菜種梅雨念仏の膝つめあはせ(信子)

【あぶくま抄】ひとりが強い 吉本隆明―。この4文字に自らの青春を重ねるのは、団塊の世代か。国家や言葉の成り立ちからファッションまで、縦横無尽に論じた。戦後最大の思想家とも、知の巨人とも評される。今年は生誕100年に当たる▼長女で漫画家のハルノ宵子さんが出版した「隆明だもの」が注目を集めている。生前の思い出をコミカルにつづった。小学生の時、学校での募金に協力したところ、冷ややかな反応を示された。後に気付いた。集団でお金を集める同調圧力を、「よし」としなかったのだと▼吉本さんは、お隣・山形県米沢市の旧米沢高工に学んだ。戦時中、仲間に誘われるまま、上杉神社へ戦勝祈願に出向いた。浮かない感じを覚えたが、断れない。立ち止まれず、好戦的な雰囲気に吞[の]まれてしまったと悔いたようだ。痛恨の念は思索の原点となる。東京下町の小さな窓から、孤独に世界を読み解く。自立の思想と言われた▼SNSは真偽不明な情報を取り込み、発信者が分からぬまま論評を繰り返す。時に「いいね」の同調を求めることも。自ら考え、立っていられるか。今こそ巨人は存在感を増している。〈群れるな。ひとりが一番強い〉。戦後最大の金句の一つだろう。(福島民報・2024/03/24)

 「菜種梅雨(なたねづゆ)」ということば(季語)があります。「菜の花の咲く3月下旬から4月にかけて、連日降りつづく寒々とした小雨。《 春》」(デジタル大辞泉)と解説されています。まさにそのようにして、昨夜来のそぼ降る雨に見とれていると、「あぶくま抄」が目に入り、そしてさまざまな連想が飛び交い出しました。「隆明さんかあ」という声が漏れ出したのに驚いています。取り立てていうほどの「縁もゆかりもない」と言ってもいいほどの、終生、吉本さんの一読者に留まり続けたものですけれど、そこから得たものはなんだったのか、そんなに簡単に綴れるようなものではなさそうです。「ささい」な振る舞い、「当たり前」の思想と言うか、姿勢や態度、要するに、そんな吉本さんの「佇(たたず)まい」に、ぼくは安心するものを得られたのではないかと思うのです。ぼくは「姿勢」や「態度」、つまるところは、一人の人間が自他に隠さない「佇まい」、それをその人の「思想」と見ているのです。借り物ではなく、頭(仕入れた知識)にあるものでもなく、身体を使って表現される、それが思想だと考えている。

 この駄文集における綴方の題材・対象として、ここまででも、吉本さんはかなり頻度が高かった気がします。しかも、思想(哲学)や文学などという小難しいものではなく、当たり前の教育論、それも体験的教育論として、ぼくは隆明さんに教えられたのでした。ぼくの友人のT君は文筆家であり、吉本研究者でもありましたが、彼の書く隆明論は「知の巨人」礼賛であり、「戦後最大の思想家」の巨大さの確認そのもので、ぼくは何冊かいただいた友人のご著書を、最後まで読み通せなかった。それに反して、隆明さん自身が「恩師の面影」として描かれていた「呑兵衛先生」は、そんな教師になりたいものだとぼくに思わせてくれました。また数学者の遠山さんとの邂逅と別れを綴った文は、何物にも代えがたい、二人の交際・交流の中にこそ「存在する教育」「関係という教育」そういったものが示されていたと思いました。その他、知の巨人ではない、平凡な「生徒」、平凡な「父親」、平凡な「おとうちゃん」、それぞれに描かれたエッセーの中に見られる「日常」にもまた、吉本隆明さんの本領(別乾坤)があったのだと、そのことを知るだけで、ぼくは救われるのです。

 以下に、二つばかり短文を引用しておきました。中森明夫さんの視点・指摘がいいですね。「お寿司の出前を頼んでくれたんですが、奥さんに『おとうちゃん、ほら、お茶』と声をかけられ『ほいほい』と台所に立ってお茶をいれてくれたんです。吉本さんのそういう身軽さ、態度を深く尊敬したことを覚えてます」 またかなり前、西伊豆の海で溺死しかかったニュースが出ました。驚きました。その時の「カッパの川流れね!」という妻和子さんの形容は、妻にして言える評価、それは秀逸でしたね。娘にたちに対して「何か善いことをしているときは、ちょっと悪いことをしている、と思うくらいがちょうどいいんだぜ」というその絶妙のバランスある警句。「群れるな。ひとりが一番強い」、これには個人の経験であったとしても、普遍性があると思った。「知の巨人」も老いる。日常に齷齪(あくせく)する平凡人も老いる。生老病死には「特権」という飾りも嘘もないと、当たり前のこととして、隆明さんも、やはり示された。

+++++++++++++++++++++++++++

 戦後の思想、文学、文化に多大なる影響を与えた"知の巨星"吉本隆明氏が3月16日、肺炎のため死去した。今年1月に風邪をこじらせて入院し、闘病を続けていた。87歳だった。/ 吉本氏は詩作、評論といったジャンルにとらわれず、幅広い活動をしてきた。/ 60年代に入ると、『言語にとって美とはなにか』『共同幻想論』などを発表し、学生運動における理論的柱として、カリスマ的支持を集めるようになった。/ 文芸評論家の故・花田清輝氏との芸術論争、故・丸山眞男氏や柄谷行人氏との対立は、論壇を超え社会的事件にもなった。/ 80年代に入ると音楽やアート、アニメなどのサブカルチャーに強い関心を持った。『マス・イメージ論』などを発表し、YMOの坂本龍一氏、コムデギャルソンの川久保玲氏などとの交流を深めた。/ そのころの吉本氏を、作家の中森明夫氏はこう語る。/「84年に、吉本さんと作家の高橋源一郎さんとの対談で、編集者として自宅にお邪魔したことがあります。その時、お寿司の出前を頼んでくれたんですが、奥さんに『おとうちゃん、ほら、お茶』と声をかけられ『ほいほい』と台所に立ってお茶をいれてくれたんです。吉本さんのそういう身軽さ、態度を深く尊敬したことを覚えてます」/ 晩年のこんなエピソードがある。/ある編集者が、自分の手掛けた本の帯に載せる文章を依頼するために、吉本氏の自宅を訪ねた。/「何のコネもなく突然訪ねたんですが、玄関先まであげてくれて、とても丁重に対応してくれました。偉ぶったところが少しもなく、謙虚で少年のような人でした。目が悪くて、拡大鏡を使って文字を追っているとのことでしたが、数か月後に届いた帯の文章は、本を最後まで丁寧に読んでくれたことがわかるものでした」(編集者)(週刊朝日・2012年3月30日号)
  戦後最大の思想家と言われた吉本隆明とその妻で俳人の和子には、2人の娘がいる。長女は漫画家のハルノ宵子、次女は数々の文学賞に輝く作家吉本ばなな。本書は、『吉本隆明全集』の月報に掲載されたハルノ宵子の文章をまとめたもので、晩年の吉本隆明とその家族の肖像が、ときに辛辣(しんらつ)に、ときにユーモラスに生々しい筆致で綴(つづ)られている。/1996年、西伊豆の海で父隆明が溺れて死にかけた「事件」は、吉本家の歴史の中でも、“戦前・戦後”のようなランドマークになっている。著者が妹と合流しICUに行くと、父はもう気管の管も抜かれ、翌日には意識は戻った。このときの妻和子の第一声が「カッパの川流れね!」であったという。思わず笑ってしまうところだ。この事件を境に、急速に老いを深める父親を、娘は支える。思想家の父と、俳人の母という2人の表現者のいる家庭は、「家の中に虎が2匹いる」ような緊張感があった。その緊張感の真ん中で、ハルノ宵子は、微妙なバランスで自身の姿を隠しながら、猫のように鋭い観察眼を光らせ、ときに爪を研いでいたのである。/偉大な父親と、繊細で完璧主義者の母親から生まれた娘たちは、どう生きればよいのだろう。その葛藤が行間から滲(にじ)み出ている。巻末の姉妹対談の中でばななが「ものを書こうとか絵を描こうとかって、本当に楽しい家庭に育った人は思うはずないだろう」と述べている。吉本家とはまさに、「薄氷を踏むような“家族”だった」のだ。/随所に、吉本隆明の根底にあった思想が顔を出す。「何か善いことをしているときは、ちょっと悪いことをしている、と思うくらいがちょうどいいんだぜ」という父の言葉から娘たちは「群れるな。ひとりが一番強い」という思想を受け継いだのである。吉本隆明は幾多の思想の果実を残したが、その中心にあった自立の思想は、2人の娘の中に見事に身体化している。=朝日新聞2024年3月9日掲載◇晶文社・1870円。5刷・1万500部。昨年12月刊。「思想界の巨人の病苦にとらわれた姿が衝撃的という声がある一方、暗い印象を与えない書きぶりが評価されている」と担当者。〈平川克美(ひらかわかつみ)文筆家〉

