「国民」の立場がないではないか。ここでこそ「一言あってしかるべし」と断じておきたい。

米国がベネズエラを攻撃、マドゥロ大統領を国外へ移送 トランプ氏 (CNN) トランプ米大統領は3日早朝、「ベネズエラに対する大規模攻撃」を実施したと発表し、マドゥロ大統領と妻は身柄を拘束され国外へ移送されたと明らかにした。/トランプ氏は自身のSNSトゥルース・ソーシャルに、「米国はベネズエラとその指導者マドゥロ大統領に対する大規模攻撃を成功裏に実施した。マドゥロ氏は妻とともに身柄を拘束され、空路で国外へ移送された」と書き込んだ。/作戦は米国の法執行機関と共同で実施されたとも述べ、米国時間午前11時にフロリダ州の邸宅マール・ア・ラーゴで記者会見を開くと付け加えた。/トランプ氏は発表の直後、米紙ニューヨーク・タイムズとの短い電話インタビューで「多くの優れた計画と大勢の素晴らしい兵士、素晴らしい人々」に言及し、「実際、見事な作戦だった」と称賛した。/タイムズ紙によると、トランプ氏は今回の攻撃について議会承認を求めたかとの質問には答えず、記者会見で説明すると述べたという。(CNN・2026.01.03 Sat posted at 20:55)
ベネズエラ首都で複数の爆発 カラカス(CNN) CNN取材班は3日未明、ベネズエラ首都カラカスで複数の爆発を目撃した。市内の一部地域では停電が発生した。/最初の爆発は現地時間午前1時50分(米東部時間午前0時50分)ごろに記録された。/CNNエスパニョールのオスマリー・エルナンデス特派員は、「爆発は非常に強く、爆発後に窓が揺れた」と伝えた。/市内の複数の地域で停電が発生し、カラカスにいたCNNの記者らは、爆発後に航空機の音を耳にした。
爆発の原因は不明。
CNNが入手し検証した動画には、2本の煙の柱が立ち上る様子が映っている。1本の煙の下にオレンジ色の光が見えたあと、別の場所で一瞬閃光が走り、鈍い轟音が響いた。/ベネズエラの報道機関は、カラカス北部で同国沿岸部のラ・グアイラ州、ミランダ州沿岸部の都市イゲロテでも爆発音が聞こえたと報じている。/トランプ米大統領は、ベネズエラの麻薬取引を行っているとされる組織に対して新たな措置を講じる準備を進めており、地上攻撃は「間もなく」開始されると再三警告している。/トランプ氏は昨年10月、南米諸国からの不法移民や麻薬の流入を取り締まるため、中央情報局(CIA)がベネズエラ国内で活動することを承認したと述べた。/CNNはホワイトハウスにコメントを求めている。(2026/01/03 Sat posted at 16:25)(ヘッダー写真「爆発後に低空飛行の航空機の音が聞こえ、ラ・カルロタ空港で煙が立ち上った=3日、ベネズエラ首都カラカス/Matias Delacroix/AP」)

◎ 覇権= 覇者としての権力を指し,英語ではヘゲモニーhegemony。一つの国が軍事力,経済力,政治力,あるいは天然資源の豊かさなどにおいて他の国々を圧倒するものを持ち,一定の原理・原則をもって国際的なシステムを創造し,またそれを維持しようとすることをいう。そうした意思と能力を有する国家を覇権国と呼び,こうした超大国への批判として〈覇権主義〉ということばが,米ソを念頭において1970年代から中国の用語法にもとづいて使われるようになった。この概念を歴史的にさかのぼって適用して国際政治を見れば,このような覇権国が存在し,国際的に覇権システムが形成されると国際システムが安定するというのが覇権安定説で,古代のパクス・ロマーナ(ローマの平和),近代の英国のパクス・ブリタニカ,米国のパクス・アメリカーナなどがその例として挙げられる。これに対して,複数の主要な国々が共同で,国際的な覇権体制を保持し,問題領域ごとの国際レジーム(枠組み)を形成することによってより安定的な国際システムが保持されるとする考え方があり,1970年代以降の米国の経済的地位の相対的低下のなかで,いかに国際的な安定を維持し得るか,という問題意識から議論がなされた。冷戦後の現代においては唯一の覇権国たる米国の外交政策を論ずる際のキイワードとなっている。(百科事典マイペディア)

◎ ていこく‐しゅぎ【帝国主義】〘 名詞 〙 ( [英語] imperialism の訳語 ) 一つの民族または国家が、政治的、経済的に他民族または国家を支配して強大な国家をつくろうとする運動。 一九世紀末から二〇世紀初頭にかけて独占的な段階に達した資本主義をいう、レーニンの用語。独占および金融資本の支配が形成されると、資本輸出が圧倒的となり、世界的規模で国際カルテルが形成されて、領土の分割をめぐって強国間の競争が激化する状況をいう。(精選版日本国語大辞典)

