「縁なき衆生」は奈良にもいたよ

 奈良は曾遊の地。何度行きましたか。特に小学校時代の記憶が残っています。ことに奈良市は京都と隣接していて、隣町という感じでした。最後に挙げておいた句の時季には、奈良にいたという印象はありませんが。こんなに梅雨時の奈良を読む人がいるということは、「富士に月見草」と同じような「奈良には梅雨空」がよく似合うということだったか。青丹よし、と小さい頃から聞かされていた、その奈良も千年超の都然とはしておれないと、京都とは違った意味でも、大きな変化の波に洗われています。奈良の陣は、平城京のなけなしの面影をを完膚なきまでに壊滅させる勢いで進んでいるようにも見えます。人情が消えるということは、獣性(本能)のみが駆動することを意味するのではないでしょうか。

 その奈良にあまりにもふさわしくないと(勝手にぼくが想像しただけです)思わせる「政治的いざこざ(政争)」がありました。問題は、何もそれだけではなく、大小さまざま、腐るほどあるのでしょう。でも昨日の宮崎県の川南町議会議員とそっくりな同類が、この奈良の都に存在していたという、雨の降る日は天気が悪いという程度のバカバカしさであり、珍しくもない景色があったと言うばかり。「縁なき衆生は度し難し」と、奈良の地でこそ、お似合いの仏の呆れ怒る形相が見えるようです。

 宮崎の町議さんといい奈良の市議さんといい、どうしてこう瓜二つなのでしょうか。同じ職業に就いている他人同士はよく似ていると思うことがしばしばです。芸能界は言うに及ばず、諸々の職業で見られる現象でしょう。中でも「政治家」「議員」は、国会議員であろうが村会議員であろうが、ぼくは街中で歩いている人の中からでもきっと見つけることができる自信があります。「あっ、あれは政治家だ!」と。理由は単純。まったく同じ空気を吸っているからでしょう。あるいは同じ食べ物(選挙民)を口にするからでしょう。似たような体型や物腰・挙動が目立ちます。

 しばしば「清濁併せ呑む」と言いますが、そうすると、ああいう「手合(てあい)」になるのではないでしょうか。それと、「選挙」という破れる寸前の「リトマス試験紙」によるpH検査では、同じような色素が色濃く出てくるというのでしょう。まるでアルコール検知器の反応のごとくです。「政治家」における酸性度とアルカリ性度の度合いが、各人数値的に共通していると言いたくなりますね。詳しく話せば差し障りがありますので、ここまでにとどめておきますが。要するに、同じような思考法や行動類型、あるいはその中に充満している空気(酸素やチッソの分量)など、そういった共通する条件が政治家として共通するタイプを育てるのかもしれません。

 反対に、そのような培養液では育てきれない要素が出てきます。それが「惻隠の情」や「誠意」「奉仕」などと言うような、血中の塩分のような微妙な含有物に、どうしたわけか、過不足が出てくるのではないでしょうか。多すぎることはまずないのですから、やはり、「自己中心」と「利権本位」という偏りすぎた栄養分が、まちがいなしに、この社会の政治家を生み育てているのでしょう。これは(町内会は別かもしれませんが)、村議(存疑)・町議・市議・県議(嫌疑)・府議(不義)・代議士にほぼ共通しているし、村議から国会議員までの階層はあからさまに「徒党」「一家」「家の子郎党」として堅固なつながりで結ばれているのです。その堅固な「絆(しがらみ)」を保つためにこそ、「裏金」「闇金」「領収書不要の金」が是が非でも入り用だというのです。広域特定政治集団ですね。

 宮崎や奈良で起こっていることは全国至る地域の「議会議員」間に見られること(確執)でしょう。それを一括して「政争」と呼ぶ。ぼくはこの地に来て十年を越えました。この間、町長選挙が三回行われましたが、なんと五回連続(二十年間に及ぶ)で「町長選に出馬」した議員さんがいました。ぼくのところへも何度かこられた。五回も続けて立候補したということは、よほど「町長」になりたかったのでしょう。奇特というか、危篤と呼ぶべきか。その熱意は評価されますけれど、さて、何をしたかったのか。小さな町(コップ)の争いです。いつだって、候補者の顔は変われど、「川中島(コップの中)」は戦場になり続けているんですね。永田町であれ、川南町であれ、奈良市であれ、やっていることは「政争(Political struggle)」です。それが政治世界(コップの中の宇宙)というものだとするには、あまりにもおそ松くんだナ。

【国原譜】「他意はない」というが、発言は撤回しないという。「言葉足らずだった」「舌足らずだった」と弁明しているが、そうは聞こえない。▶先日の奈良市の6月定例議会での代表質問で、自民党会派の森田一成議員が、仲川元庸市長に辞職を迫る発言をした。これには当事者だけでなく市民からも批判の声が上がった。▶舌がん治療で療養して、公務に復帰したばかりの仲川市長に対して、「がんは2、3週間で治る病ではない。病気療養にシフトされては」と。▶それには「市長の職を辞すべき」とした。これを聞いたがん患者や家族が、一斉に反発した。がんと闘いながら仕事をしている多くの人に対し、「仕事を辞めよ」ということだ。▶仲川市長は「仕事をしながらがんと向き合っていく」と一蹴しているが、党県連の幹部が、問題を重視して緊急会見をしたり、森田氏も会見に応じた。▶「個人の意見」として発言を撤回せず、「言葉足らず」としたが、「代表質問」は党派の考えのはずだ。議長職を務めたこともある森田氏は、発言の重みを知るために「議員を辞すべき」ではないか。(奈良新聞・2024/06/16)(⏪️は森田議員)
 「体を大切にしてもらいたかった」自民・奈良市議釈明 がん闘病中の市長に「辞職考えて」 森田一成・奈良市議(自民)は12日、市議会代表質問で舌がんで闘病中の仲川げん市長に対し辞職を促すような発言をしたことについて、「市長に体を治すことに舵をとることを、よく考えてもらいたいという意味だった」と説明し、「がんの患者や家族へのメッセージではなかった。傷つけてしまったのであれば申し訳なかった」と釈明した。市役所で記者団の取材に応じた。/森田氏は「市長に体を大切にしてもらいたいという気持ちでの発言だった」と繰り返して述べ、闘病中の患者や家族の心情を傷つけた可能性にも触れ「そのようなことであれば、発言の一部は軽率で、言葉が足りなかった」とした。議事録からの発言の削除は考えていないとも述べた。(以下略)(産経新聞・2024/06/12)(⏩️は仲川市長)

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「徒然に日乗」(593~599)

◯2024/06/16(日)朝方まで、少し雨が残っていたが、徐々に回復し、気温はかなり上がり、同時に湿気が非常に高かった。まさに「高温多湿」で、体にはもっとも要注意の事態だ。▶昼前に買い物。いつも通り、茂原まで。本日は、自宅前の「会社」への「お中元」になるのか、毎日多くの我が家の猫が敷地に入って遊んでいるので、その「お詫び」にと、珍しくもないが季節の果物「メロン」を購入してきた。房総にもメロンの名産地が増えたが、ここはやはり「イバラキング(茨城産)」を。会社の人(複数人)が出入りしているので、少しばかりの口の養生にでもなるか、どうか。(599)

◯2024/06/15(土)午前中に猫缶の買い出しで土気まで。缶詰以外の「オヤツ類」を合わせて、15千円ほど。▶昨日に続いて暑い一日との予報。気温はそれほどでないが、湿度が高いようで、体が汗ばんでいる。今にも雨が降りだしそうなままで夜になった。そこから少しばかり降雨があった。この雨は翌朝まで続くという。(598)

