
本日は、「二日遅れの便り(コラム)」です。こういう記事や場面に出会えると、何とも言えない、豊かな気分になります。最初は広島県三次市の、元高校国語教師の遺された仕事(存在)について。三次市には僕ぼくの後輩にあたる国語教師、Kさんが長く住んでおられる。彼は「歌人」でもありました。あるいはこの「桑田健吾」さんとはお知り合いだったかもしれません。92歳の天寿を終えられた夫と六歳年下の妻の「丹精を込めた庭」には、それこそ「万葉の草花の苑」とでもいうべき、たくさんの植物が育っている。高校の国語教諭だった健吾さんは「『本物』の自然を伝えたい」と早期に退職。「植物好きが高じて一足早く調査に歩いていた武子さんとセツブンソウの自生地を見つけたり、ドクダミなど薬草を使う山村の知恵を掘り起こしたり。週末には親子観察会を開いた」というご夫妻。ぼくにはとても真似ができない二人三極ぶりに、なぜかしらこみ上げるものがあります。
【潮流】灰塚の宝 氷点下となった昨年師走の早朝、支局に電話があった。「シモバシラが見事ですよ」。冬場の霜柱はどこでも…と首をひねりつつ、よく伺ってみると植物の名前だと分かり、車を走らせた。
三次市東部の灰塚ダムに近い三良坂町沖江。自宅裏庭に桑田武子さん(86)が案内してくれた。緩い斜面に高さ十数センチの茎が並び、地中から吸い上げた水が裂け目から漏れ出して柱状に凍っていた。多年草シモバシラが装う氷の結晶は白いドレスにも見えた。
「きっと感激したと思う」と桑田さんが漏らした。1週間ほど前、六つ年上の夫、健吾さんを亡くしたという。庭を見渡すと山野草の名前の札があちこちに。その数300種近く。夫婦で地道にダム水没予定地などから植え替えた。
三次高の国語教諭だった健吾さんは万葉集に詠まれた植物の多さに感銘し、「『本物』の自然を伝えたい」と退職を早めて研究に入る。植物好きが高じて一足早く調査に歩いていた武子さんとセツブンソウの自生地を見つけたり、ドクダミなど薬草を使う山村の知恵を掘り起こしたり。週末には親子観察会を開いた。
1990年代前半に健吾さんは建設前の灰塚ダム地質・動植物学術調査団の事務局長を務めた。夫婦で足かけ十余年を注いだ探索の成果は、各分野の専門家とまとめた報告書に残る。種子植物だけで925種に上り、サクラソウなど姿を消したものも少なくない。
健吾さんが言う「本物」とは、人間が手を加えつつ共生してきた自然であり、その変遷を刻み今の姿に学ぶ姿勢だろう。ダム周辺に今冬も飛来した国天然記念物オオワシも自然の改変や気候変動と無縁ではない。灰塚の宝を伝える夫婦の庭で、そう思った。(中国新聞・2026/01/13)

この狭い劣島の至る所に「立ち退き」はおろか、「水没」を余儀なくされた地域が、何か所もあります。故郷がそのまま水の底に沈められた土地が方々にあります。時として渇水期には昔の面影を偲(しの)ばせるような場面にも遭遇することがあります。強大な機器類を駆使して人間の故郷、動植物の棲み処を跡形もなく馴(な)らし、巨大な都市生活者の水や電力を供給する基盤にしてきました。それが「文明の進歩」というものであったでしょうが、その「暴力的な振る舞い」に、抵抗するすべもなく消し潰されてきたのが「人間の文化(生活)」だったと思う。「本物」とは「人間が手を加えつつ共生してきた自然であり、その変遷を刻み今の姿に学ぶ姿勢だろう」と今は亡き元国語教師の言葉が紹介されている。とても大事なことが示されていると僕は感じ入ってしまう。人間の手が入らなければ「野生」です、しかし強烈な手が入る(伐採とか開発など)と、そこは野生でさえなくなるのです。都市化といってもいい。いわば、「生命の滅びの道」ですね。
ここ数年、この時期になると劣島各地の山野で火災が発生しています。膨大な森林が消失するばかりか、無数の下草類が焼かれ、あるいは幾多の野生動物が棲み処を奪われ、あるいは命を奪われています。勢いよく燃え盛る火の手を見ながら、ぼくは火災現場の土地に住みなれている、さまざまな「動植物」のいのちを思ってしまいます。「文化」と「文明」と、いえば言えますが、要するに「土地」に根差して生きるか(文化)、土地を開発して人工物を手段として生きるか(文明)ということの是非そのものが、この何百年も問われてきたのだと思う。そして、なんな中で、黙々と「人間として、手を入れつつ共生してきた自然界」というものを維持しようという強い意志を持って生きられた人々もいます。