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私の目にはじめてあふれる獣の涙

【卓上式】真新しいページ 手持ちぶさたになり、歳時記を開くことがある。四季折々の項目を気ままに眺めるだけで発見がある▼新年の句で「初日記」という季語を知った。日記帳や手帳のまっしろなページに新しい年の初心を記す。どことなくすがすがしい情景を想像させる。<初日記いのちかなしとしるしけり>久保田万太郎▼作家の辻邦生(くにお)は1969年の正月、パリに滞在し、長編を執筆していた。40代半ばの辻は街を歩き、人と語らい、思索にふけり、ペンを走らせる。元日の日記には<「生のよろこび」を深く豊かに味わうこと>の一節があった。人間という陰影に富む存在を肯定し、作品として表現する。辻のスタンスを示す記述だった▼身の回りのできごとを淡々と簡潔に書き続ける流儀もある。詩人の石垣りんが典型だろう。昨年公刊された「石垣りんの手帳」は、彼女の長年の日記を写真版で見せる。勤務先の銀行が毎年配った小ぶりの手帳。読みやすく丁寧な鉛筆の字が、市井で暮らした詩人の人柄を伝える▼74年元日は<晴天 10時起きる。年賀状252通…おぞうにご馳走になる>。神社で引いたおみくじは<小吉>。深夜まで年賀状の版木(はんぎ)彫りと刷りに励む。こうした日常の繰り返しから詩が紡がれた▼2026年が幕を開けた。みなさんの真新しいページはどんなことばで始まっただろうか。(北海道新聞・2026/01/03)

 ぼくはあらゆることにおいて「三日坊主」であることでは人後に落ちないと思ってきました。ことに「日記」などというものは長続きしたためしがない。その理由は単純で、「書くことがない」からです。毎日毎日、その時々にはいろいろな出来事が起こるのでしょうが、それにいちいち反応していては身が持たない。ようするに、煎じ詰めれば「凸凹はあっても、毎日が同じようなことの繰り返し」となると、こと改めて、「さて、今日はこんなすごいことがありました」「あんな嫌なことがあったのです」などとわざわざ書き留める意味もないようなことばかりが続きます。だから「書くことがない」のですよ。

 チャ-リー・チャップリンの言葉を思い出します。「人生はクローズアップで見れば悲劇だが、ロングショットで見れば喜劇だ」という箴言(proverbs)は、人生のどんな状況について述べたことでしょうか。

 コラム「卓上四季」に出てくる人物で言うなら、ぼくは断然、石垣りん派でした。こんなことが、あんなことが…」と書いておけば、それはそれで備忘録にはなるでしょうが、他人様に読んでいただくようなもの、お見せするようなものとは到底考えられません。若いころは、一人の作家や文学者のすべて、つまり、昔風に言うなら「断簡零墨(だんかんれいぼく)」をことごとく読んでみたいという気になりかけたことがありましたが、よく考えるまでもなく、「つまらないこと、そんなことに時間をとるのか、君は」と誰かに諭されたように、ぼくはすっかりその意欲を挫(くじ)かれたことでした。「断簡」とは「きれぎれになって残っている文書・書簡。文書の切れはし」であり、「零墨」とは「一滴の墨」、つまりは紙片のかけらということです。

 ようするに「書物の欠片やちょっとした書き物のこと」とするなら、そこに一体作家や文学者のどんな思想や姿勢が書かれているか、極めて怪しいものでしょう。石垣さんの「零墨」たる「74年元日は<晴天 10時起きる。年賀状252通…おぞうにご馳走になる>」という「徒然(つれづれ)草」はどうでしょう。まるで「のぞき趣味」を満足させるような「欠片」に出会って、りんさんも「こんなことに興味があったのか」と驚くか、詩人といえども「市井の人」だったと知って共感するか。それにしても石りん(1920-2004)という詩人をぼくたちは知りえたことにこそ、彼女の隠しようのない存在の価値があったのですね。左上に引いた「折々のことば」中の「切ない、ということばの重みは、心の中のどの部分に寄りかかろうとするのでしょうか」という一行に、彼女の神髄の一端があるように思われます。今日風に言えば「中学卒」から60年間、家族の生活を支えながら、それこそ詩作に励んだ。この「強さ」というか、「潔さ」が、静かなうちに石垣さんに「大人(たいじん)の気風」を培ったように僕は考えます。かなり昔に、彼女の「生活史」を読んでいて、ぼく自身も身につまされたことがあります。

 何でもない嘆きのように漏らす「納められる税金を『せつなく』受け取って、大事に使ってくれる施政者はいないのでしょうねえ」というりんさんの、優しそうに聞こえる「寸言(epigram)」にぼくは心打たれます。彼女の漏らす「短い言葉。短いが意味の深い言葉」こそが、石垣さんの詩の魂だったかとも思われてきます。家族、ことに両親との葛藤に深く傷つきながら、その「深手(ふかで)」を詩作によって癒し続けて、生きてきた詩人の作品を、時に読んでは読者その人がまた、日日の生活から受ける深手を労(いた)わることに、石垣りんとのある種の会心の「出会い」を覚えないでしょうか。