◯2024/06/14(金)終日自宅に。早くも午前中から、室内気温は29,5度ほど。夕方までまったく変わらなかった。野外では三十度を越えた、今年の最高気温だったかもしれない。至るところに真夏日(35度超)が見られた。この先の水不足や、熱中症が思いやられる。とにかく無理をしないこと、いい睡眠をとること、それに尽きるような気がする。京都は36度だったそうで、至るところで、あるいは手元の温度計では40度を越えたかもしれない。なかなか姉のところに連絡がつかないが、元気だろうか。(597)

◯2024/06/13(木)午前中に買い物。いつも通りに茂原まで。牛乳やオヤツ類を少々。それで3000円を超える。値上げ状況は一向に収束していないようだ。ほうれん草は一束400円だという。天候異変ばかりが値上げの原因でもなかろうとは思うが、為すすべもない。▶いかにも梅雨入り前の気象状況という雰囲気。朝方は曇天、昼過ぎは夏日か、真夏日。湿気が多く、高温では体が持たない。気が付かないうちに熱中症」まがいに侵されてしまうのだ。(596) 

◯2024/06/12(水)このところ、かみさんの体調がすぐれない。おそらくは、今では「持病」にもなっている「腎臓(尿道結石)」のせいかもしれない。強烈な痛みが襲うが、それは一過性と言っていいほど、小一時間もすれば痛みは去る。効果的な治療法があるというか、ないというか。少なくともかかりつけの医者の助言では、一日に「2リットルの水」だそう。そして適度な運動。このようなことは彼女のもっとも苦手とするところ。まったく聞く耳を持たないのだ「騙し、騙し」でやり過ごすことができるか。(595)

◯2024/06/11(火)終日自宅に。気温は高く、おそらく30度を超えていたと思う。少しでも高温だと外出しないことにしている。数週間前の「熱中症」まがいが相当にこたえているのである。自分では大丈夫と屋外作業をしていても、気がつけば体はすっかり参っているということがある。水分を多めに取り、無理をしないこと、十分な睡眠時間を確保する、今夏の高温の日々を大過なく過ごすにはこれが一番か。(594)

◯2024/06/10(月)快晴。午前中に買い物、茂原まで。▶いくら文句や不平を言ってみたところで、どうにもならぬことばかり。政治的には、この社会における可能性は潰えてしまい、人心道義は堕ちるところまで堕ちてしまった感があるし、それにつられて、官僚(警察や検察)等までが言うに言われぬ退廃と腐敗の坩堝(るつぼ)になっていることを痛感する。これを「閉塞状況」というのではない。あらゆる集団における「社会関係(位階・身分・職位など)」の硬直化が限界を超えてしまったのだと思っている。政治家が自らの身を修めことが出来ないという自覚そのものがないところに、言い難い悲劇を見る思いがする。▶やがて本格的な(梅雨入り」を迎える。それまでに少なくとも屋根や雨樋を掃除しておきたい。この一、二年はほとんど手を付けていない部分が多いのが苦痛の種。(593)

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 口直し、眼直しに。

・梅雨ちかき奈良を仏の中に寐る(西東三鬼)
・奈良の雨降りしきりけり子の傘に(日野草城)
・大和路の辻の道標梅雨けしや(石川風女) 
・はじめての道も青水無月の奈良(皆吉爽雨)

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縁なき衆生は度し難し

【水や空】命令形がそぐわない ある国語の授業で先生が「恋(こ)ふ」(恋い慕う)の命令形は「恋ひよ」だと説明した。生徒の一人が異議を唱えたという。「恋することは誰にも命令できません」。なるほど、命令形が似合わない言葉もある▲「恋ひよ」以上に命令形がそぐわない一語、それは「死ね」だろう。宮崎県川南(かわみなみ)町の町議会本会議で、がんの療養で公務を休んでいる町長について、町議の一人が「早く死んでもらいたいな、と祈りたい気持ちだ」と発言したという▲休んでいても、町長は報酬を受けている。一方、民生委員は無報酬で、その処遇を想像すれば…といった流れでの発言というが、町長の心を言葉で刺したという想像は働かなかったらしい▲遠い町で発せられた言葉の切っ先が痛い。動画サイトで俳優らを中傷し、揚げ句に「つぶす」と脅迫する。選挙演説の声を、拡声器の大声でかき消す…。言葉がたやすく凶器と化す場面が増えたように思えるのは、あながち気のせいでもあるまい▲議会の休憩後、周りの説得もあって町議は謝罪し、発言を撤回した。休憩前は撤回を拒んだというから、本音はうかがい知れない▲言葉ならぬ“言刃(ことば)”を振り回すのがたやすければ、それを撤回、つまり「なしにする」のもたやすい。「心からの」という重みを欠く言葉が列島を飛び交う。(徹)(長崎新聞・2024/06/15)

週のはじめに愚考する (第弐拾參)~ 「縁なき衆生は度し難し(えんなきしゅじょうはどしがたし)」と、世間ではいわれてきた。 衆生とは「民草(たみくさ)(あおひとぐさ)」と民衆をくさぐさ」に見立てた、一段上からの「人民」観でありました。また、「度す・度する」は「道理を言い聞かせて理解させる。納得させる。→度し難い」(デジタル大辞泉)。この元になる語が「済度(さいど)」で、こちらは仏教語。「済」は救う、「度」は渡す。迷いに陥るすべてのもの(衆生)を悟りに導く、仏の慈悲と捉えられる。ところが、信心がないものは、いかに仏であっても救いがたいという理です。視線は「上から下々に」ですね。「こやつ救いがたい愚か者」と、どこかの「仏な」ら言っただろうという推定です。

 こんな言葉を思い浮かべたのは、宮崎県の小さな町のある議員氏の「議会発言」を報道で知ったからです。この議員さん、何を思ったか。あるいは「ウケ狙い」だったのか、あろうことか「病気(胸部食道がん)入院中の町長」に向けて、「同僚議員は(退院を願うと)心にもないことをいうが、私は民生委員の処遇をみると早く死んでもらいたいというような気持ち」と「馬鹿」が三つも五つも重なるような、ゾッとするような雑言をいささかの逡巡もなく(だった顔塚、それは怪しいが)口にし、衆人、驚愕すべき「狂言」を吐き出して悪びれるところがない。(右は川南町長)

 「民生委員の庇護」「味方」をかたらって、町長の死を願うという、ぼくの想像を超えた破道ぶり、これがこの島社会の一地方の一議会の一議員の特別「荒唐無稽」な資質・言動であるなら、言うことなし。さにあらず、政治家の称号を名乗るものはすべからく、大なり小なり、この町会議員氏と類を同じくしているから、この世は「末法」と、ぼくはあえていうのです。まるで落語の「黄金餅」の如し。(西念という坊さんの遺体(の腹の中)から小判を取り出し、それを元手に「黄金餅」という餅屋を江戸麻布だったかに開いて大繁盛したという男の噺)ここまで来ると、議会は寄席に近くなる、という以上に、瓜二つでしょう。こんな例を出すと、席亭(寄席経営者)に叱られそうですが、本音をぶつけられて「お願いだ、死んでくれ」と糾弾されたのですから、療養中の町長は生きた心地がしなかったか。いやなんの、敵もさるものということだったか。「後日談」の一席、となるかもしれません。(ヘッダー写真は川南町・町議会:https://www.town.kawaminami.miyazaki.jp/site/gikai/

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●縁なき衆生は度し難し                                                                 ① すべてのものに慈悲を垂れるという仏でも、仏縁のない者は救いがたい。転じて、忠告を聞こうともしない者は救いようがない」(精選版日本国語大辞典)                                                        ② 「『縁』は、本来仏縁のことですが、今日では仏縁とかかわりなく、はじめからまったく相手にしても意味がない場合のほか、もはやこれまでとあきらめるような場面にも用いられます」(ことわざを知る辞典)                                             

