
昨日の午後、とても気になっていたので、ぼくは前首相の事務所(衆議院議員会館内)にメールを送りました。報道されているように、現首相は今次の選挙で当選した自党議員全員に「カタログギフト」を送ったという。ついては、「前首相」にも送られた(配布された)かどうか。「届けられたとして、その処理はどうされましたか」と尋ねました。折り返し返信が来ました。「このたびは貴重なご意見をお寄せいただき、誠にありがとうございます。/お送りいただいた内容は、石破 茂が政策を検討し、活動を進める上での参考とさせていただきます」という文面は自動返信だという。質問を「けむに巻く」というのか、自民党の長年の住人だと、さもありなん、残念だけれど、ダメさ加減を深く納得しました。なにも期待はできないんだ。まさか、「即刻返却した」という返信が来るとは予想もしなかったが、「もらっていながら、だんまりを決め込んでいる」、これが彼の「優柔不断」の最たるところ、左見右見(とみこうみ)、他人は「どうするか」と様子見を決めこんでいるのでしょう。煮え切らないこと夥しい、著しいぞ。ほかの議員にも聞いてみようとしたが、無駄だとわかっているので、止めました。ファシズム(あるいは「体制(大政)翼賛」)の風儀・風潮は蔓延しているね。
(ヘッダー写真は 「NHK 放送100 大年表」より)(https://www.nhk.or.jp/archives/history/year/1936/

「何が悪いの」と開き直ったという 西日本新聞の記事によると、当初は「批判」「非難」されたらどうしようと「うろたえて」いた首相も、周りや世間が騒がないとわかると、「『良かった』と胸をなで下ろし『何が悪いの』と開き直ったという」とありました。あほくさ、ですな。「コソ泥」を働いてびくびくしていたが、誰も気が付かないので、だんだん「図に乗り」「大胆になって」、ついには秀吉の寝室に忍び込んだが、「千鳥の香炉」が鳴って見つかり捕縛、京都三条河原で釜茹でになった「石川五右衛門」を思い出す。もちろん「奈良の女」は五右衛門ではないし、まさか「釜茹で(殺し)」に合うことはないでしょう。大事なのは、根は小心者ものだから「戦々恐々」だったが、だんだんと経験(悪事)を重ねるにつれて、大胆になってゆく、そしてついには「不敵」な輩そのものになる、まるで「師と仰ぐ」故首相の後塵を拝している、そんな趣があります。「前轍を踏む」、実に忠実に踏んでいると思う。故本総理も、最後まで「小心者(timid person)」の質は変わらなかったが、周囲が忖度の山を築いて守ってくれたのを錯覚し、自分は強者だと思い込んだ、とんだ「裸の王様(The Emperor’s New Clothes)」でした。ここに新しい「裸の女王(Naked Queen)」が生まれましたね。誰もが「真裸」であるのを知っているのに「美しいお召し物のですね」と。そして最後は嬲(なぶ)り殺すのでしょうか。(2月18日、「令和の二・二六」で、国会初登庁議員たち)
この悪事(不法ではないけれど、政治家の道義心からすれば、恥ずかしい限りの腐敗行為)に気をよくして、さらに大それたことをやるでしょう。ここまでは大丈夫、ここまでは大丈夫と、まるで「地雷原」を忍び足で歩くようなものですが、気が付いたら「地雷」なんか一つもなかったと、安心して闊歩し、小石に躓いて落命という終末になるのでしょう。大石小石はどこにでもあります。大体、今の政界の風景というか風潮は、端的に言うなら「目をつむってやれよ。高市さんがかわいそうだろ」という発言に如実に表れています。目くじら立てるほどのことはないだろ、彼女のおかげでいいおもいができるのだから…、そんな醜悪で恥辱に満ちた「魂胆」が見え透いています。「物言えば、唇寒し、春の宵」ということか。それにしてもだれ一人、突っ返したという報道がないのはどうしたことか。元総理が三人もいるんだよ。ひょっとして、野党議員にも?(ここに、「女性総理」であるという「偏見(bias)」がないでしょうか、なければ幸い。