    食わずには生きてゆけない。
    メシを
    野菜を
    肉を
    空気を
    光を
    水を
    親を
    きょうだいを
    師を
    金もこころも
    食わずには生きてこられなかった。
    ふくれた腹をかかえ
    口をぬぐえば
    台所に散らばっている
    にんじんのしっぽ
    鳥の骨
    父のはらわた 
    四十の日暮れ
    私の目にはじめてあふれる獣(けもの)の涙。(「くらし」石垣りん

◎ 石垣りん【いしがきりん】= 詩人。東京都生れ。高等小学校卒業。1934年に14歳で日本興業銀行に就職して家族の暮らしを支え,詩作を続けながら定年(1975年)まで勤務した。1938年同人雑誌《断層》創刊に参加。日常語を用い,働く女性を描いた詩や,戦争体験に基づく社会性のある作品を発表した。68歳まで《歴程》同人。主な著書に詩集《私の前にある鍋とお釜と燃える火と》(1959年),《表札など》(1968年。H氏賞受賞),《石垣りん詩集》(1971年。田村俊子賞受賞),エッセー集《ユーモアの鎖国》(1973年),《焔に手をかざして》(1980年),《夜の太鼓》(1989年)などがある。(百科事典マイペディア)

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蓋のない冬空底のないバケツ(白泉)

【日報抄】「棺桶(かんおけ)まで歩こう」。刺激的なタイトルに目を奪われ、一冊の本を手に取った。著者は在宅緩和ケア医の萬田緑平さん。2千人以上のみとりに携わった経験から、こう断言する。「人間というものは、歩いている限りは死にません」▼本書には、重い病を抱えながら、命の火が消える直前まで自分の足で歩いていたケースがいくつも紹介されている。歩くことは生きること-。読み進めるにつれ、そんな思いを強くした▼作家の島田雅彦さんは、歩いて考える「散歩哲学」を提唱する。同名の著書で「よく歩く者はよく考える。よく考える者は自由だ」と宣言した。歩行は根源的な移動手段であり、移動の自由は基本的人権の一つと言える。それゆえ、島田さんは歩行の大切さを説く。「たとえ、杖(つえ)や車椅子を使っても、移動の自由と権利だけは手放してはならない」▼「歩み」という言葉は「歩くこと」だけでなく「物事の経過」や「歴史」という意味でも使う。人の場合なら「歩み」は「人生」や「日々」と言い換えられる。2025年、自分自身や社会の歩みは、どんな様子であっただろう。振り返ってみたくなる時節だ▼わが1年の歩みは「ぼちぼち」だったか。けっこう「ふらふら」していたかもしれない。「よろよろ」「よれよれ」でもあったような。顧みれば反省ばかりだが、どうにか年の瀬にたどり着いた▼初歩、譲歩、歩合、牛歩…。「歩」の字が付いた言葉は多い。多少は進歩することを願いつつ、新年も歩みを続けたい。(新潟日報・2025/12/27)

 歩いている間は死なないと言われるのは当然のようにも思うし、歩いている間に死ぬということだってあるでしょうとも言いたくなります。「行き倒れ」って言うでしょ。あるいは「ゆき倒れ」、それはどういう状態を指すのでしょうか。例によって、目前の辞書によると「ゆき‐だおれ〔‐だふれ〕【行(き)倒れ】読み方:ゆきだおれ 病気・寒さ・飢えなどのため、道ばたで倒れたり死んだりすること。また、その人。行路病者。いきだおれ」(デジタル大辞泉)とあります。確かに道を歩いていて、何かの不都合で歩けなくなった人を指すようですから、やはり「歩いている限りは死にません」となるのでしょうか。

 ぼくはこの「コラム」の掲載紙は購読していないが、それこそ「折々に」ネットなどを通して読んできました。若い頃は三十年近くは毎日読んでいました。高校生の頃に、将来は新聞記者になろうかなと思ったことがあるくらいに、なぜだか新聞記者に憧れた時期が思い出されます。同級生や後輩が新聞社に勤めだした時期も、ぼくの中にはある種の「憧(あこが)れ」は燻(くす)ぶっていましたね。今はその反動のような態度で新聞と付き合っていますが、なかなかに平衡感覚が育たないのはどうしたことでしょうか。戦後昭和のある期間は「新聞紙全盛時代」だったともいえるでしょうが、その時代には「新聞広告(折込も含めて)の量」に閉口したことも覚えています。たくさんの広告を取らなければならないから、紙面(頁数)が増える、紙面が増えるからさらに広告費を求める、この「いたちごっこ」の末に、新聞は記事・紙面内容よりも頁数増を選んだから、必然的に紙面の内容(質)が極度に薄まったのです。新聞批判をしたいのではなく、「ジャーナル」という語の当たり前の意味に思いを寄せたいということです。

