【夕歩道】
NHKEテレ「no art、no life(ノーアート、ノーライフ)」。わずか5分間のテレビ番組だが、どの回も制作者の力がこもっている。日曜午前の放送で水曜深夜に再放送がある。
繊細な人たちが作るアートの紹介番組。野花に顔を寄せて感嘆したり、障害のある人の施設で一心に自分の内面を見つめたり。人の価値を生産性で測ると置いてきぼりにされそうな静かな人たち。
先日、謎の作家バンクシーの正体を特定したと海外通信社が報じた。氏についての本は、どこにでもいそうな「普通の、控えめな」英国人とかねて紹介していた。ひっそり暮らしているだろうか。(中日新聞・2026/03/18)

何の脈絡もなく、「ノーアート、ノーライフ」と石垣りんさんの「詩」と「樹齢1200年の桜」を並べてみました。普段通りに、思いつくままです。拙宅には何本か桜の木があります。それぞれがまさにこれからだと、「蕾(つぼみ)」を膨らませている。その中で、ひときわ早く開花するのが「啓翁桜(けいおうざくら)」という品種。(ヘッダー写真。拙宅ものではありません)当地に越してきてから苗木から育てた。このところの杜撰(ずさん)な手入れ(手抜き)のせいで、かなり樹勢が衰えてきている。あまり選定したりするのは好きではないので、自然に任せるのですが、植えたところがよくなかったのかもしれません。桜花爛漫もいいでしょうが、ぼくには少しずつ成長している(「花なら蕾とか)、その経過(葉桜)を見るのが何よりです。それは人間でも同じではないでしょうか。満開(出世)が最高だという人が多いでしょう。でも、そこに至る前段(出走前)と、後段の落花(出走後)の経過をこそ見るのが、植物(競馬)好きではないかという気もしているのですね。
右に引いた石垣さんの詩「落花」(一部)。不思議といえば、「落花」はよく使われるけれど、「散華・散花(さんげ)」はあまり見ません。当然なんですか。高橋和巳さんに同名の小説「散華」があるのは知っていましたが(未読)。「散華」とは「1 花をまいて仏に供養すること。2 四箇の法要の一。梵唄(ぼんばい)のあとにシキミの葉あるいは花を散布すること。また、紙製の蓮華の花びらを花筥(けこ)に入れ、散布すること。3 《花を散らす意から》死ぬこと。特に、若くして戦死すること。「南方洋上に—する」(デジタル大辞泉)石垣さんは「散華」という名の「戦死」の美化を忌み嫌ったのです。「おちるがいい / 花びら / 涙 / いのち / 死の灰」石垣さんは、見るからに華奢(きゃしゃ)な方だったが、その「芯」には強靭なものがあった人だと思う。強がっているのではなく、はったりでもなく、「おかしいことはおかしい」とはっきりと自分の言葉でいった人として、ぼくは尊敬しています。「桜の花びらのように」「美しく散るいのち」、しかもそれは「国のために捧げたいのち」だなどと、なんという虚飾。詭弁であろうかという思いは、ぼくにもある。

国って、なんぼのもんです? そんなぞんざいな口をきいてみたくなります。「お国のため」「国が第一」「七生報国(しちしょうほうこく)(楠木正成の科白(せりふ)だとされます、彼はずいぶんと持ち上げられたり、踏み付けられたり。命を差し出す「主君(後醍醐天皇)」がいてこその「報恩」でしたが)」という嘘の嘘。言っている本人でさえ、そうはいっても「まずは、わが命」と信じているはず。だから軽々しく「お国のために」といえるのでしょう。「国が何より」という意味はどういうことだろうか。祖国の名誉って何ですか。
どなたが「赤線」「青線」を引かれたか。再び石垣さんの引用です。「昔々 立身出世という言葉がありました。それはどういうことですか 意味はさっぱりわかりません」(「花のことば」)強烈な言葉の逆襲ではないでしょうか。「生きている」だけで精一杯の明け暮れ。それ以上に何を願い望むことがあろうか。欲ボケもいい加減にしてほしいという露わな反感があります。