 「人は竪、猫は横に親和して住んでいる気がする――。幼いころから生活のなかに猫がいて、野良猫・飼い猫の区別もゆるく日々をともに過ごし、その生も死も幾多見つめてきた思想家は、この生きものに何を思ったのか。詩人の直観と、思想する眼差しと、ともに暮らすものへの愛情によって紡ぎ出すことば。猫を、そして暮らしの伴侶を愛するすべての人に。(「なぜ、猫とつき合うのか」(講談社学術文庫)(巻末エッセイ=吉本ばなな、挿画=ハルノ宵子)

__________________________

よく見ることが何よりのたより

 昨日、鉛筆画の吉村芳生さんについて触れました。飽きもせず、あるいは倦まず弛まず、ということです。不思議と言うか、ここでも同じようなことを考えさせられたのです。没後五十年の日本画家福田平八郎さん。小さい頃から、ぼくはたくさんの日本画や西洋画(の複製)を見る機会がありました。もちろん、その殆どは「画集」だった。父や兄の仕事の関係で、そういう写真集が家にたくさんあったからだった。ぼくは、絵描きになろうなどとは考えたこともなかったし、もちろん、研究者になる気もありませんでした。機会に恵まれて「絵」をたくさん見たということだけでした。また、京都時代、家の近所にはそれなりに画家や美学生も多かった。もちろん、友人も。そのような環境で、福田さんも随分早くから親しんでいましたね。歳を重ねる同時に、飄々、淡々、そんな雰囲気が画面から漂うようになってきました。凄いことですね。脂身がいっそ薄くなってくるのが分かったんです。

 大学入学を期に上京してからも、わりと絵には親しんでいました。美術館や画廊は、今から思えば分不相応に出かけていたと思う。上野公園へは歩ける距離でした。また勤め先に通う途中には丸善があり、山種美術館があり、出光美術館もありという具合で、それこそ、頻繁に展覧会にも出かけることができた。もちろん、人がたくさん来るような場所や時間帯は敬遠していましたから、ときには、昼の日中、画廊や美術館を貸切状態で、何時間も堪能することが喜びだった。半日近くも驚くほど贅沢な時間を過ごすことに、自分でも驚いたことがあった。中でもそれらの会場で見た大半は「日本画」で、もちろん福田さんの作品もきわめて静かにゆっくりと見ることが出来たのは至福だったと言えます。デパートでもたまに「展覧会」などが行われたが、開店早々か、閉店ギリギリで出かけたものでした。

 福田さんの代表作・「漣(さざなみ)」に関してはいろいろな逸話が残されています。釣りをしていた時に、垂らした釣り糸の周りに、肌に感じないような微風が起こっており、目には捉えきれないような小さな波が立っていたと言う。その一瞬の漣の動きを捉えるために、画家は繰り返しスケッチをした。「まるで機械のように目を、手を動かし」(吉村芳生さん)、小波の動きを捉えようとしたはずです。画家の体全体が高性能の「写真機」になっていたと言ってもいいでしょう。その「漣」の下絵が何枚も残され、ぼくたちはそれを見ることが出来ます。画家は「結局よく見ることが何よりのたよりとなるものです」と言われています。この表現は、なんの不思議もない、当たり前のことでしょう。ぼくたちに困難なのは、この「なんの不思議もない」「当たり前のこと」を倦まず弛まず重ねる練習・実践だということに気づきます。要は、自己流に表現すれば、「三日坊主」を繰り返し続けることなんでしょうね。数百・数千回も「三日坊主」を重ねたら、そこから、何ものかが生まれるに違いありません。悲しいかな、ぼくには「三日坊主」すら続けられなかったということでしょう。

 芸術というものが、ぼくたにとって特別の才能に恵まれたものの手になる行為であると思いますし、それで間違いはないのでしょう。大事なのは、この「特別の才能」とは、もちろん「天性」「天稟(てんぴん)」とされる部分もあります。でも大部分は、ひとつの機械になって、対象を把握する、そのために繰り返しを積み重ねる、「結局よく見ることが何よりのたよりとなるものです」というところに帰着しませんか。「(「漣」は)釣りをはじめた翌年頃の作品(1932年)です。…ウキをにらむ眼を水に移して見ますと、肌にも感ぜぬ微風に水は漣をたてて美しい動きを見せることに気がつきました。…しかし波の形は瞬時の動きでまことに掴みにくいものです。その写生にはいろいろな試みをして実態をつかむのに苦心しました。結局よく見ることが何よりのたよりとなるものです」( 福田平八郎(『三彩』昭和33年4月臨時増刊・小学館)ぼくの知っている多くの画家は、現地で写した写真を手元にして、それを模写(?)することが多かったように思います。

【筆洗】「本質以外のものは全部カットしちゃう」。地球温暖化現象の解明でノーベル賞を受賞した真鍋淑郎さん(92)の言葉である。一口に温暖化というが実にやっかいな現象らしい▲気温は複雑に振る舞う大気や海の動きに左右され、すすや火山噴火などの影響も受ける。真鍋さんは1960年代、地球全体の大気を地表から上空まで続く一本の柱とみなす「大胆な単純化」で解きほぐした▲画家にも自然は手ごわい相手のようだ。「単純に見えて複雑」「同一であって無限の変化」。近代日本画の巨匠で文化勲章を受章した福田平八郎は、好んで題材にした水の特徴をこう評した。徹底した観察から対象が持つ造形の妙を抽出し、単純化を試みた▲今月で没後50年を迎え、大阪中之島美術館で回顧展が開催されている。とりわけ肌に感じない風でも様子が変わる湖面に触発されて描いた「漣(さざなみ)」は胸を打つ▲本質にこだわる2人の成長に重要だったのは異質との出合いだ。真鍋さんは博士号取得後、個性を重んじる米国に渡った。因習の強い京都画壇しか知らなかった福田は、東京を拠点にする洋画家や評論家らのグループ「六潮会」に加わった。参加していなければ「つい自分の狭い世界の中で、ひとりよがりな生活を続けてしまったかもしれない」と述懐した▲今、全国で卒業式が挙行されている。4月からの新天地には苦難が待ち受け、失敗することもあるだろう。福田は、こう残す。「其(その)失敗が其後で、何かをもたらしてくれる種になるに相違ない」(毎日新聞・2024/03/25)