 「日刊の印刷物」「日刊新聞」、それをここでは「ジャーナル」といっておきます。そんな「日刊新聞」の中で、ぼくが最も好んで読んだのは「生活面」であり、小さな小さな「コラム」類でした。いまでもその形跡は残っている。「社説」「論説」よりは「コラム」です。「社説」には目を通すけれど、ほとんどぼくの視野には入らないものが圧倒的す。しばしば「社説は盲腸だ」と揶揄されてきましたが、今はどうでしょうか。ぼくも気を取り直して読み続けますが、その書きぶりが好きにはなれませんね。命令調で「~せよ」「~するな」と、いかにも上から目線で、いったい誰に向かって贅言を放つのでしょうか。そこへ行くと、「コラム」は読みやすいし、その短文(多くは500字内外)がいいですね。

 引用している「折々のことば」、何もこのコラムに刺激されて、こころを入れ替えるとか、反省しきりというのではないんですね。いろいろな「箴言風」「覚書程度」の言葉に出会って、ぼくは「あっ、そうなんだ」とか「えっ、たしかにね」と思わず驚嘆の声をあげる、そんな経験が嬉しいのでしょうね。若い頃に学んだドイツ哲学者の言葉に「あっ、体験 !」(Ach, Erfahrung(Erlebnis)!」という言葉に甚(いた)く感じ入ったことがあります。「なるほど、そういうことだったんだな」という、自分のみに語り掛け、呼び掛ける、そんな経験・体験こそが教育の原初だということだったと思いました。

 本日の「日報抄」は旧臘27日のものですが、何時か触れたいと保存していました(このような記事は何百と取ってあります)。とにかく、足を動かす、それは体全体を動かすことであり、脳の働きが機能している証拠でもあるでしょう。作家の幸田文さん(1904~1990)に「歩くとは考えることです」という体験談があります。彼女は一時期、千葉県市川に住んでいて、そこから都内の女学校に通っていたという。その往復はいつも徒歩だった。その往復の歩く時間こそが、彼女の思考鍛錬時間だったと、その経験を偲ばれています。コラム氏が紹介している島田正彦さんも御同様の「あっ、体験」をされたのでしょうか。萬田緑平さんの「在宅ケア」の、ある意味では偉業といってもいいような行為に甚く動かされもします。「寝たきり」に行くまでに、とにか歩くことに挑む、そんな人生の醍醐味がこちらにも伝わってくるようでもあります。

 本日掲載させてもらった三編の「折々のことば」です。岡田和さん。「夢や望みを横において」、「とにかく動き出せば」何かに触れる、何かがやってくる。まるで「犬も歩けば棒に当たる」ような気分になります。解釈には諸説芬々(ふんぷん)ですが、どうぞご随意に。

 ソローさんの「あっ、体験」にぼくはもっとも共感を覚えます。その昔、山に登っていたころ、何度か、登山の達人とされる人から教えてもらった。山登りの醍醐味は「自宅から歩きだすことだよ」には仰天したし、富士登山は「一合目(富士宮本社」から」という先達の言葉にも驚き、五合目までバスで、という我が身を恥じたものでした。ソローの語にある「未知のものと遭遇する機会」とは「犬も歩けば棒に当たる」、その「棒」でしょうね。

ピアニスト反田さんの恩師二人の言葉。一人は「大失敗したら道を直してあげる」といい、もう一人は「君の核は無邪気な子ども。童心に帰ってピアノを弾いてごらん」と諭されたという。

 反田さんは、2021年のショパンコンクール2位だった人。昨年のコンクールで卒業生の娘さんが第4位でした。(コンクールは、ぼくの好みには合いませんが)二人の恩師の「失敗してもやり直せる、だから縮こまるな、自分を偽るな」、そんなことを教えられた、かけがえのない恩師に恵まれましたね。こちらも「犬も歩けば棒に当たる」でしたかしら。これと全く反対の不幸・不運という「棒」にぶち当たることもありますが、なあに、いつだってやり直せるさ。人生で、取り返しのつかない過ちはないと思うね。

 ただ今、午前7時。朝日が高く上り、山の端が煌(きらめ)いていきました。

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煩悩は百八減つて今朝の春

【いばらき春秋】新春をことほぐ元日は2年前、鎮魂の祈りをささげる日となった。午後4時10分、震度7の激震が能登地方を襲う。闇の中で煌々(こうこう)と燃え上がる輪島朝市の映像に誰もが言葉を失った▼行政も市民も虚を突かれた。30年以内に震度6弱以上の揺れに見舞われる確率は、能登の大部分で0.1~3%とされていた。内陸活断層で起こる地震の発生間隔は千年以上と長く、短期的な確率の大小はもはや安全の指標をなさなかった▼能登では2007年にも震度6強を観測し、20年末からは群発地震が続いていた。それでも「わが街は大丈夫」と油断が生じる。誰しも無意識に働く、危うい心理メカニズムである▼自らを省みる。15年前、地の底から突き上げる強震にへたり込み、砕け散る窓ガラスを凝視した。忘れたはずはない。が、「当面は大丈夫だろう」と慢心が心の隙間に巣くっていることにハッと気付く▼政府の有識者会議が首都直下地震の新たな被害想定を公表した。死者は最大1万8000人。本県南部や茨城・埼玉県境を震源とするマグニチュード(M)7級の地震は、明日起きても不思議はない▼いつかを当てるすべはない。しかし、地震国に生きる以上それは必ず来る。元旦、その覚悟を肝に銘じたい。(山)茨城新聞・2026/01/01))