 川南町議会の6月定例会一般質問で12日、児玉助壽(すけひさ)議員(無所属)が、胸部食道がんの療養のため定例会を欠席している東高士町長について「早く死んでもらいたい」と発言した。いったんは訂正を拒み、後に謝罪し発言を撤回した。/ 児玉議員は民生委員児童委員の処遇改善策について質問する中で、「町長が3カ月公務にほとんど従事しちょらんけれど報酬を全額いただいている。民生委員は一生懸命活動している。同僚議員は(退院を願うと)心にもないことをいうが、私は民生委員の処遇をみると早く死んでもらいたいというような気持ち」と発言した。/ 河野浩一議長が訂正を求めたが拒否し、議長が発言を取り消した。/ 児玉議員は休憩中の取材に「町政が停滞している」として発言を訂正、撤回する考えはないと述べたが、本会議再開後に「不適切な発言をおわびし取り消します。申し訳ありませんでした」と撤回した。/ 東町長は2月28日に宮崎市・県立宮崎病院に入院、3月定例会を欠席した。同病院では手術せず退院し、5月23日から一部公務に復帰したが、今月4日から再び公務を休んでいる。(宮崎日日新聞・2024/06/13」

 社会にあって、可能な限りで摩擦を避け、要らぬ面倒に巻き込まれたくない、それを避けたいのが人情。「同僚議員は(退院を願うと)心にもないことをいう」のが世間で、それを多くは承知しているから「角が立つ」ことがないのでしょうか。「同僚議員」の誰一人もが、この発言に異議を唱えなかったかのようです。怖いところですね、それが事実なら。正直は大事だ、とぼくも思うが、この議員さんの発言は正直の沙汰だとはとても思われない。むしろ、不穏当に聞こえるかもしれぬが「殺意が感じられる」のだ。「民生委員の処遇」の冷たさに引き換え、病気入院中とはいえ、「公務にほとんど従事しちょらんけれど報酬を全額いただいている」と、だから「早く死んでもらいたい」と、毒を含んだ発言となった。(右は当該議員)

 これを殺意と見ないで、どうしますというほどの「妄言」でしょう。記者から「言い過ぎたと思うところは?」と訊かれて、「ほとんどない」と、あからさまに低意が滲んでいるのです。この議員と町長の間に、どんな「確執」があったか知らない。でも、議会中の発言で「死んでもらいたい(というような気持ち)」と物議を醸すことを避けなかったには、それなりの理由があるのでしょう。当然、この議員の発言を擁護・支持する向きがあるし、それを承知してのことだったのもわかります。スケールは違うが、対岸の大国、大統領選に再出馬しようという元大統領とその支持者の関係が、当該社会に多くの軋轢を生んでいるのも事実です。相手の存在を抹殺して、拍手喝采を浴びるのだから、殺人行為、「何処(いずこ)も同じ 秋の夕暮れ」ですね。

 問題は、「そこまで言うか、K玉さん」というところ。「小人の中庸は忌憚なし」という。「忌憚」とは「 いみはばかること。きらいいやがること」「遠慮すること」を保持するのであって、それがない(忌憚なし)のですから、場所も時もわきまえないで「妄言する」となるのです。敢えて、嘘やおべんちゃらは言う必要もないが、「無遠慮」「無思慮」は避けるのが人の常道、といえば大袈裟ですけれど、それを一切顧慮しない議員の発言です、それくらいに「非常識」「非道」が横行・瀰漫している一つの状況証拠であることは事実でしょう。

 繰り返す。今回のエピソード(出来事)は、決して宮崎県の一町議会議員だけにとどまる話ではないでしょう。「政治に金がかかるから、とにかく領収書の不要な金(裏金)のやり取りは認めてくれ。そこまで細かく明かさなければならぬなら、政治活動の自由が束縛される」と一国の総理が発言する社会です。総理が総理なら、代議士が代議士なら、町会議員だって、「奥歯に物の挟まった言い方ができるか」というので、「死んでもらいたい」の発言に及んだ。この十年、二十年の、わが社会における「政治家」の退廃や愚挙がどれほど人心惑溺を広め、かつ妄念・邪念を深めてきたか。この社会は甚(いた)く傷ついているのだ。

 さすがの「仏」も言うだろうよ。「縁なき衆生は度し難し」と、ね。

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かすみのすそをとおくひく…

【筆洗】『尾州不二見原』は浮世絵師葛飾北斎の『富嶽(ふがく)三十六景』の一つ。桶(おけ)を作る職人を手前に描き、背景に富士を配す▼場所は尾張国の富士見原で今の名古屋市中区富士見町周辺。富士見という地名だが、実際に富士は見えない▼岩波文庫の『北斎富嶽三十六景』で日野原健司さんが書いた解説によると、富士見原の名の通り富士が見えたとの記録が残るが、南アルプスの聖岳を富士と誤ったもの。見えぬ山だが、恐らく北斎は富士見原という地名から富士を描く着想を得たと推測する▼見えなくても富士見と名乗る例があるほど富士を敬う日本人。実際に見える東京都国立市の富士見通り沿いで、完成間近だった10階建て分譲マンションの解体が決まった。「富士が見えなくなる」という周辺住民の声に業者が配慮したという。引き渡し予定は7月。土壇場での転換に驚く▼工事が進むに連れ、富士が隠れたと怒る声がインターネット上に拡散した。以前にもマンションの高層階撤去を求める訴訟が起き、景観への意識が高い国立。「富士の眺望を奪った」と言われイメージが悪化するのを業者は恐れたのかもしれない▼北斎の尾州不二見原は手前の桶が巨大で、背景の富士は小さく目立たぬ構図。北斎の狙いは、鑑賞者に富士を発見させることにあったと日野原さんはみる。見つけたら「富士だ」とうれしくなる山。やはり特別である。(東京新聞・2024/06/15)

 北斎について何かを言う力もなければ、勇気もありません。ひたすらその「絵」を凝視するばかりです。もちろん、このような姿勢は北斎に限らないので、ほとんどの画家に向かった時に、ぼくはいつだって強いられます。どこが凄いとか、何が傑作だとか、それを越えて、描かれた世界そのものが、一面では「雄弁」に、他面では「寡黙」を通して、おのずから画意や絵心が観る側に伝わってくる。いや伝わってくるまで見る他ないという気がしますね。

 それにしても、北斎、です。彼は、「超人」だったと思う。大胆不敵というべきか、「非常識」でさえも乗り越えて、彼の「画業」が成立したと言いたい。ある種の「画鬼」とでも表する他にないような生涯を送ったのが北斎でしょう。彼の描くものが「画」「絵」だと思う理由はどこにもないのであって、それは北斎その人の「肺腑の言」ならぬ「肺腑の絵(表現)」だったとも言えるものでしょう。だから、それに接するぼくたちは、いつだって「肺腑」を抉られるのだ、そんなことしか言えません。「独創」とか「着想」という言葉が、北斎の前では一気に色が褪(さ)めていきます。青白くなるというのがふさわしいか。

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 付け足しに言っておくなら、国立のマンション取り壊し問題など、どうということはないのです。大方出来上がった段階で建築中の建物を取り壊すというのも、無駄な話だし、なんという無計画かと、思い切り詰(なじ)りたい気がします。建築確認を承認した方もまた、何をしいるんですかと問いたいね。また、建物が出来上がりつつあるに応じて、「富士が見えなくなる」という現実感。危機意識を持った、多くの野次馬もいたのでしょう。

 コラム氏も触れられている国立市における「上層階撤去」問題の顚末も、ぼくはよく覚えています。住民訴訟は二転三転し、結果的には最高裁で「住民の訴えを認める判断」が示されました。「景観利益」という問題が本格的に適応・判断された裁判として注目を集めたことをぼくは、よく記憶しています。「権利」問題が、いよいよ行き着くところまで来たんだなという感慨を持ちました。その昔は、江戸のどこからでも、富士は拝めた。「富士講」の所以です。