 「本質以外のものは全部カットしちゃう」、これを「漣」「水」の動きを「描写する」ところにに移し替えるとどういうことが言えるか。「いつも同じ形や姿」の中に、極まりない変化を見、複雑かつ無限の運動の中に「不変(普遍)の法則・摂理」を捉えるということでしょうか。そのような変化や無限が、つねに変わらない同じ波の姿や形になるところまで「よく見るということ」に尽きるというのです。

● 福田平八郎(ふくだへいはちろう)(1892―1974)= 日本画家。大分県生まれ。素僊(そせん)、九州と号す。しばしば作品に「馬安」の印を押すが、これは父の馬太郎、母の安の名にちなむもの。京都市立美術工芸学校を経て1918年(大正7)京都市立絵画専門学校を卒業。翌年第1回帝展に『雪』が入選し、以来官展への出品を続ける。21年『鯉(こい)』、翌22年『鶴(つる)』が特選となり、画壇での地位を確立する。以後しばしば審査員を務める一方、30年(昭和5)中村岳陵(がくりょう)、山口蓬春(ほうしゅん)らと六潮(ろくちょう)会を創立した。第二次世界大戦後は日展で活躍、47年(昭和22)芸術院会員、61年文化勲章受章。作品は初め徹底した写生に基づく緻密(ちみつ)な作風を示したが、しだいに装飾的傾向を強め、その明快で大胆な色面構成による画面は、近代日本画のなかで独自の地位をもつ。代表作に『牡丹(ぼたん)』(東京・山種美術館)、『漣(さざなみ)』『新雪』『雨』(いずれも東京国立近代美術館)がある。(日本大百科全書)                                                                    (左上・福田平八郎『水』1958 大分県立美術館)(右上・福田平八郎『漣』の下半分の大下絵 1932 大分県立美術館)

IIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIIII

「徒然に日乗」(509~515)

◯2024/03/24(日)本日は「保身の代償」シンポ。午前十一時半、土気駅に、T君を迎えに行く。午後一時から開始。討論参加者は約十名。オンライン参加は何名だったか。詳細はわからないが、おそらくトータルは二十名程度だったか。三時前に終了。盛りだくさんの内容だったこともあり、時間が足りなかったかもしれないし、それでいいのだということかもわからない。いずれ、何らかの「まとめ」(報告書)のようなものが出るのだろうか。長崎県内の私立学校で「イジメ」からの自殺事件発生(2017年4月)。それに対する関係方面(被害者・遺族や加害者を含め)の対応はどうだったか。加害者と被害者の問題が、学校や県当局ではどのように扱われてきたか。この事件にさまざまな報道機関がどのように関わったか。このような観点から、都下の私立学校における授業の教材として扱われた、その授業内容に限定して生徒たちから報告された。(いずれ、詳しくこの問題には触れるつもり)(515)

◯2024/03/23(土)終日雨模様。昼過ぎに買い物に。加えて、灯油の補給。まだまだ低温状態が続くので、猫・人ともに風邪などには罹らないようにするために。インフルエンザやはしかなども猛威を振るっているし、花粉症はいうまでもなく、その飛散量は勢いを増している。▼本日だけで、フロントラインを15匹の猫に使った。残りは4。毎回苦労する者たちが残る。首輪を外してしまうのもいるので、その都度補充する。取れやすくしているのには理由がある。事故が起こらないためだが、そこにも一工夫を要する。▼2時ころだったか、T君から電話。明日の「シンポ」の確認のため。(514)

◯2024/03/22(金)寒い日が続く。終日、自宅内に。▼フロントラインの使用。マダニではなかったが、ダニ類が猫の皮膚に食い込んでいるのをもつけた。暖冬だったせいもあり、かなり繁殖しているのだろう。マダニにもさらに注意をしたい。注文しておいた「フロントライン」が来た。全部で一万五千円弱。十八本分。前回からの取り残しが三本。今年度二回目を施したい。(513)

◯2024/03/21(木)日差しは強くはなく、風が吹いている。花粉量がますます増えている気がする。なのかと買い物。▼地震の揺れは治まった気がしない。同じような地域・地帯でそれなりに震度の大きなものが発生している。そのためもあって、いろいろと不足がちになるものを補充する。トイレットペーパー、ティッシュペーパーなどなど。もちろん今日は買わなかったが、天然水なども。▼MBLでは大変な事態が発生しているようだ。日本発の大スターに関わるスキャンダル。まったく状況はわからないので、何かを言うことは出来ない。これまでの「イチオシ」一本槍だった評価が、まったく正反対の方向に揺れるに違いない。「アメリカ人でなければ」が顔を出してくるのだろう。(512)

◯2024/03/20(水)午前中に猫缶などを買い出しに。今回は珍しく二週間ぶり。それだけ、ドライフードや間食(おやつ類)などをよく食べたということ。これくらいの間隔なら助かる。それでも約一万七千円余だった。「春分の日」だったのか、とても混雑していた。めずらしく仏壇に供える花を買う。(511)

◯2024/03/19(火)九時過ぎに土気駅まで出向く。T君を迎えに。本月24日に予定されている「保身の代償」というテーマの「シンポジウムの」打ち合わせで、拙宅まで来てくれたのである。十時から打ち合わせ(オンライン)を開始。キャリア教育の専門家の三村隆男氏(本年三月でW大を退職という)、報道機関「Tansa」の中川七海さん。氏が書かれた報道記事のシリーズが「保身の代償」。長崎県海星学園高校生の「いじめ自死事件」を廻る共同通信社とその社員だった石川陽一氏との「確執」、いや会社側の理不尽な「難癖」に「保身」の実相があることを克明・執拗に明かしたもので、実に読み応えがあるもの。そして、三月に自由学園を卒業された五人の生徒たちが、それぞれのテーマや課題をもって参加。その役割等について話を伺った。「いのちの大切さ」を誰もが言う。しかしそれ以上にもっと大事なものがある、「自らの地位・位置」、つまりは「いのち」に張り合う以上の重みをもった「自らの地位」を守ること、つまりは「保身」に懸命に賭ける。そのためには、他者の「いのち」「地位」「家族」その他は、一切目に入らないものとなるのだという、悲しい現実を見せつけられる問題が、そこに照らし出されている。(510)

◯2024/03/18(月)風が強い日であった。昨日は夏日に近い気温だったが、一転して、寒さが戻ってきたようだ。昼過ぎ、風が収まった頃を見計らって買い物に。▼明日、T君が「シンポ」の打ち合わせのために来られるので、まあ、その予習みたいなことをする。Tansaの連載記事「保身の代償」を通して読み直す。共同通信社の社員のだった石川陽一さんの「報道の自由」を廻る裁判に至るまでの「攻防」が主題。二時過ぎだったか、T君から電話。明日9時16分着の電車で土気に、ということの確認。(509)