 何はさてあれ、また新しい歳(年)を迎えました。ただ今午前6時過ぎ。日の出はまだのようです。いつものように、来るもの拒まず、去る者追わず、ぼくの積年の心情というか、惰性」になっています。また、「急いては事を仕損じる」とも仲良くしてきました。一番の心構えは「無理をしない」、下手に「頑張るのは厳禁」です。これを飽きもせず、何十年と続けてきました。

 とにかく、いつ何時襲い来るかわからないのが、事件や事故です。自分はそんなものに当たらななどというのは、それが起きるまでのこと。「明日は我が身」といったり、「相身互い身」と思ったり。事件や事故の犠牲になられたのは「ぼくの身代わり」、これもまた、まるで身についた脂肪のようなもので、何時だってぼくにはそのように感じられる。猫にやけに肩入れしていると思われることがあります。「猫が好きなんですか」としばしば聞かれる。ぼくは答えに窮します。好きだからかわいがるというのは、やがて嫌いになったから捨てるというようなもの。まるで下手な付き合いを始めた「異性(同性)」みたいなもの。互いにそれなりに傷つけあいながら、また同じことを繰り返し。

 本日のコラムは「いばらき春秋」でした。何か特別の理由があったからではなく、ネットに出たのが、例年通りに早かったから。というと、コラム氏に失礼に当たりますが、このコラムの特性(品質)は、何時読んでも「長閑(のどか)な」「ゆったり気分」に浸れるからです。どなたが書かれているのか、当番(交代)制なのかわかりませんが、何時読んでも「ゆっくりしているなあ」と思うのです。これは大変貴重なこと。穏やかは、ぼくにはないものですので、なおさらに近づきたくなります。

 隣国では「カルト集団」が日本政界に激震を走らせる記事で持ちきりです。「反日」「反共」のカルト宗教団体が日本の政界を恣(ほしいまま)に動き回り、一票でも票の欲しい政治家を手玉に取ってきたというのです。「旧統一教会の魔手」に引き付けられ、濃淡それぞれでしょうが、「汚染議員」が総理大臣をはじめ、汚染されたままに「政道」に勤(いそ)しんでいるという風景を、【いばらき春秋】なら、どのように描くでしょうか。この国、令和八年の元日です。

 とまれ、日の出が間近かです。意外に寒くないのに一喜し、ネットニュースの「大政翼賛」「右へ倣え」ぶりに一憂しつつの元朝。日の出が間近かです。ともかく、健康であれば、今年も駄文三昧でしょうか。(表題句は漱石作)

 「初明かり地球に人も寝て起きて」(池田澄子)

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【有明抄】午年の初めに 年の瀬に本紙の読者文芸欄を読み返し、一年を振り返るのが習いになっている。小欄に書き残せなかった秀作はいくつもある◆この一首も忘れがたい。〈負け組のひとの悔しさ支えたるハルウララなり夏連れて逝く〉唐津市・瀬戸口正美さん。デビュー以来113連敗。負け続けて皮肉な人気を得た競走馬を悼んだ方がいたことに、いくらか救われたような気がした◆能登半島地震の被災地、石川県珠洲市に引退馬の牧場がある。毎年生まれる8千頭近い競走馬のうち、日本中央競馬会(JRA)で活躍できるのはほんのひと握り。勝利に恵まれず、地方競馬や乗馬クラブに引き取られるならまだいい。行き場のない5千頭ほどが、いのちを絶たれる運命にある◆そんな現実に歯止めをかけたいと、元JRA調教師、角居勝彦さん(61●)らが震災前から手がけていた牧場である。放たれた馬たちが歩き回り草をはむ。それだけで荒れ地がきれいになる。野生動物に悩まされる里山にこんな場所を作れば被害は減らせる。長い避難生活に疲れた被災者も、ここへ来れば不思議と元気を取り戻す◆「この馬たちは、ただ競走に勝てないだけ。ここにいるだけで生きている価値がある」と角居さんは言う。世の中がそんな、こころ安らげる草原のようでありますように。午(うま)年の初め、ささやかな願いで柏(かしわ)手(で)を打つ。(桑)(佐賀新聞・2026/01/01) 