 東京・国立市の高層マンションが地域住民らの「景観権」ないし「景観利益」を侵害するとして、住民らがマンションの建築主などを相手取り、マンションの高さ20メートルを超える部分の撤去や慰謝料などの支払いを求めた訴訟の上告審判決が3月30日、最高裁でなされました。本件を巡る一審判決(東京地裁)は景観利益の法律上の保護を認めてマンションの一部撤去まで命じ、大いに議論を巻き起こしました。ところが、控訴審判決(東京高裁)は一転して、景観に関する法律上の保護を認めず、原告の請求を棄却しました。
 そして、最高裁は次のように述べて地域住民らの景観利益を認めました。「良好な景観に近接する地域内に居住し、その恵沢を日常的に享受している者は、良好な景観が有する客観的な価値の侵害に対して密接な利害関係を有するものというべきであり、これらの者が有する良好な景観の恵沢を享受する利益(以下「景観利益」という。)は、法律上保護に値するものと解するのが相当である。(「東京・国立マンションの最高裁判決-景観利益の保護」(2006年06月01日)栄光綜合法律事務所・https://www.eiko.gr.jp/lawcat/7-4/)

 景観(眺望権)は誰のものか。言わずとしれたこと、「だれのものでもない」「みんなのもの」でしょう。しかしこと住宅等に関わっては先住権、あるいは先望権とでも言うものがあるという判断が当たり前に適応されています。「日照権の侵害」なども同様でしょう。富士山は誰のものか。富士山を含む景観は誰のものか。おそらく地主(多方面にわたっていて、特定できない)のものだというのが相場でしょうが、では、それは誰かとなると、時代とともに変わってきたのではないでしょうか。まして景観となると、なかなか権利の主張が交錯して、裁判でも簡単に判断は定まらないと言っていいでしょう。今回の「マンション解体」問題は建主(積水ハウス)が会社の名誉が傷つくことを恐れて「早とちり」したのかもしれません。土台、家の中から「富士山一望」などというのはふざけた話、ぼくはそんな気がします。「よく言うよ、富士山は君のものか?」とね。

 (参考資料)《問題のマンションは「グランドメゾン国立富士見通り」(10階建て、総戸数18戸)。JR国立駅前に伸びる富士見通りからの富士山の眺望を阻害するとして、市民らから懸念の声が上がっていた。  これに対し積水ハウスは、高さを若干低くするなど対応したうえで、建築計画を進めた。だが、今月4日、市に事業の廃止届を提出。11日には「富士見通りからの眺望を優先するという判断」から、7月に引き渡し予定だったマンションの解体を決めたとするコメントをホームページ(HP)上で公表していた。  永見市長は12日の市議会で、「突然廃止届を出され、問い合わせてもそれ以上の内容は得られなかった。それなのに突然、HPでコメントが出た」と積水ハウスへの不信感をあらわにした。そのうえで「一義的には事業者が何が課題だったのか、住民に説明すべきだ」と述べた。  また永見市長は、景観に配慮してマンションの規模を縮小するよう求める指導書をこれまでに積水ハウスに交付するなど、「(市として)最大限のことをやってきた」と主張。「周辺住民がどれだけ不安かを踏まえて指導してきたのに、急に(建設が)中止となった。再び解体工事に直面する。その影響は必ずある」と指摘した》(朝日新聞・2024/06/12)(https://news.yahoo.co.jp/articles/a7f3a17bd2b297b352b60b51b187841a8918d403

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(ヘッダー写真文化遺産オンライン「富嶽三十六景《尾州不二見原》」:https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/174954

● 葛飾北斎 (かつしかほくさい) 生没年:1760-1849(宝暦10-嘉永2)= 江戸後期に活躍した浮世絵師。本姓は川村氏で,江戸本所割下水(わりげすい)に生まれる。幕府御用鏡師の中島伊勢の養子となり,幼名時太郎,のち鉄蔵と改める。〈北斎〉とは一時の画号で,生涯に30回ほどの改号をする。〈画狂人〉とも号して,画三昧の生活を送り,浮世絵師中で最も作域が広い。1778年(安永7),勝川春章の門に入り,翌年に春朗と号して役者絵を発表,以後,役者絵,角力絵,浮絵,黄表紙の挿絵を描く。94年ころ,勝川派を破門された後,狩野,住吉,琳派,洋風画派を学び,2世俵屋宗理を名のり,30歳代後半に至って自己の画風を確立,97年に北斎と初めて号した。このころ,《東遊》《東都名所一覧》等の絵入狂歌本に優れた挿絵を描いて注目され,《くだんうしがふち》等では洋風の遠近・陰影表現による風景版画シリーズも発表する。次いで北斎の声価を決定づけたのは,文化年間(1804-18)の初めころから流行する読本(よみほん)の挿絵の仕事である。中国伝奇小説の影響を濃く反映し,荒唐無稽な内容をもつ読本の世界を絵画化するため,北斎は和漢洋の三体を融合し想像力を駆使した画面を展開した。木版墨摺技術の可能性を極限まで追求した北斎の読本挿絵の成果は,小説家曲亭馬琴と組む時に最も大きく得られ,《新編水滸画伝》(1806)や《椿説弓張月》等の傑作が生まれた。この読本挿絵で培われた北斎の新生面は,錦絵風景版画の分野でより効果的に発揮され,代表作《富嶽三十六景》をはじめとして《諸国滝廻り》《千絵の海》《諸国名橋奇覧》等の揃物シリーズに結実した。一例を挙げると,ゴッホが〈鷲の爪〉と呼んだ《富嶽三十六景》中の〈神奈川沖浪裏〉のすさまじい波の表現は,読本挿絵の経験の中から生まれた。この〈リアルな絵空事(えそらごと)〉の世界が北斎後期作品の核心部をなすといえるが,これは後に歌川広重に批判される(絵本《富士見百図》序文)。版画以外でも,肉筆の美人画および花鳥画に傑作が多く,中でも《二美人図》《雪中美人図》《酔余美人図》が代表作。その他,絵手本の刊行が注目されるが,山水,花鳥,人物,器物,図案等あらゆる題材を対象とした《北斎漫画》13編(1814-49)は彼の総決算ともいえる成果で,フランス印象派のドガらにも大きな示唆を与えた。(改訂新版世界大百科事典)

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 蛇足 それこそ自由自在に富士(不二)山を操った北斎。彼にとって富士山は何だったでしょうか。おそらく、稀代の浮世絵師の脳細胞を占拠した「霊峰」、いや「霊感」であったかもしれない。そこまでになれば、現実に見えるか見えないか、まず問題にはならなかったとも言えます。件(くだん)の「尾州不二見原」は、見えるはずのない「富士(不二)」を描いたものです。そこでは富士は「樽(桶)職人」の力技の一つのエピソード(添景・点景)になっていたということでした。誰が名付けたのか、この尾州不二見原の一職人をモチィーフにした絵を「桶屋の富士」と呼ばれるようになったらしい。彼は九十まで生きた絵師だったが、「富獄三十六景」を始めたのは七十からでした。九十の声を聞くようになったとき「後十年、いや五年あれば、本物の画工になれるのに」と言ったという。こういう存在が人間の仲間にいたとは、ひたすら驚愕すべきことだったと思う。

 富士山は誰のものでもない、みんなのもの。それを実践したのが北斎でした。脳裏に焼き付いた富士があればこそ、彼は超人的な画法で富士山と対峙しようとしたのでしょう。いかなる手法をもってしても富士は富士、いささかのゆるぎもないからこそ、彼にとってその魅力はいよいよ増したのだった。