____________________________________________________________________

目を、手を、ただ機械のように動かす

【水や空」超絶技巧の鉛筆画 「機械化」は便利で喜ばしいが、違う考えの人もいる。〈目を、手を、ただ機械のように動かす。機械が人間から奪った人間の感覚を取り戻すような気がする〉。その人は1977年の未発表原稿にそう記した▲機械に奪われた“人間の感覚”を、精巧に描くことで取り戻すのだ。そんな「信念」に読める。精緻を極めた「超絶技巧の鉛筆画 吉村芳生展」が長崎市の県美術館で始まった。5月12日まで▲鉛筆や色鉛筆を用いた、吉村芳生さん(2013年没)の精密な技法に目を奪われる。その一つ。紙に金網を重ね、プレスすると紙には金網の跡が残る。その跡を鉛筆でひたすらなぞる。70日をかけ、17メートルの金網の絵を完成させた▲新聞に自画像を描いた作品も多く、よくよく見れば記事やその写真までも模写という作もある。いや、よくよく見ても模写とは分からない▲90年代からは花をモチーフにした。フジの大作は花の一つ一つを、東日本大震災で亡くなった人の魂として描いたという▲先の未発表原稿はこう続く。〈マラソンマンは、生を刻む時間、息を吐く空間を、自分のものにするため、ひたすら走り続けるのかもしれない〉。42.195キロの一歩一歩、呼吸のひと息ひと息、ご自身が描く一本一本。どれも生を刻む営みだと語りかけるようでもある。(徹)(長崎新聞・2024/03/23)

 (参考・「”超絶技巧の鉛筆画”吉村芳生展が開幕 長崎県美術館:https://www.youtube.com/watch?v=uqjjKWDGD6c&ab_channel) 

 〈目を、手を、ただ機械のように動かす。機械が人間から奪った人間の感覚を取り戻すような気がする〉この表現には奥深い経験と省察(せいさつ)があります。まるで、意志もなく、機械のように動かしてはいるが、その実は、人間感覚の動きをするという、一種の「人間性回復(recovery of hum)」の意志のようなものが働いていると、ぼくには見えてきます。コラム「水や空」に記されている「金網」、倦(う)まず弛(たゆ)まずという意欲する行動が、表面的には「機械のように」、しかしその深部には明確な「意志」、つまりは「機械が人間から奪った人間の感覚を取り戻す」意志が明らかに示されているのでしょう。ぼくが不思議に思うのは、「どうして金網を」、しかも17メートルも、というところにあります。もちろん、それは吉村さん自身の意志の存在を確かめる作業だったと思われるし、その確認がなされるためならば、おそらく30メートルでも50メートルでも描かれたでしょう。「人間の感覚」がどこまで、行くことができるか、それを自証してみたとも言えるのではないでしょうか。

 「人間業(human work)」という表現は一面では「人間離れ(superhuman)」、あるいは「神業(Divine work)(miracle)」にも擬される「偉業」「達成(fulfillment)」を指すのかもしれません。でも、その言葉だけでは足りない気もします。吉村さんの作品に一度も接したことがないという人はいないかもしれません。意識しているかどうかは別として、どこかで目に入れたことがあるに違いないでしょう。そういうぼく自身が、そうです。せいぜいが展覧会のチラシなどを目にした程度です。でもそれだけで、十分に「これ、鉛筆画です」という吉村さんの魂魄(こんぱく)、そんな大仰な言葉は不要だろうか、それをまざまざと感じさせられるのです。下手な解説はしないし、ぼくには出来ない。

 ある「パンフレット」には「超絶技巧を超えて(Beyond transcendental skill)」ともあります。鉛筆画の異才は他にもおられます。その「超絶技巧」を生み出す「モチベーション」はなんだろうかという、きわめて平凡なことをぼくは考え続けています。一ミリ単位のマス目を埋める気の遠くなるような作業。そんな果てしのない「課業」「苦行」に対して、ぼくたちは語るべきことばを失うのではないでしょうか。それは、あるいは稀有の演奏技術を持つ演奏家に接する時に抱く感慨にも通じると思います。一曲の演奏に昇華するためには、どれほどの積み重ねがあることか、ぼくたちが、そのような「超絶技巧」の開陳に「拍手・喝采」するのは、とてもではないけれど、自分にはあんな難行苦行はできるはずもないという「驚嘆」に発するでしょう。「驚き」が「拍手」に代わるのです。(この駄文を綴っているさなかに、イタリアのピアニスト・マウリツィオ・ポリーニが亡くなったという報道が流れました。ショパンコンクールで一位になった直後の演奏会を上野で聞いたことがあります。また「ゴッド。ハンド」を持つ外科医と称された福島孝徳さんの訃報も届きました。まだ三十過ぎたばかりの頃、ぼくは「くも膜下出血」の症状で彼の診断を受けたことがある。彼もまだ、三十五歳くらいだったでしょうか。この二人の「超絶技巧」や「超超絶技巧」に関して、いずれ触れてみたい)

 「吉村芳生の作品は、写真と見紛(まが)うほど超リアルですが、それは彼が飛び切りいい眼を持っていたためでも、卓越したデッサン力を持っていたためでもありません。対象を細かな部分に分解し、そのひとつずつを、ひたすら忠実に写していった結果です。それは2.5ミリ四方のマス目に分解した対象を、ひとマスずつ写し取っていくような細かい方法です。それ自体は単純作業ですが、何万個というマス目を写すのは苦行以外の何物でもありません。/吉村芳生の作品は、時には何か月もかかるような膨大な作業の果てに生み出されます。私たちは、まさにその果てしのない行為自体に、驚きと感動を覚えます。ぜひ会場で、作品に近づいたり離れたりしながら、その魅力を存分に味わっていただきたいです」《「果てしのない行為に驚き―「吉村芳生 超絶技巧を超えて」監修・冨田章氏・東京ステーションギャラリー館長》

 手元にある一冊の図録だけで、ぼくは満たされすぎています。左の写真は、昨日も触れた「カタクリの花」です。この「写真」を吉村さんの作品の中において、果たしてどれだけの人が「それは鉛筆画ではない」と気がつくでしょうか。「迫真」といい、「写真」という。真は「真実」であり、「本当」「ほんもの」を指すとするなら、その「真」はどこにあるのか、そんな問題に、ぼくたちは逢着するはずです。「事実は小説よりも奇なり」とよく言われますが、「絵にも描けない美しさ」とも言いたくなるのです。「事実」「美しさ」「真実」は、このとき、どこにありますかと、問われているのです。「カタクリの花」の写真は、「本物」を写し取ったものでしょう。けれども、その写真の中に「美しさ」が存在するとするなら、美術、あるいは芸術とは何か、そんな埓(らち)のない問題に、それこそ「君はどう思う」と迫られる場や機会、それが「展覧会」であるのかもしれません。ぼくの場合は、それが「一冊の図録」「写真集」であるだけのことなんですね。

● 吉村芳生は1950年山口県生まれ。山口芸術短期大学卒業後、地元の広告会社に就職。その後退職し、76年より創形美術学校で版画を学んだ。80年より山口に活動拠点を移す。代表的な作品に、新聞の見開きを丸写しした「ドローイング 新聞」(1977)や、自分の顔を1年間毎日欠かさず写真に撮り続け、1枚ずつ模写した「365日の自画像》(1981–90)など。「六本木クロッシング2007:未来への躍動」(森美術館、東京)でその初期作が展示され、再評価へとつながった。同年には第61回山口県美術展覧会で《コスモス 徳地に住んで見えてくるもの(色鉛筆で描く…)》を出品し大賞を受賞。また09年からは、新聞紙を克明に描き写し、さらにその新聞紙の上に自画像を重ねる「新聞と自画像」シリーズなどを展開。10年には山口県立美術館で大規模個展「吉村芳生展 ─とがった鉛筆で日々をうつしつづける私」が開催された。(美術手帖・https://bijutsutecho.com/artists/102)(2013年12月6日死去)