この「べったり凪(なぎ)」の吹きようをこそ、ぼくは「ファシズム(fascism)」と呼んでいます。右を見て左を見て、そして「みんないっしょや」という、過同調が、国を誤らせるのがわかっているのに、怖いもの見たさで、「亡国に立ち会いたい」というのでしょう。「首相の人気にビビっている」と野党に対して、無批判を非難する輩もいますが、「野党」とは誰のことか。看板の上っ面は「野党的」でも、看板の原材料は「与党」そのものという建付けではないでしょうか。本来なら、当然違法だという法律でなければなりませんが、現行法では違法ではないが、違法的(まさに法の不備)だという、そんな悪質な行為に「諫言(かんげん)」する者はいないし、矢を放つ者もいない。(そんな法律を作るのが天職の議員ばかりさ)彼女を打てば、やがてブーメランになってわが身に返ると、大半は身に覚えがあるのでしょう。この小心な首相が、ここまで大胆になりつつあるのは、これまでの、どの首相も「贈り物」をしていたという過去の事実に基づく。だから、これを掘り返せば、「やばいと思う」御仁が出てくるのは避けられない。つまり、この政権党は「陶器製」であって、どこかを強く叩くと大音声を立てて割れることを恐れているから、またそのとばっちりを受けるのが怖いから、永田町は「べた凪」なんですよ。官房機密費という「(違法な)政治資金(税金)」のおこぼれに与らない政治家はいないんじゃないですか。
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こんな「腐臭芬々」たる政治や政治家など構わなければいいじゃないかという気もします。ぼくの性分に合わないことははっきりしているからです。しかし、「義を見てせざるは勇無きなり」という、けちな「正義感」もぼくには、とても小さいものですが、あります。だから、国会議員の紳士淑女どもに、ぼくは進呈したいですね。 「子曰、非其鬼而祭之、諂也。見義不爲、無勇也。」という孔子さんの言を。どこを、誰を見て、政治をしているのか、とね。
儒教の核心は「祖先崇拝」というものでしょうが、その祖先の霊を祭(祀)(奉)らないで、それとは別種のものを「まつる」「あがめる」のは、そこから何かを得たいという卑しい気持ちの表れで、それこそ「諂(へつらい)である」というほかないのだ、と孔子は言われた。「諂い」(「諛い」)とは「おべっか・追従」です。「こびへつらう」とよく言いますが、まさに、今次の選挙に至る首相とその一派の振る舞いは「無思慮・無定見な選挙民」に「媚(こ)び諂い」、そして「阿(おもねっ)ている」だけではなかったか。「諂諛(てんゆ)」といい「阿諛(あゆ)」という、あるいは「阿世(あせい)」ともいうのですが、ひたすら「非其鬼而祭之、諂也」を実践しているのが、現下の社会全体の政治状況ですね。有権者に「諂う」「媚びる」、誠実に向き合うのではなく、票ほしさだけの「おべっか」でしょう。こんな為体で、政道が廃るのは当たり前、これは、行くところまで行って、「ご破算」になるほかないでしょう。
「勝てば官軍(お上)、負ければ賊軍(下々)」という風潮は今につづいております。故元総理も「嘘のオンパレード」で、政治家人生を貫いたと思います。「吾道嘘以貫レ之」ということだったでしょう。現首相も、そのあとに続いているのです。醜悪(Ugly)で、はしたない(Indecent)こと夥(おびただ)しいものがあります。こんな愚劣な政治家や議員、総理大臣が幅を利かすこの国は、世界に関たる「恥辱の国」というべきでしょう。この女性宰相も「嘘と見栄」で張ったりをかましているだけで、まるで気球かアドバルンの如しです。つまりは「ヘリウム(helium)」ばかり、きわめて軽薄という意味です。別名は「貴ガス」とも。政治家として。いや首相としては最低のレベルにあるでしょう。

子曰、非其鬼而祭之、諂也。見義不爲、無勇也(子曰く、其の鬼に非ずして之を祭るは、諂うなり。義を見て為ざるは、勇無きなり) 先祖の霊を祭らないで、別のものを祭るなど、そのことで何か利を得ようという邪念があるのであって、それこそ、媚び諂いの徒ではないか。眼前になすべき正しいことがあるのに、それを見て見ぬふりをしてやらないのは、勇気がないからである)
この一節を現今の政治家諸氏に提供したいという気分はいささかもぼくにはありません。すくなくとも、彼や彼女らとは「累を異にす」るとさえ考えているからです。あれほどの「嘘」はつけないよ。だから、「ないもの強請(ねだ)り」はしないというか、ナスビの蔓(つる)にキュウリは生(な)らないですからね。この一節は、少なくとも、ぼく一個の人間の信条として、粗末にしてはならないと自戒を込めて使うばかりです。