 山梨のコンビニの背後に見える富士山が観光客の撮影騒動で話題を呼びました。行政が富士山を見えないように黒い膜・幕を張って意地悪をした。そうされればされるほど、また騒ぎ出したくなるのが人間です。今回は外国人観光客が「富士の再発見」をなし、それが日本人にも伝染し、必要以上に騒動が広がったのでしょうか。これについてもぼくは語る言葉がない。いずれまた、どこかで「黒幕」が話題になるのでしょう。政治や金融の世界で年がら年中、「黒幕」騒動で持ちきりです。それにしても「落ち着きのない社会」「軽薄な社会」になったものですね。今日は江戸末期か、明治初期のように「日本再発見」が外国人観光客によって生み出されています。

 「日本はスバラシイ!」「神秘的デスネ」と言われてもさ、眉唾なんだと浮足立たないこと。今のような為体(ていたらく)では、やがて、だれも見向きもしなくなるさ。

文部省唱歌「ふじの山」https://www.youtube.com/watch?v=eHz07mYdeLU&ab_channel

 それにしても、いささか迂闊でした。この唱歌「富士の山」は巖谷小波の詩(詞)によるものだったと。小波に関してはそれなりに調べたり読んだりしていましたが、「富士は日本一の山」の唱歌の作詞者だったとは。ど忘れしていたとは思われませんが、ともかく迂闊だった、と恥じ入る始末です。

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●巌谷小波(いわやさざなみ)(1870―1933)= 小説家、童話作家、口演(こうえん)童話家。本名は季雄(すえお)。漣山人(さざなみさんじん)とも号し、別名に大江小波(おおえのさざなみ)がある。明治3年6月6日、高級官吏で書家としても知られた巖谷一六(いちろく)の子として東京に生まれる。家業の医師を継ぐべく育てられたが、10代より文学に興味をもち、故意に大学予備門の入試に落ちて杉浦重剛(しげたけ)の称好塾に入り、尾崎紅葉らと硯友社(けんゆうしゃ)を結んで小説書き始めた。『五月鯉(さつきごい)』『妹背貝(いもせがい)』などの小説を発表したが、1891年(明治24)に博文館『少年文学叢書(そうしょ)』の第一編として出版した子供向きのおとぎ話『こがね丸』が圧倒的な好評を得、これを契機に児童文学の開拓者として登場した。その作品の多くは自身の編集した雑誌『少年世界』に載せたもので、思想的には日本の軍国主義的な行き方を肯定し、文学的には江戸戯作(げさく)の残滓(ざんし)をぬぐいきっておらず、真に近代的な児童文学とみることはできない。世の要求に応じて『日本昔噺(むかしばなし)』(全24冊)、『世界お伽噺(とぎばなし)』(全100冊)など伝承文学の再話もしており、明治30年代の後半からは自作のおとぎ話の口演にも力を注ぎ、その門下から久留島武彦(くるしまたけひこ)、岸辺福雄などの口演童話家を出してもいる。その作品量は膨大で、『小波お伽全集』(全16巻)に収められているが、ほかに『桃太郎主義の教育』(1915)などエッセイ類も多い。自伝『我が五十年』(1920)がある。昭和8年9月5日没。 (日本大百科全書)

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一枚のものがたり(東京新聞)

 月決めの新聞購読を止(や)めてからどれくらい経つでしょうか。もう二十年以上、いやもっと長くなるかもしれません。止めた理由は単純で、新聞そのものを読まなくなったからだし、ネットでそれと同じものを好きなように読めるようになっていたからでした。今では事情も変わってきて、多くの新聞がネット版に移行する体制を整えてきた段階ですから、以前ほどは気軽に読むことができなくなった。まるで、自動車業界の「ガソリン車」から「電気自動車」への、表面上は足並み揃えての転換のようにもみえます。しかし、やはり自動車業界も一気に「EV」へとは行かないようで、国の内外で、「ガソリン車」は健在だと受け止められているのでしょうか。「ちょっと混て、車は急に止まれない!}という具合か。

 (ヘッダー写真は福岡県観光「クロスロードふくおか」・「直方谷尾美術館」:https://www.crossroadfukuoka.jp/spot/10034

 しかし、CO2排出問題などを考えれば、何時までも現状維持で通用するとは思えません。今のままでは環境が死んでしまう。危機的な事情は新聞業界も同様。放っておいても、環境破壊は怒らないのは救いですが。ネット上に読み応えのある記事を出す方法・方途があるようで、なかなかそれが日常的に流通完備しているかというと、そうでもないように思えてきます。どんなものでもそうでしょうが、新たな道具や機械が使われだすと、これまで役に立っていたものは一気に「時代遅れ」になる・される、そんなものも多方面ではあるようですが、新旧併存という事態が起こることも珍しくないわけで、新聞の問題は「宅配」問題も含めて、丁寧に考察する必要がありそうです。

 ぼくは毎日、それこそ多くの新聞記事をネットで読みます。その大半は「コラム」ですが、中にはそれぞれの新聞に独自の「連載もの」があって、それを見る(読む)ためなら、購読料を払ってもいいと思うような、優れた記事(連載)がありましたし、数は少なくなったが、今も残っています。それを楽しみに読んでいた連載記事が徐々になくなっていったことも積極的に宅配による新聞購読を続けなくなった理由でしょう。

 本日は、数少ない例外の一つ、東京新聞連載の「土曜プレミアム 一枚のものがたり」(毎月一回掲載)を紹介したくなりました。「一枚の写真」が物語る歴史に焦点を当てた、なかなか優れた読み物でもあります。「写真」は、いうまでもなく「著作権」を十分に尊重し、その権利を守る必要がありますので、むやみに切り取ることは出来ません。少なくとも「新聞掲載」の範囲を超えないで、紹介できればと考えた次第。

 当の写真家は鋤野正義(すきのまさよし)さん(1938年生)。福岡県直方出身の方。福岡はしばしば訪れた土地ですし、友人知己も数多くいましたが、残念ながら「直方(のおがた)」は一度も足を踏み入れたことがありません。その昔は炭鉱で栄えたところ。あるいは大相撲の大関を張った魁皇関の故郷でもあります。余計なことは書かないで、「一枚のものがたり」を紹介します。

 mother(1957年) 最初に撮った母「最高傑作」<一枚のものがたり>写真家・鋤田正義さん かつて石炭が「黒いダイヤ」と呼ばれたころ、筑豊炭田北部の福岡県直方(のおがた)市で化粧品兼小間物店を営む写真家鋤田(すきた)正義(84)の実家は大店(おおだな)で、よく繁盛した。その店に影が差すのは、終戦直後のことだった。/中国戦線に従軍していた父武友が八月十七日、敵に銃撃されて命を落とした。三十五歳。終戦の知らせが届かず、戦い続けた末の戦死だったという。/大黒柱を失った店を切り盛りしたのは、母ミツ=写真=だった。四人の子を育てながら懸命に働く。次男の鋤田もよく店番をした。商店街をゆく人々を観察し、知らず知らず眼力が育まれた。/美しい母を目当てに、店によく男性が立ち寄った。「結婚したら」。小学校高学年のころ、鋤田が何げなく口にした時のことだ。いきなりバシッと頬を張られた。「無言でした。一人で子供を育てるには、強さがないといけない。ふだんは優しい母でしたが、その強さが染みました」

 少年時代、ラジオ作りに熱中した鋤田は、手製のラジオでよく洋楽を聴いた。好奇心が強くて好きなことには集中するが、試験勉強はしない。案の定、大学受験に失敗し、長崎の予備校に通うことになった。この時、同じ下宿に写真好きの造船所に勤める男性がいたことが、運命を変えた。/男性が持っていた写真雑誌を次々に読破した。写真への興味が強まると、カメラが欲しくなる。母に話すと、苦しい家計を何とかやりくりして二眼レフのカメラ「リコーフレックス」を買ってくれた。一九五七年八月、初めて手にしたそのカメラで母を撮った。/初盆を迎えた家々を回って亡き人々を供養する、直方伝統の「日若踊(ひわかおどり)」。その装束を身につけ、笠(かさ)をかぶって縁側に腰掛けた母の上半身を真横から撮った。/発表もしないし、投稿もしない。ただ、大切な一枚として手元に残した。(以下略)(東京新聞・2022年5月14日 07時13分)