____________________________

こんな人が同じ時代を生きていた

 木漏れ日に輝く薄紫 佐野の公園で150万株群生、カタクリが見頃 栃木県佐野市町谷町の「万葉自然公園かたくりの里」でカタクリが見頃となり、園内の斜面を薄紫色に彩っている。/同公園は佐野、栃木両市にまたがる三毳山(みかもやま)の北側にあり、カタクリは約1.5ヘクタールの斜面に150万株ほどが群生している。/21日現在、全体の8割が開花しており、あと1週間程度、楽しめるという。この日は晴天となり、多くのハイカーや写真愛好家が来園。木漏れ日に輝くかれんな花に見入り、写真を撮るなどしていた。/さいたま市南区四谷2丁目、松岡澄江(まつおかすみえ)さん(71)は「とてもきれいでかわいらしい花。写真の撮りがいがあります」とにこやかに話した。(下野新聞・2024/03/21)(ヘッダー写真・右下写真は佐野市観光協会・https://sano-kankokk.jp/?p=1537

 「カタクリ」は、ぼくたちのせいかつにとって貴重な多年草。場所を選ばず、歩けば、農道の脇や山・丘の入口にも群生している。この素朴な花を見ると、「美しい」「いいなあ」と感嘆の声が揚がるのが自分にも分かる。薬草でもあり、食用でもありと、長い間、この草花はぼくたちの社会では重宝されてきました。小さい頃は、この植物の球根(鱗茎)をすりおろして「デンプン」を取り、それはカタクリ(片栗)粉として日常的に常用されていました。少しばかりの粉を水でとき、ゆっくりとお湯を注いでペースト状にし、そこにわずかばかりの砂糖を加えて、いつでも自分で作って食べていました。この紫色の花を見ると、お湯を注いで、撹拌しているときの感触が蘇ってきます。往時、自宅のそばに食用に育てていたような記憶があります。やがて、かたくり粉はジャガイモが原料の首位の座を占め、今では昔の味を思い出すのも難しくなった気がします。

 佐野市の「かたくりの里」は訪れたことはありません。しかし、神奈川県やその他の地域のカタクリの群生するさまを観て、本当に心静かに自分が満足しているのがわかったほどでした。自宅の近所にも何箇所か、群生して育っている場所があります。誰も気に留めないのか、休んで鑑賞に浸る人に出会ったことがありません。それを咎めるのではありません。悠久の昔から、あるいは縄文人や弥生人たちも食用に供したであろうことを想像するだけで、ぼくの中に住んでいる「古人(いにしえびと)」の古傷というのか痕跡というのか、そういった「遺物」がこころを騒がせるのです。

● カタクリ(かたくり / 片栗)[学] Erythronium japonicum Decne.= ユリ科(APG分類:ユリ科)の球根性多年草。球根は鱗茎(りんけい)で白色の長楕円(ちょうだえん)形。花茎は10~20センチメートル。葉は普通2枚が花茎下部につき、長楕円形ないし楕円形で淡緑色。暗紫色の斑紋(はんもん)のあるものが多い。早春に雪解けとともに開花する。花は花茎の先に1、2個開き、花被(かひ)は6枚。紅紫色で内側基部近くにW字状の斑紋がある。まれに白色花もある。果実は蒴果(さくか)で3稜(りょう)のある円形。北海道から九州に生育するが、四国、九州ではまれにしかみられない。カタクリ属は東アジア、北アメリカ、ヨーロッパに20種あるが、日本には1種のみ分布する。/全草をゆでて食用とするが、鱗茎から良質のデンプンをとり、かたくり粉と称したが、現在かたくり粉と称しているもののほとんどはジャガイモデンプンである。薬草として強壮剤、胃腸薬、解毒剤に用いる。古名のカタカゴがカタコユリとなり、転訛(てんか)してカタクリとなったとされる。ほかにカゴ、イノシタ、ブンダイユリ、ハツユリの名もある。(日本大百科全書)

 近年では北米大陸から輸入された「キバナカタクリ」もあるようですが、ぼくはこの紫色のカタクリが好きですね。なんとも言えない色合いが醸し出す「気品」というか、しとやかさというか。どこかで述べたことですが、ぼくはカメラを持たない。その昔は何台かは所有していたが、いまはまったく手にしないのです。どこかに出かけることはめったにありませんけれど、そんな珍しい小旅行でもまずカメラは持参しません。もちろんスマホは、そのものを持ったことがない。確かな理由があるのではありません。簡単に言うなら、ぼく自身が「カメラだ」ということです。近年では、露出も狂ってきたし、レンズも衰え、ぼやけてきましたから、まるで鮮明な画像とはおよそ無縁な「写真」しか記憶されません。でも、それでいいのだと思っています。パソコンをやりだした頃、人並みに画像をPCに取り込むことをしました。しかし、その画像を必要があって取り出すということがほとんどないことに気がついて、そんな面倒はすっかり止めてしまった。

 いわゆる「老化」というものがぼくの心身を棄損仕しかけているのです。昨晩、ある人のYouTubeを見ていて「老化は病気だ」と言っていたのに、驚きました。目が見えにくくなる、耳が聞こえにくくなる、自分の足で歩けなくなるなどなど、体の衰えは病気そのものだから、「治療する」ことが必要であり、そのための医療が盛んになっているのだと言っていた。その人は高名な解剖学者でした。八十でも矍鑠(かくしゃく)としている人もいます。七十歳で心身の衰えが激しい人もいる。人それぞれですから、簡単には言えません。時々、八十で死去し、「死因は老衰」とあったり、百歳で「肝硬変」で亡くなったとかいうニュースがあります。老衰は病気だったというのでしょうか。百歳の肝硬変は病気だと言えても、それを直してどれだけ生存できるのか、そんなことを考えれば、「寿命」というものに対する「姿勢」「態度」というものが、ある時期を境に大きく変わったと、ぼくには思われるのです。

 カタクリの話から逸れていますが、もう少し無駄口を。今日、ほとんど八割・九割の人は病院で亡くなるといいます。また、こちらは十中八九病院でということのようです、出産のこと。出産は病気ではないにも関わらず、入院する人がほとんどです。ぼくのもっとも古い記憶では、弟が生まれた瞬間を覚えている。産声を聞いた気がします。三歳違いでしたから、これは「三つ子の記憶、百まで」ということになります。また父方の母(祖母)が亡くなったのも自宅においてでした。医者の診断では「老衰」で、昭和三十年八月。七十四歳でした。当時の小生は十歳。「生老病死」は、大半は自宅においてでした。

 このような歴史を見ると、「病院」という場所がいかに奇妙なところになってきたかが分かります。医者とか医療というものが、人事の万般を管轄・掌握している時代、そんな時代にぼくたちは生きているのです。「健康」は、他人によって管理される時代に、ぼくたちは生きている。ぼくには、実に「不健康」だと思われてきます。