それにしても、初めて見る「しもばしら」の不思議さに思わず見とれてしまいました。別名は「雪寄せ草」とも。シソ科の一種というのですから、その葉状には見覚えがあります。しかし、実際に、この植物を目にしたことはありません。そんな未知の草花、いったい何万種あるのでしょうか。加えて、いまだ見知らぬ動物群、これもまた数百万種あることでしょう。その命が毎日数万・数十万と奪われているそんな時代や社会に住む「人間」の振る舞いをいかに評すればいいのですか。
◎ シモバシラ (霜柱)(Keiskea japonica Miq.)= 山の林内に生えるシソ科の多年草。茎は高さ50~70cmになり,四角形でやや硬い。葉は対生して広披針形~狭卵形,縁に鋸歯があり,先はするどくとがる。葉柄はごく短い。9~10月ころ,茎の上部の葉腋(ようえき)から総状花序を出して,片側にのみ白い花をつける。萼は等しく5裂し,果時には長さ5~6mmになる。花冠は4裂してやや2唇形となり,4本のおしべと1本の花柱が長くつき出ている。分果は4個できる中の1個だけが成熟することが多い。株によって,おしべが長く花柱が短いものと,その逆のものとがある。冬,枯れた茎の根もとに霜柱のように白い氷の結晶ができる特性があるところから,和名がついた。本州の関東地方以西の太平洋側と,四国,九州の山地だけに分布する日本特産種の一つである。(改訂新版世界大百科事典)
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コラム氏は書かれている、「庭を見渡すと山野草の名前の札があちこちに。その数300種近く。夫婦で地道にダム水没予定地などから植え替えた」と。一昔前日本でも、「木を植えた男(L’Homme qui plantait des arbres)」という書物がベストセラーになったことがあります。作家ジャン・ジオノ(Jean Giono)(1885~1970)の作品。一読、深く打たれたことでしたが、実話ではなくフィクションだったことで話題になりました。ジオノは第一次大戦には出征、第二次大戦では徴兵制反対運動で逮捕されてもいます。たぶん、この極東の故事までは、あらゆる時代にあらゆる土地に「木を植えた男」がいたはずです。面積の三分の一が山林(丘陵地を含む)ですから、だれかが「植林」のバトンリレーをしてこなければ、こんなに緑豊かな土地を維持できなったに違いありません。その昔、新潟県の親戚の年寄りが「孫のためにヒノキを植える」と盛んに言われていたことを思い出しています。

◎ ジャン ジオノ(Jean Giono)1895 – 1970 = フランスの小説家。バス・ザルプ県マノスク生まれ。1929年「丘」で文壇デビュー、「ボーミューニュの男」(’29年)、「二番草」(’30年)などを次々と発表し、南フランスの厳しく激しい自然における人々の生活を叙情的な文体で描き、大地作家としての地位を得る。その後、第二次世界大戦での徴兵忌避で投獄され、戦後は対独協力者の汚名を着せられ再び投獄されたが、執筆は続けられ、’51年「屋根の上の軽騎兵」によって、かっての叙情詩人から叙事詩人へと変貌した。作品はほかに「イタリア紀行」(’53年)、死後刊行された「脱走兵」(’73年)など。20世紀西洋人名辞典)