 今では使われなくなった言葉に「未亡人」、ことに「戦争未亡人」があります。詳細は省きますが、未だ亡くならない人(夫は亡くなっているのに)という意味合いで使われてきた言葉。今や、放送界隈では「差別語」扱いのようです。太平洋戦争時、この鋤田さんの母堂と同じような運命をたどった女性は、一体どれほどいたことでしょう。ぼくの連れ合いの母もそうでした。かみさんが生まれたのは、義母(ぼくにとって)は二十五歳(かみさんには三歳違いの姉がいました)、弟が生まれたのは二十八歳だったか。三十前から生涯、独り身を貫き、三人の子どもを育て上げた。一人で化粧品と雑貨物の小売業を起こし、ほぼ半世紀も続けたでしょうか。小学生(の鋤田さん)にも、その大変さが伝わっていたのでしょう。その鋤田さんが言った「結婚したら」の一言に対して、いきなり頬ビンタを喰らった。他人には端倪すべからざる辛さや苦しさがあったと思う。

 「人生のと尊さ」、「尊敬すべき人生」をぼくが痛切に感じるのは、このような「存在」に出会ったときでした。その点では「義母」には頭が下がる思いを持ち続けていたのは本当です。個々人の歴史のバトンの受け渡しは、かかる人たちによって黙々と紡がれてきたことを悲しくなるほどに感じ、かつ教えられます。後年の「写真家」は、要らぬこと(余計なことだったと思う)を口にした瞬間に頬を殴られた。「無言でした。一人で子供を育てるには、強さがないといけない。ふだんは優しい母でしたが、その強さが染みました」、ここに何人(なにびと)も容易に入り込めない親子の「絆」を見せつけられるのです。「絆」はまるで運命(宿命)であって、他者が安易に介在できないつながり(縁)を言うのでしょう。小学生にして、鋤田さんは母の「気丈夫」を肌に刻み込まれるように、体得させられたのではなかったでしょうか。

 ぼくはかなり早くから鋤田さんの写真に出会っていました。言うまでもなく、ぼくたちが眼にするデビッド・ボウイ(1947-2016)の写真のことごとくが彼の手になるものだったからです。ぼくはロックには関心が深まらなかったが、彼・彼女(ロックㇱンガー)らの言動には何かと教えられもし、その社会的立場についてときには感心することもあった。マルチに活躍したボウイの、膨大な枚数の写真が鋤田さんによって残された。写真は凄いものを語りますね。

 鋤田の仕事の中でも、よく知られているのがアルバム「ヒーローズ」のジャケットなどデビッド・ボウイの写真だ。七二年にロンドンで撮影してから二〇一六年の死まで、四十年以上撮りつづけた。「全部撮ろう、芯まで撮ろうという気持ちでした」(同上)

 「T.REXのマーク・ボランやデヴィッド・ボウイ、イギー・ポップ、YMO、忌野清志郎……。そうそうたるアーティストのポートレイトを撮影してきたロック写真の先駆者が、鋤田正義だ。彼が撮影したマーク・ボランのモノクロ写真を見て、布袋寅泰はギタリストを志したという逸話もある。(中略)/このたび完成した鋤田のドキュメンタリー映画『SUKITA 刻まれたアーティストたちの一瞬』は、約1年半にわたる鋤田への密着取材と関係者へのインタビューによって構成されている。YMOの細野晴臣や坂本龍一、高橋幸宏、布袋寅泰やMIYAVIなどのミュージシャン、俳優の永瀬正敏といった、鋤田の被写体になってきたアーティストに加え、映画監督のジム・ジャームッシュや是枝裕和などのクリエイターも登場。それぞれが鋤田への思いや特別なエピソードを語る。また、YMOのアルバムジャケットをはじめ、多くの人の記憶に残る鋤田写真の意外な誕生秘話を知ることができるのも、本作の見どころだ」(https://www.tjapan.jp/entertainment/17197529

 「一枚のものがたり」というタイトルがいい。興味を覚えます。同新聞には、同じような連載「一首のものがたり」があります。いずれどこかで、紹介したいと考えています。鋤田正義さんの写真の魅力について、ぼくには十分に語る力がないことを恥ずかしながら自白しておきます。しかし、この母の「日若踊(ひわかおどり)」の傘と装束姿、しかも右側半身を切り取った一枚は、無言の愛(親への「孝心・恒心」と言ってもいい)が、静かに、しかも凄烈の気迫を持って写し取られているように、ぼくには思われます。後年、カメラマンになり、デヴィッド・ボウイの写真を撮ろうとしたときに「全部撮ろう、芯まで撮ろうという気持ちでした」(同上)という、その気迫がすでに、この「一枚」に如実に籠められているのではなかったでしょうか。

 (「親と子の深いつながり」、「撮られる人と撮る人」が、当たり前に、お二人の生涯にわたって「揺るぎない絆」を持ち続けたという証拠を見せてもらったようで、まるで我がことのように嬉しくなったのです)(「最後まで独り身を貫いた母は二〇〇一年、八十五歳で逝った。残された通帳には、鋤田からの仕送りがそっくりそのまま残されていた」という、この律儀さというのか、「文質彬彬(ぶんしつひんぴん)」という今では使われなくなった表現を出してみたくなる、そんな姿勢を一貫されたような母堂の生き様だったと思う。「これが上質の人生なのだ」、そう言いたくなる「生き方の流儀」だったのではなかったか)

  写真家としての原点となった母の写真が公にされたのは撮影から三十四年後、一九九一年のことだった。雑誌「広告批評」から「私の<愛の一枚>」というテーマで依頼を受け、長く眠っていた母の写真を出すことにした。
 「恥ずかしかったんですが、愛を感じさせる一枚だなと。母の思い出が全部入っている写真ですから」
 二〇一四年に富士フイルムが企画した「日本の写真史を飾った写真家の『私の一枚』」にも、ボウイではなく母の写真を選んだ。
 「悩みましたが、写真って個人的なものだと思うんです。いま考えても、これが私の最高傑作です」
 最後まで独り身を貫いた母は二〇〇一年、八十五歳で逝った。残された通帳には、鋤田からの仕送りがそっくりそのまま残されていた。(東京新聞・同上)

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夜の目には見えぬ紫陽花螢来る

 腐草為蛍 ー ただいまは「七十二候」では「芒種(6/6~6/20)(⏪️)」、その「次(二)候」(6/11~15頃)に当たるのが「腐草為蛍」。草が腐敗しその中からホタルが飛び出すというのでしょうか。この何十年、ぼくはついぞ蛍を見かけなくなりました。それだけ、田んぼの殺虫剤散布効果は絶大であるという証拠なのかもしれない。今ではデパートやホテルでの「蛍セール」が季語になりそうです。この季節、いわば梅雨入り時でもあります。天候不順が農業等に大きな支障となって来るのは避けられません。普段食卓に載せる野菜類が異常な高値になるのは、時宜を得た雨量に恵まれなかったからでしょう。昨日のニュースで、ほうれん草が「一束・400円」と出ていました。

 梅雨は鬱陶しいものと忌避されがちですが、それがなければ、飲料水や農業用水に混乱が生じるのは、この「科学万能時代」にあっても避けられない。小さい頃から、ぼくは「明日の天気」が気になっていました。明日は晴れるか、雨なのかなどと、どういうわけだか天気予報士のような心づもりになっていたのを覚えています。その理由は、ずいぶん後になって分かったのですが、ぼくはほとんど屋外で行動していた。まるで人型動物だった。家にいることはまずなかったのです。これは能登半島時代も京都時代も同じだった。親は家で仕事(刺繍業)をしていたから、あまり寛(くつろ)げなかったせいもあり、また、当時の家には個室などというものはなかったのですから、学校から帰るときっと外に飛び出していた。だから、雨か晴れか、それを事前に知ることは、ぼくには大事な自然現象観察だったのです。

