【明窓】なぜだろう。今でも時々、大学を受験する夢を見る。もう一度受験生になって挑戦しないといけない状況に焦り、立ちすくむ。何の暗示なのか分からないが、30年以上前の経験が深く記憶に刻まれているのは確かだ。◇実家のトイレの壁に破れて変色した紙が貼ってあるのに気付いた。「三角形の合同条件・相似条件」。数学が苦手だった中学時代に高校受験のために書いたものだった。当時の不安や努力が鮮明によみがえった。◇受験を機に自分と向き合って、将来を考える。それだけでも成長だ。挑戦には挫折と喜びがつきもの。結果より過程が大事だ。テレビドラマ『3年B組金八先生』で、金八先生は「一日一日を確かに努力して身につけたものが、君たちの生涯の財産になります」と生徒に語りかけていた。◇教育を巡る状況は大きく変わった。2024年の大学進学率は58・6%となり、40年前に比べて30ポイント以上増え、少子化を要因に「全入時代」を迎えた。高校は「公立離れ」の懸念がある中で授業料が私立を含めて無償化になる。教育の質を担保し、住む場所や家庭環境に左右されず、誰もが挑戦できる場を整えるのは大人の責務だ。◇年が明け、受験シーズンを迎える。街中でかばんにお守りを付けた中学生や高校生の姿を見ると、心の中で「頑張れ」と声をかける。積み重ねてきた時間は無駄にはならない。冬を越え、桜咲く春は必ずやって来る。(添)(山陰中央新報・2026/01/10)

年が明け、いよいよ受験たけなわの季節になりました。早い人は小学校から、遅い人は「老人大学」の、それぞれ受験シーズンで、ここぞとばかりに日ごろの精進の蓄積を一気に吐き出す、まるで春の野に咲く「菜の花」のごとく、あるいは「水仙」のごとく、見事に花開くといいですね。ぼくには、受験の経験は人並みにありますが、それにまつわる「秘話めいたもの」など何一つありません。何しろ、人語に落ちることを旨とするような、いたって平凡な生活を送ってきたものですから、致し方がありませんし、それでどうということもなかった気もします。ぼくは就学時期には京都に住んでいましたし、その当時の京都は、公立学校は「学区制」に即して、小中高までは決められた学校に行く規則になっていました。もちろん私立学校はこの限りではなかったのはいうまでもありません。

高校入試の合格発表(通知)は中学校に届けられましたので、担任の教師から、結果を聞きました。「君は何とか受かっていたが、どうして私立の併願をしなかったのだ」と教師から、まるで詰(なじ)られた気がした。「君よりはるかに成績のいい、だれだれ君たちは私立を受けていたんだぞ」ってね。無邪気なもので、ぼくはその時まで「併願」という言葉を知らなかったし、もちろん「掛け持ち受験」など知る必要もなかった。今でも思うのですが、もし高校受験に失敗していたら、ぼくは自転車屋さんか大工さんの弟子にでもなるつもりだったし、高校へ行きたい、行かなければと、ぼく自身も親も熱心ではなかった。高校卒業する時も気分は同じようなものでした。親は大学へ行けとも行くなとも言わなかったが、京都の狭さに飽き飽きしていたので、その機会にぼくは東京に出た。でも、ここが知恵のない悲しさで、世の中をもっと知っていたら、ぼくは北海道か、あるいは思い切って外国にでも行っていたかもしれないなと、世間知らずを、後年にやや悔いたことがあった程度。大学受験もきわめて平凡で、住まいから歩けるところというので、目の前にあった旧帝大(赤門つき)は忌み嫌っていましたから、その近くの私立大学に入ったというまで。実に消極的人生の覇気のなさだったかもしれません。入らなければよかったと、今は悔いている。
だから、「明窓」氏のように、「今でも時々、大学を受験する夢を見る」ということは絶えて見られないことです。いつの時代にも、受験競争はあります。人口減少で、「全入時代」を迎えたとは言いますのに、やはり、ある学校には受験生が集まりますから、いつの時代でも「受験競争」はなくならないのでしょう。ぼくの拙い経験から見るなら、受験などないほうがいいと思う。あっても構わないが、その成功と失敗が人生の価値を真逆に変えてしまうという「呪い」にかけられないならという条件付きで。大学までは授業料は無償で、全員が進学するのもいいでしょうし、大学卒では間に合わない、いくつかの職業については、その制約は取り外しておくのは当然でしょう。他者を凌(しの)ぎ、押しのけ、われ先に「いい学校」にという、他者を見下すような「価値意識(観)」というものは、一種の宗教(信仰)みたいなもので、そんなものに興味も関心もない人には「ごみ」のような話でしょう。「いい成績を上げて、いい学校に入り、いい企業に就職する」という、俗にいう「エリート」たちのたどる高速道路も、今となれば、穴ぼこだらけに事故だらけ。世間で「一流」「名門」といわれたいなどと思ってもみないことでありましたし、看板倒れにこと請け合いの「看板」にイカレル、そこまでぼくは落魄(ぶ)れてはいないさ、と今でも強がりを言うだけの元気はある。。