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コラム「有明抄」、桑原さんの記事です。どうしてもここに引用しておきたい「一編」だと思いました。「思い出の帰り道」というコラムのタイトルがいいですね。若い人には無関係の、いわば「老いぼれた人間」の繰り言みたいな「出会いと別れ」です。43年ぶりにあった旧友は「ごめんなさい。全然覚えてない」とさも済まなさそうに言う。「『思い出せないけど、でも、あなたが好き』と泊まっていくよう勧める」アメリカでも日本でも、このような「行き違い」を経験し、「帰り道を見失う」、そんな混乱や困難を抱きながら、たくさんの人々が、一日一日を生きている。年を取り、病に冒され、徐々に、あるいは急激に衰えるいうのは、だれもが「あたりまえ」と思い込んでいる「計算」や「順序」を一気に狂わせます。あえて言うなら、そんな「狂った計算や順番」も含めて、人間社会の「常識」であり、「知恵」なんだと言ったらどうでしょう。「娘時代」という小説の結びをコラム氏は書き留めている。「むかし同様、親しみや思いやりを分かち合った2人は翌日、別れを惜しむ。最後まで思い出すことができない旧友は『本当にごめんなさいね』とわびる。『わたしのほうは覚えていた。それが大事なんだわ』。主人公はそう慰めながら、自分たちがこの世から消えてしまうように感じる」と。言葉をはさむ余地がないけれど、なんとも切ないですね。(このコラムがいいのか、材料がいいのか、いや、そんな素敵な教材を選ぶコラム氏がいいのでしょうね)
【有明抄】思い出の帰り道 思い出は時につれないものである。年配の女性が子どものころの親友をはるばる訪ねていく。そんな米国の短い小説がある(テス・ギャラガー「娘時代」)。43年ぶりに再会した旧友はしかし、「ごめんなさい。全然覚えてない」◆脳卒中の後遺症で老けこんだ旧友はそれでも、「思い出せないけど、でも、あなたが好き」と泊まっていくよう勧める。なくした記憶を取り戻したとき、親友として再会が果たせる。そう考えて2人は娘時代のような一夜を過ごす…◆大切に胸の中にしまったものの優先順位が、時とともに変わってしまうことは誰にもある。ただ、思い出せなくなったことも決して「なかったこと」ではない。帰り道が見つからない「あのころ」である◆小説はこう結ばれる。むかし同様、親しみや思いやりを分かち合った2人は翌日、別れを惜しむ。最後まで思い出すことができない旧友は「本当にごめんなさいね」とわびる。「わたしのほうは覚えていた。それが大事なんだわ」。主人公はそう慰めながら、自分たちがこの世から消えてしまうように感じる◆いい思い出ばかりを抱えて人生を終えたい。誰もがそんな都合のいい夢を描く。いつの間にか自分の胸の中から去って、誰かに預けたきりにしている記憶がどこかにあるかもしれない。ずっとそんな忘れものをしている気持ちになる。(桑)(佐賀新聞・2026/01/13)

このコラムを読み、実際の日常でこのようなことが限りなく繰り返されることを思うについて、「「三好高校の国語教師だった健吾さんの遺された言葉、「「本物」とは、人間が手を加えつつ共生してきた自然であり、その変遷を刻み今の姿に学ぶ姿勢だろう」が、痛いほど身に沁みてきます。人間もまた、まぎれもなく「自然」です。その「自然に」手を加えつつ(教育しながら)共生してきた自然」、その自然が壊滅寸前のところまで来ている時代の波です。手を加えつつ育ててきた自然を慈(いつく)しむ新庄、それが「本物」の自然には不可欠なんですね。自然界のことであれ、人間界のことであれ。
(「娘時代」・Tess Gallagher by Tess Gallagher、1943~)(テスさんは、レイモンド・カーヴァーの妻でした。二人は1979年から同居、1988年に正式に結婚し、その二か月後にカーヴァーがなくなります(右上写真)。村上春樹さんがテスさんの作品の翻訳をしていたと記憶しています)◎ 著者プロフィール 「1943年、アメリカ・ワシントン州ポート・アンジェルス生まれ。ワシントン大学、アイオワ大学創作科に学ぶ。在学中から詩作を開始。1974年、詩集“Stepping Outside”刊行。詩人として名を馳せる。1979年、作家レイモンド・カーヴァーとともに暮らしはじめ、1988年、入籍。病を得ていたカーヴァーはその二ヵ月後に死去。1986年、第一短篇集『馬を愛した男』刊行。『ふくろう女の美容室』は、最愛の夫の死後、丹念に書き継がれてきた名短篇10作とエッセイ2篇からなる、日本語版オリジナルの作品集である」(新潮社)
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