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いざや寝ん元日はまたあすのこと

【産経抄】暮れ行く多端の年 「年忘(としわすれ)」といえば無事に年末を迎えたことを喜び、その年の労苦をねぎらう意味がある。室町中期の文献にはすでに記述が見られるというから、日本人の心に古くから根を下ろしている感覚らしい。久保田万太郎に次の句がある。▼<拭きこみし柱の艶や年忘>。歳神(としがみ)さまの機嫌を損じないよう、かの文士は柱や窓や床を丁寧に拭き上げたのかもしれない。ゆく年を惜しむ感慨に加え、年用意を万端整えた充足感がにじむ。年用意といえば注連縄(しめなわ)を飾ったお宅も多いに違いない。▼「飾った」と過去形で書いた。注連飾りは遅くとも30日までに、済ませていなければならないからである。大晦日(おおみそか)に飾るのは「一夜飾り」の禁忌に当たり、29日も「二重苦」の読みがあるため日柄としては芳しくない。ゆとりをもって年用意を…。そんな戒めが読み取れるのだ。▼いつにない多端の年がまもなく暮れる。夏の参院選後、衆参両院で与党が半数を割り、政治の混迷は深まった。高市早苗氏が日本の憲政史上初の女性首相に就き、連立政権の枠組みも大きく変わった。米国発の高関税の嵐が吹き荒れた年でもある。▼戦後80年の今年は、中露朝が結託し国際秩序に挑戦状を突きつけた年としても記憶されよう。ウクライナの戦火はやまず、平和の祭典たる万博との対照も際立った。天地の異変は収まる気配がない。年忘れの感懐とは別に、人々が覚えるのはそこはかとない不安ではなかろうか。▼置き捨てにできない課題を、きょうと地続きの明日へと持っていくことになる。<いざや寝ん元日はまたあすのこと>与謝蕪村。令和8年への日付変更線が迫っている。明日以降のことは、歳神さまによしなに取り計らっていただこう。どうぞ、よいお年を。(產經新聞・2025/12/31)(ヘッダー写真「那智の滝」に架かる大しめ縄を張り替える神職=27日午前、和歌山県那智勝浦町)も同新聞)

 ここにきて、パソコンが音を上げています。それなりに大きい容量に換えて案してしていましたが、なんと三か月ほど前には、それがほぼ満杯になっていました。迂闊といえば迂闊でしたが、パソコン界隈に対する無知に仕業と、自分ながら途方に暮れています。とにかく、OSをオンにするだけで、相当な容量を喰う上に、当方の与(あずか)り知らないところで、それこそ昼夜を置かずに、更新プログラムや新規のアプリが侵入しているのです。気が付いては除去するのですが、またまたいつの間にか侵入している始末。

 それにしても、OSのいのちともいえるHDDは今は昔になりつつあり、世の中はSSDに時代と宣伝されていたかと思ったら、いや、やはりHDDがいいのだとか何とか、パソコン愛好家や商売熱心な方々の世界にぼくは済んでいないので、要するに、「他わない遊び」を何不自由なく続けられればそれで満足、そんな手合いにも、いかにもパソコン周辺は慌ただし過ぎるのですね。ここにきて、何か世の中が「新時代」に切り替わったわけでもなく、今日の続きは明日になる約束、一日24時間であることかわることもないのですが、それにしても「慌ただしい」と世の中は浮足立っています。本当の「慌ただしい」のかどうか、ぼくにはとても怪しい。12月31日の翌日は、人間世界の約束で1月1日でしかあります。別の約束なら、12月32日だってかまわないくらいのものです。

 なんだかんだ屁理屈を言い立てていても、わがパソコン音を上げ続けている。今夏は特に激しかったのはHDDの熱を佐先ずファンの大駆動の瀬であったかもわかりません。この駄文を書きながら、気持ちは半分は「ナントカ電気」に飛んでいます。あれを買おうか、これにしようかと、OSの容量増に心は奪われている。つまりは「心ここにあらず」と、よしなしごとを綴るばかりで、ぼくの場合は「容量が増えない」のではなく、常の如くに「要領を得ない」のです。

 久しぶりの「産経抄」です。いよいよ「我が世の春」到来と、その意気込みもさらに盛んに生っている。「いつにない多端の年がまもなく暮れる。夏の参院選後、衆参両院で与党が半数を割り、政治の混迷は深まった」「戦後80年の今年は、中露朝が結託し国際秩序に挑戦状を突きつけた年としても記憶されよう」「天地の異変は収まる気配がない。年忘れの感懐とは別に、人々が覚えるのはそこはかとない不安ではなかろうか」…。いつになく神妙にも思われるのは大晦日の故でしょうか。ぼくには暦通りの一日で、気分は普段といささかも変わりません。つまりは「脱世間」を主調とした、わが平々凡々たる「冬に一日」に過ぎません。明ければ「元朝」でしょうが、それはそれ、ぼくは猫の欠伸や背伸びに深く学んで、くよくよすることばかりは卒業したもの。