 「老化は病気である」、だから「治療する」べきだという主張はどこから出ているのでしょうか。なかなか、めんどうなところにはいりこんできましたから、ここで 中断します。ぼくの個人的な経験や見聞からすれば、「老化は自然現象」です。もちろん、個人差はありますから、一概に「何歳から老化が始まる」と線引きは出来ません。同じことは「健康と病気」についても言えそうです。単純化して言うなら、それぞれの体感、身体感覚に依存する外ないのでしょう。また、そのための助言を求めるために医者が存在するとも言えそうです。

++++++++++++++++++++++

 カタクリの花について、いくつかの想い出(記憶)を記しておこうと思った次第です。このところ、一人の音楽家のことをしきりに想起している。笠木透さん。ご存じの方がおられるでしょうか。ぼくには、彼との忘れがたい出会いの場があった。それはともかく、この社会におけるフォーク音楽の草創期に欠かせない存在であった人です。今、ぼくの机上には彼の残された何枚かのCDがあります。

 「あなたが夜明けを告げる子どたち」(笠木透作品集Ⅱ)その笠木さんの詞、安達元彦さんの曲で「カタクリの花」を思い出しています。もちろん「長良川」も。何度か、たった独りで恵那や中津川、あるいは長良川沿いを歩いたことを、ぼくの「身体カメラ」は真に迫って写し取っています。笠木さんは「カタクリの花」のような人だったと思わないが、その可憐な花を踏みつけるものを断じて許さない、そんな気骨の溢れた人として、そして、いつもカタクリの側に立つ人として、ぼくは親しんでいました。

● 笠木透=1937年11月2日、岐阜県恵那郡岩村町(現・恵那市)に生まれる。岐阜大学卒業後、教員、出版社勤務を経てフリーのフォークシンガーに。1969年から1971年の3回にわたり中津川労音の事務局長として中津川フォークジャンボリーの企画・運営に携わる。/その後、フィールド・フォークを提唱し、テレビ出演などのマスメディアにほとんど頼らない活動を続けて、小さな町や村など全国津々浦々でコンサートを行っていた。 1971年、「我夢土下座」(カムトゲザ、COME TOGETHER)を結成。1985年、坂庭省悟、安達元彦、進藤了彦、赤木一孝らと「フォークス」を結成(後に松崎博彦が参加)し、リーダーをつとめる。フォークス解散後ソロとして活躍する一方、F・F・C(フィールド・フォーク・カルチャー)ユニオンを結成。その後、1994年、増田康記、岩田健三郎、岩田美樹、安川誠、山本忠生らと「雑花塾」を結成、上田達生(山口)、佐藤せいごう(茨城)、北嶋誠(茨城)、鈴木幹夫(長野)、尾崎ツトム(岡山)などのメンバーとともに全国各地で精力的に活動を続けていた。「私の子どもたちへ」「あなたが夜明けを告げる子どもたち」「私に人生といえるものがあるなら」「わが大地のうた」などオリジナルは800曲を超える。 2005年の春に、「憲法フォークジャンボリー制作 連根の会」を立ち上げ、全国各地での憲法フォークジャンボリーの開催を呼びかけている。/また、KBS京都、東海ラジオ、岐阜放送ラジオのDJ、パーソナリティーなどをつとめた。/2014年12月22日、直腸癌のため死去。77歳没。(Wikipedia)

 カタクリの花 (詞・笠木透:曲・安達元彦)

遠く山脈(やまなみ)に 雪は残れど
やがて芽ぶきの 山すその林
春になるたび きっと思いだす
嫁いでいった 君のことを
* 赤むらさきの カタクリの花
  君に似ているね やさしい花だね

山の畑には 誰もいない
野焼の煙が 流れただよう
春が来たのに 別れだなんて
忘れはしない 君のことを

* (くりかえし)

近く春ゼミの 声が聞こえる
日ざしあたたか もえるかげろう
春だ春なんだ それでも春だ
寂しくなるな 君がいなけりゃ

* (くりかえし)

***********

「カタクリの花 / 笠木 透・たつの素子・安達元彦」(https://www.youtube.com/watch?v=PpKlnpN30G8&ab_channel)                         「あなたが夜明けをつげる子どもたち」(作詞:笠木透 作曲:細田登)(https://www.youtube.com/watch?v=A2cY6cNL3ig&ab_channel

_________________________________          

何が代表作か…いい悪いより一番かわいい

【滴一滴】平櫛田中の代表作 代表作は何か、は作家と周りで見方に違いがあるようだ。ハードボイルド小説で知られる志水辰夫さんが本紙記事で先日、語っていた。「あれを代表作と言われるとね…。僕にとってはただの通過点だから」▼82万部のヒットを記録し映画にもなった「行きずりの街」のこと。その後、時代小説に軸足を移したが、19年ぶりに現代が舞台の長編「負けくらべ」を刊行した。現役ゆえに「新作こそ…」の思いもあろう▼こちらは自他ともに認める代表作である。井原市出身の彫刻家、平櫛田中(1872~1979年)の「鏡獅子」だ。その展示が同市の平櫛田中美術館で先月始まり好評を得ている▼制作には戦争による中断を挟み22年も費やした。「何が代表作かと問われたら、やはり『鏡獅子』をあげます。いい悪いより一番かわいい」と本人のコメントにあった▼モデルは歌舞伎の六代目尾上菊五郎。手足を左右に開いて腰を据えた姿には力がみなぎる。同美術館で常設されている小さな試作は目にしていたものの、完成品である実物は、やはり迫力が違う▼展示されていた東京の国立劇場の建て替えに伴い、5年半の予定で貸与された。同劇場の新施設は資材などの高騰により入札不調となり、再開場の見通しは立っていない。先行きは気がかりとはいえ、このチャンスに代表作を堪能したい。(山陽新聞・2024/03/21)(ヘッダー写真はRSK山陽放送・2024/02/06)(https://newsdig.tbs.co.jp/articles/rsk/984210?display=1

 強烈な印象を受けた。「衝撃だった」と言っていいかもしれません。大学生になった頃、美術雑誌を眺めていて、百歳の彫刻(木彫)家のインタビュー記事に目が釘付けになった。当時はとてもめずらしいことでしたから、百歳という年齢にも驚いたのは事実、しかも、その方はいまなお現役の作者だったから、驚きは大きかった。その時、写真を見たかどうか記憶にはないが、自宅の庭に「クスノキ」の大木が保存されていて、おそらく三十年分の仕事の材料だと言われていたことに、卒倒するばかりの一撃を食らったのでした。それが平櫛田中さんだった。それ以前には、この彫刻家の作品は殆ど目にしていなかった。もちろん「鏡獅子」は観ていたが。(右写真・六代目尾上菊五郎(1885―1949)「鏡獅子」)

 上京したての田舎者でしたから、歌舞伎などはお呼びではなかったし、辛うじて洋画や日本画の展覧会に時々足を運ぶ程度だった。さいわいに、本郷に住んだことでもあり、上野は徒歩で出かける散歩コースだった。寄席(鈴本)や美術館には便利だった。平櫛さんの記事を目にしたのは、おそらく上京後二年ほど経った頃だったか。もちろん、彼が門弟になった高村光雲の作品は知っていたし、その他の彫刻家のものもよく観ていたと思う。それはロダンなどの影響だったかもしれない。上野公園の西洋美術館の前庭は「ロダンの庭」のようなものだったし、彼の生涯や芸術に関する小説などはロマン・ローランの手になるもので読んでいました。今ではすっかり堕落してしまいましたが、青春の意気軒昂というべきだったか、ぼくは方々に出かけ、まるで「野良犬」のごとし、と自嘲していたのでした。