 「いばらき春秋」に「日本昔ばなし」の一話が出ていました。この手の「アマンジャク話」は登場人物(動物)を変え、趣向を変えて、至るところに語り残されています。もちろん国内に限りません。要は「親孝行」「勧善懲悪」「善行至福」「善因善果」など、親や社会・集団にとって、なんとも都合のいいことを奨励する「道徳談」の教材であり、「信心もの」の勧奨だったのでしょう。以下に、その一例のみを出しておきます。各地に同じような起承転結(顚末)をもつ「天邪鬼」にまつわる昔話(伝承)が残されている。

 蛙の鳴き声を「流されるな、げろげろげろ」と聞くようになった人々の心持ちはどういうものだったのでしょうか。今からでは推し量ることがとても困難になりましたが、「親孝行」にかかわって、「親孝行したいときには親はなし」という訓戒として、多くの「へそ曲がり」な子どもたちに伝えたかったのでしょうか。そして、それは伝わってきたのでしょうか。

 (「まんが日本昔話」「坊やよい子だねんねしな / 今も昔もかわりなく / 母の恵みの子守唄 / 遠い昔の物語り」(川内康範・詞、北原じゅん・曲、19075年発表))(https://www.youtube.com/watch?v=alfBqzy6eFc&ab_channel=yoshinobu

 悲しいことに、この小さな島国では「坊や」も「嬢や」もすっかり数が減ってしまいました。ホタルがいなくなり、蛙も見かけなくなり、赤とんぼもどこに消えたのか。生きづらい、住みづらいこの地域に生まれたくないと、まだ生まれてこない「子どもたち」がすっかり覚悟を決めてしまっているのではないでしょうか。嘘八百をつきまくり、自分の利権だけしか守ろうとしない「欲得政治家」が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)(「悪者などが勢力をふるい、好き勝手にふるまうこと」デジタル版大辞泉)する社会なんかに生まれてくるものか、という断固とした決心があるようにぼくには思われます。もちろん、東京などの都市圏一極集中も、未来の子どもたちや多くの小さな生き物が忌み嫌っているのも事実でしょう。卒業もしないのに「卒業証書」を金で贖(あがな)ような人間が、大きな顔をして「知事に君臨」、「生ゴミ埋め立て地に賭博場を」と、手を変え品を変え公金を流用する府市の幹部ども、そんな輩を懸命に支える「選挙民」が屯(たむろ)し、蝟集(いしゅう)している、そんな腐った都会(埋立地)に「新しい人たち」「昆虫たち」「動物たち」が来たいと思うでしょうか。

「むかしあるところにかえるの親子がいました。子どものかえるは親の言うことをちっとも聞かず、山へいけといえば、川に行き、川にいけといえば、山に行く有様です。/ある時親がえるは重い病気を患いいよいよ死ぬというときにこう思いました。死んだら山に埋めてほしいけれどあの子のことだから山に埋めてくれといえば川原に、川原に埋めてくれといえば山に埋めるだろう。そこで親がえるは子がえるに死んだら川原に埋めてくれと言い残して死んでいきました。/さて親がえるが死ぬと子がえるは親の言うこともろくに聞いてこなかった自分を悔やみます。そこで今度ばかりは親の言うことを聞くことにしました。そう親の気持ちとは裏腹の結果になってしまいます。親がえるの亡骸は言葉のままに川原に埋められてしまいます。/それからというもの、雨が降るとかえるは、親がえるのお墓が流されないかと心配して一生懸命「流されるな、げろげろげろ」と鳴くようになりました、と物語は結ばれます。(日本の昔話 2 より 『かえるの聞きじまい』 かえるが雨のときに鳴く習性の由来譚)(https://palimpsest.jugem.jp/?eid=247)

 そのコラム「いばらき春秋」に、もう一人倉嶋厚さんが紹介されている。懐かしい人というべきか。今のような「天気予報」「気象予報」の魁(さきがけ)、先駆者であった方だとも言えるでしょう。初登場はもう四十年以上も前のことです。ぼくが知るようになったのはNHKの報道番組の「天気予報」担当者としてでした。質実温厚を額縁に入れたような人となりで、大先輩ながらとても好感が持てた。長野出身と知り、さもありなんと、勝手なことを判断していました。季節や気象(気候)に関するたくさんの倉嶋さんの本からもいろいろなことを学び、小さい頃の「予報好き」に輪がかかった気がしました。

 その倉嶋さんに関して驚嘆したことがあります。連れ合いさんが「がん」で亡くなられたのが97年6月。他人が勝手な憶測を交えることは禁物で、ぼくが綴りたいのは、たった一言。あの倉嶋さんが妻の死に遭遇して、自殺を試み、精神病院に入院し、回復するのにも何年もかかったという、その一事。重度の「うつ病」だったという。ぼくは驚きのあまり、言葉を失った。妻の死の直後に自らも死を求めた人を、ぼくは何人か知っています。それについて感想などあるはずもない。ぼくには想像もできないことだと、長嘆息する他ないのです。かみさんにもしものことがあれば…。ぼくは抜け殻になるのか、生ける屍と化すか、それとも「蛍」にでもなれるのか。さてどうなるか。誰も信じようとはしないだろうが、ぼくは「密かに恐れている」と、小声で言っておきます。

 なお、この倉嶋さんの「生き様」はテレビドラマ化され、2010年3月に放映されました。(監督の和泉聖治君は幼馴染。初期の代表作は「オン・ザ・ロード」など。京都時代、二軒隣の友だちだった)(残念ながら、このドラマをぼくは観ていません)

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【いばらき春秋】右と言えば左。暑いと言えば寒い。寝ろと言えばずっと起きている。親の言うことの反対ばかりする息子。同様の昔話が各地に残る▼老いた親は迷った末、「死んだら川岸に埋めてほしい」と言い残す。山で静かに眠りたいため▼だが、息子は遺言通りにする。なので増水しないか常に心配。雨が降るたび川に走っていっては親の墓を抱いて守る。人の情と言動は複雑に絡み合い、簡単には片付かない。へそ曲がりの戒めとしてカエルになったと伝わる地域もある。雨に鳴くのは不孝を悔いているのだという▼梅雨入りが平年より遅れている。もし関東甲信で6月後半(16日以降)になると2007年以来のこと。そんな話も出る中、きのうは県内各地で真夏日を観測するなど暑い日が続く▼ポーランドにこんななぞなぞがあるそうだ。「人は私がいないと求め、いると逃げる」。答えは雨。人がその時々で反対の情を抱くのは古今東西、共通するらしい。気象キャスターの倉嶋厚さんがエッセーに残した▼日本のことわざ「雨の降る日は天気が悪い」は当たり前の例えだが、その悪い天気がないと農作物は育たず人はたちまち困る。雨を求めるのか、親不孝をわびるのか、田んぼからは大合唱が聞こえる。(拓)(茨城新聞・2024/06/13)

 気象キャスターの倉嶋厚さん死去 93歳、気象解説者の草分け 「熱帯夜」の言葉つくる 気象解説者の草分けで、気象に関する知識をわかりやすい語り口でお茶の間に伝えた気象キャスターの倉嶋厚(くらしま・あつし)さんが3日、腎盂がんのため死去した。93歳。葬儀・告別式は近親者で行う。喪主はおい、小堀文明(こぼり・ふみあき)さん。/大正13年、長野市生まれ。昭和24年に中央気象台付属気象技術官養成所(現気象大学校)を卒業後、気象庁で主任予報官や鹿児島気象台長などを歴任。退官後はNHKの解説委員となり、ニュース番組の気象キャスターとして活躍した。「熱帯夜」という言葉をつくったことでも知られる。/エッセイストとしても活躍し、「季節の366日 話題事典」「暮らしの気象学」など多くの著作を残した。平成14年には、妻を亡くした後、鬱病になり、克服した体験記「やまない雨はない」を出版した。(産経新聞・2017/08/04)