 コラム氏は粋(いき)ですね、ここに蕪村(1716~1784)をお出しになるとは。<いざや寝(ね)ん元日はまたあすのこと>(『蕪村遺稿』・安永元年12月の作品)合わせて、面白い一句を。<年守や乾鮭(からざけ)の太刀鱈の棒> 掟元日を迎えることを「年守(としもり)」といった。保存食の酒と似た「棒鱈(ぼうだら)」を刀に見立てて、迫りくる「借金取り」を追い払おうという寸法。いかにも時代の風景が見えますね。小さいときは塩っ辛い「棒鱈」をよくしゃぶったものでした。明和7(1770)年の作でした。ぼくは、蕪村にも惹かれますね。<万歳(まんざい)や踏かためたる京の土> 右、蕪村の「万歳図」中ほどに出ています。奈良の都から、新春には京都にやってきて、目出度い「万歳」を寿ぐ、その万歳師たちは、踊りつつ都の土を固めて来たので、京都は押しも押されもせぬ「京(みやこ)」になったという意味。この「駄文録の「HP」に仕立てている表紙部分にも「紙本淡彩奥の細道図」という、与謝蕪村筆・安永八年十月作が引用されています。とにかく、ゆったりとして蕪村の立ち居振る舞い作風が大好きなんですね。いのち存(ながら)えることがあれば、ぼくは「蕪村流」で過ごしたいな。西鶴さん(1642~)にはこんな句が。<大晦日さだめなき世の定哉>

 皆様、あくる年もご健康で過ごされますように。お付き合いの儀、深く感謝します。

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Elle aurait été une légende vivante

【筆洗】子どものころ、家でウサギを飼っていたそうだ。ある晩、かわいがっていたウサギが夕食に出てきた。少女は泣いたことだろう。その記憶が動物保護に取り組むきっかけになったという。俳優のブリジット・バルドーさんが亡くなった。91歳▼「BB(ベベ)」の愛称が懐かしい。親交のあった作家マルグリット・デュラスの言葉がある。「彼女は男たちにとって永遠のあこがれ。世の妻たちから夫を奪う」▼エロチシズム、小悪魔、「頭のてっぺんからつま先まで不道徳」-。BBをめぐる数々のキーワードにその登場に対する、当時の社会の困惑ぶりを想像する▼演技への評価は必ずしも高くないが、言い換えれば、この人には演技力さえ必要なく、その存在自体で時代を大きく揺さぶった。「ルノーに並ぶフランスからの輸出品」。堅苦しい世の中に自由な風を届けた輸出品だった▼比較されるマリリン・モンロー(MM)にはどこか受け身な印象があるが、BBはもっと自分本位で勝ち気か。監督の厳しい指導にときに涙を見せるモンローに比し、バルドーさんは決して泣かない。横暴な監督にはつかみかかったという逸話が残る▼1973年にさっさと俳優業を引退したのも束縛を嫌うこの人らしい。私財を投じ、アザラシやゾウの保護に力を注ぎ、動物虐待と闘った。往年のファンたちがBBをUU(うるうる)で見送る。(東京新聞・2025/12/30)

 ブリジット・バルドーさんに関して、語るべき何物もぼくは持っていない。今から半世紀前に引退し、残りの人生をさまざまな活動に捧げられたが、もっとも衝撃的だったのは早くに引退した後の人生のすべてを「動物愛護」活動に献身的に邁進されたということだった。ぼくの中・高校生時代が、彼女の映画絶頂期だったと思うし、ぼくも何本かは映画館で観たが、その内容にはほとんど触発されませんでした。ところが、四十代直前の人生の大転換には、ぼくは驚愕させられた。それまでの、いわば「栄光」を捨てて、動物の保護活動に生涯を用いられたという、彼女の生き方に大きな衝撃を受けたのでした。

 数年前までその活動の一端を知っていた、長嶺ヤス子さん(フラメンコダンサーとして活躍)(1936 ~ )の「保護猫活動」にも、ぼくは大きなショックを受けた。このことについては、駄文集録のどこかで触れています。保護猫活動のきっかけについては、「昭和55年(1980年)長嶺は車で猫を轢いてしまう。長嶺は、以後、捨て猫、捨て犬を拾って育てるようになり、その数は猫150から160匹、犬15から20匹と言われる。これらの犬猫の養育に時間を取られることが、マスコミをして『猫が足を引っ張る』といわれ、批判、批評の的ともなったが、一方、長嶺にとっては生き物を通して改めて命を見つめる機会ともなっていった」(Wikipedia)都内から房総半島に移住し、更に福島県に移転され、おそらく今なお保護活動を続けておられるのでしょう。(ある時期まで、彼女たちの活動の情報は得ていましたが、近年は途絶えてしまっている)

 一方のBBは旺盛な活動で、あらゆる「動物虐待」に通じる行為そのものを問題視するなど、過激な活動を続けていたし、その情報もぼくはいろいろなつてを介して得ていました。「1986年、彼女は野生動物と家畜の保護に取り組むブリジット・バルドー財団を設立した。/彼女は菜食主義者になり、2013年にはフランスの動物園の病気の象2頭を殺す計画に抗議してロシア国籍を申請するとさえ脅した。/彼女の死を受けて、フランス最古の動物保護団体『動物保護協会』は『動物保護の大義のために尽力した象徴的な人物』に敬意を表した」(BBC NEWS JAPAN)。