「咲いている花が 尚その上にお化粧することを考えた / そんな時代の言葉です」今、この国では、狂気に襲われている一人の女性が首相になっています。何の因果でしょうか。「国を強くしたい」「世界の中で咲き誇りたい」と叫び続けている。「国」に存在している「民」はどうでもいいとでもいうような乱暴さがあります。「国盛んにして、民衰えたり」、なんというグロテスクな発想でしょうか。そのような狂い咲きの「徒花(あだばな)」(実を結ぶことなく、無情に散り終わる花のこと。開花はしても、結実しないという意味)のような「宰相」を四方八方から盛り立て、盛り上げる権力周辺の有象無象が引きも切らない。そのまた周りには数限りない「無辜(罪のない)・無知の民・民草」がいます。なぜ、こんな変異が生じているのか、ぼくにはよくわからないのです。なにもかにもが「ネットの時代」だということにはしたくない。ネットの時代であれ、テレビの時代であれ、戦争の時代であっても、「いのちを飾り立て」「いのちを弄んだり」することを潔くしないで、地道に生きることを放棄しない人もまたいるのです。あまり好きな言葉ではありませんが、「一所懸命」、ぼくはここ(一所)に精魂を籠めて、秘(ひそ)かに生きていたいという、そんな生き方をこそ。
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最初に「夕歩道」を出した、他意はありません。まず「no art、no life(ノーアート、ノーライフ)」という番組、ぼくは未見です。少し丁寧にみてみようと思いました。次いで、そこに「バンクシー」が顔を出していたから、それだけでぼくは嬉しくなった。「氏についての本は、どこにでもいそうな『普通の、控えめな』英国人とかねて紹介していた。ひっそり暮らしているだろうか」(「夕歩道」)その通りでしょう。でも、「普通の、控えめな」というところが肝(きも)です。誰だって、我に返れば「普通の、控えめな」という生き方を念じているのではないでしょうか。外から毒の混じった教育を授けられるから、「普通はだめ」「控え目なんて暗い」と、歩く道を間違えるんでしょうね。「咲いている花が 尚その上にお化粧することを考えた」、そんな人間がごまんといる社会になりました。それもこれも、ぼくは多くは、長い長い学校教育の唆(そそのか)しのせいだったと、経験から学びました。
世が世なら「咲くだけで(生きるだけで)せいいっぱい」「開くことに懸命な」、そんな人に学校教育は「もっと美しく咲け」「もっときれいに開け」と強いたんでしょうね。ぼくは「現首相」に、悪しき学校教育の一典型を見る思いがします。つまるところ、「立身出世(career advancement)」「出しゃばり(arrogance)」ということです。「身を立て世に出る」、狭い故郷を離れ(出世間)、都会(世間・世の中)で、ひたすら成功を求め、それが成った暁には故郷(ふるさと)に錦を飾る」という人間像が、様々なヴァリエーションを生みながら今に続いてきました。「一極集中」の淵源・嚆矢・発端でした。それを強力・強引に推進してきたのが近代学校教育(制度)だったのです。「こころざしをはたして いつの日にか歸らん 山はあをき故郷 水は清き故郷」(唱歌「ふるさと」高野辰之・詞 岡野貞一・曲、1914年発表)
◎ 立身出世(りっしんしゅっせ)= 社会移動には水平的移動と垂直的移動があるが,立身出世は後者のうちの上昇過程をさす。立身出世は,封建社会や村落社会といった身分社会においては,身分秩序を破壊するものとして否認された。社会分化の進んだ流動的な近代社会においては,逆に社会変動の要因として積極的にすすめられ,能力のある人間は競争によって階層上昇 (立身出世) が可能となった。日本でも,明治以降,国家的な欧化政策のもとで盛んに立身出世が奨励されたが,実際には能力主義に反する私的な人的関係も無視しえなかった。立身出世の方法としては特に教育が用いられ,学歴主義の悪弊を生み落した。また立身出世主義には,社会的不満のはけ口としても機能する側面がある。(ブリタニカ国際大百科事典)