● 倉嶋厚 = 日本の気象学者、エッセイスト。1924年1月25日、長野県生まれ。中央気象台付属気象技術官養成所(現・気象大学校)を卒業後、気象庁に入り、主任予報官や鹿児島地方気象台長などを歴任する。定年退職後の84年からNHKの解説委員となり、ニュース番組の気象キャスターを務めて人気を集める。エッセイストとしても活躍し、日本の気候風土をテーマにした作品を多数執筆した。2002年には、うつ病を克服した自身の体験を記した著書『やまない雨はない 妻の死、うつ病、それから…』(文藝春秋)を出版し、自殺防止を呼びかける講演活動にも力を注いだ。15年に腎盂(じんう)がんが見つかり、17年8月3日に死去した。享年93。(知恵蔵mini)

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 表題句は金子兜太(かねことうた)さん(1919~2018)。特にぼくの好きな兜太さんの一句。

・縄とびの純潔の額を組織すべし(1975年)(*「額」は糠と読むか。つまりは「おでこ」、純血の女性をこそ尊重しなければ、と。兜太さんの見逃せない一面が)

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此の下に稲妻起る宵あらん(漱石)

【三山春秋】▼作家の大佛(おさらぎ)次郎は大の猫好きだったらしい。常に10匹以上と暮らし、生涯で関わったのは500匹に上るとか。「生活になくてはならない優しい伴侶」「来世は猫に生まれてくる」と語っている▼一方、無類の愛犬家として知られるのは川端康成である。最初に飼った犬が死んだ時は今でいう「ペットロス」に陥り、別の犬が盗まれた時はひと月ばかりぼんやりして仕事が手に付かなかった、とエッセーにある▼猫派にしろ犬派にしろ、それほどまでに溺愛していたと知ると、名だたる文豪にも親近感が湧く。ペットの概念を超え、「家族」として接する人はさらに増えているだろう。ホテルの高級ディナーに専用アイス、服の仕立てと広がる商機を見て実感する▼子や孫同然に愛される犬猫であるが受難もある。高齢の飼い主が施設に移ったために自宅に取り残されてしまうケースがあったり、モラルやマナーの欠けた人によって劣悪な環境に置かれた事案は県内でも少なくない▼一時の気まぐれや戯れで買ったりもらったりしない、数を少なく質を良く-。川端が書いた「愛犬家心得」は、ペットの種類を問わず今も十分参考になる▼毎月12日は民間企業が提唱する「わんにゃんの日」。愛護の意識を高めてもらう狙いがあるという。動物たちがより良い環境で過ごせるよう考えるきっかけにしてはどうだろう。くれぐれも心得違いのないように。(下野新聞・2024/06/12)(ヘッダー写真は豪徳寺・https://gotokuji.jp/manekineko/

 時々、嬉しいことに卒業生や友人・知人が来宅される。その際は、必ず、初めての方には拙宅に「たくさんの猫がいる、アレルギーなどは大丈夫ですか」と尋ねることにしている。以前なら、宿泊OK、大歓迎だったが、今ではいくつもない部屋を猫たちが占領しているので「どうぞ、ゆっくりとお休みください」といえないのが残念。先日も京都からわざわざ夫婦で来てくれた高校の同窓生がいたが、帰路(新幹線の時間)の関係で、ほんの小一時間ばかりの滞在で帰ってゆかれた。「猫がいなければ」と思っても仕方がない。現実にいるのだから。かみさんと二人住まいだけれど、両方で留守にすることはめったにない。必ずどちらかが家にいる、そんな生活を、もう五年以上も続けている。一番年上の子は五歳か、その後には年子で、なかには一回で八子もいたのだから、もっと早くに、母親を医者に連れて行くべきだったと。今からでは間に合わぬが。

 幸いなことに隣り近所が離れているので、なんとかたくさんの猫たちと暮らしていけているが、都会ではとんでもないと「クレーム」がつくレベルです。自宅前の家の敷地内に多くの猫たちが堂々と侵入し寝転んだり、駐車中の車上に乗ったりと、気が気でないことばかりをしてくれるが、そのつど「謝罪」「お詫び」を言うしかありません。今のところは大きな問題にはならないので助かっているが、さてどうなるか。本日のコラム氏は二人の作家の犬・猫好きぶりを紹介されていた。大仏さんの猫好きはよく知っていたが、常時十匹以上もいたとは知らなかった。文豪は本当に猫の好きな人で、いかにも顔つきまでが猫になっていると感じたことがある。

 大仏さんほどではないが、我が家でも、これまでにおそらく百以上の猫たちと暮らしてきました。ときには犬や小鳥混じりで。そのすべてが野良猫(保護猫)だったし、避妊の手術・怪我・病気に医者通いは欠かせなかったが、なんとかここまで来ました。なぜそんなことをするのと訊かれても答えることは出来ません。飢えて、凍えて、病に苦しんでいる、そんなのが近くにいれば「放置しておけないから」、そう言うしかありません。ぼくは大仏さんの作品はそれなりに読んでいるつもりですが、仮に彼が物書きでなかったとしても、猫たちとこれだけ長く深く付き合っていたというだけで、尊敬に値すると思います。何をする人か、それも大事だけれど、路頭に迷う猫や犬の世話をするという行為自体が、すでに何者かではあると思うのです。

 川端康成さんの犬好きも文壇では知らない人がいなかったほど。相当に「病膏肓に入る」の口だったようです。残念ながら、大仏さんほどにぼくは川端さんの作品も読んでいないので、彼の犬好きのあり様を書けないのが残念です。ただ、どこかで犬に関する含蓄を述べられていた文章を眼にし、なかでも「犬を飼ふというよりも、犬を育てるといふ心持をどこまでも失はないのは、愛犬家心得の一つである」とあったのは、我が意を得たり、もちろん猫を育てる人間にも欠かせない態度だろうと思いました。

 飼う(買う)という表現は、ぼくには出来ない。その言い回しには「ペット」「愛玩」の気味が濃厚に感じられるからです。「たくさんの猫がいます」というと、きっと「ネコが好きなんですね」と言われる。もちろん嫌いではないのは当然ですが、好きであるから、たくさんの猫の面倒を見るのではないと言いたいけれど、それは言っても始まらないので、黙っています。毎日の世話、病気などの医者通い、その他、あれこれ気になるのは人間の(子ども)といっしょです。要するに、付き合うことが何よりだと思うけれど、時には薬を飲ませたり無理に医者に連れて行ったりと、猫が嫌がることをせざるを得ない。一、二匹ならなんのそれしきと考えられますが、二十匹程もいると、その都度、泣き叫びながら連れられていく猫の様子を、他の猫が、遠くから近くから観察している。だから、ぼくは、要注意人物になり、徐々に嫌われるようになるのです。また、月に一回当ての「防ダニ・ノミ」の薬を体に点ける役目も段々と大仕事になってきます。

 というわけで、貧乏人の子沢山ではないけれど、実態は同じような「火の車」状態が続いているので、それを見るにつけ、お二人(以外の作家さんたちも含めて)の大作家たち、中小作家たちの犬や猫との「同居生活」はどうだったかと、垣間見たくもあり、流し目で見たくもなるんですね、つかの間の息抜きに、です。

 (表題の句は漱石の作、明治四十一年。「吾輩は猫である」のモデルの墓標に「鎮魂の句」として記されたものだそうだ)

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