 本日午後、何時ものHCで猫の食品を買おうと立ち寄ったところ、ぼくよりいくらか若いとみられるご婦人が大きなカートで、猫用ドライフード(6.5kg)三袋も積んでいた。思わず声をかけたところ、茂原から来た人で、家の内と外に20数匹の猫がいるという。たった一人で面倒を見ていると聞いて、ぼくは頭が下がったのだ。奇特な人もいるもんだな、世の中には。我を忘れて、ぼくは感激した。ぼくのところにも20を超える猫たちがいるが、この寒空に、何とかしてやりたいと思いつつ、早く「春よ来い」とユーミンのような思いを抱いては、ぼく自身もさらに丁寧に猫たちと付き合いたいと、ある種の覚悟のようなものを覚えた次第。

 第一「ペット」という物言いが気に入らない。猫を飼うとは言うが、子どもを飼うとは言わないではないか、などとあらぬところに腹立ちの矛先が向かうのです。BBの訃報を聞いて、いまさらのように、彼女の後半生(映画界にいた時間よりも遥かに長いものでした)から受け続けてきた衝撃を、今の境遇において、自分がやれる範囲で続けなければと、その万分の一でも果たせたらという思いを新たにしたのでした。(おそらく、BBという存在は、とても「毀誉褒貶」の激しい人だったでしょう。そしてその生涯は「生きながらに伝説となった」とぼくには思われるのです)(アメリカのMMよりもよほど「慧眼の人」だったと思うのだが、どうでしょうか)

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 「ブリジット・バルドーさん死去、91歳 仏映画に革命もたらした俳優 1950年代のフランス映画に革命をもたらし、性的解放の象徴となったフランス人俳優ブリジット・バルドーさんが死去した。91歳だった。/フランスでは名前の頭文字を取って「BB」と呼ばれた。「素直な悪女」など50本近くの映画に出演し、1973年に引退。その後、動物福祉の向上に尽くした。/バルドーさんが設立した「ブリジット・バルドー財団」は、「計り知れない悲しみ」をもって彼女の死を発表するとする声明を発表。「世界的に有名な女優および歌手だった。輝かしいキャリアを捨て、動物福祉と自らの財団に人生とエネルギーをささげることを選んだ」とした。/声明は、バルドーさんが死去した日時や場所を明らかにしていない。(⇙)

 フランスのエマニュエル・マクロン大統領は、「彼女の映画、声、まばゆいばかりの輝き、イニシャル、悲しみ、動物への惜しみない情熱、(フランスの象徴)マリアンヌとなった顔。ブリジット・バルドーは自由な人生を体現していた」と追悼。「フランスの存在、普遍的な輝き。彼女は私たちの心を震わせた。私たちは世紀の伝説を悼む」とした。/同国の極右政治家マリーヌ・ル・ペンさんは、フランスは「才能、勇気、率直さ、美しさの点で類まれだった女性を失った」と述べた。/バルドーさんは1992年、ル・ペンさんの父親で極右政治家ジャン=マリ・ルペンさん(故人)の顧問を務めたベルナール・ドルマールさんと結婚した。/バルドーさんは晩年、同性愛嫌悪の中傷発言をして評判を落とした。また、人種的憎悪をあおったとしてたびたび罰金を科された。(以下略)(BBC NEWS JAPAN)(https://www.bbc.com/japanese/articles/c5y2yw01ydwo

◎ ブリジット バルドー(Brigitte Bardot)= 職業・肩書j女優,動物愛護運動家 ブリジット・バルドー財団創立者 国籍フランス 生年月日1934年9月28日 出生地パリ 本名ジャヴァル,カミーユ〈Javal,Camille〉 勲章褒章レジオン・ド・ヌール勲章シュバリエ章〔1985年〕 受賞フランス・シネマ大賞最優秀女優賞〔1957年・1959年〕 経歴 裕福な家庭に生まれる。モデルを経て、1952年「素晴らしき遺産」で映画デビュー。’53年ロジェ・ヴァディムと結婚。’56年映画監督となったヴァディムの第1作「素直な悪女」で新鮮なエロティシズムを表現、フランス映画のセックス・シンボルとなり、“BB”(べべ)の時代をつくる。’57年離婚。以後、名声が高まるにつれ、男性遍歴が激しくなり、’60年ノイローゼにより自殺をはかった。この時の体験を反映したルイ・マル監督の「私生活」(’61年)が最高傑作といわれる。’73年映画界を引退。’87年動物愛護の協会を創設し、動物愛護運動家として活動。他の出演作に「裸で御免なさい」(’55年)、「殿方ご免遊ばせ」(’57年)、「可愛い悪魔」(’58年)、「真実」(’60年)、「戦死の休息」(’62年)、「軽蔑」(’64年)、「セシルの歓び」(’66年)、「華麗なる対決」(’71年)など。’96年回想録「B.Bのイニシャル」を発売、話題となる。’99年10月自伝の第2巻を出版。’92年4度目の結婚。(現代外国人名録2016)

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