 とにかく、飄々と、あるいは淡々と、と言ったらいいのか、ごく普通のこととして「三十年分の木彫の材料です」と語られていたことに、二十歳すぎの青二才は腰を抜かした。その後、東京音楽学校や美術学校の歴史を学び、岡倉天心や横山大観その他の芸術家の生涯に大きな関心を持つようになっていきました。その中でも平櫛田中さんだけは、別格だった気がしました。岡倉天心は彼のことを高く評価し、あるとき、矢を番(つが)えた禅僧を作品(後の「活人箭」◀)にしようとしていた田中に対して天心は、「「そんなことでは死んだ豚も射れまい、彫刻の力だけで表現してみなさい」(骨董品・美術品買取こたろう・https://kotto-kotaro.com/news/detail/hirakushidencyu/)と忠言した。

 持ち物(細工)なしで、「緊張感の表現」をいかにして実現するかと問われたのだった。「芸術の表現は理想」であり、それは「平櫛だけにできる」のだと天心は言ったそうです。この明治黎明期、よくぞ天心というパイオニアが存在したことに運命を感じます。(▶は「天心像」)

 いつの頃だったか、茨城県の五浦海岸・六角堂に何度か遊んで、天心や彼の仲間・後輩たちの生涯を学ぼうとしていたことが思い出されます。(このことについてはいづれの日にか)

 もちろん「鏡獅子」は彩色を施した「彩色木彫」です。その色の下に機能している筋肉どのような状態であるか、それを実際に繰り返した試したのが「鏡獅子試作裸像」(◀)当時は、彩色木彫は邪道だとされていたと言う。それを知りつつ、田中さんは筋肉の動きを確かめた木彫裸像に彩色を施し続けていったのでした。この木彫に彩色を、と依頼されたのが平野富山だった。衣装をつけるのだから、筋肉がどうだこうだということは無用というものだったかもしれない。しかし、「彫刻と彩色の不即不離の関係」を追求し続けていた平櫛田中さんは、全幅の信頼を寄せて富山(ふざん)氏に、すべてを委託したのだった。

 「旧清水市江尻に生まれた平野富山(1911~89)は、日本近代彫刻の巨匠・平櫛田中(ひらくしでんちゅう)(1872~1979)から絶大な信頼をおかれ、田中作品の彩色も手掛けた彩色木彫家です。18歳で単身上京した富山は、人形師・池野哲仙(いけのてっせん)(1880~1936)に入門。木彫の彩色法を学びます。/能や歌舞伎、神仏、歴史や神話、そして女性美と様々な主題に挑み、日本彫刻の伝統にある"彫刻と彩色の不即不離の関係"を追及した富山の作品は、まるで生けるが如く、見るものに迫ってきます」(「清水が生んだ彩色木彫の名匠・平野富山」常設展・静岡市:https://www.city.shizuoka.lg.jp/s9635/s005111.html

 よっ!鏡獅子 平櫛田中の代表作、21年ぶり「里帰り」 岡山・井原 岡山県井原市出身で日本近代彫刻界の巨匠といわれる平櫛田中(ひらくしでんちゅう、1872~1979)の代表作「鏡獅子」が、21年ぶりに「里帰り」を果たした。市立平櫛田中美術館で常設展示され、見る者を圧倒する力強さと美しさにあふれる姿を間近で楽しむことができる。/鏡獅子は高さ2・32メートル、幅2・46メートル、奥行き1・82メートルの彩色された木彫作品。新歌舞伎十八番の一つ「春興鏡獅子」を舞う六代目尾上菊五郎をモデルとする。64歳だった1936年に着手。戦争の激化などによる中断を経て、86歳となった58年に完成した。(後略)(朝日新聞・2024年2月27日 10時15分)

● 平櫛田中(ひらくしでんちゅう)(1872―1979)= 彫刻家。岡山県生まれ。本名倬太郎。大阪で人形師中谷省古に木彫技術を、1897年(明治30)上京して高村光雲(こううん)に木彫を学んだ。早くから日本美術協会、東京彫工会などで活躍し、文展にも第1回展(1907)から出品している。1908年(明治41)岡倉天心(てんしん)の指導のもとに山崎朝雲(ちょううん)、米原雲海(よねはらうんかい)らと日本彫刻会を結成。14年には日本美術院の再興に参加、彫刻部同人として活躍した。37年(昭和12)帝国芸術院会員、44年帝室技芸員。44~52年東京芸術大学教授を務め、官展の審査員も務めた。55年(昭和30)文化功労者、62年文化勲章受章。練達した彫技法に基づく写実的な作風が特色で、おもな作品に『転生(てんしょう)』『天心先生像』『降魔』『鏡獅子(かがみじし)』などがある。69年、生地井原市に井原市立田中美術館が開設され、72年から彫刻振興のための平櫛田中賞が設定されている。(ニッポニカ)

● 尾上菊五郎(六世)(1885―1949)= 5世の長男。本名寺嶋幸三。1903年(明治36)2世丑之助(うしのすけ)から6世を襲名。幼時から9世市川団十郎に預けられて指導を受けた。大正期に二長町(にちょうまち)の市村座で初世中村吉右衛門(きちえもん)とともに「菊吉時代」とよぶ活気ある一時期を形成した。時代物、世話物、舞踊のいずれにも優れ、古典はむろんのこと新作にも意欲的で多くの傑作を生んだ。近代的で進取の気性に富んでいたので、古典を新解釈、新演出で演じ、また日本俳優学校を設立して校長となり、後継者の育成にも力を尽くした。1947年(昭和22)日本芸術院会員。昭和24年7月10日没。没後文化勲章を追贈された。芸談集『芸』(1946)、『おどり』(1948)がある。(改訂新版世界大百科事典)

 平櫛田中さんが100歳のときに購入した彫刻用のクスノキの原木だという。小平市内にある「平櫛田中彫刻美術館」(旧邸)の庭に置かれています(上写真、左から二枚目)。何度も小平市に足を伸ばしましたが、ついぞ寄り道をしたことがなかった。都下の、この近辺には数多くの美術館や文学館などがあります。そこに足を踏み入れて、往時、先人を偲ぶという関心は、ぼくにはほとんどないのですから、不思議な気もします。つまりは「名所旧跡」は好みに合わぬというのでしょうね。平櫛さん、都内に住んでいたのを、近辺の景観に惹かれて小平市に移住したのが九十八歳だったと言うのですから、この人の人生観はどういうものだったか、誰だって興味を持つでしょうね。

 ぼくの師とも言えそうな人が、晩年に入ったと思われるのに大量の図書を購入していました。家人や知人に咎められ「そんなに買って、どうするんです?」と訝(いぶか)しがられた。当時、八十を相当に超えていた。「ゆっくり、二、三十年もかけて読むよ」と平然と言っておられた。「急いだってしようがないじゃないか」ってね。ぼくは、足元にも及ばないと思わされましたね。上には上が、というべきか。(◀は田中書)

 「明日に繋がる読書がある」「十年後に生きてくる読書もある」と、堂々と言ってみたい。

_____________________

 