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<蟋蟀(こおろぎ)は鳴き続けたり嵐の夜> 昨日付の「夕歩道」(中日新聞)では、単なる偶然ですが、衆議院選挙の結果から生まれた「カタログギフト」と、90 年前の「二・二六事件」が並んで出ていました。単なる偶然だったけれど、二・二六事件が現在に起こるとすれば、「自民党に圧勝をもたらす」選挙民の「義挙」というべきか、いや「集合的奸計(かんけい)」であったか。忘れてならないのは、「有権者」は、いつだって「主権者」であるのであって、時に「有権者」でもあるというだけのこと。有権者は主権者のごく一部。主権者として、腐った権力には批判の礫(つぶて)を、ですよ。ぼくの好むところではありませんけれど、「鼓腹撃壌」を踏みにじられないためにも、おかしいことはおかしいと言い続けたり、嵐の世ですね。言いたいこと、書きたいことではなく、言うべきこと書くべきことを、自分流にですよ。桐生悠々先生の句に、<蟋蟀(こおろぎ)は鳴き続けたり嵐の夜>があります。(https://www.chunichi.co.jp/article/766444)
世界のいたるところで、「言論の自由」は暴力によって脅威にさらされています。主権者が沈黙していて、どうすんですか。
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高市首相「何が悪いの」取材応じず カタログギフト配布、自民ベテラン「目をつむってやれよ」「人気にびびってる」野党尻込み
昨年3月に石破茂首相(当時)が公邸で自民の衆院1期生と会食したのに合わせ、1人10万円の商品券を配布したことが発覚。物価高が国民生活を圧迫する中、批判は政権を直撃した。
今回、高市首相に近い党幹部は「商品券は限りなく現金に近く悪質だ。首相のカタログとは違う」と強気を貫く。官邸幹部も「議員間でプレゼントを贈り合うことはよくある」と擁護。政府高官は「マスコミは、他の取材してくださいよ」と余裕を見せた。
自民内の批判の声も小さい。九州選出の若手はカタログを早速、妻に渡した。「返し方も分からない。生活に役立つものを注文しようかな」。政務三役の一人は「問題ないのにわざわざ報道するのは、首相をいじめたいだけ」と批判の矛先をメディアに向けた。
自民の国対関係者は、国会審議への影響を懸念し「余計な悩みが増えて、ありがた迷惑だ。『政治とカネ』に絡む問題は必要以上に気を付けてほしい」と表情を曇らせるが、首相と距離のあるベテランでさえ「目をつむってやれよ。高市さんがかわいそうだろ」。
関係者によると、首相は当初、うろたえた様子だったが、党内や世論の反応を確かめると「良かった」と胸をなで下ろし「何が悪いの」と開き直ったという。(以下略)(西日本新聞・2026/02/26)(https://www.nishinippon.co.jp/item/1462522/)
【夕歩道】前略、初当選の皆さま。大雪のころの高市旋風に続いて、関東では先日、春一番が吹いたそうですね。8日の衆院選で当選した新人議員は106人、全当選者(465人)の22%という多さです。
このうち自民は66人。高市首相が自分以外の自民当選者(315人)に党支部から約3万円もするカタログギフトを贈ったとか。民間は切り詰めています。皆さんの金銭感覚が狂いませんように。
本日は「二・二六事件」の日。1936(昭和11)年、青年将校のクーデター未遂です。完成前の国会議事堂前に兵士が並ぶ写真が残っています。そんな時代は嫌。お互いに歴史を学びましょう。(中日新聞・2026/02/26)
【有明抄】二・二六事件から90年 〈濁流だ濁流だと叫び流れゆく末は泥土か夜明けか知らぬ〉。昭和・平成を代表する女性歌人斎藤史さんは、昭和15(1940)年に出した初の歌集にこの一首を収めた。詞(ことば)書(がき)にこうある。〈昭和十一年二月廿(にじゅう)六日、事あり。友等、父、その事に関る〉◆「事」とは二・二六事件である。斎藤さんの父・瀏(りゅう)は陸軍少将。クーデターを首謀した陸軍中尉・栗原安秀は、佐賀出身の父親が同僚だった縁で気軽に自宅を訪ねてくる間柄だった。このため事件を手助けした罪に問われることになる◆当時は不作が続き、農村の収入源だった蚕糸価格も暴落。税金は変わらず、地方に不満が高まっていた。〈政治に失望し、漠然と何かの変革を待ち望む心があった〉と斎藤さんは事件の背景を読み解いている。処刑された将校に、佐賀をはじめ地方出身者が多いのはそのせいだろう、と◆「反乱軍」とされた彼らは葬儀もできず、お骨が安置できなかった。相談を受けた旧鍋島藩の菩提寺で法要が営まれたというのも奇縁である。事件をきっかけに軍部は政治への関与を強め、日本は日中戦争、太平洋戦争へと突き進んでいく。それが決起した若者たちの望んだ道だったろうか◆そんな日本の分岐点となった事件から90年。「力による支配」が横行する世界はいま「濁流」の中にある。その流れつく先に何があるだろう。(桑)《佐賀新聞・2026/02/26》
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