受験競争、入学試験など、いわば「案ずるより産むが易い」ということではないでしょうか。ある人たちのとって大学などは「通りゃんせ」なのかもしれません。「行きはよいよい 帰りは恐い 怖いながらも通りゃんせ 通りゃんせ ♪」
「 むやみに心配して悩むよりも、思い切って行動するほうが案外うまくいくことのたとえ。[解説] かつては『産は女の大厄(たいやく)』『産は女の命定め』などといい、出産は大きなリスクを伴うものでした。ことわざは、不安にかられ、心身ともに不安定になりがちな妊婦を支え、励ます表現であったと思われます。/しかし、近代の用例の大半は、出産と直接かかわりのない比喩的な用法でで、むやみに取り越し苦労をしないで、ともかくやってみることを勧めるものです。世間を渡っていこうとすると、さまざまなリスクがあり、不確実な要素も必ずあります。しかし、思い悩んで心配するときりがなく、気分も落ち込み、積極的に行動できなくなりかねません。こういう楽観的なことわざは、気分を切り換え、行動に踏み出すうえで大いに役立つといえるでしょう。〔英語〕Don’t cross the bridge till you come to it.(橋に着く前に橋を渡るな)(ことわざを知る辞典)
(ヘッダー写真〈東京の予備校「代々木ゼミナール」が1万2千人の浪人生を集めてマンモス入学式を開いた。この年、18歳人口は戦後最多(249万人)となった=1966年4月21日、東京都渋谷区の東京体育館)(朝日新聞:https://www.asahi.com/articles/photo/AS20220526001321.html?iref=pc_photo_gallery_prev_arrow
【海潮音】「神はあなたに重い荷馬車を引かせることは決してない」-。この時季になると決まって大学時代の恩師の言葉を思い出す。イスラムの教えの一節らしいが定かではない◆困難は存在自体に気づくことが大事であり、目の前の壁はそれを乗り越えられる人に平等に与えられるものだと教わった。今も折々に心を軽くしてくれる言葉の一つだ◆今年も受験シーズンが巡ってきた。17日にはいよいよ大学入学共通テストが始まる。受験生がいるわが家もいつもとは異なり、少し張り詰めた空気が漂う。志望校を目指して勉強に打ち込む様子は、冬の寒さにじっと耐えて春を待つ木々の姿にも重なる◆年明け早々、地域に大きな地震が襲いかかった。人命に関わるような被害には至らなかったが、激しい揺れに緊張感が走り、まさかの事態が頭をよぎった。その後も体に感じる揺れが相次ぎ、寒さの中、不安な日は続く。災害への対応は受験勉強と同様に目の前の壁に気づき、一つ一つに対処していくことの繰り返しだ。日々の備えの大切さを今更ながら痛感する◆「最善を願い、最悪に備えよ」という金言もある。春はもう少し先だが、必ず誰の元にも平等に訪れる。今年のような厳しい冬をしのいだ花の美しさは、きっとまた格別なはずだ。(川)(日本海新聞・2026/01/10)

「神はあなたに重い荷馬車を引かせることは決してない」という「箴言」の意味はぼくにはよくわかりません。三歳の子どもの背中に三十歳の大人が背負う荷物を預ける人はいないでしょう。同じ十五歳でも、人それぞれに力も体力も異なるのですから、身の丈に合った「荷物(重荷)」を背負うがいいということなのかもしれない。「困難は存在自体に気づくことが大事であり、目の前の壁はそれを乗り越えられる人に平等に与えられるものだと教わった」とされている部分も、ぼくにははっきりしないのですから、これはぼくの脳細胞の「衰え」がもたらすことなのか、それとも、…。「今も折々に心を軽くしてくれる言葉の一つだ」と、いかにも記者さんには尊い教えだったように思われますが、ぼくにはとんと意味が分からないのですから、困ってしまいます。一例です、百人が同じ受験に挑んだが、3分の1が不合格になった。とするなら、不合格の人には受験という壁は「幻」だったということでしょうか。あるいは、捲土重来を期して翌年再度受験して、何人かが合格した。しかし再び不合格になった人がいる。もう一度次の年に受験してと、…。「目の前の壁はそれを乗り越えられる人に平等に与えられるもの」ということろが、胡散(うさん)臭いですね。

「年明け早々、地域に大きな地震が襲いかかった。人命に関わるような被害には至らなかったが、(中略)寒さの中、不安な日は続く。災害への対応は受験勉強と同様に目の前の壁に気づき、一つ一つに対処していくことの繰り返しだ」と「海潮音」氏は仰るが、いよいよよくわからない。不安が現実になることはいくらもあります。でも過ぎたことにくよくよしないで、「待てば海路の日和あり」というなら、それはそれでいいのですが。ただいま、このさなかにも「山梨県の山火事」が延焼中(この駄文を書いているのは、10日の午前10時)。自宅にまで延焼することは避けられない勢いです。この「壁(災難)」はどうします。

「最善を願い、最悪に備えよ」というのは、本当に「金言」ですか。英語では<Hope for the best, but prepare for the worst.>というらしい。それをして「備えあれば憂いなし」と翻訳されています。ぼくはこれもまやかしだと思っています。どんなに備えていても、役に立たない時があります。だから「(いかなる)備えあれども、(つねに)憂いあり」というのが本当ではないでしょうか。あらかじめ準備して、それで間に合うものは多いけれど、そんなものが全く役に立たない事も、時もあるのが人生。理解できない文章を読むと、脳の働きが活発になるのならいいけれど、一気に疲れてしまいますね。
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