(*「ふるさと」:https://www.youtube.com/watch?v=p1eZ8sIDF1A&list=RDp1eZ8sIDF1A&index=1)
ふるさと
兎追ひしかの山
小鮒釣りしかの川
夢は今もめぐりて
忘れがたき故郷
如何にいます父母
恙(つつがなし)や友がき
雨に風につけても
思ひいづる故郷
こころざしをはたして
いつの日にか歸らん
山はあをき故郷
水は清き故郷
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ここで場面が変わります。日本三大桜などと「あだな(渾名・綽名)」をつけられて、散々な目にあってきた桜たちがいます。ぼくは、それぞれの「名桜」には会ってはいますが、いずれも時期を外しての見物、しかもたった一人での観桜だった。根尾などは山中深く、誰もいなところで遠くから眺めただけ。山梨の「山高」はたまたま通りかかったときに目に入った按配でしたが、なんと狭いところに閉じ込められていることかと悲しくなりました。福島三春は遠望するばかり。それが先般の豪雪の重みで大きな枝が折れたというニュースに、「そっとしておいてください」という気がしました。

それぞれが樹齢千年を過ぎたといわれますが、その大半の時間、誰もが見物に出かけることなく、ひっそりと咲いて、散って…。そのくり返しだったでしょうに。宇野千代さんの「薄墨」に賭けた熱意はぼくも早くから知っていましたが、ひそかに「余計なことを」という気がしないでもありませんでしたね。宇野さんの紹介で小林秀雄氏が「薄墨は…」などと書いたりしたものですから、物見遊山が大群衆になり、桜の根っこを踏みつけるような仕儀に至り、樹勢をさらに弱めることになったのです。「人に知られる」「名を成す」というのは人でも物でもろくなことはない。それこそ<Le It Be>ですよね。(下写真は岐阜県本巣市の「薄墨桜、三日前のもの)(https://www.city.motosu.lg.jp/0000000038.html)


【余録】「樹齢1200年という老樹に、若木の根を何百本も継いで蘇生させたという話は、老人の私には興味のあることだった」。明治から平成まで1世紀近くを生きた作家、宇野千代さんの小説「薄墨の桜」の一節だ▲岐阜県本巣市の国の天然記念物「根尾谷(ねおだに)淡墨(うすずみ)桜(ざくら)」がモチーフ。知人の勧めで現地を訪れ、保存運動にも関わった。主人公の言葉は本人の思いでもあったのだろう。継体天皇が植樹したという伝説が残る巨木の樹齢は1500年超ともいわれる▲山梨県北杜市の「山高神代(やまたかじんだい)桜(ざくら)」、福島県三春町の「三春滝(みはるたき)桜(ざくら)」と合わせた「日本三大桜」は長寿ランキングでもトップ級。いずれも日本固有の野生種、エドヒガンの仲間である▲淡墨桜、神代桜の見ごろは3月下旬から4月上旬、滝桜は4月前半というが、本来、名のとおり彼岸の頃に開花する早咲きの桜。関東地方ではソメイヨシノの開花より1週間程度早いとされてきた▲ところが今年はソメイヨシノの開花も早い。彼岸の入りを前に高知や岐阜、甲府で開花宣言が出された。2月に暖かい日が続いたことが一因らしい。彼岸明けまでには東京や福岡なども続きそうである▲エドヒガンとオオシマザクラを親に持つというソメイヨシノの寿命は60~80年。長寿の遺伝子が引き継がれなかったのは残念だが青森・弘前公園には樹齢100年を超えるソメイヨシノの木も多いらしい。リンゴ栽培に倣った剪定(せんてい)法が秘策というからぜひ広めてもらいたい。<尼寺や彼岸桜は散りやすき/夏目漱石>(毎日新聞・2026/03/19)
(右上写真は「山高の神代桜」)(「満身創痍」というのは人間だけではないのです。あまりにも痛々しいと、ぼくは感じてしまう)
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