国土と国民、それこそが国富なのだ

 坂本龍一さんも大江健三郎さんもいないけど…「事故から13年、脱原発をあきらめない」代々木公園で集会 昨年亡くなった作家の大江健三郎さんや音楽家の坂本龍一さんらが呼びかけた「さようなら原発」運動の全国集会が20日、東京・代々木公園で開かれた。主催者発表で約6000人が集まり、一時雨が降る中、脱原発を訴え、集会後は周辺をデモ行進した。/東京電力福島第1原発事故直後の2011年6月、大江さんや坂本さん、21年に亡くなった瀬戸内寂聴さんら9人が呼びかけ人となって始まった。原発のない社会を目指し、署名や集会などを続けてきた。/20日の集会では、大江さんらと共に呼びかけたルポライターの鎌田慧さん(85)が登壇。「大江さんも坂本さんも瀬戸内さんも亡くなった。ここまで頑張って13年がたったが、まだ原発はある」と述べ「あきらめずに声を上げて廃炉、脱原発に向かっていきたい」と力を込めた。/能登半島地震被災地の石川県珠洲(すず)市で、かつて「珠洲原発」の建設を止めた住民運動に関わった元市議の北野進さんも参加。「原発ができていたら(今回の地震で)奥能登が被ばくしていたかもしれない」と危険性を訴えた。(岡本太)(東京新聞・2024/03/20)

 他人はどう言うかしれませんが、「原発」は終わりに向かって突き進んでいると思う。もちろん、これは日本だけのことではありません。他国のことはさておいて、この島国に限って考えても、先行きは見えています。誤解されると困るけれど、電力会社や経産省(政府を含めて)が率先して脱原発に舵を切っているからだというのではない。そんな「当たり前のこと」を、連中はするはずがないのだから、もっと別個の方法で「原発」は終焉に向かう・向かっているというのです。ぼくが語るのは「悪夢」です。新年早々の能登半島地震で肝を潰しました。「珠洲原発」が立地していたら、その結果はどうなっていたか。代替地として選ばれた志賀原発の現状は、いまだに明らかにされていません。しかし、発電所近傍の地震による被災状況を見れば、ダメージは相当なものがあったはずです。不幸中のさいわいだったのは、原発が停止中だったこと。今となれば、再稼働を目指す中での「停止」ではなく、廃炉を前提とした「停止」だと、ぼくは受け止めている。もちろん、これはぼくの勝手な素人判断です。でも、素人の域をを超えて、なおかつ無謀な「再稼働」ができる状況にあるかどうか。地域住民の避難が不可能であることが明らかになってなお、再稼働を強行するのでしょうか。(「国策民営」に関わる人間たちの善意を認めて、このように言うのではありません。連中ほどの悪辣亡者にして、撤退せざるを得ない災厄に見舞われることは必定だから、こういうのです。連中であっても、それを認めざるを得ないところに来ていると思う)

 志賀原発は「試金石」となっています。実に明白な、進退窮まるような「象徴」だと言えます。本年3月末現在、全国で稼働中の原発は12基(内、2基は停止中)、稼働している原発は、すべて西日本です。それは何を意味しているか。ここでは述べません。

 周囲五キロ圏内の住民の避難道路確保は万全か、いつ襲われるかもしれぬ「テロ対策に遺漏はないか。そして能登半島地震のような地盤隆起による原子炉本体を初めとする機器損傷、被害はいかようにして免れるのか、そんないくつかの疑問さえ、ほとんど手つかずで残されています。もともとは、立地にはもっともふさわしくない地震劣島です。おそらく、このところ頻繁に報告されている各地の群発地震も、いかにも原子力政策の現状維持、未来展望にとっては暗示的です。(9時過ぎに茨城などで震度5弱の地震がありました。揺れましたよ、当地も)

 いまもっとも危惧されているのは「六ケ所村」の存在です。このままでは、無謀な、成算のない「(核燃料)再処理」という汚れた「看板」そのものが、能登半島地震の二の舞いになる危険性は避けられません。この先、どれだけの国費を浪費して「再処理」という日の目を見ない事業を維持し続けるのでしょうか。時あたかも中央政府や政権党は解体過程に入っています。それと軌を一にして「国策民営」事業を標榜してきた「原発政策」も終焉過程に入ったことは確実だと、ぼくは素人ながらも、いささかの迷いもなく考えているのです。福井地裁の樋口判事の下した「国富喪失」判決をこそ、ぼくたちは高々と掲げて行進したくなります。ぼくはこころ密かに、「人命」こそが「国富の源泉である」という意味で、「いのちを損なうことはしない」という肺腑の言を吐き続けてきました。

++++++++

 東北電力女川原発に再稼働の動き。全国各地の動きは? <全国の原発の稼働状況>
 資源エネルギー庁によると、現在再稼働している原子力発電所は12基。(10基運転中、2基停止中。2024年1月24日時点)全て西日本で、女川原発が再稼働すれば、原発事故以降、東北そして東日本大震災の被災地では初めてとなる。
政府は脱炭素社会を目指して、2030年までに原子力の割合を現在の5%程度から20~22%に拡大させる方針を示していて、東京電力が管理する柏崎刈羽原発含めた5基が再稼働を目指している。 ーー原発再稼働は生活にどう影響? 再稼働となれば、福島県内にも女川原発で発電された電気が供給されることになる。東北電力によると、再稼働することで月100億円、年間800億円の燃料費削減効果が見込まれていて、将来的には電気料金の値下げに繋がる可能性もあるという。/福島第一原発で未だ先の見えない廃炉作業が続く中、政府は原発の活用に舵を切り再稼働を加速させている。(福テレ・2024年02月20日 18:51)(右上の図表も)

 「大江さんも坂本さんも瀬戸内さんも亡くなった。ここまで頑張って13年がたったが、まだ原発はある」とルポライターの鎌田慧さんは訴えます。ぼくは鎌田氏には親しくしていただいた人間ですから、尊敬おく能わざる先輩であることは今も少しも変わりません。ただ、どうしても頂けないのは「大江さんも坂本さんも瀬戸内さんも」と、どうして、わざわざ特定の人士の名を上げねばならぬのか、それなら鶴見俊輔さんも加藤周一さんも…と、名を外すことが出来ない、多くの「著名人」がいたでしょうに。何よりも原子炉爆発事故でいのちを失われた無辜の人々の名前をこそ、そこでは欠かせないのではなかったか、そんな埒もないことを口走りたくもなります。

この「九条の会」に発し反原発運動に繋がる運動体の発足段階で、ぼくも何度か誘われたことがありました。しかし、独りで、同じ趣旨で反対するという屁理屈でお誘いには乗らなかった。ぼくは、いつだって、たった独りでデモをする、そんなへその曲がった人間であり津末kました。誰かに知られなくと、反対は反対だと、声を上げる、それも小さく、です。それはともかく、反原発のリーダとしてかけがえのない存在であり、今なお先頭に立って歩いておられる鎌田さんの、その行動力と精神力に満腔の敬意を払いつつ、かつは、この先のご健勝を祈りつつ、「無辜の民」の仲間でありたいと念じながら無駄口をたたいた次第です。

 「いのち」にかけて反原発を貫くこと。ぼくの初一念であります。

・原発の反対デモや東風の中 (須賀敏子)
・原子炉の影にたんぽぽ返り咲く(近藤暁代)                                                                                   
・地図上に原発分布春寒く(伊庭玲子)

 国土と国民、それこそが国富なのだ。いや故郷の土地や自然環境と、そこに根を下ろして生きているもろもろの「いのち」、それこそが「宝」だと言うべきか。

____________________